はなす手★つなぐ手

障害のある家族を支えるのは誰・・・伝えたい想い

小さなボタンと大きな花マル

2018年03月21日 13時39分24秒 | Weblog
これは2006年に我が家の実話をもとに書いたものです。




          ★          ★

今、LDやADHD、アスペルガー等、発達障害を持つ子供達が16人に1人、1クラスに 1~2名はいると言われています。

目に見えない障害といわれている通り、教育現場では 課題のひとつとなっています。

昔からもいてたであろうこの子達が、なぜ今あえて障害と いわれるようになったのか・・・?
昔にあって今に失われつつあるもの・・・

彼らはそんな何かを教えにきてくれた子達だと感じています。
  
          



      小さなボタンと大きな花マル




 ドッドッドッドッ  息子の早(そう)が帰ってきた。
    (あっ・・あいつ又なんかしでかしてきたな)

私は、その重い足音を聞きネギをきざむ手を止めた。

「おかえり!うがいと手洗いしーや。もうすぐご飯できるし」
チラリと私の目を見た早は、慌てて手を洗い自分の部屋に 消えていった。

こういう日は決まって誰かから電話がかかってくる。

案の定その日も、夜の八時を過ぎた頃、和也君のお母さんから 電話がかかってきた。

「もしもし!春田ですけど、今日夕方公園でお宅の早君がウチの和也の自転車を乗り回して おまけに怪我までさせられたんです!」

「あ・・・申し訳ありません。すぐに息子を連れて謝りに行きますので。怪我は大丈夫でしょうか?本当に申し訳ありません」

 私は早を呼び、大声で怒鳴った。
「またかいな!今日はいったい何したんよ!何回言うたらわかるの?悪い事ばっかりして!なんで?言うてみ!」

早は、うつむいたまま何も言わないので、私の声は更に大きくなるのが常でした。


 我が家は六人家族。食品会社に勤める夫と四人の子供達。
姉(美沙)と妹(貴子)(香里)の間に息子の早がいました。
早は小さい頃から四人の中でも一番手のかかる子でした。

幼稚園に入園した三日目には園長先生から、
「今日廊下に 立たせました」
とお叱りを受ける程じっとしていない言う事を聞かない子。

小学校に入学してすぐには、校庭内のジャングルジムから 落ちて鼻を骨折。入院、手術。
 
二年生の時には、一輪車に乗っていて転倒し腕を複雑骨折 入院、手術。

大好きな外遊びには一目散に飛んでいき、友達の前では 派手なパフォーマンスを繰り返し皆を笑わせることが
大好きだったので、いつも調子に乗りすぎてそのツケは 生傷という形で絶えることはありませんでした。

しかしこの頃は私も夫も、男の子は元気が一番!とまだ 笑って過ごしていた時期でした。

三、四年生にもなってくると下級生もでき周りのお友達も 落ち着きが出てきて、そろそろウチの子も・・
と思っていたのだが、早はますます活発になり悪ふざけも増え友達との トラブルが多くなっていったのでした。
 
勉強は体育と音楽だけが良くてあとはさっぱり・・ 宿題も机に向かわせるまでが毎日一苦労でした。

集中力に欠け、先生からは毎日注意されていた早だったが
注意されたその先から又同じ事を繰り返していたのでクラスでも手のかかる子だったようです。

連絡帳にはいつも嬉しくない報告が書かれてあり、決まって [家でもしっかりご指導ください]とある。

電話がかかってくる時は、人に怪我をさせてしまった時と 物を壊したしまった時。

担任から電話がなければ直接保護者からすごい剣幕でかかってくる。
早だけじゃなく数名で問題があったと聞いたときは、その (だけじゃなく)にどれほど救われた事か・・・。

この頃には、月一回の参観日と懇談会は私にとって恐怖の 視線日だった
美沙と貴子のクラスがあった事は不幸中の幸いだった。

たしか・・一年生の時の担任も二年生の時の担任も
「早君はやんちゃですが、お友達も多く優しい心も持っています。高学年になる頃には落ち着きもでてきて勉強もがんばっていると思います」
そう言ってくれてたよな・・・
そんな言葉を思い出しながら、今その高学年になろうとしている早と照らし合わせ、私は深くため息をつくのでした。



謝りに行った帰り道。

「なぁ早、もうあんたもこんな事ばっかり嫌やろ お母さんも嫌やわ。 
スイマセンいうて謝って これから仲良くしてね と言うてくれる親なら良いけど
今日みたいに一方的に話もさせてくれんと、早が悪い悪い
言われたら、お母さんだんだん腹立ってきて、
ドア蹴飛ばして帰ってきたくなるわ!せやけどそれをしたら
負けやろ・・お母さん全部が全部、早が悪いなんて
思ってへんで。一緒に謝りにいく訳は、あんたにも何か
言いたいことがあればちゃんと言わせてあげたいと思って
行くんや。 まぁ今日はちょっと例外やったけどな。
あんな大人もおるっていう事や!ちょっとは勉強しーや」


本当は、悪い事をした早を叱らなければいけないとは
分かっているのですが、いつもより落ち込んでいる早を
見ていると、そんな言葉で励ましながら帰っていくのでした。

       
                ★

 早。六年生。
新しく赴任してきた女の先生が担任となった。
家庭訪問は無理を言って、最後の日の最後の時間に して頂き、たっぷり時間をとってもらった。

息子のためならPTA。PTAの略が何なのかさえよく分かって
いない私でしたが、自分に気合いを入れる為に心の中で
この言葉を繰り返していました。

「こんにちわ。田中です」

「先生!お待ちしていました。どうぞどうぞ中へ入って ください」

「おじゃまします」

「先生!早は無事ですか?」

「は?無事?」

「あっいえ・・早の周りの子供達は無事ですか?」

「お母さん、どうしたんですか?」


私は、さっきまで、あれも言おうこれも言おうと考えていた事が、
先生を前にして何から話せばいいのか分からなくなっていました。


「早のこと、他の先生方から、もうすでに聞いてもらってると
思うのですが・・とにかく手のかかる子なんです。遊びにかけては天才なんですが、勉強はからっきしダメ。最近は反抗期も重なってか、私の言うことは聞きません。もう高学年ですし 本当にこれから大丈夫かといつも心配で・・・」


「お母さん、そんなに心配しないで下さい。早君は、まぁ ちょっとヤンチャですけど、そんな子クラスにたくさんいますよ!
 私は中央小学校から転任してきたのですが、 その小学校は数年前とても荒れていたんです。
いわゆる 学級崩壊っていうやつです。でも私が担任となったそのクラスは見事に変わりましたよ。安心してください。
お母さんが大事な話があるので・・と言われていたので こちらも心配していたんですが、そんな事だったんですね」


私は(そんな事)と言われて、まだ続きを話さなくては・・と思ったが、先生の(安心してください)と言う一言に すっかり安心してしまい、ベテランのこの先生に任せれば もう大丈夫だと思ったのだった。


 そして、長い夏休みも無事に終わりニ学期に入った頃
忘れ物が多いと注意されるようになった。

給食のエプロン 絵の具 習字 たて笛etcは常習犯
自分の興味のある物は、しっかり覚えて帰ってくるのだが、
それ以外はスッカラカンだった。

水筒や体操服も、靴を履いているうちに玄関に置き忘れて
しまい、たとえ持っていっても、今度は学校のロッカーに
入れ、入れたことを忘れてしまうという始末・・

 ある日、先生より
「今日で4回連続、習字の用意を忘れています!お家に ありますか!」 と、あきれ声で連絡があった。
 
「え~?4回も忘れているんですか?本人は何も言わないので 知りませんでした。明日持たせます。申し訳ありません」

 私はやれやれ・・本当に情けない・・とため息をついてから
ふと、息子はその4回の習字の時間中いったい何をしていたのだろうかと気になりだしたのだった。
息子はもうすでにランドセルを放りだして家には いなかったので、私はその足で習字の道具を持って 学校へ走った。


