池田昌之です。

このブログはあるゴルフ倶楽部の会報に連載したゴルフ紀行が始まりである。その後テーマも多岐にわたるものになった。

ゴルフ紀行その8 マレーシャでのゴルフ

2012-06-10 08:42:59 | タイ / マレーシア

―その8 マレーシャのゴルフ・豊穣の自然と、その中に垣間見た老いと終わりの姿一

 3月中旬なのにマレーシャはもう真夏である。船上の国際会議のあと、ペナン島で親善のゴルフに参加した。ペナン島はマラッカ海峡に浮かぶ東洋の真珠と呼ばれている。18年前の3月のことである。


 真っ白な母船の横腹を蹴るように、ランチが急発進して島に向かう。振り返ると、母船はどっしりと美しい姿を横たえている。流線型の白い船体が、大きく羽を拡げたような雲を背景にして陸地の緑に映えている。何となく人里離れた感じのする小さな船着き場から上陸する。榔子の梢を仰ぎ見ながら、曲がりくねった山間の道路をゴルフ・コースに向かってバスが行く。
 約38年程前のシンガポール駐在時代に、仕事や休暇でペナン島には何回か行ったことがあった。ペナン島はマレーシャ第一の観光地である。人口も約50万というが、街や保養地や観光のスポットは島の北部にあった筈である。その時に初めて訪れたゴルフ・コースのある辺りは、一体島のどの辺にあたるのであろう。昔見慣れたペナンとはまるで別世界のようである。
 草木の繁茂する有り様は誠に旺盛と言うほかはない。バスは暫くその緑の深いトンネルを走ると、突然ポッカリと明るい台地に出る。目指すブキット・ジヤンブル・カントリー・クラブであった。
 午後の直射日光は目映いばかりで、スタート前から汗が吹き出して来る。辺りの空気が陽炎のように揺らぎ、スタート地点の糸杉の木立が心なしか火炎の形に揺らいで見える。        

 

 同伴の3人は米国・タイ・台湾と国際色豊かな人たちである。最初の内こそ、お互いに社交的にエールを交換しながら賑やかにプレーしていたが、段々山岳コースの登り降りのきつさと暑さに参ってきて、口数も少なくなって来る。
 台湾のLさんが日本語で話し掛けて来る。
  『ペナン島は初めてですか?』
  『いいえ、以前何回も来ているのですがここは初めてです。ここは一体ペナン島のどの辺になるのでしょうかねえ』
  『島の南東です。飛行場は割合近いですよ』
 
 この会話で位置の感覚が戻ると、不思議と急に過去のペナン島の記憶が蘇って来た。シンガポールからペナンやマレーヘ仕事で出張した時のことである。
 ………あの時は思いがけない経験だった。ペナン島からマレー半島のイポーヘ行く夕方の飛行便が欠航になってしまったのである。
 小さなローカル空港で、飛行機の夜間誘導装置が無い。夕暮れ刻に到着便が遅れると簡単にキャンセルになるのだと言う。さあ大変だ。その日の内に目的地のイポーヘ着いて置かないと、翌日以降の訪間先の予定が全部狂ってしまうのである。
 幸運にも日本の商社マンが声を掛けて呉れた。慣れたものでこういう場合にはフェリーで対岸のバタワースに渡り、それからタクシーの乗り継ぎで目的地へ向かうのだと言う。地獄で仏に会うとはまさにこのことである。この時ほど日本の企業戦士が頼母しく見えたことはない。二つ返事で相乗りの提案を受けたのである。

 相客が居るので心丈夫とは言うものの、曲がりくねった灯火がない密林の道を、フル・スピードで飛ばすのはスリル満点であった。
しかも黒地に白の骸骨の看板がヘッド・ライトに突然浮かび上がる。AWAS(注意!) とある。つまりスピード出し過ぎの警告なのであるが、これが時々不意を打つように出現するのだ。
 街道筋にはマレー人の村落らしいものは見掛けることはない。時々小さな町を通過するが、それはチャイナ・タウンという風情で、道路脇の屋台の食物屋に人影が群がつている。アセチレン灯の明かりが不思議な空間を造っており、その刺激的な匂いが遠い幼年時代の記憶を呼び戻して呉れる。
 ……帰りそびれて独りになった夏祭の記憶、不安と憧憬が混ざり合った戦慄。……ゴムの林を走り抜ける。昔太平洋戦争の時に日本の自転車部隊が南へ南へと下ったのは、この道に違いないと思ったりする。
 全行程、 3百キロ近い道のりであったろう。やっとの思いで目的地のイポーのホテルに着いたのは夜の11時過ぎであった。……………

 ふと我に帰ると、コースの中でも一番高い地点に来ていた。遥か遠くに、市街地らしいものが見え隠れする。地平から中空へと広がる雲の背後から白い一本の線がするすると伸びて、 瞬く間に青い空をふたつに切り裂いて行く。飛行機雲だ。燃えるような暑さも、いつしかやわらいでそよ風が夕暮れの到来を予告しているようだ。

 クラブ・ハウスに戻ってシャワーの水を頭からかぶる。何処でゴルフをしていても味わうことの出来る安堵の瞬問ではあるが、此処では又格別の歓びである。暫く目を閉じて頭の芯に冷たい水を注いでいると、身体のほてりが徐々に消えて行く。と同時に自分自身が蘇っていく気分である。
 マレーの人々は日本人のように風呂に入る習慣はない。その代わり日に何度かマンデー(水浴)をするという。そうすることによって、暑さの中で日々生きる悦びを確かめて居るのだろうか。
 バスは再びもとの船着き場へ向かう。入江が近くなった頃、 目の前に異様な景色が飛び込んで来て一瞬息を呑んだ。
小高い丘の一面に枯れ木の林が拡がっている。灰色に尖った幹と枝が緑の下生えの中のあちこちにすつくと吃立して夕日に光っている。あの樹々の枯死の原因は一体何なのだろうと、不思議に思う。豊穣な熱帯の自然の中では、世代交代はごく目立たなく行われているように見えるのに、死後にもその存在を主張しているには余程確固たる理由が有るに違いないと思えて来るのである。
 
 昔クアラルンプールでゴルフをした時のハプニングを思い出す。
 ……………コースに、突然マレー人の老人が迷い込んで来た。上半身は裸で、両足も股までむき出しであったが、明らかにおむつをしていた。じっとこちらを凝視していたが、一言も発しない。結局後を追って来た家族らしい人たちに連れ去られるのだが、何となく毅然としているその姿が今でも険に残っている。
 そしてその時コースのうねりに隠されていたせせらぎと、そのほとりの見上げるような老大木。その頂上近くから、幾重にも垂れ下がった根茎。その茎にいっぱい絡みついた蔦かずら。などがその老人の、 もう遥か遠くしか見なくなっていたあの眼差しと一緒に、蘇って来る。・…………

 船着き場でランチヘの乗船の順番を待つ。
 辺りはいつの間にか雲が立ち込めて来て、夕日の照り返しが空のそこここに淡い彩りを残しているのみである。
 以前の、イポー行きの便が欠航になった時は、夕焼けが結麗だった。ただ如何にもその呆気なかったことを、なんとか到着便が日没前に着陸して欲しいという切ない期待と共に、鮮やかに思い出すのである。
 あの時は夕日が背後の山に隠れる寸前に辺りを茜色に染めたと思うと、瞬くうちに空は紫色に変わり、夜の厚い帳が降りてしまった。
 
 それにひきかえ、ブルネイで見た夕焼けは本当に素晴らしかった。
 それは、マレーシャ半島への出張に引き続いて東マレーシャ(ボルネオ)へ市場調査の旅に出た時の経験である。
 ……ブルネイを訪れたのはシェル石油と或る日本の商社の液化天然ガスのプロジェクトを見る目的であつた。
 首都のバンダール・スリ・ブガワン(とは言つても人口約5万の小都市だ)から車を飛ばして約2時間の距離にある、シェルのコンプレックスに着いた。海岸に立つと、逢か数キロの沖合へ真っ直く突き出したジェッテイ(パイプ・ラインの突堤)とあちこちに林立するオイル・リグが、紺碧色の海と空に白く映えている。
 夕暮れの風に誘われて屋外に出た。空一杯に拡がる羊雲に落日が映えて、桃色に輝いている。息を呑んで見るうちに大空の余白までがすべて桃色に染まって行くではないか。
  『ああ、自分は何故にこんな風にして南海の涯に立って居るのだろうか?』
 このまま息を止めて我身を投げ出せば時が止まり、この瞬問が永遠に続くような錯覚に捕らわれ、茫然とその場に立ち尽くした。………

 ………そうだ、あの時のボルネオヘの出張の最後の目的地はサンダカンであった。かつてラワン材の積出し港として栄えた港町であり、 リトル・ホンコンと呼ばれていた。サンダカンの日本の商社の支店の幾つかを訪間するのが目的であつたのだが、その実は隠された悲願がその時の自分を駆り立てて居たのである。駐在地シンガポールで、文芸春秋に所載された山崎朋子女史の『サングカン八番娼舘』を読んだことがその発端であった。女性史の研究家の山崎朋子さんが、天草の或る老婆と生活を共にしながら、貧困の故に東南アジアに売られて行った『からゆきさん』の悲しい運命を聞き出し綴った記録である。その話を読んだサングカン駐在のある商社員が苦心惨憺の後に、若くして過労や病気で異郷の地で他界した主人公の同僚たちが眠る日本人墓地を探し当てたことを、後日談が伝えていた。長年密林の中に埋もれて忘れられて居たのだ。サンダカンの出張時に是非この日本人墓地を訪ねて見たいと思って居たのである。
 空港で捉まえた中国人の運転手に広東語で話掛けるとすっかり打ち解けて、仕事の後の夕方に、その日本人墓地に案内して呉れた。
広大な中国人の墓地を通り抜け、更に深い林のそのまた向こうにそれは有った。
 20坪位の広さの傾斜地に墓標が5列並ぶ。『からゆきさん』の墓はせいぜい30センチくらいの背丈で、墓標の文字も風雨に侵されている。『享年19才』とか『享年20才』の文字しか読めない。
 墓の周りは地元の日本人会の人たちによって整備されたと聞くが、早くも旺盛な夏草が辺りを覆い隠そうとしていた。……………

 気が付いて見ると、 もう辺りはとつぶりと暮れていた。夜の冷気と草の匂いが沸き上がる想念の雲をかき消して行った。植物の光合成というプロセスのリズムのなせるわざなのであろうか、樹々や草の吐息が辺りを深々と浸し、長い一日の終わりの休息を誘う。
 我々を乗せたランチは夜光虫の輝く海面を滑る様にして、母船に近づいて行く。
母船のハッチ上にあるカンテラの光芒が、海風に揺れながら我々を優しく招いて呉れるのであった。(了)


その7 香港でのゴルフ・寄港地での出会いと別れ

2012-06-07 11:51:14 | ゴルフ紀行 (風土と文化)

一その7 香港でのゴルフ・寄港地での出会いと別れ一

 まるでレースで縁取ったような島々が紺碧の海に点在して、眼下を通り過ぎて行く。白い航跡を曳く船の数がめっきり増えたと見る間に、飛行機は高度を下げて行った。林立するビルの間を縫うようようにして進む。まるで手を伸ばせば届きそうな人々や車の群れをかすめて 滑走路に滑り込む。
 空港ビルから街へ出る。一種独特な匂いが鼻孔を襲う。油と醤油と線香の香りが混ざった様な匂い、紛れもない中国人の街の匂いである。……ああとうとう帰つて来た。……突然中国(旧満州)で過ごした幼年時代の嘆覚の記憶が、懐かしい感情と共に蘇る。
 
 重なり合い犇めき合う極彩色の看板と文字の氾濫、 ビルの上層階の窓々から直角に突き出た物千竿にはためく万艦飾の洗濯物、街路にはみ出した屋台の食べ物屋。そして辺りの活気と喧騒はまるでぶんぶん音をたてて回転する坩堝の中のようだ。
 カー・フェリーの船着き場に近づくと、折り重なるように密集する船のマストの向こうに対岸の香港島の山肌を覆う石柱の群れに似た高層ビルが迫って来る。
 今から42年前の昭和45年に初めて香港に着任した時の、鮮明な記憶のひとこまである。

 香港と私の因縁は浅くない。この時の香港駐在は2年半だったが、13年後の昭和58年から2度目の駐在となり3年間呑港で暮らした。 その後も何回となく香港へは里帰りしている。
 香港でのゴルフの思い出は、約半世紀前と、34年前の2度にわたる駐在時と、最近の何度かの訪間の時の3層に跨がるのである。その舞台は概ねロイヤル・ホンコン・ゴルフ・クラブであつた。
 ロイヤル香港クラブは、半島の奥深く中国との国境に程近い粉嶺(ファンリン)に3つの18ホールがあったが、これとは別に香港島の南側の景勝地深水湾(デイープ・ウォーター・ベイ)にもこじんまりした9ホールのサイトがあった。
 
 記憶の中の一番古いシーン。それは何といっても昭和40年代のアジア・サーキット華やかなりし頃の、香港オープンの競技であった。
 当時は日本の有名プロも大挙してこの春先の香港オープンに参加していた。中堅プロのKがスタート・ホールでチョロをした時は、並み居る外国人観客の中で我がことの様に赤面してしまった。ところが第2打をスプーンでツ―オンして難無くパーを拾ったので、流石プロは違うものだと逆に感激してしまう。この時に観戦に赴いた職場の同僚のアップの写真が、日本のゴルフ雑誌の巻頭のグラビヤを飾った。本人が偶々帰国してそれを知らされて、休日の観戦ですと大慌てで弁明して廻った事件も今は懐かしい。

