本稿は前編『私の終戦体験(その1)2013-08-15 投稿分の続編である。
国共の争闘の巻き添えとなった邦人社会の受難;
かくて安東には一時的に、二つの公安司令部が存在することになった。一方は治安維持会側つまり国府系で、もう一方は八路側の司令部である。治安維持会は、市の中心の日本人街と満人街の境界地点に陣取っていた。他方で八路軍は満人街の外れの警察学校で表面は鳴りを潜めていたが、着々と勢力を強化中だった。その頂点にソ連軍がいた訳だが、彼等の最大の関心事は工場施設等の運び出しだった。
10月に入ってこの国府と共産両陣営の対立は徐々に発火点を迎えつつあった。そしてそこに否応なく邦人社会が巻き込まれていく。一方中央の首都の新京では10月初めに蒋介石が派遣した東北行営の代表団がソ連軍の総司令部と困難な折衝に入っていた。ソ連軍は12月初めには満州から撤退する約束だったのに、いろいろな口実を設けて何度も撤兵期限を引き延ばした。満州の産業を共同で経営しようなどという「東北経済合作」なる難題を持ち出したりして、のらりくらりと時間稼ぎをしていた。
国府の中央軍が東北に進駐するときの上陸地点をどこにするかという争点があったが、ソ連軍は中ソ友好条約で代替地として大連を自由港とする条項を入れたことを楯にとり、大連への受け入れを拒否した。そして代替地として営口や葫芦島を承諾したが、いろいろ妨害工作を弄して、なかなか国府軍の進駐を実現させなかった。もうひとつのソ連側の代替指定地は安東だったが、他の地点でいざ上陸となると妨害があったことや地勢上戦略的に不利である点などが加わって、(戦闘となると北上するより南下して攻めたほうが良い)その実行に踏み切れなかったようだ。
治安維持会側は10月にかけて、旧警察の勢力を近隣の地区から結集しようとしていた。それに旧日本兵や学生なども勧誘して参加させ「愛国先鋒団」という部隊を組織し、市内の日本人街の中心にある協和会館に駐屯させていた。
ソ連側は工場施設の撤去をほぼ完了しつつあったが、治安維持会が八路軍への対抗上、ソ連軍の保護要請を行ったのに対し実情把握のため下士官を派遣してきた。偶々その時期に旧満州国軍の王光部隊が参加してきた。この王光部隊は隊長が王光という人物で、水豊ダムの高射砲陣地にいた満州国軍の部隊だったが、終戦の日に叛乱を起こして逃亡した。人数は約100名で、警察や除隊兵等の寄せ集めなどと違って正規の訓練を受け、一応武器弾薬を装備した実戦部隊だ。これが治安維持会の「愛国先鋒団」に合流した訳である。
カーキ色の軍服の一団が協和会館の方に進軍していくのを私は目撃したことがある。10月のある霧の深い朝だったが、帽子に青天白日旗のマークをつけているので、国府軍の正規軍が来たのかと思った。これは「愛国先鋒団」に合流する王光部隊だった。
この頃既に日本人会は内部対立によって行き詰まり、改組されていた。当初は旧官僚の大物や民間の長老を中心に組織されていたのが一新された。そして働き盛りの若手の官僚や第二世代の民間人たちにバトンタッチがなされていた。この第二次日本人会は名称を変えて日本人補導事務所となった。その立場はソ連・中共・国府の各勢力から等距離を保ち中立を守るというものだった。ところが第一次日本人会の渉外担当であったY氏や補導事務所の旧協和会の関係者たちが突出し、国府側の機関と活発に連絡を取り合っていた。その人たちは日本人社会を守ろうとする情熱や行動力には富んでいる反面政治的に旗幟鮮明で、しかも国府軍の安東進駐に過度の期待を抱く情勢判断をしていた。そして除隊兵を愛国先鋒団に送り込み、国府側と協力して八路軍への攻撃を画策していた。その立場の表明と行動は補導事務所の公式的方針から逸脱し、また組織の内外の境界線が曖昧だった。それが、後日の悲劇を生む原因になった。
