一九九五年(平成七年)の三月末から四月にかけてニュージーランドに旅をした。このときのことは前回(ニュージーランドでのゴルフ・その1)に書いた。(2012-06-21 投稿)この投稿はその時に書き漏らしたことの補足と続編である。
十人余の団体旅行であつた。早春の東京から初秋のオークランドへ、つまり北半球から南半球へ赤道を跨いで一飛びしたのである。時差は三時間しかないのでその点では大して応えることはないが、それより夜行便で機内ではあまり眠れないのでちょっと辛い旅だった。何故か南半球への便は目的地へは朝に到着する。オークランドは緯度的には福島県と茨城県の県境に近い位置である。従って気温の変化は殆ど感じられない。しかし季節には秋の気配が漂い紛う方もないのだ。春や夏を飛ばして一気に秋を迎えたわけで、突然去っていった季節を惜しむような一種不思議な喪失感が、まずこの旅の心となったことは前回も書いた。
市内に入る手前でエデン山に立ち寄る。標高は一九六米の死火山だがオークランド市内と港が一望の下に見渡せる。ここはもともと先住民族のマオリの城塞(パと呼ぶ)だったところである。旧火口の部分が緑色の漏斗の形で陥没し自然の造形をそのまま残している。ダウンタウンの東にドメインと呼ばれる広大な公園がある。そこにオークランド博物館が建っている。ギリシャのパルテノン神殿のようなゴシック式の建築である。玄関のホールに入ると力強い絶妙なハーモニーが聞こえてきて、あたりの空間を浸していった。マオリの民族衣装を着た男女の歌と踊りの歓迎だった。ポリネシアの伝統的な合唱にはもともと宗教的な儀式の背景があるようだ。シャーマニズムの呪術のように人の心に迫ってくる。彩色した萱の腰蓑で踊る姿や優美にたゆたう身体の動きはハワイのフラダンスと共通するものがあった。男たちは上半身裸であるが、女性たちはバンダナで髪を飾り、祖先が身体に彫った伝統的な刺青模様の上衣で胸を覆っている。何故か両胸にポイという白い大きなボンボリを吊るしている。昔はふくよかな乳房を露わにして踊ったことの名残なのであろうか。
マオリの祖先は同じポリネシアのタヒチのソシエテ群島から八世紀頃に移住してきたといわれており、それぞれ酋長を頂く部族が各地に割拠して抗争を繰り返していた。そして遂にハワイのように一つの王国として統一を実現することはなかった。そのうえ捕鯨船や商人や宣教師たちを先駆とした西欧人の流入によって、父祖伝来の大切な土地を蝕まれていったのである。
博物館には全長二十五米に及ぶ巨大な朱塗りの戦闘用カヌーが展示されていて、部族間の争いの時代を象徴していた。巨大な駝鳥であるモアの骨格や保護鳥のキーウィの剥製がいる。モアは食用になるので。乱獲されてもうとっくに絶減してしまった。キーウィは深い森林に隠れて細々と生存している。高い壁面に飾られて彼らを見下ろしているのは、大きな白い木製の仮面である。その表情は眼を半眼に閉じて哀しげであり、まるで民族の未来を予知していたかのようである。
オークランドのダウンタウンはこぢんまりしているが、坂の多い落ち着いた街だった。人口は約百万人でこの国最大の都市だ。港や湾に林立する夥しいヨットのマストが印象的である。派手さのない目抜き通りのクーインズ・ストリートやパーネル・ヴィレッジには、この地に入植してきたイギリス人たちの質実な生活様式が如実に現れていた。
ロトルア湖を訪れたあと、次なる宿泊地のクイーンズタウンへ飛ぶ。南島のワカティプ湖の北の畔にある、まるで「玩具の国」のような町である。夕刻の到着だった。ケーブルカーでボブズ・ヒルの中腹に登った。そして眺望の良いスカイライン・シャレーというレストランで夕食をとることになった。湖を取り囲む壁のような山々に夕日が映えている。日陰になって夕闇が迫っている湖面に視線を走らせたそのとき、突然デジャヴーが襲ってきて我が眼を疑った。向こう岸からしゃもじの形の半島が張り出していて、そこにはゴルフ場らしきものが見えるではないか。またロトルアでの夜のときのように夢を見ているのであろうか。しかしたちまちにして、あたりは幻のように闇に包まれていってしまった。
