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自分のために生きていい。

2024-12-10 21:06:51 | 日記

目の前のものに集中できないことがある。

それはなぜなのか?

 

おそらく他人の期待に沿った人生を生きようとするから、次から次へとあれもこれもやらなきゃという焦りが生まれるからです。

 

じつはそれって私自身何回も答えはでているはずなのに忘れています。

でもなぜ繰り返すのか?

今日はそこについて考えていきましょう。

 

もうあまり言いたくはありませんが、

他人の期待を満たそうとした先は地獄です。

 

なぜかというと、私なりに大きく3つ理由を考えました。

 

①人生と言う観点で違和感が生じ全力を出せないから。

②他人の期待には終わりがないから。

③そもそも人間は他人の期待を満たすようにできていないから。

 

それぞれ深掘って考えていきます。

 

まず

①人生と言う観点で違和感が生じ全力を出せないから。

なのですが、

 

まず人生とは誰のためにあると思いますか?

答えはそう「自分」です。

いやいや、誰かの役に立ててこその人生だろ!

この気持ちも分かります。

 

じゃあ人生は「誰か」のためにあるのでしょうか?

これには皆さんも違和感を覚えるのではないでしょうか?

 

なぜなら人生は自分の主観でしか感じ取れないからだと思います。

スポーツ後の達成感、朝食のいい匂い、ふかふかのベッド、自分なりの理論を構築する面白さ…etc

これらって自分でしか感じ取れませんよね?

もしかしたら他人に想像させて共感してもらうことは可能なのですが、実体験を肌で感じられるのは自分だけですよね?

そう、その感覚を共有して人の役に立つのにも、それを最終的に確実に感じられるのは「自分」ただ一人なのです。

 

それは主観から逃れられない限り、絶対です。

まさか他人になってその感覚を感じられる人がいれば別かもしれませんが、そんなのエイリアンでも無理でしょう。

 

だから私が満たせるのは、他人ではなく私以外はこの世に存在しないのです。

私は人間である限り、この世で「自分」というただ一人しか満たせませんし、そういう原理になっているとしか考えられないですね。

 

ガソリンが満ちているかどうかなんて自分のことしか知ることはできません。

なので満ちているかどうか原理的に知りえない、誰かのガソリンを気に掛けるより、

自分のガソリンを一杯にして、余力があってはじめて周りを引っ張ていくほうがどう考えても効率的だと私は思います。

 

次に

②他人の期待には終わりがないから。

ですが、

 

これは言葉通りです。

誰かに期待している人の期待を満たせば、その期待は消えてなくなるでしょうか?

そんなことはないですよね?

むしろ期待を満たすほど期待は大きく膨らみ、大きくなった期待が満たせないときが来た時には大きな不満に変わるでしょう。

 

つまり期待を育てるということは、その人の不満を育てていることになるのかもしれません。

 

むしろそういう人に対しては、自分の期待通りにならないのが当たり前だということを示すべきだと思います。

なので毅然とした態度で「私はこういう風に考えるんですけどどうでしょう?」という別解を示すのが、

長期的な相手のためになるし、自分のための軸をつくることにつながるのだと思います。

 

そして

③そもそも人間は他人の期待を満たすようにできていないから。

ですが、

 

いやいやいやいや!他人の期待に応えようとして苦しむのが人間でしょ!

そうできてるでしょ!

って私も文章で整理して考えないと思ってしまいます。

 

じゃあなぜ、そう言えるのかと言うと、あくまで他人の期待を満たすのは生きるための「手段」だからです。

 

そう目的はあくまでも自分が「生きる」ため。

もっと言えば「仲間を増やし、生きやすい環境を構築するため」だと思っています。

 

じゃあ誰かの期待を満たしまくれば仲間が増えまくってハッピーなのでしょうか?

そんなことはないですよね?

 

なぜなら人間全員が全員「仲間」になるとは限らないからです。

 

じゃあそもそも「仲間」ってなんでしょうか?

冗談言いながら盛り上がれるメンツ?

年齢が近い、学生時代遊んでいた友達?

自分の気持ちに共感してくれる方?