 香港のゴルフ場の景観は南中国の田舎の風情が色濃い。がしかし英国の植民地スタイルが各所に厳然と顔を出して来て中々興味深い。
 亜熱帯の気候で秋と冬と春はごく短く、大抵はうだるような暑さの中でのゴルフである。コースは良く整備されてはいるが、土壌は何故か赤茶けていて固い。樹々も樹皮が白く乾いていて、葉は細かいのである。

 オールド・コースの10番は正面の小高い丘を越えて行く。初心者には難所のホールで、最初の頃は よくこのごつごつした岩と固い雑草だらけの丘にボ―ルを打ち込んで苦労したものである。
 この丘の反対側には大きな半円形の墓が鎮座していて、初めての時は振り返って見てギヨッとさせられた。こういう墓はコースの他の場所にも幾つかあつたような気がする。正面の白いタイルに故人の写真が焼き付けて有ったりして、何となくこちらの不謹慎さを詰られている気がして落ち着かなかった。


 コースの中間地点には、いかにも中国風の緑の瓦に白い壁の茶屋が有り、暑さと渇きを一時でも凌ごうと、我々はいつも我先にとへたり込んだものである。当地では日本と違って、アウト・インが別々に分かれてはおらず18ホールを通してラウンドするレイアウトになっている。茶屋ではキャディに冷たいものを与える慣わしだ。彼らはちゃっかりとケーキなども注文して昼飯代を浮かせたりしている。キャディは中年から初老の男が多く、女性も居る。若いキヤデイはまず見たことがなかった。昔はチップをせがまれる煩わしさがあった。それに油断しているとバッグの中のニュー・ボールが忽然と消え失せるのに頭を悩ましたものだ。

 2度目の駐在の時にはすつかり事態は改善していた。A、 B、 Cの3ランクの格付けがなされていて料金が違う。つまり勤務評定が導入されていたのだ。上手いことを考えたものだ。キヤデイの中には、中国の流浪の民と言われる客家(ハッカ)の人も居る。女性は黒い布のひらひらの付いた帽子兼日傘を被っているのですぐ見分けがつく。広東語が余り通じないのも変だ。

 ニュー・コースとエデン・コースが交差する地点の茶屋の前は、コースの中にも拘わらず、半ば公道である。イギリス人の少女が馬上で通り過ぎる姿をよく見掛ける。コースの隣に乗馬クラブが有るのだ。我々のテイー・ショットの終わるのを目で確認して、ちょっと小首を傾げ会釈をして長い髪を扉かせながらギャロップで駆け抜けて行く。その姿は小公女である。

 クラブ・ハウスヘ帰つて来ると、そこはやはりまさしく英国のコロニーである。中国人や日本人の姿もないではない。欧米人就中イギリス人が断然多いのである。しかも結構家族連れが多い。クラブとはそもそも家族で楽しむ所であつて、プールや子供の遊び場の施設が完備しているのは当然なのだ。食堂の奥はラウンジであるが、これがいかにも英国風の重厚さだ。落ち着いた雰囲気である。クラブ・ハウスの上のロッジに泊まって、夜の退屈な時間をラウンジで過ごしたことがある。昼も暗いが、夜は夜でフロア・スタンドの明かりだけを灯している。灰かな光が辺りを浸す。季節によつては暖炉には本物の火がはじける。部屋の中程に白い丸柱があるが、その輪郭が白壁に溶け込む辺りに金縁の額の淡い水彩画が掛かっている。じじ―っと、耳の中で静けさが音を立てて鳴っている。

 紳士のみ(婦人は入室お断り)の部屋もある。プレイの後シャワーを浴びて、ラフなスタイルでビールに喉を鳴らしながら、男だけでオダを上げる空間なのだ。クラブ・ハウスの外にはポーチが有って、大きなパラソル付のテーブルが並んで居る。御丁寧にここにもメンズ・オンリーの一角が設けられている。イギリス人とは普段余程奥様に気兼ねをして生きている人たちなのかと、つい同情してしまうのである。

 永年の香港の生活でいろんな人々と一緒にゴルフをした。私は未だにロイヤル・ホンコンの個人メンバーである。何年かに一度は里帰りをしてプレイをしたいと思っていたが、最近は足が遠のいている。昔一緒にプレイをした人はもう誰も居ないのはなんとも寂しい。
 一時的に駐在をする外国人ばかりでなく、土地の人達の変化も割合激しいようである。

 2度の香港駐在のいずれの時も、香港島のヴイクトリア・ピークの中腹にある、素晴らしい見晴らしのフラット(日本でいうマンション)に住むという幸運に恵まれた。ヴェランダに出ると眼下にヴイクトリア湾の港と対岸の九龍半島が見える。港にはひつきりなしに大小様々な船の出入りがある。貨物船、軍艦、時には客船。艀やフェリーが往き交うさまもまことに娠やかである。遥か右手には空港が霞んでいる。飛行機の発着も間を置くことがない。湾に向かってこういう往来を眺めていると飽きることがない。その海の色彩の変化が又素晴らしい。早朝の海は、白く滑るように流れ、 日が昇るにつれそれが深々とした紺碧色に変わる。そして日暮れ時には黄金色に輝くのだ。

 香港それは所詮一時の寄港地なのだろうか。もしかすると永年住み着いた土地の人々にとつても本当のところは寄港地かも知れない。 香港はまるで故郷のように私の心を惹き、そのくせちょっとつれなくて寂しい。ここでは人々は別れる為に出会うみたいだと思った。

 2度目の香港駐在の時だからもう半世紀前になるが、日本と韓国の双方の領事館の肝いりで両国の駐在員のゴルフ定期戦が始まった。日本の植民地支配の傷は深い。彼の国でも我が国でも何かとギクシャクすることが多いのに、香港という国際都市の開放的な雰囲気のなせるわざか、これがたいへん和やかな集いであった。
 ゴルフの後の懇親会では、あちらの人たちが古い懐かしい日本の唄を競って披露して呉れる。そんなにオープンにやって本国に聞こえでもして、問題になったりすることはないのだろうかと、はらはらする位いであった。残念なことに、我が方には韓国語で歌える人は居ない。 その次の機会には一所懸命に韓国の唄を覚えて行って歌ったものである。
 そこで仲良くなった韓国の人たちとは何回か一緒にプライベートのゴルフをやった。ある時誰かがYさんという人を連れて来た。韓国の  商社マンだがこのYさんが帰国するというので、送別の宴を持った。飲む程にYさんのメートルは上がって、段々と感情が激してついには 鳴咽が漏れる始末となる。だがYさんはすぐに冷静さを取り戻した。
 『私はだらしない男なのです…』
 Yさんは故国に妻や子供を残した単身の駐在であった。ただならぬ仲になった或る中国人の女性がいたが、彼の前から突然姿を消したと言う。その女性との馴れ初めは不明だが、その10数年前に中国本土からの逃避行中に銃弾で打たれたことがあり、左足が不自由だったと言う。
 その話を聞いて最初の香港駐在時代の昭和45年頃の香港に思いを馳せた。
・……あの頃の香港は文革で揺れた中国本土のあおりが未だ若干残っていて、香港政庁舎に爆弾が仕掛けられたりしたこともあった。その当時の香港の観光の必見コースと言えば、中国本土との国境が望める落馬州(ロク・マー・チヤウ)の小高い丘であった。その丘からは  眼下に何の変哲もない水田が拡がりその中を一筋の小川がうねりながら流れて、1隻の巡視船がちょっとした緊張を孕みながらゆっくりと滑って行くのであった。…・……
 

 その夜更け、車でYさんを送る。喧騒も静まった街々の暗がりの中に、突然Yさんの彼女の顔が白く浮かんで消えて行く。……・
 『私は大文夫。もう充分貴方は私を助けて呉れたわ。早く家族の所へ帰ってあげて。』……と、その顔はYさんに向かって別れを告げているように見えた。(了)

 

 


ゴルフ紀行 その6 バリ島でのゴルフ

2012-06-04 19:20:38 | バリ島

私は嘗て所属していたゴルフクラブの会報に、外国でゴルフをした経験を13回ほど連載したことがある。その多くは私が出版した      『紀行・イスラムとヒンドゥの国々を巡って』であるとか『紀行・華僑の住む国々を巡って』の文中にも取り込まれている。

http://www.ikedam.com


 そのゴルフクラブの会報のゴルフ紀行に訂正・加筆をして順次掲載してみようと思う。年月が経過して昔の話になったものもある。開発や都市化の進行で外見は一変した場所もある。
しかし風土やその土地柄には変わらない本質的な面がある。それが窺えれば幸いである。
 

―その6バリ島でのゴルフ・神々と精霊の棲み家で一

 バリ島には未だ2回しか訪れていない。私の知人にバリの魅力に取り付かれた人がいる。27回も行つたそうだ。それ位バリには人を捉えて離さない何かが確かに有る。バリの魅力を一言で言うならば、夢見心地の熱帯の自然の中で人々が神々と日々対話をしながら暮らして居るということであろうか。

 この文章を書いたのは、家族とバリに滞在してから7年後だった。それからもう18年もたってしまった。季節は2月で雨期であった。バリの風物と人情が忘れがたかった。
 2回目は家内との二人旅で、現地は乾期であったが暑さはそれ程気にならなかった。
日程の関係で出来合いのソアーに乗ることにしたが、ツアーのオプションにバリ高原のゴルフがあつて,神秘の匂いのするバリの風土でゴルフをしてみたいと気をそそられたのも大切な動機ではあった。

 島の南端のヌサ・ドウアのホテルから北部高原のハンダラ・ゴルフ・クラブまで車で約2時間の行程で、それ自体が一寸した楽しいツアーである。

 朝日が未だそれ程高くないのに、いきなり葬式の列に出くわす。大勢の人々が櫓を運んで来る。その格は金色や派手な彩色の紙や布や花等で飾り立ててある。ガイドに聞くと火葬にした骨を海に撒きに行くところだと言う。葬列は決して厳粛な感じではなく、スタスタと小走りに行く。

 バリで葬儀を見るのは初めてではない。最初のときは、お祭りの山車の行列かと思った位である。死者の霊が天国へ昇る儀式と害Jり切っているのか、人々に悲しみの表情は見えなかった。

 ……村の誰かの家で人が死ぬ。物見の塔でナンダの木の太鼓を打ち鳴らす。3回連打が、弔いの合図だ。村の集会所はたちまち村人たちで一杯になる。森にこだます大鼓の音……

 一般の庶民は葬式の費用を貯めるまで死者を一旦土葬にしておくと言う。こんもりと昼なお暗い林の中で、頭を垂れる弔いの人々の姿を見掛けたことが有った。墨絵のように美しい風景と不思議なやすらぎが漂っているのが心に残った。

 見上げるとはるか空高く、一群の鳥が翔ぶ。あんな高さを翔ぶ鳥が有るのかと眼を凝らすとどうやら白鷺の群れらしい。長い首を前に突き出して羽を後方に、みずすましの姿で空を渡る。あれはもしかすると、人と魂が連れ立って天に昇るところなのだろうか。
 

 我々を乗せた車は街や村を駆け抜けて行く。家々の門口には石に簡単な彫刻を施した台のようなものが必ずと言っていい位有る。
 バリの人々は、悪霊が悪さをしないようにと毎日お供えをするのである。

 門口の魔除や屋敷の中の祠に、花と線香と聖なる水や餅などを供えるのは、大抵は子供の役目だ。澄んだ眼をした女の児が、椰子の葉の皿に餅を置く。聖水を振り掛けて小さな手を合わせる。するとその隙に後を付けている犬がお供え物をパクリとやる。少女は全く頓着せず次のお供えを置く。するとまた犬がパクリとやる。
 すべての生きとし生けるものに『神と精霊のお恵みあれ』という風景で心が洗われる思いがする。

 バリの宗教はヒンドゥーであるがインドの其れとはかなり違う。元々の土着の宗教とミックスしたもので、その根底にはアニミズムが色濃く有るようだ。バリでは殆ど毎日どこかしらで祭りが有るというが、竹のように細い木の先端に椰子の葉で編んだぼんぼりの飾りを吊るし軒先に立てている。丁度芭蕉の葉のような形であるがそれが山を象徴しているのだそうだ。そして山は精霊が宿る最も尊いところだと言われている。

 我々の目指すゴルフ場は1200メートルの高地に有った。
 クラブ・ハウスはバリ風のバンガロー・スタイルの建物だ。入り口には悪霊除けの石像が睨んでいる。植え込みのブーゲンビリヤの鮮やかな紅色が目に沁みる。
 コースは背後に聳える緑濃い山の懐に抱かれて、なだらかにうねるように展開する。
 遥か前方には青い水を湛えた湖が、樹間に顔を覗かせて居る。明るい陽光が燦々と降り注いでいるのに、背後の山から雲が立ちのぼり樹林を覆い始めた。余分な物音は風景の中にみんな吸い取られてでもしまうように辺りは静かである。

 一応スタート時間の予約をしてあったが、コースは余り混んでいる様子はない。インコースの方から家内と二人だけでラウンドしたい』と 申し出るとあっさりOKとなった。 万歳!これで煩わされずバリでのゴルフを満喫出来ると言うものである。実はそのゴルフ・ツアーには若い日本人男女のカップルの同行者が居たのだが、同じ組でスタートするのは勘弁して欲しい心境だった。 と言うのはホテルでの集合時間に30分近く遅刻しておきながら、一言の詫びもなく平気なのだ。一方、早朝のホテルのコーヒー・ハウスで4~5人の中年の日本人の男女連れを見掛けた。何となく水商売風の女性が相手の男性に『社長、社長』と連発しながら辺り構わず下品な高笑いを振りまいて居た。行き先が同じでなければと案じていたのに、悪い予感が的中してクラブ・ハウスでまた出会ってしまったのだ。折角憧れのバリ島に来たのだから、  こういう疎ましい同胞から少しでも離れた処でプレイしたいという気持ちだった。