翌日の朝早く ミニバスでミルフオード・サウンドのフィヨルド(氷河が刻んだ峡湾)へ向けて出発した。この辺は緯度が北海道の宗谷岬に近い。典型的な氷河の地形である。山々は雪を頂き、平地でも所々に万年雪の層が残っていたりする。
クイーンズタウンからミルフォード・サウンド迄は、地形の関係で大きく迂回をしなければならない。矩形の短い一辺の両端が出発地点と終着地点とすると、この迂回路は西南に延びた矩形の三辺をコの字型に辿っていくのだ。目的地のフィヨルドに着くまでの片道の所要時間は、約五時間半に及ぶ長旅になる。昼食場所のテ・アナウから北上するその最後の一辺の道程は、夢のような天然の景勝地だった。行く手の左側に細長い湖が続き、背景に長い帯を横にして立てたような山脈が続いている。その湖面と山壁の間を、白くて長い雲が襷の形で伸びているのである。その昔マオリたちがタヒチから新天地を求めて大航海をしてきた。ニュージーランドを発見した際に「アオテアロア」(「白い長い雲のたなびく地」)と名付けたといわれる。そうしてみると、これはそもそもニュージーランドの原風景だったのであろうか。途中、ミラー湖という名所で湖畔に降りてみた。鏡のような湖面で有名だという。
冷え冷えとした原生林の下生えを掻き分けて湖面に近づいてみる。そして暗がりから湖面を覗き込んだ。ところが湖面に写る樹々と湖面に覆い被さる樹々とが、重なり合ってどうしても見分けがつかない。いくら眼を凝らしてみても、どちらが水に映った樹々の影でどちらが本物の樹々かが、もどかしい位に見分けが付かないのであった。実在するものと、実在の影が渾然一体となってしまっていたのである。
そもそも実在するとはどういうことであろうか。最近の量子論の影響を受けた認識論はいう。観測する行為に関係なく、それに影響されないで不易かつ独立の実体なるものは、そもそも存在しないなどというのである。観測という行為が対象の位置に変化を与えるのだからという素人にはちょっと理解し難い議論である。ミラー湖で見た光景は、これとは直接繋がらないことではあるが、新しい認識論を連想させるかのように、自然が仕組んだ手の込んだ悪戯のようにも思えたのである。
ホーマー・トンネルに入る前に長い道中で最後の休憩をとった。遠方に雪を頂いたモンブランのような山容の嶺が見える。路端の万年雪の層に近寄って手にとって見る。マオリ族のような褐色の肌をした日本人のガイドの女性が、引詰めにした長い髪に手を遣りながら、さり気なく提案をしてきた。
「お帰りは、また今まで来たコースを戻るのですが、セスナ機でお帰りになる方法もございます。それですと約三十分でクイーンズタウンヘお戻りになれます。」と言うのである。このガイドはゆったりとしたちょっと浮世離れした古風な語り口の人だった。その提案の口調に何か不思議な魔力でもあったのか、全員がシーンとしてしまった。しばらくの間賛成とも反対とも声を出す人は居なかった。セスナ機に乗る場合には事前の予約が必要であって今がそのタイムリミットだというのである。確か数年前だったが日本人の新婚旅行の客がフィヨルドの遊覧飛行中に墜死したのはここではなかったかと思う。リスクは怖い。しかし時間が大幅に節約できる魅力もある。また五時間半もかけてバスに揺られて帰るのはうんざりする。皆内心でその選択に悩んでいる様子は明らかであった。結局団長の立場の私から、「希望者だけがセスナ機に乗ることにしましょう。それが嫌な人は予定通りバスで帰ればよい。」と提案したのである。ところがそれで踏切がついたのかバスを希望する者は誰一人居なかったのである。
そうと決まると誰彼ともなく、「日程が空いた時間で、クイーンズタウンのゴルフ場でハーフラウンドはゴルフができるぞ。」という華やいだ声をあげた。
湾内を遊覧船で巡りながらイルカと競争したり、アザラシの昼寝を見たり、目前に迫る丸の内ビルの二倍の高さという滝の壮観を楽しんだりした後、結局我々は二機のセスナに分乗したのだ。いよいよ岩山の嶺々の上を飛ぶことになったのである。
