池田昌之です。

このブログはあるゴルフ倶楽部の会報に連載したゴルフ紀行が始まりである。その後テーマも多岐にわたるものになった。

沖縄にて

2014-06-24 22:16:35 | ☆ 国内旅行 
沖縄に約1か月間滞在した。
期間中嘉手納飛行場を訪ねた。嘉手納飛行場は4千メートルの滑走路を2本有し、東洋一の空軍基地と言われている。というので、その広大な飛行場を見物に訪れたのである。
折から爆音を響かせてジェット戦闘機が着陸している。我々は展望席に登り飛行場を見渡していた。展望席の中央はメディアの専用席になっていて、一般席は端の方にあった。
空港の敷地の一部の空き地は農耕が許されていた。広大な滑走路とその片隅の畑は奇妙なコントラストであった。

人生80年を過ぎると何となく昔の記憶が循環するように甦ってくる瞬間を感じることがある。嘉手納基地を訪ねた際、私の10歳当時の記憶が突然甦ってきたのだ。

私の少年時代に、わが家族は旧満州の安東市(現丹東市)に住んでいた。安東市の新市街は日本人が作った町で、終戦までは日本人が住む町だった。我らが住所である安東市の大和区6番通6丁目は、今でいう2階建てのマンションだ。表通から数軒の長屋があって、奥に向かって小路で繋がっていた。奥の何軒目かに嘉手納さん一家が住んでいた。
ある日嘉手納さんが大声をあげ血相を変えて、幼児の息子を抱き表通へ飛びだしていった。そのとき看護の心得がある私の母親が対処の仕方の知恵をつけていたようだ。「ひきつけ」を起こした場合は割箸に脱脂綿を巻き付けて口に咥えさせるのである。

嘉手納さんは警察官で沖縄出身だった。沖縄では明治維新の際に廃藩置県の新制度になり、庶民も姓を持てるようになった。大抵の人たちは自分の出身地を姓にした。少年だった私は、そんなことは露知らない。ただ「嘉手納さん」というやや変わった苗字と、大慌てで幼児を抱いた姿ははっきり記憶に残っている。

これは戦争が終わる前の話だが、終戦後この嘉手納さん一家は早々に姿を消した。警察官の一家としては当然の用心だった。日本人は国家権力を失っていた。安東省の権力は重慶の国府側と通ずる旧安東省政府の満洲人首脳たちと、引き続き山東半島から進出してくる共産勢力(八路軍)が握るが、旧警察は真っ先に戦争犯罪人として粛清の対象になった。

我々の小路の一筋隣に藤原さんというお宅があったが、この藤原さんは逮捕されて銃殺された。隣近所の人々が総出で死体を引き取りに行った。
安東市では大掛かりな暴動は起きなかったが、散発的な強盗事件が発生した。我々の小路とは大通りを隔てた対面に、桜荘というマンションがあった。その桜荘に賊が侵入した。
小路の入り口には、われわれの小路と同様、敵の侵入に備えた木製のゲートがあった。賊はどうして侵入したのだろうか。我々の小路の方にもその騒ぎが聞こえてきていた。

暫らくして屋外の騒ぎも落ち着いたようなので、私は二階の窓から恐る恐る桜荘の方を覗いてみた。一人の大人がよろよろとゲートの門を開けて中に入っていくのが見えた。
                 
数日後桜荘の強盗追跡劇の顛末が明らかになった。桜荘の住人達が警報の金盥を叩く音で、一斉に飛び出して賊を追いかけた。一行は藤原さん宅のある小路を走った。どういう加減か、賊は追跡の人たちに紛れて一緒に走っていた。追跡側の一人が曲がり角で賊が、独りだけ別の方向に走り出すのに気が付いて追おうとした。その時に族に腹を刺されたという。

数日後、桜荘で犠牲者の葬儀が執り行われた。私は近所の人たちと大通りに出て見送った。馬車には故人の奥さんが小さな男の子を小脇にして座っていた。蒼白な顔をあげて、キッと前方を睨んでいた。馬車が走り出すとき、奥さんが故人の遺品の茶碗を投げた。「チャリン」、かけらが乾いた音を立てて私の目の前で最後の動きを止めた。その映像と音はいまだに私の脳裏に焼き付いている。

沖縄の「嘉手納基地」の残像から、70年のときを遡って終戦直後の旧満州・安東市の風景へと脳裏でイメージがシフトする。一見平和だが戦闘への緊張を孕んだ今日的な風景と、終戦当時の不安に満ち、圧縮したような空気の対比が奇妙である。 
本文を書いている今日の日は6月23日。偶々沖縄戦終結の69回目の記念日である。

沖縄には7-8回訪れているが、従来機会を逸していた糸満市の「ひめゆりの塔」を訪れた。この場所は、師範学校や県立高女の生徒からなる看護隊の犠牲者の慰霊施設である。沖縄にはかかる民間人の慰霊施設が多数あり、ひめゆりの塔はその一つである。
沖縄戦での民間人犠牲者数は15万人以上といわれ、当時の県民の五人に一人の割合になる。戦場となった沖縄の人々は筆舌に尽くしがたい苦難を味わったのである。

今日の沖縄は米軍基地の問題の悩みをかかえているものの、約70年前では想像もつかなかったと思われる繁栄ぶりである。普天間基地のある宜野湾市に約1か月間、滞在した。長期の滞在でいろいろな発見があった。
まず地域の人々のつながりを強く感じたことが印象深かったことである。小さな子供が、見知らぬ人に出会っても「こんにちは」という挨拶をすることである。
それと毎日決まった時間に街角の拡声器がアナウンスする。朝の7時、お昼時、夕方五時などである。夕方には子供たちへ帰宅を促すのである。
 沖縄言葉で自分はこうするつもりと意思表示するのに、『何々しましょうねえ』という。
沖縄の人たちの優しさを感じさせる折々である。

私もこの辺で、そろそろ筆を措きましょうねえ。               (了)

太平洋上の諸地域について

2014-02-05 18:05:20 | ☆ 徒然日記
本ブログで太平洋上の地域に属する記事は5編ある。ハワイが3編ニュージーランドが2編である。いずれグアムを投稿する予定である。
 一般にこの広大な地域はミクロネシァ、メラネシャ、ポリネシァと区分されて称されている。ミクロネシァはクアム、マリアナ、ヤップ、パラオ、マーシャル等で代表される。メラネシャはソロモン、パプアニューギニア、フィージー、ニューカレドニアなどで代表される。ポリネシァはハワイ、ニュージーランド、イースター島などだ。ミクロネシァは太平洋の北西部に位置し、メラネシャは南西部で、ポリネシャは残りの広大な部分だ。
民俗学的にはメラネシャ人はオーストラロイドで、ミクロネシャ人とポリネシャ人はモンゴロイドとされる。
モンゴロイドは先史時代に中国大陸から太平洋へと航海し伝播したようだ。海洋の風雨に晒され、体躯が巨大化したとされる。特定の宗教的背景はなく、アニミズム的な伝統を持つ。地域相互間の混血も進んだ。

 ミクロネシャという地域は、スペイン、ドイツ、*日本、米国などの先進国の侵入や支配を受けて先住民族が殺戮や伝染病などで極端な人口減少を見た歴史を持つ。ミクロネシャという区分は、そういう歴史的背景を示す区分に過ぎないのかもかも知れない。

*日本は第一次大戦後ドイツの後を受けて信託統治を行なった。当時南洋群島と称した。第二次大戦末期に米国の進駐によって、事実上の日本の統治は終末を迎えた。

風景(67年前の)

2013-10-08 11:34:26 | 満州からの引揚

 私はNHKの朝のドラマを観るのを日課にしている。10月から『ごちそうさま』という新シリーズが始まった。人間の基本的な欲求の食べることが主題のドラマだ。その冒頭のシーンは終戦直後の大阪である。主人公の女性が瓦礫の原で鍋料理を子供たちに振舞っている場面だった。
 私は大阪駅頭で体験した風景を思い出した。67年前の子供の頃だが、今でもその情景が鮮やかに蘇ってくる。

 大阪駅で越後線の方面に乗り換えるのに長い待ち時間があった。大阪駅頭のホールには多くの人ごみがあった。大人たちの身なりは、大抵は復員服(古い軍服)か、国民服(当時旧満州では協和服とも呼ばれた)に戦闘帽である。
 一人の男が飛び上がってもう一人の男の鼻に食いついていた。二人はじゃれあっているのか、気が触れているのか 真剣に争う風でもない。また周りの人々は特に注意を払うこともないようだ。そう言う意味ではまるで日常的なようで、しかし異様な光景ではあった。

 我が家は昭和21年(1946年)11月下旬に旧満州から引揚げて、博多に上陸した。博多湾には数十隻の引揚船が停泊していて我々の目を惹いた。聞くところによると、伝染病の発生で上陸が許されないで係留されているという。博多湾に展開した船の数は壮観だった。
 我々の船は幸運にも検疫をパスして、すぐに上陸が許された。
 
 我々の列車の車窓に、海苔巻き寿司の売り子のおばさんたちが群がってきた。ところが取締の係官がやってくると、彼女たちは売り物を放り出して蜘蛛の子を散らすように逃げた。後に残された海苔巻きを拾い上げる心無い、あさましい引揚者がいた。
 当時は配給制度がしかれていた。従って、海苔巻き売りは所謂「闇の商売」だったのだ。この捕物劇は我々引揚者がいきなり直面した戦後の故国の現実だった。
 
 我々の列車は広島の街を通過した。夜だった。原爆の街には灯火が殆ど見えなかった。それは死の街のようだった。夜が明けると、我々の列車は大阪についた。

 我々の当座の落ち着き先は新潟の父親の生家だった。越後線の小島谷駅という小駅で降りて田舎道を歩いた。その夜夕食で食べた米の飯の美味しかったことは忘れられない。新潟のご飯はオカズがいらないと当時言われたものだ。それと父親がお土産として買ったキスの味もである。
 
 それともう一つ、目に焼き付いたものがある。父親の生家への途中にあった裏なりの柿の実である。小川の畔の木に1個だけ朱色に輝いていた。その当時は知る由もなかった。柿の木に1個だけ実を残す風習を。それともう一つ身をもって味わったことを。
 誘惑に抗しきれず、夜が更けてから人知れず家を抜け出し、その柿の実を取って食べたのである。それは口が曲がるほど渋い柿だった。
 でもあの朱色の柿の実は私の網膜に焼き付いたまま消えない。
 (了)


日清戦争から太平洋戦争までの半世紀に於ける満洲と安東(その4)

2013-09-08 18:03:08 | 我が故郷 満州(安東)

本稿は日清戦争から太平洋戦争までの半世紀に於ける満洲と安東(その3)の続編である。

8. 満洲の戦後の状況

イ. ソ連占領下で国民党勢力と共産党勢力の抗争が行なわれた

A中ソ友好同盟条約の意味するもの

 昭和20年(1945年)8月の何と終戦前日に、中ソ友好同盟条約が締結された。米国が蒋介石にヤルタ密約の存在を初めて伝えたのはヤルタ会談の4か月後の6月半ばであった。そしてソ連と交渉することを要請した。
 蒋介石は大いに不満だったが、熟慮の末にこの要請に従うことにした。
 その理由はソ連が毛沢東と手を結ぶのを恐れたからだ。しかし中国の主権を侵すヤルタ密約を簡単には承諾できず、交渉は難航した。スターリンが中国代表団に対し、間もなく中国共産党が満洲に入ってくるだろうと警告
したので、渋々妥協した。日本のポツダム宣言受諾直前に条約が締結されたのは、かかる経緯である。
 もともとヤルタ協定の内容はソ連参戦の条件だった筈だが、条約は国民党が満洲でのソ連の権益と外蒙古の独立を認めるのと引き換えに、ソ連が中国共産党を相手にしないことと、旅順・大連を除く全満洲を国民党政府
が接収することを認めるという、取引となった訳である。  

B
さて満洲を巡る蒋介石と毛沢東の戦略はどうだったか;

 
蒋介石も毛沢東も満洲を制するものが中国全体を制するという認識だった。理由は広大な沃野や資源と日本が残した産業設備やインフラの存在である。

蒋介石は;短波放送で連日呼びかけた。
「悪いのは日本の軍閥と財閥であり、一般居留民は誠実に産業設備や資材の接収に協力するならば、迫害せず保護せねばならない」

毛沢東も;終戦に先立ち、4月に以下の基本方針を発表している。
「東北4省(黒竜江、吉林、遼寧、熱河)は極めて重要だ。我々の党と、中国革命の現下と将来の道を考えると、仮に我々が現在の全ての根拠地を失っても東北さえ確保しておけば中国革命に強固な基盤ができるだろう」
 昭和12年(1937年)毛沢東の軍隊は僅か四万人程度だった。その後華北や揚子江流域の日本軍占領区を重点とし、解放区を拡大する戦略を採った。その結果昭和13年18万人、昭和15年50万人、昭和20年91万人と増強された。

C次にソ連軍の占領政策の影響と国共双方の地理的条件等の相違 

①  ソ連軍の政策;
 9月中には全満洲を占領した。その最重点戦略は、蒋政府に大連・旅順を除く満洲各地の行政権を引き渡すまでに、満洲の産業施設、資材、貴金属などの金融資産を戦利品として持ち去ることだった。彼らは当初こそ、中ソ友好同盟条約を尊重し、国府側の政府代表団を受け入れる姿勢を示したが、国府側の接収には非協力的で遅延行為を繰り返した。

②  国府側は;
 
熊式輝将軍を東北行営主任に、蒋経国を東北外交委員に任命し新京に派遣した(東北は満洲地区の呼称)。ソ連軍は東北行営の活動と影響力の行使に種々制限を加えた。軍事関係者の存在は一切許可しなかった。
 国民党の軍隊は重慶方面に押し込められて自前の大量移動手段を持たず、米軍に依存していたが、米軍の飛行機や艦船は満洲に入れない決まりだった。

③  八路軍は;
 
日本の降服後、ただちに幹部級党員や軍隊を満洲に派遣した。正規部隊は山東地方から海を越え、遼東半島方面に押し寄せてきた。北西の延安に本拠を持つ八路軍は上記のごとく華北に勢力を拡大していた。従って、満洲への進出では八路軍は断然優位な地理的条件を占めていた。

 D国府側と八路側の実働勢力と内戦; 

①  重慶政府は;
 
終戦時に旧満洲国政府の幹部と連絡を取り治安維持委員会を組織し地方の省政府もこれに倣わせた。地方の治安維持委員会に警察力や旧満洲国軍の一部を加えて国府側勢力とした。

②  八路軍は;
 
満洲各地で組織化された現地部隊と山東地方や華北地方から進駐してきた正規軍部隊からなる。現地部隊とは満洲国時代に地下に潜り活動していた共産党分子が戦後浮かび上がってきたものが中心である。八路軍は二本足で移動する。スプーンとコップと薄布団を携行するだけの軽装だったので1日40キロは楽に移動できた。当初は日本軍の武装解除の武器を当てにして丸腰だった。しかし地理的条件などで正規軍の満洲進出では、国府軍側は八路軍側に2か月も後れをとった。

③  国府正規軍は;
 
錦洲攻略によって満洲への扉をこじ開けて、一部は空輸によりやっと軍隊を送り込んだ。新京、奉天の大都市を抑えたものの、地方都市や農村地帯は八路軍が勢力を張り巡らせていた。各地の治安維持委員会が組織し
た保安隊は、八路軍現地部隊により武装解除されていた。

④  ソ連軍の方針転換;
 
ソ連軍は八路軍の浸透作戦が見事だったので、米国の反応を恐れて方針が左右される場面もあったが、次第に八路側攻勢を黙認するにいたる。ソ連は当初は延安の実力を過小評価していた嫌いがある。
 ソ連軍は戦利品輸送に手間取ったこともあり、終戦の年の駐留期限11月を再三延長した。翌年昭和21年(1946年)の4月にようやく撤退した。

⑤  満洲の国共内戦の実状;
 
国府軍は緒戦こそ近代的な装備の威力で有利に展開し八路軍を北方の臨江近辺まで追い詰めた。昭和21年(1946年)暮。しかしこの臨江作戦を分岐点として八路軍が優勢に転ずる。

その要因は;
・八路軍の巧妙な戦略(ゲリラ戦;優勢な相手には無理せず退く、敵の補給路を寸断する、相手が引けば押す)
・農村地帯では、土地解放により農民を味方につけた
・敵の投降は寛大に扱う(大部隊が投降すれば英雄扱で自軍に取り込む)
・八路軍の装備は戦闘毎に改善されていった(投降、敗軍の遺棄武器)

ロ. 邦人の遣送(引き揚げ)

 A捕虜のシベリア抑留;

 
武装解除した日本軍兵士はポツダム宣言では日本に帰国させる取り決めであった。ところがソ連軍はこれら捕虜をシベリアに連行し強制労働に従事させた。その総数65万人といわれ、その1割の6万人以上が、劣悪な環境下の労働で死亡したとされる。

