池田昌之です。

このブログはあるゴルフ倶楽部の会報に連載したゴルフ紀行が始まりである。その後テーマも多岐にわたるものになった。

ニュージーランドでのゴルフ(その2)

2013-08-11 12:37:26 | ニュージーランド / ハワイ

 一九九五年(平成七年)の三月末から四月にかけてニュージーランドに旅をした。このときのことは前回(ニュージーランドでのゴルフ・その1)に書いた。(2012-06-21 投稿)この投稿はその時に書き漏らしたことの補足と続編である。

 十人余の団体旅行であつた。早春の東京から初秋のオークランドへ、つまり北半球から南半球へ赤道を跨いで一飛びしたのである。時差は三時間しかないのでその点では大して応えることはないが、それより夜行便で機内ではあまり眠れないのでちょっと辛い旅だった。何故か南半球への便は目的地へは朝に到着する。オークランドは緯度的には福島県と茨城県の県境に近い位置である。従って気温の変化は殆ど感じられない。しかし季節には秋の気配が漂い紛う方もないのだ。春や夏を飛ばして一気に秋を迎えたわけで、突然去っていった季節を惜しむような一種不思議な喪失感が、まずこの旅の心となったことは前回も書いた。

 市内に入る手前でエデン山に立ち寄る。標高は一九六米の死火山だがオークランド市内と港が一望の下に見渡せる。ここはもともと先住民族のマオリの城塞(パと呼ぶ)だったところである。旧火口の部分が緑色の漏斗の形で陥没し自然の造形をそのまま残している。ダウンタウンの東にドメインと呼ばれる広大な公園がある。そこにオークランド博物館が建っている。ギリシャのパルテノン神殿のようなゴシック式の建築である。玄関のホールに入ると力強い絶妙なハーモニーが聞こえてきて、あたりの空間を浸していった。マオリの民族衣装を着た男女の歌と踊りの歓迎だった。ポリネシアの伝統的な合唱にはもともと宗教的な儀式の背景があるようだ。シャーマニズムの呪術のように人の心に迫ってくる。彩色した萱の腰蓑で踊る姿や優美にたゆたう身体の動きはハワイのフラダンスと共通するものがあった。男たちは上半身裸であるが、女性たちはバンダナで髪を飾り、祖先が身体に彫った伝統的な刺青模様の上衣で胸を覆っている。何故か両胸にポイという白い大きなボンボリを吊るしている。昔はふくよかな乳房を露わにして踊ったことの名残なのであろうか。

 マオリの祖先は同じポリネシアのタヒチのソシエテ群島から八世紀頃に移住してきたといわれており、それぞれ酋長を頂く部族が各地に割拠して抗争を繰り返していた。そして遂にハワイのように一つの王国として統一を実現することはなかった。そのうえ捕鯨船や商人や宣教師たちを先駆とした西欧人の流入によって、父祖伝来の大切な土地を蝕まれていったのである。 

 博物館には全長二十五米に及ぶ巨大な朱塗りの戦闘用カヌーが展示されていて、部族間の争いの時代を象徴していた。巨大な駝鳥であるモアの骨格や保護鳥のキーウィの剥製がいる。モアは食用になるので。乱獲されてもうとっくに絶減してしまった。キーウィは深い森林に隠れて細々と生存している。高い壁面に飾られて彼らを見下ろしているのは、大きな白い木製の仮面である。その表情は眼を半眼に閉じて哀しげであり、まるで民族の未来を予知していたかのようである。

 オークランドのダウンタウンはこぢんまりしているが、坂の多い落ち着いた街だった。人口は約百万人でこの国最大の都市だ。港や湾に林立する夥しいヨットのマストが印象的である。派手さのない目抜き通りのクーインズ・ストリートやパーネル・ヴィレッジには、この地に入植してきたイギリス人たちの質実な生活様式が如実に現れていた。

 ロトルア湖を訪れたあと、次なる宿泊地のクイーンズタウンへ飛ぶ。南島のワカティプ湖の北の畔にある、まるで「玩具の国」のような町である。夕刻の到着だった。ケーブルカーでボブズ・ヒルの中腹に登った。そして眺望の良いスカイライン・シャレーというレストランで夕食をとることになった。湖を取り囲む壁のような山々に夕日が映えている。日陰になって夕闇が迫っている湖面に視線を走らせたそのとき、突然デジャヴーが襲ってきて我が眼を疑った。向こう岸からしゃもじの形の半島が張り出していて、そこにはゴルフ場らしきものが見えるではないか。またロトルアでの夜のときのように夢を見ているのであろうか。しかしたちまちにして、あたりは幻のように闇に包まれていってしまった。 

 翌日の朝早く ミニバスでミルフオード・サウンドのフィヨルド(氷河が刻んだ峡湾)へ向けて出発した。この辺は緯度が北海道の宗谷岬に近い。典型的な氷河の地形である。山々は雪を頂き、平地でも所々に万年雪の層が残っていたりする。

 クイーンズタウンからミルフォード・サウンド迄は、地形の関係で大きく迂回をしなければならない。矩形の短い一辺の両端が出発地点と終着地点とすると、この迂回路は西南に延びた矩形の三辺をコの字型に辿っていくのだ。目的地のフィヨルドに着くまでの片道の所要時間は、約五時間半に及ぶ長旅になる。昼食場所のテ・アナウから北上するその最後の一辺の道程は、夢のような天然の景勝地だった。行く手の左側に細長い湖が続き、背景に長い帯を横にして立てたような山脈が続いている。その湖面と山壁の間を、白くて長い雲が襷の形で伸びているのである。その昔マオリたちがタヒチから新天地を求めて大航海をしてきた。ニュージーランドを発見した際に「アオテアロア」(「白い長い雲のたなびく地」)と名付けたといわれる。そうしてみると、これはそもそもニュージーランドの原風景だったのであろうか。途中、ミラー湖という名所で湖畔に降りてみた。鏡のような湖面で有名だという。               

 冷え冷えとした原生林の下生えを掻き分けて湖面に近づいてみる。そして暗がりから湖面を覗き込んだ。ところが湖面に写る樹々と湖面に覆い被さる樹々とが、重なり合ってどうしても見分けがつかない。いくら眼を凝らしてみても、どちらが水に映った樹々の影でどちらが本物の樹々かが、もどかしい位に見分けが付かないのであった。実在するものと、実在の影が渾然一体となってしまっていたのである。

 そもそも実在するとはどういうことであろうか。最近の量子論の影響を受けた認識論はいう。観測する行為に関係なく、それに影響されないで不易かつ独立の実体なるものは、そもそも存在しないなどというのである。観測という行為が対象の位置に変化を与えるのだからという素人にはちょっと理解し難い議論である。ミラー湖で見た光景は、これとは直接繋がらないことではあるが、新しい認識論を連想させるかのように、自然が仕組んだ手の込んだ悪戯のようにも思えたのである。

 ホーマー・トンネルに入る前に長い道中で最後の休憩をとった。遠方に雪を頂いたモンブランのような山容の嶺が見える。路端の万年雪の層に近寄って手にとって見る。マオリ族のような褐色の肌をした日本人のガイドの女性が、引詰めにした長い髪に手を遣りながら、さり気なく提案をしてきた。          

 「お帰りは、また今まで来たコースを戻るのですが、セスナ機でお帰りになる方法もございます。それですと約三十分でクイーンズタウンヘお戻りになれます。」と言うのである。このガイドはゆったりとしたちょっと浮世離れした古風な語り口の人だった。その提案の口調に何か不思議な魔力でもあったのか、全員がシーンとしてしまった。しばらくの間賛成とも反対とも声を出す人は居なかった。セスナ機に乗る場合には事前の予約が必要であって今がそのタイムリミットだというのである。確か数年前だったが日本人の新婚旅行の客がフィヨルドの遊覧飛行中に墜死したのはここではなかったかと思う。リスクは怖い。しかし時間が大幅に節約できる魅力もある。また五時間半もかけてバスに揺られて帰るのはうんざりする。皆内心でその選択に悩んでいる様子は明らかであった。結局団長の立場の私から、「希望者だけがセスナ機に乗ることにしましょう。それが嫌な人は予定通りバスで帰ればよい。」と提案したのである。ところがそれで踏切がついたのかバスを希望する者は誰一人居なかったのである。

そうと決まると誰彼ともなく、「日程が空いた時間で、クイーンズタウンのゴルフ場でハーフラウンドはゴルフができるぞ。」という華やいだ声をあげた。

湾内を遊覧船で巡りながらイルカと競争したり、アザラシの昼寝を見たり、目前に迫る丸の内ビルの二倍の高さという滝の壮観を楽しんだりした後、結局我々は二機のセスナに分乗したのだ。いよいよ岩山の嶺々の上を飛ぶことになったのである。

私は一番機の副操縦席に座った。機はフィヨルドを眼下に一瞥してから反転して、上昇気流に吹き上げられて機体を震わせながら高度を上げていく。尖った岩の頂上が当機を見下ろしながら真正面に迫ってくる。それなのに当機の高度はなかなか上がらないのである。「このままだとあの嶺に衝突する」とすんでのことで叫びそうになる。しかしその瞬間操縦士は機首を翻して、その嶺の横をすり抜けていく。

操縦士がしきりにエンジンに油圧を送るチョークのようなノブに手を掛けるのも気になってしようがない。私は操縦士に断ってから副操縦席の操縦桿を握ってみた。利かないように設定してあるから大丈夫だという。エンジンの振動が直に伝わってきた。そうこうするうちに、機上の環境にも慣れてきた。周囲を見回してみると、一同は一所懸命に手近にある把手にしがみ付いて手に汗を握っている様子である。厳粛な表情ばかりなのである。考えてみるに、もしも万一飛行機が墜落した場合には、何にしがみ付いていても結果は同じだなと思うと、急に何か馬鹿らしくなって気が楽になってくる。それならばこれは千載一遇の機会ということになる。私一人だけは両手を自由にしてカメラをあちこちに向けて写真を撮りまくった。

機上から見るあたりの嶺々の風景には清冽で凛とした気品が感じられた。冷気を孕んだ、青と黒の微妙に沈んだ色調が心を寄せ付けない非情さである。「あそこに人間の肉体が叩きつけられたとしてもブルンとも震えないだろうな」などとあらぬ空想を巡らしてしまう。ふと斜め後ろで何かが崩れ落ちていくような感覚が襲って来てその方向に目を遣る。切り立つような嶺の近くに藍色の淵があって満々と水を湛えている。そこから真っ白な一筋の滝が、長い生き物のように奈落の底へ落ちていくのが見えた。ロトルアで見た、あの夢の景色とそっくりだ。

前方の嶺と嶺の間から、ジェット気流のように一団の白い雲が突進してきた。信じられないようなスピードで迫ってきて背後へと流れていく。その瞬閲にセスナは大きく煽られて空が回ったのである。一瞬今は夢なのかそれとも現実なのかその区別がつかなくなった。

 翌日はゆっくり起きて午前中クイーンズタウンの町でショッピングをする予定だった。ところが皆の希望が強く、早起きをして出発前に残りのハーフランドをプレーすることになったのだ。朝霧の中から少しの間だけ明るい陽光が顔を出して、爽やかな日の始まりの歌を唄った。

 クイーンズタウンを離れて機上の人となる。私はオーストラリアのシドニーで開かれる会議に出席するべく一足先にニュージーランドを発ったのである。ほかの人たちは会議自体には出席しないが、会議の後に催されるコンベンションに参加するのだ。その会議の間を利用してクライストチャーチへ立ち寄ることになっていた。 

 機上から大きな川が見える。南島最大のクルーサー川に違いない。日本の利根川と全く同じ、三百二十二キロの長さだといわれる。平旦な平野部を流れているせいであろうか、老人の縮れた髭のように細かい支流に分かれ、茶色の流域を一杯に広げている。旅の期間中つくづく感じたのはこの国の自然環境の保全に掛ける熱意であった。何しろ我が国の国土から北海道を除いた部分よりやや小さいという面積の土地に、三百七十万人の人間しか居ない国なのである (一九九六年現在)。そして生活水準の高い完全福祉国家といわれている。また南太平洋における超大国の原爆実験の被害をその領土の一部で実感した国として、徹底した反核政策を国是にしている。従って安全性の見地で原子力発電すら採用しておらず、地熱発電や水力発電を積極的に推進しているのである。

 我々は主としてニュージーランドの自然の魅力を味わえる地域を旅した。そこでは先住民族のマオリの生活や文化に触れる機会があった。この国にも先住民と後から押し寄せた西欧人の移民との争いの歴史が影を落としているのである。その最大の問題はマオリの部族社会が有していた土地の権利に関するものであった。マオリの酋長たちはフランスの露骨な植民地化侵略からの保護を求めてまた彼ら自身の部族間抗争に安定を齎すために、イギリス女王との間にワイタンギ条約を結びその保護下に入ることにしたのである(一八四〇年)。この条約はマオリの酋長達が所有する土地、森林、水産資源の権利をイギリス女王に委譲する代わりにその権利の保証を受けるということと、マオリに英国民としての特権を与えるというものであった。この結果この国はイギリスの植民地になったのである。

 ところがイギリスはこの国を植民地化してしまうと、この条約を無視してしまったのである。イギリスの統治は野蛮人しか住んでいない無主の土地を先取したことに基づく権利だというものであった。これが永年にわたるマオリの抵抗運動の原因となった。この問題はいまだに全面的な解決には至っておらず、現在も依然として尾を引いている。

 この国の人口の七十五%は北島に住んでいる。今や人口の一割になってしまった先住のマオリ族はやはり北島に多い。自然の中で伝統的な生活をしていた人たちが都市に移住するようになり、同時に混血も進んでアイデンティ喪失の問題が起きているのである。

 都市に移住したマオリには高度福祉社会に取り残された貧困やそれに伴う都市の悪弊の問題が生じている。マオリの作家であるアラン・ダフの代表作「ワンス・ウォリアーズ(嘗ては戦士たちだった)」がこの問題を取上げている。この作品は同じマオリ人の監督で映画化されてもいる。一九九四年にモントリオールの国際映画祭でグランプリをとった。ニュージーランドでは三人に一人は見たという注目作である。

 それはオークランドの郊外に住むマオリ族の一家の悲劇的な物語だ。妻は酋長の末裔という血統の誇りをいったんは捨て、元は奴隷出身の男と結婚し都会に出てきた。彼女は力自慢の男の魅力に惹かれて一族の反対を押し切って結婚したのだが、所詮マオリは都会の生活に適応できず、その日常生活はさっぱりうだつが上がらない。おまけに夫は仕事を首になって、一家は失業手当で暮らす始末となった。周囲の仲間たちも同様なその日暮しである。安酒場で酒を煽っては騒ぎときには喧嘩などで憂さを払っていた。夫は腕力自慢でお山の大将の羽振を示したくて、ともすれば仲間たちを自宅に呼んで大騒ぎをする。そして妻が思うようにならないと、暴力を振るった。そんなことでは到底家庭が治まるわけがなく、子供たちの一人が悪い仲間にそそのかされて盗みを働き少年院送りになる。嘗ての勇壮なマオリの戦士たちの末路はかくも惨めである。

 或る日の酒盛りの夜に夫婦の十三歳の心優しい娘が夫の呑み仲間の一人に犯され、首吊り自殺をする。妻は悲しみに打ちのめされて、屈辱に満ちた都会の生活と夫に決然と別れを告げて、子供たちを引き連れて故郷のマオリの田園生活に戻っていく。娘を犯した仲間を殴り殺した夫は、妻たちに向い「必ずやまた都会に戻ってくるくせに」と喚きたてるが、背後には警察の車のサイレンが迫ってくる。絶望して膝から崩れ落ちた夫の腕には三本の腕輪のような刺青があった。これはもしかするとマオリの神殿の切り妻を飾るテコテコの像の三本指なのか。とすると、彼にとって「生まれる、生きる、死ぬ」とはいったい何であったのだろうか。

 「キオラ」とは、マオリの挨拶言葉で「やあ、元気か?」である。近代化や文明化によって人々の物質生活は確かに向上する。しかし未開とはいえ伝統的な生活の中にはあった精神文化の価値までが失われていくのは淋しいことである。

 ポリネシアの人たちは古い昔から航海の達人であった。それは南海の生活環境に起因する。多くは珊瑚礁や岩だらけの島々であり強い風と降りしきる雨が支配する。それは決して「楽園」といえるような結構ずくめのものではなかった。つまり人口が増加するとともに常に新天地を求めて航海せざるを得なかったからであろう。ポリネシアの部族社会には相互の争いが絶えなかったようである。

 ニュージーランドのマオリの人たちの間でも、部族間の争いは絶えなかったようである。そこに白人たちが進出してくると自分らの争いの故に付け込まれ、父祖伝来の土地を簒奪されていく。そして進歩した文明や技術の前に、たちまち隷属的な地位に追い込まれていく。今や圧倒的に優位な西欧文明が支配している。その中でポリネシアの先住民族は固有の文化を失い洋風化しつつある。いずれなす術もなく西欧文明に同化されるしかないのだろうか?

 去り行く機上から心中でマオリの人たちに「キオラ」と呼びかけてみた。それはせめての同情をこめた、力のない呟きにしかならなかった。           

  (了)                 

 

 

 

 

 


ハワイでのゴルフ(その3)

2013-08-10 17:47:02 | ニュージーランド / ハワイ

 

 西暦二千年(平成十二年)八月、友人仲間に誘われてハワイ島に逗留してゴルフを楽しむ旅に参加することになった。日頃親しくしている五組の夫婦が、ハワイ島の西岸にあるマウナラニ・リゾートに四日間滞在したのである。またも団体旅行であり予めセットされた日程で行動することになった。

 ハワイ島の中央に、四千米級のマウナケアとマウナロアの両峰が聳えている。東南には約千二百米の活火山キラウエアがある。そしてハワイ島はこの三山から流出した火山岩に覆われた島である。

 西岸のコナ空港に降りて海岸に面したクイーン・カフマヌ・ハイウェイを北上する。右手に雄大な裾野が広がっている。火山の溶岩が固まりごつごつした地肌を晒している。表面が風雨で浸食されその上に植物の種が着床して緑が覆うようになるには、相当の年月を要するのだそうである。潅木の疎らな緑と黒い溶岩の斑模様が、溶岩の流れた年代の差を物語っているのである。一方海岸に点在するリゾート地などには見事に緑の絨毯が敷き詰められてはいるが、それは火山の溶岩や珊瑚礁の上に客土をして、人工的に造成したものだという。我々が滞在したマウラナニ・リゾートもその例外ではなかった。つまり島全体には、総じて太古から引き続いてきた荒削りの自然が残されている。 

 我々は「マウナラニ」と、名門の「マウナケア」のゴルフコースで何回もゴルフを楽しんだ。それが今回の旅の主要目的だった。コースにはほかの場所のようにラフという中途半端なものはない。緑のビロードのように手入れの行き届いたフェアウェイを外すと、火山岩の黒いごつごつしたトラップに捕まってしまう。そうなるとペナルティを払って横へ出すしかない。おまけにバンカーという白い落とし穴も多い。美しい海越えのショートホールがどちらのコースでも名物になっている。各ホールではコバルト色の海を背景にして、明るい陽光の下で原色の色彩の競演が眼を楽しませてくれる。しかし、決して油断はできない、相変らず風との戦いには神経が休まらないのである。 

 滞在の三日目はゴルフの中休みで、ハワイ島をほぼ一周する観光に出かけた。ここは亜熱帯で、時は八月である。しかし海洋性の気候は絶え間ない風が暑熱を吹き飛ばしてくれるので、意外なほど厳しい暑さはない。しかしハワイの気候はそんなに単純ではない。ポリネシアに関してよく耳にする「常夏の楽園」という表現は、外の世界が抱くイメージが先行し過ぎたレッテルである。ハワイ島観光に出かける前にガイドから言われたのは、「ここでは一日のうちに四季を体験できる」ということであった。

 島の西岸の北部、カワイハエから十九号線を真東に向う。道路はかなり急な登り勾配となる。右手前方には、個人所有としては世界最大級といわれているパーカー牧場が展開する。この島の最高峰マウナケアの北西山麓になる。百二十万平方米の土地に約七万頭の家畜を放牧しているという。とはいっても、この辺まで来ると天候が一変し低い雨雲が垂れ込めてきて展望が利かない。この先に果たして牧場があるのかという感じである。車を降りてみると、肌寒い。上着と長袖の用意が見事に的中する。やがて峠を降りて、東の海岸を左手に見下ろしながら道路は進んでいく。あたりの景観は陽が当たり明るく乾いた西海岸とは様変わりである。雨や霧に煙ってはいるが、豊かな緑の生い茂る林が深い。右手の山側は雲に阻まれて見通しには限界があるが、起伏の激しい山襞の奥にある高みから突然水瀑が吐き出されて、滔々と流れ落ちて見る眼を驚かせる。やがて車はヒロの市街に差し掛かって目抜き通りらしい十字路を走り抜ける。このヒロの街はハワイ諸島ではホノルルに次いで第二の都市といわれているが、高層のビルは見当たらない。木造の建物が混在する薄暗く鄙びた家並みが、ひっそり静まり返って雨に濡れそぼっていた。そもそもヒロは別名「雨の町」と呼ばれて、降雨量の多いところだという。ここは日系や中国系の移民が多い。遠い出身地の昔の時代の甲羅を大切に守っているのか、それともただそれから抜け出せないでいるだけなのかという風情が感じられる。

 いったん南下してから南西に走る。キラウエア火山の火口に着いて早速展望台に登る。カルデラの広大な眺望の前に立った。噴火は数年に一度という頻度なのだという。目前には水蒸気を吹き上げている場所が幾つかあるだけである。キラエウア火山は地下のマグマを閉じ込めず、徐々に噴火する構造になっているので、突然の大噴火にはなり難いということらしい。でもなんとなく不気味だ。眼下に広がる火口原の規模とその容貌魁偉なるさまに見入ってしまう。大自然の営みの壮烈さと比べると人間の存在は如何に矮小かということを思い知らされているような気がして、しばらく呆然と無言で佇んだ。 

 火口原に近い周回道路に下りてみる。道路のアスファルト舗装の上を溶岩流が覆い隠したまま冷えて固まってしまった場所があった。踏んでみると何となく弾力が感じられる。比較的最近の噴火のときのものだという。

 島の南端の方向を目指して車を走らせる。海岸に近い密林の彼方に紅い火柱が間歇泉のように吹き上げているのが見えた。そのときから十年以上も遡る一九八九年(平成元年)の噴火によって、沿岸のカラパナ地区が二ヶ月のうちに溶岩流で全滅したというが、これがその場所であろうか。

 ハワイ・ベルトロード(十一号線)はヒロの南から西岸のコナまで島の南半分を周回している。その十一号線をひたすら走って、キャプテン・クック寄航の集落も、カイルア・コナの町なども殆ど素通りしたまま宿のマウナラニへ夕刻に戻った。

 立ち寄った場所といえばヒロの郊外の「手造りのクッキーの店」と「赤塚オーキッド園」のみやげ物売り場とコナの「コナ・コーヒーとマカデミアナッツの店」くらいだった。島を一周して明るいうちにホテルに戻るという使命を託されたガイドの差配にただ従うだけだったのと、はたまた旅の土産品を漁りたがる我々自身の悲しい習性のせいであろう。後日になって旅行案内などで調べてみると、島の北端のカメハメハ大王の生誕地や、そのヘイアウ(神殿)があるプーコハラ国立歴史公園など、また西欧社会が最初にポリネシアを発見した所縁の場所といえるキャプテン・クック記念碑、それと古代ハワイの社会生活が見られるプウホヌア歴史公園などは、訪れられることもなく見すごされたのである。

 旅の終わりはホノルルへの立寄りだった。二泊の滞在期間では実質丸一日しかなく、お決まりコースの観光しかできなかった。ダウンタウンを訪れる。前二回の訪問時には素通りに近かったカメカメハ大王の銅像を見る。十八世紀末にハワイ群島を統一した王様である。ポリネシア北端の一角に位置するハワイ群島は酋長たちの治める部族社会が割拠していて部族間の争いが絶えなかった。人々は島々に別れ、また同じ島の中でも厳しい海岸の岩礁に隔てられて対立した。島々に強風が吹き荒れると人々の闘争に拍車が掛かったのであろうか。一朝事あるときは、戦闘用のカヌーが荒波を縫いながら活躍した。

 ハワイ群島が統一されるのはキャプテン・クックが来航してから三十年後の一七九五年であったという。かつて勇猛を讃えられた大王の巨体が槍を片手にして、仁王立ちの姿勢でダウンタウンの一角にひっそりと立っていた。愛 の「アロハ」精神がハワイ人の心に根付くようになったのは、この統一王朝の平和が長く続いたからであろうか。 

 ところでポリネシアはハワイとニュージーランドとイースター島をそれぞれ三角形の頂点とする太平洋の広大な地域である。ポリネシアの住民は相互に数千キロを隔てた環境にありながら共通の人種的・文化的な特徴を共有するという。彼らは今日の通説では中国南東部を故郷とするモンゴロイドである。アウトリガーと呼ばれるフロートつきのカヌーや、後にカタマランと呼ばれる双胴船を操り、天空の星辰を読みながら信じられない遠洋航海をした。中国を四千年前に離れて、さらに三千二百年前にサモアやトンガを起点として幾波にも及ぶ移住を続けこの地域に展開したのである。そしてハワイの人たちはタヒチから移住してきたといわれている。(M・スティングル著、「古代南太平洋国家の謎」による)

 さて統一後のハワイには捕鯨船基地やサトウキビ農園のコロニーとして西欧人が盛んに進出してくるようになり、イギリスやフランスの支配を受けそうになったこともある。後にアメリカのキリスト教の宣教師による布教活動の結果として、ポリネシア系の住民がキリスト教へ改宗するようになった。そのうえ、アメリカ人を中心とする政府顧問らの影響力が増し、白人勢力を抑えられなくなっていく。やがてハワイ王朝の転覆を狙う勢力が生まれ、王朝の外堀が徐々に埋められていく。事態を憂慮したカラカウア国王は日本との関係強化を図る。一八八一年日本を訪問して皇室との縁組を画策するが成功には至らなかった。しかし十九世紀末にかけて日本からの移民の積極的な導入を進めた。

 やがてライフル銃の威嚇により約一世紀続いていた王制が打倒されて、共和制に移行する。そのうえ一八九八年の米西戦争の勃発を契機にアメリカの太平洋戦略の必要性が高まる。その結果アメリカ国内でハワイ王朝の尊重を唱えていた派が後退して、ハワイ併合派が優位となりとうとうハワイ共和国を合併する法案が成立したのである。その経緯を紐解いてみると、それはまさにハワイ王国とハワイ人伝統社会の強引な簒奪であった。時代は弱肉強食の帝国主義時代の最中にあった。ハワイばかりでなく世界のほかの場所でも、人々が生き残るために露骨に他の人々を侵す時代だった。 

 当時のハワイの人口では、白人の比率は二割に過ぎなかった。(うち七割はポルトガルからの移民だ。従って支配層は全体の七%弱のほんの一握りの人たちだった)ハワイ人は混血も含めて三割五分に達し、日系が二割強、中国系が二割弱だった。しかも共和制を成立させる舞台となった議会は少数の白人が独占していた。彼らは王制打倒の革命だと主張していたようだが、これはとても市民革命といえる代物ではなかった。(猿谷要著「ハワイ王朝最後の女王」による)。キリスト教の信仰をハワイ人が受け入れたというが、ハワイ人の心にはポリネシアの神々への信仰の基層が根強く残っていた。日本人の心の中には、いまだに神と仏への信仰が仲良く同居して残っているのと同様である。

 ハワイアン音楽の象徴のような「アロハ・オエ」はハワイ王朝の最後の王となる、女王リリウオカラーニが作詞し、共和派に幽閉されていた最中に作曲を完成したものだという。「アロハ」は愛や親切を表わす言葉で出会いや別れの際の挨拶である。やがて彼女は静かに運命を受け入れて失意のうちにその生涯を終えたのである。「アロハ・オエ」は彼女自身への挽歌であると同時に、ハワイとその人々への別れの歌となった。アロハのスピリットはその優しさの故に血を流すことを避けて、西欧人のライフルに眉を顰めて後ずさりをしたのである。

