私達は、日本で闘病中の母親とガザ地区ハンユニス郊外で避難生活を送る
2人の息子の、ごく普通の親子です。
ハヤートナ(our life)を合言葉に、今できる支援を始めました。
2023年10月7日。
あの日から、ひたすら息子達の生存確認に明け暮れる日々が始まりました。
心配、恐怖、悲しみ、怒りといった負の感情の渦。
絶望し、乱暴な気持ちになった夜も数えきれません。
どれだけ願っても戦争は終わらず。
また10月7日が巡ってきて、2年目に突入した頃。
「もう停戦に期待するのは止めよう」と決め
息子達が前向きになれる出来事があり、私の病状が落ち着いてきた
ーそれらが何となく同時期に重なりました。
「停戦後」を考えるよりも、まず今できることを始めよう
という気持ちが湧き上がりました。
私達は今、寺子屋への支援に取り組んでいます。
マイサという女性が
3人の子どもと身を寄せているアパートの1室で開いている寺子屋です。
「子供たちの居場所をつくりたい」「学びの場を提供したい」
「私達親子が生きていくために
自分が仕事にできるのはこれしかないと思って始めた」
彼女の言葉に、昔「大人に仕事を 子どもに本を」を目標に
ガザ市でカフェを開業していた頃のことを思い出しました。
カフェが破壊されても頑張っていた亡きスタッフ達の姿が
彼女の意思に重なったのです。
支援したい、と心が決まりました。
正直、食糧や冬服のほうが必要では、との葛藤もあります。
誰に? 何を? 何人に届けられる?
決めるのは簡単ではないと躊躇していました。
息子達はいつも、スーク(市場)で見かける幼い子ども達に
小銭を渡すようにしています。
ガザのごく普通の人々の、ごく普通の助け合いです。
ある日、空っぽの皿を握りしめた人々が並ぶ炊き出しの長い列の中に
マイサ先生の10歳と11歳の娘2人を見かけたと聞きました。
私達にできる支援の道が見えた気がしました。
寺子屋が
子ども達にとっては「学びの場」「ストレスを開放する時間」となるように。
大人(先生)にとっては「仕事」となるように。
より多くの子ども達が通える場所、男性陣も関わりやすい場所を目指したい。
子ども食堂がムリでも、せめてランチパックを提供したい。
そうして繋がりが伸びていく中で
食糧配布などもできる縁を育む場になれば、と思います。
私達にはできないことを、マイサ先生が担ってくれる。
マイサ先生だけでは難しい部分を、私たちが補う。
その意味では、「支援」というより「支え合う」という言葉のほうが
しっくりくるなぁ、と感じています。
ガザの人々は助け合って生きています。
けれど最近、食糧を巡って殴り合い
小さな女の子が巻き込まれて流血することも珍しくないのだそうです。
息子達から状況を聴く度に、報道を視る度に
今すぐ食糧支援をできないことが腹立たしいです。
彼らの苦しみを思うと心が刺されたような気持になります。
お腹を空かせた子ども達の姿を思い浮かべると辛いです。
空腹に苦しむ子ども達に何もしてやれない親達を思うと辛いです。
もどかしく、本当に寺子屋支援で良いのか、と自問自答を繰り返しています。
人間が、絶望の中でも心を壊さずに生きていくには
●少しでも日常生活に近い状態を保つ努力ができること
●明日を考えられる気持ちを保てること
●自分は見捨てられていないと感じられること
が必要だと思います。
私達は、彼らが「できるように」「保てるように」「感じられるように」
支えたいです。
空爆のニュースが流れると、電話が通じないと
みな無事だろうかと不安に苛まれます。
が、送られてきた写真や動画の笑顔を見て耐えながら
できることを模索する日々です。