コラ-ジュ廊下展  公民館

2013-03-31 10:48:39 | 
支那事変は昭和12年に勃発してすぐ召集されていった父は、負傷で傷病兵として帰って来れなかったようだ。妹との年の差が7年あるから、かなり長い間のようだ。したがって、保恵でジ-ゼルに乗ったことや軌道の除雪やさらさら流れる小川などの思い出は父が帰ってきてからの思い出なのかな…と今考えている。小学一年生入学するまで保恵にいたから…ね!
冬になると野ウサギなど小動物をわなで取ってきて台所につるして解体して食べていたりもしていた、これで、母は生涯肉が食べれなくなったそうだ。おねしょうをする私におねしょうを直そうと、誰かから聞いてきて何かリスのような小動物を薪スト-ブの後ろで真っ黒く焼いて食べさせられたことも覚えている…ギャ…!







                      

コラ-ジュ廊下展  公民館

2013-03-29 14:03:02 | 
父は昭和12年頃戦地へ行ったんだと思うが、戦場で手榴弾による負傷をし、5,6年帰ってこなかったようだ、その間おそらく内路に多く居たのだと思われるが内路の思いでは多くある。祖父と母につれられて岩手の父の実家で煙りでむせながら五右衛門風呂へ入ったのが当時3才ぐらいの自分に記憶はあるが、その他日本中あちこち旅行をしたらしいが覚えていない。
内路の家は使用人もいたので広く2回が宿舎になっており、階段上がった所におもちゃが大きな箱に入って置いてあった、蓄音機などもあり外へ出るとすぐ海があり楽しいことばかり記憶に残っている。その頃食べた海の物の味が大人になって北海道で食べる味と違うことを感じた、鮭とか蟹とかは特に感じた。






                      

コラ-ジュ廊下展  公民館

2013-03-28 12:09:03 | 
そんな所なので子供の視界の中には家族以外の人は無かった。1,2才では記憶に無いだろうから三才以降の思い出だと思う、ジ-ゼルの運転席に乗せてもらったことも思い出にある…この頃、支那事変(現在は日支事変と言うのかな)に召集されて戦場へ行った、母は私をつれて太平洋岸で内路という村にある実家帰った。そこは、漁村で祖父は運送など請負の仕事をしていたので家も大きく人も多く なんか楽しい思い出が多くある。今も、情景が蘇る >




             

コラ-ジュ廊下展  公民館

2013-03-27 11:05:07 | 
保恵とゆう地名で周りには家が無く人も居ない様な場所で現在では見ることのない様な大木ばかりの森林だけの地である、ここで小学校へ上がるまです過ごした 子供が居ないので一人遊び、家では、軍隊で使うような皮に包まれた携帯の電話で遊んで居た記憶がある外では山のように積まれた材木置き場があり、自分の背丈以上の太さの太木が積み重ねられている、そこが遊び場…皮のむけた木の虫食いの穴に子供の指ほどの白い虫がいて、これが甘くておいしかった記憶が今もはっきり思い出される。



                    

コラ-ジュ廊下展  公民館

2013-03-26 09:56:13 | 
ふと、小さい頃の樺太のことが思い出された、昭和11年10月樺太の国境近く森林の中で生まれた周りは木のみ、最も後にそれを認識したことで生まれたときは分からない 本当に何もない人も居ないところだ、林務署の軌道がひかれていて林務署の出先の宿舎が我が家だったらしい 父はその軌道のジ-ゼルを運転したり管理をしたりしていたようだ。
有名な226事件が起きて9ヶ月後うまれたのだ