夢 幻 ゆめまぼろし
夢の間にまには 意識できない
いくつかの空白がある
旅をすることは
その空白の陰影を
無意識に感じとること
ただ
いかに焼きついた
記憶といえども
時間の隔たりにより
倒錯するものである
そのことを理解する時
旅は句点を打つ
夢 理 論
セノイ民族の夢理論とは何であろうか
われわれは 人生の四分の一から
三分の一を眠っている
そこで「夢」を見ている
永遠の時空の中を転がり
すべての開放を肯定する「夢」
そろそろ「夢」というものの力を認識すべき
時なのかも知れない
夢がコントロールによって生みだされる次元で
人は 人というカテゴリーを抜け
自分を宇宙人の末裔であるとさえ思わせる
正に夢をコントロールする能力を持つという
セノイの人々は自分を高揚し
常に神聖化できるのである
時間のスクランブル 否定できない空間
夢の持つ力は制御することだけに留まらない
精神性の深さこそが 私たちを旅の持つ
夢如実へと 琴線を震わせる
精神世界から
原風景へ
旅
虚 空 夢
夢も跡なく 夜も明けて
村雨と聞きしも けさみれば
松風ばかりや 残るらん
羅列する空間のある一部分から
体現したこともない異次元を感じ取れるのは
人の持つ「夢」という
触手感覚のなせる技ではないだろうか
どうやら 夢をコントロールできるのは
ごく限られた空間に点在する
純粋な高揚を見いだせる能力を持った者に
与えられる特権なのかもしれない
存在する全ての時空
その無節操さに対して
人の一生のなんと厳格たるか
旅 雑 論
自己規制の中で生きている
自分の謙虚さを拒まない
認識からの理解を常套手段として
受け入れてはいけない
目の前に立ちならぶ現実という根拠から
全てを学びとらない
新しい場所に進むときに
無駄な感性に思考を費やさない
苔 むす
旅を何度か重ねると
指先で風景の韻というものを
感じとることができる
それは感受の憂いではなく
肌が苔むすような感覚に近い
千姿万態
その思いに差異はあるものの
時間と空間は 感性の風鎮となり
旅の叙景を 一筆の句に表し
また 一服の 絵画に写し
風媒花となり 再び
人を その向こうへと馳せらせる
夢の輪郭
いつかの夢の輪郭が
時をおいて 今
この場所で
現(うつつ)と交差し始める
些事なるも
神秘を垣間見る瞬間でもある
音の和を聴く
日本の美しい音とは
目を閉じると
無の心にだけ響いてくるような
削ぎ落とされた色彩のようなもの
廓然無聖
無にして尊き
遊
まぼろしを漂い
幾つかの空白を
訪ねて歩く
時間
「時間」から遠く
旅をする「空間」
夥しく計算された予測を
白紙に戻せばすぐに
自分の場所から
はみ出していたことに
気づくはずです
凛
少し現を置きざりにし
この身を山河の片鱗に同化する
沙羅さらと心の中で澄んだ音が
繰り返される
なんとも心地よく
凛とします
余 香
記憶は遠のき
山紫は薄れゆくとも
その余香は
記されるすべてのものより
鮮烈に刺激を促し
紐を解き 丁寧にまた織り返される
旅をすることは
五感の機(はた)を
織り続けることなのかも知れません
時間と空間が
交差し続ける法則を持つとしたら
それは 私たちの心に
座標の一点として
投影されていくのです
記憶が遠のくのは
郷愁としての感情が
くり返し芽生えているからです
くり返す郷愁
それは旅の諸相の一端に
すぎないのです
夢の間にまには 意識できない
いくつかの空白がある
旅をすることは
その空白の陰影を
無意識に感じとること
ただ
いかに焼きついた
記憶といえども
時間の隔たりにより
倒錯するものである
そのことを理解する時
旅は句点を打つ
夢 理 論
セノイ民族の夢理論とは何であろうか
