ヴィクトリア朝のイギリスでは産業革命の成果により工場で大量生産された商品があふれるようになった。反面、かつての職人はプロレタリアートになり、労働の喜びや手仕事の美しさも失われてしまった。モリスは中世に憧れて、モリス商会(Morris & Co.)を設立し、インテリア製品や美しい書籍を作り出した(植物の模様の壁紙やステンドグラスが有名)。生活と芸術を一致させようとするモリスのデザイン思想とその実践(アーツ・アンド・クラフツ運動)は各国に大きな影響を与え、20世紀のモダンデザインの源流にもなったといわれる。
プロレタリアートを解放し、生活を芸術化するために、根本的に社会を変えることが不可欠だと考えたモリスはマルクス主義を熱烈に信奉し、E. B. バックスやエリノア・マルクス(カール・マルクスの娘)らと行動をともにした。エリノアらとヘンリー・ハインドマンの社会民主連盟を脱退し、1885年、社会主義同盟を結成、その後、再びエリノアらと脱退し、エリノアらとハマスミス社会主義協会を結成した。
レヴェイヨンについて
ジャン=バティスト・レヴェイヨン は壁紙製造を目的としてフォリー・ティトンに自らが設立し、300人の労働者を雇用する王立マニュファクチュアを経営する企業家だった。その邸宅兼工場だったフォリー・ティトンの庭園では、1783年10月19日に最初の熱気球の有人飛行が行われた。この庭園は現在では失われているが、パリ・メトロのフェデルブ=シャリニー駅の近く、現在のモントルイユ通りにあった。現在その場所には、昔を伝える記念プレートが設置されている。
レヴェイヨンは労働者の賃金について不穏な発言をしたとされている[3] 。労働者の日当が1日あたり25スーではなく15スーであった古き良き時代を彼は懐かしんでいたのだろう[4]。別の解釈によると、自由主義的な考えによって育ったこの経営者は、輸入小麦粉の価格、ひいてはパンの価格を下げるために、パリに入ってくる物品に課せられる入市税を廃止すれば、賃金を下げることが可能になると示唆したという[5] 。別の経営者、硝石の製造業者アンリオもレヴェイヨンと同意見であった[6]。それが事実であったかはともかく、人々の間ではレヴェイヨンは賃金の引き下げを望んでいると噂された[7]。その日の夕方には彼の名前は罵倒の対象となり、噂はキャバレーや作業場で繰り返し語られ、ついに不満が爆発した。
以上抜粋
壁紙というものを通して社会主義と資本主義の対比としてとらえられる
モリスは社会主義の中で職人は育つと考え、資本主義になれば職人は単なる作業者となっていくと考えていたようです。