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換われるものなら…

2007-03-23 | ともに生きる...共生

世の中には、ほかの人の「換わりにやっていること」「分担していること」がたくさんあります。人間は、互いに色々な役割を分担すること、あるいは新しい道具(機械や器械など)を発明して、それに換わってやってもらうことで、より生活しやすい「社会」を築いてきました。そして、それを細分化して、専門的にやる「職業」というものを、それぞれの人間が持つようになりました。もし、そうでなかれば、私たちはもっと違った生活をしていたでしょう。
つまり「換わりにやる」「分担する」ということが、『人間の知恵』であり、人間社会を形作っている根元と言えるのです。

けれども、絶対に換われないもの、それが、あなたと私という『本人自身』です。だからこそ「命は掛け替えのないもの」なのです。そして、それを具体的に感じたい!がために人間は「恋愛をする」「仕事で名を残す」「子供を可愛がる」「いたずらをする」など、色々なこと!?に努力するのです。ときとして、それらが度(ど)を過ぎたとき、その気持ちが相手に伝わらず、相手の迷惑になるから、問題になるのです…。

仕事あるいは職業についても「貴賤はない」と言われますが、それは、それぞれの仕事(役割分担)が他の人にとって必要だから、価値は違わないということです。今までは家柄や学校ブランド(偏差値など)、ときとして「運」に左右されてきましたが、少しずつ「その人が努力すれば、自分の希望する仕事に就ける」「自分の未来を自分で決めることが出来る」ような方向に向かっているのです。
ただし現代は、色々な道具が、今まで人間が果たしてきたことに取って代わるペースが早すぎて、対応しきれていないため、俗に言う『人余り現象』を起こしていることが問題なのです。

だからこそ、私たちは「人間でなければ出来ないこと」そして「私でなければ出来ないこと」を見つけ、その価値を高めていかなければならない時代にいるのです。

また、どう考えてみも、物質的には、「いま」は過去よりも豊かで満たされているはずです。それは、「みんなで、色々なことを分担すること」を広範囲に行い、それぞれの分野でそれを高度化することで、より多くのモノを交換し合っているからなのです。それらを「言葉(情報)」と「お金」という道具(ツール)を使って、より広い範囲で交換することが出来るからなのです。

だから「お金で買えないものはない」という考え方も、いまどきの子供がふた言目には「お金ちょうだい!」と言うのも、お金が色々なモノと交換できる、置き換えることができるモノである以上、ある面では真理をついているから、仕方のないことかもしれません。

しかし、お金には肖像画は描いてあっても、「顔」がありません。その「顔」のない道具(ツール)に命を吹き込まなければならないと思うのです。子供を叱る前に「お金は自分が誰かのために何かをしたことへの対価であること」を理解させることが必要なのです。
そのためには、これからの時代は「お金」という道具を通して、「何かを提供する側」と「それを受け取る側」が、お互いの存在を感じ合える時代、状況を作ることが必要になってくるのだと、私は思うのです。

いま農産物では、生産者の顔が描かれたり、名前などを明記した製品がたくさん売り出されています。○○ブランドというものも、それを作った会社なり、生産者の「品質管理」への信用度が社会的に認められているから、お金の向こう側が『見える』から、少し高くても「売れる」のです。また、企業でも、お客様窓口の充実や色々な方法を使って各種のアンケートなどをすることが多くなっています。作れば売れる時代から、使っているウチに感じる「使い勝手」ということも問われているからです。

作る側が『買ってもらったら終わり』から『今後も、長いお付き合い』ということを意識し始めているからなのです。これも、作る側と使う側とのコミュニケーションの必要性を、作る側が気づいたからなのです。


今度は、逆に、サービスやモノを提供される側の意識も変わっていかなければならないと思うのです。
アメリカの社会は「契約社会」と言われます。何かを交換するときには必ず「契約書」が必要です。そこには、こと細かく決まり事が書かれていて、書いていないことが起きた場合は「誰の責任か?」を裁判で白黒つけます。価値観も考え方も違う人間が集まっているから、仕方のないことかもしれません。「他人を信じない」が、原則だからです。

最近では、日本でも「リスク・マネージメント(危機管理)」 という言葉が持てはやされています。色々なことを「想定」して、事故の対処の仕方や責任の所在を明確にしようとするものです。人間は間違いを起こすもの、完璧は有り得ないからです。だから何かが起きれば、誰かが困るわけですから、事前に決まり事を作っておけば、より被害を最小限におさえることが出来るでしょう。

しかし、現在の報道されている状況、マスコミ陣を含め、何かヒステリーにも似た「あら探し」的な原因追及の状況は、どうかな?と頭をひねりたくなります。医療や介護の世界、育児に関して、何かトラブルが起きると、「それ見たことか!」的にみんなで根堀り葉堀りの原因究明が始まります。「思いやり」や「もっと信用しようぜ!」という言葉を差し挟む隙を与えない勢いは、何か異常な気がします(技術的な裏付けがないまま行われた場合は、それには該当しませんが…)。

確かに、取り返しのきかないこと(人命に関わること等)が起きだとき、その結果に対して「やりきれない」思いは、誰しもが持つものです。けれども、どこか「お金を払ってやっているのだから、完璧にやるのが当たり前だろ!」というような『お客様は神様です』的な発想、一方的な意識、「お金で何でも買える」的考え方が、その後ろ側に潜んでいるような気がしてなりません。
もし同じことが、家族や親戚、知り合いに頼んだときに起きた場合、そんな態度になるのでしょうか?最近は、それもあり得るから、もっと怖いけど…。

だから、先ずは「他の人がやっていることは、自分の換わりにやってもらっている」という意識を忘れてはいけないと思うのです。確かに、「仕事」として、それで生計を建てているから、プロ(専門)としてちゃんとしなければなりません。けれど、それを『当たり前』と思ったとき、人間関係ではなくなると思うのです。人間は神様にはなれない、神様は、空の上で見守っていてくれれば良い?と思うのです…。

「住みやすい美幌をつくろうプロジェクト」とは、肌触り的感覚として、そこで生活する住民全体を意識出来るサイズ(大きさ)の『美幌』という地方自治体で、「お互いに協力出来ること、換わってやれることは何か?」を探して、それをシステムとして実現することを目的として、行われるものです。
無償のボランティアではなく、そこにお金を介在させること(それを循環させること)を含めて、生活を営む上でも『共に生きること』が出来る地域を作って行きたいと考えています。

長い文章になりましたが、最後まで読んで頂いたことに感謝しながら、これからの、皆さんのご理解とご協力をお願いして、アッシーくん、プロジェクト活動をこの4月から始めます。 三浦 厚志
2005年4月5日


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