 B一般邦人の遣送;

 国府軍統治地域では一般邦人の引揚が昭和21年5月から実施され始めた。米国の働きかけで、国共の停戦に係るハーレー米大使と蒋介石と毛沢東の「三人委員会」が成立した。昭和21年7月末八路軍地域から国府軍地域へ日本人引揚者を受け渡す取り決めができた。

5か所に「転運指揮所」設立。
終戦時、満洲の邦人人口は155万人だった。そのうち105万人がコロ島を経由して引き揚げた(コロ島は遼東湾の港)。転運指揮所を経由して八路軍地域から引き揚げた邦人は24万人弱。この外大連地区の邦人は大連港から他地域より遅れて昭和24年9月までに引き揚げた。23万人弱である。
 更に安東地区の邦人は鴨緑江から朝鮮経由2万弱が引き揚げている。
 満洲で戦後あるいは引揚中に不幸にして命を落とした邦人は、20数万人に上る。歴史に「もし」はないというが、ポツダム宣言が7月下旬に受諾されていたら原子爆弾もソ連参戦もなかっただろうにと、悔やまれる。

 

9. 安東の戦後 

 最後に我々が住んでいた安東の戦後について付言する。

イ.ソ連軍の安東進駐;

 ソ連軍が安東に進駐したのは9月10日だった。先遣隊の入場を市民は小旗を持って出迎えた。彼らの服装は貧相だったが、マンドリンと通称される自動小銃を抱えているのが目を引いた。日本の歩兵装備の主力は、日露戦以来の38式歩兵銃(明治38年製)と99式(昭和14年製)だった。
 日本軍の装備の遅れや、機械化力のお粗末さは昭和14年のノモンハン事件で露呈されていたにも拘わらず、軍のエリートたちは下剋上的な政治権力の争いに熱中したり、軍人勅語の精神主義を振り回したり、目の付け所が全く誤っていた。事変に関わった辻正信や服部卓四郎参謀は一旦左遷されたが、ほとぼりが冷めると栄進した。この事変の真相を秘密裏に葬ったりしたことを含めて、まさに日本陸軍の恥部ともいえる体質だった。
 安東ではソ連軍と関東軍の戦闘はなかった。安東守備隊は武装解除されて間もなく北方へ移送された。噂では、シベリアへ送られたといわれる。
 安東のソ連軍の最大の仕事は、安東軽金属アルミ工場やその他の工場施設の撤去、鴨緑江上流にある水豊ダム発電設備の一部撤去、安奉線(複線)の単線化による線路軌道の撤去などであった。
 他の地域で日本人婦女子が大量に凌辱された事件があったので、日本人会が水商売の女性に因果を含めて慰安施設を作った。心配された囚人兵は入ってこなかった。従って大量の犠牲者が出る事件はなかったものの、散発的なソ連兵による凌辱事件はあった。彼らが日本人家庭に現れて時計や万年筆等文明の利器を召し上げていくのは、進駐の当初は珍しいことではなかった。

ロ.安東の治安維持機関;

 
終戦直後に安東省政府によって治安維持委員会が組織された。省長だった曹承宗が委員長になり、省次長の渡辺蘭治が顧問となった。ソ連軍はこの治安維持委員会と日本人会を現地折衝の窓口としていた。
 国府側は高吉先を安東市長に任命したが、実際は若干名の特務機関員を治安維持委員会と協力させ、国府軍の入城までの準備にあたらせた。
 一方で八路軍の現地部隊が9月中旬に近郊へ進出してきたが、中ソ友好同盟条約の建前をソ連軍が守って、八路軍を市内には入れなかった。
 満洲事変の記念日の9月18日の前夜、日本の支配の象徴だった安東神社が何者かに爆破された。ソ連軍は日本人の撹乱だと疑った。(八路軍の仕業ではないかと見る向きもあった)

ハ.安東に於ける国共の抗争;

 
国府側と八路側の武力による小競り合いは、何件か発生する。最大の事件が三股流事件である。昭和20年10月末、安東郊外の三股流山地で発生した。ソ連軍の産業設備等の搬出がほぼ終了する頃合いであった。

 日本人会の協和会系(旧満洲国の大政翼賛会)の一部人間が国府特務機関と通じて、国府軍上陸が近いという情報に踊らされて、八路軍勢力と戦うために3百人余の戦闘部隊を動員した。旧警察や満洲国軍の残党、それに偶々安東に来ていた海軍の航空整備・通信部隊を糾合し部隊を組成中だった。
 ソ連軍と相通ずる八路側がこの情報を掴んで、西方から進軍してきた千人以上の八路正規軍が機先を制して攻撃を加えて大勝する。この勝利により安東に八路軍政権が樹立された。ソ連軍は表面中立を装って、国共の両勢力に郊外で戦わせる策略だったのである。
 八路軍には約3百人の日本人徐隊兵の志願兵がいたという。同胞が敵味方に分かれて日本人としては、何の大義もない戦闘をしたのである。まさに戦後の日本人社会の混乱と苦難を、象徴する事件であった。

(この事件は、小説『三股流の霧』文芸書房2009年11月刊に書いた)

ニ.安東に於ける八路軍統治;

 
国府軍が入城するのは1年後だった。八路軍は昭和21年10月末までの約1年間安東で統治を行なう。その間曹元省長や渡辺元省次長を初めとし元官僚、警察関係者などが約3百人が人民裁判に掛けられて処刑された。人民裁判はとても裁判といえない政治ショウで被告人は終戦時の役割だけで裁かれた。余程勇気のある満洲人がいて弁護しない限り、処刑は免れえなかった。
 その後、国共内戦の激化によって、安東の邦人は様々な苦難を経験する。
 
 革命軍たる八路軍の軍紀は厳格で市民から物資を徴発する行為はなかったが、軍事的徴用は技術者の留用と共に、一般人にも厳しく実施された。 

ホ.「民主連盟員」の非人間的な邦人取締;

 
八路軍の手先となって日本人社会を管理し、戦犯の摘発や徴用を行ない、引き揚げ時の最後の瞬間まで邦人の身の回り品を絞ったのが、民主連盟という同胞の日本人の共産主義組織だった。                 (延安からきた日本人共産党員が中核分子だが、多くは俄か共産主義教育を受けた徐隊兵上がりだった)
 一般人徴用の仕事は、前線での塹壕掘り・負傷兵運搬、婦女子の看護婦、農村地帯の労役などである。邦人家庭に生活難や肉親が離れ離れになるなど様々な悲劇を生んだ。

ヘ.安東地区の引き揚げ;

 
国府軍地域で5月から内地遣送が開始された。安東地域の邦人達も焦って自力で脱出を始める。9月以降は転運指揮所経由の遣送列車が安奉線を出発した。
 出発時の荷物検査は民主連盟により苛烈に行われたばかりでなく、連山関付近の鉄道不通箇所が数キロあるのを口実として、約30キロの行程で平坦な県道を通らせなかった。そしてわざと付近の山岳地帯へ誘導した。 引揚者が僅かな身の回り品を放り出すように仕向けて、剥ぎ盗ろうとした。このような数日間の厳しい山岳行で病人や幼児や老人等に、多数の犠牲者を出した。

 国府軍地域では、兵隊の不品行はあったが、邦人の世話人達の優しさにやっと救われる気持ちになった。 10月に入ると国共の休戦は有名無実となる。転運指揮所経由の遣送は中止された。安東地区の邦人は、高い船賃を払い鴨緑江から3回に分け漁船船団を組み朝鮮経由の帰国をする。私自身の家族もこの漁船に乗った。朝鮮の近海で海難事故により多くの引揚者が犠牲になった。

 以上が安東の戦後に於ける日本人社会の状況である。鴨緑江は日清戦争・日露戦争の際に騎虎の勢いで満洲の地に渡る日本人を目撃した。その僅か50余年後に哀れな姿で故郷を目指す日本人達を、再び目撃することになった

日清戦争から太平洋戦争までの半世紀に於ける満洲と安東(了)


日清戦争から太平洋戦争までの半世紀に於ける満洲と安東(その3)

2013-09-08 17:11:55 | 我が故郷 満州(安東)

 本稿は日清戦争から太平洋戦争までの半世紀に於ける満洲と安東(その2)の続編である

7.日本の敗戦から戦後へ

 イ.ソ連参戦の条件;

 昭和20年 (1945年)2月クリミア半島のヤルタで米・英・ソ3巨頭会談が行われた。関係国間で戦後処理条件を討議。対日関連の米ソ間の密約は;
①ソ連がドイツの降伏後90日以内に対日参戦する。
②見返りとして南樺太・千島をソ連へ与える。
満洲の港湾と鉄道について、日ロ戦争前のソ連の権益を確保する。
以上の合意には交戦国中国の預かり知らない内容を含んでいた。

イ. 原子爆弾の開発成功と投下がソ連参戦を早めた;

 昭和20年(1945年)7月17日に、米国は原子爆弾の実験に成功した。この時点で米国はソ連の対日参戦がなくても戦争終結の見込みが立った。
 7月26日に日本に無条件降伏を迫るポツダム宣言が発表される。日本は当時中立国だったソ連に対して戦争終結の仲介を依頼していた。これに一縷の望みを架けていたので、ポツダム宣言を黙殺したまま放置した。
 (ソ連は着々と兵力の国境への移動を行い対日参戦の準備を進めていたが、日本は気がつかなかった)
 米国は8月6日、広島に原子爆弾を投下した。昭和20年5月7日ドイツが無条件降伏した。従ってその3か月後とは8月上旬となる。ドイツ降伏後にソ連は満洲への侵攻を8月中旬に予定していたが、米国による原爆の投下があったので、予定を早めて8月9日未明に決行した。

 ハ.日ソ中立条約があったのにソ連が対日開戦をした理由;

 先立つ4月にソ連は日ソ中立条約(1946年4月期限)を延長せぬ旨通告していた。ソ連が一方的に中立条約を破ったというのが日本の大方の認識だった。しかし先方側から見ればお互い様で、条約は意義喪失したという認識だった。

 中立条約の虚々実々;
 
昭和16年(1941年)4月松岡外相がスターリンをモスクワに訪ねた際、ソ連側の提案でこの条約を締結した。
直後の6月に独ソ戦が始まる。ソ連は諜報活動でドイツの攻撃が至近なことを把握していた。松岡外相はうまく乗せられた訳だ。ソ連側は日本がこの条約で安心して南進政策を進められる利点があると思って日本大使に囁いた。
 松岡外相は6月独ソ戦が始まるや否や掌を返すように「ソ連を攻撃すべし」と大本営政府連絡会議で主張した。その上「関特演」(関東軍特殊大演習)を日本がやった。これは対ソ戦準備作戦(兵員・資材の大幅動員)でありソ連軍の極東部隊を東部に釘付けられる。ソ連は極東部隊を西部戦線に移動せずに、ドイツの攻勢を凌いだ。日本は当てが外れて、関特演は名称のとおり演習で終わった。
 外交が如何に虚々実々であるかの如実な例である。日本は暗号が解読されるなど、情報戦で劣後していた。ソ連は日本を分割占領することを強く主張したが、米国の強硬な反対で断念したという経緯がある。

ニ.ソ連軍の満洲侵攻はどうだったか;
 
Aソ連軍は3方向から満洲に侵入した;

①東部戦線;
 ソ連軍主力の第1極東方面軍が 牡丹江と延吉を目指した。関東軍の主力第一方面軍と最も熾烈な戦闘を繰り広げる。ソ連軍内では中国人部隊の「東北抗日連軍」が越境して諜報活動を行い、要塞見取り図を作成していたので、奇襲攻撃は成功した。ソ連軍は戦車を先頭にして虎頭要塞などを素通りして先へ先へと進む。関東軍の陣地は守備よりは攻撃を優先したものだった。
 関東軍は火力が劣勢で、制空権も相手が握っており、ソ連軍戦車や自走砲の攻撃に晒され牡丹江付近で3万以上が死傷した。8月15日までは戦況が泥沼状態だったが、ソ連側は150から200キロ前進した。
 この地域は開拓団が多い。昭和18年の根こそぎ動員で45歳以下の男子は兵隊にとられ婦女子と老人しか残っていなかったが、戦闘に巻き込まれたり、暴民の虐殺に遭ったり、集団自決の道を選んだりで、多くの犠牲者が生まれた。満洲全土で開拓民の総数は約30万人とされたが、犠牲者数は8万人弱に上ったとされる。これは開拓民総数の4分の1にあたる。

②北部戦線;
 第2方面軍は黒竜江の全沿岸で渡河して侵入した。チチハルとハルピンが目標だった。しかし北満の関東軍の牽制が主目的であり8月15日までに50キロしか進めなかった。

③西部戦線;
 ザ・バイカル方面軍の機械化部隊が最も迅速な作戦をした。大興安嶺を強行突破して、堅固な阿爾山要塞を素通りして、1日に150から180キロ進み、8月14日には首都新京を目前に望む要地、洮(トウ)南に到達した。
 この途中でソ連軍の戦車部隊が婦女子のみの日本人避難民1千数百人を攻撃し、千人以上を殺傷する蛮行を行なった。これが葛根廟事件である。

B戦闘は9月まで継続;

 
日本政府はポツダム宣言受諾を宣言し、天皇が終戦詔勅を放送した。しかし戦争がただちに終結した訳ではない。関東軍司令部は8月16日夜に降伏受諾方針を決定した。同時に大本営からの停戦命令も届いた。しかし各戦場での戦闘は続き、ソ連軍参謀本部は攻撃続行を指示していた。
 日本陸軍とは上部の命令を無視する軍隊だった。局地的な組織的戦闘は9月上旬まで続いた。

主要都市のソ連軍占領は以下の通りである。
赤峰、新京、奉天、チチハル(8月19日から21日まで)、牡丹江、汪清、吉林(8月16日)、大連、旅順(8月22日から24日まで)

日清戦争から太平洋戦争までの半世紀に於ける満洲と安東(その3)(了) 

 


日清戦争から太平洋戦争までの半世紀に於ける満洲と安東(その2)

2013-09-08 14:23:05 | 我が故郷 満州(安東)


日清戦争から太平洋戦争までの半世紀に於ける満洲と安東(その1)

3.ここから日本の満洲支配への道筋を追う

イ. 日本はロシアから南満洲鉄道の経営を引き継いだ;

 
ロシアは清国と条約を(露清密約)結び、鉄道建設に必要な「鉄道附属地」を獲得していた。ロシアはこの条約を拡大解釈し、単なる土地の所有権だけでなく、清朝の行政権が及ばない排他的行政権を認めさせていた。また線路や駅など鉄道用地のみならず、鉄道から数百米も離れた用地をも鉄道附属地とし、鉱山都市などを開発していた。明治39年(1906年)に日本の国策会社南満洲鉄道(満鉄)が設立されると、この鉄道附属地制度も継承した。日本の満洲経営は、清国領土内における日本の治外法権、旅順・大連  (関東州)と南満洲鉄道(満鉄)や付属地からスタートする。 

ロ. 次に張作霖爆殺の陰謀と石原莞爾が起こす満洲事変が続く;

A張作霖の爆殺;

 明治44年(1911年)辛亥革命が成就して清国は滅亡し、各地に地方政権が誕生した。満洲の土地は軍閥・張作霖が支配した。張作霖は当初日本に対し協力的だったが、次第に独自路線を進み北京に進出して中原に覇を唱えようとした。国民党の北伐により北京は陥落し瀋陽に帰還する。その途上で関東軍の河本大佐が彼を爆殺した。昭和3年。昭和天皇は下手人の処罰を厳命したが、その意思に従わなかった田中義一首相は天皇の不興を買い以後謁見を拒否され、内閣は総辞職となる。
 これを反省した昭和天皇が、以後は内閣の決めたことに異論を唱えないことにした(立憲君主の立場)。それが内閣から独立する天皇の統帥権を陸海軍が事実上干犯するという悪習を生んだ。憲法上の矛盾が露呈する(立憲君主制の君主の天皇と、統帥権の長である大元帥陛下が同一人物)。以後の軍部独走の原因となった。

B満洲事変の陰謀; 
 
 張作霖の息子張学良は反日の立場に徹して、満鉄の平行線を建設して満鉄の経営を圧迫する。これに対抗して石原莞爾参謀が画策し学良軍を潰しにかかる。関東軍が自作自演で奉天郊外の柳条湖の満鉄線を爆破しておいて、張学良軍の仕業として北大営を攻撃した。これが満洲事変の発生である。昭和6年(1931年)9月18日。張学良軍が蒋介石の不抵抗方針の指示を受けて日本と事を構えるのを回避しようとした。1万2千の関東軍は朝鮮軍の支援もあって30万といわれた学良軍を相手に5ヶ月で全満洲を占領した。事変そのものも関東軍の独断専行だが朝鮮軍の出動も現地独断で、事後の悪例となった。
 政府は不拡大方針であり、陸軍中央も局地解決方針であったが、関東軍はそれを無視し、自衛のためと称して戦線を拡大した。政府や軍の中央の反対が強く、国際世論の圧力もあった。関東軍は当初の満洲全土を領土化しようとする方針を捨てて、傀儡政権を樹立する方策に方針変更した。そのために清国最後の廃帝だった宣統帝愛新覚羅溥儀を担ぎ出す。