「先生。いつもすみません。これ持ってきました。 また忘れるといけないので。
あの・・・ところで 息子は4回もの習字の時間、何をしていたのでしょうか・・」

「あ~1回目は貸しましたけど、2回目からは忘れた罰として
他のプリントをさせていました。何回も言ったんですけどね」

私は、その光景を思い描きながら、少し悲しくなってきて

「先生、できれば連絡帳に書いて頂けませんか? 私毎日、息子の連絡帳には目を通しています。
忘れ物が書かれてあれば絶対に持たせますから」

すると担任は怪訝な顔をして

「え~、お母さん。早君はもう六年生ですよ! 自立させるためにも、そんな事は出来ません」

「自立することが大切なのはよく分かります。でも そのために、早がボーと何時間も授業を受けられずに いた事を考えると・・・
一行でいいんです。一行でいいので お願いできませんか・・・」

私は担任からの意外な返答に、たった一行をお願いしている自分は本当に親バカなのかと自問自答しながら
帰っていったのだった。


 そしてその日は突然やってきた。

                 ★


ある朝、何度起こしても早が起きてこなかったのだ。
朝支度を終え、ゆっくりテレビを見ていた美沙や貴子たちに
先に行くように伝え、私は早を再度起こしに行った。

「遅刻やで、ち・こ・く!」

「お腹痛い・・」

「え?熱ないやん。どうしたん」

私は数日前に見ていた新聞の記事を思い出していた。 (不登校の始まりはお腹が痛い・・から)と。
まさか?いじめ?ありえないありえない。と不安を 打ち消すかのように早の布団をはがし、
大声で 早く行きなさい!と叱ったのだった。

早はトイレへ駆け込んだので、本当に下痢でもしているのだろうか・・・と気になったのだが、ほどなくそれは
駆け込んだのではなく、逃げ込んでいたのだと分かった。

やっと出てきた早に、私は制服を持って待ち構えていた。 すると今度はテーブルを挟んで追っかけあいが 始まった。

「学校へ行きなさい!」

「嫌や。しんどい」

「嘘ついたらあかん」

「嘘ちゃう」

「ホンマのこと言いなさい!何で行きたくないの?」

「先生が大嫌いなんや!学校の先生みんな嫌いやねん!」

「え・・・」

「いっつもオレばっかり怒られるねん、みんなの前で 服とか髪の毛とか引っ張られて、オレばっかり 怒られるねん!」


私は思ってもみなかった早の言葉に、その場に立ちすくんでしまいました。涙をうっすらと浮かべて真顔で言ったその言葉は
ウソをついてるとは思えなかったのです。

「休み・・」

そう言うと早はホッとした表情を見せました。
その姿に何かただならぬものを感じたのでした。

早はそれから度々、遅刻や欠席をするようになりました。
学期末懇談の日が近づいていたので、私はこの日に
勇気をだして話をしようと決めていました。


 懇談の日

「あの・・実は最近ちょくちょく休んでいるのは病気ではないんです。不登校のはじまりではないかと・・」

「え~!?早君に限ってそんなことは無いですよ」

私は担任からいきなり笑って否定されたことで、そのいきさつを話すことが出来なくなってしまいました
そして、この日を待っていたかのように担任は早口で話始めました

「今日は、お母さんにしっかり話しておきたい事があります。 今学期の通知表、算数に1をつけました。
授業態度もよくないですし、放課後に残して補習をしようと言っても逃げていません。
テストは5分もたたないうちに裏返して落書きしています。 ハッキリ言って、もう私はこれ以上教えられません!
教師の私が言うのも何なんですが、塾にでも行かせはったら どうですか?
それとですね、この前、体育の授業でドッチボールをした時のことなんですが、早君がルールを守らずにいたので見学させたんですよ。そしたらそれに腹をたてたのか、休み時間に運動場の砂の上に(田中死ね)と大きく私の名前を書いていたんですよ!後で生徒に聞いた話ですが、教室の机にも彫刻等で (田中死ね)と彫っていたらしいですわ。 それとですねーーー」


担任の感情が高ぶっていくのを私は感じていた。
情けない、申し訳ないという気持ちを通り越して腹立たしさと共に、早は本当にこの先生のことが大嫌いなんだと言う事が、
この時ハッキリと分かった。


 家に帰っても私の気持ちはおさまらなかった。
算数に1がついた事ではない。早が担任から問題児扱い されている事が許せなかったのだ。


 その晩、私は元教職員で校長をしていた叔父の良夫に会いに行き、事の全てを話した。


「おじさん!くやしいー。どうしていいか分からない。 おじさん!教師って勉強を教える立場じゃないの?
教師ってどんな子も守っていく立場じゃないの? 問題や問題やと言う教師のほうが問題教師じゃないの!?」

「はっはっはっー 問題教師かぁ よう言うたもんやなぁ」

「笑い事ちゃうよ!教育委員会に訴えようと思ってるくらいなんやから!」

「はっはっー 教育委員会も忙しくなる筈や」

「だから、笑い事ちがうって!」

「まぁまぁ夕ちゃん。落ち着いて。こういう問題は 感情論でぶつかって解決する問題じゃない。
じっくり 冷静に話しあっていく以外にないんや」

「そんな・・・」

「先生も悩んでる。親も悩んでる。でも一番苦しんでるのは 早と違うかなぁ・・
学校行っては叱られ、家に帰っても叱られ、勉強はついていけない。こんな毎日楽しいか・・・?」


 そう言うと、叔父の良夫はどこからか一冊の本を 持ち出してきて私に言った。


「早のこと、ちょっと気になってたんやけどなぁ・・ 発達障害って聞いたことあるか?
今では16人に1人はいると言われていて、教育現場でも 課題のひとつとなってる。
二次障害を起こすと不登校や引きこもり、適応障害や鬱が始まる場合もあるらしい。
夕ちゃん、一度きちんとした所で、早のこと教育相談受けてみたらどうや」

「発達障害?早が障害持ってるっていうの?」

「違う違う、早とちりしたらあかん。今のままでは悪循環ばかりやろ、専門家にアドバイス受けてみる事もひとつの方法じゃないかと思うんや」


 私は叔父から差し出された本をパラパラとめくってみた。

ーADHD- 注意欠陥・多動性障害
主な症状として、落ち着きがない 飽きっぽい 順番を守れない 人から言われたことをするのが苦手 すぐ気が散る 静かに遊べない おしゃべりで、人の邪魔をする 人の話をよく聞かない 忘れ物が多く、後先考えずに突っ走ったり、キケンな行動をするー - -


「これって早に全部あてはまってるやん・・」

叔父の良夫は優しくウンと頷いた。



 一ヵ月後



その日、私は教育相談センターで、早の心理テストの結果を待っていた。


「お母さんどうぞ」

「はい・・」

「まず、早君を色々な方面からテストをさせて頂いた結果ですが、早君は明らかに支援が必要なお子さんです」

「支援?あの・・やっぱりADHDとかいうのですか?」

「早君には、その傾向性があります。知的に障害はないのですが、出来る事と出来ない事の差が大きく、その為周りから誤解を受けやすく、的はずれな叱責を受け、本人が一番しんどい思いをしてきたと思われます」


