雨の記号(rain symbol)

いじめは根絶できない

同級生いじめた動画をネット配信…高校生2人停学処分

 札幌市の北海道立札幌白陵高1年の男子生徒が同級生からいじめられている様子を撮影した動画が、インターネット上に流されていたことが9日、わかった。・・・・・・

 生徒たちのいじめ問題が深刻な事態となってきている。
 これは誰にも覚えのあることであろう。人間としての成長途上期において、誰もいじめることはしなかったし、いじめられることもなかった、という人間など皆無であろう。おそらくはそのどちらかに属したであろうし、どっちでもなかった、と思っている人間も自分がそう思っているだけで、見てみぬ振りして結果的に加担したか、やられても誰かの力を借りてやり返して溜飲を下げ、忘れてしまっているだけであろう。
 子供(少年も含む)の遊びは、優劣を競うことに集約される。裏返せば、競争のない遊びなどないと言っていいだろう。世の中の仕組み自体が競争の原理で構成されているのだから、保育園に始まり、先生が子供らにものを教えていくことは自然とこの原理に沿っているのである。お遊戯にしろ、パズルにしろ、音楽にしろ、駆けっこにしろ、そこに織り込まれていくのは競争を学ぶことなのである。
 いじめの感情は競争原理を受け皿として成長途上の子供らの心に芽生えてくる。この子はどうして自分と同じことが出来ないのだろう、バカなんじゃないだろうか、みんな楽しそうにしてるのにあの子だけ違う、駆けっこが遅い、よく学校を休む、着ている衣服がいつも汚れている、とか、数え上げたらきりがない。このように誰かに不快さや差異を感じるところから出発するのである。そこから出てくる意識は、おそらく自分の優位性や正当性である。
 こうしていじめる子は特定対象の子を標的に登場するが、周辺にはそれを認める空気も出来上がっている。見てみぬ振りする子ら(あるいは同調、笑う集団)の存在である。
 問題はいじめっ子が多数派と同根の土壌にあって養分は豊かで、ちっとも孤立していないことである。だから勢いは止まらないし、次々数を増やしてくることにもつながる。一方、いじめられる子はほとんど四面楚歌の状態になって味方を得ることも出来ない。
 いじめられる子の悲痛の声が聞こえてきそうである。
 これをどのようにしてなくすかは難しい問題だが、学校の先生たちにはあまり期待できそうにない。いろいろきれい事が並んでも、学校というのは生徒たちに抜きつ抜かれつの勉強(競争)を教えるところだからである。
 となれば、子供たちの親に期待するほかないが、いじめっ子がやけに増えてきたように見えるところからして、子供をろくに躾けられないバカな親も増えていると考えるべきだろう。
 結局、いじめられっ子の親がしっかりとわが子を守ってやるしかないのかもしれない。
 まったく悲観的な話だが、だから、この問題はいつまでも根絶できない。
 
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事