可愛岳(えのたけ・727m)
晴れ
*可愛岳への地図←(Yahoo地図検索)
(アクセス) 往:宮地(発5:00)→三重(6:00)→西郷資料館駐車場(6:50) =走行距離97KM
復: 駐車場(発14:20)→延岡市内→高千穂→波野→宮地 =走行距離105KM
(行程) 南尾根登山口(発7:10)→水飲み場(着9:00)→北尾根ル-ト分岐
(着9:55)→前屋敷→可愛岳頂上(着10:45~発10:50)→前屋敷(11:25)→
烏帽子岳(着11:50~発12:35)→林道出合(着13:00)→ 駐車場(着14:15)
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〇ゴ-ルデンウィ-クは、祖母山の「アケボノ観賞登山」という登高意欲も、
打ち捨てて「阿蘇山野草展」に没頭・・・。
お陰様で、私の即売品は112点に及び、好調にて終了した。(苦笑)
山野草展が終わると来年度用の出品物の手入れが忙しくて「ミヤマキリシマの観
賞登山」も出来ず始末となった。
そんなアレコレで「三国山」登山以来の3.5ケ月振りの山行である。
〇次回、登る山として徹爺さんに希望していた可愛岳への誘いが、梅雨明け
(7/21日)を待って電話があり今回の山行となる。
可愛岳を希望した私なりの事由が二つ有った。
①比叡山・千畳敷展望台の案内板に「比叡山を含め、行縢山、可愛岳から
連続してくる筋状の山の連なりです。この山の連なりは環状を呈し、
地質用語で環状岩脈と呼ばれています。(略)」 と説明されている。
いわゆる可愛岳は大崩山群を形成する花崗斑岩・環状岩脈の最東端に位
置する山岳となるので、どんな山容を持つ山かを見届けたいという気持ち
②西南の役「和田越の決戦」後の薩軍敗走路となる可愛岳突破の史跡の山
を歩きたい・・・・。という興味にひかれた。
[比叡山・千畳敷展望台の案内板]
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[「分県登山ガイト」より転写] [西郷資料館前に建つ案内板]
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▼可愛岳突破の出発点となつた桐野利明の宿営地跡(岡田宅)を右に見て、
薩軍敗走路なる「可愛嶽突囲戦薩軍登山口(南尾根ル-ト)」に取りつく。
[正面の尾根裾が登山口で右の邸宅が桐野利秋、宿営の地]
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[薩軍突破路なる南尾根を辿る]
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[登路から望む可愛岳(左)と烏帽子岳] [遠くに見える可愛岳~烏帽子岳の稜線]
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▼緩やかな登りが淡々と続き、展望も余り無い・・・・。
ひらべ山(197m)分岐を過ぎ、杉林を通りぬけ山腹から尾根筋に上がると
一か所だけ延岡市街や日向灘が見えたが、その後も山頂部までは展望の
無い登路であった。
▼今日の天気は何しろ蒸し暑い、梅雨明け直後の天候のせいであろうか・・
天を仰いでも照葉樹林の「葉っぱ」の先端さえも「ゆらり」ともしない無風状態
・・・・。首筋と肘の裏側から溢れ落ちる汗はタオルを濡らす・・・・。
汗ふきに没頭しながらの歩きとなり登路の行程把握は希薄気味となる。
▼登山口から約2時間、雑木林の登路に沢音が聞こえ、清流がガレ斜面から
湧き出し、小川を作っていた。
沢に降りるには微妙な位置関係になるのでそのまま見過ごしてさらに進む
と、すぐに登路正面に巨岩が立ちはだかり、プレ-トには「水飲み場」と書か
れている。
巨岩の基部には、岩崖から飛び散る清流が爽やかな音を立てて趣のある小
渓流をつくり、涼感あふれる憩いの場となっている。
顔を洗い、喉を潤し、徹爺さんのバナナを頂き、一息入れて、去り難い「水飲
み場」を離れる。
▼登路は道標に従い右に進み、水場の巨岩を巻くようにして岩崖に懸けられ
た太い麻ロ-プわ掴み、水場の上流部へと進む。
涸れ沢を渡渉した地点で登路を見失う。
ガレ場であるので踏み跡が判り難い・・・。
涸れ沢に戻り、地形状況から判断して涸れ沢を遡上するとすぐに巻きテ-プ