  的はずれな叱責。。本人が一番苦しんできた。。

「先生、私、ずっとずっと叱り続けていました・・」

「お母さん、無理もないですよ。この障害は目に見えない障害といわれているんです。幸い早君はお友達も多く、運動面で活躍できる場があったから今までがんばってこれたのだと思います。しかし、大きな劣等感と闘いながら心が傷ついていることは事実です。早君の行動には必ず意味があります。失敗したときには、ゆっくり話を聞いてあげて下さい。そして良い所を見つけて、どんどん褒めてあげてください。それだけで随分改善されることがあるんです」



 帰り道

この数年間の出来事が一気に思い返された。
あの時も・・この時もそうだったんだ・・
(ごめんね)そう思うと涙が止まらなかった。


しかし、その晩、早のことで私達夫婦はもめにもめる事となった。



「発達障害やって。ADHDの傾向性があるって」

「なっなんて?ABCD?」

「ADHD。んーとにかく学習面でも、生活面でも支援が必要な子やって」

「支援て、どんな支援?」

「早の場合は、見る力も聴く力も平均以上あるらしい。でもそれが同時におきた時、極端にその力が弱くなるらしい。例えば学校の先生が黒板に字を書きながら話し出すと、たちまち内容が分かりにくくなるって。あと、アレとコレとソレをしなさいっていう指示を一度に言われると頭が混乱して、どれも中途半端になってしまうって。あと、言語能力も低くて、言葉で説明することが苦手なんやて」

「言語?早はちゃんとしゃべれるのにか?」

「しゃべれるのと、説明ができる事は違うらしい。言われている事は理解できてても、いざ説明しなさいとなると大変らしい。あっ!脳のメモ帳といわれている記憶しておく部分が人より少ないから忘れる事が多いんやって」

「なんか別に誰にでも多かれ少なかれありそうな事やけど」

「うん。早の場合はそういう力が極端に弱いんやって。なんか何にもしらんと早をいっぱい責めたかもしらんわ・・」

「で、その何とか言うアルファベット並べた病気は治るんやろうな」

「いや・・病気じゃないから治るとか治らないとかとは違うと思うけど・・」

「けど、って、そこが一番大事なとこやろ。何を相談しに行ってきたんや!早の将来が一番大事なんや。中学、高校、大学行ってちゃんと働ける人間にならないとな」

「今はそんな先のことより、目の前の課題をひとつひとつ乗り越えて行かないと・・・」

「目の前にある課題って何?」

「いや・・だから・・早を叱らんと分かりやすく・・」

「アルファベット並べられて、感傷的になって、甘やかせばいいとでも思ってるんか!」

「ひどい!そんなんじゃないって!」

「勉強もせんと、ちょろちょろしてたら落ちこぼれていくのは当たり前のことや!本人の努力次第なんや!
努力さすのが親の役目やろ!」

「それはそうや!それはわかってるよ!でもADHD---]

「やったら何やねん!!」


夫はもうこれ以上聞きたくないと言わんばかりに話を遮った。


「私も同じこと考えてずっと悩んできた。けど今わかった。 英語の名前つけられたんは、私らにや!
私らの為や!早の為と違う。私らにゆっくり考える時間を持たすためについたんや。
何もなかったら私ら早を責めるだけしかしなかった。でも障害って付いた途端にほら・・一歩立ち止まってこうして考えてる。
何も分からんけど少なくても理解していこうって考えてる。今はこの事が大事なんじゃないかなぁ・・・」


  長い沈黙が続いた。

 -目に見えない障害ー この言葉がぐるぐると頭の中を 駆け巡っていた。


                 ★


この心理テストの結果は教育センターより、担任と校長へも全て申し送りをして頂いていた。

しかし担任は「だからどうすればいいんですか!?」 という言葉しかなかった。

結局、この担任とはその後も理解し合えることはなく 冷戦状態のままで卒業することとなった。

私達夫婦も含め、マニュアルのない息子の心を知ろうと 努力することは並大抵のことではなかったのだ。

一方息子はといえば・・私と背くらべをしては、 「もうすぐ抜かすで~」 とのんきな事を言って喜んでいる。

実際、この一年間で10センチ近く身長が伸びた早は 私をゆうに超えていった。




  そして早は中学生になった。


 どうか、良い先生に恵まれますように! そんな、祈るような思いで入学式に臨んだ。

早の担任となった高橋先生は、生活指導も担当している体育教諭の若い男の先生だった。

入学してすぐに、私は中学の校長と担任に早のことをお願いしにいった。

授業中だというのに教室や廊下からドンドンパンパン 聞こえてくる物音。先生や生徒達の怒涛が飛び交う。
担任は、「すみません。ちょっと失礼します・・・」と言って 何度か席を立ち出ていった

美沙から、ある程度中学が荒れていることは聞いていたが、 まさかこんなにも・・と思った。
もう息子の話どころではなかった。息子さえよければなんて 思っている次元でもなかった。

ここにも又、有り余るパワーを持て余し、問題児という レッテルを貼られている子達がいる・・
もしかしたらこの子達もまた・・・?そんな共鳴する何かを 感じながら帰って行ったのだった。



 晩ごはんを食べながら、その日の話題は中学の話になった。

「早、中学はどうや?担任の先生は体育やったなぁ。 ピッタリやなぁ」

「さっそく、運動神経がえーなーって言われたわ」

「で、勉強はどうや?」

「勉強は分からん。長いし、うざい」

「・・・」

「クラブは野球部に決めたんやろ、思いっきりがんばれよ」


早はクラブをがんばるという約束で父から携帯を買ってもらうことが出来たので、その携帯を見ながらウンと頷いていた。


「そやそや。今日3年の悪い子らが暴れてて三階からロッカー落としてんで!ホンマに最近エスカレートしてきてるわ」
美沙が唐突に言った。

「何?ロッカー!?」
夫はビールをふきだして目が点になっていた。

「ウン。美沙のクラスは授業中断して全員で反省会やってん めっちゃ迷惑」

「ラッキーやな~」

早が笑いながら言ったので、私は早の携帯を取り上げ頭をこついた。

「保健室も満員御礼続きやったから、とうとう 職員室に引越ししたんよ」

「なんやそれは。大丈夫なんかその学校」

「まぁね。先生達も毎日体鍛えてるしね」

「・・・」

その時、早の携帯が鳴った。

ツッパルことが男の~♪たったひとつの勲章だって
この胸に信じて生きてきた~

「はぁ?ツッパリなんとかロックンロール・・・?」
夫はまたビールを噴出して言った。

「うん。昔、流行っててんやろ。今オレが流行らせてんねん めっちゃえー曲やろ」

そう言って曲が鳴り止むまで踊ってみせた。

「兄ちゃん、不良にあこがれてるんやろー」 貴子も話にのってきた。

すかさず夫は
「はいはい!終わり。子供は勉強第一。勉強して寝る。 はい終わり」そう言って部屋から消えていった。


たしかに、夢と希望のある話ではなかった。
でも私には、そんな他愛もない話がとても楽しかった。
ー他人事ー そう捉えている間は、とても楽しかった。


                  ★



しかし、そんな平穏な日は長く続かなかった。
早の持つエネルギーは半端ではなかった。

 それは中間テストが散々な結果で返ってきた日の事
私がうっかり「あんたホンマにアホやな」と言ってしまった事が きっかけだった。

「オレはアホ。どうせアホ。何をやってもアホなんや!」

そう叫び、糸の切れた凧がうわーと舞って行くかのように 早は飛んでいってしまった。

 たった数ヶ月前までのランドセル姿の息子はもうそこには なかった。
学ランを着て、髪を染め、眉を剃り、あの不良と よばれる先輩達と同化していったのだ。
それが何を意味するかということは容易に想像できた。