 カメハメハ大王像の北側にイオラニ宮殿があり、そのさらに先にリリウオカラーニ女王の住居であったワシントン・プレイスが木立に囲まれて佇んでいる。そこは現在知事公邸になっている。ここから西へ展開しているダウンタウンは夜間になると治安が悪く、観光客の一人歩きは出来ないといわれている。 文明化が齎した都市の悪徳が蔓延る場所なのである。カメハメハ大王もさぞかし眉を顰めて嘆いていることであろう。

 ハワイは欧風化が進んでいるといっても、決して古くからのハワイが消えたわけではない。しかし欧風文化が昂然と大手を振っているのは間違いない。ハワイ人の文化は観光客の呼び物とはなっている。しかしその伝統的なライフスタイルと心のありようは、物陰でひっそりと遠慮勝ちに生き永らえているように見える。キラウエア火山の溶岩流が舗装道路を覆い隠してしまった光景をふと思い出していた。優勢を誇っている西欧人の生活様式と価値観が先住民族の心を否応なしに消し去ることにならなければ良いがと、夕刻の眩しい陽差しの中で思った。

 折から強い突風があたりを襲ってきた。

(了)


ハワイでのゴルフ(その2)

2013-08-10 14:17:58 | ニュージーランド / ハワイ

 

 振り返ってみると、ハワイには仕事がらみで二回、余暇で一回、都合三回訪れている。オアフ島、マウイ島、カウアイ島、ハワイ島の四島に足を記してはいる。しかし実際に訪れたのはオアフ島では表玄関のホノルルだけであるし、ハワイ島は一応一周したものの、カウアイやマウイを含めて全体としてみればほんの一部しか見ていないのかしれない。前回、マウイ島でゴルフをしたことを書いた(2012-06-15 投稿)。今回はその続編であるが、内容としてはハワイの文化をポリネシャ地域の一環として捉えているのでより包括的な視点で見ていることになる。

 ハワイ諸島は緯度的にはフィリッピンのやや北にあたり、亜熱帯の海洋性気候である。背の高い椰子の木立がハワイの特徴的風景だが、私の気持ちを捉えたのは風の姿だ。全三回のハワイ滞在中どこにいても常に風を感じていたような気がする。あるときは心地よい微風であるかと思えば、あるときは身体ごと持っていかれそうな暴力的な強風であったりする。同じ島内でも場所や時間によって風の様相がぜんぜん違うのだ。まさにハワイの風は滞在の間バックグラウンド・ミュージックの通奏低音のように常に私の心の中で鳴り響いていた。前回のマウイ島でのゴルフの話は、この風の激しさに基調を置いたものであった。  

 一九九四年(平成六年)十二月、私が勤務する会社がホノルル・マラソンの協賛各社の一翼を担うことになった。その関係で私は初めてその開催地のホノルルへ飛んだのだ。

 到着して早々マラソンコースを車で視察する。マラソンの出発地点はダウンタウンに程近いアラモアナ・ビーチ公園である。そこからワイキキのカピオラニ公園を通過して、標高二百三十米ぐらいの死火山、ダイヤモンド・ヘッドを横目にしてカハラの高級住宅地へと向かう。ダイヤモンド・ヘッド方向への登り坂は復路の難所でもある。カハラは復路でも通過する。住宅地に隣接して有名なワイアラエ・カントリークラブが見える。ハワイアン・オープントーナメントで、青木功が劇的な逆転優勝をした場所だ。往路はここから東進してハワイ・カイで折り返して、カピオラニ公園まで戻ってくる。変化に富んだ、美しい景観のマラソンコースである。途中で車が揺れるようなかなりの強風に晒された。マラソンランナーたちはかなり風に悩まされるだろうと心配になる。

 終着地のカピオラニ公園ではゴール地点の道路を跨ぐ展望櫓の設営が行われていた。海兵隊の隊員たちがボランティアー活動をしているのだ。お得意の陣地構築の要領で、手際よく櫓を組み立てていく。

 カピオラニ公園内の緑地には各種のテントが張られ、エントリーの手続きをする参加者たちで賑わっている。祭りの雰囲気のさんざめきがあたりに満ちている。このホノルル・マラソンへの参加者は年々増加して三万人を越え、そのうち日本人の数は二万二千人に達していた。広場の各所に野外パーティの会場が設営されていた。カーボ・パーティというユニークな前・前夜祭が開かれる場所だ。競技の参加者が炭水化物(カーボ)の栄養補給をするのだ。

 翌日はマラソン関連の種々なイベントが行われたのだが、適当に中座してホノルル市内の観光に出かける。日本人観光客向けのお決まりのコースだ。真珠湾の洋上の記念館のことは前回に書いた。 真珠湾攻撃の実録映画が上映されていた。抑制された調子のナレーションが淡々と当時の出来事を追っていく。圧倒的な破壊のシーンが二十分ほど続く。平和な海辺の環境の中で、その空間だけがとても非現実的なものに思えてくる。その映画は闘う個々人の表情が一向に見えてこないドラマであった。香港に駐在していた頃に「トラ・トラ・トラ」という日本映画を見たことがある。真珠湾攻撃のシーンが再現された場面で、信じられないことが起きた。こともあろうに香港の中国人観客が熱狂して大歓声をあげたのだ。奇妙なことに東洋人が西洋人を木っ端微塵にやつけるという図式に観客が反応したのであろう。それは白人種に対する黄色人種の歴史的なコンプレックスをぶち壊すようなカタルシス的心理だったのであろうか。

 しかしここ真珠湾では私はまったく別な思いに囚われた。圧倒的な破壊の凄まじさと生々しさは、恐怖に駆られた集団的な狂気の印象を容赦なく発散するものであった。魚雷攻撃の若い飛行士たちは勿論映像としては捉えられてはいなかったが、その飛行兵たちに憎しみの感情はあったであろうか?それよりもそこでは国家という人間の集団のぶつかり合いが生む、狂気じみた闘争への掛け声が支配していたに違いないと思えたのである。誰の心の中にも住む隠れた暴力への本能が、国家の集団の大義によって呼び覚まされるのだろうか?

 ホノルル市の北の外れにパンチ・ボウルと呼ばれる名所がある。標高百五十米の死火山だ。その外輪を越えると広い旧火口があってそこが国立の墓地になっている。その墓地は車でないと入園できない。しかも我々が許されるのは車内に留まって徐行するだけである。この場所は第一次、第二次大戦とヴェトナム戦争の太平洋における戦没者たちの墓所である。三万七千柱余りの墓標が整然と並んでいる。眠りを妨げない静謐さが人間たちのこの世での終わりを際立たせ、一つの厳粛な形で大きな額縁の中に納まっていた。 

 車は山道を登ってヌアヌ・パリに着く。オアフの脊梁山脈であるコオラウ山脈の峠だ。そこは名うての風の名所であった。駐車場からしばらく歩くとⅤ字状に切り立つ崖が左右に迫ってくる。見晴らし台に出る。コンクリートの手摺に立つと、島の北側の眺望が素晴らしい。眼下にゴルフ場やプランテーションや村落が展開し、その先に白く泡立つ海岸線が見える。そこは北から南へと風が抜ける狭い通り道になっている。まるで「天然のふいご」のようである。耳を聾するばかりの轟音と風圧の中で何かにしがみ付きたい気分になる。ガイドが前もって十分警告しているのに帽子を飛ばされる観光客が出てくる。あたりにはその悲鳴が響きわたっていた。

 宿舎のモアナ・サーフライダー・ホテルに戻った。夕食会までまだ時間があるので、夕べのひとときをバニヤン・テラスで過ごした。真珠湾やヌアヌ・パリとは別世界である。心地よい微風がそっと頬を撫ぜていく。

 翌日は早朝四時に起きてマラソンの出発地点に向う。このイベントは一万人を越す地元市民のボランティアーの献身的な運営に依って成り立っている。そのお蔭で毎年世界各地から、市民ランナーを吸い寄せる一大祭典となっている。そしてこのマラソン大会の基本精神と合言葉は、「アロハ・スピリット」つまり真心からの歓迎と人間愛なのである。

 我々は雲霞のようなランナーたちのスタートを見届けると、カピオラニ公園内の十キロ地点の標識まで戻ってきた。そこでは地元のボランティアーの人たちが、日本語で「頑張って、頑張って、大文夫!」と激励の掛け声を掛けていた。この大会の随所に心の触れ合いがあった。お互いに励まし合って走り、家族のように応援するのだ。最終のゴール地点では完走の悦びで涙を流すランナーたちの姿が見る人々の感動を呼んでいた。

 一九九五年(平成七年)十一月、再び仕事でハワイを訪れた。国際会議がカウアイ島で開かれた。その会議がスポンサーとなっていたゴルフトーナメントを引き続き観戦することになったのだ。それは四大ゴルフトーナメントの優勝者中の覇者を決める大会であり、夫婦同伴のイベントであった。 

 カウアイ島に入る前にホノルルで一泊して、前年のホノルル・マラソンの際にお世話になったC夫妻と会食をして、旧交を温めた。その夫人がマラソンの運営委員会の事務局長であった。彼らは中国系のハワイ人で、非常に気さくで親しみの持てる人たちである。何故か、是非自宅を見て欲しいというので、ちょっとの間立ち寄った。奥さんが家中案内して廻り、キッチンの大型冷蔵庫二台をご披露する。そして冷蔵庫の扉を大開きに開け放ち、如何に食料の買い置きが一杯詰まっているかを誇らしげに説明してその前で記念写真を撮るのだ。前年も全く同様な儀式に立ち合わせられたことを思い出した。

 旧満州や香港での経験を思い出す。商店の家族が食事をする際に態々埃っぽい店頭で食べ物を拡げるのだ。そして見せびらかしながら賑やかに食べていたのである。そのように日々の食事に不自由しないことをひけらかせるのはなんと幸せなことかという感慨を噛み締めているのだ。C夫人の場合も、中国人の血がそうさせるのであろう。移民当初の食うや食わずの苦しいマイノリティとしての生活の記憶は世代を超えて忘れ難い筈である。つまり「こんなにたくさん食料の蓄えがある」と他人に誇りたいというメンタリティなのだろうか。

 翌日カウアイ島に飛び、島の南端にあるポイプー湾のリゾートへ直行する。到着日夜リセプションが行われた。この年の四大トーナメントのチャンピオンたちの顔ぶれは、ペイヴィン、エルキントン、クレンショウ、デイリーであった。確か、各々全米プロ、全米オープン、マスターズ、全英オープンの順の優勝者たちだったと思う。デイリーはアルコール依存症という噂で、ドクターストップによりお酒の出る場所には出てこないという。残りの三人のプロたちは家族連れで現れた。ハワイの流儀で参加者全員がレイを掛けられて歓迎される。そしてフラダンサーズたちの踊りがパーティの雰囲気を盛り上げる。三人のプロたちは一人ずつ次々に呼び出されて、一緒にフラを踊らされたのである。彼らのファンに対するサービス精神は徹底していて、積極的に参加者を喜ばせたいと努力している姿が窺がわれた。それは翌朝の記者会見の席でも遺憾なく発揮された。 全米にテレビ放映される晴れがましい席なので、用意万端であったのだろう。インタビューに対する各プロのコメントは実に立派であった。なかには意地の悪い質問などもないではなかったが、ユーモアでさらりと交わす。彼らが常々一流の社会的存在としての自覚を持って自分を磨き上げていることがよく分かった。

 その日はプロ・アマの競技が行われたのだが、その運営方法にも感心した。十八ホールを四人のプロと一緒になんと六十人のアマチュアがプレーを行うのだ。所謂ショットガン方式の一種である。十八ホールのうち一番ホールと八番ホールの二箇所から十分毎にスタートする。アマチュアは五人が一組になって各ホールの第一打は全員が打ち、第二打以降は五人の中で一番良い打球を一つ選んでそこからまた全員が一斉に打っていくのである。プロは六人目としてアマチュアの一組に加わり六ホールその組と一緒にプレーした後に前の組に移っていく。アマチュアは各打毎に五人のベストショットを選択して、次打を打っていく。従って全体の進行が遅れることはない。アマチュアがプロと一緒にプレーできるのは、皆公平に六ホールずつである。

 我々はエルキントンと一緒にプレーをした。彼ははるか後ろのバックティから打つのであるがその打球は我々の頭上を越えてはるか遠い先に着地する。従って彼と一緒にプレーしているという感覚はあまりなかった。しかも同じ組の同伴プレーヤーたちは皆飛ばし屋で私はショートホール以外殆どチームに貢献する余地がなかった。

 一方ご夫人連中にはほかのコースでコンペが行われた。主催者側の役員が各組に入って世話をするうえに、トム・ワトソンが海越えのショートホールで待ちうけて個別指導をするサービスがあったそうだ。家内は幸運にもそのホールでワン・オンして、ワトソンから記念のボールを貰ってきた。以来ワトソンは彼女の一方的思い込みの「お友だち」ということになってしまった。 

 その夜の夕食会では主催者側の配慮でハワイの日系三世の人たちと同じテーブルに座った。当然のことであるが、彼らは血統こそ日本人の血が流れているものの、アメリカの風土で育ったアメリカ人なのである。感覚や関心の対象も極めてアメリカ的である。それに彼らからみれば、ハワイでは日本人の観光客が溢れているので物珍しさはさらさらない。最初のうちは多少外交的なやり取りはあったが、その後の会話がトンと続かないのだ。一方我々の方も相手が日系だと意識してしまうと、なんとなく普通のアメリカ人に対するのと違う相応しい話題がある筈だと逆に考え込んでしまう。かくして同じテーブルの中で自然に日系ハワイ人と日本人の二つのグループが分かれてしまうことになった。 

 翌日から二日間にわたって、愈々本番の四大チャンピオンの競技である。

 最初のホールで四人がティーオフする。印象的だったことといえば、一番飛距離の短いのがクレンショウで最も飛ばし屋がデイリーなのだが、その差がティーショットで七~八十ヤード位はあるのだ。ところが結果はデイリーがパーで、クレンショウがバーディだったりするのだ。飛ばし屋で利かん坊のようなデイリーには何故か熱狂的なファンが付いているようだった。上り坂のグリーンまで百七十五ヤード位の距離をピッチングで簡単に乗せてくると、ファンたちの喚声がしばらくは止まなかったほどである。

 我々夫婦は私の日本での仕事の関係で二日目の競技を見ずに帰国した。トーナメントの結果は後から聞いた。結局、二日間のトーナメントの勝者は、パッティングの名手であるクレンショウだったようである。

 カウアイ島を去るにあたり何となく未練が残った。三日間の滞在で、リュフェの空港からポイプー湾に直行してそこに籠りっきりだったからである。マウイ島滞在も同様だったが、あのときは最初から一部だけを下見する心算だったのでしようがなかったのだ。

 ゴルフが大好きの連中は到着の日に島の北端のプリンスヴィルのコースに遠征した。島内で一番の名門コースであり全米でもランキングの高いコースだからである。私と家内は手じかにあるという理由から、ポイプー最寄りのキアフナのコースでプレーすることにした。プリンスヴィルならば、往復に時間が掛かっても島の半周をドライブして島の様子を見ることができたのだと後になって悔やまれた。あるいはゴルフなど止めにしてあちこち見物して廻ることもできたのだ。そうしたら多少は予想外の発見があったかもしれない。このときまでは仕事上の必要でハワイを訪れたのであり、従って日程もお仕着せだったこともあった。要すればハワイは結構日本語が通ずる洒落た観光地で、日本の芸能人などがファッションのように休日を楽しむところだと多寡を括っていたことの咎めであった。その後いろいろ勉強する機会があって、もっと別な角度から見たり聞いたりしたいという興味が湧いてきた。もともとハワイという場所は西欧世界の視点に立った南海の楽園的なイメージが先行している。いうなればハワイのサニーサイドばかりではなく、一歩日陰の奥に入った目線で風土と人々を見たいと思うようになったのである。そう考えてみると、あまり行動の自由がなかったとはいうものの、もう少し違った時間の使い方があった筈だと後になって反省した次第である。

 帰国の際に、リュフェ空港で若い女性が我々を待ち受けてチェックインの手伝いをしてくれた。ポリネシア系の大柄な美人で、爽やかで愛らしい。彼女の態度には「アロハ」のホスピタリティが溢れていた。「カウアイ島に住んでいるのですか?」と尋ねると、「ビッグアイランドに住んでいます。今度のイベントのためにリクルートされて来ているのです」とニッコリと微笑んでくれた。そのビッグアイランドという言い方は初耳だったが、咄嗟にそれはハワイ島のことだと気がついた。ハワイ島がハワイ群島の中で一番大きな島だからだ。ハワイの八つの島は火山活動により生成されたものであるが、カウアイ島はそのうちで最初に生まれた島といわれている。その後に東南に向って次々と島が生まれ、群島の最南端にあるハワイ島が最後にできたのだ。そしてそのハワイ島の南部のキラウエア火山だけは現在も盛んに噴火活動をしている。 

 そんなわけで最古のカウアイ島はハワイの先住民族の古代の遺跡が多いところなのだ。                                          フラダンスは神々に捧げる宗教的な意味合いの行事だったという。本来は男だけが打楽器と掛け声に合わせて踊ったものだそうだ。ハワイの先住民族の信仰はもともと自然崇拝のアニミズムであり、神々と直接霊的に交流するシャーマニズムでもあった。そしてフラダンスは身体の啓発やスピリチュアルな成長を促すものであった。そのフラの聖地である神殿(ラカ・ヘイアウ)がこのカウアイ島に存在するそうだ。そこではアニミズムの伝統を反映し、自然の岩が聖なる祭壇になっているという。

 ポリネシア系の人々が信仰する四大男神の一つ、ロンゴ(ハワイではロノ神と呼ばれている)は農業や豊穣を司る神である。十一月に天空に現れるプレアデス星座(和名ではスバルである)の神である。このプレアデスはポリネシアでは最も大切な星座なのだ。毎年十一月に、ハワイのポリネシア系の人たちはロノ神が豊かな稔りを齎すのを祈念してお祭りをするという。ロノ神は何故か肌が白く、髭を生やしている。探検家のキャプテン・クックがハワイ島で、ハワイ人に襲われて死に至る負傷を受けた。その事件にはこのロノ神が関係しているという。白人が船で現れたのでいったんはこのロノ神の再来と信じて歓迎されたにも拘わらず、その夢を破ってしまったためという経緯があったそうである。キャプテン・クックの受難事件は歴史的な事実である。

 このロノ神の神話は古代メキシコの肌の白い神、ケッツアルコアトゥルや、古代ペルーのインカのピラコチャなどと類似している。どこからともなく現れて人間に知恵を授けてどこかヘと姿を消した神なのである。その故に異星人であったとも考える向きもある。 

 ハワイの神話では、最初にフラを踊ったのは火山の女神ペレの妹ラカだという。そしてそのラカは他ならぬ豊穣の神・ロノ神の妻なのである。従ってフラダンスの聖地はラカ・ヘイアウと呼ばれている。カウアイ島にワイルアという場所が東海岸の中央にあって、そのワイルア川の流域には多くの古い伝説や遺跡があるようだ。 

 原初的には男性の踊りであったフラは後に女性によっても行われるようになった。しかしその女性たちの踊りの装束は、まだハワイ王朝が命脈を保っていた十九世紀末期までは、上半身裸で腰蓑を着けただけだったという。それは豊穣つまり多産を齎す官能のエロスを暗示していて、しかもそれを大らかに歌い上げるものでもあった。腕や脚や腰の揺らめく動きと乳房のたゆたい自体が祈りのパントマイムであり、身体のチャクラ(経絡)にエネルギーの流れを促すものであったという。それだけにフラダンスを踊るためには男女を問わず厳しい資格審査を経なければならなかった。そのうえクムと呼ばれる神官に弟子入りして厳しい修練を積むことが要件だったのである。

 やがてハワイは白人たちの支配下に入っていくが、キリスト教の宣教師たちの倫理観と衝突してフラダンスはいったん禁止の憂き目に遭う。そしてそれが再び許されるにあたって、女性は西欧風のコスチュームを着用するという妥協が必要だったのである。

 さらに伝承の世界の話だが、現在のハワイの先住民族よりもっと昔に、ポリネシア最古の先住民族がいたという伝承が残っている。メネフネと呼ばれる黒人の小人族である。メネフネ或いはマナフナとは「秘密のチカラの一族」という意味だそうである。彼らが高度の技術や、一種のサイキック・パワーを持っていたからだとされるのである。そのうえ彼らはプレアデス星座からやってきた異星人だという説まである。これはムー大陸の伝説に繋がっている。このメネフネたちは或る時代に純血維持の必要に目覚めるに至り、突然その行く先も知らさずにカウアイ島の北端から姿を消したのだそうだ。カウアイ島にはこのメネフネが築造したといわれる養魚場の遺跡も現存している。(サージ・カヒリ・キング著、「ハワイアン・ヒーリング」による)

 これらの伝承はあくまで神話的なもので、勿論考古学的な検証の裏付けがあるわけではない。ただポリネシア各地にこの神話は伝えられている。ロノ神やケッツアルコアトゥルなどの神話と共通の構造が感じられる。そしてポリネシアの宇宙観やその哲学に含まれる人間観(特に人間の心の構造に関する考え方、つまり人間の心は顕在意識と潜在意識とハイヤーセルフといわれる宇宙的な魂があるとする)や、その考え方の基盤に立脚した人間の心と身体の癒しの技術には、未開時代の迷信だといって笑い飛ばすことのできないような、今日でも立派に通用する洞察を含むものと感じさせられる。

 ポリネシア・トライアングル(ハワイ群島・ニュージーランド・イースター島)の頂点の場所に位置するハワイには、古代からの歴史のロマンが潜んでいる。カウアイ島へいつかゆっくり再訪してみたいと今は思う。そしてハワイの伝統文化の中に分け入ってみたい。観光客用にアレンジされたフラではなく、TVの映像では見たことがある「カヒコ」という本物のフラも見てみたい。

 (了)


最近の気象変動について

2013-08-08 14:02:08 | ☆ 『魂』と超常現象

 本稿は前回の投稿の続編である。自然災害は今や世界的な現象である。偏西風が蛇行していることが原因とされ、それには地球温暖化が関係しているともいわれる。しかしそれで全部が説明されているとは言えない気がしてならない。身近な我が国に起きたことに着目してみると、集中豪雨による洪水があると思えば、隣り合わせの地域に渇水があって、水不足があるというように『分裂』的な現象を感じてしまう。

 論理の飛躍だと受け取られるかもしれないが、前に『2012問題』 で述べた(2012-06-22、投稿)この世界の分裂(パラレル世界の出現)が、2012年以降に起きると述べたことを連想してしまうのである。我が国では東北大震災を契機とした助け合いや、ボランティア活動の盛行が見られる一方で同時に、お年寄りを狙った振り込め詐欺の増加傾向が収まらない、という現実ががある。

 宗教的な信条がベースにある対立となると深刻である。イスラム世界と非イスラム世界の対立、あるいはイスラム世界内部での対立(ソンニ派とシーア派)が様々な悲劇を生む。これは世界の今日的な課題である。信仰は人間を救済するものであるが、伽藍に入った信仰は人々を争いに駆り立てることがある。

 われわれ人類はどこに行こうとしているのであろうか。それとも我々は同時に別々の世界に生きなければならないのだろうか?                                                                                                                                                                     


再登場

2013-08-06 17:32:26 | ☆ 『魂』と超常現象

 昨年の夏以来、新規投稿をお休みしていた。最後の投稿が2012年8月11日だったからほぼ一年間休んだことになる。2012-05-19 に『最近の気候』と題したコメントを載せた。それは2012-06-22 に投稿した『2012年問題』の伏線であった。この両方を読み合わせて頂ければ最近起きている異常気象に関する筆者の認識がみえてくる筈である。筆者はスピリチュアルの世界で言われている『2012年問題』を確信しているという訳ではないが、現実に起きている我が国のみならず世界各地の状況を見ると、だんだん裏付けが増えてくるような気もする。いずれ改めてこの問題に触れたいと思っている。


ホール・インワンの光と影

2012-08-11 14:22:28 |  ゴルフ紀行 (風土と文化)

ホール・インワンの光と影

 これはあるゴルフクラブの会報に寄稿したものに、若干の訂正・加筆をした文章である。

 ホール・インワンをこの目で見たのは、かれこれ20年ほど前のことである。約150ヤード先のティーグラウンドは逆光と背景の木立のせいでやや黒ずんで見えた。
 プレイヤーの動作を捉えようと目を凝らした瞬間に、打ち出された白球に視線がピタリと合ったのである。白い光の空にボールが打ち出された。ボールは重みに耐えかねたように、放物線を描いてグーンと目前に迫ってくる。ボールは一瞬視界から消えたと見るや、ボターンという質量感のある音とともに、ピンの7~8メートル手前のグリーン上に落下して、スライス・ラインを描いてカップに消えた。
 先行組の我々が拍手をしながら迎えているのに、気持ちが舞い上がってしまった、当の若いプレイヤーは友人たちとはしゃぎ廻っていて、我々には目もくれずにいる。そのまま一言の答礼もないのには興ざめだった。
演じた人間の非礼はともかく、ホール・インワンしたボールの描いた線はまるで奇跡のように美しく脳裏に焼き付いて、違う意思の仕業かと思わせるものがあった。

 ところでホール・インワンの快挙を祝う流儀にもいろいろお国柄がある。
 その昔シンガポールで経験したさわやかな体験がある。プレイが終わって冷たい飲み物で寛いでいたときのことである。『ミスター誰それが、X番ホールでエースの快挙を成し遂げました。今食堂においでの皆様にお飲み物を振る舞いたいとの申し出がございました。ご本人に対する心からのお祝いの気持ちを込めてご紹介申し上げます』とのアナウンスがあり、期せずして拍手と歓声が沸きあった。
 家族連れで賑わう休日の食堂は、華やいだ気分で盛り上がった。飲み物の伝票に本人のサインをもらいがてら、ヒーローに握手と祝福をする人々の列ができた。開け放たれた戸から、南国の午後の風が爽やかに吹き抜けていった。

 ホール・インワンを巡る話では、台湾で経験したミステリヤスな事件がある。これは、ゴルフ紀行・その2 事件は霧の中で起きたで書いたので省略する。ホール・インワンがもたらす恩寵にもいろいろあるという話である。

 我が国ではホール・インワンのお祝いを派手にやるという点では、他国に絶対引けを取らない。それで時には笑えない悲喜劇が起きることもある。海外出張中に、保険の期日が到来することには気が付いていたが、その延長を仕損なった人がいる。帰国後すぐやればいいと多寡を括ったのである。ところが週末に帰国して、ゴルフ大会に出た。そこでホール・インワンをやってしまったのである。参加者も大勢だったので、大変な物入りを蒙ることになった。保険会社の友人に頼まれて入った保険なので、何とかバックデイトで延長をと頼んだが、それだけはと断られたという。

 さて次は私自身のホール・インワンの経験の話だ。場所は大日向カントリークラブ、時は約20年以上も前のことである。
 ある先輩がお祝い状をくれた。『ホール・インワンの快挙おめでとう。私自身の経験から申すと、これから半年ぐらいは、ショートホールにやってくるとまた入り相な気分になる筈です』本当にその言葉通り、しばらくはショートホールに来るといつもそんな気分になった。

 でもそもそもそれが実際に起きたときは、身構えるすべもないと突然の出来事だった。中学時代の同級生とのゴルフだった。しかも高速道路で事故渋滞に合って遅刻するという最悪のスタートの日だった。
 ホール・インワンはその直後の2番ホールで起きた。『お友達ゲーム』というのをやっていて、相方の第1打者がピン4~5メートルに寄せた。第2打者の私が、よしそれならばと、勢い込んで打った球が入ってしまったのである。
 ピンに絡んで行くなとは思ったが、ボールが消えるほんの一瞬の残像は、靄がかかったようでやや頼りなく、コトーンという音だけがやけにはっきりと耳に残った。

