先の投稿で、昨今の陰謀論ブームは、敢えて荒唐無稽な陰謀論を沢山の人々に流布することで、陰謀論の馬鹿馬鹿しさと、それを真に受ける人々の浅はかさを、強烈に世間に印象づけようとする、いわば、陰謀論潰しの為の、巧みな「陰謀」であることをお話しました。
本稿では、本来の陰謀と言われるものとその起源についてお話ししたいと思います。
先ずは、旧約聖書の創世記に登場するエデンの園の話から話を始めたいと思います。
旧訳聖書は一神教の共通聖典であり、一神教圏では圧倒的影響力をもって来たわけで、その後の人類文明は、それとどう向き合うかが、大きな分かれ道に成ってきた面があります。
端的に言ってしまえば、この旧約聖書の大前提に従うか、それを真っ向から否定するかの二通りの在り方があった訳ですが、この大前提に従う在り方は、大雑把に言えば、普通のキリスト教かユダヤ教かイスラム教徒として生きる事でしたが、真っ向から反対する生き方は、言わば、旧約聖書で悪魔であるとされている存在の思想に同調して生きることと同義でした。そういう生き方は完全なる異端である為、その思想を公言する事は絶対に不可能で、公言したとたんに、社会的に抹殺される可能性があったという事です。
という事は、そういう思想を持ち続けるという事は常に命がけの危険を伴っていたため、必然的に秘密にするしか無かったし、団体であれば秘密組織するしか無かった訳です。
世の秘密組織というものはこの様にして出来上がって来たわけで、別に理由も無く面白がって秘密組織にしたわけでは無いのであります。
という事は、秘密組織である以上、必ず、世間に知られてはまずい要素を隠していると言える訳です。
世界的に有名な友愛団体なども、普通の友愛団体なら、何も秘密にする理由など無いはずですが、世間に知られてはまずい要素をもっているから、今でも秘密組織なのであります。
しかし、世間に知られてはまずい秘密というのは、必ずしも、いわゆる悪い事とは限らない訳ですが、確かに言える事は世間の大多数の人々の信仰の在り方に反する思想を持っていると言う事です。
世間の大多数の信仰の在り方に反してしていると言う事は、神の意に背く、いわば悪魔の様な輩と見なされる訳で、そういう輩は信心深い人々からは何をされるか分からないので、ずっと秘密組織としてその本当の思想は隠してこざるを得なかったのだと思われます。
しかし、彼らはとてもしたたかだった為に、秘密裡にしかし着実に、旧約聖書的な考え方を否定して、彼らの思想の方がまともであるという考え方を長い時間をかけて世間に浸透させて来たのです。
その証拠に、これからご紹介するエデンの園の話と、そこから導き出されるキリスト教の教えと、サタンの思想とされるものを比較すれば、どちらの言ってる事が正しいと思えるかは、あなたがどれほどサタンの思想に既に洗脳されていて、反キリスト教的な考え方に成っているかの尺度になると思います。
では、冒頭のエデンの園の話に戻りましょう。
当初、永遠の楽園であるエデンの園で、神の意のままに生きていた人類の始祖のアダムとイブは、やがて悪魔の化身である蛇に次のように言われます。「あなた方は、そうやって全て神の意のままに自分では何も考えずに生きているが、この知恵の実を食べれば、神の様に自分で善悪の判断が出来るようになって、自分で考えて判断出来るようになる。何故、この知恵の実を食べないのか?」と。イブは「神から、知恵の実を食べると死ぬと言われてる。自分達が死なないように食べるなと言われているのです。」と答えました。蛇は「知恵の実を食べても死ぬことなんかありえない。神が食べるのを禁じているのは、人間が知恵の実を食べると、神と同じように、自分で善悪の判断が出来るようになってしまって神をないがしろにしようするからだ。」とイブに言います。それを聞いて、イブは知恵の実を食べてしまいます。そして、アダムにも食べるように勧めてアダムも知恵の実を食べてしまいます。
するとアダムとイブは知恵がついて自分で考えられるようになって、何故自分達は裸なんだろう?などと様々が疑問が限り無く沸き起こって来ました。
その様子を見て神はアダムとイブが、決して食べてはならないと命じていた知恵の実を蛇に唆されて食べしまった事に激怒し、アダムとイブを永遠の楽園のエデンの園から追放し、彼らの永遠の命は失われて死すべき存在となり、イブには出産の苦しみを与え、アダムには労働の苦しみを与えたということです。
