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対ヨーロッパ外交

2014-12-30 16:30:52 | 日記
ルイ・フィリップとニコライ1世
1843年9月にヴィクトリアはフランス王ルイ・フィリップを訪問した。これはヘンリー8世以来のイングランド王の訪仏であった。
ルイ・フィリップはオルレアン家の当主だが7月革命でブルボン家からフランス王位を簒奪した者と看做されており、またブルジョワへの人気取り的政策からヨーロッパの他の君主たちから嫌われていた。だがヴィクトリアは叔父ベルギー王レオポルド1世がルイ・フィリップの娘ルイーズと結婚していた関係で親オルレアン家だった。ルイ・フィリップと親交を深めたヴィクトリアは「このことをロシア皇帝が知ったらきっと酷く不機嫌になるでしょう。しかし我々にはあまり関係のないことです」と日記に書いた。
実際フランスを敵視するロシア皇帝ニコライ1世はヴィクトリアの訪仏を警戒し、フランスに出し抜かれぬよう英露関係を強化すべく1844年6月に訪英した。ヴィクトリアはこのロシア皇帝訪英に警戒するフランス世論について「気に入らないならフランス人も彼らの国王なり王子なりを我が国に送ってくればいいだけです。」とレオポルド王への手紙の中で述べた。ヴィクトリアはバッキンガム宮殿の宴会の席でニコライ1世に「フランスには嫌悪、トルコには侮蔑の感情を持っている」と外交儀礼を欠いた物言いをした。これは自分をないがしろにして政治を行うアルバートやピールにわざと聞かせる目的があったという。
1848年革命によってフランスではルイ・フィリップが廃位に追いやられ、エルメスボリード[Bolide] 彼はヴィクトリアにイギリス亡命を請願した。ヴィクトリアは首相ジョン・ラッセルからフランスにできた共和政政府(フランス第二共和政)から睨まれる様な事をしないようにと忠告を受けていたが、結局叔父ベルギー王レオポルド所有のクレアモント館(英語版)をルイ・フィリップに与えた。


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ボーア戦争

2014-12-30 16:30:52 | 日記

しかしジェームソン侵入事件以降、イギリスとトランスヴァール共和国の関係は悪化の一途をたどった。比較的親英的だったオレンジ自由国もジェームソン侵入事件以降、同じアフリカーナー(ボーア人)としてトランスヴァール共和国の反英的姿勢に共感を示すようになっていった。1898年2月のトランスヴァール共和国大統領選挙でクリューガーが四選するとケープ植民地高等弁務官アルフレッド・ミルナーはトランスヴァールとの交渉による和解の見込みはないと判断してトランスヴァールとの戦争を煽るようになった。ミルナーの高圧的な要求に激怒しクリューガー大統領はオレンジ自由国と結託してイギリスと戦争する決意をした。
ボーア人の祖先の国であるオランダの女王ウィルヘルミナが戦争回避を望む手紙をヴィクトリアに送ったが、ヴィクトリアは「私も戦争は避けたいですが、私に保護を求めてくる臣民を私は見捨てることはできません。すべてはクリューガー大統領次第です」と回答した。1899年10月9日トランスヴァール共和国から高圧的な最後通牒を受けてソールズベリー侯爵は同国との交渉打ち切りを決意し、開戦やむなしとの結論を下した。ヴィクトリア女王もそれを支持した。
かくして19世紀イギリス最後の戦争ボーア戦争がはじまった。緒戦はイギリス軍の攻撃をことごとく退けたボーア人側が優勢だったが、イギリス軍は1900年3月にヨハネスブルグ、5月にブルームフォンテーンとプレトリアを占領して優勢に立った。それに対抗してボーア人側はゲリラ戦術を激化させた。イギリス軍はこのゲリラ戦術に苦しめられ、当初6週間でケリを付けるつもりであったところ、勝利を得るまでに2年6カ月もかかった。
ボーア戦争の損害は甚大であった。2億3000万ポンドという膨大な戦費が費やされて、イギリス人・ボーア人側双方とも戦死者・戦病死者2万人を超え、またイギリスはボーア人ゲリラへの支援を防ぐため各地に強制収容所を創設してボーア人婦女子を収容した結果、そこでも2万人以上の死者が出た。
多くのイギリス人兵士が死傷しているという報告を受けたヴィクトリアはインド人兵士を戦わせるべきであると考え、インド藩王たちに高位の勲章を与える代わりにインド人兵士を南アフリカの戦地へ続々と送らせた。ソールズベリー侯爵も「安価で出兵に議会の承認がいらない軍隊」としてインド兵を積極的に戦地に送り出していた。
この悲惨な戦争はこれまで成功に継ぐ成功で帝国主義に輝かしいイメージしか持たなかったイギリス人の心が初めて折れた戦争となった。だがヴィクトリアは強気で大臣たちに「戦争がどんなに長期化しようとどんなに犠牲が増えようと幸せな結末に導くという断固たる決意があることを敵軍に思い知らせれば、戦果は心配に及びません」と述べていた。ボーア戦争は1902年5月に終わったが、その時にはヴィクトリアはすでに崩御していた。