私は一番機の副操縦席に座った。機はフィヨルドを眼下に一瞥してから反転して、上昇気流に吹き上げられて機体を震わせながら高度を上げていく。尖った岩の頂上が当機を見下ろしながら真正面に迫ってくる。それなのに当機の高度はなかなか上がらないのである。「このままだとあの嶺に衝突する」とすんでのことで叫びそうになる。しかしその瞬間操縦士は機首を翻して、その嶺の横をすり抜けていく。
操縦士がしきりにエンジンに油圧を送るチョークのようなノブに手を掛けるのも気になってしようがない。私は操縦士に断ってから副操縦席の操縦桿を握ってみた。利かないように設定してあるから大丈夫だという。エンジンの振動が直に伝わってきた。そうこうするうちに、機上の環境にも慣れてきた。周囲を見回してみると、一同は一所懸命に手近にある把手にしがみ付いて手に汗を握っている様子である。厳粛な表情ばかりなのである。考えてみるに、もしも万一飛行機が墜落した場合には、何にしがみ付いていても結果は同じだなと思うと、急に何か馬鹿らしくなって気が楽になってくる。それならばこれは千載一遇の機会ということになる。私一人だけは両手を自由にしてカメラをあちこちに向けて写真を撮りまくった。
機上から見るあたりの嶺々の風景には清冽で凛とした気品が感じられた。冷気を孕んだ、青と黒の微妙に沈んだ色調が心を寄せ付けない非情さである。「あそこに人間の肉体が叩きつけられたとしてもブルンとも震えないだろうな」などとあらぬ空想を巡らしてしまう。ふと斜め後ろで何かが崩れ落ちていくような感覚が襲って来てその方向に目を遣る。切り立つような嶺の近くに藍色の淵があって満々と水を湛えている。そこから真っ白な一筋の滝が、長い生き物のように奈落の底へ落ちていくのが見えた。ロトルアで見た、あの夢の景色とそっくりだ。
前方の嶺と嶺の間から、ジェット気流のように一団の白い雲が突進してきた。信じられないようなスピードで迫ってきて背後へと流れていく。その瞬閲にセスナは大きく煽られて空が回ったのである。一瞬今は夢なのかそれとも現実なのかその区別がつかなくなった。
翌日はゆっくり起きて午前中クイーンズタウンの町でショッピングをする予定だった。ところが皆の希望が強く、早起きをして出発前に残りのハーフランドをプレーすることになったのだ。朝霧の中から少しの間だけ明るい陽光が顔を出して、爽やかな日の始まりの歌を唄った。
クイーンズタウンを離れて機上の人となる。私はオーストラリアのシドニーで開かれる会議に出席するべく一足先にニュージーランドを発ったのである。ほかの人たちは会議自体には出席しないが、会議の後に催されるコンベンションに参加するのだ。その会議の間を利用してクライストチャーチへ立ち寄ることになっていた。
機上から大きな川が見える。南島最大のクルーサー川に違いない。日本の利根川と全く同じ、三百二十二キロの長さだといわれる。平旦な平野部を流れているせいであろうか、老人の縮れた髭のように細かい支流に分かれ、茶色の流域を一杯に広げている。旅の期間中つくづく感じたのはこの国の自然環境の保全に掛ける熱意であった。何しろ我が国の国土から北海道を除いた部分よりやや小さいという面積の土地に、三百七十万人の人間しか居ない国なのである (一九九六年現在)。そして生活水準の高い完全福祉国家といわれている。また南太平洋における超大国の原爆実験の被害をその領土の一部で実感した国として、徹底した反核政策を国是にしている。従って安全性の見地で原子力発電すら採用しておらず、地熱発電や水力発電を積極的に推進しているのである。
我々は主としてニュージーランドの自然の魅力を味わえる地域を旅した。そこでは先住民族のマオリの生活や文化に触れる機会があった。この国にも先住民と後から押し寄せた西欧人の移民との争いの歴史が影を落としているのである。その最大の問題はマオリの部族社会が有していた土地の権利に関するものであった。マオリの酋長たちはフランスの露骨な植民地化侵略からの保護を求めてまた彼ら自身の部族間抗争に安定を齎すために、イギリス女王との間にワイタンギ条約を結びその保護下に入ることにしたのである(一八四〇年)。この条約はマオリの酋長達が所有する土地、森林、水産資源の権利をイギリス女王に委譲する代わりにその権利の保証を受けるということと、マオリに英国民としての特権を与えるというものであった。この結果この国はイギリスの植民地になったのである。