イ.   傀儡政府の樹立;

 
まず東北3省(遼寧・吉林・黒竜江)の各地の有力者で東北行政委員会を組織して、国民党政府からの独立を宣言する。(後に遼寧省は奉天省に改称する)これらの地方政権の自発的統合という体裁をとって新国家を樹立させた。

各地有力者の顔ぶれ;張軍閥麾下の部將が多い。馬占山はすぐ離脱する。

①蔵式毅;陸軍士官学校卒、元国民党軍事官僚、作霖・作良奉天省長
②煕洽;清朝王家の一族、張学良麾下の吉林軍参謀長だった
③張景慶;張作霖の下でハルピン特別区長官、満洲八旗の一名門
④馬占山;馬賊の頭領、張作霖の下で黒竜江省の旅長

ハ.
日蓮主義者の政治行動;

 
この建国会議は勿論関東軍がお膳立したものだが、その会場には満洲国の新国旗となる五色旗もなくて、墨痕淋漓たる「南無妙法蓮華経」の字幕が飾られていたといわれる。立役者石原莞爾の思想的背景を雄弁に物語る。この話はあまり知られていない。石原莞爾は井上日召や北一輝と同じ日連主義者だった。井上は昭和7年一人一殺の血盟団事件を起こして無期懲役となり、北は昭和12年2.26事件の扇動者として処刑された。石原莞爾は、世界最終戦が日本と米国で戦われると予言し、資源に恵まれた満洲を日本の領土に取り込んで備える必要ありと主張していた。彼はドイツに留学中欧州戦史を研究していた。

ニ. 満洲国の実態と成果;

 こうして昭和7年(1932年)3月1日満洲国が成立した。
 溥儀が建国時は執政だったが2年後に皇帝に即位した。首都は長春に置かれて、新京と改称された。   満洲国の建国理念は五族協和の王道楽土の建設であるとされたが日本人主導の政治体制だった。五族は日・鮮・満・蒙・漢の五民族である。王道とは西洋流の覇道に対する君子の統治を意味する。
 関東軍のいわゆる「内面指導」が国の重要方針を決めた。所謂「2キ・3スケ」の要人が満洲政府を動かしていた。
①  東條英機星野直樹鮎川義介岸信介松岡洋右

 満洲国は13年の寿命だったがその間のインフラや各種産業の育成は満鉄時代からの延長でもあった。その成果は見事なものだった。
 その傾斜生産方式の手法や産業育成策などは岸信介らにより、日本に持ち帰られて戦後の経済復興に大いに役立った。

 ホ.国際連盟脱退による国際的に孤立する;

 
国際連盟はリットン調査団を派遣して、満洲事変は自衛措置だったとする日本の主張を調査した。その結果日本の主張は否認され、日本は国際連盟を脱退する。昭和10年(1935年)3月27日正式に発効。

4.満洲という名称(満洲とは土地名ではなく、ここで発祥した民族名である)

 
満洲は清朝の始祖ヌルハチの故地。ツングース系民族の女真族が明の時代に万里の長城外のこの地を平定する。そして「後金国」を樹立し、やがて明も征服し清国となる。満洲族はチベット仏教(ラマ教)を信仰していた。マンジュとは彼らが信仰していた文殊菩薩から来ている。
 清朝成立後、長年父祖の地・満洲には漢民族の移住を許さなかった。清末には漢民族の農民の移住が許されるようになる。移民が増加し満洲国の成立時の昭和7年(1932年)には満洲の人口は約30百万人に達した。多い時期には年に百万人の流入であった。日本人の人口は約60万人になる。
 満鉄と満鉄付属地に役人や商工業従事者、土建屋、運輸業者、その他旅館や料理屋などサービス業が進出した。明治39年(1906年)に満鉄が設立された後の26年間に流入した。
 安東は新たに建設された町でモデル的だった。
 石原莞爾は満洲を無主の土地(no-man’s-land)と位置付けて、日本の征服を正当化しようとしたが、我が国の歴史学者の賛成さえも得られなかった。
 現在満洲族の末裔の人口は約10百万人。東北3省の人口は一億7百万人。圧倒的な漢民族への同化が進み、漢民族の文化に埋没しかかっている。
 ヌルハチの故地は沈陽の東方の135キロ、新賓にある。

 5.日本の満洲への植民政策(開拓民の移住

イ. 農村の余剰人口対策;

 積極的に満蒙へ開拓民を送り込んだ。当時20年間に5百万人の植民を計画した。
 昭和7年(1932年)第一次武装移民団(140名)が佳木斯の東方100キロにある永豊鎮に送られた。開拓団とはいいながら、耕作する土地は地元民から半強制的に只同然の地価で買上げた。第1次開拓団は弥栄村と命名された。次いで第二次武装移民団が七虎力(チフリ)に入植し千振村と命名された。

ロ. 土龍山事件という先住民族の反乱;

 
昭和9年(1934年)3月土龍山事件が発生し、ニューヨークタイムズにも報道され世界の耳目を集めた。地元の自衛団が抗日武装団を結成して千振村を襲撃した。武装移民団の強制的な土地取り上げと、地元民の武器回収や、一部不心得団員の婦女暴行などの非行に、抗議したものである。

 依蘭駐屯の飯塚連隊長が少数の手勢と共に指導者謝文東の説得に出掛けたが、土龍山付近で抗日団に包囲され全滅した。増援の関東軍が飛行機を投入して抗日武装団を蹴散らす。以後5年間も抵抗が続いた。このほか、先住民の反乱は各地で起こった。楊靖宇という反日英雄の名は地名に残っている。

ハ.対ソ防衛を考慮した北満開拓団の配置;  

 北満は治安が悪く匪族が横行。移民団の配置は対ソ防衛上の狙いもあった。

ニ. 派遣者総数;

 昭和7年 (1932年)から黄海の制海権を失う昭和17年(1942年)までに、派遣された人数は27万人とも32万人ともいわれる。地域は主として北満。

6. 支那事変から太平洋戦争へと続く紛争の連鎖

イ. まず支那事変が勃発し長期化する;

 
昭和12年 (1937年)日本の華北駐留軍と蒋介石軍との武力衝突が発生した。日本軍の駐留は義和団事件後の北京議定書による。各国も駐留していた。この盧溝橋事件(支那事変)が発端で、中国側が徹底抗戦(ゲリラ戦)する。太平洋戦争迄は宣戦布告なき戦闘が続く。中立国の援助継続を望む中国側の思惑と、国際的非難を恐れる日本側思惑が一致して、事変と呼んだが立派な戦争であった。何度かの停戦の機会を逸しながら、日本政府や陸軍中央の不拡大方針にも拘らず戦線は拡大してしまう。
 南京陥落後蒋介石が重慶に首都を移し戦争が益々長期化する見通しとなる。

【この間昭和14年(1939年)、欧州ではドイツがポーランドに侵攻した。第2次大戦の勃発である。独ソ戦は必至となる。独は日独同盟を迫ってくる。日本はドイツを半年待たせ、昭和15年(1940年)日独伊3国同盟締結。】

ロ.日本の南進政策に対し米・英・和が経済制裁で対応; 

 日本は事変長期化を嫌い援蒋ルートの遮断を画策、仏のヴィーシー政権と合意の上で仏印(ヴェトナム)へ進駐した。昭和16年(1941年)7月。これが東南アジアを植民地としていた米国、英国、オランダなどを刺激する。
 米国は7月在米日本資産を凍結、8月石油輸出全面禁止の厳しい経済制裁を発令し、英国、オランダもすぐ同調した。(ABCD包囲陣と呼ばれた)
 この制裁は日本にとって致命的なもの。日本は石油や鉄、工作機械等の70%以上を米国から輸入していた。当時国内の石油備蓄は民事・軍事を併せて2年分、禁輸措置は日本経済に対し破滅的な影響を与える恐れがあった。日本は益々南進政策によって資源の確保に走らざるを得なくなった。

ニ.日米交渉決裂と日米開戦;

 
日米交渉は難航する。最終的に米国が「ハルノート」という屈辱的な条件を突き付けて交渉は物別れとなった。(ハルノートとは中国と仏印から日本の軍、警察力の撤退や日独伊三国同盟の破棄などを要求するもの)
 昭和16年(1941年)12月8日の真珠湾攻撃によって日米開戦となる。
 こうして見ると満洲事変・支那事変・太平洋戦争は因果関係で連鎖する。

日清戦争から太平洋戦争までの半世紀に於ける満洲と安東(その2)(了)


日清戦争から太平洋戦争までの半世紀に於ける満洲と安東(その1)

2013-09-08 12:02:58 | 我が故郷 満州(安東)


 8月15日から8月18日にかけて、私の旧満州での終戦体験について、4回に分けて投稿した。
 私はある会で『日清戦争から太平洋戦争迄の半世紀に於ける満洲と安東』という題で講演を行ったことがある。その演題は上記『私の終戦体験』の歴史的背景であったので、ここに若干手直して再録することにした。

1.講演会の幹事が私の昔の同級生だった関係で、『旧満洲・安東の話をして欲しい』という依頼となった。

イ. 旧満州の安東という場所;(現在は丹東と改称されている)

①安東は旧満洲(現中国)と朝鮮(北朝鮮)の国境を流れる全長790キロの大河、鴨緑江の河口の町である。(現丹東市は人口2.4百万人の大都会に発展し、北朝鮮関連ニュースでTVによく登場する場所でもある)。 

②19世紀末日清戦争が朝鮮の国で勃発し、清国領土(満洲)へ拡大する。
第一軍(山縣有朋軍)は明治27年(1894年)10月25日に安東の上流の九連城を無血占領した。日本軍が初めて清国領土へ足を踏み入れた時だ。日露戦争は日清戦争の第二幕ともいうべき戦争。10年後に勃発する。

明治37年(1904年)5月1日に第一軍が(黒木為軍)朝鮮の義州から渡河して、九連城を占領した。戦争が 本格化すると兵站の便宜の為下流に鉄橋を渡し、両岸の芦原に安東と新義州の街を作った。つまり安東は日露戦争を契機として日本人が作った町なのである。

③満洲と朝鮮は日本にとって、日清戦争から太平洋戦争に敗戦するまでの半世紀の跳躍台になった地である。我々が少年時代を過ごした安東は日本の満洲進出の出発点となった。安東には後の首相吉田領事がいた。

ロ. 日本が朝鮮や満洲に進出した時代背景の特徴は;

 当時は帝国主義の時代で、国際社会においては現代よりもずっと露骨な弱肉強食の時代であった。まさに食うか食われるかの時代である。19世紀の半ばに欧米列強はアジア諸国に次々と迫ってくる。
 老大国清国は国内各地でアヘン戦争や太平天国の乱があり、19世紀末には義和団事件(北清事変)などの対外抗争が頻発し、欧米列強の門戸開放の要求や不平等条約締結の草刈り場になる。
 (嘉永6年 (1853年)。日本もペリー来航により同様に開国を迫られた。その14年後の1867年に日本は太政奉還により明治維新を実現する。爾後の旧速な近代化により日本は遅れ馳せながら列強の競争に参加する。
日本は被害者から加害者の側に回った訳である)
 1911年に辛亥革命によって清国が滅亡してからも、中国は各地に軍閥が割拠して、統一的な国民国家とはいえない状況であった。
 19世紀後半帝政ロシアは不凍港を求め南下政策の野望を露わにする。19世紀半ばの愛琿条約、南京条約で黒竜江左岸の広大な領土を簒奪した。                                

ハ.我が国の国際社会における重要な今日的な課題の一つは;

 中国、韓国、北朝鮮などの近隣諸国との関係である。これらの国からは歴史認識という問題を常に突き付けられる。
 日本人は一般的に言って忘れっぽい国民だといわれる。特に加害者の立場になったこれら諸国との関わりを忘れている。というよりは近・現代史に疎くてあまり歴史的事実をよく知らないのである。
 いつまでも昔のことを根に持っているとつい反発したくもなるが、政治家などが全くの無知で不用意な発言するのが相手国民の感情に火をつける。
 これは受験本位の中・高の学校教育にも責任がある。年代別に編纂された教科書では、近・現代史は最後になるので大体は端折られてしまう。本当は現在の諸問題に直結した近・現代史を最初に教えるべきではないだろうか。

2.日清戦争から日露戦争への道筋

イ. まず日清戦争はなぜ起きたか?;

 一言でいえば、清国の属国だった朝鮮を日本が手に入れようとしたからだ。あらゆる機会を利用して軍事力を行使し、その結果清国と衝突した。

 朝鮮王朝は500年続いた。14世紀末李成桂が高麗を滅ぼして建てた王朝である。朝鮮はそれ以前の百済・新羅・高句麗三国時代から、中国の属国だった。
 日本は秀吉時代に二度の戦役で一時は朝鮮全域を占領した。徳川時代には朝鮮通信使や日本の使節団が相互往来し平和的な交流が幕末まで続く。鎖国下の日本にとって朝鮮は唯一の外交関係のある国だった。
 明治維新後は明治政府が朝鮮王朝を臣下である旧徳川幕府と同等のレベルと見做して、国交を再開しようとする。それで反発を招き交渉は難航し七年間を要した。近代の日朝関係はそういう段階からスタートしたのだ。

 日本が朝鮮を支配するに至ったには、幾つかの要因があった。 

A最大の要因は朝鮮王朝に熾烈な権力争いがあったこと;

 その政治が旧態依然だったこと。国王の実父大院君に国王と閔妃が対立し、日本はそこに付け込んだ。

B次に日本の伊藤博文首相と知恵袋陸奥宗光外相の巧妙な内政介入

 大体は弱い方の大院君を利用する。朝鮮を近代化しようとする勢力を支援する。守旧派である国王と閔妃や、宗主国の清国と対抗する構図となる。

C日清戦争の直接の契機は東学党の乱;

 これは農民の蜂起で民生の改善と日・欧の侵出を阻止する運動。朝鮮王朝が清国に派兵の要請をしたので、日本も出兵の口実ができ、朝鮮で両軍が衝突することになった。

ロ.日清戦争の経過と結果;

A日本の勝利は大方の予想外だった;

 朝戦王朝も諸外国も清国が勝つと信じていた。清国軍は内部腐敗で弱体化していた。海戦でも陸戦でも日本は連勝し遂に清国が停戦を申し入れる。

日本が下関条約で清国から戦果を手にする。(眠れる獅子が豚だった、といわれた)

①朝鮮が清国から独立した(日本の朝鮮への影響力が増大する)。

②台湾・遼東半島の領有権と多額の賠償金を獲得する。

 しかし露・独・仏の三国干渉によって日本は泣く泣く遼東半島を返還させられる。日本の国力はこれら三国には対抗できなかった訳である。

B朝鮮王朝がロシアとの親密化工作に走る、首謀者閔妃を日本が暗殺する;

 清国の後ろ盾を失った閔妃と国王は日本の圧力と対抗するために、頻りにロシア公使館に働きかける。三国干渉で日本の権威が地におち日本の勢力は大幅に後退する。危機を感じた三浦梧楼公使が画策して大院君を擁し閔妃の暗殺を決行する。国王は万事閔妃の言いなりで、閔妃が実力者だった。
 明治28年(1894年)の10月8日。「国母」を日本人が殺したということで王朝の悪政に苦しんでいた筈の民衆が大いに怒る。各地で反日の義兵運動が盛んになる。この事件は現在でも半島の人は誰でも知っている。

ハ.日露戦争はなぜ起きたか?;

A朝鮮のロシア接近を日本が阻止ようとする;

 国王がロシア公使館に移って、公務を行なうようになった。親日内閣に代わり親露内閣が成立する。ロシアは三国干渉で日本の遼東半島割譲を阻止した後、大連・旅順を清国から租借し、満洲に鉄道を敷設し権益を拡大する。
 一方朝鮮国内でも鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの権益を取得して影響力を増す。日本はロシアの南下政策に危機感を持った。朝鮮にこれらを買い戻して回復させ、正面からロシアと対立する。
 ロシアは1900年に清国の義和団事件の機会を捉えて満洲を占領し居座る。 

B 日露交渉の決裂と軍事衝突;