 さて事後の処理はやはり語るに落ちるというか、人並みのことになってしまった。
 同伴の悪友たちに宴席をたかられた。また長いゴルフ暦の間に一緒にプレイしたことのある方々に記念の時計をお送りした。加えて、ゴルフ・ウィドウの家内へハーフ。セットのゴルフクラブを送ることを忘れなかった。
 もしかすると、平素の不義理を幾分なりとも埋め合わせさせようというのが、ゴルフの神様のご託宣だったのかもしれない。(了)


ゴルフ紀行・16 トルコ---「もののふ」の夢とうつつ---

2012-07-19 13:18:21 | トルコ

ゴルフ紀行・16 トルコ---「もののふ」の夢とうつつ---

 トルコには1978年(昭和53年)から1980年(昭和55年)にかけ仕事で5回訪れた。イランに駐在していた時期である。イランでホメイニ革命に遭遇していた頃の話だ。従って約32年前のことになる。それから16年後の1996年(平成8年)にも一度訪れた。
 トルコでゴルフをしたのはその最後の旅の時である。その最後の旅の話から始めたいと思う。モロッコ旅行の途中にトルコに立ち寄ったのである。これが6回目で、最後のトルコへの旅となる。動機はそれまで見残していた黒海を見るのと、金角湾の奥深い終点が見たかったのである。
 パリ経由でイスタンブールの西のリゾート地、シルヴリのクラシスホテルに着いたのは夜更けであった。タクシー代を聞いて一瞬耳を疑った。2百万リラだというのだ。頭の中で算盤を弾いてみる。円に直すと約3,000円である。これなら不当ではないと気が付いた。
 インフレが酷いとは聞いてはいたが、16年も経つと貨幣の単位もこんなに莫大になるものかと、今更ながら驚いた。

 翌朝、ホテル付属のゴルフコースでラウンドをする。キャディの付かないセルフ・プレーだといわれて一寸がっかりした。外国旅行でゴルフをするのには理由がある。ゴルフ場ではその土地の風土に触れることができる。それ以上にキャディと いう人種と触れ合うことができる。それが中々貴重な体験だからである。海外旅行でその機会を奪われたのは最初にして最後の経験だった。

 コース内には殆ど立ち木がない。時々マルマラ海がすばらしい背景になってくれるが、起伏のあるスロープはあるが全体としてはやや殺風景な感じのする造りである。
 平日なのでほかにプレーする客はチラホラ見えるだけである。一人でカートを引っ張って黙々とボールを打っては歩く。何か勿体ない気がして、途中からボールを2個ずつ打ってプレーをした。親子連れらしいトルコ人がパスさせてくれという。 ゴルフの常識では、一人ではコースを占拠する権利がないので、パスさせるのは当然である。彼らはその次のホールは省略したようだ。順序を無視しながら、縦横無尽に思いついたホールでプレーしているようだった。それが騎馬民族風のやり方なのだろうか。
 かつてこの丘を祖先の騎馬姿の「もののふ」たちが喚声を上げて走り回ったのだろうなどと想像する。コースが空いているのでまだ午前の早い時間なのに1ラウンドのプレーを終えた。殺風景なコースであったのと、キャディという人間的な要素を欠いているせいで、ゴルフ紀行というには内容の乏しいものとなった。しかしトルコという土地には、豊富すぎるぐらいの多彩な魅力が溢れている。幣著『紀行・イスラムとヒンドゥーの国々を巡って』トルコ編から抜粋した記述をその埋め合わせとして、紹介したい。(http://www.ikedam.com

 午後からは、チャーターした車で黒海を見に出かけた。海峡沿いのルートでなく金角湾の西側の沿岸を北上した。ボスフォラス海峡と金角湾の入り口に立つと、この先をドンドン行けば、どういうところに行き着くのだろうと気持ちをそそられる。
 16年前に官民中東会議でボスフォラス海峡めぐりをした時に、黒海のすぐ近くまで行きながらなぜ途中で引き返してしまうのだろうと残念でならなかった。一方金角湾は地図で見ると人間の腸のように約7キロ内陸へ伸びており終点に細い川らしいのが流れ込んでいるようだ。地元の人たちは「ハリチ」と呼んでいるらしい。水路とか運河という意味である。
 『この奥にはたいしたものはないよ』と土地の人に言われたことがあった。しかし何か見極めてみたくなるのである。少年時代の「探検」渇望を呼び覚ます何かがあるのだろうか。
 途中でエユップという場所のモスクに立ち寄る。観光客のあまり行かない場所であるが、地元の敬虔なイスラム教徒がよく訪れるという。靴を脱いでモスクの中に入る。土曜日なので家族連れが多い。軍服のような白い正装に青いマント姿の少年を取り囲んで家族が華やいでもてはやしている。聞くと割礼の儀式を終えたばかりの少年だという。少年の肌は抜けるように白く、貴公子のようだった。そして「もののふ」の末裔の血がそうさせるのか、きりっとした自覚らしいものを表情に漂わせていた。

 
 黒海に近づくにつれて道幅が狭くなる。松の疎林や鄙びたを通り抜け丘を上がる。粗末な食堂やチャイハネ(茶屋)がパラパラと並んでいる。何の変哲もない寒村である。そして憧れの海はボーっとかすんで前方に横たわっている。海岸に降りる道も見当たらない。これはくるべき箇所を間違えたと思ったが、今となってはもう遅い。昼食の時間をとっくに過ぎていて、ガイドが空腹で落ち着かないのかあたりをきょろきょろ見回している。ただ黒海に連れて行けというだけで何の注文や仕掛けも設けなかったのが迂闊だった。こちらの思い入れなど知る由もない彼を責めてもしようがないのだ。
 これなら最初から空路でトラブゾン辺りまで飛んで見ればよかったと、今更のように悔やむ。フォーサイスのシージャックの話し『悪魔の選択』はこの黒海の港町トラブゾンから始まったのだ。
 
 昼食を済ませ帰りの時間も気になるので一路金角湾の方へと取って返す。しばらく車に揺られて走ると町らしい場所にやってきた。茶色の屋根が重なり合う狭い路地の坂を降りて行くと、前方に湿地か浅い池のようなものが見えた。ここがそれだと、ガイドが言うのである。金角湾口の反対側から来たので不意を突かれた気がしたが、つまりここが金角湾の行き止まりだったのである。『川はどこにあるの?』と聞くと彼は首を傾げるだけである。今降りてきた坂道に添って生活用水の排水路がチョロチョロとその先の水溜りに向かって流れているといえば、いるのだ。
 かくして我が幻想は、きわめて散文的な結末で終わったのである。

 我がガイド氏は明らかに拍子抜けしたような客人の表情を盗み見てここで突然案内役としての役割を自覚したようだ。この近くに見晴らしの良いところがあるからぜひそこに案内したいと言うのである。そこは金角湾を見下ろす小高い丘の上のチャイハネ(茶屋)だった。葉の生い茂る木立のあちこちに野外のベンチが置いてあり涼をとる人たちで賑わっていた。
 ここが有名なピエール・ロテイのカフェであった。その場所は東南から切れ込んできた入り江が終点を迎える直前に東北に跳ねて果てる地点で、カフェはその西岸に位置していた。
 そこからは特に湾口の市街地の方に向かう見晴らしが格別なのである。イスタンブールをこよなく愛した20世紀初頭のフランスの文人ピエール・ロテイがよく通ったという。このカフェから遙か彼方で繰り広げられるオスマン帝国の最後を、静かに眺めていたのだろう。物の形は明るい方から見るよりは日陰から見たほうがよく見える。物事の本当の姿をみるのも同じことだと思える。
 やはり入り江の奥には何かがあったのである。

 翌日、次の目的地モロッコへ向かう。機内の窓越しに、ダーダルネス海峡が見える。あれはもしかすると、トロイの遺跡だろうか? またいつの日か、きっとこの地に戻ってくるだろうという思いがそのとき脳裏をよぎった。しかしその思いはまだ 実現していない。
                    
 さてこれからは、上記最後のトルコへの旅からは時代が遡る。1978年(昭和53年)から1980年(昭和55年)にかけてのイラン駐在時代に見たトルコの話の抜粋である。
 1978年(昭和53年)の春にイランで革命の胎動が始まったが、パーレビ皇帝の治世は秋口までは何とか命脈を保っていた。その頃はテヘランからトルコの首都アンカラへはイラン航空の直行便が運航していた。トルコとイランの国境近くには5,000メートルを越えるアララット山が聳えている。初めてアンカラへ飛んだとき、機上から見る国境地帯は真綿を敷き詰めたような雲海に覆われていたが、このアララット山は頂上部分を雲海から突き出してその存在を示していた。
 旧約聖書にでてくるノアの箱舟はこのアララット山に流れ着いたとされている。頂上の付近に木製の構造物らしいものが発見されたというニュースが当時話題を賑わしていた。人工衛星からの探査でその構造物が聖書の時代に遡る程古いものだと推定されるという。国際的な資金協力により探検隊を派遣する話が纏まりかけていた。ところが表層雪崩が起きてその構造物の露頭が失われ、その計画が中止になったと報じられたばかりであった。
 トルコへの最初の旅は最初から人類の遠い歴史を思い起こさせた。それと同時に現代の技術進歩の目覚しさを実感させるものとなった。
 アンカラはトルコ第二の都市だ。小アジア半島の中央からやや西寄りのアナトリア高原に位置している。アンカラは空から見ると赤茶色の甍がうねる丘陵の街であった。
 最近は高層ビルの数も増え近代的な都市として整備されてきたそうだ。当時は官公庁や議事堂や外国公館などがあって首都としての体裁はあるものの、地方小都市という感じが否めなかった。出張者が泊まれるホテルもケント・ホテルが唯一の場所だった。ローマ時代の浴場・神殿・城砦などが残っていて歴史の跡をとどめている。
 さらに古くはヒッタイトの時代があったがもっぱら考古学博物館のなかに生きている。三千数百年前にこの地方に栄えたヒッタイトは小アジアに現れた最古のインドヨーロッパ語族であるとされており、すぐれた鉄器文明で近隣地域を圧倒した。
 アンカラの博物館は世界史の宝庫であった。とくに紀元前17世紀から13世紀までの、ヒッタイト時代の巨大な石像や楔形の文字版などが豊富に展示されている。歴史の教科書の写真で見たことがある遺産の実物がそこにあった。
 アンカラではトルコ近代化の父アタチュルクの銅像が目立つ。西南の丘にはその霊廟があり東北の丘に位置するローマ時代の城砦と対峙している。アタチュルクはオスマン王朝に止めを刺して革命を成就した後に1923年にアンカラを首都に定めた。政教分離政策によってこの国の近代化を計るために、あえて古来政教の中心地であったイスタンブールと決別して新天地を開こうとしたに違いない。彼は一夫多妻制・イスラム法廷・イスラム暦など社会に残るもろもろの宗教システムを廃止した。教育の改革を行って表記法としてアルファベットを採用した。またトルコ帽や女性のヴェール着用の禁止等の文化・生活面の改革も行ったのである。

 週末を利用して、カッパドキヤ地方に一泊旅行をした。
 トルコはこの当時対外収支バランスに破綻をきたして、日本を含む諸外国からの金融債務や貿易債務の決済に大幅な遅延が生じていた。対外債務の支払期限の延長などの、所謂リスケジュールが国際的な問題となっていた。しかしそれは公的な経済の話である。ドイツに出稼ぎに出ているトルコ人の外貨資産も数十億ドルといわれ、その他国内からの海外への資産逃避もかなりあったと思われる。それに実体経済の面では、密輸などの地下経済の割合も大きく、トルコ人の日常生活はあまり困っている様子はなかった。とりわけ食料の面では自給能力はおろか輸出余力の捌け口を求めているくらいであった。農村を旅していると、その豊かさが実感できた。収穫した麦を満載した馬車がゆったりと田舎道を行く牧歌的な 風景があちこちに見られ、市場は豊富な果物や野菜類や生活用品等で溢れていた。

 アヴァノス村の粗末なホテルに投宿した。ヒッタイト・デザインの焼き物で有名な場所である。夜明け前にベッドの中の耳元で突然大音響がして、飛び起きてしまった。部屋の窓を開けると、すぐ目前にモスクの塔が迫っている。拡声器が早朝のアザーン(礼拝の呼掛け)を流していたのである。外来の客にとってはまさに不意打ちであった。イスラムの教えは土地の人々の生活に深く根ざしているのである。日常の人間の営みがどのように始まるのかを厳しく教えられたような気がした。

 私がトルコに出入りしていた当時は何年かに一度、中東官民会議なるものが開催されていた。1978年(昭和53年)の夏にその会議がイスタンブールで開催された。在外公館と日系民間企業の代表者が集って中東全域についての情報交換を行うのだ。私もトルコでの仕事の予定と日程を合わせて、この会議に参加した。

 イランでは革命の動きが日に日に激しさを増していた。軍隊が街頭の群集デモに発砲して多数の死傷者が出るようになったので、緊張感を持って会議に参加した。しかしサウデイ・アラビアに駐在する人から外国人が平時でもいかに緊張感をもって生活しているかという話を聞いた。中東はいずこも現実の厳しさは同じだと思った。その事情とは運転手が突然姿を消して一週間音信不通になってしまったことであった。その間移動の手段を奪われて全く身動きができなかったという。    外人労働者である運転手がパスポートの携帯を怠っていて検問に引っかかった。その儘留置所に入れられて一週間放置されたという話だった。

 トルコは対外債務が払えず四苦八苦の筈なのに、表面は平和そのものという感じであった。トルコ人の大好きな輸入品のコーヒーはホテルのコーヒーハウスでふんだんに飲むことができた。長い鶴の嘴のようなポットで、ボーイが曲芸のようにコーヒーの水柱をカップに注ぎ込んでくれる。それが物珍しかった。
 会議の最終の週末にボスフォラス海峡のクルーズがあった。
 イスタンブールは海峡の町である。ボスフォラス海峡を跨いでヨーロッパ側とアジア側に分かれる。ヨーロッパ側はさらに金角湾で新市街と旧市街に別れている。金角湾はまるでボスフォラス海峡と競うような深い入り江だ。ボスフォラス海峡と金角湾の開口部が隣り合わせになってマルマラ海に面している。そこがイスタンブールの入り口である。
 群青色の海と空、それが沿岸の薄茶色と白の街並に美しい対照を見せている。風景を支配するのは、ジャーミー(回教寺院)の灰色のドームと、尖った鉛筆のようなミナーレ(尖塔)だ。ミナーレは街の随所に立ち目立つ存在だ。特に夕暮れ時のミナーレのシルエットはなんとなく憂いを含んでいて美しい。
                 
 クルーズのガイド役を務めてくれたのは老齢のトルコ婦人であった。戦前の神戸に永年住み神戸の女学校を出た人だそうだ。故国には戦後引揚げてきたという。その婦人の古風であるが上品で美しい日本語に心を打たれた。戦前の我々は かくも美しい日本語を使っていたということを思い知らされた。その感慨がまるでタイムカプセルを開けた瞬間の驚きのように襲ってきたのである。
 
 トルコ人は親日的であるといわれる。永年ロシアに圧迫され続けてきたので、日露戦争で日本がロシアを破ったとき国民を上げて大いに溜飲を下げたといわれる。またトルコは、尚武の国だ。男の子が生まれると日露戦争の英雄の東郷元帥にちなんで「トーゴー」というミドルネームをつけるのが流行ったそうである。
 そればかりではない。トルコ人はウラルアルタイ語族でその言語の基本構造は日本語と共通点が多い。トルコ族の発祥の地はバイカル湖の南だ。3世紀頃から1700年をかけて西へ西へと移動してきたのである。従って日本企業の駐在員はトルコ語に熟達するのがとても早いそうである。同じウラルアルタイ語族のモンゴル出身のお相撲さんが短期間で日本人と区別のつかないほど流暢な日本語を話すのと似ている。
 トルコでは男の人を呼ぶ場合に日常的に名前にベーをつけて呼ぶ。ファーストネームが「アクバル」だとすると、「アクバルベー」と呼ぶのである。これは昔の日本で「太郎兵衛」とか「杢兵衛」という呼称を使ったのと共通するものがある。さらに 日本語で「山のてっぺん」とか「頭のてっぺん」とか言うのと全く同じ用法で、トルコ語で「テッペ」という言葉が使われる。このような例は枚挙にいとまがない。
 トルコ人は永い年月をかけて混血が進んできた。今日その結果として人類学的に見てこれがトルコ人の顔という特徴はないといわれている。むしろ民族のアイデンティティは言語である。原初的にはトルコ族の信仰はわが国やお隣の韓国と同じツングース系の常としてアニミズム・シャーマニズムであった。それがセルジューク族やオスマン族が西アジアや小アジアへ浸透していくに従って、イスラムを受け入れた。しかし民族のアイデンティティとしてのトルコ語を墨守したのである。
 
 イスタンブールの街角でみるトルコの若い女性はイスラムの伝統的服装から解放されて、白いブラウスに豊かな胸を包んで堂々と闊歩している。最近はどうなったかは知らないが、彼女たちはブラジャーをする習慣がないらしい。薄桃色の蕾が透けて見えてしまうので、目のやり場に困ることが多かった。しかもトルコの女性は割合に小柄でぽっちゃりした白い肌をしている。日本人の好みに合うのである。ある独身の商社員が告白してくれた。『正直言って、こちらの女性を好きになり、自分の感情を殺すのに苦労しました。冷静に考えてみれば結婚するとなるとどうしてもうまく行かないだろうと思ってここ一番と自制心を発揮したのです』。実はそのうまく行かない理由は食生活の相違であった。
 私はいろいろな国を旅行する際、なるべく土地の人たちの日常食べているものを食べることにしている。イスタンブールでも土地に詳しい人に案内してもらって地元の人たちしか行かない大衆食堂で何回か食事をした。最初の1-2回は、結構おいしいじゃないかと思うのである。ところが回数を重ねるにつれてとても胸につかえて耐えられなくなった。とにかく何でもオリーブの油をふんだんに使うのである。例えば新鮮な野菜を補給したくて野菜サラダを注文するとする。トマトやサラダ菜やピーマン等は実に新鮮なのだが、それがオリーブ油の中にザブザブ浸かって出てくるのである。
 新鮮な魚に乏しいイランから出て行くと、イスタンブールでおいしい魚をたらふく食べられるという期待に胸も躍るものだ。ところがオリーブ油でぎらぎら煮立てた大皿が出てくると、次から魚を注文する勇気がなくなってしまうのであった。でも魚を食べたい一心が知恵を生んだ。次からはスーツケースにキッコーマンの小瓶を忍ばせていくことにした。
 『とにかく一切調味料や油を使わないで焼いてくれ!』と注文する。作戦は見事成功した。何人かの物見高い男たちが我々のテーブルを覗き込んでくる。試食させてみるとお世辞もあるのか『おいしい、おいしい』と言ってはくれた。人はそれぞれの育った環境を引きずって歩いている。あのオリーブ油の匂いと味が平気になるのには、トルコの風土に永年住む以外はないだろう。
 
 イスタンブールは東洋と西洋の境目の街といわれる。
 この町を征服してその主となったオスマン王朝のスルタンたちは、ボスフォラス海峡と金角湾を見下ろす丘の上で政事を執り行い生活した。諸国の使節たちが船で訪れるときに礼砲を打つ砲台があったので、トプカプ(砲台)宮殿と呼ばれるようになった。
 
 19世紀の半ばを過ぎると、スルタンたちはボスフォラス海峡に面したドルマバフチェ宮殿に移った。海峡の船着場がそのまま宮殿の門になっている。洋風でやたらに華美を尽くした外観が目を惹く。しかし古風で風格のあるトプカプのほうがずっと好感が持てるのである。
 トプカプ宮殿は現在博物館になっていて、かつて大厨房だった場所が宝物殿になっている。そこに数々の宝石類や献上品が展示されている。古伊万里の壺の大コレクションも展示されている。公的な場所の隣にはハーレムがある。ハーレムはスルタンの居住地域だ。印象に残ったのがスルタンの大宴会場と女官たちの区域だった。前者では豪華な宴会の風景が彷彿と浮かんできた。玉座は中央のフロアから一段と高い場所にあり4人の正妻や20人の妾などの席が回廊に巡らされていた。列席する重臣や宦官たちの姿も見える。多数の女奴隷たちは宦官が仕切っていたのだろう。フロアでは悩ましい旋律が奏でられベリ-ダンスが踊られている。スルタンが扇で「あの女」などと指し示して今夜のお伽をご指名したのであろうか?
 後者ではその決して安らかでない運命の陰鬱さを思ってしまった。側女たちの居住地域は2階建てで石畳のパテイオもあるが、列柱のある回廊は心なしか暗い空間だった。彼女たちは不幸にして「死者の門」をくぐれば、ここから解放される。 さもなければ、一生の間ここから外の世界へ出ることはなかったと案内人はいう。
 
 1980年(昭和55年)のことである。駐在地のイランは前年十一月の米国大使館占拠事件が端緒となって、日本を含む西欧諸国の経済制裁を受けていた。トルコは対外債務の重圧に耐えかねて、リスケジュールの交渉の最中であった。当時はもうイランからトルコへの直通便がない。いちいちヨーロッパの第三国を経由して出入りしなければならなかった。経由地を選べば、ヨーロッパのいろいろな都市を見ることができるのは悪くなかった。
 
 その年(1980年)の九月にイランとイラクの戦争が勃発した。イランが経済封鎖に悩んでいるときの弱みに付け込んで、イラクが攻撃を仕掛けたのだ。戦争の表向きの理由は両国国境を流れるシャット・アル・アラブ川の国境線の引き方を巡る争いであった。しかし本当の狙いはイランのシーア派の革命がイラクへ輸出されるのを防ぐことであった。そのためにイランのホメイニ体制を叩くことにあったと思われる。イラクではシーア派が人口の過半数を占めている。それなのに政権を握っているのはホセインのソンニ派で、シーア派の人たちは下層階級として虐げられていた。ホメイニの革命が成功して以来、イラク国内でシーア派の暴動が頻発していたといわれる。

 情勢がきな臭くなってきていたので、もし空港が閉鎖になるような事態になれば陸路のトルコ経由で脱出するほかはないと、事前の調査を怠らなかった。アフガニスタン経由はそこが戦乱の地で問題にならない。カスピ海からソ連経由で出国する手はあるが、これは日本とソ連の外交交渉が前提となりなかなか実現にこぎつけるまで時間がかかるだろう。果たせるかな、ソ連大使館にヴィザ発給を問い合わせてみたが「明日来い」の繰り返しで埒があかない。とりあえず二週間後の十月初めまで情勢を見届けることにして、トルコ経由のヨーロッパ行き長距離定期バスを予約しておいた。
 トルコ経由も決して安全とはいえないのである。ちょうどその2年前の革命騒ぎのときと同じ状況があった。空路が満杯なのと、持ち出せる荷物に限りがある。イラン人たちはこのヨーロッパ定期便に殺到したのである。数ヶ月して年末近くになり、この路線のトルコ側に山賊が出没して被害が続出したのである。
                   
 テヘランの事務所のわが忠実なる運転手の父親はトレーラーの運転手でトルコ国境に近い工業都市のタブリーズに住んでいた。しょっちゅう国境を行き来しているという。その父親の情報によれば、いまは軍隊の検問もしばしばあり大丈夫だろう。しかし大丈夫なのはここ3-4週間でその先は保証できないというのである。
 戦争の勃発はテヘラン空港の爆撃で始まった。私は駐在員脱出第1号になった訳であるが、実は十月上旬の東京の会議に招集されていた。そればかりでなくイラクの爆撃であちこちの精油所がやられガソリンや暖房油が不足し始めた。十月の帰国で夏物の衣料を冬物と取り替えるつもりだったのでテヘランの厳しい冬を越す自信がなかったのだ。 ガソリンスタンドにはどこでも長蛇の列ができた。暖房用の灯油を供給するタンクローリーを頼んでも中々やって来ないし値段が暴騰し始めた。セントラルヒーテイングが動かないと風呂も使えないのである。
 あるメーカの社長が偶々テヘランに来ていたがトルコ経由で脱出した。アジア研究所の出張者も無事脱出したと報じられた。現状に関する限り、結果としては国境の情報は裏づけができたので脱出を決行することにしたのである。勿論大使館の参事官には事前に状況判断を報告し、途中の実情等をロンドンからテレックスすることにした。

 ケン・フォレットの『鷲の翼に乗って』という本がある。イラン革命の最終段階のときにどさくさに紛れて捕らわれの身だった米人2名を救出してトルコ国境から脱出させた話だ。事実を忠実に再現した実録である。この作戦を指揮したのが 後年 アメリカの大統領選挙に出馬したロス・フェロウである。彼は自分がオーナーをしている会社の幹部社員を自力で救うために特殊部隊を雇って訓練しイランに潜入させたのである。
 アメリカの大統領だったカーターからイランのパーレビ(皇帝)に直通電話を入れ善処を依頼したが、情勢はパーレビの力では手が付けられないところまで悪化していたからであった。
 この本は1983年(昭和58年)に出版されたので、その当時はこの脱出劇を知る由もなかった。勿論脱出の経緯や取り巻く状況も異なる。ただイラン・イラク戦争時の私の脱出と同様に危険を侵してトルコを経由したことと、その経路も中間点のザンジャンという町までは同じ経路をとったことが共通だった。それだけに後年回想して、身近に感ずる事件だった。
 
 さて私は「鷲の翼」ならぬヨーロッパ行き定期バスで脱出したのであるが、そのバスはテヘラン飛行場の近くにあるターミナルを夕方の6時に出発した。間の悪いことに、時間待ちをしている時に空襲警報が鳴って群集が一時どよめいた。しか し6時に出発するバスを簡単に放棄するわけには行かない。状況を見ながら様子を見ることにした。実をいえば、開戦後の約二週間の経験と猛勉強のお蔭で、すこし賢くなっていたのである。
 毎夜、警報が鳴る。暫らくすると猛烈な滞空ミサイルの音が鳴り響く。ところがイラク機の爆音が全然聞こえてこない。そして実際に爆弾が落ちてくることもなかったのである。初日のテヘラン空港爆撃は、恐らくミグ19型戦闘機数機が捨身の ヒット・アンド・アウェイ攻撃を仕掛けてきたもののようだ。イラクが保有するソ連製攻撃機の種類と航続距離からいって、イラクの基地から800キロ以上離れたテヘランに有効な攻撃をするのは難しかったようである。中距離爆撃の能力がある ツポレフ攻撃機数機がテヘラン上空に現れたことがあると報じられたがそれには気が付かなかった。それでもイラク機が国境を越えて侵攻すると、時間を見計らいテヘランで対空ミサイルの示威発射をするのだというのがもっぱらの観測だった。

 我々約50名の乗客を乗せたバスは灯火管制で真っ暗闇な街道を無灯火で進む。
 外国人は私一人とパキスタン人一人だけである。私は不測の事態に備えるために国境に近いタブリーズの町まで我が事務所の運転手を同行させた。東京の役員会はこの脱出について現地判断を尊重して許可してくれた。しかし一番偉い方が「ヘルメット着用のこと」という条件をつけたのである。この親心を無碍に無視することもできず、このヘルメットは運転手君の膝の上にチョコンと鎮座していた。北部の工業都市タブリーズは毎日のようにイラクの空襲に晒されていた。明るく視界が確保できる時間はイラク機の攻撃の危険がある。出発後に約630キロ走って、タブリーズに早朝の4時に到着した。国境のバザルガンまではまだ270キロあまりの行程である。運転主君はタブリーズに残り、私が無事に国境を通過したことをまず確認する。そしてテヘラン経由で、東京へ連絡する役目であった。彼と彼の父親がバスの傍らで見送っていた。二人の表情がほの暗い明かりに照らし出されたのを見てよく似た親子だと思った。

 国境の検問所に着いたのは午前10時半だったが、通関と入管を済ませて無事トルコ側の土を踏むことができたのがなんと夕暮れが迫る頃だった。検問所に数十台のバスが殺到したのに、検問所の体制が平時のままであったためである。 それになぜかイラン側の荷物の検査のやりかたが、念入りを通り越して執拗を極めたのである。
 アララット山が夕暮れ時の茜色に染まる空を背景に聳え立って、雲海の上から見たときより美しかった。富士山に似ているがその瘤は富士山よりずっと大きい。
 今では人類の発祥の地はアフリカであるということになったが、過去においては、このアナトリアが人類の故郷であるという説が唱えられたこともある。アララット山は幾多の民族の戦いや、その興亡を見てきたに違いない。トルコとイラン、イラクに領土が分割され、自分の国を持つことができないクルド人を襲った様々の悲劇を見たであろう。また今世紀の初頭にトルコ軍によって、2百万人が虐殺されたと噂されたアルメニア人の悲劇の真偽も見てきた筈である。
 