喧嘩をした。ガラスを割ったと言っては学校に呼び出された。
夜の徘徊、他校侵入、万引き、窃盗で補導され警察にも何度もお世話になった。

私の声はもはや届かず、空回りの悪戦苦闘でしかなかった。
本当にそれは全てがあっという間の出来事だった。


                  ★


ある夜、おじの良夫が心配して訪ねてきてくれた。

「みんな元気かー。早はがんばってるらしいなぁ」

「がんばってるも何も、さっきも言い合いになって出ていってしまったわ!」

「はっはっはっー。早も居場所があってえーなぁ」

「笑い事ちがうって!もう最近は成るようにしかならんって 思ってしまうねん・・」

「えらい弱気やな。夕ちゃんらしくないで」

「おじさん・・発達障害って何?いったい何者なん? どっかの病院行って治せるもんなら、どんな遠くても
どんなに高いお金かかっても連れて行って治してやるのに・・・ わかってるよ。自分の甘さをそんなせいにしてる
こともわかってるよ!でもわからない。どうすればいいのか わからんねん!!」

「夕ちゃん、啐啄(そつたく)って言葉しってるか? 逃したらまたと得がたい良い時期という意味や。
卵の中のヒナ鳥が殻を破ろうとしている時、親鳥も同時につついてはじめて殻が割れるんや。
どっちか片方だけがんばっても絶対に割れることは無い。 要するに、時を逃したらあかんという事なんや。
今こそ、しっかりと先生達と連携とってがんばる時とちがうか? 治るという事は成長するという事やで」

 時を逃したらあかん・・

 その言葉はなぜか私の胸にストンと入ってきた。

「うん・・でも・・」

その時、玄関先から大きな声が聞こえた。


                   ★


「こんばんわー。高橋です。夜分にすいません」

「あっ。高橋先生!また・・何か・・」

「いえいえ。実は今日学校で早君ともみ合いになりまして・・ 大切なシャツのボタンがちぎれてしまったんです」

そう言って担任は、小さなボタンを大事そうに私に手渡し深々と頭を下げた。

「それと・・国語の副担任より、忘れ物のプリントを預かってきましたので早君に渡してあげて下さい」


そこには、早が書いた漢字の書き取りが、ぎっしりと詰まっていて、恥ずかしくなるくらいの大きな花マルが書き添えられていた。

「先生・・」

「あっ!明日なんですが、出来れば朝少しばかり早く登校させてもらえませんか?早君は今 力の出し方を間違っているだけなんです。彼が本当の力を出し切れるまで、とことん関わっていきますので宜しくお願い致します!」



 私はその小さなボタンと大きな花マルを見つめながら、その場を動けないでいた。
体中からふつふつと湧き上がるものを感じながら、先生に感謝せずにはいられなかった。

「夕ちゃん、時はピッタリやなぁ」
叔父の良夫が出てきて言った。

「先生、こんなに遅くまでご苦労様です。先生を見てると 私もOBとして今夜は夜回りでもして帰りたくなりました」

叔父の良夫は笑いながら本当に嬉しそうに担任へ話かけていた


二人の帰る姿を最後まで見送った後、私は満天下に輝く星を見上げながら、大きく深呼吸をして心の中で「よし!」と叫んだ。

「美沙~、貴子~、裁縫道具持ってきて~!ボタンボタン !ボタンつけるから~!!」



  小さなボタンと大きな花マル
  先生からの贈り物
  ここから始まる大切な未来
  無限の可能性を信じていこう
  どこまでもどこまでも信じていこう
  いつか早が本当の力を出しきれるその日まで・・・
                      


                        おわり







このブログを書いた日から12年。
今でこそ発達障害は知られるようになりましたが当時はまだまだでした。
冒頭に書いた「昔にあって今に無いもの」
それは人と人との暖かい血の通ったつながりだと感じています。
その社会が当たり前になればきっと発達障害から障害という文字は消えていくのだと思っています。
息子は現在25歳。しっかり成長しています。と・・・思います(;^ω^)

2018年3月21日
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はなす手☆つなぐ手

2012年11月08日 22時11分42秒 | Weblog
はなす手★つなぐ手
2004年、大阪市の人権の演劇ストーリー募集に応募しました。

プラダーウィリー症候群の妹と、母との現実の葛藤を書きました。
大阪市より最優秀賞を頂き、2005年に舞台化されました。

内容はとても重たく、悩みましたが、一人でも多くの方に伝えたい。
そして少しでも障害のある家族の苦悩を知っていただけたら。。。と、
大阪市より許可を頂き、原作を掲載させて頂く事にしました。


   



       はなす手★つなぐ手


 それは昨年の二月、子供の幼稚園のお迎えの帰り道、私のケイタイにかかってきた一本の電話から始まりました。
 
 もしもし。。と言う前に電話から聞こえたのは、ただ「お母さん」と泣き叫ぶ声。。。私は子供達に何かあったんだと直感し、必死で「どうしたん?何があったん?」と問いかけました。しかし、こちらの声は全く聞こえないくらいの大声でただ「お母さん!」を繰り返すだけ。。

「彩なの?一輝なの?」私はわが子の名前を呼びながら「落ち着いて!泣き止んで!どうしたん?」と私まで大声で叫ぶ中、ふと、着信番号を見ると、それは実家からでした。

誰?誰が泣いてるの?私までパニックに。。
一度電話を切り、自宅へかけるとそこには変わらぬわが子の声。。ひとまず安堵し、すぐに実家にかけなおしてみました。

そして、大声で泣き叫んでいたのは、私のひとまわり離れた妹からだと判りました。

 すぐさま実家の近所に住む妹夫婦に連絡をとり、実家で何が起きているのか見てきて欲しいとお願いし、私は実家へと急ぎました。

 その道中、父のケイタイにつながりました。

「お父さん、妙ちゃん泣いてるやん。何があったん!」
父はため息をひとつつき
「お母さんが家出した。妙ちゃんをおいて、家を出て行きよったんや。。」
「いつなん?」
「昨日や。。」
「なんでそんな大事なこと言わへんのよ!今からすぐ行くから待ってて」
「こんでもええ!」

 私は父の言葉で、来るべく日がとうとう来た そう感じ、この日から悪夢とも言うべき日々が始まったのでした。

 私は娘の手を引き電車に飛び乗り、深呼吸しながら、母がいつも言っていた(死にたい)その言葉を思い返していました。
 
 私たちは三人姉妹。私のひとまわり下の三女の妙ちゃんは、プラダーウィリー症候群と言う病名で知的障害も持って生まれてきました。
幼い頃、私の記憶としてあるのは色白で、ぽっちゃりしていて、歌が大好きなよく笑う妹でした。

とにかく、いくら食べても、脳が「お腹いっぱいだ!」という指令を出さないから食べ過ぎてしまう病気だとか言って、母は毎日、カロリー計算して食事を作っていました。

歳の離れた妹は、とてもかわいくて、私はよく公園や買い物に連れて行き遊んでいました。しかし、お風呂の無い2Kの市営住宅の実家は、とても窮屈で、妹が小学校に上がる頃には。私も三つ下の二女も独立して家を出ていたので、それ以降の妹の様子は、あまり知ることがありませんでした。

