
大阪城 公園内 ・・・

大阪国際平和センター

愛称は ”ピースおおさか”

ここは、大阪空襲を語り継ぐ
平和ミュージアム。

私の母は、大正14年に生まれ
昭和64年に亡くなりました。

母が14歳の時に始まった戦争は、
彼女が20歳の時に終結しました。

私が子どもの頃、
母がよく聞かせてくれた
疎開先の出来事 は、
以前このブログで紹介しました。

大阪の下町生まれの母は、
大阪空襲の話もよくしてくれました。

空襲警報 ・・・

灯火管制 ・・・

1トン爆弾 ・・・

そして、焼夷弾。

母が何故、繰り返し繰り返し
そんな話を私に聞かせたのか ・・・

その真意はわかりません。

ただ私の記憶の中に
深く刻み込まれたのは、

母が時折ため息交じりにつぶやいた
『みじめ』 ・・・ という言葉。

後年、
『みじめ』は私の戒めとなりました。

みじめな生き方はしない。
つまり、どんな時も矜持を持つこと。

人をみじめにすることはしない。
つまり、どんな時も寄り添うこと。

とても単純な戒めです。

明日は終戦の日。

79年前、多くの人が
みじめさから解放された日。
Choir Arrangement
Last Night I Had the Strangest Dream
いつの頃からか、
反戦歌というジャンルが
なくなりました。
この曲は、1950年につくられた
典型的な反戦歌。
それを現代の若者たちが
歌っています。
JFK-World
お母様、大正14年のお生まれでいらしたのですね。
生きていらしたら、私の母と同い年。
二十歳の時に終戦を迎えたと話していました。
母は田舎に住んでいましたので、疎開することはありませんでした。
岡山空襲の日、焼き出されて、土手を歩いて逃げて来た人達がたくさんいたと話していました。
戦争については多くを語りませんが、日本が負けると思っていなかったので、大きなショックを受けたようです。
それと違って大正8年生まれの父は日本は必ず負けると思っていたようです。
戦争とは関係ありませんが、長野は我が家にとっても特別な場所で、その為に家族揃って行った思い出の地でもあります。
戦争は、不本意ながら進んで行く道の果てにあるものですね。
時々立ち止まり、周りを見たり、振り返る勇気と知恵を持ちたいものです。
お母さまの100歳 ・・・ お祈りしています。
ありがとうございます。
私の母も大正14年生まれでした。昭和62年に亡くなったのでお母様よりも少し早くに逝ってしまいましたが、よく似た感じなんだなぁと思わずコメントさせていただきました。
父はもっと早くに亡くなったのですが、今のこの悲惨な世の中を両親に見せずに済んだことは幸いだったと思うようにしています。
母は偉大 ・・・ 若い頃の100倍くらいそう思います。
そんな母が悲しむ戦争は、やるせないですね。
東京の空襲も悲惨だったようです。
私、空襲の時は2歳の赤ちゃん。
藤沢に疎開していたようです。 何も覚えていません。 伯母が言うには、東京の空が真っ赤に見えたそうです。
伯母は一人息子を亡くしました。
戦争はもう、してはいけませんね!
現在、世界には30近い戦争があるそうです。
残念ですね。