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セシル・ローズとジェームソン侵入事件

2014-12-22 17:07:19 | 日記
ケープ植民地では1890年よりセシル・ローズが首相を務めていた。彼はトランスヴァール共和国の北方にローデシアと呼ばれるイギリス植民地を作り、最大規模のイギリス勅許状会社南アフリカ会社を創設した男だった。1894年にはアパルトヘイトの萌芽ともいうべき「グレン・グレイ法」を可決させて原住民の黒人に対して年に一回以上の居住区外での労働を強制し、また居住区の隔離を行った。ヴィクトリアと謁見した際に最近何をしていたのか下問されると「陛下の御料地に属州を二つ追加しておりました」と大真面目に述べるような強烈な帝国主義者だった。
ローズには北アフリカのエジプト・カイロと南アフリカのケープ植民地を鉄道で繋いでアフリカ大陸を縦断する大英帝国通商路を建設するという壮大な計画があった。だがこの計画に邪魔なのは反英的なボーア人国家トランスヴァール共和国であった。トランスヴァールは隣接するポルトガル領モザンビークの港と鉄道で通じており、英国領土を通商路に使う必要がない国だった。折しもトランスヴァール共和国のウィットウォーターズランドで金鉱が発掘され、ヨハネスブルグの町が建設されてトランスヴァール共和国は潤い始めていた。ローズはウィットウォーターズランドの金鉱を奪うべきことをヴィクトリアに上奏していた。だがイギリス本国政府は1890年代に入っても白人国家に対しては露骨な帝国主義を行う気にはなれず、トランスヴァール共和国に対しては弱腰だった。
1895年末から1896年初頭にかけてローズの友人である南アフリカ会社ローデシア行政官レアンダー・スター・ジェームソン(英語版)は、ヨハネスブルクの在留イギリス人の内乱準備と連携して500名ほどの南アフリカ会社所属の騎馬警察隊を率いて突然トランスヴァール共和国へ侵入を開始したが、計画があまりに杜撰すぎて早々にボーア人民兵隊に包囲されて降伏した。ヨハネスブルクの在留イギリス人たちの反乱もまもなく鎮圧された(ジェームソン侵入事件(英語版))。この事件はイギリス本国植民相ジョゼフ・チェンバレンが後押ししていたものと見られるが、イギリス本国政府は公式にはこのジェームソンの行動を批判することで関与を否定し、セシル・ローズも「20年来の友人にこんな事件を起こされて破滅させられるとは」と語って無関係を装ったが、彼は植民省のスケープゴートとして本国の査問委員会から弾劾を受けて退任を余儀なくされた。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はトランスヴァール共和国大統領ポール・クリューガーに宛てて祝電を送っている。
だがイギリスの国民世論はローズやジェームソンたちの行動を称賛しており、『タイムズ』紙をはじめとするマスコミ各紙はトランスヴァールに祝電を送ったヴィルヘルム2世とドイツを批判する論説を載せた。ヴィクトリアもこの事件には複雑な思いでおり、とりあえず祝電を送ったヴィルヘルム2世に対して「貴方がいつも多大な愛情を捧げ、また手本にしていると言ってくれている祖母より」との書き出しで「貴方の書状に深い悲しみを覚えます。この行為はイギリスへの敵対行為と看做されます。私は貴方の意思で行われた行為ではないと信じていますが、英国民に非常に悪い印象を与えたといわざるをえません」とする忠告文を送った。結局イギリス政府が処罰を行う事を条件にトランスヴァール共和国はジェームソンらを釈放した。これを聞いたヴィクトリアはクリューガー大統領に「貴方の寛大な処置は南アフリカの平和に寄与するでしょう」というメッセージを送っている。