 国境の近くのトルコ側で夕食をとりそこを出発したのは夜の八時頃であった。
最初の内にはものの10分も走ったかと思うと軍隊の検問にあう。兵隊がバスの中に入ってきてパスポートをチェックするのである。まさに事前に聞いていた通りで煩わしい反面これが我々の安全を守ってくれていると思えば却ってありがたかった。
 国境から300キロ離れたエルズルムの町に着いたのは真夜中の3時過ぎであった。東部アナトリア最大の都市で最近は人口が30万人くらいと聞くが当時は人口13万人のこじんまりした町だった。町はすっかり寝静まって明かりが殆どついていない。そこから先は空路で行くつもりだったので、一番大きいというホテルを予約していた。とにかく真っ暗で町のどこを走っているのさえも分からないのである。バスにはイラン人とトルコ人の運転手が各3人ずつ乗っていて交代で運転していた。ペルシャ語ならなんとか日常会話ができるようにしておいたのが、こういうときの心の支えになった。結局は目当てのホテルが閉まっていたのか或いは見つからなかったのか、それともそのホテルが目指す場所だったのか分らない。 運転手たちが粗末な木賃宿のようなところを叩き起こして交渉してくれた。ここに泊まれという。そしてバスは次の目的地に向かって走り去っていった。
 
 そこからは何回かのトルコ出張の経験を生かす場面である。数の数え方や値段の交渉や時間の言い方は必須の知恵として、単語だけは覚えていた。翌日の午後の航空便に乗り遅れないように、指定した時間にドアを叩けと頼んで何リラかをボーイに握らせたのである。
 部屋といったら刑務所の独房のようなところで、土間に粗末な木のベッドが置いてあるだけである。垢で黒光りした薄いキルトのようなものが唯一の寝具だ。そのうえ窓ガラスも破れている。十月初めのアナトリア高原はもうかなり寒い。さもありなんと、着てきたレインコートを羽織った儘で、その黒光りするキルトを足元とお腹に掛けて眠りに落ちた。
 翌日ドアを叩く音に夢中で跳ね起きる。用を足すところはどこかと思うまもなく、廊下のはずれから襲ってくる臭気で、すぐそれと分かった。トルコの便所とは日本式の便器の「きんかくし」を省略したものと思えばよい。それが足の踏み場がないほど汚れている。左手で口と鼻をふさぎつつ、それでも足を踏み入れるには大いなる勇気と細心の注意が必要だった。壁の下のほうに水道の蛇口が上向きについている。こちらの人たちは用便の後に紙を使わない。左手を使って水洗いするのである。屈み込んで「郷に入っては郷に従え」を実践しようとした。ところが蛇口の具合が悪かったと見えて勢いよく水が吹き出してきて顔中がびしょ濡れになり、いっぺんで眠気が吹き飛んでしまった。随分いろいろな所を旅したがこの夜の宿のことは一生忘れないだろう。
 
 さて翌日は予約したトルコ航空の国内線のチケットを購入しなければならない。この町の地理は皆目分からないが、とにかく外へ出てみた。夜中の印象とは大違いだ。お昼が近づいているのに街路は人通りが少なく明るい陽光のなかで静かにまどろんでいるようである。
 ロバを連れた少年が通りかかったので路を聞くことにする。建国の父のアタチュルクが近代化政策の一環として文字の改革をした。お蔭でトルコはアルファベット表記である。
 空港で見るトルコ航空の機体には、トルキエ・ハワヨラリとアルファベットで書かれているのを思い出した。アタチュルクに感謝!である。トルキエ・ハワヨラリと私が叫ぶと、少年はうなずいて顎をしゃくってついて来いと言う。トルコ航空のオフィスはものの5分くらい歩いた所にあった。あっけらかんとした広場の一隅である。
 さすがトルコ航空だ。事務所には英語の達者なスタッフがいた。ところがこの男はとんだ食わせ者だった。来意を告げると予約簿らしいノートを一瞥しそんな予約は受けていないという。それにこの便は満席だという。一瞬さあどうしようと思う。
 『待てよ、こういうことはよくあることだ』然るべき心付をパスポートか何かに挟んで差し出せば解決するのかもしれないがそれも癪な話ではある。そこへ折よく電話がかかってきた。くだんの男は電話に気をとられて予約簿を手から離してしまう。チャンス到来とばかり手を伸ばして予約簿を取り上げてみると、予想したとおりそこに自分の氏名があった。これが自分の名前だとノートの箇所に指を差して渡すと男はちょっと残念そうな表情をしたが、観念したと見えてしぶしぶ発券してくれた。
 
 タクシーを頼んで早めに空港に向かう。空港のロビーで時間をつぶしていると、日本人がよほど珍しいと見えてトルコ人が三々五々周りに集まってくる。
 『どこから来てどこへ行くのか』から始まって、『イラン・イラク戦争はどちらが優勢か』とか、いろいろトルコ語で聞いてくる。彼らは日本の工業製品への関心が強いらしい。
 時計・カメラ・電気製品・はては自動車迄、どれがナンバーワンでどれがナンバーツウでその次はどこかということを飽きずに熱心に質問するのだ。そのうちに英語のできるのが出てきて込み入った話が通ずるようになりまた戦争の話に戻った。
 人だかりの数が30人を超えるようになった。空港警備の警察署長が「何事が起きたのか」と訝しげに群衆に加わる。というわけで私はこの署長の賓客になった。彼のオフィスに招き入れられたのである。制服姿の妙齢の婦人警官に命令する。そしてチャイを淹れたり、果物をむいたり、お菓子をすすめたりして歓迎してくれた。
 やがて出発の時刻がきた。座席指定はない。だから他の乗客に先駆けてどこでも好きな席をとるようにと、署長氏が私をわざわざ機内に案内しようとする。こちらもつい調子に乗って飛行機をバックにして記念写真を一枚と申し入れた。ところが、ここは撮影禁止だからと丁重に断られてしまった。
 
 それからは歌の文句にある「飛んでイスタンブール」である。戦乱のイランはどこの国の話かと思うぐらい平和な喧騒が心地よく迎えてくれたのである。取り敢えず無事に出国したことを、あちこちの関係先に打電した。そしてロンドンに到着した後にイランの日本大使館に途中の状況を長文のテレックスで報告した。『現下の状況は一過性のものと認識するべきである。情勢はいつ変化するか予測しがたいので直前の情報確認がくれぐれも必要である』と入念するのを忘れなかった。
 
 トルコ経由のエクソダスに邦人は我も我もと殺到した。その2―3週間後に、国境のトルコ側で山賊による邦人襲撃が発生したのである。数人の山賊が銃を構えて道に立ちはだかったが、バスはかまわず走り抜けたという。その際に邦人2名が銃弾で負傷し、エルズルムの病院に担ぎ込まれたと報じられた。命に別状なかったのはほんとうに不幸中の幸いだった。結果から見れば、我が運転手君の父親の予言が的中した形になった。
 その事態の発生に日本政府も動き出しソ連政府と交渉が行われたようで、まもなく北のカスピ海ルートから脱出が行われるようになった。
 
 トルコでのゴルフ紀行が、結末はイラン・イラク戦争時のトルコ経由の脱出記になってしまった。この旅は我ながらエキサイティングな得難い経験になったと思う。
 さて最近のトルコの政情について付言したい。トルコではここ数年政情が安定しているとはいえない。反政府の都市型テロが時々起っている。ただ経済は割合好調を保っているようだし、深刻な状況とは言えないが旅行には用心して臨むべきであろう。(了)


ー ゴルフ紀行15 エジプトでのゴルフー

2012-07-17 11:53:49 | エジプト / モロッコ

ー ゴルフ紀行15 エジプトでのゴルフー

2002年3月28日早朝のカイロ空港に到着した。今から10年前のことである。タラップを降りながら、エジプト航空の機体を見上げる。朝焼けの空の茜色が白い胴体に映えている。ナイル・ブルーの尾翼には、鷲の姿をしたホルス神のマークがついている。エジプト神話の空の神である。ナショナルフラッグの機体に、こういうロゴを使うところにエジプト人の自らのルーツに対する誇りを見るような気がした。

エジプト旅行は永年の夢だった。エジプトを見ることは人類の古代文明の跡を直接目の当たりにすることだと思っていたからだが、その夢をなかなか果たせないでいた。急に思い立って妻と一緒にある旅行会社のツアーに参加した。この時期はいわば端境期である。運が悪いと砂嵐に遭う。さりとて初夏を過ぎると暑熱が耐え難い。という訳で三月のエジプト旅行は観光客の姿が少ない。我々のツアーは砂嵐にも遭わず幸運というほかなかったが、それは旅の後に知ったことである。

空港からハイウェイでカイロの街を横断してギザのほうに向う。ナツメ椰子や月桂樹の並木が珍しい。月桂樹はまるで金盥を置いたような形に刈り込まれている。ラムセス中央駅の前を通る。 駅前広場にラムセス二世の巨大な像が立っている。古代エジプトの新王朝、第十九王朝のラムセス二世は王国の版図を大いに拡大した王である。この像は古代の本物だそうだ。この王は、王権の偉大さもさることながら、とても自己顕示欲が強いファラオだったようだ。エジプトの各地でその存在はたいへん目立っている。まるで3,300年もの年月を超えて王朝の威令を示そうとしているかのようだ。
 エジプト人は7世紀にアラブに征服されてイスラム教に改宗した。言語もアラビア語を受け入れていわばアラブ化して今日に至った。従って、街にモスク(ガーミアと呼ばれている)が多いのは当然として、その割にはキリスト教の教会が目に付く。十字架を頂くドームや荘重な尖塔のそばを通る。エジプトにはアラブの支配下に入る前にグレコ・ローマン時代といわれる時期があった。マケドニアから興ったアレキサンダー大王によってエジプトが征服された時代である。このときに純粋な古代エジプトの時代は終焉する。それ以来キリスト教がエジプトのほぼ全土へと広がった。この時代はエジプト人の多くがキリスト教徒になった。キリスト教といっても、コプト教と呼ばれる原始キリスト教である。イエスを神の子としてではなく 神そのものとして崇める信仰である。従ってコプト教はキリスト教世界では異端視された。その後アラブの支配下になるとイスラム教に改宗する人々が増えイスラム教徒が多数派となったが、コプト教徒は現在もまだ人口の約一割弱を占めている。その比率はここ数百年間あまり変わっていないそうである。
 エジプト人は現在アラビア語を話している。民族のアイデンテティは言語である。いったいエジプト語はどこに行ってしまったのであろう。エジプト語は日常の話し言葉としてはいわば死語であるが、何とこのコプト教の祈祷文の言葉として残っているという。
 古代エジプトの多神教の信仰が一旦はキリストを唯一の神とするコプト教になったが、その祈りの言葉は祖先伝来のエジプト固有語を使っていたのだ。その後アラブに征服され、アラーを唯一の神とするイスラム教徒が多数となり日常の言葉はアラビア語になった。コプト教徒は少数派ながら残ったが、彼らも日常の言語はアラビア語という訳なのである。
 一方イランの場合アラブの征服によってイスラム教を受け入れたが、言語は依然としてペルシャ語を守っているのと好対照である。この相違を生んだのはいったい何だったのか、ペルシャ語がアラビア語とは別系統のインド・ヨーロッパ語族であったのに対し、そもそもアラビア語のセム語族とエジプト語のハム語族が近似しているからなのだろうか。

 ナイル川を渡ると間もなく突然何の前触れもなく、ピラミッドの四角錘の遠景が視野に飛び込んできた。今まで幾度も写真や映像で馴染んできた筈のその姿は、いまや間違いのない現実として目前に惜しみなくその実物の姿を現している。
『ああ、とうとう来てしまった。ピラミッドがあそこにあんな風にさり気なく日常の中に存在していて、いいのだろうか?』という不思議な感慨が襲ってくる。
 ギザのホテルで旅装を解くのももどかしくピラミッドを訪れる。3つのピラミッドがほぼ直列に並んでいる。その北側からアプローチする。この3つは古王国・第四王朝のクフ王とカフラー王、メンカフラー王のピラミッドである。気の遠くなるような昔である4,550年前の、日本なら縄文時代に建設されたものである。近くで見るピラミッドは、想像していたほどは大きくないような気も一瞬はするが、よくよく見るとやはり大きい。妙な感じである。最大のピラミッドであるクフ王のピラミッドの高さは約140メートルで、40階建てのビルの高さに相当するという。
 ピラミッドの外部を覆っていた化粧板の石材はあらかた剥がされてしまって、ごつごつした石塊が剥き出しになっている。一個2~3トンの石を3百万個も積み上げたというその膨大な重量が迫ってくる。基底部の石壁に暫くの間身体を預けて、そのエネルギーを貰った。
 一番北側のクフ王のピラミッドは偶々立ち入り禁止になっていた。中央にあるカフラー王のピラミッドの内部に入る。約1メートル四方の狭い穴を前屈姿勢で進むと大回廊と呼ばれる天井の高い通路に出る。やがて花崗岩でできた王の部屋という30畳位の玄室に到達する。その玄室には蓋のない石棺のようなものがあるだけで、ガランとしている。気のせいか耳の奥がジーンと鳴る感覚が襲ってくる。


 
 このピラミッドがどういう目的で作られたかについて、後世になっていろいろな説が唱えられてきた。王の墓であるとギリシャの歴史家ヘロドトスが書き残しているが、神官のための食糧庫だとか、天文台だとか、ナイルの氾濫期に農民に生活の糧を与える公共工事だったという説もある。エジプトの歴史に造詣の深い我がガイド氏によれば、やはり墓としか考えられないという。   王墓説を否定する立場から言えば、まず玄室が地上よりはるかにに高い位置にあるのはおかしいという。王のミイラは古来地下に葬られた伝統があることに反するというのだ。また玄室内部には副葬品などが置かれた痕跡が全くない。またクフ王の父スネフェルのように五つもピラミッドを建設した王もいるので、墓説は矛盾する。以上が否定論の  あらましであった。

 墓を遺体の安置場所と考えると矛盾するが、古代エジプトの死と再生の信仰を考えると、私は死後の王の魂魄が宿る場所と考えるのが一番ぴったりするような気がしてならなかった。
 

 古王国のファラオたちは、神そのものであったと思う。乾燥地帯のエジプトに豊かな恵みを齎したのは何か。それは七月から十月過ぎまで氾濫しているナイルが豊富な水量と上流地帯の肥沃な土砂を運んできたからであった。農民たちはこの氾濫期には段丘地帯に逃れて時期を待つのである。一握りの人たちが洪水の時期を正確に予測する知恵を持つ。その人たちが豊かさの源の洪水を招き寄せる霊力を持つものとして、至高の存在とされるのは当然のことであったと考えられる。
 何か考古学的な根拠を基に云々する訳ではない。素人のおこがましい想像を許して頂きたい。年代を経て王と神官の役目が分化してくると、その故に王は神そのものから神の特別の庇護を受ける存在に変わっていったのではないだろうか。まだ神そのものだった古王国のファラオたちが冥界に旅立つとき、その魂(カー)が宿る場所であるピラミッドにその亡骸がないのは、より相応しいことのように思えたのである。
 グレコ・ローマン時代になって、新しく救世主としてキリストの教えを受け入れたエジプト人たちが、異端とされながらもキリストを神そのものとする信仰を守ったのと何か共通するものがその根っこにあるような気がしたのである。
         
 ピラミッド考古学の最近の発展は目覚しい。特に早稲田大学の吉村作治教授のハイテクを駆使した調査と学説が良く紹介される。その学説も日進月歩の感があって、このピラミッドの隠された真実に鋭く迫りつつあるように思われる。

 最新の吉村教授の説では、ギザのピラミッドの建設には、当時の王朝内の権力争いが絡んだ意外な事実があったとしている。
かいつまんで言うと、第四王朝の第一世スネフェル王以後の王位継承権を巡って当時太陽信仰派と星信仰派の争いがあり、太陽信仰派が勝利してクフ王が王位継承権を手中にした。王権の権威と太陽信仰派の確固たる基盤を象徴するためにクフ王はスネフェルをはるかに凌駕する大ピラミッド建設を計画する。しかしそのピラミッド建設のノウハウは星信仰派が独占するものだったので、星信仰派の生き残りのヘムオン王子にクフ王以降のピラミッド建設を任せざるを得なかったというのである。ギザのピラミッドはこの星信仰を反映した壮大な天空図だった。3つのピラミッドは、まさにオリオン座を表している。王の部屋から外部に伸びる通気孔らしきものはオリオン座を指し、王妃の部屋からのそれはシリウス星をさしている。これらは通気孔ではなく王や王妃の霊魂の通り道だったというのである。その霊魂はそれぞれの星座で、神の手で再生すると考えられたのである。ピラミッドの入口はいずれも太陽の出る東でなく、北極星の方向の北を向いている。
北はメソポタミアの方向なのである。ピラミッドを設計したヘムオンは、この秘密について一言も書き残すことなく、この巨大なプロジェクトに自らの星信仰の証を刻みこみ、後世の発見に委ねたというのである。

 そもそもエジプトにピラミッドが作られるようになったのは、それから100年遡る第二王朝のジェセル王の時代からだという。カイロの南方約30キロのサッカーラに階段状のピラミッドがある。 それより前の王墓はマスタバ墳と呼ばれるベンチ状の墓で、以降、いくつかの変遷を得てギザに見るようないわゆる真正ピラミッドへと繋がっていく。その階段ピラミッドは、メソポタミアの都市国家に見る、段丘状の神殿ジッグラートに倣ったのだというのである。メソポタミア文明はエジプト文明の約1000年先輩であった。
 メソポタミア文明の最初の担い手はシュメール人であったとされている。シュメール人はその後継者であるアッカド人がセム語族であることが知られているのに、いまだにその言語的系統が明らかにされていないという。私は西洋占星術を勉強しているので、特にこの辺のことに興味をそそられるのである。そしてシュメール人こそは、人類史上Astrology(占星術)の元祖であるとされている。 
 
 ジェセル王の階段ピラミッドを作ったのはシュメールからきた人々の子孫のイムヘテプという人物であることが分っているという。そもそも星信仰そのものがメソポタミアのシュメール人から齎されたのかも知れない。エジプトの神話では、原初の頃エジプトを治めていた名君オシリスは、王位を狙う弟のセトに殺されるが、その妻イシスがオシリスを布で包み(ミイラにする)祈るとオシリスは蘇生する。そしてオシリスとイシスの間に子が生まれホルスとなる。ホルスは化身してファラオになる。やがてオシリスは死して後にオリオン座に、イシスはシリウス星になる。これはエジプトにおける星信仰を象徴しているというのである。
 約220年後に作られた第五王朝のウナス王のピラミッドの中にこの神話の記録が残されており、それはピラミッド・テキストと呼ばれているそうだ。
 以上が吉村教授の説のあらましであるが、この説にはたいへん魅力を感ずる。
 さて吉村教授は最近ピラミッドをめぐる大発見をした。それで従来の世界の考古学者たちの定説を大幅に書き換える事実が明らかになったのである。その端緒は第2の太陽の舟の発見である。
 すでに発見されて復元された第1の太陽の舟の並びの地下に大きな空洞があることをハイテク機器で察知したことに始まる。その空洞に合計40個の石材が発見され、そのうち35個が発掘された。
その下に第2の太陽の舟の木材が発見された。石材には合計1000個の古代エジプト文字で書かれた記録が記載されていた。それによって明らかになりつつある事実を以下にかいつまんで紹介する。
第2の太陽の舟には太陽神ラーがのり、第1の太陽の舟にのるクフ王の魂を曳航して、西の冥界を目指して航行する。クフ王の魂は鳥の姿で象徴されている。ピラミッドの中の玄室の石棺で王の魂はエネルギーの補給をする。そして死と再生の旅を続ける。ピラミッドは王の魂のエネルギーの補給所だったのである。前述の私の素人の感は当たっていたのである。
 ピラミッドの中に5層の王の部屋がある。最上階に王が神と仲間になったという記述があった。クフ王の墓はまだ発見されていないが、ピラミッドの西側にある墳墓群の中に隠されている筈だと吉村教授は言う。
 
 以上は拙著『紀行・イスラムとヒンドゥの国々を巡って』エジプト編の冒頭部分からの抜粋に加えて最近の事情を加筆したものである。今しばらくその抜粋を続ける。前段がやや長くなるが、この文章は『エジプトでのゴルフ』というゴルフ紀行なのでお許しいただきたい。
 
 カイロはナイルデルタの扇の要の位置にあり、東岸にいると乾燥地帯の実感はそれほどでもない。ところが西岸のギザや郊外のサッカーラやダハシュールでは、もう砂漠地帯の真只中である。飛行機で南へ一飛びしてルクソールまでくると、その実感が更に強く沸いてくる。 
 ルクソールは嘗てテーベと呼ばれた。古王国の首都があったギザやメンフィスとは異なり、中王国や新王国以降にエジプトの中心となった場所である。古代エジプト世界の拡大に伴って、その中心がナイルを遡り南下してきたのである。
 もちろんこの地にも現代のエジプトが存在するのだが、ここでは壮大な過去の遺跡に囲まれて昔ながらの生活様式が営まれ、主役は確実に過去の世界が握っているように思えてならない。
 エジプト古代の信仰の中心であった太陽はナイルの東岸から昇って西岸に沈む。そして黄泉の世界を巡って甦り再び東岸から姿を現しこの世に農作物の成長や諸々の恵みを齎してくれるのだ。
当時の権力者たちは、この信仰に基づいて死後の再生を願ったのであろう。エジプト各地で見られるように、ルクソールでは東岸にカルナック神殿やルクソール神殿がつくられ、西岸には葬祭殿やら岩窟墳墓が作られてネクロポリスと呼ばれたのである。
  
 我々の旅はナイルを遡って南に向かった。ルクソールのハトシェプスト葬祭殿を見た。西岸の遺跡の中でひときわ目立つ存在である。1997年秋にイスラム原理主義者の武装グループが無差別に外国人観光客を襲撃し、62名の死者を出した惨劇が起きた場所だ。昨年のエジプト革命によて瓦解した前ムバラク政権が国内の治安対策を強化していた。その結果としてルクソール、アスワン、アブシンベル市は安全になったと伝えられてはいた。

アフガニスタンのタリバン、或いはイランのシーア派革命、更に遡ってサウデイ・アラビアのワッハーブ運動などに、コーランの戒律への厳格な回帰を主張する例を顕著に見ることができる。
エジプトではムハンマド・アリ朝がオスマントルコの支配からエジプトの独立を果たした。しかしイギリスの植民地支配には勝てず、民族主義を掲げたナセルの「自由将校団」革命によって倒された。そのナセルは英仏の列強に対抗し、アラブの大義を旗印にアラブ世界の盟主を目指したが病に倒れる。ナセルを継いだのがサダトであるが、彼の政策は一転して米ソ対立の中での親米路線であった。国内的には民主化・自由化路線をとった。これが内外の矛盾を生み、反体制の「モスリム同胞団」の凶弾に倒れることになる。
 これらの反体制運動はすべて厳密な意味で宗教的な原理主義を掲げるものとはいえないかもしれないが、少なくてもハトシェプスト葬祭殿で起きた事件は明らかにイスラム原理主義路線によるものであった。当時のムバラク政権はサダトの路線を忠実に継承しており、外にパレスチナの難問や、イラク問題、さらには国内経済停滞の問題などがあり、原理主義者の抵抗に晒されていた。
 
 ハトシェプスト葬祭殿の背後を北側から迂回していくと、谷間の奥深くに新王国のファラオたちの岩窟墳墓が密集している。いわゆる「王家の谷」である。そこでツタンカーメンの墓を見た。
 バスは谷の入り口までしか行かない。そこから先は専用車に乗り換える。屋根付きトロッコを数珠繋ぎにして牽引車が引っ張り、切り立つ涸れ谷を縫って行くのである。その場所で我々を待ち受けていたのは原理主義者ならぬ、土産物売りの屋台の群れでであった。そこで姦しい押し売りと値引き合戦が瞬時を惜しんで慌しく繰り広げられた。
 この谷で発見された王の墓は62基あるそうだが、結局は殆どが盗掘にあって、ツタンカーメンの墓は運良く盗掘を免れた稀有の例である。ツタンカーメンの墓はこの王が18歳で夭折したために割合質素であったのと、後年入り口の上あたりに別の王墓を掘るための作業小屋が作られたので、運良く盗掘者に発見されなかったといわれる。比較的質素だったというが、その副葬品はカイロ考古学博物館(2階建)の2階スペースの三分の一を占めるほど大量の宝物であった。当時のファラオの富がいかに巨大であったかを示している。
 
 古代エジプトは、自然条件によって他から隔絶した世界であった。
 つまり全長6,700キロにも及ぶナイルの下流にあって、北は地中海、東北はパレスチナへの回廊で僅かに外界に開けてはいたものの、ナイル流域の東西で砂漠に守られ、またナイル上流とは幾つかの急漠(カタラクト)により守られていた。この第一、第二急漠のある流域がヌビア地方で、アスワンやアブシンベルが位置している。ここはヌビア人という別の文化を持った人々の世界であった。古代エジプトの版図拡大に伴って、この地域はエジプトの属国としてその支配下に組み込まれていくのである。
             


  アスワンの宿はかの有名なオールドカタラクト・ホテルに隣接の新館であるニューカタラクト・ホテルだった。アガサ・クリステイの「ナイルに死す」の舞台になった場所である。
 行き交うヌビア人の帆船(ファルーカ)の眺望に時間の感覚を失って、一瞬別の時空に投げ出されたような気がした。急坂の遊歩道を降りてホテルの前の船着場に向かう。色とりどりの花々が咲き乱れる植え込みはトンネルのようである。
 我々が乗船したファルーカ(帆船)は午後の風を受けて緩やかにナイルを滑っていく。ヌビア人の若い船頭達は愛想がよく、しかも目鼻立ちが美しい。白や青色の木綿のガウンを纏い、縮れ髪である。そして真っ黒な顔から白い歯をこぼしている。この青年たちが大きなタンバリンを打ち鳴らして彼らの舟歌を歌いながら踊りだす。最初はしり込みしていた客達も、結局うまく引っ張り出されて踊りの輪に加わる。互いに手と手をつないで拍子をとる。しばし船上で楽しい歌と踊りの饗宴が続いた。


                     
 アスワンハイダムはヌビア地方のナイル河畔にあった多数の遺跡を水没させることになった。ユネスコが世界的なキャンペーンを張って資金を集めた。これら人類の遺産である遺跡のうちで、20箇所あまりを移設する壮大なプロジェクトを実施したのである。
                  
 アスワンからさらに空路で280キロ、ナセル湖を遡りアブシンベル空港に着いた。バスを降りて徒歩で山の裾を前方に廻り込むと、ナイルが前方に姿を現し手前がアブシンベルの大神殿だった。小神殿共々水没を避けるために元の位置から約60メートル高所に移設された。元の神殿を数千個のブロックに切断して運びそれを再び組み立てるという大工事だったという。高さ60メートルのコンクリート・ドームを作り、そこに神殿を納めたもので約4年の歳月がかかった。完成は1972年だそうである。
 大神殿の正面に新王国第十九王朝のラムセス二世の巨大な座像が四体聳え立っている。入口から約40メートル入ったいちばん奥の至聖所に、3つの神々と神格化されたラムセス二世の坐像があるが、この王の誕生日(1月21日)と戴冠式の日(7月21日)になると、朝日が差し込んで坐像を照らす驚くべき仕掛けになっていたそうである。ところが最新技術の粋を集めて移設の位置関係を決定したにも拘らず、朝日が差し込む日が一日ずれてしまったという。
 王妃を祀る小神殿の正面は、4体のラムセス二世像の間に2対の王妃ネフェルタリの像が並んでいる。移設前には、小神殿の位置はやや低くなっていた。そしてナイルの氾濫の時期になると神殿内部に浸水する仕組みになっていたそうである。これは、ナイル(男)が土地(女)を犯して豊穣を産み出す、つまり人間の生殖、動物の繁殖、植物の繁茂を象徴するものであった。今更ながら古代の知恵の深さと建築技術の高さを思い知らされたのである。