 日本とロシアの間で朝鮮での支配領域や権益調整の交渉が開始される。ロシアの高圧的な姿勢によって交渉は決裂し、日本は国交断絶を宣言する。
 大国ロシアは自国の方が望まない限り戦争にはなるまいと多寡を括っていたが、明治37年(1904年)2月に、日本が旅順港を奇襲し、引き続き仁川沖で両海軍が衝突して、戦端が開かれる。日露戦争の勃発である。
 英国は明治35年(1902年)日英同盟を締結していた。英国は軍事・経済両面で日本を支援する。清国は中立を宣言した。大韓帝国も中立を宣言したが、戦況が日本有利に傾くにつれて進歩派が勢いづく。国内では日本追随の機運が奔流となった。一方伊藤博文は明治42年ハルピンで朝鮮人安重根に暗殺される。
 翌年(1910年)日韓併合が実現する。伊藤は併合に反対だった。

 .日露戦争の経過と結果;  

A日本は勝利するが、まさに綱渡りの勝利だった;

 明治38年(1905年)ロシア国内で連戦連敗の報に民衆の蜂起が頻発した。日本も国力をすべて使い果たしていた。そこで米国の調停を渡りに船として、停戦に応じる。奉天会戦に勝利し、日本海海戦に大勝した好機を捉えた戦争終結だった。

Bポーツマス条約で日本が手にしたのは;

①南満洲に於ける鉄道経営の利権(南満洲鉄道;長春から大連・旅順)
②遼東半島の旅順・大連(関東州)の租借権
③南樺太・千島の領有
④しかし賠償金は1銭も取れなかった。
戦争の実情に無知な民衆は政府が弱腰だと非難、日比谷で焼打事件起こる。

C一方で日露戦争の世界史的意義は大きいものがあった;

 「白色人種の絶対王政」が「有色人種の立憲君主制」に敗れたと、波紋を呼んだ。その影響はロシアの植民地地域やアジアで独立・革命運動が高揚する。

①清朝では孫文辛亥革命が成功;
オスマン帝国では青年トルコ革命
③ペルシャのカジャール王朝では立憲革命
仏印(ヴェトナム)では東遊運動(日本への留学が流行);
英領のインド帝国ではインド国民会議が開催される;

『日清戦争から太平洋戦争までの半世紀に於ける満洲と安東』(その1)(了)


私のイスラム体験とイスラム理解(その2)

2013-08-25 00:14:02 | イスラム体験と理解

本稿は私のイスラム体験とイスラム理解(その1)の続編であるー2013-08-24 投稿分

4 次はイスラム世界が拡大すると多様化という複雑な問題が生じたという話である。               

 イスラム教社会はアフリカ北部やペルシャの乾燥地帯へ拡大する。更には、後年インド亜大陸、東南アジア等の湿潤地帯にも伝播していく。温暖な湿潤地帯への伝播には、各地のヒンドゥー王朝からの対抗上、イスラムを受け入れたという要因があった。一時は南ヨーロッパも席巻した。このイスラム圏の拡大はイスラム自体が変質していく契機となる。
 マホメットの死後暫らくして、まず内部的にシーア派とスンニ派との分裂が起きる。シーア派の分裂はペルシャにイスラムが拡大してアーリア的な血統重視の考えが入った為だ。マホメットに血縁でつながる子孫をイマームとしてイスラム法解釈上の権威とする一派が生まれた。「シーア」とは「一派」という意味でマホメットの従兄弟で娘婿でもあったアリの一派という意味の略称である。
 マホメット亡き後に教主(カリフ)を選挙によって決める正統カリフ制が4代続く。シーア派への分裂は跡目争いの中で生まれた。シーア派を除いた支配体制の世界がスンニ派と呼ばれる。スンニとは慣行を意味する。つまりマホメットの没後は特定の人間ではなくマホメットの残した慣行に従うべきであるという考え方を表している。
 4代目のカリフが暗殺され、スンニ派の世界はウマイア王朝の時代となり、それを倒した政権がアッバース王朝を樹立した。

★私が駐在していたイランはシーア派の牙城だった。シーア派ではアシュラーという大切な宗教的行事がある。イランに駐在を始めた初っ端にこの行事に出くわした。イスラム暦1月10日に、信者が街頭でアシュラーの行列をする。イラクのカルバラーで第3代イマームのホセインがスンニ派に虐殺された故事を悼んだ行事だ。その日は信者達が裸の背中を鉄の鎖で打ちつけ鮮血にまみれながら行列をする。約1300年前の歴史的な事実を再現し、血を流すことによってフセインの苦痛を追体験し、信仰の確証と宗教的活力の再生を得る。その宗教的情熱は見る者を厳粛にさせた。 

 ここでイランのイスラム革命について説明する。私が駐在し始めた直後に、イランではホメイニの主導によって、イスラム革命が成立した。五十年間続いたパーラビ王朝を瓦解に追い込んだのである。
 革命の要因は、急増した石油収入をバックにした拙速な工業化がインフレを呼んだこと、一方白色革命と呼ぶ現実無視の農業政策が中途半端な実施で失敗となったこと、バザールの伝統的な商工業の経済を種々の価格統制で圧迫したことなどが背景になった。王権はサヴァックという秘密警察に守られていたが、王権に特権勢力が群がり、巧妙な賄賂の授受などの社会的な不公正が横行し、ホメイニを頂点とするイスラム指導者と対立したことが革命の引き金となった。
 ホメイニのイスラム革命が成功して、イランはイスラム共和国となった。普通選挙により選出された議会が立法を行うが、イスラム法が国家の基本法であって、ホメイニがヴェラーヤテ・ファギーフ(最高の宗教指導者)に就任し、イスラム法解釈の最高権威を担った。議会による立法はイスラム法に照らしてチェックされる。 

 イランばかりでなく他の地域にも目を向けると、イスラム圏の拡大につれてイスラム圏が異なる文化圏を次々と呑み込んだ為に、イスラムの教義の解釈が多様化してきた。イスラムの法源(法の源)を、シャリーアと呼ぶ。
 このシャリーアの範囲が変化する。時代の変化も加わって日常の利害衝突をコーランだけでは律しきれないという問題が生じたからである。コーランに加えて、マホメットの生前の言行の伝承記録(ハディース、スンナ)や、イスラム法学者間の協議で「同意(イジュマー)」や「類推(キアース)」という手続きを踏むことにより拡大解釈をする。つまり、イスラム法は神の啓示のみではなく、人間の解釈が入るようになったわけだ。 
 イスラム圏が19世紀に植民地化しヨーロッパの法体系が導入されて以降は、シャリーアの位置付けを各国の憲法で決めるようになる。現状ではイランやサウディに見るようにイスラム法に忠実な国と、トルコのように、私的な生活領域だけに限定する国に分かれる。

 

 最近イスラム原理主義なる言葉が聞かれる。元々はイスラム復興運動というべきものでイスラムの精神的価値を復興するという穏健な路線から急進的路線までいろいろである。急進的なものは、後世の人間が拡大解釈をすることを許さずコーランに忠実に戻るべきだという立場である。よくテロ行為などと結びついたりするが、実際には国外向けに主張するより、イスラム国の内部の政治抗争を契機に主張される場合が多い。
 イスラム原理主義も国々の事情によりその姿はいろいろだ。古くは18世紀のアラビアにおけるワッハーブ運動があったし、エジプトのムスリム同胞団によるサダト大統領の暗殺や、イラン革命や、アフガニスタンのタリバンも原理主義運動の一つである。

 イランの宗教革命の今後の成り行きが注目されるところだ。イランの現体制にはいろいろ自由化を求める動きもあるが、イスラム主導の国家体制には基本的な変更は、予測できる将来に起きにくいものと考えられる。
 アフガンのタリバンが伊藤さんを射殺した。彼らは外国人は国外へ出ろと主張する。タリバンの立場とNGOの人道主義は同じ次元にはない。正にすれ違いの悲劇である。 

5 締め括りに、イスラムと他文化の衝突の問題についてお話しする。

 イスラムと巧く折り合うという命題を個人対個人の問題だけでなく、国対国或いは地域対地域の問題に拡大して考えてみる。実際にはこの方が考えるべき深刻な問題である。

 イスラムとユダヤの対立は、流血の報復が又報復を生むという泥沼化した状況である。このパレスチナ問題は、1千年の長い間不在であったユダヤ人社会を西欧列強が応援し無理矢理パレスチナに帰還させイスラエルとして建国させたことに端を発している。
 更にイスラム教社会とキリスト教社会の対立にはかつて西欧が中東を植民地として支配したという歴史問題も背景になっている。
 元々イスラムの教義の中には異教徒に対する敵対・排除の考え方はないといわれている。しかし今日的な問題はイスラム原理主義者によるテロ行為が発生し、世界の安全に対する重大な脅威となっている。
 イスラムの論理からは、過去の被圧迫の歴史や現状も続く国際的不公正に対する自衛の行動だと主張する。 しかし現在の国際法上の既成秩序を前提として考えると、イスラム側の行動は秩序の一方的な侵犯となる。
 対立の根は深く、事はそう単純に割り切れない。
 更にイスラムに対する理解を阻む固い核の様なものがある。他の世界では社会規範たる法律と信仰の問題は一応切り離されているのに、イスラム特に原理主義の立場では信仰の教えがそのまま法律であり、その信仰の教えが7世紀のアラビアの社会的現実に基づき固定されている点である。
 各々のイスラム国家内の秩序にも、それ自体困難で一筋縄ではいかない状況があるが、その秩序の回復の為に外側の世界が介入せざるを得なくなった場合は、まるでパンドラの箱をあけるような事態となる。米国のイラクやアフガニスタンに於ける失敗を見れば、明らかなことである。

 我が国は幸いにも、イスラム社会とは過去の植民地支配の歴史は持たない。もしも我々が融和的な役割を果たそうとするならば、イスラムとユダヤやキリスト教世界の対立の底を流れている歴史的背景よく理解して、片方の陣営に与して介入するやり方では通じないと認識するべきだと考える。                

 私のイスラム体験とイスラム理解(その2)(了)


私のイスラム体験とイスラム理解(その1)

2013-08-24 22:28:48 | イスラム体験と理解

 本稿は2008年10月30日半導体関係の技術者の研究会(実装技術研究会)の例会で行ったもので、メンバーは東大・大阪大・防衛大の研究者の他日本電気等大企業の技術部門の担当者だ。最近中東各国との往来や取引が増えてきたのでイスラム圏の人たちとどう付き合えばよいのかという問題意識が出てきたそうだ。
 その時の話の文体を替えて、再録する。

 そもそも技術畑で仕事をしていて、しかも日ごろイスラム文化との接触がない人たちに、約40分の短い時間でイスラムを分かり易く説明するという難しい課題だった。しかも知的レベルの高い人達ばかりなので内容的水準はあまり落とせないのが二重の難題だった。
 私の体験の紹介は私のイラン経験が中心になったが、イスラムの時代的変遷はイスラム全体を睨んだものである。制約条件の厳しいテーマだが、諸賢の批判を仰ぎたいと思う。

1 イスラムと旨く付き合うとは、イスラムを生んだ風土と民族の特質を理解すること; 

 私はかつてイランのホメイニ革命の際にイランに3年半駐在した。イスラム人口のある国々にはこの他9カ国を訪れているが、イラン駐在の3年半が最も濃い体験である。
 主催者からの注文は「イスラムと巧く付き合う方法」を話すようにということだ。それは詰まるところ、イスラムを生んだ風土とそこに住んでいる人々の特質を正しく理解することに尽きると思う。しかしこれはそう簡単なことではない。

 まず私の体験の中で象徴的なシーンを紹介する。以下「体験」の記述には★を付す。

★  私が初めてイランを見たのは飛行機の上からで夜明けの風景だった。広大なイラン高原が眼下に広がる。乾いた山や谷の褶曲が黒々と続いていて、まるで地球の腸が露出して干からびたような眺めだ。それがイランという国の第一印象である。

★  もう一つの場面として、恐らく皆さんもご存知かも知れない。サウディ・アラビアを舞台にした映画『アラビアのローレンス』の冒頭のシーンである。
 周囲は見渡す限り灼熱の砂漠だ。視界を遮るものは何もない。太陽がぎらぎらと照るばかりだ。井戸があり男が水を汲み出そうとしている。地平から黒い点が急速に近づいてくる。それは、ラクダに乗った見張り番だった。問答無用の一発の銃声が響いて、水を盗もうとした男はその場で射殺されてしまったのだ。

 これはアラビアのしかも映画の中のシーンだが、私が駐在していたイランのテヘランでも郊外にいけば、これと同じような砂漠(というよりは乾いた土の原野即ち土漠)の風景が展開していた。つまり乾燥と、荒々しさと、情け容赦のない苛烈さが、あちらの世界の特質だ。
 イスラム教はこの様な乾燥地帯の風土の中で生まれ、拡大していった訳だ。
 人々は男性的で粗野な自然の中で生きている。それに比べると、我々の住む東アジアの環境は女性的で優しい自然である。 

2 最初にイスラム教を理解するためにその本質的な部分についてお話しする。

 端的な特色を強調するなら、イスラムが乾燥地帯に生きる人々の文化だということである。乾燥地帯に住むのは遊牧民だ。この地域の遊牧民の文化とイスラムの文化の特色はほぼ重なり合っている。我々農耕民族のムラ社会的文化とは全く異質のものである。                 

 イスラム教はご存知の通りアラビア半島で7世紀の初めに誕生した。半島の内陸部は殆ど無人の世界で灼熱の砂漠地帯だ。人は沿岸地方のオアシスなどに住んでいた。
 近い血縁の者が群がって生活する部族社会を構成していた。部族は内部的には割合民主的で団結しているが、他の部族とは基本的には常に対立し相争う関係である。しかも信仰の面では、各部族がてんでに固有の神々を信じ(つまり多神教)、しかも偶像を崇拝する世界だった。         

 当時の二大文明圏であったペルシャ帝国とビザンチン帝国が争って、東西交易路が閉ざされてしまう。お蔭で新たに未開のアラビア半島を経由する通商路が通じ、経済的に潤う。ところが利益の争奪戦が始まり部族間の抗争は却って激化する。これがアラビア半島にイスラム教が生まれた時代的背景だった。 

 イスラムの預言者のマホメットはクライシュ族の一員だった。メッカに定着した商人部族の名門だが、マホメットは幼くして父を失い貧乏だったので、無学・文盲だったといわれている。それにも拘らず、彼は真面目で正直者として人望があった。彼は部族間抗争の状況を憂いながらよく洞窟にこもって瞑想をしていた。
 ある日、突然アッラーの神から啓示を受ける。マホメットは以後約20年間に亘りアッラーの啓示を受け続けて、その都度周囲の信者達に口述をする。これがイスラム教の聖典であるコーランの成り立ちである。

 マホメットは所謂教祖ではない。絶対者のアッラーの言葉を忠実に伝えるという使命を帯びた単なる預言者だ(預言とは言葉を預かるという意味である)。マホメットが無学文盲であることは周知の事実だったので、この教えの言葉が彼の頭の中から生まれたのではなくて、本当にアッラーの神がマホメットを通して下した教えであることを、人々が信じる理由となった。
 アッラーがマホメットに下した啓示とは「すべての人間は平等であり、富の分配も公平にして、争いのない共同社会を作るように」ということだった。そして、この共同社会のことをウンマと呼んだ。
 この点にイスラム信仰の根本的な前提がある。つまりマホメット自身も含めて、信者はすべて神の下に平等な存在であり、信者一人一人が神(アッラー)と向き合い、契約を結ぶということである。

 アラビアの砂漠の民は風土の影響から極めて直線指向的であって、このような単純明快な論理しか受け付けない。したがってイスラムには中間の聖職者の存在も不要である。実際には2百年後イスラム法学者が生まれたが、それは時代の変化とともにイスラム法の解釈が複雑化した為だった。
 アラビアの民はまた厳しい現実重視の民である。目に見える現実の利益がない限り、物事を信じない。預言者のマホメットは統領の才覚に長けていたので、その指導によって版図を拡大する。その結果、通商路を確保してイスラム教徒は確実に豊かになっていく。信じることで実際にご利益があるので、イスラム共同体であるウンマは反対勢力を凌いでいき、まずアラビア半島を制覇した。 

 イスラム教徒の要件は、6つのことを信じて5つの行いを為すことに集約される。この要件を「6信5行」という。アッラーを唯一の神と信じるのは最も重要なことである。人は神の奴隷であり、絶対的帰依の関係である。それとこの世には終末があり、最後の審判で神に忠実な者だけが天国に行けること、またすべての事象は神が予定し給うことであって、人智は及び難いものだと信じる。

 教徒の行為の義務はこのような信仰の告白をすること、日に5回メッカの方角を向いて礼拝をすること、貧しい者へ喜捨をすること、年に一度の断食月の日中は一切飲食をしないこと、そして一生に一度は聖地メッカへ巡礼をすることである。
 イスラム教が広汎に伝播したのは、教義が単純明快だったのが第一の要因だったが、アラビア語のコーランの詠唱の美しさも無視できない要因だといわれる。(「コーラン」は声に出して唄うという意味である)。                 