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マフディーの反乱・ゴードン将軍の死

2014-12-16 16:08:00 | 日記
ついでエジプト支配下スーダンでイギリスに支配されたエジプトに対する反発が強まり、1882年夏にマフディー(救世主)を名乗ったムハンマド・アフマド(アラビア語版)によるマフディーの反乱が発生した。マフディー軍は1883年1月19日に西部の都市エル・オベイドを占領して、同地のエジプト軍の武器やスーダン兵を確保し、大幅に戦力増強された。1883年9月にイギリス軍大佐ウィリアム・ヒックス率いるエジプト軍がマフディー軍討伐に出たが、惨敗してヒックス大佐も戦死した。
反乱の第一報を聞いたヴィクトリアはエジプトの反乱と同様にこれも武力で鎮圧すべきと考えたが、グラッドストンはこれ以上自己の信念に反する帝国主義政策を遂行することを嫌がり、スーダンからエジプト守備軍を撤退させることを決定した。エジプト守備軍の撤退を指揮する人物として「チャイニーズ・ゴードン」の異名を取っていたチャールズ・ゴードン少将をスーダン総督に任じてハルトゥームに派遣した。
だがゴードン将軍にはそもそも撤退の意思がなく、またマフディー側に寝返ったスーダン北方の部族により電線が切られて本国からの指示を受け取れなくなったことにより、グラッドストン政府の意思に反して同地に留まり、マフディー軍に包囲された。イギリス世論はゴードン救出を求める声に沸き立ったが、グラッドストンはスーダン問題への深入りを嫌がってなかなか援軍派遣を認めようとしなかった。ヴィクトリアは陸相ハーティントン侯爵を通じて政府にゴードン救出を命じ続け、ついにグラッドストンも折れて遠征軍派遣を決定した。
しかし遠征軍は間に合わず、1885年1月26日にハルトゥームは陥落してゴードンはマフディー軍に殺害された。この報を聞いたヴィクトリアは激怒して暗号電文ではなく通常電文でグラッドストン政府を叱責する電報を送った。ヴィクトリアは2月末に何としてもスーダンを奪還してゴードンの仇を取るべしと命じたが、グラッドストンは4月の閣議で「マフディー軍は意気揚々としており、今はスーダン奪還の時期ではない」と決定した。グラッドストンの態度に怒り心頭になったヴィクトリアはディズレーリの命日にあたって「親愛なるビーコンズフィールド伯爵が生きていてくれたなら」と日記上で嘆いている。
ゴードンの戦死で世論や議会はグラッドストンへの不満を高め、彼の第三次内閣が崩壊する一因となった。ゴードンは「帝国の殉教者」に祭り上げられ、イギリスがエジプト支配を手放すことはプライドにかけてできなくなった。1895年頃からイギリスはスーダン奪回を最優先課題とするようになり、そのためにそれ以外の地域の植民地争いを一時的に収束させようと「栄光ある孤立」を再考さえした。流出エルメス 具体的には中国植民地化をめぐるロシアとの対立、トルコの利権をめぐるドイツとの対立、西部スーダン植民地化をめぐるフランスとの対立を、彼らに譲歩することによって回避した。そしていよいよ1898年4月からホレイショ・キッチナー将軍率いるイギリス・エジプト連合軍がスーダン攻撃を開始し、9月までにマフディー軍主力を壊滅させてハルトゥームを奪還した。ゴードン戦死から13年たっての悲願達成であった。ヴィクトリアも日記で「ゴードンの仇をとった」と喜んだ。
この直後キッチナー軍が更に南下したため、フランス植民地軍と睨みあう形となりファショダ事件が発生したが、フランスの譲歩のおかげで英仏戦争の危機は何とか収束した。