 でだしの10番ホールはフェア・ウェイの広々したミドル・ホールである。最初のティー・ショットはナイス・ショット、白球が生き物のようにスルスルと伸びて行く。高地のために球が良く飛ぶせいに違いないが、それにしても不思議な感じである。

 周りの樹々のたたずまいが眼を引く。見上げるような大木の頂上に火炎のような紅い花々が咲いている。そうかと見ると同じような大木が今度は白い厚い花弁をいっぱい付けている。可憐な花を付けるだけの小さな花木を見慣れた目には不思議な姿である。風で地に落ちた花を見ると、まるで鳥の亡骸のように痛々しい。

 確か14番のショート・ホールはクラブ・ハウスの方向へ打つ、距離の長いホールである。
クラブ・ハウスの背景に、丈の高い立派な糸杉が群生しているのが見える。糸杉はそこばかりでなくコースのあちこちにすうっと立っているのである。西欧では、糸杉は人の昇天を象徴すると聞いたことがある。この木を見ていると、何となく厳粛な思いに囚われるから妙である。

 まるで幽霊が長い髪を垂らしたような風情の樹を見た。キャディに名前を聞くと『テュマラー』だと言う。若木のうちは糸杉に似ている木だ。そして面白いことに、糸杉の名は『テユマラー・リリン』と言うのだそうだ。
 ふと気が付くと、いつの間にか辺りはどんよりと雲が低く垂れ込めて来た。

 ショート・アプローチでグリーン脇の浅いラフにボールを打ち込んだとき一寸不思議なことが起きた。白いボールが草の中に一旦消えてからはっきり九い白い姿が浮き上がりそしてまた消えてしまったのである。傍に近づいて見ると、細かい羊歯のような葉の陰にボールが沈んでいる。拾い上げようとして手を触れるとボールの周りの草がへたへたという感じに身をかがめるのであった。プトリ・マルーと言う草(眠り草とでもいうのか)の罪のない悪戯だった。

 山の方から、突然一陣の風が霧の様な驟雨を運んで来た。隣のコースとの境に、トンボの羽を数枚に増やし長い尻尾の先を地面に突き刺したような形の木が幾本か立って突風に揺れている。その先のこんもりとした木立の陰から一人の小女が姿を現し、 きらりと光る眼差しでこちらの方を伺う。それはもう何度も見たバリ・ダンスの一場面からそのまま現れたように、見えたのである。

 ……ヒンズーの神話の物語。黄釜色の鹿を追って森に入った夫のラーマに取り残された、美しいシータ姫の踊り……

 バリの踊りは神々に捧げる宗教的な行事だ。女性の踊り手の所作は繊細な優美さに溢れ、 まるで天上のニンフの動きを見るようである。とくに素早く閃くように変わる眼の動きがとても印象的で、視線が真っ直ぐこちらを向くと心を射止められるような気がする。繊細に震える指の表情としなやかな腕と肩が作る線も、造化の神の贈り物のように美しい。

 突風も収まり雨も去った。少女の姿も消えた。一瞬の出来事だったが、 よく思い返して見ると確か少女はカーキ色の服を着ていたような気がする。あれは他の組に付いていたキャディだったのであろうか。それとも一瞬の幻を見たのか。……

 イン・コースのハーフのプレイを終えると日本流に昼食を取る。海外ではワン・ラウンドを済ませてから食事というのが一般だがこのクラブは日本の広済堂の経営だそうで、日本式になっているのだろうか。
 食堂の正面には、いかにもバリ風のお祭りの祭壇のような飾りつけがなされている。色々な種類の果物、餅或いは花や草の葉などを幾層にも積み上げ、美しく飾り付けている。そして華やかな天蓋が一対、祝祭の雰囲気の上にふんわりと傘を広げているのである。

 午後にはまた陽光の中でプレイを続ける。ハンディキャップ1の難しいミドル・ホールには第2打地点の前方を斜めにデイッチ(溝)が走る。折角ドライバー・ショットが良かつたのに、 2打目をトップしてボールはディッチに消えた。
 すると誰も居ない筈の溝の中から、幾つかの小さい首がこちらを覗くではないか。
 乾期だから溝の中には水はない。それなのにボールを拾ってチップをせがもうというのか。心の中で舌打ちをしながら近づく。溝を覗き込んだが子供たちの姿はない。向こうの森に人影が消えるのがちらりと見えたようだが、気のせいかも知れない。ボールはと見れば、何と溝の中の小高いマウンドに、『 さあどうぞその儘お打ち下さい』とばかりに鎮座していた。そしてその傍らには白い鳥の羽が落ちていた。家内に聞いてみると、家内は最初から子供等の姿など全然見ていないと言う。するとこれは全くの偶然なのか。それとも矢張り何者かのなせる業だったのだろうか。

 長い一日のプレイを終えて迎えのバスに乗り込んだ。また突然霧のような驟雨が襲って来た。つい私はバスの窓に顔をすり付けて、深い樹立ちに眼を凝らして何者かの姿を探してしまうのであった。(了)


 


能登半島への旅

2012-05-29 18:09:55 | ☆ 国内旅行 

ー能登半島への旅ー

 海外でのゴルフの話が続いたので、この辺でちょっと趣向を変えて国内旅行の話を書くことにした。実はこれはFacebookのノートに書いたものの再録である。
 昨年の9月に、能登半島へ2泊3日のツアー旅行に参加した。能登半島にいつかは行ってみたいと、懸案にしていた場所であるが、準備のための下調べを含めて学ぶことが多かった。さらに、実際に足を運んでみると予想を上回る発見の多さに吃驚した。


(1) 能登と海流、そして日本の古代史


 能登半島は本州のほぼ中央で日本海へ突き出している。左手の掌を自分に向けて親指を折り曲げた指の形である。南からの暖流と北からの寒流がこの半島の突端辺で合流している。

実はこの海流が日本列島の歴史の形成に大きな役割を果たしてきたということはあまり知られていない。日本の古代史自体が十分解明されていないことが原因でもある。

 親指の第一関節の場所に輪島がある。その輪島の海岸の北方約25キロに七つ島という無人島があり、その近くで最近北朝鮮の脱北者9名が乗った漁船が発見されニュースになった。

車上でバスガイドがそう説明してくれたが、島影が遠くかすんでいてその数を数えるのに苦労した。

  TVの報道によると、脱北者のリーダーは事前によく研究していて、北朝鮮の監視船に発見されないように海岸から離れた航路をとったそうである。そのために海流に流されて韓国へ向かうことができなかったという。 日本に向かえば韓国に移送して貰えると信じ、そのまま海流に任せて航行してきたと語っている。
 これは古代においても、北方から朝鮮半島の東側沿岸を南下してきた船が海流の影響で能登半島近辺に到着したことを裏付けている。
  大陸や朝鮮半島からの文化の流入に、能登半島に向かうこの海流が決定的な役割を果たしたのははっきりしている。その歴史の刻印が能登半島には豊富に見出されるのである。

 韓国の言語学者の朴炳植によると、弥生時代に朝鮮半島や隣接する中国大陸から二つの文化が流入してきたという。米を作る稲作文化と火を使う鉄器文化である。
 稲作文化は主として朝鮮半島から九州や出雲地方へと入ってきた。1万2千年前の氷河時代には朝鮮半島と九州は陸続きだった。その頃から朝鮮半島と九州の往来はあったそうだ。
 火を使う鉄器文化は船で伝えられた。船で日本列島に渡来し製鉄技術を運んできたのは北方の高句麗族(オロチョン族)である。能登半島や付近の北陸地方がその門戸となった。 

 日本の古代史は神話や風土記や万葉集等に記録されている。素戔嗚(スサノオノ)尊(ミコト)がオロチに酒を飲ませ叢(ムラ)雲(クモ)の剣を奪った神話は、ヤマタノオロチ退治伝説だが、その争いの主は伽耶族と海を越えて渡来したオロチョン族だった。
 そのオロチ退治の舞台は出雲の国である。出雲の揖斐川の流域でその地に先住していた伽耶族の稲作の収穫を奪おうとしてオロチ族が争った史実は、『上記』(ウエツフミ、日本の学界では偽書ともいわれているが)にも記録されている。
 当時日本列島でオロチョン族が青銅器を凌駕(リョウガ)する鉄製の武器をかざして、稲作民族から米を略奪する争いが行われていたのは事実のようである。古代の日本列島を揺るがした稲作族とオロチ族の争乱は、中国の史書である魏志(倭人伝)に『この時代に倭の国に大きな争乱があった』と記述されている。

  能登半島の南部にある羽咋市の北東の郊外に、邑知潟という場所がある。これはオロチ潟のことで、オロチ族の存在が現在も地名に残されている一例である。
 眉丈山の南麓に、東西27キロ幅3~5キロにわたって、標高約5メートルの地溝帯が存在する。周辺で多くの古墳や弥生文化の遺跡が発見されているので、オロチ族の居住地だったと推定できるという。

 日本の神道には信仰の対象に二つの源流がある。

その一つは日輪信仰であり、天照大神に代表される。もう一つは熊信仰である。熊襲という呼び名には、歴史的な理由で悪者のイメージが付与されてしまった感じがしないでもないが、熊信仰とは稲作上の天候(雨)の必要性を代表するものだ。つまり雨乞いの信仰である。
 一方で朝鮮半島では日本列島より一足先に稲作が重要となって、熊信仰が日輪信仰を凌駕して支配的になる。キムという姓は日本では音韻変化をして、キム―コマ―クマになった。    
 キム(金)姓が朝鮮半島に多いのは熊信仰が支配的になったからである。

 言語学者の朴炳植の説では、朝鮮半島でまず百済で稲作が発達した関係で熊信仰になって、引き続いて洛東江の沿岸で伽耶国の一部から興隆した新羅が熊信仰に転向した。倭国日本では伽耶国の流れを汲んだ初期大和朝廷(日輪信仰)の時代に新羅を敵視していたのはこの辺の事情による。だがそれも第十代の崇神天皇の時代迄のことで、九州から東上した第二次大和朝廷の時代には熊信仰になったというのである。


 黒潮(暖流)と親潮(寒流)が能登半島の突端近くで合流している。そこが珠州岬である。寒暖の合流が多種類のミネラルを含む海水を育み、付近の海域は豊かな漁場となっている。それと本州を縦断する地溝帯と海底の海溝がパワースポットを生んでいる。
 富士山(活火山・断層地帯)、分杭峠(長野県、ゼロ磁場地帯)と並び大気の融合地帯として、日本の3大パワースポットと称されている。

 隣接地の海岸に、よしが浦温泉・「ランプの宿」という古式豊かな宿があった。




 この付近に日輪信仰終焉直前の天皇の遺跡ともいうべき神社がある。 珠州岬に近い場所に鎮座する須須神社である。第十代の崇神天皇の御世に山伏山(鈴ケ嶽)の山上に創建された神社である。アマツヒダカヒコニニギノミコト、ミホスズミノミコト、コノハナサクヤヒメノミコト等が祭神だが、八世紀に現場所に遷座したという。
 高座宮と金分宮の二社だが高座宮は高倉宮とも呼ばれ高麗からの帰化人・高倉氏の氏族神だったとも言われている。
 
 崇神天皇の子第十一代垂仁天皇まではその存在がはっきりしているが、十五代応神天皇迄は不明確なことが多いというのが日本の学者の説である。 仲哀天皇は第十四代天皇だが熊襲退治に向かう途上で謎の死を遂げた天皇で、その存在を否定する学者さえもいる。 
  これが朴炳植の説では、自らの妃の神功皇后と竹内宿祢(スクナヒコ)との謀議によって暗殺されたのだという。仲哀天皇は最後の太陽信仰の天皇になった。
 神功皇后は熊信仰族の娘だったという。皇后は何回も新羅に攻め入っている。伽耶国が新羅に政権を奪われたのを復讐することに執念を燃やした。そのためには熊襲でも百済とでも手を結んだとしている。   
 古事記や日本書紀の編者たちは、意識的にぼかして書いている。神功皇后が仲哀天皇の皇子たちを討つために差し向けた将軍の名は武振熊(タケフルクマ)で、その名から熊信仰の武将であることが明白だと、その正体を明かしている。

 須須神社の大鳥居は東に向いている。参道からこの鳥居を通して正面を見たときの、夕日の輝きの素晴らしさが社伝に紹介されているが、この神社の創建者(日輪信仰の崇神天皇)を象徴する風景である。

 朴炳植の説ではそもそも日本の現皇室の祖先は朝鮮半島から渡来した熊信仰族だという。その根拠は以下の通りだ。
 日本が韓国併合を行ったのは1910年であるが、その5年後に朝鮮総督府は不思議な布告を発した。その布告というのは『金海を本貫とする金氏の系譜は、治安上の理由によって、その発行を禁ずる』である。
  儒教的な家族制度の伝統が特色である朝鮮半島では、金氏は同じ出身地(本貫)の金氏とは通婚はしない。同姓の未知の男女間ではまず本貫がどこかを気にする理由である。
 金海は洛東江の河口、釜山空港がある金海市である。そこを本貫とする金氏の系譜には日本の皇室の祖先が記録されているので、それが明るみに出るのを避けるためであったと朴炳植は解説している。
 さらに朴炳植によれば『金海に位置した伽耶国の始祖金首露王に、10人の王子と2人の王女がいた。その内の七王子は世の中が衰退するのを嫌い、雲に乗って国を離れた』と系譜に記載されているという。

 一方で我が国の記紀に、天孫ニニギノミコト(神武天皇の祖父)が薩摩半島の西南岸に位置する加世多岬に到着して、韓国(からのくに)がよく見える所に定住したと記されている。その移住が天孫降臨という史実である。因みに鹿児島半島には「七隈の里」という場所がある。  

 さらに延喜式という神社の格式を定めた古文書に、天皇自らが祭主となる神に二柱の韓神(からかみ)がある。「オオムナチ=大国主命」とスクナヒコ神である。『広辞苑』等の国語辞典に「朝鮮から渡来した神」と記してある。