治安維持会は旧満州国軍が合流してきたことを喜ぶ一方で、この王光部隊の身許が割れてソ連軍の武装解除を受けることを恐れていた。治安維持会はこの虎の子の戦力の温存を図るため、一刻の猶予も許せない切羽詰った選択をした。まず王光部隊を安東の西南20キロ郊外の三股流へ移動させることにした。愛国先鋒団は後から追っかけて合流することになった。そこで八路軍迎撃の陣地を構築する意図だった。除隊兵らのいくつかのグループにも従前から声が掛っていた。いろいろなルートを通じ東北行営の責任者熊式輝のお墨付きを示す布帛のペナントが手交されていた。海軍の河崎部隊もY氏らの働きかけによりこの集結に参加した。この河崎部隊は香港から長躯陸路を移動中だった。目的地は朝鮮の鎮海基地だった。その途上で終戦を迎え安東に辿り着いていた。
この頃日本の旧軍隊の兵達はいろいろな行動をとった。大本営の関東軍司令官への訓令や天皇の玉音放送もあったが、おとなしくソ連軍の武装解除を受けてシベリアに送られた兵達ばかりではなかったのである。部隊によっては山に籠り抗戦を続けたり、国共内戦の一方の陣営に積極的に身を投じたりして、自己の存在証明を何かに託そうとした人たちも少なからず居た。一度は死を覚悟して戦線に向っていた若者達は敗戦によって心の寄る辺を失っていた。いわば大地に虚無の裂け目が広がり、真空の時間が襲ってきたのだ。後世になってどうしてそんなことをしたのかと振り返るのは簡単だが、情報が錯綜する中での彼等の行動を冷たく切って捨ててしまうのは、心情において難しいことである。
ところでこうした治安維持会側の動きは、まだ組織化以前の混沌状態にあった訳だが、かなり早い段階で八路側やソ連側に筒抜けになっていたようだ。スパイ活動は彼等のお手の物だった。八路軍東満司令部は国府側の勢力がビルドアップされる前にこれを壊滅するべく、二個師の師団を組織して岫巌、大孤山の2方面から安東の西方に向わせつつあった。
ソ連側は実に老獪だった。河崎部隊は協和会館に集結し2台のトラックに分乗して現場に向ったが、その時そのトラックを運転していたのはなんとロスケだった。河崎隊長等ごく少数が気付き不審を抱いたのだが、下車する際のドサクサに紛れてしまった。そもそもこの部隊が参加した経緯には、日本人会の一部の人達の巧妙な作戦に乗せられて日本人社会の総意による切なる頼みだと信じてしまうような状況があった。
翌10月25日早朝の深い霧の中で、三股流に集結しつつあった反共勢力に対して八路軍が先制攻撃を仕掛けてきた。治安維持会側はまだ戦闘体勢が整わないまま分断され、兵員数が劣勢のうえ戦闘準備も十分でなかった為に、短時間の戦闘で大敗を喫してしまう。そして四散霧消して捕虜になったり、安東市内に逃げ帰ったりしたのである。戦闘には治安維持会側が三百名ぐらい、八路軍側は千数百名余が参加したといわれる。中共側発表では、治安維持会側死傷者数は30名(と意外に少ない)、捕虜は200名だ。河崎部隊は総勢60名弱の内15名が帰ってこなかった。八路軍部隊には旧日本軍兵士が多数いたといわれ、(約300名という)期せずして同胞が相戦う悲劇となったわけである。そうすると一体全体、彼等は何の為に戦ったのであろうか?