われわれは 人生の四分の一から
三分の一を眠っている
そこで「夢」を見ている
永遠の時空の中を転がり
すべての開放を肯定する「夢」
そろそろ「夢」というものの力を認識すべき
時なのかも知れない
夢がコントロールによって生みだされる次元で
人は 人というカテゴリーを抜け
自分を宇宙人の末裔であるとさえ思わせる
正に夢をコントロールする能力を持つという
セノイの人々は自分を高揚し
常に神聖化できるのである
時間のスクランブル 否定できない空間
夢の持つ力は制御することだけに留まらない
精神性の深さこそが 私たちを旅の持つ
夢如実へと 琴線を震わせる
精神世界から
原風景へ
旅
虚 空 夢
夢も跡なく 夜も明けて
村雨と聞きしも けさみれば
松風ばかりや 残るらん
羅列する空間のある一部分から
体現したこともない異次元を感じ取れるのは
人の持つ「夢」という
触手感覚のなせる技ではないだろうか
どうやら 夢をコントロールできるのは
ごく限られた空間に点在する
純粋な高揚を見いだせる能力を持った者に
与えられる特権なのかもしれない
存在する全ての時空
その無節操さに対して
人の一生のなんと厳格たるか
旅 雑 論
自己規制の中で生きている
自分の謙虚さを拒まない
認識からの理解を常套手段として
受け入れてはいけない
目の前に立ちならぶ現実という根拠から
全てを学びとらない
新しい場所に進むときに
無駄な感性に思考を費やさない
苔 むす
旅を何度か重ねると
指先で風景の韻というものを
感じとることができる
それは感受の憂いではなく
肌が苔むすような感覚に近い
千姿万態
その思いに差異はあるものの
時間と空間は 感性の風鎮となり
旅の叙景を 一筆の句に表し
また 一服の 絵画に写し
風媒花となり 再び
人を その向こうへと馳せらせる
夢の輪郭
いつかの夢の輪郭が
時をおいて 今
この場所で
現(うつつ)と交差し始める
些事なるも
神秘を垣間見る瞬間でもある
音の和を聴く
日本の美しい音とは
目を閉じると
無の心にだけ響いてくるような
削ぎ落とされた色彩のようなもの
廓然無聖
無にして尊き
遊
まぼろしを漂い
幾つかの空白を
訪ねて歩く
時間
「時間」から遠く
旅をする「空間」
夥しく計算された予測を
白紙に戻せばすぐに
自分の場所から
はみ出していたことに
気づくはずです
凛
少し現を置きざりにし
この身を山河の片鱗に同化する
沙羅さらと心の中で澄んだ音が
繰り返される
なんとも心地よく
凛とします
余 香
記憶は遠のき
山紫は薄れゆくとも
その余香は
記されるすべてのものより
鮮烈に刺激を促し
紐を解き 丁寧にまた織り返される
旅をすることは
五感の機(はた)を
織り続けることなのかも知れません
時間と空間が
交差し続ける法則を持つとしたら
それは 私たちの心に
座標の一点として
投影されていくのです
記憶が遠のくのは
郷愁としての感情が
くり返し芽生えているからです
くり返す郷愁
それは旅の諸相の一端に
すぎないのです
ふと、宮沢賢治の「春と修羅」の序章、「明滅する有機交流電灯の・・・」を思い出しました。
宇宙を、4次元を旅していることを思い出せそうな・・・。
ことばがでません・・・。
とある日本旅館の写真冊子に使っていただいたものです。
年とともに、ネットが隆盛するとともに
もっともっと自分の内面に向かって物を書くという作業をやりたいと欲するようになりました。いんなあとりっぷです。昔ありましたね。こんな冊子。
活字を欲し、それ以上に自分の言葉をはびこらせたいですね。そんな今日この頃です。
視覚以外の五感(四感?)でもっと万物万象を感じたいですね。
その感性を言葉にして、センテンスにしたいですね。