週末に親族行事がありました。長いお経を聞きながら、
私は一切皆空についてを考えていました。
「一切皆空」
仏教の言葉です。
この世の全てのことには実体がない。空っぽだってこと。
でももう少し深い意味がある。
途中は形があるけど変体すれば実体はなくなる。だから「無」ではなくて空っぽ。
「一切皆空」の一切は
「因+縁=果」ということ。
個体「因」に様々な環境の影響「縁」が加わり結果「果」の形が出来上がる。
でも「縁」の部分は特に変化が激しいために「果」の形は消滅と変化を繰り返す。
世の中そうして一瞬の形あるものが存在している。
私達が意識するのはこの一瞬の形がある時のみ。空になると存在を意識しなくなる。
あくまで私の解釈ですので😅
例えば最初は家族として形を成していても消滅すれば空となる。
そしてまた違う形を成すべく、水滴のようにひっついたり別れたり…
そんなもんよね😁
人間のすることなんて自分勝手で衝動的で実体がないのだ。
私はこの人間の無常をなんとなく受け入れているつもりです。
流動的に生きることがあたりまえに感じているから人生の選択時に流されようとしてしまう。どっちでもいいやと執着がないのだ。それが自分にどんな「果」をもたらすのかは想像はいていない。
どうせ一瞬の形だし、自分で責任を持てるなら「なるようになる」は思いもよらないことが起こって退屈しないからww
なんで「一切皆空」なんだ?
なのかというと前回の虚無感をもう一度考えなくなったから。
虚無感の辛さは例えば…
幸せを実感しようとするがサラサラと流れて虚無感に苛まれるなど。
これは真理かもしれないね。
幸せに実体などないのだから。
自分の心がそのことを認めれば、幸せ自体も意味を成さないことに気づいてしまう。悲しみも同様に。
真理を求めるからそれぞれの経験によって真理が変化してしまうことに似ている。
うーん
難しくて混乱してきてしまった😅
こんな風に考えている私の頭の中も空っぽと思考を繰り返しているから、その時々で「果」が変わっているみたい。
虚無感に対し私が出来ることは「縁」の部分。
「果」は形を成さなくても暖かく感じられるような関わりが出来たら私は幸せだ。