思い出を残してみます。
物心がついたのは三重県津市の幼稚園の年中あたり。 私立?の幼稚園で三輪車に乗りながら、幼稚園内にある信号機を守りつつ移動する。
その頃は団地の6階あたりに住んでいた。 あまり「母親」という意識は無かった気がするが、物心ついた頃に日曜などに母のいる部屋に行こうとすると男(義父)と寝ていたりする。
その後、義父の暴力か何かで離婚する事になる。 母と私の二人の生活で、一階上の7階に住むことになる(幼稚園の年長)。
母は水商売か何かで、夕方から0時すぎ辺りまで毎晩働きに出かけた。 初日の夕方だけは泣きついて引き留めたが、すぐに慣れた。
着るもの、食べるもの、寝る場所。とくに申し分もなかった。 夜は独りだがあたたかい…。 夜のテレビをつけると、カップルがお互いに気になる相手のボタンを押して、電飾がぴかぴか光っていた。 あと北斗の拳のアニメ。
公立?の小学生にあがった。 団地から小学校に近いマンションに引っ越した。 やはり衣食住に問題はなかった。 母との会話はあまりなかった。 母は長電話をよくしていた。 私は母に対しては無口だったと思う。 学校ではテレビゲームに関する友達が一定数いた。 母の友達の息子たちがファミコンを持っていたので、よく遊んだり泊まったりした。
母は「新しいお父さん欲しい? お小遣いも増えるよ?」と聞いてきた。 私は義父の暴力がちらついたので「いらない」と答えた。 部屋に男をよんで寝ていたが、私は特に義父が必要とも思えず、特に結婚を反対もしなかったが、母も再婚はしなかった。
母との思いではあまりないが、食べるものが毎回おいしかった記憶がある。 水商売でも何か作っていたのだろうか。
父親はいない事は、小学校では特に何も言われなかった。 毎日ゲームができれば、なかなかの幸福だった。
そんな衣食住に困らない生活で、ゲームもけっこうたくさん買った記憶がある。 その生活は中学3年まで続いた。
中学3年の夏休み中。母が珍しく「頭が痛い」と言っていた。 母はあまり風邪をひかない印象があったが、風邪か何かだと思った。
仕事場で母が倒れたと電話があった。 急性くも膜下出血?だった。大きな病院に搬送される時には意識があって、母は「だいじょうぶだから。だいじょうぶだから」と言った。
夏休みもあけて、学校で先生に泣きながら説明し、なんともいえない状態になったが、クラスメイトはそんな私をなんとか笑わせようとして、私も笑った。
病室で意識不明だったが、看護師が「ちょっと無理やりおこそうか?」と言った気がしたが、私はそっとしておいた方がよくなるのではと思い、起こさなかった。
そのまま母は9月の15日に亡くなった。 火葬場で骨になって出てきたが、私にはどうも現実とも感じられず、泣かなかった。
母の保険金のようなもので、母方の実家の秋田の高校を卒業。車の購入もそのお金から。
転校したあとは、あまり大丈夫ともいえない時期もありましたが、ゲームを支えに生きてきたと思う。
この年齢になり、自分と子供ひとりの衣食住をなんとかしてきた事を、偉大だと感じるようになる。
現在は、ストレスもちょこちょこありますが、生まれてきて良かったと感じている。