それもそのときは「仲間」なのかもしれませんが、もっと仲間として大切なことがあると思います。

 

それは同じ方向を向いて、歩んでいる人だと思います。

もっと言えば自分が達成しようとしている「目的」に対して、同じ方向を向いている人だと思います。

 

例えば

同じスポーツをしていて、「大会に出て勝ちたい!」と思っている人。

ゲームなどで、「新しい世界を探って好奇心を満たした!」と思っている人。

料理などで、「自分の店を構えて商売をしたい!」と考えている人。

 

このように同じ志しを持っている人間と言い換えてもいいかもしれないです。

そういった同じ方向を向いている人から人は影響を受け合って自分の力を伸ばせるのだと思います。

 

むしろ、そういった目的が途中でばらばらになってしまっている関係はむしろ潔く距離を置いた方がお互いのためなのだと思います。

「仲間」は日々変化していくものだと思います。

昔「仲間」だった人も今の自分に必要な「仲間」とも限りません。

なので、自分のためにも深く関わっていく人は自分の力で取捨選択すべきだと私は思っています。

 

人生は有限であり、自分のためにあるべきだと今私も改めて文章にして再認識しました。

なので、自分のために生きること、それが世界で唯一満たすことのできる「私」を満足させる生き方なのだと思います。

なので人のことは全然言えないですが、皆さんも自分のために生きましょう。

こんな人間の文章をここまで読んでいただけた皆さんも「自分のために生きる」という目的を持った「仲間」なのだと私は思っております。

お時間いただきありがとうございました!


不自由は嘘。

2024-12-09 22:55:12 | 日記

「あー、自分の思っている通り自由に行動出来たら!」

 

自由に行動すればいいじゃない。

 

いや、自分の思った通りに行動なんてしたら、組織が成り立たないじゃない。

 

その通りです。

 

でも自分の思った行動って禁止されてることなの?

勝手に自分でできないと決めつけて本当はやることへのリスクを避けたい自分への言い訳なんじゃないの?

 

本当は意外と規制されてるものって少なくて、ある程度自分で規制を決めてしまってるだけじゃないの?

 

例えば、上司にもっとこんなことをはっきり言えたらなあ。ってことを勝手に自分で規制していることにしているだけじゃないの?

 

言えばいいじゃないですか。

 

言おうとしたら、言い訳しているって言われるもん。

 

じゃあ伝え方を工夫すればいいじゃないですか。

 

ええ、だってそこまでやるの面倒くさいし。

 

うん、面倒くさがるのも自由。

でもそこで止まってたら状況変化しないのは当然だよね?

一生そこに不満をため込む人生を歩んでもいいんじゃない?

それが自然なことだもんね。

 

はあ?ふざけんな。

自然に身を任せたら、何もかも逆戻りじゃんか。

せっかく上流まで登ってきたのに、泳ぐのやめたら元通りじゃんよ。

 

うん、今の上流に余力を残しつつ今までのやりかたで泳いでとどまるのも自由。

力を使わないで下流に流されるのも自由。

そこからさらに思い切って型を増やして上流を目指して泳ぐのも自由。

 

そう、自由なんてリスク度返しでなんぼよ。

いいじゃんリスク。

リスクを取れる選択が迫っているということは、上流を目指している証じゃんよ。

やってみて進んだら以外と川の流れが穏やかなんだってことに気づけるかもしれませんね。

 

やってみたいことふさぎこんでもやもやするより、まず思った泳ぎ方試してやりますよ。


自分には能力なんてない。

2024-12-05 21:05:11 | 日記

最近上司に注意されることが増えた。

 

後輩に対して上司が

「藤原君とやるとミスが多いから、なるべく他の人とやるように。」

って言ったらしいです。

 

結構へこみます。

 

そして今日上司に話を聞こうとしたら、無視されてしまいました。

 

超へこみます。

 

そして、電話口で説明したつもりのことがお客様に伝わってなくて、

上司に電話を替わっていただいて、注意を受ける。

 

泣きました。マジで。涙出てきました。

 

正直

「なんで、そこまで自分ばかり…」

という気持ちがあふれ出そうになりました。

 

けど、その思いはあふれださせたらダメだ。

むしろ食ってやる。

 

床にこぼしてなかったことにしてはいけない。

血肉に変えるんだ。

 

そもそも言われたことすらすべてを出し切ってやっているかと言われるとおそらく違う。

どこかで加減している。

 

加減してる余裕があるのか?

 

加減するから自分に自信が持てないんじゃないのか?

