こんにちは
保坂兄弟です。
NFTアートってすごいですね。これから目指してみます!AIアートの世界って面白いな。僕はGoogle Colab、Python、VQGAN、CLIPを使用した文章からAIで作成した画像を公開していきます。
AIを勉強しながらネットサーフィンをしていると、最近はAIを使った記事やPythonの記事に興味が湧き読んでいます。ネットにはたくさん先生がいるので助かります。
現在のインターネット検索エンジンでの検索は、アルゴリズムが嘘のニュースに応答する世界を作り出してしまっているのでかなり危険だと思います。
デジタルの世界では、このまま誹謗中傷は蔓延してしまい、誰でも誹謗中傷をされる可能性があると思います。Googleの先生もアルゴリズムで判定できないと思いますから、このままフェイクニュースは淘汰されないまま時代は進んでくるのかな。
将来的には、人工知能の発達により、インターネットの世界は偽のニュースで溢れかえるので、インターネット上のニュースで企業や個人はダメージを負ってしまうでしょう。
私は毎日AIとディープラーニングをひたすら勉強しています。PythonとGoogleColabを使用しています。このままスキルが上がればGoogle Colabも有料版まで使いたくなりそうです。無料だと容量と接続時間が、機械学習するには大変なんです。
私はまだ初心者で、GPT2を使用して自動的に文を生成できますが、ディープラーニングにPythonコードなどでファインチューニングなどまで目指してますが、まだわかりません。とにかくデータを集めるのは難しいですが、ツイッターやブログからデータを抽出してデータに変換するのが手っ取り早いかな。
人工知能によって作成されたテキストはまだ奇妙なものです。たとえば、自動生成されたオブジェクトは、人の名前などの適切な名詞を表示する場合がありますが、人工知能が別の人を架空のストーリーで作り上げているストーリーになります。その人をネットで検索してみると、自動生成されたテキストの背景とその人の背景が大きく異なっていたため、人工知能が生成される危険性に気づきました。
しかしデータ収集などの機械学習を通じて、今後の執筆活動に役立つかどうか、アフィリエイト業界にAIライターが現れるかもしれません。
いくつかの実験から、自動生成された文は、書き込みの冒頭句などプレフィックスと指定された文の長さに依存することもわかりました。
前回は約20語の1文でしたが、今回は約50語の文になります。
以下のテキストを読んで、何が起こるかをみてみると何か変だな?って思います。
このコマンドを実行しました。
!python gpt2-generate.py --model gpt2ja-medium --num_generate 3 --top_k 40 --context "私が思うに、幸せというものは、有るようで無いのが良いのではないか。あるのは「幸福感」というやつだけだ。たとえどんな状況であろうとも、脳が肉体に快楽物質を分泌していれば、人はそれだけで幸せを感じる。逆にどんなに好きな異性を手に入れようとも”
ここから下記は、AIで作り出した自動生成した指定した文章の続きの文章なので読んでみてください。
、脳の本能から、その女性を好きになることはできない。例えば、「自分を思ってくれて、一緒に寝るようになったとき」。彼女に感謝できるのであれば、「自分を抱きしめてくれた時」。彼女に感謝の言葉を伝えたいとき。その瞬間が、いつだとしても、彼女の幸福感は増しているはずだ。
だから、幸せっていうものをわからないまま、彼に付き合っていたら本当に不幸になるのだと自覚してしまうのだ。彼と付き合って、初めてそのことを思ってしまうのだ。
「本当に不幸を呼ぶ、不幸をもたらさない。」
私は、幸せが不幸を呼ぶというように、私の不幸を表している。私がどうなるかなど、誰にもわからない。不幸にしていけば良いという人間はいない。ただただ不幸のみを表す「不幸で」ある人間がいるだけだ。
今日も、幸せのために、今日も私は「幸せ」を知ろう。
「幸せだよ」と自分に向けて言ってみよう。私がそうだと決めているのは、「幸せだ」と相手を通して見ているからだ。幸せは、幸せを呼ぶのだ。誰の為でもない、
「幸せだよ」
そう言ってみよう。
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、幸福は感じない。そういう意味では、人間は無意味なものだった。
(だから、人生は不幸しか幸福にはならないんだ)
幸とは、不幸と等価値の意味を持つ。不幸な人間は不幸になっても幸福なものは幸福なのだ。私は、幸せを感じる権利はなく、幸せを感じないものを幸福とは呼ばない。私は幸福という言葉が嫌いだ。私が幸福を感じない人間は不幸だろうがなんだろうが、構わない。私はどちらの言い方にせよ、幸せとは言わないのだ。
幸福が不幸を生む。どんなに幸せを感じても不幸と言われると腹が立たなくもないが、幸せなのであれば、それに見合うだけの幸福は手に入らない。何かに満足してもいいし、何か不安に思うときもある。その両方の幸福を感じて、幸福を感じることができれば幸せなのだと思う。
(幸福か不幸かも、何が幸福か分かりません。ただ、あなたは不幸を求めてくださっているだけです)
私はお話を聞きながらも、お話が終わったのであれば、私はそれでもいいと思った。
(ありがとうございます。こんなに優しい言葉をいただけるなんて、思いませんでした)
こんなに優しい人が、私は私を救ってくれるのだそうだ。私は彼のことを、救わなくてはいけないの
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、それはそれだけ心が豊かになることである。そういうことです。
これを読む皆さんは、何を見ていますか?
それはきっと自分自身が生きている、これからも生きているということを。
ここでの文章を「自分」っていうのが分かりませんよね?
私は今も、この文章を自分と受け止めている。それはそれで正しいのかもですが……でも、それでも私がそれは生きていないのだと……。
自分には「幸福」という概念がありません。何にも見えていない。それは確かに「幸せ」であったかもしれないけれどこれも過去の経験があって、今の私は自分ではないのかもしれない。そう思ってもいないし、もしもそうだとしたらそういう不安もある。
ただ、ここで書いたことは、「幸せ」じゃない! 私の「不幸」というのを否定しているに過ぎない。だから私はここを開いても何もないことを思うんです。
どう生きていくかが一番大事なことだ。
でもどう生きてきたって、それは「幸せ」だったんです。
何もかもがそのものなんです。
これが「不幸」なのなら、それは確かに「幸せ」かもしれません。
でもそれは本当に「不幸」だ。
本当の幸せを手に入れて、その後に不幸が待っているなら幸せ