つまり、人類の始祖であるアダムとイブは、知恵の実は絶対に食べるなという神の命令の本心に疑念を抱いて、その命令に背いて、自らの意思で知恵の実を食べてしまい、初めて神の意に逆らってしまった訳です。その神の意に逆らった罪で永遠の楽園を追放されて、地上界で死すべき存在として、それぞれの苦しみを与えられ、その二人の子孫も人類としての(神の意に背いた)原罪を背負うことになった訳であります。
そのような原罪を背負ってしまった人間が、再び神に許されて神の意のままに生きるには、神の意に逆らおうとした罪(原罪)を自覚して、ひたすら神に許しを請い、その人類の原罪を贖ってくれた神の子イエスに自分の全てを委ねて救いを求めることによって、神の愛を自らの内に受け入れ、神の意が自からの内に働くようになって初めて、悪から離れて、神の意と愛のままに生きることができる、というのが、キリスト教の教えなのであります。
つまり、キリスト教では神の意を無視して、自分の能力と知恵を過信して、独自の判断で生きることは最大の罪であり、キリスト教における最大の悪の権化とも言える地獄の大悪魔ルシファーは、あのエデンの園でイブをそそのかしたあの蛇の正体でもあって、ルシファーは人間を神の忠実なしもべから、自分の仲間にするために意図的に知恵の実を食べるように唆したのでした。
ルシファーとは、元はと言えば神に匹敵するほどの能力と知恵を持った大天使だったのですが、その自らの能力への過信と自己愛から、神を越えようとの野心を抱き、神の怒りをかって、地獄に堕とされた堕天使なのでした。
つまり、ルシファーとは知恵第一の大天使であって、その化身であるエデンの園の蛇は、人間の始祖のアダムとイブに対して、神の意のままに生きるのは、自分で考えようとしない馬鹿のすることであって、人間もちゃんと知恵を身に着けて、自分で考えて、自分で自分の生き方を考えるべきだと教えたわけですが、その誘いに乗ったアダムとイブは、その時点で、神を裏切って、大悪魔ルシファーの影響下に入ったと言える訳です。
従って、我々人類は、そのままでは大悪魔ルシファーの影響下にある訳で、だからこそ原罪を背負っていると言われる訳です。
そういう原罪を背負った思いあがった自らの知恵では真の善などなすことはできず、先にも述べたように、その自らの原罪を悔い改めて、自らの全てを神に委ね、そうやって神の愛を自らに受け入れてこそ、神の愛の力で他者を愛することもできるようになって神とともに生きられる様になるとキリスト教では教えられている訳です。
しかし、そのような神の意のままに生きる生き方に、本当に価値があるのか、そんな生き方は、自分自身の生き方とは言えないのでは無いか?教えられるまま、言われるままに生きるのは他人の人生を生きるようなもので、やはり、人間として生まれたからには、自らの意志と気持ちと知恵で、自分独自の人生を生きなければ意味は無い、というのが、蛇つまりルシファーの言い分なのでした。
ここで、このルシファーの言い分とほぼ同じ主張をしている有名なスピーチをご紹介しておきます。
「あなた方の時間は限られています。だから、本意でない人生を生きて時間を無駄にしないでください。ドグマにとらわれてはいけない。それは他人の考えに従って生きることと同じです。他人の考えに溺れるあまり、あなた方の内なる声がかき消されないように。そして何より大事なのは、自分の心と直感に従う勇気を持つことです。あなた方の心や直感は、自分が本当は何をしたいのかもう知っているはず。ほかのことは二の次で構わないのです。」これは、あの有名なスティーブジョブズのスタンフォード大学卒業式でのスピーチの終わりの部分の言葉です。
これを読めば、何故アップルのロゴがかじったリンゴなのかが良く分かると思います。ただのリンゴでは意味は無いのです。リンゴがかじられている事こそが重要なのです。皆さんもリンゴをかじりましょう!ということです。スティーブジョブズは敢えて分かる人には分かるように合言葉のようなロゴを使い、誰かに決められた生き方では無く、自分の知恵と思いと直感に従って生きるように多くの人々に呼びかけたわけです。つまり、彼こそは現代版のエデンの園の蛇だったとも言えるのかも知れません。
スティーブジョブズのあのスピーチを聞いて、感動してしまった人は、既にルシファーの思想にかなり染まっているのかもしれません。
しかし、そうなるには、ちゃんと理由がある訳で、そうなるように歴史的にも大変な努力が為されて来た訳であります。
実は、彼の様に考える人は歴史上でも少なからず居て、彼らは神の言うままに生きるよりも、知恵の象徴として夜空に光り輝く金星のようなルシファーこそが、我々の目標であるとして、正統派の神ではなく、ルシファーを師として崇めるグループを組織し、圧倒的大多数の神の信者達からの弾圧を避けるために、秘密組織として深く地下に潜って連綿と活動を続けてきた訳であります。