当時私はこの事件の詳細は知る由もなかった。河崎隊長から事件の経緯はもとより、彼の帰国までの一部始終をヒアリングして再現したものだ。ただ当時としては、後日小学校の体育担当の河内という先生が、郊外の八路軍との戦闘に参加して戦死したらしいとの噂を聞いた。河内先生は海軍出身で無口な軍人タイプの人だった。相撲で生徒が後退すると竹刀を持って尻を容赦なく叩くというような敢闘精神で固まった怖い先生だった。戦闘の際は八路軍に真正面から突込んで蜂の巣のように銃弾を浴びて戦死したと伝えられていた。もしその銃弾が八路軍の旧日本兵が放ったものだったとしたら、この河内先生の死は何に殉じたものだったのだろう。
当時のこの武装蜂起計画は邦人社会にはかなり漏れていたらしく、安東中学の生徒の志願が多くそれを断るのに苦労した河崎氏は語っていた。河内先生は海軍出身だったよしみで、河崎部隊と行動を共にすることが許されたそうだ。
この戦闘は三股流という場所で行われたので、「三股流事件」と呼ばれている。私は小説としてこの事件のことを書いた。戦闘場面と川崎部隊長に関する部分は実録である。
満州・安東戦後物語 『三股流の霧』文芸書房2009年11月刊
この戦闘を契機にして11月2日に安東に八路軍政府が成立することになった。この頃からソ連軍に代わり、八路軍兵士の菜っ葉色の軍服が町に溢れるようになった。ソ連軍司令部は一応翌22年2月まで形ばかり存続するが、その後朝鮮に引揚げて完全に姿を消すことになる。
八路軍政府の成立;
11月2日:東満自治軍第3支隊はソ連軍の協力の下に“愛国先峰団”、旧憲兵団、旧警察局などの武装解除を行い、治安維持会は解体される。警察局と东坎子監獄を接収管理し、旧政権を接収する。 「安東省民主政府」は正式に成立を宣言、高崇民(鳳城県出身)が主席に就任し、劉瀾波(岫厳県出身)が副主席に就任する。同時に安東省公安局が成立し呂其恩(荘河県出身)が局長、孫已泰が副局長に就任する。
11月5日:「安東市民主政府」が成立する。呂其恩が市長、張雪軒(寛甸県出身)が副市長に就任する。市政府は秘書、民政、財政、実業、教育の5部所を設立する。
八路軍施政下の状況;
八路軍が政権についてからも地下に潜った国府側機関と一部邦人筋が呼応し連携して、八路の政権を転覆しようとする暗闘が続いた。国府側に協力する邦人筋の思惑は、やがて中央軍が入城してくることを期待して中央軍を迎える際に邦人社会に有利な状況を作りたいということにあった。また一方には、政権に就いた八路軍が入城当初とは態度を一変させ日本人社会に厳しい仕打ちをし始めた事情があった為とも言える。
八路軍公安局は11月の半ばから旧時代の官民の要人を逮捕して、単なる政治ショウともいえる人民裁判にかけ次々と処刑した。また精算運動と称する財産の没収活動を行った。担(たん)白(ぱい)運動という彼等独特な「旧悪摘発」のプレッシャーをかけたりした。こういう一連の動きが益々日本人の反発を呼ぶことになった。
私自身の体験としては、日本人戦犯の引き回しを市内の目抜き通りで目撃したことがある。厳寒のなかを、馬車に引かせた大車(たあちょ)の車上で、白いシャツ姿がまるで死装束そのもので、後ろ手に縛られて居た。白いプラカードに墨で黒々と罪状などが大書してあった。近所に居た警察官が銃殺され、その亡骸を隣組で引き取りに行ったこともあった。
特に12月10日、旧安東省長の曹承宗氏と、次長の渡辺蘭治氏が市内を引き回された末、鴨緑江岸の処刑場で惨殺された。現場には邦人の目撃者もいてその立派な死に向かう態度と殺戮方法の惨たらしさが伝えられ、邦人社会に大きな衝撃を与えた。
八路軍による処刑;
12月17日:小松省総務科長、下西警防科長、後藤市長、牛丸地方法院長、吉村監察官、小林教学官、千葉特高科長,越知鉄路特高科長、警察官多数が銃殺された。 21年にも:村上税関長、東黄署長、税捐局長、浜崎巌元電業支店長、伊藤牡丹江木材社長らが、民衆裁判に掛けられて銃殺された。戦犯容疑者として収監された者は、約2,500名、処刑者は約300名といわれている。