 実家との行き来が始まったのは、私も二女も結婚し、子供が産まれた頃からでした。

 盆と正月と誰かの誕生日には、決まって実家で食事会をしました。妙ちゃんは年々体は成長していきましたが、精神面では、私たちの子供と同じレベルでした。食べ物に人一倍執着があるので、おやつの分配で真剣な喧嘩になるのです。
「同じものが欲しい!」と言い、母が叱ると、そこから大声で
怒り始め、何を言ってもきかなくなります。
そんな事が繰り返しあり、次第に実家では、食事をしなくなっていきました。

 妹が二十歳を過ぎた頃からか。。母からよく電話がかかってくるようになりました。

「もう嫌や!私の事、お手伝いくらいにしか思ってへん。助けてーや。私にあれせーこれせー言うて、気にいらんかったら手を出してくる。お父さんは仕事仕事で何もしてくれへんし、もう死にたいわ!」

 私は、その時には、母の愚痴くらいにしか思っておらず、妙ちゃんが怒るのも、いつも母が口うるさく叱ってばかりおったから仕方ないことや。。と内心思いながら、いつもウンウンと適当に聞いて電話を切っていました。

 本当のところ、実家のことより、自分の家の生活や子育てで精一杯で、母の悩みを真剣に考える余裕など無かった、という方が正しかったのかもしれません。

そんな事を思い返しながら、とにかくどうか死んでいませんように、どうか無事でいますように、と祈るような気持ちで実家へと急ぎました。

実家には すでに三つ下の妹が先に着いていて、一睡もしてなかったであろう妹を寝かしつけてくれていました。

「お父さん、お母さんから連絡あった?何でこんな事になったん!」
 私の矢継ぎ早の問いかけのも、父はただ
「わからん!」だけ。。。

そこへ、突然母が帰ってきたのです。

「お母さん!!無事やったんやね、どれだけ心配したか!」
母は まるで何もなかったかの様に
「何でみんなおるん・・・」とひと言。
「何でって!妙ちゃんがどれだけ、お母さんお母さん言うて泣いてたと思うんよ!」

そう言った瞬間、母は、へたへたと座り込み、
「妙ちゃん泣いてたんか・・ごめんなぁ、ごめんなぁ、私は ほんまに死ぬ気で出たんや でも妙ちゃんのことが、妙ちゃんのことが・・・」
そう言ったきり、泣き崩れてしまいました。

 何はともあれ、母が帰ってきてくれたことに皆は安堵し、母が少し落ち着くのを待って話を聞くことになりました。
 久しぶりに、ゆっくり見た母の姿は、明るく、よくしゃべる母ではなく、白髪いっぱいで、何もかもに疲れ果てた。。という姿でした。

「お母さん、何があったん・・・話して」
私は諭すように声をかけました。

 母は、ゆっくりと、この数年間のことを話し始めました。
 
 毎日通う福祉作業所の送り迎えで市バスの席をめぐってのトラブルがあり、電車に変えてみたが、エレベーターのボタンを押すことで人ととトラブルになり、タクシーでしか行けなくなったこと。

 糖尿病になってしまい、今まで以上に食事制限をしなければいけなくなったが、そのことがストレスとなり、今まで以上に過食になったこと。

 病院での毎月の糖尿病の検査でも、自分の好きな看護師さん以外には検査させてくれないので、そのために何時間も待ち続けたり、検査せずに帰ってくることも度々あったこと。。

 近所のスーパーで買い物中に、何か気に入らないことがあり、陳列の前に座りこみ動かなくなり、店の人たちに迷惑をかけたこと。。

 極めつけはお風呂屋さん。いつも人の少ない時間帯に、あえて一番に行っていたにもかかわらず、自分の座っている席に誰かが座っていると、そこからパニックになり裸のまま、入り口に座り込み動かなくなる。
 母はとにかく人に迷惑だからと、妙ちゃんをなだめ、叱り、何とかしょうとするが、それが妙ちゃんにとっては逆効果になって更に暴れだす始末。
周りの人達は皆唖然!もう何十年通い続けたお風呂屋のおばちゃんまでもが
「悪いけど・・違うとこ行ってくれへんかなぁ・・・」とひと言。 
実際、母と妙ちゃんは、もう一ヶ月近くお風呂に入っていませんでした。

「もうなぁ・・スーパーも行かれへん。お風呂屋さんも行かれへん、どこに行っても迷惑かけて皆に謝って歩かなあかんねん・・そやけどな、妙ちゃんが悪いんちゃうねん、障害持って生まれてきたから仕方ないねん・・・」

そう言ったきり母はまた泣き崩れてしまいました。

 妙ちゃんの障害年金が入っているはずの通帳に残金が二百五十円というのを見たとき、母がどんな気持ちで家を出たのか胸が締め付けられました。

 父と母は数年前から家庭内別居状態で、会話もしていなかったので、改めて聞く母の話に、今まで任せきりにしていた事への後悔からか、父はずっとうつむいたままでした。
もちろん、その場にいる私たちも同じ思いでした。

「お母さん。これからは家族でがんばろう!」
私はまだこの時点で、家族でがんばれば、本当になんとかなる。 そう思っていたのでした。

それから、妙ちゃんの送り迎えは父の車で両親がすることになり、その帰りに私の家へ寄り、お風呂に入って帰るようになりました。

 母の家出の件があって以来、福祉作業所の先生方とも連絡を取り合うようになり、インターネットで妙ちゃんと同じ障害を持つ親の会を調べ、資料を集めたりと、皆で妹のことを真剣に考え始めるようになっていきました。

 ある日、お風呂に入りに来ていた時のこと。

妙ちゃんがお風呂に入るのを確認してから、母は小声で話しかけてきました。

「もうやっぱりあかんわ・・・前よりひどくなってきた。ご飯は食べずに、ケーキやお菓子ばっかり食べて血糖値はこの前400やで・・・」

「注意してるの?」

「少しでも言おうものなら、うるさい!だまれ!くそばばー出て行け!が始まるんや・・・腹立ったら私の服ハサミで切るんやで!私は奴隷のようにビクビクしてるだけや・・・」

「薬は飲んでるの?」

「もう確かめもしてへん。どうせ飲んでないやろう・・もうそんな事どうでもえーねん、糖尿病で死ぬんやったら死んでくれたらいい、どっかに一生出られへん施設ないか」

「お母さん・・・ やっぱりヘルパーさんとかに入ってもらおう」

「誰がこんな子見てくれるのよ!第一、妙ちゃんが知らん人を受け付けへんわ」

「そんなんやってみなわからへんやん」

「無理やって!!」

「じゃあ入院は?」

「検査の度に、入院しなさいと言われてるけど、できる訳ないやろー 人に迷惑かけるだけや」

「人に迷惑やばかり言うててもあかんやん!」

「あんたは何も判ってない!良い顔してくれるのも最初だけや!どれだけのこと言われてきたと思ってんのよ、うちは・・」

 話を続けようとした時、ドアの音がして、その音に母はビクリとして、孫の所へ駆け寄り、孫に話かけ始めました。
その姿に、母の神経が常に張り詰めていることを感じました。