ところがイギリスはこの国を植民地化してしまうと、この条約を無視してしまったのである。イギリスの統治は野蛮人しか住んでいない無主の土地を先取したことに基づく権利だというものであった。これが永年にわたるマオリの抵抗運動の原因となった。この問題はいまだに全面的な解決には至っておらず、現在も依然として尾を引いている。
この国の人口の七十五%は北島に住んでいる。今や人口の一割になってしまった先住のマオリ族はやはり北島に多い。自然の中で伝統的な生活をしていた人たちが都市に移住するようになり、同時に混血も進んでアイデンティ喪失の問題が起きているのである。
都市に移住したマオリには高度福祉社会に取り残された貧困やそれに伴う都市の悪弊の問題が生じている。マオリの作家であるアラン・ダフの代表作「ワンス・ウォリアーズ(嘗ては戦士たちだった)」がこの問題を取上げている。この作品は同じマオリ人の監督で映画化されてもいる。一九九四年にモントリオールの国際映画祭でグランプリをとった。ニュージーランドでは三人に一人は見たという注目作である。
それはオークランドの郊外に住むマオリ族の一家の悲劇的な物語だ。妻は酋長の末裔という血統の誇りをいったんは捨て、元は奴隷出身の男と結婚し都会に出てきた。彼女は力自慢の男の魅力に惹かれて一族の反対を押し切って結婚したのだが、所詮マオリは都会の生活に適応できず、その日常生活はさっぱりうだつが上がらない。おまけに夫は仕事を首になって、一家は失業手当で暮らす始末となった。周囲の仲間たちも同様なその日暮しである。安酒場で酒を煽っては騒ぎときには喧嘩などで憂さを払っていた。夫は腕力自慢でお山の大将の羽振を示したくて、ともすれば仲間たちを自宅に呼んで大騒ぎをする。そして妻が思うようにならないと、暴力を振るった。そんなことでは到底家庭が治まるわけがなく、子供たちの一人が悪い仲間にそそのかされて盗みを働き少年院送りになる。嘗ての勇壮なマオリの戦士たちの末路はかくも惨めである。
或る日の酒盛りの夜に夫婦の十三歳の心優しい娘が夫の呑み仲間の一人に犯され、首吊り自殺をする。妻は悲しみに打ちのめされて、屈辱に満ちた都会の生活と夫に決然と別れを告げて、子供たちを引き連れて故郷のマオリの田園生活に戻っていく。娘を犯した仲間を殴り殺した夫は、妻たちに向い「必ずやまた都会に戻ってくるくせに」と喚きたてるが、背後には警察の車のサイレンが迫ってくる。絶望して膝から崩れ落ちた夫の腕には三本の腕輪のような刺青があった。これはもしかするとマオリの神殿の切り妻を飾るテコテコの像の三本指なのか。とすると、彼にとって「生まれる、生きる、死ぬ」とはいったい何であったのだろうか。
「キオラ」とは、マオリの挨拶言葉で「やあ、元気か?」である。近代化や文明化によって人々の物質生活は確かに向上する。しかし未開とはいえ伝統的な生活の中にはあった精神文化の価値までが失われていくのは淋しいことである。
ポリネシアの人たちは古い昔から航海の達人であった。それは南海の生活環境に起因する。多くは珊瑚礁や岩だらけの島々であり強い風と降りしきる雨が支配する。それは決して「楽園」といえるような結構ずくめのものではなかった。つまり人口が増加するとともに常に新天地を求めて航海せざるを得なかったからであろう。ポリネシアの部族社会には相互の争いが絶えなかったようである。
ニュージーランドのマオリの人たちの間でも、部族間の争いは絶えなかったようである。そこに白人たちが進出してくると自分らの争いの故に付け込まれ、父祖伝来の土地を簒奪されていく。そして進歩した文明や技術の前に、たちまち隷属的な地位に追い込まれていく。今や圧倒的に優位な西欧文明が支配している。その中でポリネシアの先住民族は固有の文化を失い洋風化しつつある。いずれなす術もなく西欧文明に同化されるしかないのだろうか?
去り行く機上から心中でマオリの人たちに「キオラ」と呼びかけてみた。それはせめての同情をこめた、力のない呟きにしかならなかった。
(了)