さて今度のエジプト旅行では何とか機会を捉えツアーを抜け出し、ピラミッドの遠景を見ながらゴルフができたらどんなに素晴らしいだろうかと思っていた。旅も終りに近づきカイロに舞い戻った際にうまく機会を作ることができた。ギザのピラミッドを訪れたとき、ピラミッドのすぐ手前に、緑の絨毯を敷き詰めたようなゴルフコースを発見してびっくりした。
 周りの乾いた砂漠と萌えるような緑のコントラストが素晴らしかった。ところが、ホテルが予約してくれたのは郊外のリゾート地のゴルフ場だった。宿泊したのがラムセス・ヒルトンだったので、同系のヒルトン・ドリームランド・ゴルフクラブになったのである。事前の調査をして注文を付けて置けばよかった。そうすればピラミッドのすぐ近くでプレーできたのにと残念に思った。

                
 

クラブハウスに神殿の列柱のデザインを取り入れているのはいかにもエジプトらしい。ハウスの前にはプールがあって青い水を一杯に湛えている。人影が無いプールの周辺には、所在なげに畳まれたパラソルが巧まずしてパピルスの木のように林立している。平日のゴルフ場には我々以外客が見えない。キャディ・マスターが自ら出陣してくれることになった。2人乗りの電動カート2台に分乗して出発する。キャディのカートが先導役である。
 ティーグラウンドのティマークは一対の白いピラミッドだった。はるか前方には、ピラミッドではなくてリゾートマンション群が見えたのが残念である。空気が乾燥しているせいか、ボールが気持ちよく飛んでいく。周辺はすぐ土漠が迫っているが,  コース内は別天地のような緑で、フェアウェイの状態も悪くない。ホールとホールを隔てるのは、背の低い椰子の木と赤や黄や青の花木の茂みである。
 パー4のホールで家内が第3打目を直接カップインしてしまった。初体験のバーディに家内が奇声を上げて喜んでいる。次のホールに向っているとキャディ氏のカートが少し遅れて追ってきた。
いつの間に作ったのか枯れ枝と色とりどりの花で作ったフラワー・バスケットを持っており、それを恭しく家内に捧げるのである。バーディのお祝いだという。その心遣いと作業の手早さに感心するばかりであった。
 コースの半ばほどのホールにくると、池があって噴水が惜しみなく水を噴き上げている。その遥か向うにギザのピラミッドがやや霞みながら姿を見せている。ピラミッドの見える所でゴルフをするという願いがやっと叶った瞬間であった。わざとそうしているのであろうが、ティーグラウンドの周りには土漠そのものの乾いた土くれの塊がでこぼこと露頭してそれを石の列で囲ってある。心憎いデザインである。正にエジプトの自然をそのまま切り取ってきたようなティーグラウンドであった。
 ツアーのスケジュールでは考古学博物館の近くで中華料理の昼食が予定されていた。久し振りの中華料理だった。それでその時間が気になり何ホールかのプレーを打ち切って帰ることにした。
 我がキャデイ氏には相応のチップを渡したつもりだったが、彼はニヤッと笑って、「バーディ、スペシャルボーナス!」と催促するのである。先程のフラワーバスケットは彼の個人的営業の一環だったのである。仕方なく追加のチップを渡すと、彼は満面の笑みを残して去っていった。
 
 考古学博物館は見るものがあまりにも多すぎて目移りするばかりである。そして展示品の貴重さの割には雑然としていて、整理の悪い倉庫のような感じすらする。やはり圧巻は、盗掘を免れたツタンカーメンの黄金のマスクや棺、副葬品の数々であった。ツタンカーメンの黄金の玉座には妃が王に優しく手を触れている図が描かれていた。また第四王朝のラーホテブ王子とその妻であるネフェルトの彩色の坐像があった。いずれも、主人公たちの表情を生き生きと伝えてくる。もう一つの圧巻は、特別室に安置された11体のミイラだ。いずれも嘗てのファラオたちの亡骸である。例の新王朝のラムセス二世のミイラをしげしげと見る。半眼に閉じた目と鉤鼻、突き出した薄い唇とそして長い首が3,200年の永い眠りを続けている。肉体の形が時を超えて保たれていること自体は驚異というほかはないが、国中に残されているその巨像の勇姿とは似ても似つかない姿で干乾びた姿で横たわっている。その姿を見るのは生前の尊厳を損なうような気がしないでもない。
 ミイラは霊魂が神の手によって新しく再生されて現世に戻って来たときに元の肉体に宿れるように保存されたという。ラムセス二世の魂はその願いどおり元の身体に戻ってくることが叶わなかったようだが、今どこに宿っているのであろう。

 旅の終わりはナイル川のナイト・クルーズであった。船着場には「ファラオたちの門」と書かれた門がたち、アクエンアテンの立像が我々を古代の世界に迎えてくれた。宗教改革を行い、この国に太陽神の一神教を根付かせようとしたファラオである。
 古代の信仰によれば、太陽は夜の間に冥界を船で旅をして翌朝再生を果たし東の空からまた登ってくる。さしずめ我々も再生のため、この船で冥界を旅するということになのであろうか。観光客の目を楽しませるエキゾチックな踊りやショウが続く。最後の呼び物は、きらびやかに着飾った男が緞帳のように分厚い布地でできた傘状のものを片手で頭上を振り回しながら、自身もくるくると回転を繰り返す。その回転は次第に激しさを増して際限もなく続く。男の肌が汗で光りその表情が陶酔の頂点に達したと思う瞬間に、舞台は暗転してその姿は突然消えた。そのときこれは演者にとって単なるパフォーマンスというより、一種の修行ではないかという気がしたのである。


 イスラム教の一派に少数派であるフィズムがある。トルコのメヴレヴィー教団がその一つで、これと似た回転舞踊を行って陶酔状態の中で神との合一を果たすのである。トルコのコンヤ地方などでよく観ることができる。大会堂で大勢の教徒が三角帽子と独特のコスチュームを着けて踊るのであるが、観光の目玉として一般にも公開されている。この船上のダンスもスーフィーの一種ではないかと思った。
 
 エジプトは5,000年の過去から現代までの歴史の姿を余すことなく見せてくれる。エジプトでは古代の多神教の神々は現代では死滅したといわれ、そして数々の遺跡や出土品は貴重な観光の資源であり、海外からの客を集める生活の糧として利用するだけのように見える。しかしその外見はともかく、エジプト人の隠された内面はどうなっているのであろう。
 我が国では特に信心深い人でなくても、神社や仏閣の前で手を合わせる人々は多い。イギリス人の女性で古代エジプトの神々を信仰しその一生を古代の神々に捧げた人がいたそうだ。この女性はナイル中流域のアビドスで約30年前に亡くなったという。現代のエジプト人はアラーやキリストへの信仰のゆえに、古代の神々を全く心から消し去ってしまったであろうか? 
 そもそも多神教とはこの世の出来事が人智の及ばない驚異に満ち満ちていた頃、その自然現象や大自然のかたちに、超人間的な力を認めて崇拝したところから始まったのであろう。ところが、人間がだんだん賢くなって身の回りのことに何か説明がつくようになると、もはや古代の神々に対する畏敬の念は消えていくのは道理かもしれない。
 紀元後の世界からこのかた現代に至るまでエジプト人は古代とは一転して一神教のイスラム教やコプト教の信仰に帰依している。多神教の時代にはこの世を象徴するものの形象が豊かだった。
それが一神教の時代になると単純化され禁欲的で観念が勝ったものになるようである。それは人間にもっと根源的な疑問に対する答えが必要になったからであろうか?だからといって、多神教と一神教の優劣や功罪を云々するつもりでは毛頭ない。ただ人間の長い歴史の中で身の回りの現象に対し説明してきたことは果たしてすべてを説明し尽くしたものなのであろうか?一定の前提条件の下で成り立つ部分的な説明に過ぎないとしたら、それですべて分かったとするのは人間の傲慢といえないだろうか?

 遊覧船の船内のさんざめきを逃れデッキに出てみる。両岸に煌めく電光と競うように満天に星が輝いている。足下にはナイルが黒々と流れてその豊かな水量が体感できる。アフリカの内陸から滔々と流れ出るナイルの水が無数の命を育み、輝く5,000年の文明を生み出した。年間の降雨量は殆どゼロに等しいこの乾燥の地に、かつサハラ砂漠という殆ど死の世界と呼んでも過言でない地と隣合わせに、豊かで多彩な文明が花開いたのである。そしてまさにその乾きゆえに、かくも豊かに過去の形あるものが保存されてきた。
                  
 ここの人間はナイルを堰止めて洪水をコントロールすることには成功した。しかしこの国のすべてが圧倒的にナイルに依存していることには変わりはない。一方において、ここの人間が抱える問題は、ますます形を変え複雑化し重くなっているようにさえ見える。ナイルの水そのものは変わらない。ナイルの水に育まれてきた人間の心の形はかわってきた。これからは、果たしていつどのように変わって行くのだろうか、と問いかけているうちに人々のざわめきが高まり、ナイト・クルーズの終わりが来たことを知った。
 明朝になれば、新しいサイクルがまた始まるのだ。

 この旅からまだ16年しか経っていないのにエジプトはいわゆるアラブの春の現象で、ムバラク政権が瓦解した。モシリー大統領が選出されたが、軍部やイスラム原理主義組織ムスリム同胞団等との綱引きがあって安定化には多難な道のりが予想される。私たちの旅は、ここ当面では安定したエジプトへの最後の切符だったのかもしれない。(了)


ゴルフ紀行その14 モロッコーー「陽の沈む国」でのゴルフーー

2012-07-04 11:50:42 | エジプト / モロッコ

モロッコ-----「-陽の沈む国」でのゴルフ----

 八月下旬の午後の日を浴びて、カサブランカからラバトまでの道を車が疾走する。16年前の1996年(平成8年)だった。赤茶けて乾いた土の原を過ぎると、ユウカリの疎林が続いている。ユウカリは 豪州から輸入されこの地で育ったものと いう。続く樹林はミモザだ。アトラス山脈が南の壁となってサワラ砂漠の乾燥の侵入を防ぎ止めているとはいうものの、モロッコは基本的には乾燥地帯である。  ここでは土が乾いている。緑は自然に繁茂するというよりは、目立たないがやはりいろいろ気を使って育てているのではなかろうか。

 ラバトのハイヤット・リジェンシー・ホテルの庭園はこの土地としては贅を尽くしたものであろう。ホテルの裏側に規則正しい幾何学的な遊歩道が、はるか遠くまで続いている。その遊歩道に縁取られて、20メートル四方ほどの緑の芝生の絨毯が十枚ばかり縦に並んでいる。各々の絨毯には、ひとつおきに星型の噴水と一対の低い椰子の植木が配置されて、篝火用のポールがマチ針を刺したように並んでいる。
 隣地にはこんもりとしたユーカリの林と、行儀よく刈り込まれた糸杉の木立に囲まれて、星型のプールが青い水を湛えている。ここはこの土地のパラダイス(楽園)なのである。
 アラブの衣装を纏った長身の男たちが数人遊歩道を行く。黒いヘッドギアの頭巾と長衣の裾を夕風になびかせながら、早足に歩いている。只のそぞろ歩きではなく、商談の最中のようである。

 翌日は、ゴルフ・コースの予約を手配してあった。我がガイドのモハンマド氏が、水色のジュラバ(フードつきのガウン)にバブーシュ(スリッパ型の皮靴)という民族衣装を纏い颯爽と現れた。なかなかの男前でまだ活きのいい働き盛りの年齢だが、頭は禿げ上がっている。結局彼が旅程のすべてを付き合ってくれることになった。流暢な英語を話し、時々日本語も口から飛び出してくる。
 当地の名門ゴルフ場、ロイヤルゴルフ・ダル・エス・サラムは車で10分位走った森の中にあった。和訳すると「王立平安の館・ゴルフ場」とでもいうところであろうか。
 ところが、緑色のタイルを張った立派な門には何故か車止めの白いバーが降りていて、門番が入れてくれないのである。ガイド氏がなにか門番と交渉している。どうやら電話を借りて、クラブハウスと話しているらしい。そのうち、やっと門が開かれてクラブハウスの前までくることができた。だがその後もなかなか物事が進まない。
 そのうち白い作業衣の若い男がスクーターを運転して出てきて、一言二言叫ぶと門の方に走り去った。ガイド氏はこの時まで何を聞いても『ノープロブレム』と言を左右にしてなかなか事情を明らかにしなかったが、このときになって一切がはっきりした。
 つまり、その日は月曜日でゴルフ場は定休日だったのである。事前の予約とか確認とかいうことは、一切していないことは成り行きから明らかである。それが怠慢によるものなのか或いは当地はすべて行き当たりばったりのやりかたが通用するためなのかは、よく分からない。ガイド氏が適当に鼻薬を効かしたのかもしれないが、とにかく当直員らしいスクーターの男が貸しクラブなどを格納してあるらしいロッカー・ルームの鍵を取りに、近隣に住む担当者の自宅へ向ったという次第であった。

 クラブハウスの外観は白を基調とした、清潔だが何の変哲もない近代的な建物であった。用意したシューズを電動カートの陰で履き替えて、そのまま出発である。橙色のシャツのキャディがその白い カートに同乗しコースに向う。クラブには18ホールのコースが3つあり、我々はルージュ(紅)コースでプレイすることになった。スコア・カードはフランス語で表記されている。フランスの植民地だった頃に、この国の近代化が進められたというが、その約40年間の影響だろう。

 コースはよく手入れが行き届き、フェア・ウェイは平坦で広々としている。くねくねと曲がった幹が目立つ濃い緑の林が、各ホールをしっかりと隔てている。この日は休業日で、コース・メインテナンスの日なのであろう。フェア・ウェイのあちこちで散水弁が開かれて、まるで噴水の街道を行くかのようである。
 3ホール程プレイした後で、キャディが自分もプレイするのでベット(賭け)をしようと申し込んできた。3ホールで、こちらの実力を見極めたに違いない。彼のスイングはプロのように美しい。彼の言いなりのハンデキャップで始めては見たものの、これはしこたま剥ぎ取られてしまうのかなとちょっと心配になった。旅の前にモロッコの旅行案内を読んだ。悪徳私設ガイドの話や、騙されて金をまきあげられたり、法外に高いものを押し付けられたりした話がさんざん書かれていたからである。
 コースの中ほどにかなり広い池があった。水面には水草の葉が一面に浮いている。フェア・ウェイとの高低差が殆どない。水辺にはススキのような植物の群生が白い穂を頂いている。曲がりくねった枝々が涼しい蔭を落とし、遠景に二本の糸杉がぼんやり立っている。そして反対側の岸には、葉鶏頭の紅い花が一面に咲いている。白鷺が数羽水辺の餌をあさっていた。

 プレイを終えてクラブハウスの前に戻る。我がガイド氏があくびを噛殺したような顔で待っていた。前方のメンバー専用らしいコースを、西洋人のプレイヤーが手引きカートを引っ張って歩いていく姿が見えた。矢張り定休日とはいっても、ここは「なんでもあり」らしい。
 さて、問題のキャディとのベット(賭け)の精算だが、確か5-6ホールは負けている筈なのにもじもじしてはっきり言わない。そこでキャディフィーに休日手当て的なチップとベットの負け分を胸算用で加えて払うと、彼ははにかんだような表情で感謝の意を表すと立ち去って行った。私の心配は杞憂だったのである。内心、少し恥じるものがあった。

 モロッコへの旅でいきなり最も「それらしくない所」へ来てしまったようだ。ここはモロッコの中の西欧なのかもしれない。細かい旅程のことは現地のガイドに任せるほかなかったからである。でも人影のない自然の中でキャディと二人で黙々とプレイをする一種透明な時間も、おおらかでまんざら悪いものではないと思った。まさにクラブの名称の通り一刻の平安を楽しんだのである。
 
 モロッコでのゴルフと銘打って置きながら、モロッコらしくないゴルフ場のことを書いてしまった。モロッコの特色を書くために、ここで幣著の紀行・イスラムとヒンドゥーの国々を巡って、モロッコ編から若干抜粋した部分を記載してみたい。
 ゴルフ場のあるラバトはモロッコの北部にありで大西洋に面している。割合こじんまりした落ち着いた古都で、モロッコの現在の首都である。モロッコを舞台にした映画は、外人部隊のことを描いている「モロッコ」とか第二次大戦中の悲恋物語の「カサブランカ」がある。いずれも古典的名画とされているが、この土地と住む人々は主題ではなくて、単なる舞台装置に過ぎなかった。


 
 ラバトの町で心を惹かれたのはその絵画的な美しさだった。午後の海岸に立つ。大西洋がコバルト色に広がり、そして褐色に続く海岸の向こうに、隣街のサレの真っ白な市街が眩しく映えている。   ラバトの海岸はキャンバスにコバルトの絵の具をぶちまけ、手前には地の色の褐色が少し残り、上部に白の絵の具で一本太い線を引いた感じである。
 面白いことに、昼食に入った海岸のレストランがまさにこの海岸の風景のミニアチュアであった。まずインテリアは褐色で統一され、白いテーブルクロスに、コバルトブルーのクロスが45度ずらして各辺から三角巾が垂れ下がるように掛けてある。配膳のカウンターにもコバルトブルーのクロスが垂れ下がっている。


 
 サレの街とラバトを隔てるのは、ブーレグレグ川である。両川岸は地元の人たちの格好の水浴び場になっている。河口に近い場所なので水の色は海と同じコバルト色で、真っ赤に塗られた船体に白いブリッジを乗せた船が、ブイのついた長いロープを引きずっている。漁でもしているのだろうか。ここでは見るものすべてが絵画的である。
 それにしても川の名前のブーレグレグは、奇妙だが何となく口にしてみたい響きだ。その意味するところをガイド氏に聞いた。ベルベル語で川の流れる音からとった名前だと言われたような気がする。それが間違いないとするならば、心地よい安らぎを与えてくれる川音の擬音は、いわゆる1/f のゆらぎの振動数を持つ音である。そよ風や心臓の鼓動にも似た、宇宙の振動との同調を思わせる素敵な名前である。その言葉の意味について確認が取りたくて、旅の後に東京のモロッコ政府観光局に問い合わせてみた。しかし観光局は閉鎖されたという。モロッコ大使館に照会して見た。男の係官が出てきて、『分かりません』という。『ええ?』と訝ると『いや、本当に分からないのです』と、繰り返す。愛想のない応対であるが、どうやら本当に知らないのだろう。
 実はここにこの国の国柄が隠されている。北アフリカの北西部には、紀元前から先住民としてベルベル人と呼ばれる人たちが住んでいた。「ベルベル」とはもともとギリシャ語の「バルバロス」から来た言葉で、意味の分からぬ言語を話す野蛮人という意味だった。
 このベルベル人がどこから来たのかは定かではなく、言語系統としてはハム語族と分類する説もあったが、文字らしい文字を持たなかったために歴史的文献もなく、はっきりしないのである。この地に勃興したベルベル人の王朝は、有史以来何度となく外部から侵入してきた他民族の征服を受けて、比較的短い寿命の興亡を繰り返してきた。八世紀のアラブの侵入以降は、急速にイスラム化し言語もアラビア語を受け入れアラブ化したのである。
 勿論アラブとの混血も進んだ。現在も、ベルベルのアイデンテテイと固有の文化を墨守している人たちはいるが、山間部や砂漠地帯のオアシスに追い遣られている。現在モロッコ語といえば、それは アラビア語である。従ってブーレグレグとはどういう意味と聞いても、正しい答えが帰ってくるのは無理なのかもしれない。
 我々が「知床」という地名はどういう意味かと外国人に聞かれたら、それがアイヌの言葉の読み替えという想像はつく。その原義は「地の果て」ということだそうだが、よっぽど物知りでなければ説明できないのと同じなのかもしれない。

 ラバトからこの国最古の都フェズへ汽車の旅をした。モロッコを語るとしたら、欠かせないのはメディナであろう。メディナとは古い街区のことである。フェズの旧市街は生活空間であり、商工業街区でもある。フェズでは暑さを避けるために、摺鉢の底のような窪地に、折り重なるように密集している。その街を迷路のような通りが縫っている。
  
 フェズ駅のある新市街から旧市街へ入り、車を乗り捨てて歩くとすぐ王宮の前へ出る。アーチ状の正門は金色の扉で閉ざされている。門の彩色は、上品な灰色がかったブルーが基調で、フェズ・ブルーと呼ばれている。そして緑の線が輪郭を引き締めている。見事なその門に見とれて数えてみると、アーチの数は3つある。門の最上部は、さらに細かいアーチの集合で飾られているが、その数は9つと、その倍の18だった。

 モロッコでは随所でこのアーチを見かけるが、その数は3つか、5つである。フェズ駅は5つであった。ただの通用門とか補助的な側門のように1つの場合もある。2つ一対のアーチを見かけることは  皆無ではないが稀である。ピタゴラスの数秘論など古来伝えられている数の秘義によれば、1はすべてを包含し、2は陰陽のごとき対立を、3は2にもう1つが加わって調停、調和であり、5は手足の指の数で創造を意味する。9には定説がないが3掛ける3で、宗教的な悟りであるとする見方もあるようだ。アーチの数にこのような数の秘義を当てはめて考えるのもあながち見当はずれではないのではと思う。我々の身近で見られる仏塔の場合にも、三重塔や五重塔、また搭上の九輪に、同じ数の意味を当てはめることができる。人間の認識が文化の伝統の相違を超え、根源的な共通性を持つような気がして興味深い。

 ブー・ジュルード門の堂々とした3つのアーチを通して、旧市街フェズ・エル・バハリの雑踏とモスクの塔が望見される。コバルト色の空を背景に、ジェルード門のフェズ・ブルーのアラベスク 模様が美しい。フェズの顔と呼ばれている門である。

 

 メディナの中のスーク(市場街)は、ほの暗い無数の迷路が縦横に走っている。ガイドなしでは、たちまち迷って立ち往生してしまうだろう。狭い迷路を人間ばかりでなく時には羊の群れや、荷物を一杯に積んだロバなども罷り通る。

 路上にゴザを敷いて雑多な売り物を並べている。                                                                                                                                                                               店構えの食品店があった。間口が狭いその壁には、びっしりと商品が陳列されている。戸口の前には白い布でカヴァーされた笊が置かれ、商品が円錐状に積み上げられている。すべてが整然として  美しい。
 絨毯屋の内部には入り口からは想像もできない広壮なパティオがある。パティオを囲んで、三階建ての回廊が店内を見下ろしている。屈強な若者たちがそのパティオの床に、次から次へと見事な手捌きで絨毯を繰り広げていく。魔術にかかったようになり、とうとう小ぶりのベルベルの絨毯を一枚買ってしまった。後から冷静になって反省した。つい気圧されて大胆に値切ることができず、矢張り高い買い物をしてしまったようだ。

 スークには真鍮細工、木工細工などの手工業の街区があるが、その中の圧巻は皮なめし職人の地区であった。狭い階段を登って陽光に晒された屋上に出る。そこからフェズ川の川岸に向って、かなり広いテラスが続いている。テラスの床には数多くのコンクリートで固めた楕円形や長方形のピットが掘られ、そこに色とりどりの染料が湛えられている。そしてなめされた皮が、周壁一杯を覆うように吊るされている。皮なめしの強烈な匂いから解放されて、別天地のように静謐なメデルサ(神学校)に入る。大理石を敷き詰めたパティオには噴水があり、明るい空が眩しかった。
                
 メディナのところどころには、空に向って開かれた小広場がある。その一つの広場で、プラタナスの大木が心地よい日陰を作っていた。傍らのカフェで、ミント・テイーを楽しんでいると、子供達の歌声がした。誘われて歌声の方に近寄ると、通路の壁に窓枠もない大きな開口部があった。ここはメディナのメクテブ(初等学校)なのだろうか。内部は白壁に土間だけの空間で、粗末な木製のイスに腰掛けた10人あまりの子供たちがいた。若い女性が先生役なのであろう、子供達にコーランの一節を暗誦させている風であった。
                 
 フェズの後マラケッシュの町に行き、ここでベルベルの文化に触れた。これは割愛する。

 双六ゲームの賽の目が「振り出しに戻る」を出してしまったわけではないが、出発点のカサブランカに戻る。カサブランカという詩的な響きの名前を持つこの都市は、古い伝統の顔と貿易港としての  近代的な顔という2つの顔を持っている。しかし最も外来者の目を奪うのは、抜けるように青い空や大西洋と、白い街のコントラストである。
 昔話に『塩を挽き出す魔法の石臼が海の底に沈みいまだ廻り続けているので、海水が塩辛い』というのがあったが、ここでは、コバルトブルーの絵具を吐出す魔法のチューブを空と海のどこかに置き忘れてきたのではないかという冗談が出てきそうだ。
 
 街から太平洋に突き出した突端に、前国王ハッサン二世の建立したモスクが壮大な威容を見せており。その石畳の広場は八万人を収容できるという。モスク全体はベージュと緑のシンプルな彩色である。二重の屋根に守られた伽藍の前面中央には、高さ2百メートルというミナレット(尖塔)が屹立する。頂上の小塔は金色の三連珠を頂き、主塔の上端には緑色のアラベスク模様の帯を巻きつけたかたちである。上部には5つのアーチが、低部には3つのアーチが開口している。この地のモスクの典型なデザインである。
簡潔でつよい造形のセンスと、洗練された色彩感覚は、きっとこの地の風土が、乾燥と必死に戦う精神が生んだものに違いない。

 

 午後の日が、大西洋に落ちようとするとき、この街は昼間の輝きを失って淡い茜色の中に浸っていく。マグレブ(日の沈む場所)にはそこはかとない寂寥感が迫ってくる。
 これは、旅の終わりの旅愁であろうか?それともモスクに象徴されるイスラムの終末観の反映なのだろうか?
アラーを唯一の神と戴き、この世での勤めをまじめに果たせば、最終の日の審判で天国の至福へと導かれる。人々はそう信じて今日の勤めを終えて夜の休息につく。
夜の帳に吸い込まれ輪郭が薄れていく街々、その中であちこちのモスクのミナレットは、日の終わりの残光を集めて立ち続けていた。(了)

 


ゴルフ紀行13―その13インドでのゴルフ・深い魂の河畔で一

2012-06-25 13:27:14 | インド

―その13インドでのゴルフ・深い魂の河畔で一

 1995年の夏、南インドを旅行した。カルカッタ経由でベンガル湾に面した港町のマドラス空港に着いたのはもう日もとっぷり暮れた時刻であった。ターミナルの外へ出て、突然襲ってきた驟雨に当惑しながらあらかじめ手配してあったガイドの姿を探していると、スーツケースを乗せた手押し車に何人かの男たちが先を争って群がってくる。手を振って断ると意外にも彼らは拍子抜けするくらいおとなしくさがっていく。北のカルカッタでは、こういう手伝いの押売りにしつこく付き纏われて往生した。国際線から国内線へ移動する間、自分で押しているカートに断っても断つても手を添えてきてなにがしかのチップをせがむのだった。
 雨中の街路は車や自転車や歩行者が犇めき合い、泥だらけの混雑振りを呈していた。道端に所狭しと積み上げられた日用品に群れる人々の姿が電光のなかで黒々と揺れている。ホテルに着いた。マドラスで一番の目抜き通りに近い場所だ。白亜の外観は立派だったが、通された部屋は湿った空気が淀み、床の絨毯も薄汚れていて埃っぽい。旅装を解くのを思わず躊躇してしまう。
『ああ、ここはやはりインドだ!』これからの十日程の旅程を思いやって、一瞬ちょっとブルーな気分になった。

 インドヘは二度目の旅だった。その十二年程前に仕事で北インドを二週間旅行して以来、 もう一度来たいという思いを温め続けてきたのである。翌朝、朝日に輝くヒンズー寺院の塔を見上げた時にその不思議な魅力に圧倒され、胸の中が興奮で熱くなるのを覚えた。その塔はヒンズーの神々の浮き彫の群像で覆われ、幾重にも層をなして聳えていく。極彩色とスタッコの質量そのままに、 この国の人々の濃密な祈りを体現しているようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