 

本気の自分が辛辣な評価にさらされるのが怖いから加減するだろ?

 

そして、

「ああ、あのとき加減して、自分の力出し切れてないなあ。」

と思うから、人に答えるときどこか自信なさげになってしまうのではないですか?

 

凹んでる場合じゃない。

凹むってことは加減している証拠じゃないのか?

 

むしろ出っ張れよ。

自分のやりたいこと全部さらけ出せよ。

凹むのはそれからで遅くないんじゃないのか?

 

なに人の言葉にビビってんだよ。

そんな自分大層な人間じゃないだろ。

むしろ人より能力ないだろ。

 

だからあぐらかかずに進みつづける力があるんだろ。

愚痴なんてらしくない。私らしくない。藤原らしくない。

 

よし、行きますか。


これからどうするかしかない。

2024-12-05 00:27:51 | 日記

今日は上司に怒られました。

 

後輩と一緒に怒られました。

 

正直こちらの言い分も聞いて欲しかったけど、

それを言おうとした後輩は言い訳してるとより怒られました。

 

滅茶苦茶悔しい。

 

けど、人のこと言えるほど言われたことしっかりやりないできたかというとそうでもないです。

だから何も言えない。

 

でもこのままでは終われない。

 

人に言い返す自信がつくほどやり抜いてやる。

今自分が持てるもの出し切る。それだけを考えてやる。

 

もちろん言い返す実力があっても絶対相手を言い伏せはしないで、相手の言葉に耳を傾ける人間になってやります。

 

もう引きずってなんかやらない。

 

いや私に引きずってる時間なんて勿体無い。

これからどうするかを考えるだけの人間になってやる。


頭のもやもやはなぜ起きるか?

2024-12-03 22:07:16 | 日記

今日は自分が人と話し終えた後、時たま起こるもやもやを解消していこうかなと思います。

 

まずは頭にもやもやが起こる状況をなるべく言葉にしてみましょう。

 

①人と話をしたとき。

②疑問が浮かび上がったとき。

③でも相手の話が続いているからそれを聞く。

④そして会話が終わりその主要部分が聞けていないとき。

 

実はこれ自分のふと「疑問に思ったことに蓋」をしてしまった時ですね。

 

じゃあそもそも本当に何でもかんでも聞けるかっていうとそれは仕事とかであれば時間の関係上難しいときもあると思います。

 

では根本的な原因は何かと言うと、

「自分の思いを一言で伝えることができていないこと」

だと思います。

だからそもそも自分の話を聞くことに時間を使ってくれなくなっている可能性はあると思います。

ぱっと言葉にするそういう人は円滑にコミュニケーションを行い主要なやることを洗い出すことができます。

 

じゃあ私は何意識すればいいかというと、

「自分がどうしたいか?」

だと思います。

 

ただここっていうのが、自分で意識的に言葉にしてないと自分の本能に流されていくのだと思います。

 

例えば、お客様から自分の知らない言葉で話を聞かれた。

そのとき自分が「無知をばれることを恐れている」と、上司に自分が知らないと聞くことを恐れて、その場で解決しようと自分の憶測で話したりしてしまうと思います。

その結果、お客様にそれっぽく話して、自分の知らないことを知るチャンスを棒に振るなんてこともあります。

これは以前の私ですけど、気づくのに結構時間がかかりました。

 

要するに「自分がどうしたいか?」は自分の本能的な欲求を意識的に認識し、それをそぎ落とした先に見えてくるものだと感じます。

本能的欲求をそぎ落とすにはそれがいかに自分にとってもったいないことをしていたか等、

言葉にして自分に気づかせ、矯正していくことが必要だと思います。

そう、「自分がどうしたいか?」っていうのは「自分がやめたい行動」を増やしていくことでもあると思います。

 

まずはその自分の本能的欲求という弱さをさらけ出すところからはじまると思います。

 

人が構ってくれないときに憤りを感じたのなら素直に「寂しい」って言ってみます。

人に「え?知らないの?」って言われて憤りを覚えたのなら、素直に「勉強不足でした。」と言ってみます。

人に「大丈夫?」って聞かれたら「大丈夫です!」じゃなく、「なぜでしょうか?」って素直に聞いてみます。

 

そこで自分の弱さをそぎ落として、自分の本心を取り出しやすいようにしておければと思います。