 これに関連するが日本ではそれほど大騒ぎにならなかったが、韓国で大騒ぎになったニュースがあった。それは平成天皇が表明した日本と韓国との関係に関する発言である。
  『私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています。  武寧王は日本との関係が深く、この時以来日本に五経博士が代々招聘されるようになりました。また武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております』
 なお桓武天皇は八世紀から九世紀初めに在位した第五十代の天皇である。
 大衆レベルでのこの発言に対する反応は大きかった。韓国では日本の天皇が朝鮮に頭を下げたと受け取り、日本では皇室に一時期若干の朝鮮の血が混ざったくらいで大騒ぎすることはない。という反発である。いずれの側も相手を見下している点は共通している。
 約2千年の間海を隔てて、異なった地理的条件の下に歴史を歩んできた両国は別な国々になってしまった。お互いに相手の嫌な部分だけを見てしまいがちだが、その根っこには共通な部分があることに気づいてはいないようでもある。
 それぞれに歴史的に身に付けてしまった相手のイメージに振り回されているのだ。それにしても他国を真に理解するのは難しいものだ。
 
 朴炳植の主張はこうだ。皇室のみならず大和民族の祖先は、北方から海を渡り渡来した高句麗族(オロチ族)と九州や出雲へと移住してきた熊襲族だとしている。 この辺の事情をもう少し詳しく述べると以下の通りである。 
 朝鮮半島の歴史に大きな転換をもたらしたのは中国大陸から稲作の技術が伝播してきたことである。三韓時代の馬韓の国から百済が起こった。洛東江沿岸に位置していた伽耶国は割合狭い地域であったが、百済から米作が伝播して人口が急速に増加する。これが社会的な不安定要因となり、人々は新天地を求めて日本列島へと大量に移住するようになる。
 中国の歴史書の魏志(倭人伝)で倭国とは当初洛東江沿岸の国を意味していたが、後年になって倭国の人々が日本列島に移住したので、日本列島に存在することになった。
 伽耶族は出雲から北陸へと勢力を伸ばし、伽耶族より先に移住してきていたオロチ族は東北から北陸に分布して伽耶族と衝突するようになった。
 伽耶族は南下して現在の奈良地方へと進出してくる。飛鳥とか斑鳩とはこの地に移住してきた伽耶族が洛東江沿岸の故地に因んでつけた地名だと朴炳植はいう。
 奈良はクニの意味であり、飛鳥は古代朝鮮語で希望の地を意味するアサカ(高い鳥)がアスカとなった。斑鳩はヤマバトで、ハ音が抜けてヤマトになったという。
 古代の能登から一挙に日本の古代史の全貌に迫る話になってしまったが、まだまだ能登には古代史の謎の解明に関係する場所が豊富にある。

 朴炳植の主張はさておき、日本や韓国・中国の古代史学者たちはどう考えているのだろうか?それに関して興味ある記事を見かけた。今から10年前の日経新聞『文化往来』の記事である。千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館で4日間の国際シンポジウムが開かれたとある。討議の集約は次の4点である。①朝鮮半島南部の小国家・伽耶で作られた鉄が日本列島の倭の国家形成を触発した。②4世紀後半から、5世紀初めにかけて日本列島は騎馬文化など新しい文化を受容した。③日本書紀に登場する『任那日本府』は倭の出先機関とは認められない。④伽耶との交易によって入手する鉄材の流通ルート確保を巡って騒乱が起きた。それが2世紀後半の『倭国大乱』だった。                                                       
 朴炳植の主張は存在が確立している文献に基づくものである。国際シンポジウムに参加した学者たちの議論の根拠はよくわからないが両者を比較してみると、その視野と一貫した説明に大きな格差を感じてしまう。

 古代史の謎の解明に関係する場所とは、まず珠洲岬の須須神社と共通の由緒のあるのが気多大社と羽咋神社である。能登半島西岸の根元にあたる場所に羽咋市がある。両社は羽咋市に鎮座している。

 気多大社は崇神天皇のときに創建されている。延喜式では名神大社に列し、能登国一宮とされた。崇神天皇は前記の通り、日輪信仰の天皇として最後の権力をふるった天皇だ。

 社伝によればオオムナチノ命(大己貴命・大国主命)が出雲から船で能登に入り、国土を開拓した後に鎮まったとされている。
 ここ迄は日輪信仰だった伽耶族の話であるが、出雲で勢力を張った伽耶族は能登などの北陸でも覇権を握っていた。そこに新たに登場するのが熊信仰の熊襲族である。両者は九州や出雲地方に渡来してきた熊信仰族である。そして日輪信仰族と熊信仰族の覇権争いが各地で競合する両族の間で繰り広げられる。
 出雲の伽耶族は「国譲りの神話」に残されているが、九州から東上してきた熊信仰族に覇権を奪われてしまう。

 出雲大社では拝礼の際に、柏手を四つ打つ数少ない神社である。これは出雲族の怨霊を鎮めんとする第二次大和朝廷(熊信仰族)の切なる願いだった。

 羽咋神社は崇神天皇の孫の磐衝別命らを祀っている。崇神の子垂仁天皇(第十一代)の命によりこの地に善政を敷いた功績を記したものだ。
  それにしても能登の地名などには、当時渡来した人々が使っていた言葉がその儘残ったのではないかと思わせるものが多い。ケタとかハクイとかの名称を郷土史の専門家に尋ねても、こじつけとしか思えない説明ばかりである。朴炳植なら氷解する説明がありそうだ。
 
 

 さて次はずっと後の時代の源氏や平家に縁の場所である。

 能登半島西岸の志賀町に能登金剛という景勝地がある。頼朝の厳しい追及を逃れて奥州に向かう途上にあった義経が、48艘の船を隠したとされる入り江がある。それは文治2年(1186年)のことであった。



 壇ノ浦の合戦に敗れて能登に流された平家の武将平時忠の子時国は、鎌倉幕府の厳しい追及をそらすために平家の名を捨てて時国家を名乗りこの地で豪農として繁栄の基礎を築いた。一時は北前(きたまえ)船(ぶね)を七隻も所有し貿易で産をなした。 北海道と能登と関西の間を往来して交易をしたのだ。その屋敷が現存し国の重要文化財の指定を受けている。



(2)能登の自然の恵み


 ツアーの3日間は素晴らしい快晴に恵まれたので、印象を強くしたかもしれない。能登は陽光に溢れ、自然の恵みを満喫している豊かな土地柄であった。

 江戸時代の加賀藩は加賀、能登、越中を領地としていた。その越中富山の高岡に前田家の菩提寺を訪れた。国宝瑞龍寺である。三代目利常公の創建になる壮大な伽藍であった。
 随所に隠れた工夫が凝らされている。高岡に城を築いた二代藩主利長公を人知れず神として祀る意図を持ったものであった。東照宮で神として祀られた家康に遠慮したためだ。
 江戸幕府は能登に根を張った加賀藩を羨むあまり、能登の一部に天領を設けた。

 輪島の朝市は地元の海の幸や山の幸を売る屋台が目抜き通りに長々続いている。市民の生活用品と。観光客のお土産の需要で賑っていた。
 輪島で「塗匠・しおやす」の工場を見学した。埃を一切シャットアウトした気密室で、完成まで幾重もの工程を繰り返す。まさに日本工芸の粋を見た気がした。



また蒔絵の上塗りは著名な芸術家が担当し、わが国が世界に誇れる美術品となる。

 また能登には世界農業遺産に指定された里山や里海が各所にある。輪島市の郊外にある「白米(しらよね)の千枚田」は、肌理の細かい土地利用が巧まずして美しい眺望を作ったものだ。また珠洲市の揚げ浜塩田は、昔ながらの製塩法の実演で観光客を楽しませていた。汲み上げた海水を揚げ浜という砂床に撒き、さらに窯で煮詰め、塩へと純度を高めていく。能登半島の塩はミネラルが多く、「にがり」にも効用が多いという。瓶詰にして販売していた。


 自然の恵みへの感謝はお祭りで表現される。今回は見る機会はなかったが、ユネスコの無形文化遺産として認定された「あえのこと」という田の神へ感謝をする行事がある。またキリコ祭りという奉燈祭が能登各地で行われている。


(3)外界に向いて開かれた能登


 能登には江戸時代に北前船の貿易で繁栄した村が多い。前述の時国家も北前船を何艘も所有して交易をおこなった。

 国内ばかりでなく、外国との交流もあった。奈良時代から平安時代の728年から922年迄の間に、34回渤海国の使節が日本を訪れた。(北陸地方が主体だった。そのうち能登へは3回)能登では、羽咋市志賀町の福浦港が受け入れ港だった。福浦港は切り立った入り江を持ち、風を避けることができる天然の良港だった。ここには使節が宿泊する客院もあった。



 なお福浦港に近い場所に北前船の記念館があった。その外壁は実物大の北前船になっており、当時の英姿を偲ばせた。

 当時渤海国は唐や新羅と対立しており、日本と外交関係を緊密にすることで唐や新羅を牽制する狙いがあった。日本からも728年から811年までの間に13回使節を派遣している。  
 渤海は高句麗が滅亡した後に、その遺民によって建国された(698年)。二百年存続したが西の契丹(のちに遼となる)により滅ぼされる(926年)。
 6年前にこの渤海国遺跡を訪れたことがある。黒龍江省の東北方面の中心都市は牡丹江だが、そのやや南方に寧安市がある。寧安市の郊外に「渤海上京遺祉」があって、渤海の首都の遺構をそのまま保存してある。 
 渤海人は満州族の祖先であるが、その博物館にある展示品は唐の文化の影響を強く感じさせるものだった。砕石を高く積み上げた高さ数メートルの城壁の内部には、広大な緑野の敷地が展開していた。

 遺構の敷地の手前に石塔が立っている。そこに「渤海国上京龍泉府遺祉」と彫られている。 その台地に登る何段かの石段があって、その手前に石造の献花台がある。それがどう見ても日本式なのだ。ガイドを呼んで調べて貰ったところその経緯が判明した。
 旧満洲国建国の初期は地方の治安が不安定であった。日本からの調査団が訪れて来て、渤海遺跡の調査をしていた最中に反日ゲリラに襲撃されて数名の学者が殺害されたという。
 その石塔は満洲国時代に建立されたその遭難者を慰霊する記念碑だった訳である。現中国が石塔の碑文だけを掘りなおして、渤海遺祉の塔に再利用したものだった。
 クヌギ林に囲まれた石塔の台地やこの遺跡の周辺には、人影もほとんどない。爽やかな風が、七十年昔の惨劇を忘れたようにさらさらと葉擦れの音を立てて通り過ぎていた。


 渤海国の遺跡を見た経験があるだけに、福浦港の歴史がとても身近に感じられた。

福浦港遠景


 能登半島にはもっと遠い時空につながる場所がある。

 気多大社の本殿の左側に「入らずの森」と言う原生林が広がっている。広さ約1万坪の国指定天然記念物である。誰も入ることは許されず、年に一度だけ大晦日に大社の宮司が「奥宮例祭」を行なう場所である。



 この界隈では昨今のみならず過去百年以上にわたり空飛ぶ円盤が飛来したという記録が残されている。それも関係するのであろう。羽咋には「コスモアイル羽咋」という宇宙博物館がある。このツアーでは立ち寄れはしなかったが、アポロ宇宙船の実物などや 様々な宇宙開発機材が展示されているそうだ。UFOや地球外知的生物に関するコーナーもあるという。


 羽咋に残る古文書には『西山(現眉丈山・オロチ潟の北)の中腹を東より西に移りゆく怪火を……』とある。また気多大社には『成山飛行虚空神力自在而』と期された文献集が残っている。 これらは専門家の注目を集め、UFO飛来の記録ではないかと言われている。

 能登半島には古い由緒を持つ神社や仏閣が多い。所謂霊性の高い「気」に満ちている。

 精神的に進化した「動物」である人間の「魂」というものがいったい何であろうかということとか、さらにそれが時空の枠を超えて宇宙に向かって開かれていることを暗示していて興味深い。(了)


-その5シンガポールでのゴルフ・真昼の静寂―

2012-05-25 14:37:44 |  ゴルフ紀行 (風土と文化)

私は嘗て所属していたゴルフクラブの会報に、外国でゴルフをした経験を13回ほど連載したことがある。その多くは私が出版した      『紀行・イスラムとヒンドゥの国々を巡って』であるとか『紀行・華僑の住む国々を巡って』の文中にも取り込まれている。

http://www.ikedam.com


 そのゴルフクラブの会報のゴルフ紀行に訂正・加筆をして順次掲載してみようと思う。年月が経過して昔の話になったものもある。開発や都市化の進行で外見は一変した場所もある。
しかし風土やその土地柄には変わらない本質的な面がある。それが窺えれば幸いである。
 

-その5シンガポールでのゴルフ・真昼の静寂―

シンガポールには昭和47~9年に駐在した。もう38年もの歳月が経ってしまった。
今回はシンガポールでのゴルフに纏わる思い出を書いて見たい。

私が所属していたシンガポール・アイランド・カントリー・クラブは当地では最上級のクラブであった。昔の英国統治時代からの伝統の匂いを残していた、
ゴルフ・クラブそのものが、もともと英国の植民地風のライフ・スタイルの遺産だった。支配階級のイギリス人たちや現地の上層階級が、家族単位で社交を楽しむ場であつた。
したがって施設も整っていた。 2か所のサイトには、合計4つの18ホールのゴルフ・コース、 2つの水泳プール、テニスやスクウォッシュのコート、さらに各種のレストランやホールがあって、家族で早朝から深夜まで楽しむことが出来た。