  靴を脱いで裸足になり寺院の境内に入る。まだ午前も早いのに境内は色々な姿の老若男女で賑わっている。見るからに裕福そうな身なりの貴婦人がお供を従えている。粗末なシャツによれよれのズボンをはいた貧しい人々もいる。修行僧もいれば、鼻汁をたらした子供もいる。修行僧は白い装束に身を包み、赤銅色に日焼けした額に白い聖灰のまじないの印をつけて杖をついている。

 鉄製のテーブル状の台の周りに人々が群がり、灯明のようなものが供えてある。あれは命の火なのであろうか。奥まった場所のシヴァ神の像の周りを人々が何回も廻ってお祈りをしている。一種の「お百度参り」なのであろう。
 大きな木の箱の中に、力一杯ココナツの実を投げつけている人に驚かされる。飛び散ったココナツの白い果肉が眼にまぶしい。何かの願い事なのだろうが、むざんに飛び散った殻や果肉のさまに、人に潜んだ破壊の本能とその営みを見る思いがした。みんな殆ど言葉を交わすことはない。真剣な表情ばかりである。
 石畳の上にサリーを着た一人の若い女性がじっと座って物思いに耽っている。誰のために何を祈っていたのだろうか。私の詮索がましい視線を感じたのか、私の顔を見返してくる。その眼差しに、 吸い込まれるような深い淵を感じた。

 寺院はいつも街の只中にある。周りはインドの人々の生活の匂いで満ち満ちている。路傍は常にひどい穴だらけだ。人々は土埃や汚れを友として、その中に生きる運命に心安らかに浸っているようにさえ見える。老婆が道路の上に赤い花弁を沢山拡げて一心に花飾りを作っている。石畳にじかに座って俯いたまま顔も上げない。その姿はまるで永遠の彫像のようだ。
 子供が物乞いに来た。大人のTシャツを膝の下まで羽織っただけのみすぼらしいなりだ。いつまでも後を追ってきて離れないので、写真を1枚撮らせて貰ってお礼に小銭を握らせた。するとその子は一瞬はにかんだような表情を見せ、その後どうしたらいいか判らないといった風に荘然と突っ立っていた。

 インドは実に多様性に富んだ国である。言語も何千種類も有るくらいで、土地によって人々の生活様式も気質も違うという。

 ………以前にこの国に来た時は、物乞いにお金を渡すものではないと教わった。事実、オールド・デリーに近い観光名所のレッド・フォートで、物乞いの女性たちの一団に取り囲まれた時は怖かった。彼女たちは一見してハンセン氏病の跡が認められたが、私の腕に取りついた力は凄かった。苦し紛れに誰か一人にお金を渡そうものなら、我も我もと収拾がつかないことになっだろう。
その点南インドでは人々の気質は概して温和で、いわゆる伝統的なドラヴイダの恥の文化があるといわれるのも肯けた。

 昔インドの北部を訪ねた際の、いくつかの出来事を思い出す。
 ……デリーの旧市街に近いレッド・フォートを訪れた時のことだ。砦の高い城壁の上から川原が見下ろせた。17~8歳の男が、川原に拡げられた4~5m四方の天幕のようなシートの下にもぐり込む。男はシートの中央の穴から首だけ出して横たわっている。すると弟らしいまだ小さい子供が太鼓を叩く。突然信じられないことが起きた。太鼓のリズムが速度を増すと、男の身体が横になった姿勢のまま、宙に浮き上がってくるのだ。そして数メートルの高さに達したかに見えた。あれは目の錯覚だったのだろうか。見物者から喜捨をねだっている若者の手には、竹の棒が握られていたが、ひょっとするとあれが彼の魔術の小道具だったのかもしれない。横たわったままに見えた彼の身体の線は、あの竹の棒だったのかも知れない。…………

 ………魔術といえば、ゴルフ場で財布の中から実に巧妙にお金を抜き取られた。カルカッタのゴルフ場は、英国の外では世界で最古のものだという。クラブのゲートヘアプローチする道路は薄汚い 住宅が犇いてていた。しかし一歩構内に入ると、 クラブハウスはなかなか古風な風格があって伝統を感じさせた。
 ゴルフ場でついたキャディは初老の背の低い男だったが、油断のならない鋭い目付きが気になった。午後遅いスタートだったのと黒い雨雲が低く垂れ込めてきたので、ハーフ・ラウンドだけで プレーを打ち切って帰ることにした。日本と違って9番のグリーンはクラブハウスから最も遠いところにある。濃い木立を通り過ぎようとしていたら、フォア・キャディを勤めていた少年が、しきりに訳の判らない彼らの言葉で話し掛けてくる。ふと気がつくとキャディ・バッグや私の荷物を担いでいたくだんの老キャディの姿が見えない。振り返ると、木立の蔭からそのキャディが小走りに駆けてきた。キャディに心付けを直接払うシステムで、きまった額の料金制度などというものはない。財布は預けた荷物の中の下着の包みに隠してあったのだが一応気になって中身を改めて見た。クレジット・カードや円やドルはちゃんとあるので、安心してしまった。ホテルに帰ってきて、落ち着いてルピーの現金を調べて見ると明らかに抜きとられていて、臍を噛んだ次第であった。………さてその時の旅の話に戻る。

 マドラスから更に飛行機で南下したマドゥーライの町は、インド亜大陸の南端に近いタミール文化の中心地だ。車で4~5時間かけて西ガート山脈の南端の高地へと向かった。ペリヤール湖の野性動物保護区を訪ねるのだ。『マジソン郡の橋』の作者の第二作、『スロー・ワルツの川』の重要な舞台になった場所である。

 風変わりな独身の教授、マイケル・ティルマンと同僚の教授の奥さん、ジェリー・ブレーデンの運命的な出会いは、パーティーで二人がそれぞれのインド体験に就いて語り合ったことが発瑞となった。そして二人の道ならぬ恋は、アメリカ中西部の退屈な地方都市の大学のキヤンパスから天駆ける。ここ南インドのベリヤール湖の畔のバンガローでクライマックスを迎えるのである。
 私の方は憧れのベリヤール湖の野性動物遊覧ツアーが原因で、初めて旅先で病むことになった。高地で気温も10度を少し越えた程度だったのと、おまけに横殴りの雨と強風が原因である。 結局虎にはお目にかかれなかったが、象や野牛や猪に鹿、珍しい野鳥類などの姿を追い求めて、2時問あまり冷たい風雨に身体を晒してしまった為である。インド通にいわせると、高級ホテルのエアコンに巣くうヴィールスが曲者だそうだ。
 お蔭で三日間は高熱にうなされたが、旅程を変えずアラビヤ海の港町コーチンを経てバンガロールに辿り着いた。インドではエアコン・シティと呼ばれている、涼しく過し易い高原都市だ。何とか肺炎なども起こさず熱は下がったが、ヴィールスが今度はお腹を襲ったのか、一週間以上も下痢に悩まされることになった。ただでさえ万華鏡を見るようなインドが眼中をぐるぐる回る。ホテルのベッドや車の座席の上で、まどろみやうつつの中で世界が回る。高熱がそうさせるのだ。暫らくは苦行の旅が続いた。

 ………ベリヤールヘくる途中のタミール・ナドゥの回舎道。遠景の奇怪な台地状の岩山。子供たちが1列縦隊でいく。ヒンズーの日曜学校へ通うのだという。手に手に給食用の椀を持ち嬉々として歩く。大きなインド象が道を塞いでやってくる。車を降りてカメラを向けると迫ってきて、危うく悲鳴を上げそうになる。象の背中の青年に促されてルピー札を差し出すと、鼻の先で器用に受け、腰を折ってお辞儀をする。その眼は優しい。
 
 マドラスの高級住宅街のインド占星術師を訪ねる。そよ風のポーチで占星術師は事も無げにいう。
 『貴方の老年期は平穏無事でしょう。』
 『貴方は生後X回目の暦月が満ちた時、突然の死を迎えるでしょう。』
 『………………………』
 戸外に出ると、向かいの邸宅から若い女性が現われた。サリーを優雅に翻して車に乗り込もうとする。何となく物問いたげで、神秘的な表情が微かに動いた。

 アラビヤ海からの湿った南西の季節風が吹く。ケラーラの地は水溜まりと泥濘が旅人の足を、いや車の運行さえ鈍らせる。コーヒーや茶やスパイス類などの緑の森に埋もれたテッカディ(ペリヤール)からコーチンまでの、たったの140~150キロの行程に、なんと6時間余りを要する。悪路の振動で何度か車の天井に頭をぶつけそうになる。途中で立ち寄った路傍のスタンドで、コーヒーを飲んだ。カップ の汚さが気になって、熱い液体を消毒がわりに流してから唇を添えて喉に入れる。ミルクとサフランと蜜の混ざったコーヒーの味は吃驚するくらい美味である。高熟で火照った身体に注ぎ込まれて生き物となった。
 バンガロールの遠い郊外のプッタパルティ。広大な土地に無料の病院や無料の大学の建物が展開する。その奥に偉大な宗教指導者サイババのアシュラム(修行場)がある。午後のダルシャン(集会)に参加する。ひたすら隣人への愛のみを説くその人の回りに、その日は千数百人の人々が集まっていた。会場への入り口で探知機の門を潜らされた。カメラ携行が禁止なのは知りつつも、撮影する気がないので荷物の奥深く忍ばせて置いた。果せるかな見つかってしまった。うんと絞られるのかと一瞬覚悟したが、見張り人が親切に預かり場所を教えて呉れた。やっとの思いで一息ついた。玉を転がすような音楽と群衆の憧れのざわめきの中に暫らく身を浸す。信仰心の足りない私は、身体の向きを変えようとして、左の大腿を次に右の大腿を痙攣ささせて苦痛に顔を歪めていた。…………

 バンガロールに戻ってやっと熱から回復した。そこでバンガロールでゴルフをした。
 白と薄いピンク色の割合瀟洒なクラブ。ハウスを出て、陽光の映える前庭に立つ。素晴らしい枝振りのバニャン・トリーが心地好い蔭を落している。熱が下りたのがあらためて嬉しい。今更ながら健康の喜びを感じる。お腹の方はいずれなんとかなるであろう。幸いにして食欲もある。メンバーの一団がスタートするからというので、7番ホールからやってくれとぃう。こちらは一人のプレーだから文句もいえない。1番のスタート地点に広告の看板が幾つも並んでいるのはちょっとどうかと思うが、これもお国柄なのだろうか。  
 キャディ氏は黒光りのする坊主頭で、乱杭のような白い歯と短くて白い不精髭が日立つ。まるで骸骨のように風采が上がらない。しかしその仕事振りはなかなか水際だっていて、見事であった。グリーンのラインや芝目の読みは実に的確である。しかも先ず念入りにボールを磨いてから、ボールの印刷されたマークをパッティングの方向にキチンと合わせて置いて呉れるのである。そのボールを置く時の手つきのしなの付け方もなかなか堂に入って憎かつた。おまけにチヤーターした車の運転手が私の荷物の袋を後生大事に持ってラウンドの間中付き添ってくれた。カメラ係を頼んだところが、いろいろなショットの瞬問の写真を沢山撮ってくれたのである。

  このクラブはバンガロール市街の中の公園に隣接している。さすが土地の広さの制約があるようで、何と三つのホールのフェア・ウェイが交錯する所があつた。折角我ながら素晴らしいロング・ドライブを打って意気揚々とフェア・ウェイの真中を歩いていると、キャディが左端を歩けとしきりにいう。右後方からインド人の家族連れの一組がやってくる。そうこうしていると、今度は遥か右前方から斜めに横切って行く一組が見えた。優先権についてちゃんとしたルールが有るらしく、お互いに手を振ったりして和やかに通り過ぎていく。皆裕福で豊かそうな人たちだ。サリー姿の女性がコースの片隅で地面に張りついたようにして黙々と草むしりをしている。夕日が彼女の場所から長い影を曳いていた。

 その夜はヒンズー教の幸運の神様であるガネーシャの祭で、街は遅くまで娠わった。
 ガネーシャは、破壊の神様であるシヴァ神と女神パールヴァティの間に生まれた長男だが、或る日シヴア神の怒りに触れて首を切り落とされた。偶々そこに象が通りかかったのでその象の頭を切ってすげ替えられてしまったという。かくしてガネーシャは、象頭の姿でしかも愛嬌たっぷりの大鼓腹の姿の神様である。インドでは幸運を象徴する最も愛されている神様だ。 
 祭りの雑踏の中で少女が後を追ってきた。振り返ると私を見上げて、右手を自分の唇に当ててこちらに差し出す動作を何回も繰り返す。喜捨を乞うているのだ。お祭りを祝う食べ物を買うお金も無いというのだろうか。ポロシャツを大きくせり上げているわが大鼓腹に気がついて苦笑しながら、ガネーシャ様に成り替わったつもりになって、何枚かのお札を少女の手に握らせた。
 その額はいかにも多すぎたのだろう。その子は信じられないというように大きく眼を見開いて、走り去った。
  『きっとガネーシャ様が下さったのだわ。』あの子はそう思ったのに違いない。 少女からこぼれ出た喜びの表情は、まるで小さな奇蹟を見るように輝いていた。その子の長い髪が蝶々のように飛び跳ねながら群衆の波の中に呑まれていくのを目で追う。
  『施しを受けたのは、むしろお前の方なのだよ』という声を私は心のどこかで聞いていた。(了)


ゴルフ紀行・12 -韓国でのゴルフ・「釜山港へ帰る!(もうひとつの心の故郷への旅)ー

2012-06-25 10:29:14 | 韓国

 ゴルフ紀行・12 -韓国でのゴルフ・「釜山港へ帰る!(もうひとつの心の故郷への旅)ー

  私の人生にとって、最初の港は釜山だった。
 12才の初冬、私は「引き揚げ船」で釜山港から故国日本へ向けて出航した。旧満州の安東を後にして朝鮮半島経由で帰国した時であるが、それは約40日に及ぶ困難な旅の最後の行程だった。
この出港は私を育んでくれた幼・少年期のルーツからの旅立ちだったのである。
 朝鮮半島に関する私の体験は、幼・小年期における国境の町安東の生活と、敗戦後1946年に故国に引き揚げた時に通過したこの旅に始まる。

 その後長い中断があった。1985年つまり今から約27年前香港に駐在していた際に、業務出張で香港からソウルを訪れる機会があった。そして1995年の夏、国際会議の為、再び10年振りにソウル
を訪れたが、その帰路に鉄道で釜山まで足をのばした。つまり敗戦時以来約50年振りに釜山の港を目の当たりにすることになったのである。

 「市街地に近い所」と指定しておいたホテルは、小高い丘の上にあった。部屋に入ると、内窓のすりガラスの格子がいかにも韓国風なのにまずこころを惹かれた。私がその引き戸をさっと開けると
国際航路の貨物埠頭が突然眼下に出現して、思わず息を呑んだ。埠頭には、勾配屋根の倉庫が二列並んで居たのだが、それはまるで約50年の歳月を越えて、昔の記憶そのままの姿で目の前に蘇り、午後の陽を浴びて喧騒のさなかに佇んでいたのだ。

 …………50年前に、我々安東からの引揚者の一行数百人は、 時化で到着の遅れた日本からの「引き揚げ船」を待ちながら、約10日間その埠頭の倉庫の中で生活したのであった。 …………

 今、目前の埠頭には貨物船が3隻停泊しており、積荷作業が行われている。コンテナーや積荷の木箱が所狭しと置かれている。この国の戦後の発展と、釜山の貿易港としての繁栄振りが窺える
ような気がする。あの50年前の様子とは、様変わりである。
 …………あの時の港は、季節が初冬であったこともあるのだろうが、いかにも寒々として、あっけらかんと静かだった。そのとき我々は、ソウルの北の議政府という町を夜行列車で発ち、翌朝
釜山に到着したのである。列車は港湾の引込線に入って転轍機の切替えのたびに大きく揺れ、大きく「ふう」と息を吐き出すようにして止まった。私は車内で何度か足を取られた。我々は有蓋の
貨物車の中から吐き出されるようにして降り立った。そして寝不足の眼をこすり、寒さとひもじさに震えながら、11月初頭の薄日さす港の朝を迎えた。……………

 …………我々は敗戦の翌年の昭和21年(1946年)の10月初旬に、旧満州の安東を発ったのである。30数隻の漁船を傭船したのだが、大半はエンジンのない帆船であった。西朝鮮湾と黄海の荒波
に揉まれ散々船酔いに苦しみながら約一週間の船旅をした。昼は狭い甲板に鈴なりになって犇めき合い、夜は漁獲を一時格納する「むろ」の中で折り重なるようにして過ごした。
 船団は北朝鮮の漁港に着いた。北朝鮮と南の韓国を隔てる国境線の北緯38度線に程近い場所である。我々は二昼夜をかけていくつかの丘を徒歩で越え38度線を越境した。重いリュックサックの
紐が肩に食い込んで痛い。「いったいいつになったら目的地に着けるのか」というやるせない気持からやっと開放されて、南側のとある寒村の民家に分宿することになった。十日振りぐらいに、
人間らしい食事にありついたのである。その時の白い米の飯とキムチと干し魚の味、そしてオンドルの床の暖かさは一生忘れられない記憶である。戦後食うや食わずの一年余りの生活に加えて、
船中では乾パンをかじるだけの毎日だったので、私は栄養失調で黄疸にかかって脱力感に苦しんでいた。ここでの休養と栄養補給で何とか持ち直したようである。この強行軍では、最初の野営地
の「念仏」というところで老人が一人亡くなった。
 我々は、最寄りの海岸で米軍差し回しの上陸用舟艇に乗って仁川港に上陸し、そこから前述の議政府の郊外に設けられたテント村に向かった。そこで検疫のため二週間の滞在をした。…………

 ホテルの窓から釜山の街を眺めていると、次から次へと思い出が沸き上がって来て、尽きることがない。                
                
 午後からタクシーをつかまえて、観光に出ることにした。街の周辺をと考えていたのに、日本語を話す運転手にうまく言いくるめられて、通度寺(トンドサ)という尼寺に連れていかれた。                  
 近いということだったが、結局は高速道路で小一時間もかかる所だった。しかし今となってはこの運転手には感謝したい。
 川幅は狭いのに水量の豊かな渓流に沿って、山間の道を車で蛇行する。深い緑の茂みが空を覆い、都会の喧騒から隔絶した隠遁の場所の雰囲気である。境内の中心にある建物は、回廊のついた                
二階屋だった。屋根の甍がしなやかで優美な曲線を描いて左右に反り上がり、掃き清められた庭と手入れ良く刈り込まれた植木の群れに映えている。何軒かが連なった長屋風の平屋の僧坊には、
縦に細かい桟のついた障子戸があり、その桟の黒と地の白のコントラストが美しい。尼さんの姿は見当たらない。「静慮軒」という額の掛かった、白壁の僧坊の前を通り過ぎる。その中から庵の主
の咳払いする声が漏れて来た。………その声はしわがれ、老いている。各々の戸口には昔懐かしい舟型をした靴が一揃えずつキチンと置かれてあった。幼少の旧安東時代に見慣れた靴だ。どの靴
も爪先が部屋の方を向いているのは、世間へ背を向けているということなのか、それとも単なる習慣の相違なのだろうか。
 静冽な水面を見る様な雰囲気があたりを浸している。
その底にはきっとそれぞれの人生の葛藤や重い過去を沈めているのだろうが、表面は決して波立つことがないといった風情である。心に染み入る光景であつた。

 ふと、旧満州の安東の少年時代に見た、ある葛藤の光景が目に浮かんで来る。

 …………近くに、朝鮮の家族の住む家があった。一族郎党が一緒に暮らしている大家族だったが、ある日その家族の凄まじいいさかいを目撃することになる。
 細かい砕石を積み上げた石塀の古びた木造の門が荒々しく開いた。そして二人の男がくんづほぐれつ転がり出て来た。老人と若者であったが、白い朝鮮服に飛び散る赤い鼻血が鮮やかだった。
罵り合うその言葉の激しさと大人の暴力の凄まじさに圧倒されて膝が震えた。女たちが数人取りすがって二人をやっと分けた。すると、突然若い男の方が私を指差して何か叫んだ。女たちも一斉
にこちらを向いたが、その眼に非難の色が浮かんでいるように見えた。老人がまず私を見て、それから大声で何かたしなめるように言い返した。そしていさかいの後始末は塀の中に移った。 
 私はただ呆然と門の外に立ちつくした。私は子供心に、他人の家の内輪もめを無遠慮に見物したことを詰られたのだと思った。しかし彼らの遺り取りの中に何度も『イルボン……』という言葉
が飛び交った。『日本』とか『日本人』とか言っていることは漠然とは分かつても、それが何を意味するかまでは理解出来なかったのである。暫くして、若者は帽子と鞄の簡単な旅装で出て来る。
そして門の中へ深々と頭を下げ、私の方ヘは一瞥もくれず立ち去って行った。………………
 今にして想像を巡らすならば、彼らのいさかいのもとは、支配者の日本人に対する身の処し方に関わる深刻な問題であったのだろうか。
 ……例えば反日活動への参加にはやる若者と一族の安全をおもんばかって軽挙を戒める長老の争いとか……

 ………敗戦の翌日の8月16日、身の廻りの状況がまさに一変した。いつのまに用意していたのか、大極旗を振りかざして大通りを練り歩く朝鮮の人々を見て我々は呆気に取られて物陰に隠れた。
我々の居る場所が無くなる。我々は一体どうなってしまうのだろう。当時まだ小学生だった私でも、想像を超えたどえらいことが起きつつあるような不安を感じた。例の、いさかいのあった家の
前を通り過ぎようとした時、あの日の老人に再び出会うことになる。あの時と変わらぬ白い朝鮮服と黒い山高帽で、長いキセルを手に悠然と立ってこちらを見ていた。
 『子供はなんにも心配することはないんだよ。……』とでも言いたげなその穏やかな眼差しは、門内の庭に広げて干されていた唐辛子の鮮やかな赤い色と共に、心に焼き付けられて消えることは
ない。……………

 尼寺の近くは近郷の人達にとって憩いの場所のようで、家族連れや若い男女のカップルがのんびりと散策をしている。

 その時の韓国の旅で一寸意外に感じたのは、山々が緑の木々で覆われていたことだ。引揚げの時通過した半島は、季節が冬だったせいもあるのだろうが何処も禿げ山だらけで、殺伐としていた
ような印象がある。その点は釜山に来る前の週末にソウルの郊外でゴルフをした際にも痛感した。かつての勤め先の仲間との久しぶりの手合わせだった。昔の記憶とは異なり、濃い緑に覆われた
豊かな自然がありほっとしたのである。おまけにソウルでは、 7月の上旬だと言うのにやっと梅雨の始まりだった。その日は朝から酷い吹き降りだった。雨に滴る樹々が季節の恵みを満喫して、まるでてんでに狂喜して乱舞しているかのようであった。
 ゴルフクラブのフロントでグリーン・フィーを現金で先払いして、やや薄暗いロッカー・ルームに入る。内部は清掃が行き届いているが、全体に質素な感じだ。ロッカーなどもすべて木製だ。
たてつけも完全でなく、押すとがたぴし揺れる。『貴重品入れは?』と尋ねたところ、係員がやって来て、これまた木製の古めかしい薬種棚のようなロッカーへと案内された。そしてその引き出しの
一つを自分の鍵でうやうやしく開けて、その中から番号のついた鍵を取り出して手渡して呉れた。ずいぶん念のいったやりかただった。
 雨と風はますます酷く、日本なら当然クローズになっても不思議でない状態だ。しかし減多にない機会だからと、雨合羽に身を固めてスタート地点に向かう。韓国の人々の何組かがスタートの
順番待ちをしながらたむろしていた。彼らは豪雨などものともせず、嬉々として次々とコースに出て行く。 
 

 テイー・グラウンドにゴム製の格子が敷かれてあるのは、日本でもたまには見かけるスタイルではあるが、ご丁寧にも大小のゴム製のテイーまで備えつけて有るのは面白い。資源保護の為だと
言うがなるほどと思う。我々は三人のプレイであるが、キムさんとパクさんという若い女性のキャディがついた。記念にとカメラを向けるとくるりと背を向けられてしまった。どうやら恥ずか
しいということらしいが、真意はよく分からない。               
 一番ホールはやや打ち上げのタフなミドル・ホール。第一打をやっとの思いで打ったが、フェア・ウェイもラフも川のように氾濫している。ボールが水しぶきを上げる。打てども打てども前に
進まない。次のホールのテイー・グラウンドに立つ。

 『10年前に出張で来た時に、韓国のゴルフ場は夜になるとフェア・ウェイにピアノ線を張り巡らすと聞いたけど、そんな形跡は全然見当たらないねぇ。北朝鮮のスパイが夜間にグライダーの
低空飛行で潜入するのを防ぐ為だって聞いたんだけど?……』と尋ねるとソウル駐在の友人たちはキョトンとしている。ところが私がまたカメラを取り出してコースを撮ろうとすると、キャディが
一斉に何か叫ぶ。『コース内では撮影禁止と言っていますよ』と友人が通訳する。やはり、国家安全上の配慮なのだろうか。…………

 1985年の出張の時に懐かしい議政府を車で訪れたことを思い出す。………ソウルから北へ延びる山間の道路には、数キロ毎にコンクリートの壁が野を横切り、道路の上にはコンクリート         の蓋が緊急の場合に道路を塞ぐ形で落ちて来る仕掛けになっていた。朝鮮動乱の時に北から戦車の電撃的な進入を許した、苦い経験によるものだという。この国の日常的な緊張の高さを        思い知らされるようなその当時の経験であった。 ………
 
  ……茶屋でひと体みする。よしず張りの日除けが細かい寄せ木の屋根や壁から張り出しており、いかにも土地柄を感じさせる鄙びた風情だ。ショート・ホールでテイー・ショットをしたときだ。
いきなリグリーン・キーパーが出て来て、カップの位置を変える作業をし始める。
 『ここは、いつもこんな調子なんですよ』
 『お客さんがコンペの途中であろうがなんであろうが、委細構わず自分のペースでどんどんやるんですから』 (笑い)
 すると、キャディ達が顔を見合わせて、何かぶつぶつ言っている。
 『彼女たちは、 日本語は分からないんですが、悪口を言っているのは分かるらしく、抗議しているんです』        
 実のところ彼女たちの仕事ぶりは極めて良く訓練されていた。重いバッグを肩にかついでいながら、客のクラブが濡れないように細かく気を遣い、ディボットやグリーン上のボール跡の修復         などもテキパキとこまめにやった。
 隣のコースの林を昔懐かしい「カササギ」が飛ぶ。幼少時代丹東(旧安東)でよく見かけた鳥だ。小学唱歌『夕焼け小焼け、空の空のカササギは………』のメロデイがふと浮かぶ。
すぐ近くを進むキャディのキムさんを視野に入れながら傘をしごいて、『カッチ!(カササギ)』と叫んでみた。すると、一瞬キムさんは当惑したようなはにかみの表情を見せながら、私の傘の
中に入って来たのである。(カッチは“一緒に”と言う意味もある)私が再度カササギの方を指でさし直して『カッチ』と言うと、彼女はやっと気付いて私の肩を平手で叩いて逃げ出して行った。
後にはニンニクの匂いと化粧水の香りが仄かに残った。

 午後のイン・コースになって雨が上がった。我々はキヤディたちとすっかり打ち解けて、冗談を言いあって和やかにプレイを続けた。さっきのグリーン・キーパーと又出会う。何やらキャディ
たちに命令口調でものを言っているが、その態度はとても高圧的で横柄である。

 香港駐在時代の韓国バーでの経験を思い出す。
 ………客のお相手をする女性たちは高卒か短大卒の学歴者が多かったが、同国人のビジネスマンたちは生のブランデーを灰皿になみなみと注いで彼女らに無理にイッキ飲みをさせたり        していた。日本人の駐在員たちは紳士的で優しいからと彼女らに人気があったが、こういう場所で示される男尊女卑的な傾向は韓国の方が強いのだろうか?彼女たちは日韓併合時代に          半島の人に行なっていた日本人の抑圧の数々や、民族の誇りを守る為に抵抗した人たちにまつわる数々の悲劇を繰り返し教えられている筈である。目前の日本人と「昔の日本人」をどの         ように比較・判断しているのだろうかと、よく思ったものである。…………