 
 実際、妙ちゃんは、福祉作業所では特に問題なく過ごしていました。 私たちにも暴力的な態度や言葉は一切ないのに、母にだけは違いました。
特にあの家出以来、自分は捨てられた、との思いからか妹の中で何かがプツンと切れ、母に対する憎しみだけの思いが態度に出るようになっていったようでした。

 わたしは、福祉作業所の先生の所へ相談に行きました。

「インターネットで調べて東京の親の会の方と毎日連絡を取り、妙ちゃんの現状を報告し相談しているのですが、まず驚いたのは、どの家庭も全くといっていいほど、同じような悩みをかかえていた事なんです。二十歳くらいを境に、それまで親のいうことも聞けていた子らが、それまでの食べ物で制限されてきたことが恨みに変わるらしく、一気に親子の立場が逆転し反抗的になるそうなんです。
しかもそれは、母親にだけあたるらしいんです。
早い時期から母子分離をしていける環境作りがとても大切だと言われました」

「こちらも色々情報を集めてみました。これから区役所へ行き、ケースワーカーさんや保健師さんに会ってこようと思っています。」

「ありがとうございます。私も今から入所施設など色々あたってみます。母を少し休ませてあげることも考えないといけないですしね。でも・・・皮肉ですよね。母が二十年以上も妙ちゃんの体のために食事制限してがんばってきたことが全部恨まれる結果になるなんて・・・母がかわいそうです・・あっ!!落ち込んでいる場合じゃないですよね、では宜しくお願いします」

 それから私は妙ちゃんの支援費制度やガイドヘルパーの手続き、施設見学等、父や、すぐしたの妹と何軒も足を運び回りました。

 驚いたことは、ショートステイやグループホーム等の入所施設は全て今すぐ利用できる所がひとつも無かったという事でした。 早くて半年待ち。しかも糖尿病などの疾患を持っていると無理という事もわかりました。 問題行動があるとなると論外でしょう・・要するに、その様なところは早い時期からの自立支援の為に利用する場所であって、駆け込み寺的存在の場所はどこにも無いということでした。

 その間にも、母と妙ちゃんとの関係がひどくなっていく。。
私の頭から離れない(母子分離)の言葉。。。

どうしていいのか分からないまま、私たちはひとつの決断をしました。

妙ちゃんを入院させて、まず糖尿病の治療をすることにしました。 もちろん、入院することは妙ちゃんは了解していません。しかし今はそれ以上に母の心労が大きかったので、やむを得ませんでした。ウソをついて病院へ連れて行き、病室でゆっくり話しました。

「妙ちゃん、このままやったら体がどんどん悪くなるから、少し入院して血糖値さげよう」

「お母さんは?」

「あのなぁー、実はお母さん血圧があがって倒れてしまって、違う病院に入院したんや・・でも大丈夫やで!お母さんもちゃんと治療したらすぐに治るから、だから妙ちゃんもがんばろうな!」

「嫌や・・・帰りたい・・」

 そう繰り返す妙ちゃんを何度もなだめながら、二時間ほどするとあきらめたのか、しぶしぶベットに横になり眠りにつきました。
すでに、この日血糖値は400以上!眠ってしまったのもそのせいだったのかも知れません。。

 それからは、私と二女は毎日交代で様子を見に行きました。私も二女も小さい子供を三人づつかかえているので、病院へ行くことも容易ではありませんでした。

 父にはその間、孫の子守と運転手にと奮闘してもらいました。

 妙ちゃんの好きなマンガやパズルを持って行き、病院内を散歩し対話する日々が続きました。

 一週間ほどは行く度に「お母さんは?」と聞いていましたが、まだ入院していると伝えると、それ以上は聞き返してきませんでした。

 妙ちゃんの様子は毎日母に電話で報告しました。

 あれほどまでに苦しんでいた母だから、少しは心身ともに安らいでくれているという思いとはうらはらに

「もう淋しくて、毎日眠られへん・・あんたらも自分たちの生活があるから大変やろう。迷惑かけたくないから明日から私が病院いくわ」  という始末。

「何言うてんのよ!今妙ちゃんもがんばってるんやで!お母さんがそんな事いうてどないすんのよ!今、何の問題もなく、食事にしても、お風呂にしても、看護師さん達との関係もうまくいってる。妙ちゃん、今日洗濯物も自分で干してんで!自立に向けて誰にも迷惑かけずにがんばってる!何より血糖値だって下がってきてるやん。今お母さんが来たらもとのさやや・・我慢する時や」

「一緒にいても地獄やけど離れるのはもっと地獄や!」

 こう叫ぶ母の声に、離れたくても離れられない何とも言えない親子の絆を感じました。

 二十七年間、かた時も離れたことのない母にとって、この時は本当に辛かったと思います。 その辛さを少しでも埋めてあげるためにも、私達は毎日妙ちゃんの良く変わっていく姿を報告していきました。

 二週間ほど過ぎた頃でしょうか。。。

主治医や看護師さん達から、妙ちゃんがすごく明るくなった、よく話すようになった、積極的になった等の声をかけてもらうようになりました。

 
 実際私達が行くと、人とのかかわりが苦手だったはずの妙ちゃんが、

「お姉ちゃん、あんなぁ、この本、となりの入院している人が買ってくれてん」
「今日○○さんと散歩行ったでー」
と、明るく何でも話してくれ、小さい子供を見つけると、
「パズルするかぁ?本読むかぁ?」
と、大人が普通に子供に声かけするように話しているのです。

 この変化はとても不思議でした。

 ある日、私は妹に、
「妙ちゃん、退院したら少しづつ自立していけるように、ショートステイしてみたり、グループホームの見学行ってみたりしょうか?」
と、声をかけてみました。

 以前なら、その言葉をいうだけで拒否反応を示していたのですが、以外にも返事は、

「うん!面接いってみる。一度見学してみたいと思ってた」

と言ったのでした。 この妙ちゃんの大きな変化をふまえて、私達は退院後のことを姉妹で話あいました。

「妙ちゃん、今ホンマに順調にいってるから、このまま退院して、自立に向けてグループホームにでも入所できたら最高なんやけどなぁ・・・」

「そやけど、少し異常なくらい明るくなってきてるから反対に怖いわ・・」

「確かに・・昨夜も電話があって、すごい敬語で私に持ってきて欲しいものとかお願いしてたわ・・人が変わったみたい」

「母子分離が成功やったって事かなぁ・・」

「そうやなぁ、今、お母さんの事ひと言も聞かへんしなぁ・・
私もがんばらな!って思ってるんやろうか」

「子離れでけへんのはお母さんだけで、妙ちゃんは親離れしたかったんかな・・・妙ちゃんが出来ることまで全部お母さんがやってたもんなぁ」

「家に帰ってどうなるのか・・・」

「・・・」

「まるで博打やわなぁ・・先が全くわからんわ」

 本当にこの時点で妙ちゃんがどうなるのか予想がつきませんでした。
 ただ分かっていたのは、妹はいつでも退院できる血糖値に下がっていたことと、どこの施設も入所待ちで、家以外に帰る場所はなかったという事実だけでした。

ある日、家で夕食の支度をしている時、病院から、すぐに来て欲しいと電話がかかってきました。

「実は今日、他の患者さんとトラブルがありまして・・・その直後にお部屋で失禁したんです」

「え!?おしっこもらしたんですか! まさか! トラブルの原因は何ですか」

「ロビーで横になってテレビを見ていたらしいのですが、他の患者さんが座って見てくれる?と声をかけても動かなかったそうで・・「この子の親は何してんねんやろ」と言ったそうなんです。 その言葉で急に怒り出したそうで・・部屋を覗いてみると失禁していて・・何を聞いても黙ったままなんです」