その一方で八路軍によって医療関係や産業関係の技術者の徴用が行われた。私の父は省公署に勤務していたが、下級官吏だったので逮捕は免れた。その代わりに建築の設計技師として八路軍に徴用されることになった。その関係で兄が軍営のタバコ工場に、私が軍営の靴下工場に下働きとして通うことになった。父親の給料が家計を賄うには足りないのでそれを補填する意味か、案外子供も人質として預かるということだったのかも知れない。父親の勤務先は地元編成の自治軍ではなく山東から来た正規軍で、安東高女の校舎に駐屯していた。
邦人社会が最も恐れていた公安関係は地元編成の自治軍の担当だった。大和小学校、安東警察署、郊外にあった東坎子刑務所、その後の民主連盟の屯所などがその拠点だった。
日本人補導事務所は八路軍の指導で、日本民衆解放同盟と称する俄共産主義者の組織と合体させられた。この俄共産主義者は「赤かぶ」あるいは「赤大根」といわれ、赤いのは上辺だけで正体は国民党の内通者だった。この組織は12月13日に一網打尽に逮捕される破目になる。結局この八路軍の指導は、国民党内通者の炙り出し策だった。
その後に登場したのが民主連盟だ。マルクス・レーニン解放学校という、延安からきた野坂参三氏が岡野進という偽名を使い指導していたといわれる。そこで教育された旧日本兵がメンバーだった。彼等は何故か黒い軍服を着用していたので「黒服」と呼ばれていた。この連中は教条的な俄共産主義者で、八路軍と邦人社会の接点を担った。彼らは邦人に対し情け容赦のない仕打ちを行い、邦人の恨みを買っていた。
21年の1月に、安東市民に深刻な打撃を与える事件が起きた。「五番通事件」だ。国民党地下組織と協力する旧日本軍除隊兵の一団が、1月17日に市場通で八路軍の劉日僑工作班長を殺害した。犯人はお隣の五番通に逃げ込んだのが悲劇の発端だ。五番通4丁目の割烹旅館「みのり」前の路上に死体が転がっていたそうで、「みのり」の経営者や従業員も協和会館に引き立てられた。偶々当善隣協会の古海建一氏が新京から安東に避難していてみのりに滞在中だった。避難民は引き立てられないで済んだそうだ。犯人達がすぐには見つからなかったので呂司令官が憤激して、報復として五番通に居住する日本人家族約500世帯、約2千名の即時立ち退きを命じ、厳しい取調べを行った。この人達はまず協和会館に収容され、更に犯人が逃げ込んだ場所近くの居住者が競馬場に移されて4日間監禁された。厳寒の最中ゆえ幼児や老人などに25名の死者を出したといわれる。そのうえ五番通住民は自分の住居へ戻ることも許されず、住居や家財を全部失った。
実はこの事件は当時安東の日本人が認識していたよりもっと広がりのある事件だった。年末から年初にかけて、北方に約2百キロ離れた通化においても、旧日本軍除隊兵と国府側機関による八路軍襲撃計画が胎動していた。通化では最初の叛乱予定日が元日だったようだが、準備不足で延期された。次に予定されたのが安東の事件の日と同じ1月17日だ。それも、国府側の都合か軍資金の都合かで 再度延期されて、結局旧正月の2月3日に事件が勃発した。この有名な通化事件はこの種の事件では最大のものだった。
通化では確証がない被疑者を含む千数百人が処刑或いは虐殺されたといわれるが、このときも八路側には事前に情報が筒抜けになっていたようだ。 この事件は八路正規軍側が、当時のさばっていた朝鮮系自治軍の一派を潰そうとしてその失政を咎めるために起こした勢力争いで、同時に国府側をも炙り出す作戦だったとする見方がある。これと安東の事件には繋がりがあったようだ。安東でもこれに呼応して、同じ時期の年末近くに国民党の機関と、旧日本兵による八路軍攻撃計画が進行中だった。それを察知した八路側の急襲によって多数の関係者が逮捕されたのだ。その一連の追跡が、五番通事件を生んだのだ。これらの事件には常に二重スパイが暗躍した。当協会の飯田忠雄氏は、林飛行部隊を八路軍に仲介した功績で八路軍から一旦は免罪符を得て鳳凰城にいたが、通化事件の関連容疑で 逮捕されて暫く収監されたという。
