Mrヘルの緩~い生活

ベンツG350d・パッソル改パッジョグ&アプリオ・キャンプ・釣り・御食事・旅・音楽等をベースにした初老の絵(写真)日記

2019GW貧乏旅@掛川城

2019-10-31 | 旅行記
アチラでランチをガッツリ喰らったオイラ達が向かったのが初訪なコチラへっ!









































【掛川城】
じゃじゃ~ん!

こ~んな感じ・・・

<アクセス方法>
JR掛川駅より北上し・・・徒歩約7分

東名高速道路掛川ICより静岡県道38号掛川大東線を北上・・・

新幹線と東海道本線の線路を超え・・・

静岡県道37号掛川浜岡線を左折し、すぐに右折すると大手門の駐車場へ到着致します!
※掛川ICより5分程度

<駐車場>
◆無料駐車場なし/大手門駐車場(約200台)もしくは近隣駐車場

愛機を大手門駐車場に停めて・・・

大手門から撮影スタート!

天守閣を目指して雨の中をテクテクと・・・

途中の案内については写真をご覧あそばせ・・・笑





【券売所】
じゃじゃ~ん!

これより有料ゾーンに突撃するためにコチラでチケットを購入!

<入城料>

天守閣・御殿:大人(高校生以上)410円/小中学生150円

掛川城・二の丸美術館セット券:大人のみ(高校生以上)510円

掛川城・ステンドグラス美術館セット券:大人のみ(高校生以上)810円

掛川城・二の丸美術館・ステンドグラス美術館3館セット:大人のみ(高校生以上)910円

410円×2枚購入し・・・

入城です!



【顔ハメ看板】
じゃ~ん!

有料ゾーン一発目の楽しみは相方の趣味でもあるコチラでの撮影会・・・笑















































【掛川城天守閣(外観)へ】
じゃじゃ~ん!

こ~んな感じ・・・

貴族的な外観をもつ天守閣の美しさは「東海の名城」と謳われた掛川城。

<掛川城天守閣の特徴>

掛川城天守閣は、外観3層、内部4層から成ります。

6間×5間(約12m×10m)の天守閣

本体は、決して大きいものではありませんが、東西に張り出し部を設けたり、入り口に付櫓(つけやぐら)を設けたりして外観を大きく、複雑に見せています。

1階、2階に比べ4階の望楼部が極端に小さいのは、殿舎の上に物見のための望楼を載せた出現期の天守閣のなごりといえます。

白漆喰塗り籠めの真っ白な外容は、京都聚楽第の建物に、黒塗りの廻縁・高欄は大阪城天守閣にならったと考えられます。

嘉永7年、安政の大地震により天守閣など大半が損壊し、御殿・太鼓櫓・蕗の門などの一部を除き、再建されることなく明治維新を迎え、明治2年廃城となりました。

その後、御殿は様々に使用されながら残りましたが、天守台や本丸の跡など一帯は公園とされてきました。

掛川市民の熱意と努力が実を結び、天守閣は平成6年に140年ぶりに木造で再建され、ふたたび美しい姿を現しました。

上記、HPより勝手に抜粋・・・



















































































【掛川城天守閣内部の様子】
じゃじゃ~ん!

こ~んな感じ・・・

<掛川城の歴史>
掛川城より東に500mほどのところにあった掛川古城は、戦国時代の明応6年から文亀元年の間に、駿河の守護大名今川氏が遠江支配の拠点として重臣朝比奈泰煕に築かせたと言われています。

その後、遠江における今川氏の勢力拡大に伴い、掛川古城では手狭となり、永正9年から十年頃に現在の地に掛川城が築かれました。

永禄3年、桶狭間の戦で今川義元が織田信長に討たれると、永禄11年,義元の子氏真は甲斐の武田氏に駿河を追われ、掛川城に立てこもりました。

翌年、徳川家康は掛川城を攻め、長期に渡る攻防の末和睦により開城させました。

家康領有後、重臣石川家成が入城し、武田氏侵攻に対する防御の拠点となりました。

天正18年、全国平定を達成した豊臣秀吉は、徳川家康を関東へ移すと、家康の旧領地に秀吉配下の大名を配置し、掛川城には山内一豊が入りました。

一豊は城の拡張や城下の整備を行うとともに、掛川城に初めて天守閣をつくりました。

上記、HPより勝手に抜粋・・・



























【掛川城天守閣(外観)から十露盤堀へ】
じゃじゃ~ん!

こ~んな感じ・・・

<十露盤堀>
本丸を囲む重要な堀です。

十露盤堀という名称の由来ははっきりしませんが、水がたまった部分がそろばんの箱のように見えることが、その由来と考えられます。











































































































































































































































































【掛川城御殿】
じゃじゃ~ん!

こ~んな感じ・・・

<掛川城御殿の歴史>
掛川城御殿は、儀式・公式対面などの藩の公的式典の場、藩主の公邸、藩内の 政務をつかさどる役所という3つの機能を合わせ持った施設です。

掛川城御殿は二の丸に建てられた江戸時代後期の建物で、現存する城郭御殿しては、京都 二条城など全国で4箇所しかない貴重な建築物です。
※確かにソテツがあったりと二条城で見たものと似ているなぁ~っと思った!

書院造りと呼ばれる建築様式で、畳を敷き詰めた多くの部屋が連なり、各部屋は襖で仕切られています。

当初は本丸にも御殿が作られましたが、老朽化したり災害にあって、二の丸に移りました。

その後、江戸時代の藩の政治や大名の生活が偲ばれる貴重な建物として、昭和47年から50年まで保存修理が実施され、昭和55年1月26日、国の重要文化財に指定されました。

嘉永7(安政元、1854)年、安政の東海大地震で御殿が倒壊したため、時の城主太田資功によって安政2年(1855)年から文久元(1861)年にかけて再建されたのが現在の御殿で、明治元(1868)年までの間、掛川藩で使われました。

<掛川城御殿の歴史の構造>
掛川城御殿は7棟からなる書院造で、部屋はそれぞれの用途に応じ約20部屋に分かれています。

最も重要な対面儀式が行われる書院棟は、主室の御書院上の間と、謁見者の控える次の間・三の間からなります。

藩主の公邸の小書院棟は、藩主執務室である小書院と、藩主の居間として使われた長囲炉裏の間からなります。

東側は藩政をつかさどる諸役所の建物で、目付・奉行などの役職の部屋、警護の詰所、帳簿付けの賄方、書類の倉庫である御文証などがあります。

小書院棟の北側には勝手台所がありましたが、明治時代に撤去されてしまいました。

江戸時代には身分によって入り口が異なっており、藩主や家老は式台玄関から、その他の武士は玄関東側から、足軽は北側の土間から入りました。

以上。HPより勝手に抜粋































【三日月堀から三光稲荷まで】
じゃじゃ~ん!

こ~んな感じ・・・

途中にあった顔ハメ看板の記憶が一番残っておりますがねっ・・・笑

大好きなお城もじっくりと拝見出来て良かったです!


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