 私は病室へ顔をだし声をかけてみましたが、失禁したことが恥ずかしかったのか、何も話してはくれませんでした。
 ここ数日のあの明るさはどこに消えたのかと思うほど、この日から妹は変わっていきました。

 それはまさに(壊れた)この言葉がピッタリでした。

 失禁はそれから毎日続き、部屋からも出なくなり、訳の分からないことを言いはじめたのです。
 音楽などかけていないのに「消して」と言い、誰もいないのに、「あそこから見てる!」と天井を指差し・・・

 病院からは毎日呼び出され、私たちも限界にきていた頃、主治医より、精神科の病院に入院したほうがいい・・と言われたのでした。

 それは言い換えれば、もう退院してくださいとの言葉だったと思います。

 精神科に入院など全く予想もしていなかった私達には、そこだけは行かせたくないと拒み、主治医に退院ではなく、外泊ということでお願いし、家に連れて帰ることになりました。

 もしかしたら、母に会うことで良くなってくれるかもしれない・・・
 そんな希望を持ちながらも、ある意味最悪での母子対面となったのです。

 そんな状態の中、一番喜んだのは やはり母でした。

 まるで赤ちゃんを可愛がるように妙ちゃんの世話をしました。

 しかし・・・ 数日後最悪な事が起きました。

 過食の復活 暴力 暴言 失禁 そして母をトイレにすら行かせない異常な行動。 家の窓から物を投げ捨て家を飛び出そうとする・・・

 父はこの日、生まれて初めて妙ちゃんに手を上げてしまった・・と泣いていました。
 
電話が鳴り、後ろでは母の泣き叫ぶ声・・  父が、

「もう皆で死のうと思う・・もう皆がダメになる・・色々してもろたけど、もうあかんわ・・ありがとうなぁ すまんなぁ」

 泣き言など言わなかった父までもが死を口にしている 私はいてもたってもいられず、片っ端から精神科の病院に電話をしていました。

「このままだと誰かが犯罪者となり、誰かが死んでしまうから入院させてください!」
と必死で話しました。 次から次へと満床という理由で断られる。 それでもあきらめずにかけ続け、ようやく一軒の病院が受け入れてくれたのでした。

 それは山の中腹にある精神科の病院でした。

ー精神病院ー

 私が想像していたのは、暗く人間が人間として扱われていない所。一度入ると二度と出てこれない所。 そんな先入観がありました。
 いかし、いざそこに行ってみると、内科やカウセリング科等充実しており、作業所やカラオケボックスまであり、明るくアットホームな所でした。私の先入観はいっぺんに消え、こんな所ならもっと早くから知っておきたかった・・と思ったほどでした。

 入院した日、妙ちゃんは歩くことも話すことも出来ないほど体は衰弱していました。

 主治医は、急な環境の変化やストレスからくる(幼稚返り)
だと診断しました。
 治療は、少しの薬と、たくさんの家族の愛情だと・・・

 私は、また振り出しにもどったかのような錯覚を覚えました

 家族の愛情? それって何? 愛情があれば治る? 治るってどうなること? どの時点で治ったというのか・・治っても妹は健常者ではない・・またあの妹に? それならいっその事治らないでいて欲しい・・・

 目の前にいる妹を見つめながら、そんな事を考えていました。 家族は皆疲れ果てていました。 この時初めて、家族だけでは乗り越えられないことを誰もが悟ったのでした。

 私はこの数ヶ月間の家族の闘いを通して、色々なことを感じていました。

 父も母も、もう高齢者。。。普通なら孫に囲まれて老後を楽しんでいる頃でしょう。

 しかし現実はどうか。。。

 こんなにも父も母も苦しみ抜いている。。もう手遅れとしか言いようがない。 何故、何故もっともっと早い時期から考えてこれなかったのか、それがどうしても悔やまれてなりませんでした。

 その日 私は夢を見ました。それは妙ちゃんの成人式でした。

「妙ちゃんおめでとう!今日から大人の仲間入りやね!みんなが待ってるよ!」

「うん!」

「さあ!お母さん、ゆっくり手をはなしてみて。すぐにつないでくれる人達がいてるよ。 支えあう手は一人より二人がいい、二人より三人、四人、多ければ多い程、人は生きていけるんやで。

一人なら前に進めなくても、支えあう手があれば前進していける。

一人なら倒れてしまうところも、支えあう手があれば絶対に倒れることはない。

一人なら後ずさりしてしまう道でも、支えあう手があれば絶対に後もどりなんてしない。

もう一人でがんばらんでいいんやで。 だから、勇気だして、手をはなして・・・・・」

 母は不安な顔をしながらも、ゆっくりと手をはなし、娘の晴れ姿を微笑んで見送っていました。。

 私は母の背中にも(おめでとう)そう声をかけていました。

「お母さん、妙ちゃんが幼稚返りしてタイムスリップしてしまった事は、神様がもう一度くれたチャンスかもしれへんね。そう信じて、これからはみんなで子育てしていこう!」

 心からうなずく母に、ようやく本当の意味での希望の光を見出せる思いがしました。


その年のクリスマス。退院のお祝いに、妙ちゃんが以前から楽しみにしていたユニバーサルスタジオジャパンの花火を見に行くことになりました。

「行ってきま~す!」 と妙ちゃんの弾む声。

「よろしくお願いいたします・・・」 と深々と頭を下げる父と母。

「お母さん心配せんでもいいよ。今日はサポート隊の人達がいっぱいいてるからなぁ・・途中で電話とかせんといてやぁ~」

「そうそう、たまには二人で老いらくの何とかやらでも楽しんでて~」

「ハハハハ~」

 そこには、たくさんの手がありました。そして手の数だけ笑顔があり、優しさがありました。

 大音響と共に、夜空に打ちあがる色とりどりの花火は、まるで私達を祝福してくれているかのように、いつまでも、いつまでも光輝いていました。

                    



                END


最後まで読んで頂きありがとうございました<(_ _*)>

    



 
                   



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2008年04月09日 23時02分48秒 | Weblog
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作品

2008年04月09日 23時02分07秒 | Weblog
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2008年04月09日 23時01分02秒 | Weblog
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作品

2008年04月09日 22時59分44秒 | Weblog
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ありがとう。

2008年04月09日 22時57分47秒 | Weblog
2008年4月2日、妹が永眠しました。

31歳でした。

妹は、プラダーウィリー症候群という障害を持って生まれてきました。

ずっと母と二人三脚で

母が倒れてからは父と二人三脚で

そして福祉作業所の皆様、ヘルパーの皆様、

たくさんの方達に支えて頂き

明るく、力強く、頑張って生きて来れました。

今は、感謝の言葉しかありません。

本当にありがとうございました。



たくさんの事を教えてくれ、気づかせてくれた妹。
本当にありがとう。


元気な体で生まれ変わって
また会おうね。
ありがとう妙ちゃん!