 ラウンドが終わった。暮れなずむコースをこんもりとした木立が取り囲み、グリーン廻りの植木の列が道祖神のような形に刈り込まれている。その美しさが風と雨の丘での一日のプレイを         優しく労ってくれたのである。…………

 通度寺(トンドサ)の尼寺の山を降りて、麓の村の焼き肉屋に入る。鄙びた平屋のオンドルつきの小部屋で寛いだ。給仕に来たっ中年の女性の立て膝の座り方が懐かしい。
 昔、安東から国境の川・鴨緑江を渡って対岸の新義州によく遊びに行ったが、迷い込んだ路地裏でまったく同じような情景を見たことを思い出す。

 外へ出る頃には日は落ちて夕闇となり、鄙びた韓国の田舎の匂いがしてきた。そしてその中に身も心もとっぷりと塗り込められるような気がした。
ふと耳を澄ましてみるが、昔聞いたあの懐かしい、『ポクポクポク………』という砧をたたくような音が聞こえて来ないのが残念だ。
 …………引揚げの途中、議政府のテント村で毎晩のように開いた音だ。原野の向こうに連なる禿げ山の峰々に日が落ちると、寂しいようで不思議と心の安らぐその音がきまって聞こえて         きて旅愁 を誘ったのである。あれは洗い晒した布を木の棒で叩いて、しなやかにする女たちの夜なべの音だったのだろうか。…………
 …………静けさに身を浸して居ると、思い出すことがまだまだある。あれは我々の乗った漁船の船団が、北の漁港に着いた時。重いリュックを背に、38度線へ向けて暗い夜道を辿り始め         た我々の為に、地元の人たちが一斉に家々の上塀の外に出て、アセチレン灯のカンテラを掲げて呉れたのである。しかし同じ北の他の場所では、『日本人は通さない。通りたければ金目の        物を置いて行け』となけなしの身の回り品を供出させられたこともあった。………               
 人々の思いは所によりかくも違うのだろうか。それぞれの現実にはそれぞれの歴史や背景があったのであろうが。

 帰途の車の中で、運転手がカセット・テープの音楽をかけた。聞こえて来たのはチョー・ヨンピルの歌う韓国民謡の『恨・五百年』の曲であった。李朝時代の圧制下における民衆の嘆きを歌った民謡である。              
 ホテルに戻ったが、やはりどうしても窓辺に吸い寄せられてしまう。明かりに照らし出された埠頭を窓から眺めながら時のたつのを忘れていた。外では風が強く鳴っていた。
 50年前に、引き揚げの旅のさなかにその埠頭で日本人の男が同胞達からリンチを受けたシーンが瞼に浮かんで来る。

 ………『この男は、八路軍の手先のスパイだった奴だ。罪もない同胞の日本人を密告して、さんざん苦しめた悪党なのだ』と誰かが大声で叫んでいる。殺気立った大人たちは、竹や木の棒で男を減多打ちにして、すんでのところで海中に放り込もうとしたのである。管理事務所の係員が、血だらけで無抵抗の男をやっと救出した。男の奥さんと未だ幼い娘が管理事務所に保護されていたが、恐怖に震えて抱き合っている姿が哀れだった。……
…… 
 ……今度の旅行の直前に見た、『風の丘を越えて(原題・西便制』という題名の韓国映画のいくつかのシーンがなぜか鮮やかに蘇えってくる。韓国の伝統演唱芸能の「パンソリ」を世に絶や       さず伝えようとする芸人の物語だ。芸一筋の一徹さで太鼓を教え込もうとして養子の息子に去られ、拾った孤児の娘に望みを託す父親が、旅の道すがら娘に厳しい発声の修練を強いる。           そして、こともあろうに、娘に少しずつ毒を盛って盲目にしてしまうのである。「パンソリ」の魂とも言うべき恨(ハン)の心を娘の声に植えつけようとしたのだが、娘はそうと知りつつ、父を憎もうとはしない。
 『生きることは恨(ハン)を積むこと、恨(ハン)を積むことは生きることだ。お前は両親を失ったうえ、光を失った。人一倍恨が鬱積している筈だが、それが何故声に出ないのだ?』
 『これからのお前は、心のシコリとなった情念(ハン)に溺れず、情念(ハン)を越える声を出して見ろ…………』

 この映画の父親の言葉が、窓の側で立ち尽くす私の耳に、戸外で鳴り続ける風音のようにいつまでも響いていた。(了)


2012年問題

2012-06-22 15:16:40 | ☆ 『魂』と超常現象

ー2012年問題について。ー

 コンピューターの世界で2000年問題があり、大騒ぎをしたのが記憶に新しい。年号を2桁で管理しているコンピュータが西暦2000年を1900年と誤認してしまい、処理を続行できなくなる問題のことである。我が国では各企業や官庁の対策が奏功した。西暦2000年を迎えても小さなトラブルは頻発したが、社会に大きな影響を与えるような大規模な問題は発生しなかった。

 さて掲題の2012年問題というのは、スピリチュアリズム(心霊主義と呼ばれている)あるいはスピリチュアリティーの世界では大きな命題とされていることである。
この世界で言われているのは、2012年を境にして地球そのものと地球上の文化が大変革を迎えるというものだ。この現象はアセンション(上昇)と呼ばれれている。

 スピリチュアリズムとは人間の魂は身体とは独立した存在で、死後も存続するという考え方である。こういう考え方は、宗教のなかでは古い昔から存在していた。
仏教でいう輪廻転生である。西欧社会でもいろいろな人が、何とかこの問題について近代科学から証明できないかというアプローチを試みてきた。
 
 この問題へのアプローチにおいて画期的な展開を行った人物がいる。米国のニュージャージー州のRobert Monroeという人物である。彼はモンロー研究所を設立して、Hemi-syncという方法で通常の覚醒意識とは異次元の変性意識に移行する方法を確立した。1960年から70年代にかけて開発したものである。
 Hemi-syncとは脳内両半球の同調という意味である。左右の耳に同時に4ヘルツの差の音響を流すと、それが脳幹の部分で同調して左右両半球に同じ脳波が出現する。この時に発生する意識が変性意識である。このHemi-sync によっていろいろなレベルの変性意識に到達できる。時空を超えて 自分の意識が拡大する。つまり自分の身体は現実に存在しながら、意識は場所的な制約を離れて別な場所へ自由に移る。また場合によっては時間的な制約を離れて別な時間へと(過去あるいは未来へと)自由に移るのだ。その後約40年以上にわたる数多くの実験例から、いろいろなことが分ってきたという。

 この変性意識を覚醒意識からの距離によって分類したものを、モンロー研究所ではフォーカス・レベルと呼んでいる。
 
  フォーカス 10     肉体は眠り、意識は目覚めている
 フォーカス 12      知覚が場所的制約を脱し、際限なく拡大する  一挙に遠隔地に飛んでそこの物を見てくることができる
  フォーカス 15    時間の制約を脱し、過去・未来へと自由に移動する
  フォーカス 21    この世とあの世の境界点 
  フォーカス 23~27    死後世界
  フォーカス 34~35    地球生命系への出入り口 I/There(向こうの自分、大きな自分)が存在する
  フォーカス 42    I/Thereクラスター(大きな自分の集団)が存在する
  フォーカス 49       I/Thereクラスターが繋がって無限の海のように広がっている
 
 Hemi-sync によって意識はいろいろな次元を自由に飛翔する。その過程で高次の精神的進化を遂げた地球外生命体と接触することがある。 

 交信の方法は、基本的にはいわゆるテレパシーである。                                                                                                                                                           それらの接触によって齎された情報のうち最大の命題が、2012年問題なのである。地球外の高度生命体によると、2012年に地球は一大変革を迎える
というのである。地球外の高度生命体は地球に訪れようとしている変化について重大な関心を持って注視してるという。その変化とは一言でいうならば、地球文明の進化(アセンション)である。
 
 2012年以降にどのような変化がどのような時間に起きるかは諸説がある。接触する相手である、地球外の高度生命体によって異なり、必ずしも全てがはっきりしている訳ではない。
 しかし日本で起きた東日本大震災はこの事象と直結しているという説がある。助け合いの精神とボランティア―運動が、アセンションにより齎される文化そのものだというのである。日本の社会がアセンションを生じるのに最も適した社会であるということらしい。
 またそもそも2012年に一挙に変化が起きるのではないらしい。2012年を境目にして変化が始まると考える向きもある。その場合、positiveな世界とnegativeな世界が併存するという予測もある。パラレル・ワールドの到来とも言われている。

 物理的な存在なり意識のレベルは、密度という言葉で表現される。地球に起きる変化は第3密度から第4密度へ移行するのだといわれる。この密度とは、振動数で表現される。我々第3密度の存在が第4密度の存在を観察した場合、外側の線は判別できるが全体は透明で薄い膜がかかったようになるという。それは高速で回転する飛行機のプロペラを見るようなものだという。つまり我々がプロペラと同じ振動数で回転すればプロペラは静止して見える。      

 地球が第4密度に移行するというのは別の側面での変化が生じる。
 生命の意識の発展は第1密度から始まる。第2、第3、第4までは物質としての生命だが、第5からは非物質になる。振動数は値が大きくなる程発展の度合いが高くなる。第3密度の人類は平均として7万6千から8万回という範囲にいるという。第4密度が18万から25万回/秒である。第3密度と第4密度の移行領域は15万から18万回/秒となる。
 因みに釈迦とイエスの振動数は20万回/秒以上といわれる。第3密度の世界に生きながら意識は第4密度にいたことになる。
 人類が今後第4密度に移行するとなると、一挙に18万回/秒まで上昇することになる。移行にどのくらい時間が掛かるかは、情報源によって異なる。
 2012年12月21日に一瞬にしておこるという情報から、数十年かかるという情報まである。この2012年12月21日とはマヤ文明の長期暦がその時点で終わっていることと符合している。マヤ文明の天文学的な正確さは現代でも立派に通用するといわれる。その天文学的知識に裏打ちされた暦には意味がある。その長期暦の終わりを以って地球滅亡の時期とする説があった。現在では、一つの時期が終わり次の新しい時期に入ると考えるのが正しいという説が有力のようだ。

 アセンションの実相について説が分れるのは、情報源が単一でないこともある。この現象がいまだ嘗て宇宙で起きたことのない大きな変化であることにもよるらしい。ただこの結果として落ち着く世界の在り方については、おおむね一致した解釈のようである。
 第3密度と第4密度の違いを要約すると4点になるという。
 ①人の意識が第3密度では個別である。第4密度では肉体はまだ別々だが、意識が個人を越えて繋がって超個人(トランスパーソナル)になる。
  第4密度の中でさらに上昇すると、思いが伝わるばかりでなく同じ思いを共有すようになる。
 ②第3密度ではネガティブな発想が支配的であるが、第4密度ではポジティブな発想が支配的になる。
  ポジティブな発想とは喜びが基になった発想で、ネガティブな発想とは恐れが基になった発想である。
  第3密度では人はともすれば『自分は安全ではない』『十分な量はない』『何事も行うのは難しい』と思う傾向がある。それが『自分は安全だ』『十分な量                   がある』
  『何事も行なうのは簡単だ』という思いを持つようになる。心の真ん中に思いやり、の温かい心が常にある状態になる。
 ③すべての源と繋がっているとの認識が第4密度では強固になる。宗教的な意味での『創造者』ではない。森羅万象、大宇宙というのに近い。
 ④第4密度では、この世の現実は自分が創造しているということを強く自覚するようになる。

 ここで注意を喚起しておきたいことがある。変性意識は通常の覚醒意識とは次元を異にするものであるが、モンロー研究所で開発したHemi-syncによらなくても、勿論到達は可能である。むしろ古来瞑想などによって、いろいろな宗教的修行によって実践されてきた。
 例えば禅における座禅の実践である。ただ座禅によって悟りに到達したなどと早合点することは、「禅魔」として厳しく戒められてきた。ましてやエゴの   目的でこの「似て非なる悟り」に基づいて行動することを禁じたのである。
 モンロー研究所にチベットの高僧がやってきた。Hemi-syncを受けて『自分たちが数年の修行によって到達した境地に、1週間で達成した』と驚嘆したといわれる。Hemi-syncの実践には宗教的な要素はない。その実践の中に生命に対する肯定や利他精神はあるが、「禅魔」的な危険性はない。

 Hemi-syncにより接触する地球外生命体はいろいろである。バシャールという生命体に接触した例がよく語られる。モンロー研究所は米国にある施設であるが、日本人でもこの施設公認の資格を持って活発な活動を行っている人物がいる。坂本政道である。米国人で日本で活動しているKevin Turner                                                                                                                             もいる。また格闘家出身でユニークなパフォーマーである須藤元気もいる。バシャールには、坂本政道や須藤元気が接触している。

 ここで筆者自身の体験を語らない訳にはいかないであろう。私はKevin TurnerのHemi-sync のセミナーを2回受講した。またモンロー研究所が発行した日本語版のCDを購入して勉強を始めた(The Gateway Experience、全6巻)。Hemi-sync にはまだ入り口を少し入ったというところであろう。    たとえば場所的な制約を脱するという点では、自分の意識が自分の身体を離れて自分を高みから見下ろしている実感は得たが、自分の意識に浮かぶ イメージが覚醒意識による想像なのか必ずしも確信できないケースがあるような気がする。多くの体験者が語る自分の意識が遭遇する疑問に答えてくれる「ガイド」に遭遇したこともないし、ましてや地球外の高度生命体と遭遇するなどの経験はない。要すれば体験が不足しているのだという気がする。
 ただHemi-sync により異次元を逍遥している先達たる経験者の言葉は、あながち荒唐無稽とは言えないとも感じている。ただアセンションとは従来の常識からするならまさに驚天動地の変化である。はたしてそのようなことが起きるのであろうか?実際にそうとしか思えない兆候が、次から次へと起きて初めて本当に信じられるとも思っている。私がこう思うのは、Hemi-syncの世界に半身で身構えているとも言えないこともない状況に関係しているのかも知れない。

 最近の世界各地における極端な気候の急変、地震、津波、風水害、竜巻などが世紀末という一種循環的な現象なのか、それとも後戻りしない地球的な変化なのか。チュニジアのジャスミン革命に始まり、エジプトのムバラク政権やりビヤのカダフィー政権崩壊への連鎖など、アフリカや中東、アジア各地での政治的な自由化や民主化の潮流も、アセンションにつながる現象なのであろうか?こういう風潮が社会の安定を齎すとは思えない。長い混乱期を迎える分裂への幕開けに過ぎないような気がするだけに単純なことではない。各地にみられる宗教的信条の対立はどうなるのだろう。人類の文明の長い歴史に亘って育まれたものだけにその対立の根は深い。
 
 前回の『最近の気候』というコラムは今回のブログの伏線として書かれたもので、本問題とも関連している。


 
 
 


 


ゴルフ紀行ーその11 ニュー・ジーランドでのゴルフ・残された最後の楽園への幻視行ー

2012-06-21 18:49:25 | ニュージーランド / ハワイ

ーその11 ニュー・ジーランドでのゴルフ・残された最後の楽園への幻視行ー

 1995年の3月にニュー・ジーランドに旅をした。10人あまりの団体旅行であつた。

 早春の東京から初秋のオークランドに、つまり北半球から南半球へ、赤道を跨いでひとっ飛びしたのである。
気温の変化は殆どないというものの、春や夏をとばして秋を迎えてしまったせいか、季節が急に去って行くのを惜しむような、一種不思議な感覚がこの旅の心となった。

 最初の宿泊地オークランドから、バスで北島の中央に向かう。起伏に富んだ牧草地帯がえんえんと続く。白と黒の斑のホルスタイン種の乳牛の群れが、そこかしこで悠々と草を食んでいる。  
 街道は左右に旋回しながらどんどん低地へ向かつて吸い込まれるように下降している。緑の丘陵がゆったりと雄大に広がってうねる。その中を加工するうちに、不思議なことに段々平衡感覚  
が失われて行く。見上げているのか見下ろしているのか分からなくなる。
 遙か先の信じられないような高所にポプラの並木が整列していろ。その尖った頂きの線の更に向こうに、大地がせり上がって行って雲に隠れてしまう。
川が流れている。水際は深い草に覆われていて川原というものがない。緑の野原に深く刻まれたような川に、豊かな疾い水が、お互いを急かすかのように幾重もの縞を作りながら流れている。

 やがて山間の道に入つた。曲がりくねった街道の左右の路傍に、時々白い小さな十字架がいくつか現れては草窓の後方に消えて行く。ガイドの説明では交通事故の犠牲者の現場なのだと言う。
さして難所とも思われない道筋なのに、この十字架の群れは暫くの間現れては消えして、我々の眼を捉えて離さなかった。 
 
 バスは今度は小さな村落を駆け抜けて行く。浅黒い顔をした、がっしりした体格の青年が、独りで歩いて来る。
 『あれが、この地の先住民族マオリ族の人です』とガイドが言う。
 前日にオークランドのマオリ文化の博物館を訪れた。そこで見たもろもろの情景が蘇って来る。
 
 …………マオリの民族衣装の男女の踊り。彩色された腰蓑を纏い、男は上半身が裸で、女はバングナの髪飾りの姿である。恋の物語か?優美にたゆたう身体の動き、力強く絶妙なハーモニーの
合唱が観客の心をも溶かして辺りにこだまして行く。
 お次は、男達の戦士の出陣の踊り。日玉を剥いて舌をべろりと出すのが、敵を威嚇する男の勇壮さのあかしである。…………
 …………もう絶減した巨大な駝鳥のモアや、深い森林に隠れる保護鳥のキィーウィの剥製の数々。そして彼らを見下ろすのは大きな白い木製の仮面。眼を閉じて哀しげに民族の未来を予知する
かのようである。……………

 マオリ族の王様の末裔が住む館の前を通る。細い寄木で葺いた屋根や壁が特徴的だ。朱色に近い褐色に塗られた屋根の破風に、マオリの戦士の像が眼を大きく吊り上げて白い歯を剥き出して、
こっちを睨んでいる。胸の前に合わされた大きな左右の掌の指は、何故か3本ずつしかない。この3本の指の意味は、『生まれる、生きる、死ぬ、なのです」とガイドが教えて呉れた。
 何と簡潔で深い哲学であろう。この言葉はまるで天啓のように、私の耳の底でいつまでも鳴り続けた。

 やがて、我々はワイトモの鐘乳洞に着いた。この洞窟はブナや苔や羊歯の原生林に囲まれて、地上にポッカリ開口している。洞内を下って行くと、鍾乳石や石筍が電光に美しく映える。それは
途方もない悠久の時の流れの跡である。そしてすべての想念を奪って真空のような境地に誘い込む。暗い階段を更に地底に向かって降りて行く。やがて『大聖堂』に行き着く。
 入り口にほの暗い灯火が小さな鐘乳石の輪郭をぼんやり浮かび上がらせていると見ると、……そこには無数の透明な糸が、櫛の歯状に垂れ下がっているではないか。そしてその糸のあちこちに
数十本のねばねばした透明の糸を垂らし、餌となる昆虫を光り粒状の蛍光が灯つていて、夢幻的な雰囲気を醸し出していた。 ニユー・ジーランドにしか棲息していないと言う、ツチ・ボタル
(GlowWorm)だ。蚊に似た二枚羽の昆虫の幼虫である。巣の周りにs数十本の粘々した透明の糸を垂らし、餌となる昆虫を光で誘って待つのだ。この虫の寿命は約1lヵ月だ。その齢、数万年にも  
達する鐘乳石との取り合わせは皮肉だが、造化の神の深い思し召しなのであろうか。
 地底には川が流れ、船着き場が有った。我々の乗った船は、真っ暗間の中を張り巡らしたロープを頼りに滑って行く。綱を手繰るのは、マオリの男たちである。
 突然、何とも幽玄な寂光のドームが頭上に開けて来た。ツチ・ボタルの洞窟だ。数十万の小さな光りは、天上の奥深いところから靄のように淡く、しかし薄い雲の彼方の星の光のように確実に
届いて来る。と同時に、微かな、遠い木魂のような声が聞こえて来た。…………『生まれる。生きる。死ぬ』と、その声は言っているようだった。

 次に訪れたのはロトルアという湖である。ニユー・ジーランドは多くの湖に恵まれている。そして、湖のほとりには昔から人が住んだ。この国には温泉もたいへん豊富である。ロトルア湖の畔
にはマオリ族の村落があって、今なお伝統的な生活様式を守っている。温泉と言えば、近くに有った80米以上の白煙を吹き上げる間欧泉の方が観光の目玉であったのだが、それよりのはずれ
の共同温泉の方に目を惹かれた。70~80度の熱湯を地面に掘った水路で冷ましながら露天の凹所に導き入れている。その素朴で自然そのままを生かした知恵に心を打たれてしまう。夕方になると、
の人々が一日の汗を流しに三々五々集まって来るという。そこでは、 どんな会話が交わされるのだろう。

 ホテルの前にゴルフ・コースが有った。白い柵の向こうにフェア・ウェイがうねり、深い木立の蔭から白い湯気が盛んに立ち登つている。コースの中に温泉が湧いているのである。
(因みに、この国では自然保護の為に、温泉を商業目的に利用することは禁じられている。したがってこんな勿体ない風景が見られるのだ)
 飛び出して行って、ハーフ・ラウンドだけでもプレーしてみたいと思う。とても旅程の変更を提案する勇気はなかったが、未練が残った。そのせいか、その夜半に不思議な夢を見た。
……その宵は、マオリのハンギ料理とマオリの合唱と踊りの見物が呼びものだった。白人との混血のチヤーミングなマオリ娘に、手を引っ張られて舞台に登らされた。その誘い込むような鳶色の
目が美しかった。他の観客の何人かと共に、マオリの戦士の真似をさせられた。目を剥き舌をべろりと出す仕事を実演させられたが、それも夢の引き金だったのか。……


 

 …………目の前にマオリの戦士が剣を片手に目を剥いて舌を出して迫つて来る。彼のいいなずけを誘惑したと詰っているのだが、そのいいなずけとはあの混血の娘に違いない。壁に追い詰めら
れて身動きが出来なくなり、とうとう相手の剣が我が胸を貫く。ふと気がつくと、ベッドと壁の間の隙問に落ち込むようにして自分の身体が横たわっているのが見える。自分の意識が、自分の
身体から解き放たれて自由に高みに飛んで行くではないか。この讐えようもない透明な感じは一体何だろう。
 眼下に白い雲が流れる。緑の絨毯の上に白い米をいっぱい撤き散らしたように見えるのは、羊の群れだろうか。高い山々の間をすり抜けるように飛ぶ。岩肌が雪で薄化粧している頂きの辺りに
ぼっかりと藍色の水を湛えた湖があり、その高い淵の切れ目から、長い白い糸のような滝が低い峯々に向かって注いでいる。
 山々を越えて、広い大きな湖に出る。湖に しゃもじの先の形をした半島が突き出ていて、そこにはゴルフ場が半島いっぱいに展開しているのが見える。
『ああ、自分はあそこに行こうとしているのだ。でも、こんな意識だけの自分になって、何が出来ると言うのだろう』…………… 
 突然、暗転した闇の遠くに、誰かの叫び声らしい物音を聞いた。カーテンの隙問から前庭の常夜灯の光りが漏れて来ていて、我が身を照らしていた。自分はベッドと壁の間で身動きも出来ずに
汗まみれになっていたのだ。

 次の宿泊地は、南島のワカテイプ湖の畔のクインズ・タウンだった。ケーブル・カーで山の中腹に登り、眺望の良いレストランで夕食をとることになった。湖を取り囲む壁のような山々に夕日
が映える。日陰になって夕間が迫っている湖面に視線を走らせていた。その時、愕然として我が眼を疑った。向こう岸からしゃもじの形の半島が張り出していて、そこにはゴルフ場らしきところ
さえ見えるではないか。……… しかし、問もなく辺りは幻のように闇に包まれて行ったのである。

 翌日の早朝、 ミニ・バスでミルフォード・サウンドというフィヨルド(氷河が刻んだ峡湾)ヘ向けて出発した。途中夢のような天然の景勝地に立ち寄つて観光しながらであったが、 目的地の
フイヨルドに着くまで約5時間半の長旅であった。最後の中休みの場所で、マオリ族のような褐色の肌をした日本人ガイドの女性が、ひっつめにした長い髪に手を遣りながら、さり気なく提案を
して来た。『お帰りは、またもと来たコースを戻るのですが、セスナ機でお帰りになる方法もございます。それですと約30分でクインズ・タウンヘお戻りになれます』と言うのである。
 このガイドは、ゆったりとしたちょっと時代離れの古風な語り口の人だった。その提案の声に何か不思議な魔力でもあったのか、全員がシーンとしてしまって、賛成とも反対とも声を出す人は
いなかった。セスナ機に乗る場合には事前の予約が必要であって今がそのタイムリミットだというのである。確かその数年前だったが日本人の新婚旅行の客がフィヨルドの遊覧飛行中に墜死した
のはここではなかったかと思う。リスクは怖い。しかし時間が大幅に節約できる魅力もある。また五時間半もかけて、バスに揺られて帰るのはうんざりする。皆内心でその選択に悩んでいる様子
は明らかであった。結局団長の立場の私から、『希望者だけがセスナ機に乗ることにしましょう。それが嫌な人は予定通りバスで帰ればよい』と提案したのである。ところがそのひとことで踏切
がついたのかバスを希望する者は誰一人居なかったのである。湾内を遊覧船で巡りながら、イルカと競争したリアザラシの昼寝を見たり、九ビルの2倍の高さという滝の壮観を楽しんだりした後、
結局我々は2機のセスナに分乗して、帰ることになった。そうと決まると、誰彼ともなく、『これで、クインズ・タウンのゴルフ場でハーフ・ラウンド出来るぞ』と言う華やいだ声を上げた。
 私は 1番機の副操縦席に座った。機はフィヨルドを眼下に一瞥してから反転し、上昇気流に突き上げられて揺れながら登る。真正面に岩の頂きが機を見下ろしながら迫って来るのに、機の高度
は上がらない。この儘だとあの峯に衝突すると見る間に、機首を翻してその横をすり抜けて行く。私はもう夢と現実の区別がつかなくなった。
 何かが崩れ落ちて行くような感覚が襲って来る。その方向に目を遣ると、岩の峯近くの藍色の淵から白い一筋の滝が、今落ちて行く。峯と峯の間にジェット気流のように白い雲が流れた、その
瞬閲、煽られて空が回った。セスナは山々を抜けて、大きなワカティプ湖辺りに出た。クインズ・タウンの町も、湖に突き出た半島も、ゴルフ場も見える。私が夢で見た風景その儘である。
 やがて機体が滑るように滑走路に降りると、期せずして皆が盛大な拍手をした。

 月曜日の午後の陽がクインズ・タウン・カントリー・クラブに降り注ぎ、人影は疎らだ。プロ・ショップでクラブや靴を借り、帽子や手袋やボールなどをせかせかと買い整える。我々はまるで
少年のように興奮して、4台のカートに分乗してコースヘと乗り出した。