★アラビア語の詠唱は実に荘重である。マレーシアでコーランの詠唱大会のTV中継を見たことがある。もちろん意味は分からないが、その崇高な美しさは印象的だった。

★美しいといえば、アザーンの詠唱も然りである。日に5回の礼拝のうち夜明け前と夕暮れ時にはモスクの塔の拡声器から肉声の詠唱で呼びかけ、信者を祈りへと誘うのがアザーンである。
 トルコでカッパドキア地方に旅をした。早朝5時前に突然耳元で大音響がした。吃驚してベッドから転げ落ちた。ホテルの隣にモスクの塔があって、そのラッパ形の拡声器が私の部屋の窓際に接して向いていて、アザーンが鳴り響いたのだった。                   

3 イランのイスラム社会で生活して予想外の事態に遭遇したが、その具体的体験の話

イ.他人との関係はまず交渉から開始する;(それほど彼らは交渉に命をかける) 

★イランでの最初の晩にタフな経験をした。飛行機が延着し真夜中に到着したが、高層のロイヤルガーデンス・ホテルを予約しておいたのに、渡り廊下を歩かされてお隣の粗末なシーナ・ホテルに入れられた。しかも一階の道路脇の部屋だ。翌朝に、ホテル横の路上でダンプカーが急発進したので、驚いて飛び起きた始末だ。午前中一杯かけて、丁々発止の難交渉をやった末に、やっと予約したロイヤル・ガーデンスに落ち着くことができた。
 予約の有無などは頭から無視して設備の悪い同じ経営の古いホテルから客を入れようとするのだ。こういう時のコツは受付の男に小銭を握らせることだ。正攻法で理屈を言っても時間が掛るだけだ。これは経験によって段々学んだことである。

★後年に、イラン・イラク戦争で飛行場が閉鎖したのでトルコ国境からバスで脱出した。山賊が出没する危険を犯してやっと東部最大の町エルズルムに真夜中に到着する。
 アンカラの三菱商事に依頼してイスタンブールへの切符を予約しておいたので、翌朝に、トルコ航空のオフィスに赴いた。流ちょうな英語を話す係員がいて、一瞬ほっとしたのも束の間、そんな予約は全然ないと言い張る。考えてみれば、こんなことはよくありそうなことだ。慌てずにパスポートに小銭をはさんでもう一度よく探してくれと頼めば、簡単なのかもしれない。しかそれも癪なので何とか打開策をと考えていたら突然電話が鳴る。チャンス到来とばかり、予約簿をひったくって取ってみたら、私の名前が最初にあった。それを突き付けたら、渋々先方も諦めたという次第である。                

★革命後の混乱期に勤務先の三菱銀行の百周年行事があり、取引先に頒布する記念の風呂敷を送ってきた。ところが高級繊維製品の輸入だから高額の関税をかけるという。記念品で販売には適さないことが一見してわかる染め込みがあり、商業価値はないと主張したが、この我々にとって至極当然な常識に、監督官庁の担当者が納得しない。交渉が長引いて、日が暮れる。翌日出直すと、前日には納得させた筈の幾つかの論点はご破算になり、交渉は最初からやり直しになる。何回か足を運んだのだが根負けしてしまった。相手が革命後の役所なので、迂闊に袖の下を出す訳にもいかず、結局は記念品を日本に送り返す破目になった。 

 彼らとの交渉は大変な仕事だ。彼らの昔からの伝統とは、オアシスのバザール(市場)に見ず知らずの人々が集まり、少しでも有利な取引をと丁々発止とやり合って、終わったらまた別れてもう二度と会うこともないという、その場限りの人間関係の特質である。
 このような経験からイラン人はタフネゴシエイターの典型だとつくづく思ったが、中東においてはタフさの順位はレバノン・シリアが先で、その次がペルシャ・ユダヤだという順位が定説だと聞かされた。                   

ロ.交渉事では相手を平気で騙す、取るものを取った後は、成行き任せで「神の御心次第」;

★テヘランで最初の仕事は事務所の設営で、まずそのスペースを探して契約に漕ぎ着けることだった。こういう何でもないことが、あちらでは想像を絶する難事業なのである。
 一応仲介業者はあるがこれが全く当てにはできない。こちらの条件をいくら詳細に伝えても合致しない物件ばかりに案内するので、我々にとってまるで時間の無駄である。
 結局自分の足で候補地域内の空きビルを虱潰しに調査するしかない。当時は革命直前のパーラビ王朝末期だった。オイルショックで石油の収入が4倍に膨れて、大判振る舞いの工業化の最中で、テヘランは建設ラッシュだ。ところが通信手段等のインフラ整備は連動しない。新設の事務所ビルは沢山あっても、電話がつかない空きビルばかりである。
 「リンギング・テレホン(鳴る電話)」という妙な言葉を覚えた。一応電話器が置いてあるので、電話付きオフィスだと早合点するとその電話はお飾りだったりする。ときには臨時に隣のビルから線を引っ張ってあったりするので電話の権利の確認には、十分に念を入れる必要があった。そして契約をするには地元弁護士の立ち合いが必須であった。

★大きな店構えの家具屋で社宅の家具を買った。日本での感覚で配達の日を決めて、代金を支払った。これは大失敗で中東では絶対に荷物の配達を確認してから引き換えに支払うべきだ。開設準備中で社宅は無人なので、配達品を受け取るには事務所から社宅に出向く必要がある。しかし約束の時間に待っていても一向に配達がない。
 電話で催促すると配送車は店を出発したと言う。しかしそれは口から出任せで配送車はまた来ない。怒り狂って翌日また催促すると、また理由にならない言い訳をして、配達をしない。結局配達されるまで数回も無駄足を踏む始末となった訳である。 

★彼らは何か約束事をする際には必ず忘れずに「インシャ・アッラー」なる1句を付け加える。「もしそれが、神の御心にかなうならば」という意味で、すべての出来事は神が予定して、人智は及ばないというイスラムの教えが、予定通りいかない場合の言い訳になる。というよりそもそも予定に従い約束事をきちんと履行するという考えがないのである。

★開設披露パーティの案内状は郵便でなく直接自分で配達すのが最善だと言われた。一遍に数百枚の挨拶状を発送すると、切手を剥がして捨ててしまう危険があるといわれる。
 招待先への個別訪問が難事業だった。入手するアドレスが不完全で、探すのが一仕事だ。ビルの階数などは現場で階段を乗り降りして探すのだ。傍のイラン人に聞くといとも簡単に答えてくれるが全部出鱈目だ。これは、自分が知らなくても何か答えるのが親切と思う為のようだ。結局はまず最上階に行って一階ずつ降りて虱潰しに探すのが早道なのである。

ハ.厳格なイスラム法の国には厳しい刑罰の危険があり、他方権力の行使は融通を極める;

★私が駐在する前にペルシャ湾岸で邦人2名が裁判中に行方不明になったことがあったそうだ。石油タンクの工事中に現地人の工員が死亡して、邦人が管理責任を問われたのだ。被告が逃亡したと警察が発表したそうだが、現地の噂ではその邦人達はヘリコプターで砂漠の奥深くで放逐されたそうだ。但し私が駐在を始めたばかりでこの風評については、いくつかの情報源で裏を取るなど、必ずしも十分確認できた訳ではない。

★思い出すのはBC18世紀の古代バビロニアのハンムラビ法典で「眼には目を、歯に歯を」という苛烈な刑罰が規定されていた、そもそもこの地域ではセム系の遊牧民族の伝統が生きているようだ。(同じこの地域の先住民族のシュメール人の残したウルナンム法典ではハンムラビ法典のような「同害復讐法」ではなく、金銭の賠償を規定していたといわれる)。
 サウディ・アラビアで起きた交通事故でイタリア人が責任を問われた。事故の現場を再現するような状況を作っておいて群衆から押し出され、車に轢き殺させたそうだ。その為にイタリアとサウディの外交が一時断絶となったという有名な話があった。

★イラン駐在当初に弁護士からきつく注意されたのは、イランでは絶対に自分でハンドルを握ってはならないということだ。必ず現地人の運転手に運転をさせる必要があるという。
 その弁護士が担当した事件の話をしてくれた。米軍の軍事顧問団の将校が飲酒運転とスピード違反でイラン人老婆を轢き殺した。パーラビ皇帝が在位中のことで、何とか政治的に働きかけ罪一等を減じて貰おうとした。 ところがその将校が収監中の扱いに苛立ち、反抗的な態度をとったかどで拘禁房入となる。その拘禁房は所謂タコ壺で、人間がやっとしゃがめるスペースしかなく、頭上に小さな明かり取りがあるだけだ。そこに1週間以上も収監された為に、弁護士がやっと面会を許された際にはその将校は完全に精神に異常を来していた。涙と唾液と排泄物などを垂れ流しの、見るも哀れな状態だったという。                   

★ある商社の出張者がイランで約一週間行方不明となり、大騒ぎになったことがある。出迎え者が役所で用足しをしている間に、珍しい電飾のあるその役所の写真を撮ったのを咎められたのである。その出張者はその場で警察に逮捕されて、留置場にぶちこまれた。出迎えの者が用を済ませて外へ出てきたときには、出張者の行方は不明だった。彼は留置場で一週間放置された儘っだった。その商社が大使館を通じて探索した末に、出張者はやっと陽の目を見ることができた。                

ニ.イスラム社会の秩序一般はどうか(良くも悪くもそれは事柄次第という面がある)               

★私の駐在したテヘランは人口6百万の大都会だったが、そこの交通秩序は最悪だった。それを考慮しているのか道路は一方通行の場所が多い。3車線の道路をともすると、5台位が犇めき合って走ることがある。信号無視は珍しくないので注意が肝要である。交差点などで左折車(左ハンドル)と直進車がせめぎ合うのはスリル満点である。気合いの勝負で、ぎりぎりまで危険を冒す方が優先権を獲得する。勢い交通事故が多発する。
 昼間は見通しが利くのでまだしもだ。夜間には青信号を信じると横合から信号無視の車が突進してくるので命を失いかねない。そんな場合のペルシャ語は「ヤバシ、ヤバシ」という。「ゆっくり、ゆっくり」という意味だが、夜の交差点では「ヤバシ、ヤバシ」を連発した。我々としては、むしろ「あぶない、あぶない」という気持ちの悲痛な叫びだった。

★革命の初期に、街頭のデモ行進に対して軍隊が発砲して、大勢の群衆が命を落とした。
最大の事件は1978年(昭和53年)9月8日テヘラン南部の「黒い金曜日」事件である。
 それを契機として戒厳令が敷かれた。偶々福田首相(前首相の父)が訪問中だった。私は北部の安全な高級住宅街に住んでいたが夜間はデモの騒ぎと銃声がよく聞こえたもので、町では物々しい雰囲気が流れていた。そういう社会不安だった時期にも拘わらず、強盗の類の被害は全く聞かれなかった。これはイスラム社会の影響かと考えられる。
 しかしコソ泥の類の被害は別物でとても多かった。近所の知人宅で帰国中に家具や家財が根こそぎ盗まれた事件があった。私の家でも使用人がよく物をくすねるのが悩みの種だった。これはコーランの教えの通り、貧者は富める者から喜捨を受けるのが当然だという常識からかもしれない。彼らは喜捨を受けても相手には御礼を言わない。アッラーに感謝するだけである。

 以上我々の常識とはかけ離れた世界で苦労の連続だったが、それなりに対処方法や用心の仕方を心得えると何とかなる。この文化の違いはイスラムの論理というより、イスラムを生んだ乾燥地帯の遊牧民社会の伝統に根ざした文化との違いというべきであろう。イスラムはこのような風土に生きる人達の分裂と無秩序が生む争いの社会を、克服するべく生まれたともいえると思う。

私のイスラム体験とイスラム理解(その1)(了)


私の終戦体験(その4)

2013-08-18 15:11:33 |  私の終戦体験

本稿は『私の終戦体験(その3)-2013-08-18 投稿分-の続編・最終編である。

中共地区からの正式遣送の開始;(満蒙終戦史より)
 故国日本では在満邦人の引揚げについて種々の外交努力を続けていたが、ソ連の非協力に国共内戦勃発の事情が加わり困難な状況が続いた。
 米国がイニシアテイブを取って成立した所謂三人委員会(*)が発端となり、この延長線で21年7月末になりようやくベーカー大佐を中心とする国共両側の交渉が纏まった。そして中共軍占領下の地域から国府軍地区へ日本人を安全に引揚げさせるよう協議調整が行われた。
 (*)これは20年8月末、毛・蒋・ハーレー大使の間で国共停戦会談が行われたもの。その結果中共地区からの遣送は21年8月20日から実現する運びとなった。

  国府測では中共軍との接点のうちで長春・拉法・梅河口・本渓湖・大石橋の五か所に転運指揮所というものを設け、中共地区から送出される日本人の受入態勢を整えた。こうして21年8月から10月の間に、236、759名の日本人が転運指揮所を通じて送り出された。

中共地区からの遣走者数;
送出地区別の人員数は以下の表のとおりである。

      

8月

9月

10月

斉々哈爾

 

36,047

5,419

41,466

哈爾賓

 

92,011

6,576

98,587

牡丹江

 

5,058

21

5,079

京図線

 

31,732

5,543

37,266

通化

3,124

11,417

289

14,830

安奉線

 

4,251

28,708

32,959

大石橋以南

 

2,366

4,206

6,572

3,124

182,882

50,753

236,759

 しかしなにしろ遣送決定が急であったため、とり残された者がかなりあった。留用者・戦犯らは別として、奥地辺境の地にあり遣送のことを知らなかったか、また知らせを受けて出てきたが遣送列車に間に合わなかったのである。中共地区からの正式な集団遣送はこの時が最初でしかも最後であった。
 再び遣送が開始されたのは6年後の昭和28年春だった。それは中共紅十字会の関与によってであった。

 その間、朝鮮経由の引揚が行われた。朝鮮経由のルートはもともと闇の脱出ル-トだった。それが情勢の緊迫と共に公認されるようになった。その後、
海上経由の引揚げは民主連盟によって運営され、30隻から40隻の大船団を組んで前後3回に亘って約1万人が引揚げた。

 我家は父の徴用が解除されないで留用(八路軍の転戦に行動を共にすることを意味する)されるかと「ひやひや」していたが、最終段階に近い10月の初旬に、帰国を許されることになった。
 所持品については散々脅かされた末に厳しいチェックを受けた。金目のものは何も持ち出せない。父親のリュックには2歳の弟が納まり、母親がリュックと3歳半の妹の手をとるのと運ぶのが半々で、中学生の兄と小学生の私と妹が荷物の運び手だった。背中のリュックの中には寒さをしのぐ、若干の衣料と食料の乾パンが入っていた。それに加えて、一人3千円の紙幣が我が家の全財産だった。船賃は頭数あたり6千円という大金を払った。船団は南鮮に向う約束だったが、北鮮のさる漁港に降ろされてしまった。
 そこから2昼夜かけて38度線を歩いて越え、やっと米軍の管轄下に入り胸をなでおろした。南側で農家に分宿してやっと人間らしい食事にありつけた。私は栄養失調で黄疸に罹って、自力で起き上がるのが難しい脱力感に悩んだが、この2~3泊の休養と栄養補給で何とか回復し、旅を続けることができた。
 それから米軍の上陸用舟艇で仁川港に上陸し、朝鮮動乱の激戦地だったソウル郊外の義政府で約2週間テント生活の検疫を終え、釜山港で引揚げ船を待った。
 釜山港では民主連盟員が発見され壮絶なリンチに遭うのを見た。引揚げ援護の事務所の介入でこの男は助かった。海に投げ込まれる寸前で救出され保護されたのだ。頭から大量に出血し、顔中に幾重にも血の筋ができていた。大人達の恨みと暴力の凄まじさに震えあがったものだ。

 我々が釜山で乗った引揚げ船は「天佑丸」という誠に縁起のいい船名であった。500トンの老朽船で、博多まであと2時間というところで天運拙く難破して沈没してしまった。幸い引き潮で船が転覆する直前に我々全員がカッターで脱出した。大島という島に上陸して助かった。
 難破船からの脱出の冒険譚は、戦時中に「少年倶楽部」で読んで胸を躍らせたことがあったが、それを自ら体験したのだ。

 リンチといえば、葫芦島経由のルートで安東から引揚げた友人が同様なケースを見たという。岸壁から海に投げ込まれた途端に、ガバガバッという音を立てて鮫が飛び掛り、鮮血で海の色が見る見るうちに真っ赤に染まったそうだ。

 第一次中共政権下での、安東からの最後の引揚げは21年10月23~25日だった。
 この時の20数隻の船団の中で、最大の汽船の恵比寿丸と大連行の民主連盟員専用の1隻が沈没して、600人以上の犠牲者が出た。
 10月26日に最後の乗船者が川を下り始めたとき、撤退する八路軍が市内の要所を爆破した黒煙が街を覆ったという。同日にそれまで散々掛け声倒れに終わっていた国府軍が、今度は本当に入城した。