 当時のシンガポールは、お隣のマレーシャから分離独立して未だ10年たらずの新興国で、何かにつけて建国の矜持と自負が感じられるお国柄であった。 ―

 さて赤道直下の土地柄で、夜と昼の狭間の時間がとても短い。
 休日は、早朝未だ暗い内にゴルフ・バッグを車に詰めて家を出る。コースまでせいぜい10分の道程であるが、その10分間に夜が明けてしまう。
 真っ暗な夜の帳の中からチラリと朝日が顔を覗かせたと思うと、あっという間に辺りが明るくなる。緑の芝に結ぶ露は朝の光りを宿して、さながらビーズを敷き詰めたようだ。
 早朝のグリーン上に描き出されるパッティングのシュプールはなかなか美しいものだ。
 朝のうちは涼しいが 日が高くなるとさすがに暑い。朝の湿気が陽炎となって文字通りじりじりと燃え立つようである。したがってゴルフは成るべく夜明けとともにスタートし、暑さが厳しくなる前にラウンドを終えるようにするのである。
 半ドンの土曜日は午後のスタートになる。暑さを避けるために午後の風を待ってからということにすると、 日暮れとの追い駆けっこになる。
 西日が眩しいと思う問もなく、あとは逆さ落しの日没なのである。どういう訳か、辺りが暗くなって来るといっせいに蝙蝠の大群が低空を飛び回る。超音波のようなものを発しながら飛ぶので、人にはぶつからないとは聞くものの薄気味が悪い。したがって、早々にクラブ・ハウスに引き揚げることになる。

 午後のゴルフの大敵はまだある。スコール(驟雨)と雷である。熱帯性気候で年中雨が降り高温多湿であるが、特に12月から1月くらいは雨が多い。
 それもシトシトという降り方はまずなく、降れば必ず土砂降りだ。車軸を流したようにとかバケツをひっくり返したようにとかいう表現が有るが、 とにかく凄まじい量の水が空から落ちて来るのである。そして大抵は雷を伴う。ズブ濡れになるのを覚悟で、何もかも放り出して避難することになる。一説によると、シンガポールの土壌は鉄分を多く含んでいるために雷が多いのだと言う。真偽の程は分からないが………。


 シンガポール・オープンの競技の最終日に18番ホールで観戦していたときに、すぐ近くに落雷したことが有った。肝を冷やしてクラブ・ハウスに我先に逃げ込んだ。今でも思い出すとぞっとする。
 『雨が降っていないのに突然落雷することもないではない。気を付けた方がいいですよ』と現地駐在の当初に言われたことがあった。或る会社の駐在員が帰国の寸前にゴルフをしていて、雷に打たれて不慮の死を遂げたというのである。ゴルフ仲間で送別のゴルフをしているときのことである。頭上には大きな雲の塊が有ったが、遠くには未だ晴れ間すら残る状況であったと言う。シンガポール駐在が長くなり、やっと待ち望んだ帰国の発令が降りた矢先の悲劇だった。既に家族は帰国しており、お父さんの帰国を待ち侘びて居たという。
 『主人をもっと早く帰国させて呉れればこんな事にはならなかったのに』と奥さんが会社に抗議したという話が伝わって来たそうである。

 雷は怖いが気を付けようにもどうにも気を付けられない面もあって、段々と平気になってしまった。人間の慣れというのは怖いものである。
 
 シンガポール・アイランド・カントリー・クラブは、なだらかな丘陵コースである。
 日本のコースと違う点はフェア・ウェイの芝だ。日本では、大抵のコースの芝はボールを浮かせるが、あちらの芝は地面を這うような生え方である。したがってフェア・ウェイでもボールは芝の中に沈んでしまう。ウッド・クラブを使うのは大変難しい。大抵ダフッてしまったリ、トップしたりする。

 面白いのはコースの途中でボール売りが来ることである。ロスト・ボールを集めては、ビニールの袋に入れて突然木立の中から現れる。勿論クラブがそんなことを認めている訳はないからもぐりでやっているのである。見たところまだ新しいボールで値段が何分の一だから、こちらもつい手を出してしまう。

 癪にさわるのは、池の中にボールを打ち込んでしまうと、子供たちが池の中で待ち受けていて、濁った水の中から、今まさに打ち込んだばかりの我がボールを器用に拾い上げて、
 『ワン・グラー(約百円)』と叫ぶのである。それを拾い賃と考えればいいのかも知れない。だがボールが一旦彼等の掌中に入った途端に所有権は彼等に帰属し、そのボールを改めて売りつけられているような気がするから不思議である。十中八九の人はそんなもの買えるかとそっぽを向いて商談は成立しない。でも結局のところ、それらのボールは廻り回って彼等のビニール袋に潜入して、我々がついつい買わされているのだから世話はない。

 南洋の地らしく、コースを廻っていてときどき珍しい動物に出くわすことがある。
 高い樹の梢から黒い風呂敷のようなものが突然舞い降りて来て、キャディたちがプレー中の我々をそっちのけにして騒いでいる。よく見ると正体はむささびであった。
 あるときは、動物園から黒豹が逃げ出して中々捕まらず我々のゴルフ場近くの森林に潜んでいるとの噂が流れた。結局 1か月以上にも及ぶ国を挙げての捜索作戦の後、或る村の用水路の暗渠の中で発見されて射殺された。一時はゴルフ場に出かけるのも、おっかなびっくりであった。
 当時シンガポールはリー・クワン・ユー首相の強力な指導のもとに建国の途上にあった。反対者の存在を許さない苛烈な政治的な環境だった。首相はこの事件の最中に国連総会のためニューヨークに滞在中であったが、国際電話で逐―この作戦の指示を飛ばしたと言われている。シンガポールでは黒豹1匹さえ首相から逃れられないと囁かれたものである。

 日本のゴルフ・コースと違う点はまだある。ハンデイキャップに大変厳格であることと、プライベイト・コンペを認めない点などである。
 クラブはメンバー同志が誰彼の隔てなく一緒にプレーをして親しくなるところで、特定の人々だけが固まってグループをつくるべきではないという至極真っ当な考え方が基礎になっているようだ。そして知らない人同志でプレーをして賭けたりすることも有るので、ハンデイキャップは現在の実力を正確に反映させるべきであるということであろう。

 因みにハンデイキャップの決め方はU・S・G・A方式である。新規に取得する際は委員による同伴テストがある。プレーの都度必ずスコア・カードを提出することを義務づけられていた。
 もっとも現実には必ずしも建前通りという具合には参らない。我々日本人は殆ど日本人ばかり固まってプレーをしていたし、シンガポ―ル人も仲間同志でやっていることが多かった。しかし今にして思えば、 もっとゴルフを通じて現地の人たちと交流する努力を払うべきであったと反省される。

 或るとき我々日本人仲間がプレー中に、現地の人たちのグループとの間にちょっとしたトラブルが起きた。
 例によって午後遅いスタートであった。我々の一組前は中国系の“四人組”であるが、ワイワイ、ガヤガヤと騒々しい。プレー中にふざけ合ってお互いにちょっかいを出す。我々は後ろにいて苛々していた。何回か『フォアー……』と叫んで進行を促したが、彼等は一向に気にする様子はない。そうこうする内に果せるかな、日が落ちた。最終ホールを控えて、辺りは急に薄暗く成って来た。コース左手に目印の樹が有って、そこを前の組が通り過ぎたら打てとキャディが言う。我々は何とか最終ホールを全うしたいと焦ってここでもまた大声を挙げて前方の組を促した。仲間の一人がここで打ったティ・ショットが紛争の種となった。
 彼等がこちらを見て何か叫んだ様だったが、打った当人は球が届く筈はないのにと首を傾げる。しかしすべては夕闇の中ではっきりしない。
 クラブ・ハウスに戻って見ると、前の組がクラブのマネジヤーを捉まえて息巻いている。危険な打ち込みを受けたのでコミッティに正式に提訴をしたいと言っている。
 自分たちのスロー・プレーやマナーの悪さを棚に上げて、注意されたことを根に持って意趣返しに出たなと思ったものの、正直言って一寸厄介になるぞと内心覚悟をした。ここは何と言つても彼等の国である。こういう場合、キャディは後難を恐れて味方になって貰うことはまず期待できないのである。ところが我々は好運であった。我々に付いたのはマレー人の少年だったが、この少年が実に雄弁に我々を弁護して呉れたのだ。そして相手方のキャディの発言の段になったときに、当方のキャディが一言マレー語で何か咳いた。すると相手のキャディは殆ど満足な受け応えをせず、勝負は誰の目にも明らかだった。結局一件は落着することと相成ったのである。

 日がとっぷりと暮れた。家路に急ごうと車のエンジンを始動させたとき、集蛾灯の光りの輪の中に先程のマレー人の少年の姿が浮かび上がった。つい車で走り寄り家まで送ろうと申し出た。彼は一瞬びっくりして逡巡したが、素直に助手席に滑り込んで来た。
 聞いてみるとジョホール・バルーから来ていると言う。今度はこっちがびっくりする番であった。お隣のマレーシャからである。尤もシンガポールとは狭い水道で隔てられているだけで、せいぜいそこから30~40分の道のりであった。途々少年に話かけるが、先程の雄弁さとは打って変わって口が重い。
 当時シンガポール政府は自国人の雇用を確保するためにマレーシャからの出稼ぎを規制し始めていた。彼等は最長一週間ノー・ビザでシンガポールに滞在出来る。従って週末に里帰りをしてまた入境して来る。そして就労詐可を取らずにシンガポールで職に就いているのだ。新聞はこうした不法就労の摘発をしばしば報道した。雇われる側ばかりではなく雇う側も処罰されたという記事が目を惹いた。
 少年も先行きの不安を洩らした。『ジョホール・バルーでは仕事がありません………』先程の少年の雄弁さと勇気は、政府に対する遣り場のない不満が誘因となったのかも知れない。そう思うと何だか不憫な気がした。
 ジョホール水道を渡るコーザウェイ(土手道)の袂で降ろすと、少年は手をひと振りしたかと見る間に、後はこちらを振り向きもせずに足早に去って行った。



 帰路、車の窓を開けてシンガポール北部の森を走る。マレー人が住むカンポン(村落)が多いのか、夕餉の芋を炊いているような匂いが鼻孔に迫って来る。

 ………我が家のメイドの“ティー”を送り出したときのことが目に浮かんで来る。彼女もジョホールから毎週通って来たのだが、当局の規制がやかましくなったので止むを得ず解雇したのである。
 マレー人は大家族で生活をして居り、小さい頃から目下の兄弟の面倒を見慣れていて、子供の扱いが実に上手であった。我が家の幼児の次女がむずかっているのをひょいと小脇に抱えて立去ったと思うと、まるで魔法をかけるようにあやして機嫌を直してしまうことがよくあった。
 別れのときは、本人も妻や子供たちもお互いに手を取り合うようにして涙を流した。見ているのも辛い情景だった。妻は『政府の規制のせいなのよ。私たちは皆あなたと別れるのが嫌なのよ』としきりに繰り返した。………

 南国の夜の暗闇はすべてを吸い込んでしまうかのように深くそして何故か物寂しい。森の奥に見え隠れする灯火は満ち足りた安らぎの円居なのか、それともそこには癒しきれない嘆きがあるのだろうか、などと思いを馳せながら車を走らせた。

 シンガポールでの滞在は1年半と割合短かった。ゴルフをするには絶好の環境であるが、気候の変化に乏しく日本人仲間では『3年居るとボケが始まってしまう』と良く言い合っていたものである。
 常夏の風土は緑に溢れ、照ったり降ったり、すべてに盛んである。
 ゴルフをするときはなるべく日盛りを避ける様にしていたのに、今思い出すと一番心に焼きついているのは真昼の静寂だった。
 奇妙な静けさが、真昼の燃え立つコースをすっぽりと包んでいたのであつた。(了)


―その4マニラでのゴルフ・南海の憂愁一

2012-05-19 18:53:14 | フィリピン

―その4マニラでのゴルフ・南海の憂愁一

フィリッピンのマニラには、香港に駐在していた当時何回か出張した。今から27年も前のことである。昭和60年の11月だったが、たまたま現地での滞在が週末に掛かった。或る商社の
支店長のすすめでゴルフをする機会を得た。

 早朝、マカティ地区のホテルを出発する。朝靄に差し込む光の筋が美しい。
 車はほどなく高級住宅地のフォルベス・パークに所在しているマニラ・ゴルフ・アンド・カントリークラブに滑り込んだ。
 クラブ・ハウスはバンガロー風で、風通しの良いテラスがコースに向かって開いている。11月といっても常夏の地なので、辺りは豊かな緑に覆われている。何処かで草木を燃やしているらしく独特な鄙びた匂いが鼻孔を浸して来た。インテリアは篠製の衝立やテーブルとチェアーで、いかにも南国の雰囲気である。

 スタート前に、コーヒーをゆっくり楽しみながら支店長の話に耳を傾ける。
 『マニラの治安もひと頃よりは大分良くなりました。マルコスの号令一下でクリーン・アップ作戦というのをやったのが効を奏したようです』
 『もっとも、随分手荒な遣り方をするのです。ジプニー(小型トラックの荷台に幌を付けた大衆バス)でホールド・アップが横行したものですから、私服警官を乗り込ませて片端から
 強盗をその場で射殺する作戦をやったのです。ときには、バスの乗客が巻き添えを喰って死傷者がでることもあるのに、政府は平気なのですよ。新聞に批判が出ることは出ますが、結局は運が悪かったということで済んでしまうのでしょうかねぇ』

 

 

 

 

 と朝っぱらから度胆を抜かれるような話である。…………そうだ、十数年まえに木材の取引に絡んだ怨恨で、邦人商社の支店長がゴルフの帰りに射殺されたのはこのマニラだった。……と思い出す。
 