 1番ホールを終え、ブナの原生林の中の急な坂道を登り切ると、2番ホールのテイー・グラウンドである。ここからは、半島の根元へ向けてコースが展開して行くのが眺望出来る。
 碧い湖水が左右両側から切れ込む、その向こうに山々が壁のように連なっている。その山々は褐色の岩肌を薄い靄のような衣で包んでいる。千米の樹木限界線の下方には樹林が展開しているのが
見える。前景には、一本の針葉樹の大木がもっとくっきりと色濃い蔭を宿している。3番ホールヘ打ち下ろして行くと、平坦になった場所の右手にポプラの並木が美しい。
 折から、風が吹き出した。ポプラの葉が風にそよぎ、まるで無邪気な少女たちのようにお喋りをすると、幼年時代を過ごした旧満州の思い出のひとこまが蘇って来る。この後は、コースは半島の
反対側の湖岸を進む。殆ど総てのホールから、湖やまわりの山岳を望むことが出来る。我々は文字通り大自然の懐に抱かれながら、時間の過ぎるのを忘れていた。
 9番ホールに立った時は、既に急速に夕間が迫って来た。まわりの森が吐息のように吐き出す精気が、妖しく心を浸して来る。森の中から今にもあの混血のマオリの娘が飛び出して来そうな、
甘く不吉な予感が漂つて来る。
 ふと、ミルフォードヘの道中で見た、鏡の様なミラー湖の風景が眼に浮かんで来た。冷え冷えとした原生林の暗がりから覗き込んだ湖面に写る樹々と、湖面に覆い被さる樹々とが重なり合って
見分けがつかない。いくら眼を凝らして見ても、 もどかしい位 どうしても見分けがつかないのだった。実在するものと写つたものが、淳然一体となってしまっていたのだ。
 すると、現実の中の夢と、夢の中の現実も、時には分別がつかなくなるのだろうか。………

 遠景に立つクラブ・ハウスに、ほっと灯が灯った。(了)


 


ーその10 ハワイでのゴルフ・風が見たものー

2012-06-15 16:04:15 | ニュージーランド / ハワイ

ーその10 ハワイでのゴルフ・風が見たものー

 1994年の12月にハワイに4日間滞在した。その間殆んど毎日風が吹いていたような気がする。
 ホノルルがあるオアフ島とマウイ島を訪れたのであるが、不思議なことに同じ島内でも場所によって
風の強さがぜんぜん違うのである。
 極端な例かもしれないが、オアフ島のパリーという風の名所を訪れたときは物凄かった。空が吠える
ような猛烈な風圧の中で吹き飛ばされないように、何かに掴まりたい位であった。
 
 その後にすぐワイキキに降りてみたが、そこはまさに別天地であった。ホテルのポーチに腰かけてい
ると心地よいそよ風が頬を撫でていく。
 ハワイアン・バンドのトリオが、囁くように『真珠貝の歌』のメロディを爪弾いている。あの懐かしい、ゆ
ったりした波のうねりのように上昇と下降を繰り返す音階が、夕映えにそよぐヤシの葉影を漂っていく。
聴くほどに穏やかな陶酔の気分が身体中を浸してくる。

 ホノルル・マラソン競技の翌日、マウイ島へ向かう。
 風の中で機体を震わせているプロペラ機に滑り込む。セスナに毛が生えた程度の小型機である。座席
数は18席である。後部の登乗口に近い席に陣取る。近くの2列の席の背もたれに赤いカバーがしてある。
『英語の堪能でないものは座るべからず』と掲示してある。緊急時の配慮であろう。
 パイロット兼パーサーの男が早口の英語で話しかけてくる。若い日本人の女性の二人連れがキョトン
としていると、引っ張りだされて席を替えさせられてしまう。

 飛行機は間もなく、向かい風に煽られるようにして舞い上がった。ホノルル市街が白っぽい靄の中で
かすんでいる。ダイヤモンド・ヘッドの褐色の山肌が、眼下を横切って視界から消えていく。

 海面一杯に白い波頭が立っている。よく目を凝らしてみると、潜水艦の潜望鏡らしいものが何本か突
き出して航跡を引いている。真珠湾の艦隊の訓練なのであろうか。
 平和な日常の風景にはそぐわない。一瞬不意を突かれたような不安な気分が胸をよぎる。

 前々日に訪れた真珠湾上のアリゾナ記念館が目に浮かんでくる。
 
 ………約20分の真珠湾攻撃の再現フィルムを見たのち、艀で洋上の記念館に向かった。圧倒的な                                    破壊のシーンが、淡々としたナレーションと共に映し出される。それが瞼を離れないが、目の前の平和                                    な現実とはどうしても重ならない。
 戦争というものを、狩り出される側の個人の意識のレベルで捉えてみるなら、一体それは何だろう。
真珠湾攻撃の艦載機から魚雷を発射した若い飛行士の心中に、どの位の憎しみの感情があっただろう。
 日本側の宣戦布告は攻撃の前に相手に届く手筈だったが、タイピストが休日で不在のために遅れた。                                        米国の政府首脳は奇襲を予知していたが、日本海軍の実力を軽視して真珠湾の艦隊には知らせなかっ                                       たともいわれる。 
 こうして戦争は始まった。戦争とは一種暴力的な風に似た、狂気の応酬のようなものである。
 
 海底に沈んだままの戦艦アリゾナを跨ぐ形で白亜の記念館が建っている。それは時々空を引き裂く                                           ように鳴る風の中で、どっしりと海面に腰を据えている。心持肩を怒らした船の艦橋の姿である。
 いまだに船体の一部分から重油が漏れて海面に浮かびあがってくるという。もう半世紀以上前の重い                                          歴史的事実と現在を繋ぐ強い意志のようなものを感じさせる。
 記念館には艦と運命を共にした約1500名の戦士の名を刻んだドームがあった。日本の慰霊団が
捧げた花輪があった。それが枯れそうになって残されていて、虚しさを感じさせた。
 遙か東のホノルル市街の方に、美しい虹か出ていて息をのんだ。
 虹の橋は不幸な歴史を越えて、未来に向かって架けられているのだろうか。………

 

 飛行機はオアフ島の南のモロカイ島をかすめて東へ進んでいく。山肌には大昔に火山の溶岩が、                                              一斉に海に雪崩れ落ちた跡がそのまま残されている。その異様な景観の上を、風が吹く。飛行機は                                      あまり高度を下げもせず、マウイ島の北端の小さな空港に着陸する。
 滑走路を白い霧が流れる。それとも空港そのものが厚い雲に包まれたのか。風が霧を吹き流した                                             向こう一面に、パイナップルの畑がうねって続いている。そのまた向こうには視界一杯に海が広がって                                               いる。
 モロカイ島とラナイ島の雄大な姿が、その海と空の間を繋いで広がっていた。
 ホテルに手配しておいたリムジンの到着を待ちながら、茫然と景色に包まれて立つ。
 そぞろ歩きの通りすがりに、所在無げな金髪の女性と目が合う。黒いスパッツにすらりとした脚を包み、
何となく憂いを感じさせる表情だ。やるせない旅情がヒタヒタと心に溢れてくる。

 目指すカパルア・ベイのホテルはリムジンで約10分の距離だった。クリスマス・シーズンの端境期で、
ホテルは拍子抜けするくらい空いていた。客の姿もまばらである。
 ホテルの庭園は、白い波頭に噛まれた岬を抱き、風に煽られる椰子の樹林に縁どられている。、
 

 陽差しは紛れもなく午後であり、時が急ぎ始めている。昼食もそこそこにして歩いて数分の所に有る                                                    『ベイ・コース』に向かう。一応スタートの予約をしておいたが、当方はたった独りなので 日本人の夫婦                                     らしい一組と組み合わされることになった。
 スターターがそのことを告げると相手方の男性は一瞬当惑した表情を浮かべた。そして何か言おうと                                      したが、思い止まった様子だった。

 『Nと申します』とご主人らしい男性が日焼けした顔に微笑を浮かべて、折り目正しい挨拶をした。奥さん                                                                   らしい女性はカートの蔭に隠れるようにして目礼をしただけだ。人見知りをするタイプなのであろうか、でも                                    中々の美人である。

 『私の家内はまだ初心者なので、ご迷惑を掛けるかも知れませんが、宜しく』
 『いいえ、こちらも下手ですからどうぞお気軽に』という遣り取りがあって、我々の乗った2台のカートは走                                              り出した。

 1番ホールはやや登りのロング・ホールだ。猛烈な向かい風に煽られたのと、貸しクラブが重いせいか、                                                              ティ・ショットをダフってしまう。2打目も3打目も地を這うような当たりばかりで、だんだん焦ってくる。相手の                                    夫婦はと見れば、フェア・ウェイの逆のサイドでもっと苦労をしている様子である。奥さんの方が一向に前に                                 進まないのである。ご主人が辛抱強くそして丁寧に手を取るようにして教えている。まるで何か壊れやすい                                  ものを大切に扱っているような雰囲気が感じられるのであった。
 我々の次のもう一組の日本人の男女が、後方でじっと待っているのが見える。やっとの思いで1番ホール                                      を終えたところで、恐る恐る提案してみた。
 『後ろの組は二人のようですから、パスさせてしまいましょうか?』
 『 ………」
 『その後に外人の組が続いていたようですから、思い切ってこの儘行ってしまいましょう』
 奥さんの方を気遣いながらご主人が言う。言い方はソフトであったが、そこには決然とした意思が感じ                                                          られた。目を伏せている奥さんを突風が容赦無く襲う。乱れ髪を風に舞うに任せているその顔には、何故か                                      はっとするような凄惨な美しさがあった。

 フェア・ウェイのはずれに、コンドミニアムがひっそりと立ち並んでいる。
 凹地に舞い降りるような2番グリーンを終えて、3番のショート・ホールに向かう。正面に小さなチャベルの                                       塔の十字架が見えた。その背景は海である。右手にはホテルの建物が榔子の樹の間に見え隠れしている。                                        左手にはカナダ杉のお行儀のよい樹列が続く。美しいホールである。どうしたことか後続の組の人たちの                                                                         姿が全然見えない。途中でショート・カットして先に進んでしまったのかも知れない。私は初めて落ち着いた                                                            気分になって、辺りを見回す余裕を取り戻した。カメラを取り出してこの風景をフィルムに収めようとすると、                                              相手のご主人が『シヤッターを押しましょう』と近寄って来た。
 『記念にそちらの方も如何ですか』と言うと、                                                                                     『いや私達は以前ハワイに駐在していたので、たくさん撮っていますから』と固辞する。このご主人はいろいろ                                                             とこちらに対して気遣いを見せて呉れるのであるが、何となく一定の線から中には踏み込ませないというような                                                              感じがあって、お互いの身上のことを話題にするのは憚られた。

 

 次のホールは小さな岬の根本に差し掛かる。猛烈な横風を充分計算に入れて、ショート・アイアンをグリーン                                                                  右横のバンカーに向けて打ったのに、ボールはグリーンの遥か左へ流されていってしまった。処置なしという                                                             感じだ。
 次のショート・ホールが又難所である。目の前の崖が深く抉られて湾が口を開けており、泡立つ海の向こうに                                                  グリーンがある。スコア・カードを見ると154ヤードと書いてあるが、えらく遠く感ずる。
 こちらは一寸遅れてティ・グラウンドに到着したのであるが、それは、それこそあっと言う間の出来事だった。                                                  奥さんが真っ先に打った。シャンク気味の打球はあえなく海に消えて行った。遥か向こうのグリーンの近くに                                                赤いテイが見えるのに、何故今回に限ってわざわざ難しい白いティから打ったのだろう。びっくりしていると、                                                    奥さんがもう一度打ち直した。今度はダフってボールは眼前を転がつて消えた。彼女が憑かれたような表情で                                                  ボールをもう一つ取り出した。
 一瞬空気が凍り付くように張りつめた。あっと声を出す問もなく、 もうひと振りが空を切りボールは数メートル                                                  先に転がった。サイレント映画のひとこまのように物音がすべて消え失せて、何も聞こえない。突然、彼女が                                                       蒼白な顔をして、いきなリクラブでティ・グラウンドを叩くような構えをしたように見えたが、それよりほんの一瞬                                               早くご主人が動き、彼女の両肩を優しくしつかりと抱いた。                                                                                『君が打つ場所は、此処じゃなくてあっちだよ………』                    |
 この瞬間に轟音と共に一陣の突風が襲い、ご主人の帽子を吹き飛ばした。ご主人は笑い声の悲鳴をあげて                                                    帽子を追う。奥さんも一瞬遅れてその後を追い掛ける。帽子は運良く少し離れた濯木に引つ掛かって、二人が                                             折り重なるようにして取り押さえることが出来たのである。 二人は顔を見合わせて大笑いをする。こちらも救わ                                                   れた気分でこの笑いに唱和して、何かを吹き飛ばすように大声をあげた。

 『私は、実はハワイは初めてなのですよ。ホノルル・マラソンを見に来たのです』と私は当たり障りのない話題を                                                 投げ掛けた。

 ………『頑張って、頑張って、大丈夫!』ホノルル・マラソンの10キロ地点で、市民のボランテイアーの人たちが                                            日本語でランナーを励ます、あの掛け声が耳に蘇って来る。この『頑張って……』は、その時のご主人に対す                                               私の気持ちが呼び起こした運想だったのかも知れない。
 このマラソンの参加者は年々増えて3万人を越え、日本人の数は2万2千人に達するに至ったのである。この大                                          イベントは 1万人を越す地元のボランテイアーの献身的な運営に依って、毎年世界各地の市民ランナーを集める                                               祭典となっている。
 大会の基本の精神は「アロハ・スピリット」つまり真心からの歓迎と人間愛である。この大会の随所に、お互いに                                                励まし合って走ることと、それを支援することを通じて心の触れ合いが見られ、感動的であった。…………

 その後は無事にワン・ラウンドの残りを終えてクラブ・ハウスヘ戻る。夜のとばりが慌ただしく降りた。
 別れ際にご主人の見せた眼差しには、深い感謝の気持ちが込められているように見えたのは、私の独りよがり                                                       の思い違いだったのだろうか。

 シャワーを浴びさっばりして、夕食に行く。ホテルの中のレストランは休みなので、ベイ・クラブと言う場所まで、                                                     10分程林の中を歩く。海岸の戸外にオープンとなったレストランには、数組の老夫婦が静かに食事をしている。
 その内の一組が風を避けて私の近くに席を移して来た。食事の最中に何度となく皺だらけの腕で抱き合って、                                               キスをしては、愛を確かめ合っている。

 帰り道に林の切れ目から砂浜に出て見る。大きな立札が目に入る。
  『高波に注意!もし高波に襲われた場合は絶対に波に背を向けない事』と物騒なことが書いてある。
 踵を返して立ち去ろうとした時、一陣の黒い突風が首筋を襲った。恐怖のあまり、叫びそうになった。

 林を越すと、ホテルの窓の疎らな明かりが見えた。遠くから人の温もりを伝えて来て呉れた。
 私は暗い海に向かって振り返り、大きく腕と脚を拡げて、温かい風を身体一杯に受け止め、抱いた。                                    (了)                                                                     


 


ゴルフ紀行9 バンコックでのゴルフ

2012-06-10 16:20:08 | タイ / マレーシア

一その9バンコックでのゴルフ・合掌と祈りの彼方ヘー

タイを初めて訪れたのは1971年だから、もう41年前になる。駐在地の香港から、業務で出張した時のことである。
バンコック郊外のドン・ムァン空港に着いた日の印象はいまだに忘れない。
 ………雨期の盛りであった。湿気をいっぱいに含んだ空気は、一種独特な鄙びた匂いと人々の喧騒を乗せて重く澱んでいた。空港め待合ホールでタイ人の乗客が出迎えの人たちと挨拶を交わしている。若い女性が胸の前で真っ直ぐに掌を合わせ、一寸上体を斜めに傾けるようにしてお辞儀をする。その優雅な姿が実に 魅力的で、思わず立ち止まって茫然と見惚れてしまう。目上の人に対する丁寧な挨拶の仕方だという。
 車でバンコック市街へ向かう道すがらでも、見慣れない風景が次から次へと眼に飛び込んで来る。先ず車の洪水と渋滞に圧倒されてしまう。南国風の椰子に似た街路樹と、タイ文字の看板の波が続き、暑気と車の排気ガスの中で揺らめいている。
 車の列を縫うようにして子供の物売りがやって来た。両手に花飾りを持っている。白や赤や黄の花の房を細かくかがり合わせた美しい首飾りのようなものだ。  (マライという交通安全のお守りにもなるのだそうだ)ジャスミンの香りが強く漂って来た。
 眼を転ずると逢か遠くに緑の濃い木立が続き、その辺りに寺院の屋根が見える。幾重にも層をなす甍は、橙、緑、茶の鮮やかな色彩に光り輝き、喧騒の中に  不思議な静謐の空間を造っていた。そして鋭角の勾配を見せてせりあがる屋根と、その両端から天空に向かって伸びる鶴の嘴状の飾りが、ハッとするような優美な線を描いている。それはまるで、人々の憧れの心を揺り起こし、遥か高みへと誘うかのように見えた。…………

  初対面のタイはかように矢継ぎ早に色々な顔を見せて、私の心を捉えてしまった。
 この時以来、 タイには仕事や観光で10回位は訪れている。でもゴルフをする機会に恵まれたのは、ほんの数年前のことである。

 週末に一日予定が空いた。独りでパートナーが居ない。どこかゴルフをやらせて呉れる所はないかと、ホテルに尋ねて見た。するとガイド付ツアーでなら、なんとかなるというので、旅行社を紹介して貰う。運良く流暢な日本語を話すガイドが付いた。
 目指すゴルフ場はバンコックから北へ約2時間走ったサラブリに有るという。
早朝の街を車で走るうちに、一群の僧侶達に出合う。サフラン色の僧衣を纏っているが、裸足である。整然と一列に並んで托鉢の歩みを続ける姿が朝の光りの中で清々しい。
 車はやがて空港に通ずるハイ・ウェイに出た。このハイ・ウェイを空港から更に北上し、分岐点から暫く西へ行くと古都アユタヤに到り、東へ行くと目指すサラブリである。
 車窓から郊外の風景を眺めて居るうちに、当時より更に10数年遡る昔に、アユタヤヘ向けて車を走らせた日のことを思い出した。
 ………それは実は、当ての外れた寂しい独り旅だった。本当は、タイの友人のLさんとアユタヤ出身の女性が、同行して案内して呉れる筈だったのである。出発の朝になって、 Lさんから断りの電話が入った。
 『彼女が待ち合わせの場所に姿を見せない。自分も都合の悪い事が出来たと』
 200年ほど前にビルマ軍に破壊されたアユタヤ王朝の都は、廃墟のまま悠久の時を刻んでおり、涅槃大仏だけが青空の下で昔と変わらぬ姿で、手枕をして横たわっていた。………

 ゴルフ場はハイ・ウェイから暫く田舎道を辿った丘陵地に有った。緑の山々が周囲を取り囲む。なだらかな地形に手入れの行き届いた各ホールが展開している。余り高い樹木はなく、コースの全体がかなり良く見渡せる。瀟洒な白亜のクラブ・ハウスから緩い坂を下ってイン・コースの10番ホールに向かう。
 ガイドの身内がこのクラブに勤務して居るので特別に便宜をはからって呉れた。クラブの研修生が一緒にラウンドして呉れることになった。おまけにその研修生の女友達も歩いて付いて来ると言い、それにガイドも加わる。結局一寸大袈裟なお供付のプレーになった。
 お供付と言えば、バンコック市内のゴルフ場で数人のお供を従えてゴルフをする一行を車窓から目撃したことがあったが、そのお供たちは主人の為に腰掛けや日除けの傘を恭しく捧げ持って、陽差しの中を歩かされて居たのであつた。
 研修生と一緒のプレーでは、みっともないゴルフは出来ないと、やや緊張してしまう。
出だしはロング・ホール。頭を残す様にして、しっかりとスイングすると、 ボールは真っ直ぐ飛んでフェア・ウェイの真ん中にナイス・ショットだった。先ずは順調な滑り出しとなった訳である。
 研修生は堂々たる体格で如何にも性格の良さそうな青年であるが、 ゴルフはプロの卵としてはややミスが多いようにも見えた。それでもそのゆったりしたスイングのリズムは、良いお手本になった。ただ英語も通じない。お互いにダンマリのプレーなのである。こちらが片言のタイ語で、 タオライ?(距離はどのくらい?)と聞くと、 ロイ・ハー・シップ(150)などと、これまたタイ語でぼそっと返事をする。そういう遣り取りがせいぜいだ。
 コースの間の小道をスクーターに乗った初老の男がやって来た。研修生の女友達が駆け寄って行って、ハンドルに手を掛けて話を始めた。すぐ話を終えて我々の後を追って来るかと思えばさにあらず、ずうっとその場に立ち尽くした儘動かない。二人の姿は逢か遠く離れた所からも望見された。何故か彼女らの姿は楽しい語らいと言うには程遠い。寧ろ物寂しい雰囲気を漂わせていた。
 ガイドがそっと耳打ちしたことに依ると、二人は親子だそうだ。父親は彼女の幼少の頃に母親以外の女性と懇ろになって家を出たのだと言う。たまに、父親が働くこのゴルフ場を訪ねて来た時だけが親子の逢瀬だった訳である。二人の間で一体どんな会話が交わされていたのだろうか。
 何故か人の世の愛憎の悲劇に巻き込まれて翻弄されながらも一生懸命に生きていく人々の姿は、哀しくも健気で、胸を強く打つ美しさがある。


 コースの脇で無心に咲き乱れるブーゲンビリヤの花に眼をとられる。何となく先程の研修生の彼女の事を考えて居ると、また昔のアユタヤ行きの際、待ちぼうけを食った時の事を思い出してしまうのであつた。
………あの時に約束したのに姿を見せなかったアユタヤの女性の名前は、正確には思い出せないが、花を意味する言葉だった。
 『君は、花ならさしずめ、ブーゲンビリヤという感じがぴったりするね』などとたわいない冗談を言ったことが記憶に蘇って来る。
 そもそもは、友人のLさんがある晩夕食に招待して呉れたのが事の始まりである。夜総会というタイ式の料理屋である。個室でタイ人の仲居が、サービスをして呉れる。例えば海老・蟹の類などを食べ易く捌いて客の回に運んで呉れることが売り物だ。
 くだんの女性は廊下で我々と出会った途端にびっくりした様子を見せて、空いた部屋に逃げ込んでしまった。Lさんがその如何にもウブで清楚な姿に御執心となり、早速指名したのだ。ところがあちこち逃げ回ってなかなか席に現れない。
 先輩株の女性の説明では、彼女は一週間程前にアユクヤの田舎からバンコックの都会に出て来たばかりで、毎晩客の前に出るのを恥ずかしがって手を焼いているのだという。
 暫くして彼女はやっと言い含められたのか席に出て来た。答えを渋る彼女からLさんが聞き出したのは、意外に気の毒な身の上話であった。
 彼女は一寸見には可憐な17~8才の歳頃に見えたが、22オの既婚者だった。タクシーの運転手と結婚したのも束の間のことで、 ご主人を交通事故で亡くし、  実家に戻った。実家は極貧の農家で幼い兄弟姉妹も多く、出戻り娘の場所はない。それでバンコックに出稼ぎに来たという。
 Lさんが彼女の里帰りだと囃し立てて週末のアユタヤ行きを強引に提案する運びとなったわけであるが、考えて見れば無神経な話で彼女が来ないのも当然で  あった。何となくLさんのペースに嵌って、 これが当地の流儀なのかといい気になり過ぎて同調してしまったのは軽率だったかも知れない。故郷のアユタヤ行きに誘われて断ることも出来ず、さりとて姿も見せなかった彼女の心情を思うと心が痛んだ。
 その時の彼女の小さな胸の中にはきつと、慣れない都会の人々への不信や今すぐにでも飛んで帰りたい故郷への思い、はたまたきっと歓迎されないであろう早すぎる帰郷の逡巡など、様々の思いが渦巻いて居たに違いない。…………

 池の中の浮島のようなショート・ホールに来る。蓮の葉が折り重なるように水面を覆っている。私の打球は心の重さを映したかのように、最初はトップし、2回目はダフッて次々と白杭を越えては、蓮の葉の中に消えて行つた。
 『凛然と咲くピンク色の花弁を傷つけなくて良かつた。願わくはボールたちよ、誰の眼にも触れず、蓮の根元で千年眠るがよい』
 ハーフ・ラウンドを終わってクラブ・ハウスヘ戻って来た。
 我がガイドが研修生と物陰で何かひそひそと言葉を交わして居る。そして困ったような顔をしてやって来た。
  『コースの支配人が出てきたので研修生が仕事に戻らなくてはいけない』と言う。
 後半のアウト・コースを独りでラウンドし始めた途端であった。折しも突風と共に横殴りの驟雨が襲って来た。吹きつのる風はコースの遠景をバックに横縞模様の雨の幕を織りだし、勢いは強まる一方だ。暫くの間茂みの中で風雨を凌いでいたが、結局諦めてプレーを打ち切ることにした。
 
 クラブ・ハウスの玄関に立ち車に乗り込もうとすると、先程の研修生の彼女がいつの間にか姿を現した。
 しかもガイドが恐る恐る『彼女をバンコックまで同乗させて貰えませんか?』と言うではないか。
 車がハイ・ウェイに出る頃には、雨は嘘のように上がってしまった。沿道の野や林の緑が滴るように瑞々しい。私の座席の横には、彼女が遠慮勝ちに身を固くして座って居た。
 遙か向こうの小高い山の中腹に、 白い巨大な仏の座像が見える。首を巡らせてその仏像を目で追っていると、 またガイドが恐る恐るお伺いを立てて来る。    『この近くにこの女性の甥が修行僧に入っているお寺が有るのです。彼女が一寸立ち寄らせて頂けると有りがたいと言うのですが』。それは山の中の静かな寺院であった。他に訪れる人もなく、森閑として静まりかえっている。
 暫くして彼女の15才の甥が出てきた。丸めて青々とした頭蓋のかたちと白い作務衣が、なんとはなく痛々しさを感じさせる。タイでは男子は一生に一度は得度して仏門で修行をする。その期間は数週間から3か月と言う。
 彼女は甥の少年に何かこんこんと諭すように話掛けている。そして遠慮して後ずさりする少年の手に、無理やり小遣いらしきものを握らせた。そして運れ立って 本堂の僧侶に会いに行く。僧侶の説教にじっと聞き入り、合掌をして深く頭を下げ聖水を振り掛けて賞う。本堂を出て来た彼女の顔は敬虔さと優しさに溢れていた。

 ガイドが言う。『ここの先代の僧侶は高潔な人で有名でした。山の洞窟で瞑想の時を過ごすことが多く、亡くなったのもその洞窟の中でした。信者に発見されたのだそうです』    
 タイの仏教は小乗仏教で僧侶の戒律は厳しい。僧侶は清貧に甘んじ、妻帯もせず、ただひたすら瞑想や仏典の研究に身を捧げるという。僧侶は町や村の生活では大衆の良き助言者や教育者の役割を果たし、大衆は僧侶に奉仕することで功徳を積み、仏の救いに近づくのである。

 『ところで彼女は中国人のお金持ちと結婚して男の子まで成しながら、主人が病死したら嫁ぎ先を追い出され、大変苦労しているそうです』
 『それでも彼女は人一倍信心と功徳を積んで、しかも自分が積んだ功徳を年老いた母と息子へどうか振替えて下さいと、仏に祈っているのだそうです』

 バンコックの街はずれで彼女は車を降りた。車が走り去ろうとした時に、彼女が初めて微笑みを見せ、手を合わせて会釈をするのが見えた。ガイドが彼女からと言って、豆粒大の仏の座像(プラ・クルアン)と小指大の聖紐を手渡して呉れた。先程の僧侶に入魂してもらったものだそうだ。聖紐を鼻に近づけて見ると、仄かにジャスミンの香りがした。

 ………この時のバンコック滞在の以前に一度Lさんと再会したことがあった。その時の話ではアユタヤの彼女の消息はこうである。
 彼女がLさんの勧めで夜総会をやめて縫製工場に勤めることになり、 Lさんはお祝いに化粧品のセットを贈ったそうだ。その後何故か彼女はLさんの前から姿を消してしまう。彼女が寄寓していた先を訪ねてみると、感謝の置き手紙と、何体かのプラ・クルアン(小さな仏像)が残されていたと言う。…………

 今、以前に何気なく聞いたLさんの話を思い出した。小さな仏像に託された素朴であるが深い心の跡を見る思いがして、胸を衝かれたのである。
 心の中に色々な重い想念を湛えて、長い一日のとばりが降りようとしている。車窓の正面に寺院の仏塔が迫って来る。黄金の輪を幾重にも重ね、その輪を段々と狭めながら鋭い塔の先端に至る。その造形が美しい。
 それはまるで、輪廻を解脱して涅槃に到達せんと願っている人々の心象を、そのまま形に表したかのように、夕映えに眩しく輝いていた。(了)