  安東はその翌年22年の6月に八路軍が再び奪還する。それまでの約8か月間は国府軍の勢力下に入った。

 敗戦後満州の安東で起きた状況を振り返ってつくづく悔やまれることは、日本の国の敗戦処理の拙さから見込みのない戦争を続けたことである。歴史に「もし」はないのだが、7月26日のポツダム宣言を遅滞なく受諾していれば、旧満州の戦後はかなり違った姿になったことだろう。日本政府はこともあろうに、ソ連に終戦の仲介を頼んでいた。ソ連は虎視眈々と参戦のチャンスを狙って国境に兵力を移動しつつ準備していた。ソ連は当然日本の依頼を無視して時間稼ぎをした。結局は米国による原爆の投下やソ連の参戦を招いた。 

 本稿は私の終戦体験を書くことであり、そもそも満州を略取して満州国を作ったことの歴史的評価という問題は、紙数の制約もあって触れえなかった。ここで強調したかったのは、日本人社会が初めて国家権力を失うと同時に異文化の真只中に放り出されたこと、情報収集もままならず国共内戦の戦乱をくぐり、その狭間で必死に生き延びようとする経験をしたのが、満州の戦後だったということだ。

  私達は幸運なことに一家七人が一人も欠けずに帰国できた。不幸にも戦犯として処刑された方々、虐殺されたり陵辱されたり、様々な不幸を味わった同胞は、喩えていうならば銃を与えられずに戦場に置き去りにされたのだ。最も辛い殿軍の立場を担って取り残されたようなものだった。
 不幸に合われた方々のご冥福をお祈りしたい。

『私の終戦体験(その4)』(了)

                                   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


私の終戦体験(その3)

2013-08-18 13:50:42 |  私の終戦体験

本稿は『私の終戦体験(その2)』ー2013-08-17 投稿分ーの続編である。

引揚げ(所謂、遣送)の開始を待つ日々;
 その頃はどこの邦人家庭でも、生活の為に商売を始めたり満人商店に雇われたりしてその日その日を食い繋いでいた。大人も子供も、豆腐・タバコ・酒・南京豆等を仕入れて街頭で売り歩いていたが、 大抵は所謂武士の商法で成功したとは思えない。
 家財道具や衣料品や寝具を持ち出して街頭やマーケットで売り歩くことが元手要らずの商売で確実だった。この商売は掛け声が「誰(すい)要(よう)」と呼び歩くので、『誰要(すいよう)』と呼ばれた。しかし時には、巧妙な満人たちの集団ひったくりにあって丸損になるリスクはあった。
 私もかっぱらいに合い、見事に委託販売の酒を一本やられたことがあった。ただ旨く行ったときご褒美の駄賃を貰う。それで屋台で買食いをする一刻はまさにワンダー・ランドだった。買い食いのお目当ては玉蜀黍の春巻きのチェン餅(ピン)と豆腐湯(トーフータン)だった。
 妹と敷布を売り歩いていたときに、満人街深く誘い込まれて危うく誘拐されそうになったことがある。機転を利かせ上手く逃げおおせたが、相手はしつこくどこまでも追ってきた。日本人の子供は当時高く売れたようだ。もし脱出に失敗していたら一体どうなっていたのかと、後年日本で残留孤児の親探し番組をテレビで見ながら、よくそう思った。 

 当時は親の生活の苦労は子供のゆえにもうひとつピンと感じていなかったと思う。だが物価の値上がりが酷く食料は終戦時の3―40倍に達し、親達はさぞかし大変だったと思う。安東の終戦後は物流の点で閉鎖的な環境にあったうえに、他地域からの避難民の流入で人口が一挙に倍増していた。経済はハイパーインフレーションの状態だった。

安東の物価状況;(満蒙同胞援護会編;満蒙終戦史より) 
終戦により統制から自由販売となったので一時物価は下落傾向となった。しかし八路軍の進駐以来内戦のため交通杜絶し孤立経済となる。逐次物価が上昇した。21年3月中共軍は軍票1円を、旧満州国2円の比率で発行し、5月に満州国幣の使用を禁止した。然し軍票(東北流通券)が対満州国幣比0.8と下落して、その為物価も上昇し米穀の大量購入には通用しなくなった。その後軍票の増刷、旧満州国幣の使用禁止、国共内戦の激化によって物価は高騰の一途を辿った。一般の生活は困難の度を深めるばかりだった。工場・鉱山の生産部門は殆ど復活せず、邦人の生活は逼塞の状態となった。 

安東における物価推移

 

 

 

 

 

終戦当時

昭和20年

11月

昭和21年

3月

昭和21年

6月

昭和21年

8月

白米1斤

1

5

12

25

40

高粱 ”

0.5

1.5

5

13

20

粟  ”

0.8

3

10

17

30

包米 ”

0.5

2

7

15

25

味噌 ”

1.5

3

5

10

20

醤油 1升

5

10

20

40

60

塩  1斤

1

3

10

15

30

牛肉 ”

10

30

40

60

80

馬鈴薯

0.3

1.5

4.5

10

5

甘藷 

3

5

7

10

7

大根

0.2

0.5

0.4

2

1

木炭

1

1.5

1

3.5

7

マッチ小箱

3

5

10

13

20

ローソク1本

1

2

5

10

20

当時日本人一人の一月の生活費は1千円見当といわれた。                 

当時の家財の売値;(満蒙終戦史より)         
背広服   一着   1,000-3,000円
布 団    一重    1,000-2,000円
セル着物  一枚   1,000-2,000円
ワイシャツ  一枚  100-200円    

 さて国府軍が進駐した地域では、昭和21年春頃から日本人の引揚げ所謂「遣送」が開始された。
中共地区の引揚げについては7月になってもはっきりした見通しはなく、日本人は国府地区の遣送開始の噂を聞いて焦躁に駆られた。各地で6月頃から自力で次々と瀋陽に流入しつつあった。

 安東でも安奉線の経路を徒歩などで奉天方面に脱出する動きが出てきた。
 しかし米国の働きかけで国共の停戦に係る所謂三人委員会が成立したことが発端となり、中共地区からの邦人引揚が、愈々実現されることになった。それが決ったのは8月下旬だった。
 安東地区からの自主的な陸路脱出は余りにも希望者が殺到し、6月末に一旦は禁止されていた。正式遣送は9月になってようやく実現した。
 悪名高い民主連盟員は国府軍の邦人受入機関である転運指揮所近くまで、ぴったり同行した。八路軍の最前線に近い安奉線の下馬塘から先約6キロは鉄道が破壊されていた。徒歩で行かざるを得ないが、民主連盟はわざと一般道路を通行させなかった。摩天嶺などの難所の山岳地帯を数日かけて、喘ぎ喘ぎ登攀させ、堪りかねてなけなしの荷物を放り出すように仕向けた。文字通り同胞から絞れるだけ搾り取ったのだ。こういう非人間的態度はまさに民主連盟員なるものの人間性の欠如と弾劾せざるを得ないのだが、その背景には「日本人をすべて同一水準のどん底生活に陥れ、それで新民主主義思想なるものを注ぎ込んで新しい意識に目覚めさせる。」といった彼等一流の教条的な理屈があったようだ。

 こうして9月中に10数回にわたって安東から遣送列車が瀋陽に向かった。しかし国共内戦が激化して9月末にはこの陸路も不可能となり、その後は、漁船船団により鴨緑江を下り、朝鮮経由で帰国する ルートに切り換えられた。

『私の終戦体験(その3)』(了)


私の終戦体験(その2)

2013-08-17 10:20:47 |  私の終戦体験

本稿は前編『私の終戦体験(その1)2013-08-15 投稿分の続編である。

国共の争闘の巻き添えとなった邦人社会の受難; 
かくて安東には一時的に、二つの公安司令部が存在することになった。一方は治安維持会側つまり国府系で、もう一方は八路側の司令部である。治安維持会は、市の中心の日本人街と満人街の境界地点に陣取っていた。他方で八路軍は満人街の外れの警察学校で表面は鳴りを潜めていたが、着々と勢力を強化中だった。その頂点にソ連軍がいた訳だが、彼等の最大の関心事は工場施設等の運び出しだった。

 10月に入ってこの国府と共産両陣営の対立は徐々に発火点を迎えつつあった。そしてそこに否応なく邦人社会が巻き込まれていく。一方中央の首都の新京では10月初めに蒋介石が派遣した東北行営の代表団がソ連軍の総司令部と困難な折衝に入っていた。ソ連軍は12月初めには満州から撤退する約束だったのに、いろいろな口実を設けて何度も撤兵期限を引き延ばした。満州の産業を共同で経営しようなどという「東北経済合作」なる難題を持ち出したりして、のらりくらりと時間稼ぎをしていた。

 国府の中央軍が東北に進駐するときの上陸地点をどこにするかという争点があったが、ソ連軍は中ソ友好条約で代替地として大連を自由港とする条項を入れたことを楯にとり、大連への受け入れを拒否した。そして代替地として営口や葫芦島を承諾したが、いろいろ妨害工作を弄して、なかなか国府軍の進駐を実現させなかった。もうひとつのソ連側の代替指定地は安東だったが、他の地点でいざ上陸となると妨害があったことや地勢上戦略的に不利である点などが加わって、(戦闘となると北上するより南下して攻めたほうが良い)その実行に踏み切れなかったようだ。               

 治安維持会側は10月にかけて、旧警察の勢力を近隣の地区から結集しようとしていた。それに旧日本兵や学生なども勧誘して参加させ「愛国先鋒団」という部隊を組織し、市内の日本人街の中心にある協和会館に駐屯させていた。                                               

 ソ連側は工場施設の撤去をほぼ完了しつつあったが、治安維持会が八路軍への対抗上、ソ連軍の保護要請を行ったのに対し実情把握のため下士官を派遣してきた。偶々その時期に旧満州国軍の王光部隊が参加してきた。この王光部隊は隊長が王光という人物で、水豊ダムの高射砲陣地にいた満州国軍の部隊だったが、終戦の日に叛乱を起こして逃亡した。人数は約100名で、警察や除隊兵等の寄せ集めなどと違って正規の訓練を受け、一応武器弾薬を装備した実戦部隊だ。これが治安維持会の「愛国先鋒団」に合流した訳である。

 カーキ色の軍服の一団が協和会館の方に進軍していくのを私は目撃したことがある。10月のある霧の深い朝だったが、帽子に青天白日旗のマークをつけているので、国府軍の正規軍が来たのかと思った。これは「愛国先鋒団」に合流する王光部隊だった。

 この頃既に日本人会は内部対立によって行き詰まり、改組されていた。当初は旧官僚の大物や民間の長老を中心に組織されていたのが一新された。そして働き盛りの若手の官僚や第二世代の民間人たちにバトンタッチがなされていた。この第二次日本人会は名称を変えて日本人補導事務所となった。その立場はソ連・中共・国府の各勢力から等距離を保ち中立を守るというものだった。ところが第一次日本人会の渉外担当であったY氏や補導事務所の旧協和会の関係者たちが突出し、国府側の機関と活発に連絡を取り合っていた。その人たちは日本人社会を守ろうとする情熱や行動力には富んでいる反面政治的に旗幟鮮明で、しかも国府軍の安東進駐に過度の期待を抱く情勢判断をしていた。そして除隊兵を愛国先鋒団に送り込み、国府側と協力して八路軍への攻撃を画策していた。その立場の表明と行動は補導事務所の公式的方針から逸脱し、また組織の内外の境界線が曖昧だった。それが、後日の悲劇を生む原因になった。

 治安維持会は旧満州国軍が合流してきたことを喜ぶ一方で、この王光部隊の身許が割れてソ連軍の武装解除を受けることを恐れていた。治安維持会はこの虎の子の戦力の温存を図るため、一刻の猶予も許せない切羽詰った選択をした。まず王光部隊を安東の西南20キロ郊外の三股流へ移動させることにした。愛国先鋒団は後から追っかけて合流することになった。そこで八路軍迎撃の陣地を構築する意図だった。除隊兵らのいくつかのグループにも従前から声が掛っていた。いろいろなルートを通じ東北行営の責任者熊式輝のお墨付きを示す布帛のペナントが手交されていた。海軍の河崎部隊もY氏らの働きかけによりこの集結に参加した。この河崎部隊は香港から長躯陸路を移動中だった。目的地は朝鮮の鎮海基地だった。その途上で終戦を迎え安東に辿り着いていた。 

 この頃日本の旧軍隊の兵達はいろいろな行動をとった。大本営の関東軍司令官への訓令や天皇の玉音放送もあったが、おとなしくソ連軍の武装解除を受けてシベリアに送られた兵達ばかりではなかったのである。部隊によっては山に籠り抗戦を続けたり、国共内戦の一方の陣営に積極的に身を投じたりして、自己の存在証明を何かに託そうとした人たちも少なからず居た。一度は死を覚悟して戦線に向っていた若者達は敗戦によって心の寄る辺を失っていた。いわば大地に虚無の裂け目が広がり、真空の時間が襲ってきたのだ。後世になってどうしてそんなことをしたのかと振り返るのは簡単だが、情報が錯綜する中での彼等の行動を冷たく切って捨ててしまうのは、心情において難しいことである。                 

 ところでこうした治安維持会側の動きは、まだ組織化以前の混沌状態にあった訳だが、かなり早い段階で八路側やソ連側に筒抜けになっていたようだ。スパイ活動は彼等のお手の物だった。八路軍東満司令部は国府側の勢力がビルドアップされる前にこれを壊滅するべく、二個師の師団を組織して岫巌、大孤山の2方面から安東の西方に向わせつつあった。

 ソ連側は実に老獪だった。河崎部隊は協和会館に集結し2台のトラックに分乗して現場に向ったが、その時そのトラックを運転していたのはなんとロスケだった。河崎隊長等ごく少数が気付き不審を抱いたのだが、下車する際のドサクサに紛れてしまった。そもそもこの部隊が参加した経緯には、日本人会の一部の人達の巧妙な作戦に乗せられて日本人社会の総意による切なる頼みだと信じてしまうような状況があった。

 翌10月25日早朝の深い霧の中で、三股流に集結しつつあった反共勢力に対して八路軍が先制攻撃を仕掛けてきた。治安維持会側はまだ戦闘体勢が整わないまま分断され、兵員数が劣勢のうえ戦闘準備も十分でなかった為に、短時間の戦闘で大敗を喫してしまう。そして四散霧消して捕虜になったり、安東市内に逃げ帰ったりしたのである。戦闘には治安維持会側が三百名ぐらい、八路軍側は千数百名余が参加したといわれる。中共側発表では、治安維持会側死傷者数は30名(と意外に少ない)、捕虜は200名だ。河崎部隊は総勢60名弱の内15名が帰ってこなかった。八路軍部隊には旧日本軍兵士が多数いたといわれ、(約300名という)期せずして同胞が相戦う悲劇となったわけである。そうすると一体全体、彼等は何の為に戦ったのであろうか?