 『でも治安が良くなったといってもねぇ。気を許すと、とんでもないことになりますよ………』
 『今年の夏休みに息子が東京からやって来たのですが、空港で何者かに粒致されましてねぇ、大騒ざしましたよ』
 『後で判った話ですが、私が一寸用を足して居る隙に息子が空港内の待合ホールに出て来てウロウロして居ると誰かに名前を呼ばれたそうです。それで随いて行ってしまったのですね。大方荷物の名札でも素早く読まれたのでしょう。迎えの車が来ていると言われたのだそうです……』
 『さあそれからが大変でした。車の中で何人かの屈強な男達に囲まれ、人気の無い場所まで連れて行かれた末にホールド・アップです。息子の所持金は僅か数千円でした。その賊たちは拍子抜けしたのでしょうか、別段暴行されるでもなくベル・エア地区の自宅の近くまで送って呉れたそうです』
 『あちこち連絡した末に私が自宅へ駆けつけました。なんと息子の奴は私の心配をよそに悠々とソフアにふんぞり返って、新聞を読んでいましてねぇ。私はただもう呆れ返って怒鳴りつけて遣りましたよ』
 『でも危険や社会的不公正が横行する中で、この国の人たちは結構したたかに生きていますよ。表と裏を適当に使い分けながらねぇ』

 さあ、余り暑くならない内にと席を立つ。ロビーの壁にスコア・カードが麗々しく飾って有るのが目に止まる。大きくて闊達な字体の数字に続いて フェルディナンド・マルコスの署名が読める。大統領のスコア・カードだ。殆どパー・プレイに近い成績である。
 『これ、誤魔化し無しの数字なのでしょうねぇ』と思わず失礼なことを言ってしまう。
 『いや、大統領はゴルフに限らず運動神経は抜祥だそうですよ』支店長は真顔である。

 1番ホールはパー4だ。グリーンの手前が抉れていて、直前にクリークが有る。
 第一打は一寸緊張したせいか悪い癖が出てスライス。ボールは大きく弧を描いて右の木立ヘと飛んで行く。私に付いたキャディが舌打ちをする。こちらは少々むっとしてその顔を見る。まだ子供だが精悍な顔つきをしている。
 『へたくそ』とその顔が言っている。
 『ユア ヒップ トウ スロー』
 『?…………』
 じれったいと思ったのか、やおらアイアンを一本抜き出してひと振りする。子供ながら見事なスイングである。引き続いてこちらのスイングの真似をして見せる。要すれば腰の動きが
緩慢過ぎる、体重の移動が無さ過ぎる、と言いたいらしい。支店長はニヤニヤして見ていたが、何やらタガログ語でキヤディを叱りつけた。

 
 古労の末やっとの思いで林を脱出したが、第三打はトップしてクリークの中へ突入する。私のキャディはますます不機嫌になって仏頂面をしている。

 『ここのキャディの運中は自分が付いたマスターを競馬の馬に見立てて賭けをよくやるのですよ。だから自分の旦那がミス・ショットをしないようにと真剣そのものなのです。
 運中は今日もきっとやっているに違いない、と思いますよ』と支店長はケラケラ笑う。
 『でも時々いいことも有りますよ。確かにラフへ深く打ち込んでしまった筈のボールがフェア・ウェイに出ていたり、バンカーに入ったと思ったボールが打ち易い場所に飛び出ていたりすることがあるのです』
 『彼らはお互いに相手のキャディに気付かれないように秘術を尽くしてやるのです。裸足の足の裏にボールを挟んで歩きながら運ぶなんて、信じられないようなことを平気でやります。

 2番ホールはやや打ち上げのショート・ホールだ。テイー・グラウンドからは、旗の先が見えるだけである。
 『このホールは要注意なのですよ。うっかりすると、打ったボールが皆ホール・イン・ワンになっちゃいますからね』
 要すれば、キャディたちの相棒がグリーンの向こう側に潜んでいて、飛んで来たボールを素早くカップの中にねじ込んで客がグリーンに登って来る前に一目散に退散してしまうと言うのである。そうして置いて、何となく肺に落ちない客から体よくチップをせしめる算段なのだそうである。

 キャディたちは我々の会話に聞き耳を立てている風であるが、素知らぬ振りをしている。
 テイー・グラウンドの近くで、私のキヤディがアイアン・クラブをおもちゃにしている。
 クラブ・ヘッドをうんと開いて、ボールを殆ど垂直に打ち上げる芸当を苦もなくやって見せる。

 先ず支店長がティー・ショットを打つ。当たりは決して悪くないが、ボールはグリーンの右手に飛んでいった。とすると、『ノット・ホール・イン・ワン』と支店長が辺りに響くような大音声で叫ぶではないか。
 ………成程と私は感心してしまった。そうやって機先を制し、いわれなきホール・イン・ワンを防止するのかと。…… 
我々はキャディたちに一矢報いることが出来て、顔を見合わせて大笑いした。
 それにしても、何処の世界にショート・ホールでティー・ショットをして自らわざわざホール・イン・ワンでないなど大声で叫ばないといけない場所が有ろうか。考えてみると、これは過剰防衛なのかなと後ろめたくなるところではあった。

 空を見上げると入道雲がニョキニョキと発達して盛り上がって居る。その先の地平線に近い空は、黒く淀んでいて雨が架外近いのかと思う。果たせるかな数ホールも行かない内に、辺りは急に暗くなって来て大粒の雨が落ちて来た。我々は亭々と枝張りのいい大きな樹の下へ慌てて駆け込んだ。

 息を弾ませながらふと何気なく上を見上げて、私はアッと小さい声を出してしまう。樹の枝という枝に、鈴なりに無数の烏が羽を寄せ合って宿って居る。私の駐在する香港の成る場所で見る光景とそっくりで、つい香港を思い出してしまった。

 香港のセントラル地区のほぼ中央に銅像広場がある。何時の頃か日曜日になるとそこがフィリッピンの女性たちで一杯に埋め尽くされるようになった。香港にフィリッピンからメイドとして出稼ぎに来ている女性が数万人にも達し、 日曜日には教会に礼拝に行った後一斉に広場に繰り出して来るのであった。彼女らは三々五々群れをなしてお喋りに興じているのだが、まるで鳥たちが肩を寄せ合って囀る姿に似ていた。
 しかも、その広場に通ずる道路の傍らに枝を広げた大樹が有った。そこには実際によく鳥の群れが枝もたわわに止まって囀っていたものである。
 彼女らは一見楽しそうに振る舞って居るようだが、それぞれに故郷に貧しさや色々な事情を抱えているのだということを聞いているだけに、一種独特の哀愁が漂って来るのであった。

 かく言う私の家でも、 フィリッピン人のメイドを雇っていた。ビジネス上のパーテイでも夫婦同伴のことが多く、夜問子供を置いて外出をするので必要に迫られたのだ。ひと昔前と違って香港も豊かになったせいか、中国人にはメイドの成り手がなくなった。 もっぱらその需要を彼女らが満たしていたのである。
 わが家のメイドのオーレリヤ嬢は、18~9才で高校卒ということであったが、雇い始めのころは姉と称する年嵩の女を応援に連れて来て、色々と細かい要求を突きつけて辟易させられた。彼女も暫くはホーム・シックから抜け出せない様子だった。故郷の母親からの手紙を手にして台所の片隅で涙を拭いていて、いかにも頼りなさそうで哀れであった。

 通り雨は案外早く上がり、又青空が戻って蒸し暑い陽気となった。

 私はその日のゴルフの調子は最悪で、散々の成績であった。もし支店長の言うように、キヤディたちが我々のスコアに乗っかって賭をして居たらどうなったか、私に付いたキャディは恐らくキャディ・フィーのまるごとか半分かを分捕られたに違いなかった。

 私のキャディはと見ると、こころなしか沈んでいるようで元気がない。気の毒になって、物陰に呼んでそっとチップを渡した。すると彼はそれまで見せたことのなかった無邪気な少年の笑顔を見せて走り去った。

 ホテルに戻って手早く荷物を纏めてドライブに出る。午後一杯かけて郊外を巡った。マニラ湾を右手に見ながら、海岸のロハス大通りを空港に向けてひた走る。

 前夜訪れた歓楽街に程近い、マビニ通りでのことがふと脳裏に浮かぶ。日本人・相手のクラブだが、ホステスたちが客のリクエストに応えて色々な歌を競い合う。リクエストの殆どが
日本の演歌なのであるが、彼女達は実に情感豊かに歌うのであった。
 小柄で褐色の細身の身体を全身唄にして、手や指先が雪の降りしきる北回の女の悲しみを演じる。フィリッピンの人々は一般的に音楽的才能に恵まれていることは間違いないにしても、素朴で美しくそして何故か哀しさが漂う彼女たちを見ていると、心の深いところに有るものが何なのかを考えさせられてしまうのであった。



 夕日が今まさに落ちんとして地平線に近い雲に隠れる。辺りは空気までが茜色に染まり、海と空が一つに溶けてしまった。
 辺りには、車木を焼くようなあの鄙びた匂いが漂う。その匂いを胸一杯に吸い込んで、マニラに別れを告げた。(了)




最近の気候

2012-05-19 10:09:31 | ☆ 『魂』と超常現象

地震や津波の被害が様々な後遺症を残したばかりでなく、最近極端な寒暖の差の訪れが気になる。
これは世紀末特有の現象だろうか?(歴史を見ると西暦1000年頃の前後もそうだった)
二酸化炭素の放出による地球温暖化の弊害が地球上の人類の課題と言われて久しいが、
その一方で新たな氷河時代の到来を危惧する学者もいる。
地球自体は生きている。その脈動の秘密に対してはそこに生きる人類の知恵は及んでいない。

それにつけても、福島やチェルノブイリで発生した放射線物質の被害は数十年単位で継続する。
人類の謙虚さが試されている気がする。


ゴルフ紀行その3,革命前後のイランでのゴルフ

2012-05-15 16:16:00 | ゴルフ紀行 (風土と文化)

ーその3革命前後のイランでのゴルフ
    ー乾きを癒やしてくれる命の水一

 私は革命前後のイランに駐在した経験が有る。現在も中東は揺れ動いているが、まさに中東が激動し始めた時期に身を置いたのだ。

 イランの首都テヘランには、当時のイラン皇帝パーレピが作ったゴルフ場があった。当時事情の知らない友人に話をすると、中東と言えば砂漠を想像するらしく、グリーンは砂で固めて有るのではなどと誤解されたものである。ところがラフに岩場があったりするくらいで、フェア・ウェイもグリーンも青々としている。兎角潤いに乏しい乾燥地帯の生活にとってそれは文字通りオアシスそのものであった。中東と言えば、まず砂漠のイメージが先に立つ。どうしてそんな所にゴルフ場らしいゴルフ場が出来るのか、そこから説明しないと話が分からない。その鍵は水である。砂漠は水さえ与えれば、たいへん肥沃な土地と化す。砂漠といっても、サハラ砂漠のようにさらさらした砂ではない。乾いた土漠である。その土壌は植物によって養分を収奪されていないので、水さえ有れば命が甦る。テへランはアルボルズ山脈の南麓に展開する高原都市である。5千米を越す山々から雪解けの水が豊富に流れて来る。テへランのゴルフ場は無数の散水栓を張り巡らし、人工的に緑を保っているとてもコストの掛かったゴルフ場だった。
 


 テヘランでゴルフをして見て最初にびっくりしたのは、 自分が急にロングヒッターになったような妙な気がした事である。どう見ても、ドライバーが20-30ヤードは良く飛ぶのである。どうやらその理由は高地であることと空気が乾燥している為らしい。(因みにゴルフ場のあるのはテヘランの最北端の海抜1300メートルの地点であった)

 夏になると、日なたでは摂氏40数度になる。よくそんな猛暑の中でゴルフが出来るものだと思われるかも知らないが、意外に平気なのだ。まずホースで水を頭からかける。2 - 3ホールもするとすっかり乾いてしまう。そんなことを何回か繰り返すのである。ただ空気が乾燥しているので、直射日光さえ遮ってしまえば、さほど暑さを感じることもない。パラソルをさすか帽子の後ろにハンケチを挟んで首筋を覆っておけばよい。あえて水をかぶることもない位いであった。
 水をかぶって涼をとって、アルボルズ山脈をめがけてロング・ドライブを打つ。その爽快感は今でも忘れられない。
 背の低い灌木程度しか生えていない山肌は遠目にはごつごつした岩山にしか見えない。テヘランの北を高くて長い灰色の壁が厳然と遮っているので、随所で山容が眼前を塞ぐ。ボールを打つとすぐ届いてしまいそうな錯覚に陥る。眼を転じると山から流れ下ったせせらぎが、コースの中をうねって行く。手を差し延べて見る。びっくりするほど冷たく、そして透明で疾い。

 ラフにボールを打ち込むと一寸厄介だ。渇ききった土壌のあちこちに、岩が露出している。ドライフラワーのように固い雑草が群生する。 おまけに、たちまち棘や種子がズボンに纏わり付いて手に負えなくなる。固い穀の中に宿った命の強かさを見る思いだ。
 フェア・ウェイやグリーンは念入りに緑を保っているものの、やはり辺りは紛れもなく乾き切っている。イランで生活するようになった当初は、人の心さえ乾いている様に感じられたものである。
 クラブ・ハウスの受付が見た目は素敵なベルシャ美人であったが、愛想の無いこと甚だしい。物を平気で投げて寄越す。折角の白い肌や、彫りの深い顔立ちが泣くというものである。
 
