―その8 マレーシャのゴルフ・豊穣の自然と、その中に垣間見た老いと終わりの姿一
3月中旬なのにマレーシャはもう真夏である。船上の国際会議のあと、ペナン島で親善のゴルフに参加した。ペナン島はマラッカ海峡に浮かぶ東洋の真珠と呼ばれている。18年前の3月のことである。
真っ白な母船の横腹を蹴るように、ランチが急発進して島に向かう。振り返ると、母船はどっしりと美しい姿を横たえている。流線型の白い船体が、大きく羽を拡げたような雲を背景にして陸地の緑に映えている。何となく人里離れた感じのする小さな船着き場から上陸する。榔子の梢を仰ぎ見ながら、曲がりくねった山間の道路をゴルフ・コースに向かってバスが行く。
約38年程前のシンガポール駐在時代に、仕事や休暇でペナン島には何回か行ったことがあった。ペナン島はマレーシャ第一の観光地である。人口も約50万というが、街や保養地や観光のスポットは島の北部にあった筈である。その時に初めて訪れたゴルフ・コースのある辺りは、一体島のどの辺にあたるのであろう。昔見慣れたペナンとはまるで別世界のようである。
草木の繁茂する有り様は誠に旺盛と言うほかはない。バスは暫くその緑の深いトンネルを走ると、突然ポッカリと明るい台地に出る。目指すブキット・ジヤンブル・カントリー・クラブであった。
午後の直射日光は目映いばかりで、スタート前から汗が吹き出して来る。辺りの空気が陽炎のように揺らぎ、スタート地点の糸杉の木立が心なしか火炎の形に揺らいで見える。
同伴の3人は米国・タイ・台湾と国際色豊かな人たちである。最初の内こそ、お互いに社交的にエールを交換しながら賑やかにプレーしていたが、段々山岳コースの登り降りのきつさと暑さに参ってきて、口数も少なくなって来る。
台湾のLさんが日本語で話し掛けて来る。
『ペナン島は初めてですか?』
『いいえ、以前何回も来ているのですがここは初めてです。ここは一体ペナン島のどの辺になるのでしょうかねえ』
『島の南東です。飛行場は割合近いですよ』
この会話で位置の感覚が戻ると、不思議と急に過去のペナン島の記憶が蘇って来た。シンガポールからペナンやマレーヘ仕事で出張した時のことである。
………あの時は思いがけない経験だった。ペナン島からマレー半島のイポーヘ行く夕方の飛行便が欠航になってしまったのである。
小さなローカル空港で、飛行機の夜間誘導装置が無い。夕暮れ刻に到着便が遅れると簡単にキャンセルになるのだと言う。さあ大変だ。その日の内に目的地のイポーヘ着いて置かないと、翌日以降の訪間先の予定が全部狂ってしまうのである。
幸運にも日本の商社マンが声を掛けて呉れた。慣れたものでこういう場合にはフェリーで対岸のバタワースに渡り、それからタクシーの乗り継ぎで目的地へ向かうのだと言う。地獄で仏に会うとはまさにこのことである。この時ほど日本の企業戦士が頼母しく見えたことはない。二つ返事で相乗りの提案を受けたのである。
相客が居るので心丈夫とは言うものの、曲がりくねった灯火がない密林の道を、フル・スピードで飛ばすのはスリル満点であった。
しかも黒地に白の骸骨の看板がヘッド・ライトに突然浮かび上がる。AWAS(注意!) とある。つまりスピード出し過ぎの警告なのであるが、これが時々不意を打つように出現するのだ。
街道筋にはマレー人の村落らしいものは見掛けることはない。時々小さな町を通過するが、それはチャイナ・タウンという風情で、道路脇の屋台の食物屋に人影が群がつている。アセチレン灯の明かりが不思議な空間を造っており、その刺激的な匂いが遠い幼年時代の記憶を呼び戻して呉れる。
……帰りそびれて独りになった夏祭の記憶、不安と憧憬が混ざり合った戦慄。……ゴムの林を走り抜ける。昔太平洋戦争の時に日本の自転車部隊が南へ南へと下ったのは、この道に違いないと思ったりする。
全行程、 3百キロ近い道のりであったろう。やっとの思いで目的地のイポーのホテルに着いたのは夜の11時過ぎであった。……………
ふと我に帰ると、コースの中でも一番高い地点に来ていた。遥か遠くに、市街地らしいものが見え隠れする。地平から中空へと広がる雲の背後から白い一本の線がするすると伸びて、 瞬く間に青い空をふたつに切り裂いて行く。飛行機雲だ。燃えるような暑さも、いつしかやわらいでそよ風が夕暮れの到来を予告しているようだ。
クラブ・ハウスに戻ってシャワーの水を頭からかぶる。何処でゴルフをしていても味わうことの出来る安堵の瞬問ではあるが、此処では又格別の歓びである。暫く目を閉じて頭の芯に冷たい水を注いでいると、身体のほてりが徐々に消えて行く。と同時に自分自身が蘇っていく気分である。
マレーの人々は日本人のように風呂に入る習慣はない。その代わり日に何度かマンデー(水浴)をするという。そうすることによって、暑さの中で日々生きる悦びを確かめて居るのだろうか。
