もりおか自由時間 ogasawarahiromi

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塩の道石碑

2016年06月15日 | Weblog

   野田村の海岸で焚かれた塩は、盛岡近在に多く運ばれ、穀物と交換されていました。この塩は、牛の背につけて運ばれたことを残す石碑が寺町通りに置かれています。長くて厳しい東北の冬を越すには、保存食に頼しか術がなく、当時の人々にとって、塩は野田塩ならずとも生活に欠くことのできない貴重なものでした。その命の塩を運ぶ塩の道は、牛が通るだけの狭い厳しい山道ながらも、海と山を結ぶ切っても切れない人の道でもあったようです。


 の2画は北いわて広域観光ポータルサイトからの抜粋写真です。
 

 


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6 コメント

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塩の道 (hibochan)
2016-06-15 07:00:51
やはり塩は 生きてくための必需品
この道は 各地に見られますが険しい道のよう
苦労がしのばれます
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hibochan 様 (hiro)
2016-06-15 17:05:29
やっぱり牛の力がで山越えしたのでしょうね。
馬なら早いような気がしますが、無理?
今ならトラックで日帰りできそうですが、昔の人は何日もかけて、盛岡に来たのでしょうね。
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塩の道 (快談爺)
2016-06-15 20:24:52
当方も塩の産地がありまして、吉良公の率いる塩田と赤穂の塩の争いが有って、浅野殿が殿中で刃傷沙汰を起こし三州の塩と赤穂の塩の争いが有ったが塩は必需品でしたが内陸部に塩の道が有り、三州塩は三河湾から矢作川を舟を頼り運び足助の宿から馬で信州塩尻まで運んだ中馬街道と言った、日本列島は細長く日本海からは北塩千国街道を牛を使って塩の道を使ったようです、南塩は太平洋から、中馬街道と言い馬で運んだそうです、北塩は牛を使ったらしい千国街道は雪道の為牛の方が強いからだそうです。
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快談爺 様 (hiro)
2016-06-16 10:33:05
そう言えば、吉良家と浅野家は塩を巡っての因縁があったのでした。
その当時は良質の塩は高値で取引された思いますね。
今は化学塩、岩塩が余るくらい出回っています。
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塩の道? (比呂)
2016-06-17 19:23:02
塩のあり難さを今は当然の如く?科学塩・岩塩等もよう理解できてぬ自分が情けなく・・・九州では塩の道などの話は聞いた事も無く・・我が幼少時代に住んでた遠浅の海岸にて塩を取る塩田があったのが記憶に残ってる程度で大変な時代があったことを思い知らされて・・・
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比呂 様 (hiro)
2016-06-18 13:59:55
そうですね! 普段は塩などを考えることもないのです。
塩分摂り過ぎとかで、私たちの体には毒扱いされています。
敵に塩を送る、戦いにしても塩を絶つのは武士に非ず。
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