 アラビアン・ナイトの本の挿絵から抜け出して来たような男前のキヤディが付いたりするが、見とれて居る訳にはいかない。バッグの中に入れて置いた筈のニュー・ボールが何時の間にか消え失せる。おまけにコースの途中でしつこくチップの要求を蒸し返えしてくる始末だ。
 ゴルフの時ばかりでなく日常生活でも、色々な経験を通して新しい習慣が身に付く。現地の人と対する時は何時も油断なく身構えて居なければという心構えを忘れてはならない。これも厳しい自然条件の中で生きて来た砂漠の民の流儀であろうか。
 『アラビヤのロレンス』という映画をご覧になられた方は、その感覚が理解できるのではないかと思う。映画の冒頭に他部族の男が井戸水を盗みにに来て、その場で問答無用で撃ち殺される衝撃的なシーンが登場する。
 イランの人たちの心が多少なりとも覗けるような気がするまでに、しばらくの時を要するのであった。
 それはあたかも乾いた地表の下に、隠れた水流を見るようなものであったが。

 夕暮れのコースはたとえようもなく美しい。遠く霞む街に夕日が落ちて行く。反対方向の空には、三日月が見える。するとスプリンクラーが一斉に作動し始めて、コースのあちこちで虹が舞う。
 中東では、何故か夕暮れ時が一番美しい。佇立するモスク(回教寺院)の尖塔が夕映えに輝く。人々を祈りへ誘うアザーンの詠唱が長く尾を引いて響く。それは拡声器を通じて物悲しい安らぎの音色で、人の心に沁みてくる。

 プレーを終えた後のビールは、まるで命の水を飲む心地であった。汗をかいた後の快楽でもうひとつ忘れることのできないのは、冷やしたハラボゼの味である。抱きかかえる位に大きい瓜の一種である。輪切りにして、なかの種を除き賽の目に切って頬張る。歯触りがサクサクとして、しかも甘さに厭味がない。芳醇な果汁が口の中に溢れてきて、たいへん爽快である。西瓜は現地では『ヘンダワネ』と呼びこれもなかなか美味しい。旬の時期は『へンダワネ』が先で、それから『ハラボゼ』がやって来る。
 我々邦人駐在員は、よく『ヘンダワネ、わたしハラホぜになったみたい』などと罪のない冗談の種にしたものである。
 乾燥地帯にはそれなりに人の渇きを癒して呉れる神様の贈り物が有るものだ。

 赴任後約10か月を過ぎた1978年の夏も深まる頃、イランのイスラム革命が全国各地に拡大した。連日あちらこちらで、悲しい流血事件が勃発する。その頃になると、我々の方もゴルフどころではなくなってしまって残念だった。
 それから幾度かの紆余曲折を経てホメイニ革命は成功に向かう。我々は情勢に応じて、イランを出たり入ったりすることになる。
(その間のことは詳しく拙著『紀行・イスラムとヒンドゥの国々を巡って』に書いた。ここでは割愛する。
(文芸社刊;著者ホームページに内容紹介あり。http://www.ikedam.com)

 街に一応の治安が戻って来ると、革命委員会の管理の下でゴルフ場も再開されることになった。まだかなりの数の外国人がイランに滞在していたからであろう。我々は再び、おっかなびっくりコルフ場に足を運び始める。

 ゴルフ場から数キロしか離れてない場所に、パーレビ時代からの政治犯を収容するエビン刑務所があった。ゴルフ場から遠望できた。
 ゴルフの最中にけたたましい銃声が辺りの山々に響いて、我々の度肝を抜いたことがあった。キヤディに聞くと、『革命裁判の銃殺刑が、執行されているのだ』とことも無げに言う。銃声のなかでゴルフをするのはなんとも不気味だったし、いやしくも誰かの命が失われる瞬間にゴルフをしていて良いのだろうかと、われわれは早々にゴルフ場から退散した。
  ある日ゴルフ場に群衆が乱入してきて困ったことがあった。彼らはここでピクニックをするのだと言って居座ってしまう。彼らの言い分はこうだ。『我々こそはパーレピ国王の圧政で苦しめられしモスタザフイン(被抑圧者)である。革命が成功した今は、我々があるじだ』と大変な剣幕である。そのうちゴルフ場を管理するイラン人が駆けつけてひと騒動となる。この種の操め事は他所でもよく見る。お互いに顔を近づけ 唾を飛はし合う。今にでも掴み掛からんばかりの勢いであるが、減多に手出しをしないのが彼等のやり方である。このときもひとしきり怒鳴り合ったのちに彼らは退散した、

 思えばイラン革命の混乱期も遠くなりにけりである。アメリカ大使館の占拠に端を発して各国の経済封鎖が行われたり、イラクとの戦争があったりといろいろな事件に巻き込まれて得難い経験をした。
 あれから33年以上の年月が過ぎてしまったが、あのゴルフ場は現在どうなっているだろうか。
 
 来る日も来る日も決まって晴れ続きであった。イランではこの世に雨が降ることも有るのだということをついつい忘れてしまった。        あのオアシスのようなゴルフ場はどう変化したのだろうか? 公園でにもなっているのだろうか?と思う。
....命の水の味を求めてゴルフをした、あの昔が懐かしい。....(了)


ゴルフ紀行その2 台湾でのゴルフ・事件は霧の中で起きた

2012-05-13 17:17:50 | 台湾

 ゴルフ紀行・第2回

一その2 台湾でのゴルフ、事件は霧の中で起きた一

 一昔前わが国で活躍している外国人プロといえば台湾のプロが多かった。その大部分は台湾の淡水のゴルフ場で育った選手と言われている。 
 淡水は台北の北の、車で約一時間の場所にある。風の強いところだそうだ。ここで鍛えられた台湾のプロは、強風に負けない低い弾道のショットが得意だったそうである。
 今回はその淡水でゴルフをした話である。1987年さる会社の招待で台北へ“研修旅行”に行った際のことである。
 朝早く観光バスでホテルを出発する。台湾には香港に駐在していた時代に出張で何度も訪れているが何時も忙しい日程であった。今回は気楽な旅だ。何となく心が浮き立つ。
 バスの中で余興のクイズが始まった。クイズのテーマは『中国文化の不思議・発見』と言うところだろうか。車窓から見る街路には看板が犇めいている。色鮮やかで大小・姿形の様々な看板である。しかもそれらの彩色にはちゃんとした意味が込められている。紅色は慶事や好運を、黄色は富貴や黄金を、緑色は目出度さを表すという具合である。
 一方で京劇の役者の顔の隈取りに使われる際の約束事は全く違う。紅色は正義漢、黄色は詭計の人物、緑色は妖怪変化を表すそうだ。
 看板の文字も様々である。飯店はホテルのことだ。購物中心はショッピングセンターで、夜総会とはナイトクラブである。これらの興味深い文字の氾濫の中で、看板の色を数えていると飽きることがない。

 クイズを楽しんでいるとつい時間の経つのを忘れた。気がつくとバスは目的地に着いていた。「淡水“高爾夫”(ゴルフ)倶楽部」である。
 世界に名高い「淡水」だがクラブ・ハウスは意外に質素だ。中国人は余り細かいことに拘泥しないせいなのか、何となく狼雑でごみごみした感じがする。ロッカールームなどにも脱いだものが散乱して雑然としている。
 しかし我が国の大半のゴルフ場の、ホテルのロビーのように塵ひとつなく磨き上げられていることの方が、普通ではないのかも知れない。
 大声で辺り構わずけたたましく話したり笑ったりという情景が見られるのは、日本でも珍しくない。 これは東洋共通の流儀なのであろう。
 
 記念写真の撮影を終わりスターティング・ホールのティー・グラウンドヘ向かう。心配していた風の方はほとんど吹いていないが、その代わりに辺りには濃い霧が出始めていた。
 いざティ・オフをする頃には辺りは乳色のとばりが下り十数メートル先は殆ど見えない。とにかく第一打をドライバーで打つ。文字通り五里霧中の中へ何とか見当を付けてである。ヘッド・アップしないせいか手応えは確かだ。ナイス・ショットの筈だがボールが見当たらない。甚だ心許ない。
そもそもフェアウェイをどっちの方角へ歩いて行けばいいのか、それすら分からない。
 暫くウロウロ探しているうちに、やっと左手のクロス・バンカーの中にある我がボールを発見する。バンカーから打った第二打の手応えも悪くないが、霧の中深く消えていく。

 キャディは初老の男だ。その黒い衣服が霧の流れの中で、何となく陰気に翳る。
 前の組が大声でホール・アウトしたことを知らせてくる。キャディが片言の日本語で叫ぶ。『ヒャクゥ・ゴォ―ジュゥ・ヤァドォ』と叫ぶ。しかし、  グリーンが正確にはどっちの方なのか、グリーンの回りの状況がどうなっているのかを聞くよしもない。
 「ママヨ!」と覚悟を決めて打つ。決して悪い当たりではないのにまたしてもボールが見当たらない。結局ボールはグリーン・オーバーの 崖下で見つかったが、まことに多難なスタートとなった。



 二番ホールは、一番ホールから左へ折り返した約百ヤードのショート・ホールである。なぜか前の組が随分と手間取っている。風が出ると一瞬微かにグリーン上の旗が見えるが、また厚いとばりの中に消えてしまう。黒い人影が右往左往しているのが見え隠れする。
 淡水にある樹々は南方特有の豆科の樹木が多い。亭々と枝張りが良く、細かい葉が繁っている。霧のなかに佇立する姿は塁絵の様に美しい。

 突然『大文夫、大文夫、黙っていりゃ分かりはしないよ』という声が風の加減なのか、すぐ傍で呟く様に聞こえてきた。何となく聞き答めたくなる物言いではある。でもその時はそこで何が起きているのかは知るよしもなかった。
 霧はアウトの九ホールを終える頃にやっと晴れて、後半は嘘の様に見通しが良くなった。

 謝敏男プロがサービスしてくれて、我々各組と二~三ホールずつ一緒にラウンドをする趣向である。謝プロは特にこれといってコーチしてくれる訳ではないのだが、ゆったりとしたスイングで切れのいい鋭い打球を飛ばしていくのを見ると、不思議なことにこちらのショットが急に良くなる。プロのスイングのフォームとリズムが自分に乗り移ったかのようである。
 
 プレーを終わってバスに乗り込んだ。Aさんがホール・イン・ワンをやったという話で、バスの中は大騒ぎである。Aさんなら我々の前の組でプレーしていた人ではないか。場所は二番ホールという。そうだあの時だったのだ。思い出した。………しかし何故に『黙っていりゃ分かりはしないよ』と言ったのか?

 話の次第はこうである。Aさんは最初グリーン左手のバンカーを探したという。そこには確かにボールが一個あつた。すんでのところで  そのボールを打とうとした。そこへ隣の一番ホールの方からBさんが走ってきて、 自分のボールではないかという。確かめて見ると確かに そのボールはBさんのである。Aさんは、暫くバンカーの回りやグリーン回りをあちこち探した。すると二人のキャディの内の一方がカップの中にあったという。確認して見たら確かに自分のボールが入っていたという。

 その時のAさんとAさんのキヤディの遣り取りを再現するとほぼ以下の通りである。
 『ホール・イン・ワンねえ、チップはらうよ。キャディふたり、一万台湾ドルゥ。』
 『ええっ一万?って幾らだぁ。日本円で六万円?とんでもない』とAさん。
 『まえのくみ、うしろのくみ、キャディみなチップはらう。台湾みなにチップはらう。
 とてもたかいよ。でもないしょにする。ふたりだけにはらう。一万元やすい。』
 そこで『大文夫、大文夫、黙っていりゃ分かりはしないよ』とAさんの同伴競技者。この『黙っていりゃ……』云々が先程風に乗って聞こえてきたのである。この祝儀の金額の交渉で暫くすったもんだしたが、後刻大幅に値切って支払ったという。

 表彰式を兼ねた夕食会が中華料理屋で盛大にとり行われた。またしてもホール・イン・ワンの話題が賑やかに取り沙汰されるのが自然の成り行きというものであった。そのため優勝者の影が若干薄くなってしまったくらいである。参加者は皆何の屈託もなくAさんの快挙を祝福して、大いに笑い飲みかつ食べた。誰も霧の中の出来事に疑義を差し挟む様な野暮な真似をする人はいなかった。
 主催者がホール・イン・ワン特別賞として優勝者と同様に『台湾へ夫婦でご招待』の賞を差し上げると発表すると大きな歓声が上がった。

 Aさんも表面ニコニコとして楽しそうに振る舞っていた。でも何となく心の底から嬉しいという感じではないように見えた。ことの起きた状況からすれば、上辺とは別に心の中で葛藤があったのかもしれない。そうだとすればその心の中の自問自答はさぞかし複雑なものであったに違いない。……………

 ………初めにAさんの心に浮かぶ小さな疑念。それが次第に心の中で大きく膨れ上がったかと思うと、次の瞬問にはそれを強く打ち消したくなる。……あたかもあの霧が風のまにまに濃くなったり薄くなったりする様に。
 『もしかしたら、あのキャディの仕業かも知れない。前後の組のキャディに内緒にというのも臭い。……然し本当にそんな事をするだろうか。しかも疑って追求したとしても、誰がそれを証明出来るだろうか』
 この自問自答はプレーのあいだじゅう頭を離れなかった。何度か『一寸待って下さいよ。良く考えて見ると、ヤッパリ怪しいですよ、この  ホール・イン・ワンは』と言いそうになる。
 そうこうしているうちに事態は勝手にどんどん進んでいってしまう。プレーが終わり、バスに乗り、そしてとうとう宴会が始まってしまった。 今更言い出せなくなってしまった。ここで自分が潔癖なことを言い出したら、いっぺんで総てが白けてしまう。主催者だっていったん出したものを引っ込める訳にも行く筈がない。
 結局は成功しそうもない押し問答の末に、後味の悪い結末だけが残るだろう。取り敢えずのところは忍の一字で成り行きに任せるか。…………
Aさんに成代わった想像の世界からふと我に帰ると、宴は終わろうとしていた。

 林森北路(りんしんぺいるう)あたりの夜店を冷やかしながら二次会へ向かう。空き地に大勢が群がっている。赤々とした照明の中に雑劇の小屋掛けの舞台が浮かんでいる。群衆の熱気を通り過ぎながら、またしても物思いの世界に誘いこまれてしまう。