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地震波・揺れの特徴

2014-12-16 09:11:10 | 日記
本地震の本震による揺れの特徴として、広範囲で強い揺れに見舞われたこと、揺れの継続時間が長かったこと、長周期地震動が広範囲で長時間発生したこと、短周期の揺れが主体で家屋被害は比較的起きにくかったことが挙げられる。
本震では、地震動の発生源である断層の破壊が複雑な過程で約100秒間も続いた。この中には、1.宮城県沖、2.宮城県のさらに沖合、3.茨城県北部近海での計3回の大きな断層破壊が含まれており、各地の地震波形にそれが表れている。地震波は秒速3-7kmという限りある速度で伝播するため、異なる場所で発生した地震波が時間差で到達し、破壊継続時間以上の長さで強震が継続した。
青森県から神奈川県にかけての各地で、震度4以上の揺れの継続時間が軒並み2分(120秒)を超え、特に崩壊範囲の中間に位置する福島県いわき市で3分10秒(190秒)に達するなどした。また、地震動を感じ始めてから最大の震動を記録するまでの時間が長く、宮城県仙台市では約30秒後、茨城県日立市では約70秒経過後であった。仙台市や塩竈市でも3分程度揺れが継続し、数十秒間だった1995年兵庫県南部地震や1978年宮城県沖地震と比べて非常に長かった。
また日本全国で長周期主体の地震動を観測した。変位応答スペクトル波形では周期7秒付近に変位40 - 50cmのピークがあり、7秒前後の固有振動周期をもつ建物の揺れが大きかったと分析されている。また高層建築物の高層階で片振幅最大30 - 60cm程度の変位が観測された。それでも、M9という地震の規模の割には長周期の揺れは小さかった。
岩手・宮城・福島・茨城・栃木の各県で観測された本震の地震波の波形を速度応答スペクトル解析した結果によると、極短周期地震動・短周期地震動に当たる周期0.1 - 1秒の範囲で最も大きな揺れが見られる地点が多く、それより長い周期では相対的に揺れは小さかった。宮城県栗原市築館(震度7)、塩竈市、茨城県日立市では、「キラーパルス」(一般的な木造住宅への破壊力が最も生じやすい揺れの周期)に当たる周期1 - 2秒では100カイン (cm/s) であり、木造家屋の倒壊被害が目立った1995年の兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)における200 - 300カインに比べて小さく、家屋被害は起きにくい揺れだったと考えられる。震度7を観測した栗原市においても全半壊した建物は47棟で、死者は0人だった。一方で家屋被害は宮城県と福島県を中心に、茨城県にまで及んだ。震源域の中間に位置する福島県では、震源に近い浜通りだけではなく、内陸の中通り地方でも土砂の崩壊や家屋損壊が目立ち、矢吹町(震度6弱)では30%の家屋が全半壊し、郡山市(震度6弱)でも2万棟の家屋が全半壊するなど、他県の内陸市町村に比べて特に被害が集中した。