安東における年末年初の国府側による八路軍襲撃計画;
12月28日:国民党中央先遣軍の第3師副長李文奇、政治部主任王匯川、参謀長関学慶等が300余名を動員し、安東保安司令部と公安局に潜む特務厖林と宋旭東等と内外呼応して暴動を起こし八路政権を転覆することを企図する。安東公安局が出撃し、関学慶など43名を捕獲する。(八路側記録では逮捕は1月15日に行われたとある)
4月5日から7日まで、3小隊が関学慶などの20名の犯人を処刑する。
1月17日: 国民党遼寧省党部は安東の軍事指導員程玉琨、汪志博等を派遣し、武装解除された日本軍人300余名を組織して東北野戦安東先遣軍が成立したが、安東省の公安局により検挙されて、 程玉琨、汪志博が逮捕される。
1月下旬になると奉天では八路軍が国府軍の攻勢により撤退を余儀なくされる。もともと八路軍の満洲戦略は遼西・遼東回廊の確保だった。初期の段階では米軍装備を持つ国府軍が圧倒的に優位で、 八路軍はこれと正面から対決するのを避けていた。
2月には本渓湖・宮の原・橋頭方面の戦闘が開始され、毎日安東に負傷兵が送られてきた。
安東ではこの頃から国府軍の増大する圧力が変化を起こしており、軍営の工場も北方に移転し始めた。私が通っていた靴下工場も年末にかけて北方に移転することになり、私は放免されるものと思ったが、供給処(こんけいすう)と呼ばれる兵站部に転属となった。今度は立派な住込みの身分で、子供とはいえ一応八路軍の人間となった訳である。前述の五番通事件については、八路軍の中で生活していたので知りえなかった。
ここでちょっと八路軍での生活をご紹介しておこう。入隊した最初の頃は兵卒達と相部屋で寝泊りしていた。彼等は寝る時は丸裸で綿布団に包まる。私が自宅から持参した寝巻きを着ると、風邪を引く因だと寄って集って丸裸にする。将校連中は私が「お稚児さん」にされる危険ありと心配して呉れたのか、玄関脇の個室を与えてくれた。これは私にとって万々歳だった。実は消灯時に或る兵士に付き纏われて閉口していたからだ。日本の天孫降臨の神話の主が本当は中国からはるばる旅をして行ったのだというような、子供にとって俄には信じ難い話を延々と寝物語で語るのだ。内容はともかく、そのねっとり絡み付いてくるような態度が堪らなく嫌だった。
ところで話は変わって、八路軍の居候としての我が任務は部屋の掃除や使い走りだった。被服工場との間を往来して軍服の生地や製品の搬送をした。被服工場といっても、日本人家庭にミシンを沢山並べて日本人の奥様達が働いているのだ。将校のお供をして彼の情婦の家に生地を運んだことがある。愛の小部屋に入れるという又とない機会を得た。そこはむせ返るように濃密な脂粉の香りが漂って、紅い緞子で飾られていた。お目当ての娘が芝居に出てくるような厚化粧で「しな」を作ったり、お目付け役の母親が精一杯のお追従笑いをしたりするのを覚めた目で観察し、人生勉強の初歩を始めたものだ。
八路軍の居心地は概して快適で、言葉が通じないと漢字を書いて結構複雑な自己主張をしては彼等に一目も二目も置かせていた。数人の満人の小核(しょうはい)達が部隊に居候しており、よく倉庫荒らしをして外で売捌くという犯罪で、営倉入りになっていた。私は専ら営倉入りの彼等に、食事の差入れをする役回りだった。
兵站部といっても当時の八路軍は装備が貧弱で、その主体はソ連軍が日本軍から取上げた武器などだった。在庫の管理もなく三八式や九九式の小銃だとか、たまにはどこから伝来してきたのかチェコ銃等が倉庫に雑然と置いてあった。将校の拳銃は紅い房が付いて木製のサックに入ったモーゼル拳銃が主流だった。偶々軽機関銃でも入ろうものなら大騒ぎで、兵站部は街なかにあるにも拘らず、庭で大音響をさせて試射に興じる始末だった。