 ………京劇の舞台に登場する自分。いかめしい裁判官の扮装だ。顔の隈取りは白と黒である。件の淡水の二人のキャディが引き出されて尋問される。

 先ずキヤディその一、何故か黄色の隈取り(詭計者の色)………曰く『へえ、永年この仕事をやっておりやすが、一発で入れちまったのを見るのは初めてというもんでがす』
 『よくよく探してどうしてもみつからねえときにゃ穴の中ぁ見ろと、昔教わったことを思い出したんで』
 『どうせならお天道さんの下で見たかったもんでさぁ。それこそ、青天白日というもんでござんしょう』

 次にキャディその二、隈取りの色は紅(正義漢の色)………曰く『もう終わっちまったことで、今更のことだからぶちまけやすがね。今日はツイてやした』
 『黄の奴、先にたって真っ直ぐ左のバンカーの方へ行ってやしたから。まんず砂場の中にボールを見つけて拾い上げたのに違えねぇす』
 『暫く時間稼ぎであちこち探しているてぇと、もうひとつ砂場の中で見つかりやしたねえ。ほら、あの一番ホールの方から打ってきた旦那のボールだったやつで。黄のおっさんがその後の方の奴を拾っていたら一体どんな事になったと思し召しで?』
 『喜劇というんでがすか、それとも悲劇というんでがすか。大騒ぎした揚げ句に一文にもなりゃしねぇんでがすから』
 『でも恐れながら、すべては神様の仕業というもんではねえでしょうか、そもそも、黄に目当てのボ―ルを拾わせたのは。……病弱の太々(奥さん)を抱えて貧乏していやすからね』
 『ゴルフを楽しむ旦那方にとつては、ちょっとした余分な出費で済んでしまうでがんしょうが、一方の黄の奴にとつては正に干天の慈雨でしたでがんしょ』
 『てめえに出来る事といえば、ただ黙っている事だけだったんでさぁ』…………

 台北の宵は色々な人々の人生の波紋を呑みこんで賑わいを続け、眠りにつく様子もない。
 どこかで小さな白球が霧を引き裂いてグリーン上のカップの中に転がりこんだのか、はたまた初老の皺だらけの手が押しこんだのかなどと詮索する心も、その街の噴騒の中へ揉まれて消えていくようである。
 あの二人の老キャディもこの街の何処かで、永い一日の余韻を噛みしめているだろう。そして小さな安堵の刻を過ごしているのだろうかと思いを馳せながら、歩みを続けた。


 羽田空港の到着ロビーへの通路を、あたふたと飛行機の方へ駆け戻ろうとするAさんの姿を見た。機内の座席にメガネを置き忘れたらしい。Aさんの心中では、「淡水」での事件の思いの反芻がいつまでもとぐろを巻いていた証左かも知れなかった。
 帰国して暫く経って、ホール・イン・ワンのAさんからの挨拶状が届いた。そこには、ごく手短に『色々考えた末に主催者のご厚意を素直にお受けさせて頂くことにした』という趣旨が述べられてあった。

 淡水の霧に乾杯!……………(了)


ミャンマーでゴルフをした昔の話

2012-05-10 16:11:57 | ミャンマー

私は嘗て所属していたゴルフクラブの会報に外国でゴルフをした経験を13回ほど連載したことがある。その多くは私が出版した『紀行・イスラムとヒンドゥの国々を巡って』であるとか
『紀行・華僑の住む国々を巡って』の文中にも取り込まれている。

http://www.ikedam.com

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 そのゴルフクラブの会報のゴルフ紀行に訂正・加筆をして順次掲載してみようと思う。年月が経過して昔の話になったものもある。開発や都市化の進行で外見は一変した場所もある。
しかし風土やその土地柄には変わらない本質的な面がある。それが窺えれば幸いである。
 
 今回はその第一号で『ミャンマーでゴルフをした昔話』と題したものである。


―『ミャンマーでゴルフをした昔の話』―

 ミャンマーにもようやく民主化の動きが出てきた。軍事政権の強圧政治が国際世論の非難に晒されていたが、この国にも変化が訪れた。アウン・サン・スーチー女史が議員に選出されて、いよいよ議会に登場する運びとなった。

 私がビルマ(現在のミャンマー)でゴルフをしたのは、今から41年前のことだ。当時私は香港に駐在していたが、 ビルマの首都ラングーンに出張した。
 そもそも仕事先でゴルフをした経緯とは、以下の事情によるものである。
 ときはネ・ウィン将軍の軍政時代である。ビルマは鎖国状態を脱して一般旅行者に門戸を開いたばかりであった。出張の日的はこの国の経済開発がどう進展して行くのかということや、金融機関の実情がどうなっているのかを調査することであった。
 ところが現地に着いて見て、 自分がまるで認識不足だったことに気が付いた。ビルマは一応開国したとはいうものの、未だ鎖国時代そのままの政治的緊張を脱しては居なかった。つまり外界に対して極めて神経質な国だったのである。さすがに41年経った今はこの国も大分変化してきているようである。最近のテレビの映像によってもその変化が窺える。

 現地の或る日系商社の駐在員の人が真剣に思告して呉れた。
 『観光ビザで入国して調査まがいの活動をすると手が後ろに廻わることになる』
 ラングーンには幸いゴルフ場があるので『まあゴルフでもやって行って下さい』と言うのである。

 『駐在員事務所にはローカルスタッフの目がある。ホテルにも私服の治安刑事がウヨウヨして居ると思った方が良い』と信じられない様な話だった。
 『日本語が分かるのが結構居るし、ホテルの部屋にも盗聴器が仕掛けてあるので うっかりした事は言えない』
 『現地事情の話なら青空の下でゴルフをしながらレクチャーするのが一番安全だ』と言うのだった。
 
 さあ、えらいところに来てしまった。というのがその時の偽らざる心境だった。
 かくして図らずも、開国早々の社会主義国ビルマの首都ラングーンにおいて、ゴルフをする羽目になったという次第なのである。



 ゴルフ場は郊外にあつた。着いて見て内心ウーンと唸ってしまった。ラングーンの街の様子を見ていたので、ある程度予想は付いていた。ゴルフ場は極端な表現をすれば「元ゴルフ場」と表現した方がふさわしい状態だった。クラブ・ハウスが古ぼけているのは仕方がないとしても、ほとんど補修らしいことをした形跡が見られない。まさに時の流れに任せ、自然に古ぼけてきているという感じがする。
 季節は雨期が終わって乾期に入ったところだ。フェア・ウェイは禿げチョロケの状態だ。ラフは草ぼうぼうである。コース内に点在する池には泥水が満杯になっている。のんびりアヒルが泳いでいる。遠くでは畑を焼いているのか、あちこちに煙がたなびいている。その逢か向こうには、金色に輝くパゴダ(仏塔)が見える。すべてが長閑で、時の歩みがゆっくりしているように感じられる。

 暫く待たされた末にやっとキャディが姿を現した。キャディはコースに常駐して居る訳ではない。お客さんの求めがあってから、招集される。従って時間が掛かるのである。私に付いて呉れたのは、17~18オの娘さんである。近くにある国営のタバコエ場の女工さんだという。つまり公務員なのだ。
 特に遠来のお客さんの為に『公務』を投げ打って駆けつけて呉れたという訳である。
 勿論キヤディ・カートという文明の利器の姿は無い。フルセットの重いゴルフ・バッグをこの娘にずうっと担がせてゴルフをするのだろうかと、いささか気になるところであった。
 ところが一番ホールでティ・オフした後にふと見ると、その心配も紀憂であることに気が付いた。彼女の傍に子供たちが詳がって居る。物珍しく見物して居るのかと思えばさにあらず、我がキャディ嬢を総領に頂く、一家の兄弟姉妹であった。総勢7~8名、ゴルフ・バッグは彼らの間でたらい廻しにされて運ばれて行く。兄弟姉妹同志が我先にと力を合わせている姿が微笑ましい。
 逢か前方の左右のラフの辺りにも、子供の影がチラホラする。気になってフォアーと声を掛けるが一向にお構いなしである。キャディが打てと催促するので、気にしながらひと振りしたところ、これが大スライス。打球は弧を描いて深々としたラフヘ消えた。ところがその子たちが素早く見つけだして、ボールのある位置に立って居て呉れた。
 鼻汁を手の甲でこすった跡が頬に髭の形についている。黒い宝石のような目をキラキラと輝かせてこちらを見上げる。その姿は無邪気な裸足の天使といった風情である。可愛さはこの上もない。
 ボールを池に打ち込んでしまっても、お安い御用と飛び込んで拾って来て呉れる。そうこうして数ホールを過ぎる。彼らは『この旦那はスライス打ち専門だ』と見たらしい。抜目なく、専ら右手のラフで待機するようになった。純真そのものの子供と思っていたのに、ちょっと憎い。

 コースを回りながら、案内の商社の人から色々と現地での苦労話を聞く。とにかく日常の生活物資が絶対的に不足しているそうだ。3名の邦人駐在員の生活を維持して行く為には、半年に一度日本へ誰かが出張して業務の連絡を兼ねた買い出しをして来るという。一回にトランクで30個分の荷物を持ち帰って来るそうだ。
 
 わが国から自動車や家電製品の合弁工場が進出している。しかしそれは戦時賠償の経済協力の一環であって、外資としては例外的な存在である。従ってこの国の経済開発の道のりはまだまだ遠い。等々……。

 『のんびりと平和そのものに見えるでしょうけど………此処では油断出来ないのです』と同行の駐在員の話が続く。
 『数年前迄は、日本の十大商社は皆ラングーンに事務所を持っていたのですが。今はご覧の通り我々だけです。他は全部撤退してしまいました。それというのも大事件が起きましてね。それは、語るに落ちる酷い話ですよ』 
 『大事件ってなんですか?』
 『邦人駐在員が全員ブタ箱にブチ込まれたのですよ。駐在員事務所たるものはそもそも商取引をすることは出来ないのに、実質的に脱法行為をやっているというのです。日本の大使館が奔走してくれたのですが、それでも出てくる迄に一週間掛かったそうです』
 『その牢屋というのが、この国の事でしょう。まさに想像を絶する場所だったそうです。床は土間なのですが、泥濘の湿地でヒルが居る。暗間の中で足を這い上がってくるヒルを、足で払い落としながら待ったのでした。横たわることもできず、壁に身を凭れかけてただひたすら心の中で時を刻んで耐えるのです。―週間で皆まるで別人の様に痩せこけました。そして惟眸しきって出て来たそうです』

 『油断出来ないといえば、総てに於いてなのですよねえ!』と呟きながら相手はキヤディ嬢の方をチラリと見遣る。私もつられて彼女を見る。成程彼女は弾む様な褐色の肌にうっすらと汗を浮かべている。なつめの実のような円らな唇が魅惑的である。おまけに一寸なまめかしい仕草でほつれ毛を直している。
 『元々この国の人達は割合開放的なのです。……つまり性的にという意味ですけど。女性も情熱的というか。それでつい情にほだされてしまう。……結婚を迫られて駄目となると、密告される。それで即刻に日本へ強制送還になった人もいたそうですよ』
 
 夢中で聴耳を立てて居ると、突然傍らで『モオォッ』と牛の鳴き声がして仰天する。日が高くなってとても暑い。辺りの風景が陽炎の中で揺らめいて居る。―瞬物音が消えて、時の流れが止まった。…………

 ラングーンの街を見て回ったときの、あの奇妙な印象が今でも脳裏にはっきりと残っている。主要な建物は皆イギリスの植民地時代に建てられたものだ。古色蒼然としていて殆ど手入れの跡もなく並んでいる。何故か映画『外人部隊』で見たアルジェの場末の街並を思い出す。建物の天井は空虚な位高い。頭上で大きな扇風機が物憂げに回っているのも、映画の一シーンとそっくりだ。コロニアル・スタイル(植民地風)というのであろうか。街頭の人の数も多く街は雑然としているのに、妙にあっけらかんとしている。
 何故かしらと首を傾げている内にやつと気が付いた。要するにごみが見当たらないのである。清潔というのとも一寸違う様な気がする。特に紙屑というものが全然ない。紙はこの国ではたいへんな貴重品なのであった。

 ゴルフをして街を見たその夜、ホテルのベッドの上で反転しながら眠れぬ長い時間を過ごした。昼間に見聞きしたことが、次から次へと験に浮かんでは消えて行く。太平洋戦争のときに日本がしたことが、この国の状況にどのように関わって居るのか? 当時はまだ不勉強でよく分からなかったが、心に重かった。
 その晩夢の中に托鉢の僧侶が現れた。それは、映画『ビルマの竪琴』で主人公を演じた安井昌二であった。
 続いて昼間に会ったキャディ嬢が現れた。娩然と微笑んで『私を日本へ連れて行って』とせがんだ。

 その後41年という長い年月が経った。社会主義を標榜する軍事政権の下でミャンマーはすべてが停滞していた。この国にも国際情勢の波が押し寄せてきた。民主化運動が弾圧され、困難な時代が続いてきたがこの国も遅ればせながら民主化の道を歩み始めた。ノーベル平和賞を受賞したアウン・サン・スー・チー女史が民主化運動の旗手を演じている。軍事独裁の社会体制の在り方が物事の停滞を生んだのだが、最近の情報化社会という世界的な潮流が人々の政治的な欲求を刺激したのであろう。

 素朴なビルマの子供たちと心を触れ合いながら牧歌的なゴルフを楽しんだ一日だったが、当時はその陰に厳しい現実が隠されて居るとは どうしても信じられない気がした。
 
 それともあの頃あの場所にゴルフ場があってゴルフが楽しめたことの方が、時の振り子のひと揺れからこぼれ落ちた、唇気楼のようなものだったのかも知れない。(了)