物事には常に陰陽があり科学の反対はいわば感覚。
目に見えるものに相対するものが精神的なものであるのと同じことだ。
そちら(精神的なもの)は最近においては軽視されがちだが,
それに対して言えることを書くならば
科学はあくまでも"裏付け"である。
故にそれ単体において「開拓者」となり得る事はないと私は考えている。
あらゆる歴史上の出来事を見れば分かると思うが、常に革新は人のアイディアから生まれている。
科学とはそれを本人や周りが解釈した際に生まれたものだ。
今日では「科学的に証明された〇〇の方法!」なんてものが沢山あって支持も受けているように感じる。
勿論それ自体は悪いことではなく、その「裏付け」を「情報」として仕入れる事が出来れば他よりも効率よく成長ができるであろうと思う。一定のラインまでは。
たださっきも言ったとおり科学というのはあくまでも"実際に事が起こってからある程度の時間が経って検証される"という手順を踏んで行われるものである。
コロンブスの卵ではないが、
それはあくまでも「再現」の領域であり
その情報を知ることで1を9にはできても10にするには足りないのである。
いつだって新たな革新をもたらすのは突飛なアイディアとそれを信じ抜く力であり、それが先駆者に共通したものだと私は思う。
また往々にして論理的な人というのは最も重要な事を見落としがちである。
私が懸念する部分はそこにある。
そういった「科学的に証明された」事を扱う人が最前線に立ち、それを大衆が最も素晴らしい事のように扱う。
一見するとおかしい事ではないように感じるかもしれない。
ただこれを推し進める事によって人々は"新しいことに対しても根拠があるかどうかを求めるようになる"のではないだろうか。
新しいことに根拠などない。
夢やヴィジョンがあり、それを信じ抜いた人こそ新しいことを生み出してきたという事実を人は忘れがちだと思うのだ。
ゆえに本来はそういった感覚やヴィジョンこそが最前線に立っていく方が良いのだと私は思っている。
科学や裏付けというのはそれをサポートする役割であったほうがよいのではないだろうか。
科学とは形あるものであるが故に信頼しやすいという一面は確かにあるが、最も大事なことは目に見える事ではない。
最初に書いたとおり物事には陰陽があり、形あるものがあればないものもある。
形ある合理性や論理性というのは「優秀なツール」であって、その根本にある「精神性や愛、感覚」といったものを見過ごせば人々は長い目で見れば方向性を間違えていく可能性も高い。
形無きものあっての形あるものであり、
アイディアあっての裏付けなのである。
という事を私はここに明言しておく。
これからの時代に中心に据え置かれるべきは科学や目に見えるものではない。
それを忘れずにいくことができれば、
科学や目に見えるものも最大限の役割を果たしていくことができるだろう。
ではまた。
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