バスは再びもとの船着き場へ向かう。入江が近くなった頃、 目の前に異様な景色が飛び込んで来て一瞬息を呑んだ。
小高い丘の一面に枯れ木の林が拡がっている。灰色に尖った幹と枝が緑の下生えの中のあちこちにすつくと吃立して夕日に光っている。あの樹々の枯死の原因は一体何なのだろうと、不思議に思う。豊穣な熱帯の自然の中では、世代交代はごく目立たなく行われているように見えるのに、死後にもその存在を主張しているには余程確固たる理由が有るに違いないと思えて来るのである。
昔クアラルンプールでゴルフをした時のハプニングを思い出す。
……………コースに、突然マレー人の老人が迷い込んで来た。上半身は裸で、両足も股までむき出しであったが、明らかにおむつをしていた。じっとこちらを凝視していたが、一言も発しない。結局後を追って来た家族らしい人たちに連れ去られるのだが、何となく毅然としているその姿が今でも険に残っている。
そしてその時コースのうねりに隠されていたせせらぎと、そのほとりの見上げるような老大木。その頂上近くから、幾重にも垂れ下がった根茎。その茎にいっぱい絡みついた蔦かずら。などがその老人の、 もう遥か遠くしか見なくなっていたあの眼差しと一緒に、蘇って来る。・…………
船着き場でランチヘの乗船の順番を待つ。
辺りはいつの間にか雲が立ち込めて来て、夕日の照り返しが空のそこここに淡い彩りを残しているのみである。
以前の、イポー行きの便が欠航になった時は、夕焼けが結麗だった。ただ如何にもその呆気なかったことを、なんとか到着便が日没前に着陸して欲しいという切ない期待と共に、鮮やかに思い出すのである。
あの時は夕日が背後の山に隠れる寸前に辺りを茜色に染めたと思うと、瞬くうちに空は紫色に変わり、夜の厚い帳が降りてしまった。
それにひきかえ、ブルネイで見た夕焼けは本当に素晴らしかった。
それは、マレーシャ半島への出張に引き続いて東マレーシャ(ボルネオ)へ市場調査の旅に出た時の経験である。
……ブルネイを訪れたのはシェル石油と或る日本の商社の液化天然ガスのプロジェクトを見る目的であつた。
首都のバンダール・スリ・ブガワン(とは言つても人口約5万の小都市だ)から車を飛ばして約2時間の距離にある、シェルのコンプレックスに着いた。海岸に立つと、逢か数キロの沖合へ真っ直く突き出したジェッテイ(パイプ・ラインの突堤)とあちこちに林立するオイル・リグが、紺碧色の海と空に白く映えている。
夕暮れの風に誘われて屋外に出た。空一杯に拡がる羊雲に落日が映えて、桃色に輝いている。息を呑んで見るうちに大空の余白までがすべて桃色に染まって行くではないか。
『ああ、自分は何故にこんな風にして南海の涯に立って居るのだろうか?』
このまま息を止めて我身を投げ出せば時が止まり、この瞬問が永遠に続くような錯覚に捕らわれ、茫然とその場に立ち尽くした。………
………そうだ、あの時のボルネオヘの出張の最後の目的地はサンダカンであった。かつてラワン材の積出し港として栄えた港町であり、 リトル・ホンコンと呼ばれていた。サンダカンの日本の商社の支店の幾つかを訪間するのが目的であつたのだが、その実は隠された悲願がその時の自分を駆り立てて居たのである。駐在地シンガポールで、文芸春秋に所載された山崎朋子女史の『サングカン八番娼舘』を読んだことがその発端であった。女性史の研究家の山崎朋子さんが、天草の或る老婆と生活を共にしながら、貧困の故に東南アジアに売られて行った『からゆきさん』の悲しい運命を聞き出し綴った記録である。その話を読んだサングカン駐在のある商社員が苦心惨憺の後に、若くして過労や病気で異郷の地で他界した主人公の同僚たちが眠る日本人墓地を探し当てたことを、後日談が伝えていた。長年密林の中に埋もれて忘れられて居たのだ。サンダカンの出張時に是非この日本人墓地を訪ねて見たいと思って居たのである。
空港で捉まえた中国人の運転手に広東語で話掛けるとすっかり打ち解けて、仕事の後の夕方に、その日本人墓地に案内して呉れた。
広大な中国人の墓地を通り抜け、更に深い林のそのまた向こうにそれは有った。
20坪位の広さの傾斜地に墓標が5列並ぶ。『からゆきさん』の墓はせいぜい30センチくらいの背丈で、墓標の文字も風雨に侵されている。『享年19才』とか『享年20才』の文字しか読めない。
墓の周りは地元の日本人会の人たちによって整備されたと聞くが、早くも旺盛な夏草が辺りを覆い隠そうとしていた。……………
気が付いて見ると、 もう辺りはとつぶりと暮れていた。夜の冷気と草の匂いが沸き上がる想念の雲をかき消して行った。植物の光合成というプロセスのリズムのなせるわざなのであろうか、樹々や草の吐息が辺りを深々と浸し、長い一日の終わりの休息を誘う。
我々を乗せたランチは夜光虫の輝く海面を滑る様にして、母船に近づいて行く。
母船のハッチ上にあるカンテラの光芒が、海風に揺れながら我々を優しく招いて呉れるのであった。(了)