部隊での主食は玉蜀黍の粉を練って蒸かした饅頭だ。米の飯を食べたのは5ヶ月余のうち1回か2回で、何かの記念日に部隊で豚を処分して大宴会になった。豚は自分等の排泄物の活用策の一環として、飼っていたものだ。彼等の軍紀はあまり厳しさが感じられず階級章もない世界だったが、さすがに正規軍らしく、一般の市民に対してはいわゆる三大規律・八項注意が徹底しているようで、買い物や民間のサービスにも料金をきちんと払っていた。
3月末から4月末にかけて、安奉線の本渓湖や連京線の奉天の南の遼陽などが、国府軍の手に落ちて、その影響で安東の情勢も厳しさを増してきた。その最たるものは、八路軍の従軍看護婦や男子労役への強制徴用だ。これは邦人社会に数々の悲劇を齎した。その数は男子1万名女子5千名に達し、前線で戦死したり病死したり或いは取り残された家族が生活困難になるなど数々の苦しみを生んだのだ。徴用後安東に帰還したのは約半数に過ぎず、行き先で逃げ出した人も多かったようだ。
私が居た兵站部は山の手に近い満鉄病院の正門に通ずる戎橋通にあった。一人の若い看護婦徴用者が逃げ出してきて、目の前で追手の兵士に捕まって引き摺られていくのを目撃した。トラックに満載され前線に向う若い日本女性達の一人だ。彼女たちは大和撫子らしく涙を流しながらも、整斉と合唱をして旅立っていった。 「真白き富士の気高さを-----」という一節であったが、今も忘れられない歌である。またこの道を血だらけで呻く傷病兵を載せて、連日担架の列が延々と通る。これも悲惨な光景だった。担架の運び役も概ね日本人徴用者だった。
そうこうするうちに、私の所属する兵站部が北方へ移動する日がやってきた。ある若い兵隊が、平素私に辛く当たる男だったのだが、涙を流して別れを告げて去って行った。この兵士は私に向って空砲をぶっ放した男だ。風邪を理由に八路軍の日課である朝の駆け足をサボろうとしたとき、無理やりに引っ張り出そうとしたあげくに威嚇のつもりで撃ったのだ。空砲とはいえ桃色の硬紙を固めた模擬の弾丸で、寝ていた布団に穴が開いて肝を冷やした。ヒヤッとしたのはこの時ばかりでなく、このときの外に2度もあった。将校が拳銃の掃除の最中に暴発し、弾丸が至近距離を通過して目の前が熱くなったのだ。
八路軍兵站部をお役ご免になってやっと家族の元に帰れると思ったら、そうは問屋が卸さなかった。日本労農学校というところへぶち込まれてしまった。余程その筋には見込まれていたのかも知れない。この学校は延安の日本人共産党細胞が北満の青年開拓団をいわば引浚って、共産教育を施しながら安東迄南下してきていた。6番通6丁目の割烹旅館『すみれ』を接収し寄宿舎兼学校として使用していた。従って生徒は皆17~8歳の開拓団の若者なので、小学生の私はまたもや態のいい居候であり、教務部付ボーイとして置いて貰った訳だ。この学校は今になって察するに、黒服の民主連盟員を養成するマルクス・レーニン解放学校とは別系統で、相互の連絡も関係もないように思えた。
7月になると全般的に戦況が更に悪化してきたようで、この日本労農学校の生徒達も徐々に蜜命を帯びて姿を消していく気配が窺われた。この全員が北満からきた筈だと思っていた生徒の中に、Tという顔見知りの地元安東中学の生徒がいた。ある日物陰に呼ばれ彼の素性を口止めされた。彼はスパイとして潜入していたのかもしれない。当時の情勢の油断のできない複雑怪奇な一面を見たような気がしたものだ。
折しも小学校が「民主小学校」なる呼称で再開されるという情報が流れたので、これ幸いとそれを理由にこの学校から放免して貰った。先様も八路軍からの依頼なので断りきれず受け入れたものの、実際のところ持て余していたに相違ないと思う。そのとき既に兄も解放軍の靴下工場から「解放」されて戻っていて、久し振りに家族7人が揃った。
『私の終戦体験(その2)』(了)