 当時私はこの事件の詳細は知る由もなかった。河崎隊長から事件の経緯はもとより、彼の帰国までの一部始終をヒアリングして再現したものだ。ただ当時としては、後日小学校の体育担当の河内という先生が、郊外の八路軍との戦闘に参加して戦死したらしいとの噂を聞いた。河内先生は海軍出身で無口な軍人タイプの人だった。相撲で生徒が後退すると竹刀を持って尻を容赦なく叩くというような敢闘精神で固まった怖い先生だった。戦闘の際は八路軍に真正面から突込んで蜂の巣のように銃弾を浴びて戦死したと伝えられていた。もしその銃弾が八路軍の旧日本兵が放ったものだったとしたら、この河内先生の死は何に殉じたものだったのだろう。

 当時のこの武装蜂起計画は邦人社会にはかなり漏れていたらしく、安東中学の生徒の志願が多くそれを断るのに苦労した河崎氏は語っていた。河内先生は海軍出身だったよしみで、河崎部隊と行動を共にすることが許されたそうだ。

 この戦闘は三股流という場所で行われたので、「三股流事件」と呼ばれている。私は小説としてこの事件のことを書いた。戦闘場面と川崎部隊長に関する部分は実録である。  

    満州・安東戦後物語 『三股流の霧』文芸書房2009年11月刊

  この戦闘を契機にして11月2日に安東に八路軍政府が成立することになった。この頃からソ連軍に代わり、八路軍兵士の菜っ葉色の軍服が町に溢れるようになった。ソ連軍司令部は一応翌22年2月まで形ばかり存続するが、その後朝鮮に引揚げて完全に姿を消すことになる。

八路軍政府の成立; 
11月2日:東満自治軍第3支隊はソ連軍の協力の下に“愛国先峰団”、旧憲兵団、旧警察局などの武装解除を行い、治安維持会は解体される。警察局と东坎子監獄を接収管理し、旧政権を接収する。 「安東省民主政府」は正式に成立を宣言、高崇民(鳳城県出身)が主席に就任し、劉瀾波(岫厳県出身)が副主席に就任する。同時に安東省公安局が成立し呂其恩(荘河県出身)が局長、孫已泰が副局長に就任する。                        
11月5日:「安東市民主政府」が成立する。呂其恩が市長、張雪軒(寛甸県出身)が副市長に就任する。市政府は秘書、民政、財政、実業、教育の5部所を設立する。                

八路軍施政下の状況; 
八路軍が政権についてからも地下に潜った国府側機関と一部邦人筋が呼応し連携して、八路の政権を転覆しようとする暗闘が続いた。国府側に協力する邦人筋の思惑は、やがて中央軍が入城してくることを期待して中央軍を迎える際に邦人社会に有利な状況を作りたいということにあった。また一方には、政権に就いた八路軍が入城当初とは態度を一変させ日本人社会に厳しい仕打ちをし始めた事情があった為とも言える。

 八路軍公安局は11月の半ばから旧時代の官民の要人を逮捕して、単なる政治ショウともいえる人民裁判にかけ次々と処刑した。また精算運動と称する財産の没収活動を行った。担(たん)白(ぱい)運動という彼等独特な「旧悪摘発」のプレッシャーをかけたりした。こういう一連の動きが益々日本人の反発を呼ぶことになった。  

 私自身の体験としては、日本人戦犯の引き回しを市内の目抜き通りで目撃したことがある。厳寒のなかを、馬車に引かせた大車(たあちょ)の車上で、白いシャツ姿がまるで死装束そのもので、後ろ手に縛られて居た。白いプラカードに墨で黒々と罪状などが大書してあった。近所に居た警察官が銃殺され、その亡骸を隣組で引き取りに行ったこともあった

 特に12月10日、旧安東省長の曹承宗氏と、次長の渡辺蘭治氏が市内を引き回された末、鴨緑江岸の処刑場で惨殺された。現場には邦人の目撃者もいてその立派な死に向かう態度と殺戮方法の惨たらしさが伝えられ、邦人社会に大きな衝撃を与えた。                            

八路軍による処刑; 
12月17日:小松省総務科長、下西警防科長、後藤市長、牛丸地方法院長、吉村監察官、小林教学官、千葉特高科長,越知鉄路特高科長、警察官多数が銃殺された。                                                                                       21年にも:村上税関長、東黄署長、税捐局長、浜崎巌元電業支店長、伊藤牡丹江木材社長らが、民衆裁判に掛けられて銃殺された。戦犯容疑者として収監された者は、約2,500名、処刑者は約300名といわれている。                

 その一方で八路軍によって医療関係や産業関係の技術者の徴用が行われた。私の父は省公署に勤務していたが、下級官吏だったので逮捕は免れた。その代わりに建築の設計技師として八路軍に徴用されることになった。その関係で兄が軍営のタバコ工場に、私が軍営の靴下工場に下働きとして通うことになった。父親の給料が家計を賄うには足りないのでそれを補填する意味か、案外子供も人質として預かるということだったのかも知れない。父親の勤務先は地元編成の自治軍ではなく山東から来た正規軍で、安東高女の校舎に駐屯していた。

 邦人社会が最も恐れていた公安関係は地元編成の自治軍の担当だった。大和小学校、安東警察署、郊外にあった東坎子刑務所、その後の民主連盟の屯所などがその拠点だった。

 日本人補導事務所は八路軍の指導で、日本民衆解放同盟と称する俄共産主義者の組織と合体させられた。この俄共産主義者は「赤かぶ」あるいは「赤大根」といわれ、赤いのは上辺だけで正体は国民党の内通者だった。この組織は12月13日に一網打尽に逮捕される破目になる。結局この八路軍の指導は、国民党内通者の炙り出し策だった。

 その後に登場したのが民主連盟だ。マルクス・レーニン解放学校という、延安からきた野坂参三氏が岡野進という偽名を使い指導していたといわれる。そこで教育された旧日本兵がメンバーだった。彼等は何故か黒い軍服を着用していたので「黒服」と呼ばれていた。この連中は教条的な俄共産主義者で、八路軍と邦人社会の接点を担った。彼らは邦人に対し情け容赦のない仕打ちを行い、邦人の恨みを買っていた。

 21年の1月に、安東市民に深刻な打撃を与える事件が起きた。「五番通事件」だ。国民党地下組織と協力する旧日本軍除隊兵の一団が、1月17日に市場通で八路軍の劉日僑工作班長を殺害した。犯人はお隣の五番通に逃げ込んだのが悲劇の発端だ。五番通4丁目の割烹旅館「みのり」前の路上に死体が転がっていたそうで、「みのり」の経営者や従業員も協和会館に引き立てられた。偶々当善隣協会の古海建一氏が新京から安東に避難していてみのりに滞在中だった。避難民は引き立てられないで済んだそうだ。犯人達がすぐには見つからなかったので呂司令官が憤激して、報復として五番通に居住する日本人家族約500世帯、約2千名の即時立ち退きを命じ、厳しい取調べを行った。この人達はまず協和会館に収容され、更に犯人が逃げ込んだ場所近くの居住者が競馬場に移されて4日間監禁された。厳寒の最中ゆえ幼児や老人などに25名の死者を出したといわれる。そのうえ五番通住民は自分の住居へ戻ることも許されず、住居や家財を全部失った。

 実はこの事件は当時安東の日本人が認識していたよりもっと広がりのある事件だった。年末から年初にかけて、北方に約2百キロ離れた通化においても、旧日本軍除隊兵と国府側機関による八路軍襲撃計画が胎動していた。通化では最初の叛乱予定日が元日だったようだが、準備不足で延期された。次に予定されたのが安東の事件の日と同じ1月17日だ。それも、国府側の都合か軍資金の都合かで  再度延期されて、結局旧正月の2月3日に事件が勃発した。この有名な通化事件はこの種の事件では最大のものだった。

 通化では確証がない被疑者を含む千数百人が処刑或いは虐殺されたといわれるが、このときも八路側には事前に情報が筒抜けになっていたようだ。 この事件は八路正規軍側が、当時のさばっていた朝鮮系自治軍の一派を潰そうとしてその失政を咎めるために起こした勢力争いで、同時に国府側をも炙り出す作戦だったとする見方がある。これと安東の事件には繋がりがあったようだ。安東でもこれに呼応して、同じ時期の年末近くに国民党の機関と、旧日本兵による八路軍攻撃計画が進行中だった。それを察知した八路側の急襲によって多数の関係者が逮捕されたのだ。その一連の追跡が、五番通事件を生んだのだ。これらの事件には常に二重スパイが暗躍した。当協会の飯田忠雄氏は、林飛行部隊を八路軍に仲介した功績で八路軍から一旦は免罪符を得て鳳凰城にいたが、通化事件の関連容疑で 逮捕されて暫く収監されたという。

安東における年末年初の国府側による八路軍襲撃計画; 
12月28日:国民党中央先遣軍の第3師副長李文奇、政治部主任王匯川、参謀長関学慶等が300余名を動員し、安東保安司令部と公安局に潜む特務厖林と宋旭東等と内外呼応して暴動を起こし八路政権を転覆することを企図する。安東公安局が出撃し、関学慶など43名を捕獲する。(八路側記録では逮捕は1月15日に行われたとある)
4月5日から7日まで、3小隊が関学慶などの20名の犯人を処刑する。                                                     
1月17日: 国民党遼寧省党部は安東の軍事指導員程玉琨、汪志博等を派遣し、武装解除された日本軍人300余名を組織して東北野戦安東先遣軍が成立したが、安東省の公安局により検挙されて、 程玉琨、汪志博が逮捕される。
1月下旬になると奉天では八路軍が国府軍の攻勢により撤退を余儀なくされる。もともと八路軍の満洲戦略は遼西・遼東回廊の確保だった。初期の段階では米軍装備を持つ国府軍が圧倒的に優位で、 八路軍はこれと正面から対決するのを避けていた。                                 
2月には本渓湖・宮の原・橋頭方面の戦闘が開始され、毎日安東に負傷兵が送られてきた。

 安東ではこの頃から国府軍の増大する圧力が変化を起こしており、軍営の工場も北方に移転し始めた。私が通っていた靴下工場も年末にかけて北方に移転することになり、私は放免されるものと思ったが、供給処(こんけいすう)と呼ばれる兵站部に転属となった。今度は立派な住込みの身分で、子供とはいえ一応八路軍の人間となった訳である。前述の五番通事件については、八路軍の中で生活していたので知りえなかった。

 ここでちょっと八路軍での生活をご紹介しておこう。入隊した最初の頃は兵卒達と相部屋で寝泊りしていた。彼等は寝る時は丸裸で綿布団に包まる。私が自宅から持参した寝巻きを着ると、風邪を引く因だと寄って集って丸裸にする。将校連中は私が「お稚児さん」にされる危険ありと心配して呉れたのか、玄関脇の個室を与えてくれた。これは私にとって万々歳だった。実は消灯時に或る兵士に付き纏われて閉口していたからだ。日本の天孫降臨の神話の主が本当は中国からはるばる旅をして行ったのだというような、子供にとって俄には信じ難い話を延々と寝物語で語るのだ。内容はともかく、そのねっとり絡み付いてくるような態度が堪らなく嫌だった

 ところで話は変わって、八路軍の居候としての我が任務は部屋の掃除や使い走りだった。被服工場との間を往来して軍服の生地や製品の搬送をした。被服工場といっても、日本人家庭にミシンを沢山並べて日本人の奥様達が働いているのだ。将校のお供をして彼の情婦の家に生地を運んだことがある。愛の小部屋に入れるという又とない機会を得た。そこはむせ返るように濃密な脂粉の香りが漂って、紅い緞子で飾られていた。お目当ての娘が芝居に出てくるような厚化粧で「しな」を作ったり、お目付け役の母親が精一杯のお追従笑いをしたりするのを覚めた目で観察し、人生勉強の初歩を始めたものだ。 

 八路軍の居心地は概して快適で、言葉が通じないと漢字を書いて結構複雑な自己主張をしては彼等に一目も二目も置かせていた。数人の満人の小核(しょうはい)達が部隊に居候しており、よく倉庫荒らしをして外で売捌くという犯罪で、営倉入りになっていた。私は専ら営倉入りの彼等に、食事の差入れをする役回りだった。

 兵站部といっても当時の八路軍は装備が貧弱で、その主体はソ連軍が日本軍から取上げた武器などだった。在庫の管理もなく三八式や九九式の小銃だとか、たまにはどこから伝来してきたのかチェコ銃等が倉庫に雑然と置いてあった。将校の拳銃は紅い房が付いて木製のサックに入ったモーゼル拳銃が主流だった。偶々軽機関銃でも入ろうものなら大騒ぎで、兵站部は街なかにあるにも拘らず、庭で大音響をさせて試射に興じる始末だった。

 部隊での主食は玉蜀黍の粉を練って蒸かした饅頭だ。米の飯を食べたのは5ヶ月余のうち1回か2回で、何かの記念日に部隊で豚を処分して大宴会になった。豚は自分等の排泄物の活用策の一環として、飼っていたものだ。彼等の軍紀はあまり厳しさが感じられず階級章もない世界だったが、さすがに正規軍らしく、一般の市民に対してはいわゆる三大規律・八項注意が徹底しているようで、買い物や民間のサービスにも料金をきちんと払っていた。                 

 3月末から4月末にかけて、安奉線の本渓湖や連京線の奉天の南の遼陽などが、国府軍の手に落ちて、その影響で安東の情勢も厳しさを増してきた。その最たるものは、八路軍の従軍看護婦や男子労役への強制徴用だ。これは邦人社会に数々の悲劇を齎した。その数は男子1万名女子5千名に達し、前線で戦死したり病死したり或いは取り残された家族が生活困難になるなど数々の苦しみを生んだのだ。徴用後安東に帰還したのは約半数に過ぎず、行き先で逃げ出した人も多かったようだ。

 私が居た兵站部は山の手に近い満鉄病院の正門に通ずる戎橋通にあった。一人の若い看護婦徴用者が逃げ出してきて、目の前で追手の兵士に捕まって引き摺られていくのを目撃した。トラックに満載され前線に向う若い日本女性達の一人だ。彼女たちは大和撫子らしく涙を流しながらも、整斉と合唱をして旅立っていった。 「真白き富士の気高さを-----」という一節であったが、今も忘れられない歌である。またこの道を血だらけで呻く傷病兵を載せて、連日担架の列が延々と通る。これも悲惨な光景だった。担架の運び役も概ね日本人徴用者だった。 

 そうこうするうちに、私の所属する兵站部が北方へ移動する日がやってきた。ある若い兵隊が、平素私に辛く当たる男だったのだが、涙を流して別れを告げて去って行った。この兵士は私に向って空砲をぶっ放した男だ。風邪を理由に八路軍の日課である朝の駆け足をサボろうとしたとき、無理やりに引っ張り出そうとしたあげくに威嚇のつもりで撃ったのだ。空砲とはいえ桃色の硬紙を固めた模擬の弾丸で、寝ていた布団に穴が開いて肝を冷やした。ヒヤッとしたのはこの時ばかりでなく、このときの外に2度もあった。将校が拳銃の掃除の最中に暴発し、弾丸が至近距離を通過して目の前が熱くなったのだ。               

 八路軍兵站部をお役ご免になってやっと家族の元に帰れると思ったら、そうは問屋が卸さなかった。日本労農学校というところへぶち込まれてしまった。余程その筋には見込まれていたのかも知れない。この学校は延安の日本人共産党細胞が北満の青年開拓団をいわば引浚って、共産教育を施しながら安東迄南下してきていた。6番通6丁目の割烹旅館『すみれ』を接収し寄宿舎兼学校として使用していた。従って生徒は皆17~8歳の開拓団の若者なので、小学生の私はまたもや態のいい居候であり、教務部付ボーイとして置いて貰った訳だ。この学校は今になって察するに、黒服の民主連盟員を養成するマルクス・レーニン解放学校とは別系統で、相互の連絡も関係もないように思えた。

 7月になると全般的に戦況が更に悪化してきたようで、この日本労農学校の生徒達も徐々に蜜命を帯びて姿を消していく気配が窺われた。この全員が北満からきた筈だと思っていた生徒の中に、Tという顔見知りの地元安東中学の生徒がいた。ある日物陰に呼ばれ彼の素性を口止めされた。彼はスパイとして潜入していたのかもしれない。当時の情勢の油断のできない複雑怪奇な一面を見たような気がしたものだ。

 折しも小学校が「民主小学校」なる呼称で再開されるという情報が流れたので、これ幸いとそれを理由にこの学校から放免して貰った。先様も八路軍からの依頼なので断りきれず受け入れたものの、実際のところ持て余していたに相違ないと思う。そのとき既に兄も解放軍の靴下工場から「解放」されて戻っていて、久し振りに家族7人が揃った。

『私の終戦体験(その2)』(了)


私の終戦体験(その1)

2013-08-15 21:37:46 |  私の終戦体験

本稿は9年前に国際善隣協会フォーラムで行った講演に手を加え、再録したものである。字数が多いので分割し(その1)とした。                        

  何しろ小学校5年から6年生にかけての子供の経験である。やはり視野に限界はある。                                          旧満州には約20年前の対外解放直後に2回、ここ3年で5回足を運んだ。それからいろいろ文献や資料を読み、当時の自分を取り巻く状況を調査した。つまり子供として生きたあの時代を、大人になって追体験したものということになろうか。従って、自分の目で見たことや体験したことが主軸になっているが、読んだり聞いたりしたことで補完し、私が住んでいた旧安東という場所で、終戦から帰国迄に何が起きたかを語ることになる。

 私の一家は終戦の1年2ヵ月後昭和21年10月5日に朝鮮との国境を流れる鴨緑江で漁船に乗り込んだ。3~40隻の船団を組んで荒海を渡り北朝鮮に上陸した。北緯38度線を歩いて越境した。昭和15年末に渡満したときは小学校に上がる直前のことでその際は僅か一昼夜の行程だった。しかし帰国の旅は、船や徒歩、あるいは鉄道などで約40日間にも及んだ。

終戦後の1年有余の期間には、他の地域で邦人が直面したのと共通する状況もあった。ただ安東という場所には、歴史的な経緯からくる特別な事情が あり、地理的要因も加わったので、対ソ連の戦闘地域となった北満と比べると、状況の酷さは遙かにましなものだったように思われる。

安東の歴史的事情とは;

イ)第一に安東は昔から現地人が住んでいた街ではなく、そもそも最初から日本人が作った街だったということである。

ロ)それと工業地帯が市の外れにあったことだ。進駐したソ連兵の主力はそちらに向った。

郊外の2~30キロ離れた大東港の建設で山東苦力が一時は数万人もいた。終戦間際に「物動計画」が破綻して資材の供給が途絶えたために解雇されて、山東に帰郷していたことも幸運だった。つまり  暴徒になる予備軍が居なかったということだ。これらの要因が相俟って、満州の他地域で見られたような大規模な暴民の略奪や虐殺などがなかったものと考えられる。               