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母と妹のその後・・

2007年04月23日 10時10分19秒 | Weblog

阪神電車をまたぎ昔、大野川だったところを埋め立て
何キロかにわたって自転車道路になっています。

その自転車道路沿いにある特別養護老人ホームに
母はいます。

実は「はなす手・つなぐ手」が舞台化される前、母は脳梗塞で
倒れ一命は取り留めたものの寝たきりとなりました。
あの原作に書いた、妹を入院させるための嘘が現実と
なったのです。

皮肉ですが、母は倒れて初めて手をはなす事ができました。
入院中、真っ白だった髪の毛から黒髪が生えてきたのを
見たとき、母の髪の毛をなでながら、笑いながら泣きました。

父は母がいなくなって初めて母の偉大さに気づいた
と言っていました。
それを母に伝えると「今さら遅いわ」と言いながらも
どこか喜んでいるようでした。

毎日病院へ行き動かなくなった足や手をさする父の姿は
やっぱり夫婦なんだ・・・と感じました。

一年間の入院中には鬱や認知症など様々な症状がでて
私の事も忘れられた時期もありましたが
奇跡的に回復して穏やかに現在の施設でお世話になっています

そして妹は、突然の環境の変化に耐えられず、二度の入院を
余儀なくしましたが、現在では父やヘルパーさん等たくさんの方たちに支えられ元気に自宅から作業所へ通えています。

「はなす手・つなぐ手」の想いが今少しづつ叶っている
ように感じるのは私だけでしょうか・・・

                   感謝。


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もみじの手★    

2007年04月19日 11時22分22秒 | Weblog
これは、2001年に書いたものです。
聴こえない娘から教えられた大切なことを
忘れない為にと 自分の為に書きました。


この原文は講談社の漫画原作募集に応募して
佳作となりおしゃべりな指の天使たちという
タイトルで漫画化されました。





       ★もみじの手★


 暖かな陽ざしが心地よい四月のある朝、待望のわが子は産まれた。
名前は春。春の陽ざしの様に暖かい心を持った女の子にとの
想いから名づけたのだった。

我が家に家族が増え、パパもママも大忙しで春を中心に幸せな時を過ごしていた。  そう・・・あの日までは。

あれは二歳の誕生日。本当ならハッピーバースデイの歌を唄い
クラッカーを鳴らし、おじいちゃんおばあちゃんも呼んで
手作りのケーキでお祝いするはずだった。
その大切な日に、病院での悲しい宣告は下された。

「残念ですが、娘さんの両耳は全く聞こえていません」

どうやって家にたどり着いたのか・・
体の力が抜け、無邪気に笑って遊んでいる春を見てただただ
涙が止まらなかった。


 ママの顔からは、次第に笑顔が消えていった。
毎晩寝る前に唄っていた子守唄も唄わなくなった。
どうせ聞こえないのだから・・とピアノもピタリと
さわらなくなった。

 春は公園が大好きでいつもママと出かけていた。
ある日、同じくらいの女の子から
「どうしてこの子しゃべらないの?」と聞かれ
「遊びに夢中だからよ」と私はまだ遊びたがっていた春の手を
ひっぱって連れて帰った。
たぶん、あの時の私は鬼より怖い形相だったと思う。
 以来、家に閉じこもるようになってしまった。

 パパはそんなママにいつも優しく声を掛けてくれた。
「がんばっていこうよ・・・」と。
でもママには耐えられなかった。
春の将来にたくさんの夢と希望を持っていたママには
(聴覚障害)という大きな壁に到底耐えられるはずが無かったのだ。


 桜が咲きほこる四月
春が四歳になった時ママは春と二人で、聾学校の門をくぐった
・・・  未知の世界だった。
そこには同じ年の子供達の可愛らしい笑顔がたくさんあった。
そしてお母さんたちも又明るく生き生きとしている人達ばかりだった。
私は妙な安堵感を覚え、心の中に一筋の光が差し込んでくるような、そんな気持ちにとらわれていた。

 春もママも聾学校に馴染んでいく事にそう時間はかからなかった。
 お母さん達はみな聞こえる人達ばかりだったが、一人だけ
聞こえないお母さんがいた。   優くんのママだ。
 優くんのママは若くてキレイで明るくて毎日ママの運転で
優くんと通っていた。 凄い!!友達になりたい!!

そう思ったママはすぐにFAXを買い迷惑を顧みず毎日優くんのママに「聴こえない事ってどんな世界なの?」とFAXを送り続けていた。

ある日、私の考えを180度変えてくれる言葉がそこに送られてきた。

「聴こえるお母さんは、聴こえない子供が産まれてくる事がそんなにショックなの?」
優くんママの素朴な言葉だった。

私はハッとさせられた。
聴こえない事は可愛そうなこと。不幸なこと。とどこかで
線を引き話をしていた自分に気づいたからだった。
 
この事がきっかけとなりママは心のバリアを取り除いて
春の聾教育に力を注ぐようになった。


 聾学校の幼稚部では、ほとんどの時間が言葉の発声練習に費やされます。 聴こえる子供は耳から入る言葉で自然に
言葉は身につきますが、聴こえない子供は耳からの情報が
全く閉ざされているので訓練をしないとしゃべれないのです。

あ い う え お  まずここから始まります。
とは言っても春には、あいうえおとは聞こえません。

口を大きく開けて息をだすことが あ
歯を閉じて唇を開けて息をだすことが い
唇をとがらせて息をだすことが う
母音はまだしも、ラ行となると、先生がウェハウスを口の中に入れ、それに舌の先をくっつけて息をだす。など
この51音の発声練習は毎日毎日続いていたのでした。

 教室の中では、うまく発音出来る子が良い子で下手な子は・・・・という暗黙の競争のようなものがあり、次第に
お母さん達の気持ちの中でもとにかく上手くしゃべって!というあせりがありました。なかんずく誰よりもその気持ちが強かったのは私でした。

 家に帰ると嫌がる春を私の目の前に座らせ、手作りの絵カードを一枚一枚めくり言葉の練習をするのです。

「う お ー」
違うよ!ぶ ど う
「う お お」
違う。もう一回!パシッ!

春にしたらこの頃から少しづつストレスがたまっていたと思います。なにせ、ママの怖い顔と口パクが毎日続いていたのですから・・・
  
 そうして過ごしていく時間の中で、私は又大切な事を忘れてしまっていったのでした・・・

 そして今度は春がその事を教えてくれました。

ある日、春が家で声を出さなくなり、手話だけで話すようになったのです。  
 
 私は春に言いました。
「ママには手話がわかっても、近所のお友達や、おじいちゃん、おばあちゃんにはわからないの。だから春ががんばって言葉の練習をして上手く話せるようにならなきゃ駄目」と。

 春は泣きながら言いました。
「どうして私だけが、がんばらなきゃいけないの?どうしてみんな手話をしらないの?春は上手くしゃべれなくてもお友達と遊べるよ!どうしてー!」

 春の精一杯の心の叫びを聞いた時、私は春を抱きしめていました。
私は知らず知らずのうちに春を聴こえる世界に無理やりひっぱりこもうとしていたのです。
それは、足のない人にしっかり歩きなさい。
目の見えない人にしっかり読みなさい。
と言ってる事と同じでした。

 春は聴こえない分、それに変わる何かを持って生まれてきているはず。その何かを探しもしないで上手く話すことだけに
必死になっていたのです。
障害を持っていたのは紛れもなく私の心でした。

 その日、春と手話でたくさんのお話をしました。
私には感じることの出来なかった春風の心地良さや、
色とりどりの花の美しさまで伝えてくれた春。
ママの心の冬をゆっくりととかしていってくれたのです。

 そう!春は今近所でも有名な手話の先生です。
明るい笑顔でもみじの様な手を巧みに動かし
みんなに春を運んできてくれています。

 いつの日か手話が共通語となり、みんなで話せられる日を
夢見て、今日も春とママはがんばっています。
ありのままの姿で・・・




                     おわり


 
 








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