を見つけ、涸れ沢のガレ場を直登気味に歩くことおおよそ5分位、その後は
照葉樹林の急坂をジグザクに登り上げ北尾根ル-ト分岐に着いた。
[登山口から約一時間、清々しい植林帯を歩く] [水飲み場を過ぎると急登が続く]
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▼分岐から左にフラツトな道を歩き「前屋敷」にザックをデポして頂上を目指した。
前屋敷からは段々と傾斜が増し、稜線直下の樹林帯の登路には道順案内
のためと思われるロ-プが張られている・・・。
稜線に上がり、急登の尾根を左に登り詰め、前屋敷から約20分で山頂部に
上がった。
▼展望は一気に開け、汗の疲れを忘れ、花崗岩と思われる小岩峰「鉾岩」の
基部から日向灘方面の景観を満喫・・・。
山頂部の岩塊や小岩峰の岩陰を通り、主稜線筋の緩やかなアップダウンを
西進して鉾岩から約15分で山稜の西突端に位置する
可愛岳頂上(2等三角点)に至った。
距離の長い(ガイドブックでは4km) 登路と且つ、低山(727mk)ではあるが登山
口の海抜が10m位と思われるので大まかに700m位の高低差を持つ山で、
登山口から休憩を含めて3時間30分の長い歩きであった。
[稜線上に座す鉾岩] [可愛岳頂上]
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▼頂上からの展望は、山と海そして川が織りなす風景が楽しまれ、北の遠景
に大崩山地、西の近景に行縢山、南の眼下に日向灘と延岡市内を流れる
下る北川・祝子川・五ヶ瀬川・大瀬川の河口が望まれた。
ただし、あいにくの霞で視界の透明度は良く無い・・・。
西郷軍の可愛岳突破の登りのル-トは判ったが、可愛岳から祝子川への敗
走路はどんなル-トを辿って下山したのであろうか? 興味が大いに湧くとこ
ろである・・・。
そんな思いを残して、風も無く、とにかく暑い頂上を後にした。
[西方向に行縢山] [北西方向に大崩山・木山内岳]
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[眼下に流れる北川] [可愛岳頂上から延岡市内と日向灘を望む]
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▼復路では、稜線から前屋敷に下る地点で右に分岐すべき所を見過ごして尾
根筋を下り、引き返すこと10分弱のロスタイムの始末であった。
▼北尾根ル-ト分岐を直進して山腹を緩やかに鞍部に下り、登り返しの尾根
筋で「山姥の尾」のプレ-トを左に見て、樹林帯を登ると分岐から約20分で
烏帽子岳頂上(4等三角点)に至る。
頂上といつても頂上らしからぬ登路上の尾根ピ-クのようなものであった。
[烏帽子岳頂上にて]
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▼頂上の小広場は南側が切り開かれ展望テラスとなっていて、断崖絶壁の眼
下に西郷資料館駐車場に停めている私の車もハツキリと見え、蛇行して流
れる北川と日向灘が広がっている・・・。
▼今日初めて感じる微かな風を涼として小広場で昼食を取り、ゆったりと過ご
した。
[烏帽子岳頂上から眼下に北川と駐車場の私の車も見える] [南尾根の登路を振り返る]
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▼山稜の西の突端が可愛岳頂上とすれば、東の突端にあたる烏帽子岳頂上
を後にして東へ下り、山腹の北側を歩き烏帽子岳頂上から25分で林道と出合う。
林道を横断して舟をイメ-シ゛させる岩塊「鬼の舟」を確認して
道標に従いさらに尾根を下る。
▼登路は照葉樹林の中を緩やかな傾斜を下って行くが、ゴロゴロ石の地面に
は小枝が散乱し足場が悪い・・・・。
「登山者が少ない」のであろうか、踏み習わせていないようである。
▼裾野近くになると登路はU字状の窪地を歩く場面があるが、雨水で洗われ
た地面は石が剥き出しとなり、滑りやすく、足の運びに注意を要した。
▼左下に民家や日豊線の線路が樹木越しに見えて来ると、傾斜も緩み庚申
塔や宮内庁の立札と「可愛山稜傳説地」と刻まれた石柱の御前を通り、集落
の里道を抜けて烏帽子岳から約1時間40分で下山した。
[俵野集落から可愛岳・烏帽子岳を振り返る] [西郷資料館駐車場にある案内板]