終戦当日の状況;

 8月15日は夏休中だった。私は学校に行き校庭の砂場で空中転回の練習をしていた。正午にラジオで重大発表があるというので急いで帰宅する。近所の大人たちが群がっていた。私の母親が顔を上気させて、目を泣き腫らしていたのを目撃する。 

 翌8月16日全校生徒が集められて、校長の訓辞を聞くことになる。広い校庭があるのに、わざわざ校舎の脇の菜園に整列させられた。苦労して作った菜園を踏んでもいいというので、何か大変なことが起きつつあると感じた。

 大人たちはうすうす戦争の雲行きが怪しいと感じてはいたように思うが、敗戦という事実は大方の日本人にとってまさに青天の霹靂だった。ところが、 満人や朝鮮人(ここでははすべて当時の呼び方にならう)の間ではとっくに情報が行き渡っていたようだ。翌日8月16日になると、いつの間に用意して  いたのか満人街には数多く青天白日旗が立てられ、朝鮮人の一団がトラックに太極旗を押し立てて、気勢を上げながら町中を走り回った。我々は突然の事態の急変に対してただ狼狽するだけだった。本当に迂闊な国民だった。我々が特別ぼんやりしていたというより、日本国の体制そのものが満人や朝鮮人から滑稽にみえるような迂闊さを生んでいたという意味である。

私の父は安東省の省公署に勤めていたのだが、昼間から泥酔して帰宅した。朝鮮人をぶった切ると怒鳴って日本刀を持ち出そうとした。家族全員で取り縋って必死に止めた。本当は酒を飲んで悲憤慷慨しておられる状況ではなかったのだ。しかし、突然信仰の対象の大伽藍が音を立てて崩れるのに直面したようなものなので、平均的日本人としては無理もないことだった。この日朝鮮人たちは川向こうの新義州の集会に参加する途中に示威行進をしていたのだ。一応事前に官憲に了解を求めてきたそうである。この期に及んで態々了解を取るというのが、いかにも安東という土地柄を示す話である。      遙か北方の東辺道では朝鮮人が邦人虐殺に走ったという。

 終戦の何ヶ月も前から、満州国崩壊を予期した事件が安東近辺でも起きていたらしい。ただ日本人だけが知らないか、或いは官憲は知っていても報道されなかったのだろう。             

終戦直前の胎動;                   
20年5月:市の郊外各地で安東抗日青年救国会が組織された。
20年6月:安東県大狐山の製油工場でストライキ発生。 
この頃、医療日本人技術者を地方に招いて将来の留用を準備するための首実検の動きあり。                                                                          

 安東にはソ連軍進入と同時に避難民が安奉線の列車で大量に流入してきた。その結果安東の日本人人口はたちまち約2倍の7万人に膨れ上がった。その対応のためまず疎開本部が設けられた。新京から派遣されてきた金沢辰夫氏らが中心になった。国際善隣協会の事務局長の金沢毅氏の父君だ。新京では税務司長をしていた。間もなく終戦になり、安東省の満人首脳を中心として治安維持会が発足した。新京での東北治安維持委員会の設立に伴い、各省や各県でもこれにならった。

 首都の新京では武部総務長官が協和会の三宅中央本部長とともに治安維持会に請われて日本人を代表して委員になった。引続き安東で日本人会が発足し疎開本部は日本人会に吸収されたが、その主目的は流入した避難民の救済事業だった。

終戦前後の動き;                                                                                       
8月12日:長春その他各地から難民の流入が始まる。以降安東を素通りして朝鮮へ向う難民もいたが約3万5千人が滞留して安東の人口は約2倍の7万名に膨れ上がった。満人街(当時の言い方)の規模は30万。難民は一時的に学校・寺院・工場などに仮収容された後に、一般家庭に分宿させる方針だった(これから寒い冬に向うという配慮)。                                                                       8月15日:疎開本部の設立。渡辺省次長、金沢辰夫氏(新京より派遣、元税務司長)。 
8月17日:日本人会発足。
8月18日:安東にて治安維持委員会発足。(委員長:曹承宗前安東省長、顧問:渡辺蘭治前省次長。
8月19日:新京にて東北地方治安維持委員会発足。委員長張慶恵元総理、副委員長蔵式毅参議。従来の満州国政府の政務一切を引き継ぐ。(日本人委員;武部総務長官、三宅協和会中央本部長)。  地方も省、県別に治安維持会を設立することになった。
 
 私の父は50歳で戦時下でも根こそぎ動員を免れたので、我家は一家7人の大家族だった。 市内の治安は当初比較的良く大規模な暴動の発生はなかったが、散発的に強盗事件が発生したので、隣組の協力で近隣ブロックの入り口に、 木製の大扉を設置した。近所で、何か怪しい動きがあると金盥を叩いて撃退する作戦だった。               

ソ連軍の進駐;                                                                                         敗戦のショックに続いて、「ロスケ」(当時のソ連兵の呼び方)がやって来るらしいという噂が街中を駆け巡った。奉天では、ソ連兵が片端から略奪をしたり婦女子に乱暴したりしているという恐ろしい話が聞こえてきた。ソ連軍の先遣部隊は予想より早く8月下旬にはやってきた。入城の日には我々市民も赤旗を持って安東駅前で歓迎行列をした。ソ連兵の隊列は意外に薄汚れていて日本人は吃驚した。若い少年兵も混じっていた。マンドリンと呼ばれていた  自動小銃が物珍しく、軍帽をチョコンと斜めにかぶるのや、白い産毛の目立つ肌だとか、高い鼻などを恐る恐る見物したものだった。満人たちはソ連兵のことを大鼻子(ターピーズ)と呼んで軽蔑していた。

ソ連軍の進駐と関東軍の武装解除; 
8月19日:先遣隊が瀋陽から進駐。
8月21日:第39軍団(バルスコフ中将麾下)の第44旅団、1個大隊入城。(27日?)駐屯司令官カルニューヒン少佐、将校70名・兵130名。安東ホテルを司令部とし、安東高女・安東中学を兵舎にあてた。ソ連軍は山の手に駐屯していた日本軍の守備隊を武装解除し、軍事管制を実施した。この地域の関東軍は岡部通少将指揮下の独立混成第79旅団(約8千名?)が、安東から草河口に展開していた。  三頭浪道の安東飛行場には若干の航空部隊がおり、水豊ダムがある拉古硝に満州国軍の高射砲部隊が駐屯していた。9月中旬に先遣部隊に続いて、本隊である工場施設の撤去部隊約1千名が進駐してきた。安東市内外の各種工場施設や水豊ダムなどの調査を行った。日本人や満人を使役して施設を撤去し貨車に積んで本国に運び始めた。主要施設は満洲軽金属と水豊ダムの発電機等である。  それから複線であった安奉線の安東と鳳凰城間を単線化して、線路を取り外して持ち帰えるということもやった。                  

鎮江山の安東神社が爆破される事件が発生;
9月17日。明らかに9月18日の満州事変の記念日を狙ったものと思われる。しかしこともあろうに日本人が疑われ多数の逮捕者が出た。ソ連兵は街にも頻繁に現れ始め、いろいろな被害が続発した。   ラジオは没収され、時計やカメラなど文明の利器は徴発された。婦女子の暴行などの事件も起きた。邦人女性は坊主頭にして、胸にさらしを巻いて堅くし、顔に鍋墨をつけて変装し身を守った。

 我が家にも突然ソ連兵士が現れて、時計や万年筆などを持っていった。私はソ連兵たちが日本女性を拉致する現場を目撃したことがある。悲鳴を上げジープの中でもがいている女性をロスケが押さえつけていた。夕暮れ時だった。ただ悪名が高かった囚人部隊は安東には来なかったようで、それがまだしも幸運だった。婦女子防衛の為に安東幼稚園にソ連兵用の慰安所が設けられた。建物正面にネオン・サインがつけられた。日本人会の苦肉の策であった。我家の便所の窓からこのネオンが夜な夜な見えていた。生まれて初めて見る悩ましい光景だった。この頃、市の歓楽街に近い三番通にソ連兵相手のキャバレー『安寧飯店』が開業した。  

国府側の動向; 
治安維持会はその政治的立場を迅速かつ明確に表明した。「満州国は中国の領土に編入されて蒋介石政権の支配下となる。ソ連軍の占領は一時的であり、やがて重慶から派遣される国民党の接収委員によって継承される。国府側中央軍の到着迄、ソ連軍と折衝を行ってできるだけ治安を維持する」ということだった。「その名は体を表す」である。                                                             旧満州国の満人首脳たちは、当然情勢をある程度見通して対応策を考えていたようだ。また一部の人は重慶との間に前広に連絡を取っていたようだ。 

当時この治安維持会の立場と存在は別として、国府軍の存在は一般邦人にとって「そのうちやって来る」と言われながらも、最も見え難い部分であった。邦人社会はソ連軍にラヂオなどの通信手段を没収され、正に霧の中を手探りしていた。

 蒋介石はいち早くラヂオ放送を通じて満州の一般日本人の保護を宣言した。これが口伝えに邦人の間に流されて、国府軍待望の機運が醸成されていった。蒋介石の戦略は満州国の遺産を日本の民間人の協力を得て何とか無傷のまま取り込みたいということだったと思われるのだが、これが不安に喘ぐ日本人社会の心を捉えていた。

安東における国民党機関;
9月1日:蒋介石は熊(ユウ)式輝を東北方面管轄主任に任命し、旧東三省を遼寧、遼北、安東、吉林、松江、合江、黒龍江、嫩江、興安九省とハルビン、大連両直轄市に区分し、九省主席と両市市長を任命して公表する。これにより “東北主権”の大儀名分を明らかにした。
9月4日:高惜氷を安東省主席に任命する。(実際には安東には姿を現さない。)
9月10日:国民党遼寧省党部主任委員李光忱は、張鴻逹を安東に派遣し、国民党部--安東県執行委員会を組織し成立させ、張鴻逹は書記長となる。(当時李鳳鳴とか趙少佐とかいう人物が登場するが彼等の偽名であろう。)

共産側・八路軍の動向; 
 ソ連兵の主力は市内から離れた工業地帯のほうに専念し、また主要工場施設や鉄道線路の撤去が進行するにつれて、市内でソ連兵の姿は徐々に少なくなっていった。一方東北人民自治軍は八路軍と呼ばれていたが、実際には9月下旬に安東に進駐してきていた。丁度その日は丁度安東神社の爆破の日と一致する。ソ連軍は終戦直前に締結された国府側との中ソ友好条約を楯に、八路軍の市内侵入を許さなかった。表向き中ソ条約による国府側への配慮を示し、施設撤去の舞台裏を中国側の目に晒したくなかったことや、更には国共の衝突が起きて撤去作業が遅れるのを嫌った為と思われる。

 八路軍には二つの系統があった。地元の潜伏分子が中心となって組織された現地部隊と、華北から進入してきた正規の八路軍だ。これは東北各地において共通した状況だった。乱世の常というか、地元編成の自治軍の中には偽八路軍と呼ばれて中共中央が公認しないような連中も居たし、地域によっては相互間の戦闘すら起こった。安東では地元編成の部隊がまず進出してきました。呂其恩とか孫已泰という人物を中心とする部隊だ。呂其恩は荘河という大連と安東の中間地点にある街の出身で、孫已泰は古くから共産党地下組織で活躍した人物だ。続いて正規の八路軍部隊が山東半島から続々と海を渡って安東に到着した。公安関係は事情に通じた地元出身者が表面に立ち、山東出身者は背後で実権を握る体制を取っていたようだ。

安東における中共軍の体制;
9月下旬:中共側の安東市保安司令部が成立。呂其恩が司令となり、鄒(しゅ)大鵬が政治委員、張奎が参謀長となる。
10月3日:山東東部軍管区渤海軍分区の参謀長王奎先が独立大隊を引率して安東に進駐する。ほどなく安東保安司令部と合体し東満人民自治軍直属の第3支隊となる。王奎先が司令、呂其恩が政治委員となる。 
10月5日:冀熱遼軍管区の第16軍分区・21旅団、第61団、第62団が、鳳城に進駐する。鳳城は中共地区となる。
10月初め:肖華の統一指揮下で山東軍管区の舞台が進駐して体制を整備する。以下略。

『私の終戦体験(その1)』(了)


『2012年問題』関連情報

2013-08-14 17:29:17 | ☆ 『魂』と超常現象

以前に投稿した『2012年問題』(2012-06-22 投稿)に関連した情報である。この2012年問題はスピリチュアリズム(人間の死後も、魂は存続するいう考え方)を前提としている。いわゆる自然科学的なアプローチでこの考え方を補強する情報が発表された。以下はインターネットで発表されたものである。

臨死体験の科学的解明に前進、心停止後に「脳が活発化」 米研究

AFP=時事 8月13日(火)13時1分配信

 

【AFP=時事】心臓まひを起こし死の淵に立った人が時に経験する、まぶしい光などの鮮明な「臨死体験」は、科学的に説明できるかもしれないとする  研究論文が12日、米科学アカデミー紀要(Proceedings of the National Academy of Sciences、PNAS)に掲載された。脳は、血流が停止した後も30秒程度、活動を続けることが分かったという。

 研究を行った米ミシガン大学(University of Michigan)の科学者らは、実験用ラット9匹に麻酔薬を投与して心停止を誘発させ、脳電図を記録した。その結果、心臓が停止してから30秒間にわたり脳の活動が急増し、精神状態が非常に高揚していることが分かった。

 研究に参加した同大学のジョージ・マシャワー(George Mashour)教授(麻酔学・神経外科学)は、「脳の活動レベルが高いことに驚いた」と話す。  「臨死状態では、意識がある状態を示す電気信号の多くが覚醒状態のレベルを上回っていたことが分かった。これは、臨床死の初期段階において、脳が系統立った電気活動を行うことが可能であることを示唆している」。同様の結果は、窒息状態のラットの脳活動にもみられたという。

 論文の主著者、ジモ・ボルジギン(Jimo Borjigin)氏は、「心停止中の酸素の減少、または酸素とブドウ糖の減少によって、意識的過程の特徴である脳活動が刺激される可能性が、この研究で示された。また、心停止を経験した多くの患者が語る臨死体験を説明するための、初めての科学的枠組みが提供できた」と話す。

 心停止から蘇生した患者の約20%が、医師らが臨床死と呼ぶ段階でなんらかの視覚的な経験をしたと報告している。【翻訳編集】 AFPBB News

「急いですぐに帰りなさい」 3歳男児が臨死体験 ドイツ

  • 2010年04月08日 20:51 発信地:ミュンヘン/ドイツ

【4月8日 AFP】ドイツで湖に落ちて死亡したと一度は思われた3歳の男児が、3時間以上経ってから医師の蘇生処置で生き返った後、「天国でひいおばあちゃんに会った」と臨死体験を語った。8日の独日刊紙ビルトが報じた。

 パウル君というファーストネームだけが明らかにされている少年は、ベルリン郊外の祖父母宅の脇にある湖に落ち航空機で病院に救急搬送されたが、蘇生を試みた  医師らはほとんどあきらめかけていた。

 しかし3時間18分後、パウル君の心臓は再び鼓動を始めた。同紙のインタビューに医師の1人は「こんなことは初めてだ。普通、子どもは水中に数分もいたら助かることはない」

 息を吹き返したパウル君は両親にこう語った。「天国でエムミおばあちゃんと会ったよ。おばあちゃんが僕に、急いですぐに帰りなさいって言ったんだ」

 


『2012年問題』関連情報

2013-08-14 16:57:45 | ☆ 『魂』と超常現象

 

 

「急いですぐに帰りなさい」 3歳男児が臨死体験 ドイツ

  • 2010年04月08日 20:51 発信地:ミュンヘン/ドイツ
  • 4月8日 AFP】ドイツで湖に落ちて死亡したと一度は思われた3歳の男児が、3時間以上経ってから医師の蘇生処置で生き返った後、「天国でひいおばあちゃんに会った」と臨死体験を語った。8日の独日刊紙ビルトが報じた。

     パウル君というファーストネームだけが明らかにされている少年は、ベルリン郊外の祖父母宅の脇にある湖に落ち、航空機で病院に救急搬送されたが、蘇生を試みた医師らはほとんどあきらめかけていた。

     しかし3時間18分後、パウル君の心臓は再び鼓動を始めた。同紙のインタビューに医師の1人は「こんなことは初めてだ。普通、子どもは水中に数分もいたら助かることはない」

     息を吹き返したパウル君は両親にこう語った。「天国でエムミおばあちゃんと会ったよ。おばあちゃんが僕に、急いですぐに帰りなさいって言ったんだ