そして、長い長い沈黙の期間を経て、14世紀になると先ずはイタリアでルネッサンス運動が始まります。これは、教会の絶対的な権威と支配から、人間一人一人を解放しようとする運動で、社会的・宗教的束縛から人間個人を解放しようという運動でした。ただ、この時点では、社会一般の変化としては、教会から押し付けられた信仰を、人間一人一人のものにするといういわゆる宗教改革として、信仰の在り方に変化をもたらすに留まりました。
次の大きな一歩は、啓蒙主義思想の広がりとして17世紀から始まります。啓蒙思想あるいは啓蒙主義とは、無知の暗闇に光を照らす、ということで、教会の絶対的な権威の元に人々は何も考えず何も知らない知の暗闇状態が長く続いた状態から、人間一人一人が、自らの理性の光を頼りとして、自らの知恵と判断で生きる事ができるように奨励する運動なのでした。
もうお気づきの方もおられると思いますが、この啓蒙思想・啓蒙主義こそが、あの蛇の言葉、ルシファーの思想をそのまま公然と主張した内容だったわけですが、直接、キリスト教を否定しているわけでも無いし、社会的・政治的文脈でも語られているので、その思想が明らかなルシファーの思想で、反キリスト教的な思想であることに気づく人は多くは無かったと思われます。そもそも啓蒙の原語はenlightenmentあるいはilluminationでどちらも光で照らすという意味です。そして、知恵第一のルシファーは正に光の天使だった訳であります。
人類文明の近代化をもたらした、近代合理主義の土台となったのは、この啓蒙思想だった訳です。
そして、この啓蒙思想は近代思想の代表として、世界中に広がり、世界中の人々が、この啓蒙思想を半ば常識として学ぶようになった訳です。従って、現代人の殆どは、この啓蒙思想的な考え方こそが、進歩的な考え方であり、古臭い、社会風習や因習や迷信や盲目的な信仰から人間を解放し、人間一人一人の理性と知性によって、善悪を判断して、生き方を決めて主体的に生きる道を示すものであると信じるように成った訳であります。
つまり、かつては、神の意に背く大悪魔ルシファーの思想であったものが、今や名を変えて、世界中の進歩的な人々の常識となったわけであります。
ただ、キリスト教の側もそれを黙って見ている訳ではなく、アメリカなどでは、進化論は神の教えを否定するものであるとして、保守的な地域では学校で教える事が禁じられている所もあったほどですし、堕胎問題では国を二分する大論争に成っています。
つまり、キリスト教の教えでは堕胎は明らかな殺人であり、神の教えに背くものなので、熱心なキリスト教徒は絶対反対なのですが、個人の自由と判断を尊重する人々は、女性の堕胎する権利を主張して、いわゆるpro-lifeとpro-choice論争として、世論を二分しており、その対立は年々激化しています。
かつては、圧倒的な大多数派だったキリスト教信仰ですが、今では、ルシファー派の長年の努力が実って、今や世界中で多くの人々が知らず知らずのうちにルシファー思想の信奉者になっているのです。
ただ、殆どの人は、それがルシファー思想であるなどとは思ってはおらず、ただ普通に合理的で近代的な考え方をしているだけだと思っている訳です。
スティーブジョブズのスピーチを聞いて世界中の多くの人々が感動するのも、既にその前提となる思想を教育を通じて学んでいるからです。普通のキリスト教徒ですら、スティーブジョブズの思想が、ルシファーの思想であると気づいている人は殆どいないようです。
かじったリンゴのロゴにも何の疑念も抱かずに快適にアップルのパソコンを使い、アイフォンを使っているのです。それほどまでに、今やルシファーの思想は人々の間に深く浸透しているのです。
そして、先にも言いましたが、このルシファー思想を積極的に広めて来た人々は、ずっと秘密結社として活動して来たわけですし、そもそも知恵第一のルシファーを信奉していることからして、その時代のトップクラスの叡智と能力を持った人々の集まりだった訳ですが、当然ながらそういう人々は経済的にも成功しており、富が富を生みだして、今や、世界中の経済を動かしていますし、それにともなって、世界中の国々の政界、マスコミに多大なる影響力を及ぼしていることも事実です。
しかし、彼らの目的は世界中の人々が自分の理性で自分で判断できる人間になる事を後押しする事であって、それ以上でもそれ以下でもないというのが本当の所なのかも知れませんが、実際の真意は不明です。