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〇とにかく今日の可愛岳は無風状態で暑かった。
これまでの山行で一番汗をかいた山であつたであろう・・・・。
( 宮崎日日新聞社記事より)
「宮崎県内は24日、高気圧に覆われ、沿岸部を中心
に各地で気温が 上がた。
宮崎市赤江では全国1番の暑さ、37.4度を記録した。」
〇帰路では、阿蘇から延岡市内に嫁がれた徹爺さんの同窓生宅に立ち寄る。
下山後の汗臭い服装であつたが、案内されるままマンションにお邪魔して、
弾む二人の語らいと日向灘・延岡駅付近の家並みを眼下に見ながら名残惜
しい時間を過ごし、高千穂経由で家路に着いた。
(終わりに)
今回の山行で関心を持っていた二点については、
①比叡山のような花崗斑岩の山肌を期待していたが、それを見ること無く終
わった。山頂部の小岩峰や岩塊は存在していたが・・・・。
②「薩軍・可愛岳突破の史跡の山」に関しては、
「田原坂の戦い」は肥後人として大まかな事は知り得ていたが、西南戦争最
後の決戦となった「和田越の決戦」については恥ずかし事ながら私が初めて
知るヒストリ-であつた。
その敗走路となる可愛岳突破の歴史の路を辿ったことで興味が益々深まり
帰宅後、ネット情報にて西南戦争の歴史を学ぶ日々が続いた次第であった
[ 参考にしたサイト ]
・「西南戦争の部屋・西南戦争17、延岡の攻防」
・「西南役余話・可愛岳」
・「宮崎県の史跡(県北編)・居酒屋なんじやろう」
・「西郷隆盛のホ-ムペ-ジ・敬天愛人」
・「アソペディア・西南の役(阿蘇谷の攻防と滝室坂の決戦)」
(ネツト情報での学習メモ: 主に可愛岳突破前後の薩軍の行動)
明治10年
2月15日、鹿児島を起ち、熊本鎮台のある熊本城に向かう。
22日、薩軍は熊本城総攻撃をかける。
3月 4日、田原坂の激戦(3月20日薩軍陥落)
4月10日、薩軍の一隊は、阿蘇坂梨村に入り「大黒屋」を本陣とした。
(大黒屋は女房の親戚筋になるので敢えて付記した)
13日、阿蘇「滝室坂の決戦」←(HP「坂梨校百年史・滝室坂のたたかい」)
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8月15日、薩軍(3.500人)延岡稲葉崎「和田越の決戦」で官軍(前線に35.000人)
を総攻撃し、正午頃に敗れ、俵野の児玉熊四郎宅に本営を置く。
16日、西郷は党薩諸隊に対して解散布告令を出す。
17日、夜10時に児玉熊四郎方を発して可愛岳に登り始める(総勢600人)
18日、明け方(午前4時頃)前軍が頂上近くの稜線「中の越」に到達し、
中軍・後軍の到着を待って、北斜面に野営している政府軍に下山突
撃を敢行し、この日は祝子川上流の和久塚・地蔵谷で野営。
19日、祝子川の第二包囲戦を破り、西郷は上祝子の小野熊治方に泊まる
20日、大崩山と鬼の目山の間「鹿川越」を通り、鹿川村~中村村(現在の
日之影町)と抜け、
21日、岩戸から高千穂町三田井へ到着。
22日、西郷軍は鹿児島へ向けて南進を開始、五ヶ瀬~米良~上槻木~
小林を経て、
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9月01日、官軍の守備隊を撃破して鹿児島に潜入した。
24日、 官軍の城山総攻撃で、西郷軍は全滅する。
※ 可愛岳「えのだけ」という難解な呼び名の由来について
(HP・「笠沙の岬(愛宕山)」の記事から抜粋したものです。)
・高くそびえる可愛岳の頂上にある「鉾山」といわれている所を御陵墓であっ
たとし、山腹に社殿を営んでいたこともあった。しかし、人々の参詣に不便な
ため、さらに社殿をふもとの「江」(可愛)という里に移し、「可愛山陵大権現」
とあがめて奉仕してた。
(明治15年「可愛神社并御陵墓伝説地に於ル沿革」)
・可愛村は、今は俵野村と合併して存在しない。
地勢をみると、可愛山東面から3筋の尾根が延び、中央の地は字で
「可愛良」、山は可愛山とも「エン嶽(えんだけ)」とも呼んでいる。
「エン」は、可愛の地方なまりである。
このことは、日本書紀や延喜式に見える「可愛(え)」地名が明らかに存在し
ていたことを示し、諸書の記述とも符号する。
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(2014.09.16日 加筆)