ただ、確かな事は、彼らの事を悪魔だとして糾弾しているキリスト教は最大の敵で在り続けるでしょうが、彼らは世界中の人々が自分の理性で自分の判断で生きられるようになれば、キリスト教など自然消滅すると確信しているのかもしれませんし、それが彼らの目標なのかもしれません。
従って、秘密結社が世界の闇の政府として世界中を支配しているという疑念は、ある意味本当であり、そういう意味では、各国政府の枠組みを超えた所で、世界が動いているというのも本当だと思います。
しかし、だからと言って、彼らがあからさまな悪巧みをしたり、とてつもなく悪い事をしている根拠はありませんし、そもそも、全てを手に入れている彼らが、わざわざそれ以上の分かりやすい悪い事をする必要など無いと思われます。
ただ、彼らが目指しているのは、個人の自由を束縛するあらゆるしがらみから、個人を解放することなので、個人を束縛するあらゆる既存の制度や体制を廃絶することを目指しているのは確かなようです。
具体的には、国家、宗教、家族制度、結婚制度、人種差別、性差別などを廃絶する事です。
このような思想は200年ほど前なら、とんでもない思想で、社会を破壊する危険思想でしかなかったと思いますが、不思議な事に、今では、それほど、あり得ない考え方でもないと思えるのが不思議です。
国家や宗教はあらゆる紛争の元に成ってきていますし、もう国家とか宗教とかそういう枠組み自体を無くしてしまえば戦争も紛争も無くなると思えます。正にジョンレノンのイマジンの世界です。家族制度や結婚制度も、多様な性の在り方を考えると、従来の様な画一的な制度は見直すべき時期に来ているようにも思えます。そして、人種差別や性差別などは言わずもがなで、無くすのは当たり前だと今では殆どの人に思われています。
しかし、200年前に、このような思想と計画が世間に暴露された時には、そのあまりにも過激な内容のせいで、反ユダヤ主義の根拠になってしまい、後のヒトラーによってユダヤ人抹殺計画の根拠にもされたので、その計画自体が荒唐無稽の捏造であったと見なされるようになりました。
今日の陰謀論はその頃から盛んに言われだしたものなのであります。
しかし、その後の世界の変化とその方向性を良く観察してみると、正に200年前に暴露されて大騒ぎになった計画書どおりに世界は変化しており、その時の計画書では、少しずつ少しずつ世間の人々がそう思うように思想を流布して、それを確信させるような出来事を起こしていくとされていましたが、正に計画通りに世界は動いてきて、今や、SDGsとして国際的な市民権を得て、公然と世界中の国々と人々が目指すべき指標にもなっていることをみると、彼らの計画は本当に予定通り、実行されていることが、疑問の余地なく確信する事ができます。
問題は、彼らの計画が本当にとんでもない過激思想で、社会を破壊する反社会的な絶対的な悪に塗れたものなのかどうかという事です。
多くの人々は、この思想を歌にした、ジョンレノンのイマジンを聞いて、本当にそうなれば良いのになあって思ったと思います。
果たして、そういう思想はキリスト教から反キリストの悪魔の思想と糾弾されるような恐ろしい思想なのでしょうか?
今の僕には本当の正解は分かりません。
ただ、ちょっと気に成るのは、彼らが長い年月をかけて、彼らの思想を多くの人々に浸透させる活動をして来た中で、国家や宗教の弊害を人々に確信させるために、敢えて、国家間の紛争・戦争や宗教間の紛争を、彼ら自身がたきつけて、時には仕組んで、仕向けて来た可能性があるということです。
それによって、多くの人々の命が失われ、犠牲になったわけですが、彼らはそれは崇高な目標達成の為のやむを得ない犠牲だったと思っているだけなのか、実際には彼らは関わってはいないのか確かな事は分かりませんが、少なくとも彼らの中の一部の人々が積極的に関わっていた可能性は充分にあるように思えます。
あのオクラホマ連邦政府ビルの爆破で爆殺された人々も、反連邦政府主義的ミリシア運動を壊滅させるためとは言え、あれほど多くの無実の人々が殺される必要は無かったと思います。数多くの国家間の戦争やテロ事件もそうです。
目的の為には手段は択ばないという、とても非情な冷酷さが感じられる所が、やっぱりルシファーは大悪魔なのかも知れないと不安を感じてしまう点です。
しかし、国連を中心とした人道主義的な活動によって実際に多くの人々が救われて、SDGsの活動によっても沢山の苦しんでいる人々が救われている現実を見ると、一体、どちらが本当なのだろう?という疑問と戸惑いを感じざるを得ません。
彼らは今後我々人類をどこに連れて行こうとしているのか?天国なのか地獄なのか?
正に神のみぞ知るところなのかもしれません。
ただ、昔から陰謀論の震源とも成って来たのは、知る人ぞ知る聖書のヨハネの黙示録であり、終末に登場するとされる偽キリスト「獣」に関する記述です。そこでには「獣」は666という数字で暗示され、その数字が無いと物を買う事も出来なくなるとされています。
奇しくも、今や全ての物品に付けられているバーコードは、左端と真ん中と右端に区切りの為の様なバーがありますが、そこには数字は書かれていませんが、よく見るとそれが6を表すバーであることが分かります。つまり、今や、全ての物品には人知れずこっそりと666の数字が刻印されているわけです。
これが、単なる偶然なのか、正に世界は黙示録の予言通りに動いている証拠なのかは定かではありませんが、黙示録の予言に依れば、今後、この数字は人間の右手か額にも刻印されることになるそうで、それがマイクロチップによるものなのか、見えないバーコードの様なものが刻印されるのかは分かりませんが、カード紛失などのトラブルを考えれば今後は完全に手ぶらでも買い物が出来るようになる時代が来ることが予想され、本当に全ての人の右手か額に何らかの刻印がされる時代が来るかもしれません。
もし、本当にそうなってきたら、2000年も前に書かれた書物に書かれている事が、現実になる事自体が極めて不思議な事であり、予言が当たったと考えるか、逆に予言通りに、色んな事が実行されていると考えるか、あるいは単にとても不思議な偶然と考えるか等、様々な解釈がありえますが、いずれにしても、もし、予言の通りにいろんなことが実行されているとすると、それを実行しているのは「獣」つまりサタンの側であるはずですが、何故、サタンの側が聖書の予言通りに行動する必要があるのか、それではまるで、聖書という台本通りにサタンもその役割を演じているだけの様な話になり、本当にサタンは自らの自由意思に従って自由に行動しているのか、神の決めた枠組みの中での役割を演じているだけなのか等々さまざまな疑問が湧いてくるわけです。
もう一つの疑問は、世界には一神教の以外の宗教もある訳ですが、世界は聖書を中心とする一神教的世界観を中心に動いているように思われますが、仏教などのその枠組みに入らない思想の立ち位置はどうなるのかという問題です。
ルシファーが知恵第一の光の天使であり、人間一人一人に知恵を持って自ら判断できるように奨励しているのは、すこし、仏教にも似ているように思われます。しかし、本当に、仏教の説く智慧とルシファーの言う知恵は同じものなのか、或いは全く違うものなのでしょうか?
あのスティーブジョブズも表向きは仏教を信奉していたことになっていますが、では、仏教とルシファー思想とは親和性があるのか?
しかし、仏教でも確かに智慧の重要性は強調されますが、あの空の思想を説き直した龍樹は、ある時、弟子から智慧が先か慈悲が先かを問われた時に、慈悲が先であると断言している所を見ると、仏教においては、人間の智慧はあくまで慈悲を前提としたものでなければならず、慈悲を前提としない智慧だけというのは、あり得ないし、あったとしても無意味なものとされています。
それを考えると、そこら辺に、仏教とルシファー思想との境界線があるように思われます。
更に仏教は本来的な無我を説き、個の突出あるいは我への執着は仏教においては妄想の根源であるとみなされている点を考えると、ルシファー思想のような個としての欲求の解放を目指すと言うものは、仏教のように、個としての観念を超えて全ての存在との無限の繋がりの実感と共感の境地に至ることこそが仏の悟りであるとする考え方とは、真っ向から対立するものになるのかもしれません。
そうだとすると、仏教においても、ルシファー思想は、やはり「魔」的な考え方になるのかもしれません。
そういう意味では仏教はむしろキリスト教と同じ側の立ち位置にいることになりますが、いずれにしても、この問題はとても複雑で奥が深い問題なので、この件については、改めて別の機会に検討し直すことに致します。