以前、ある小学生の保護者からこういう要望があった。
「なぜ勉強をしないといけないのか、教えてやってほしい。」
勉強は読書に似た側面を持つように思える。
どんなに面白くて後々ためになると感じた本でも、最初の数ページはわけが分からなくてつまらなかったという経験は誰でもあるだろう。
「勉強も初めはつまらないかもしれない。でも、読書と同じようにはまってくると面白くなるから、がんばって続けなさい。長い人生の中でほんとうに勉強がしたくなったときにきっと役立つから。」と、ここらへんが本音ではある。
ただし、これで納得する子がどれだけいてくれるか?
「勉強をすることで可能性が広がるのだよ。選択の可能性を広げて、幸せな人生を築くために勉強をがんばれ。」よく聞く励ましの言葉だ。
しかし、現実はどうか。
子どもたちを取り巻く日常においては、むしろその反対で、勉強が元で不幸になってしまっている人がいるように見えるのはどうだろう。あるいは、人生と勉強の関係などはとうの昔に除外してしまって、「勉強を能率的に片付けること」しか考えていないように見える子どもが多くいるように見えるのはどうだろう。
もちろん、国民の義務だからというような説明でも納得してもらえないであろう。であれば、なぜ義務なのかを説明するべきなのか?
難しい。
そもそも自分がそれを理解できていない気がする。
しかし、
まがりなりにも勉強ということを生業としている身なのである。
それを説明できなくて、何を説明しているというのだ?
私は小さいころから勉強が大嫌い。
学校の勉強はもちろん、自分で興味関心を持って調べたりすることもほとんどないまま成人して、塾講師という一社会人となった。そこまできてやっと、学校の勉強をする必要性が出てきた。ただし、その段階では必要性に駆られていただけで、勉強をしたくなったわけではなかった。
それでもなお、勉強嫌いの性質は抜け切れずに、勉強嫌いを自称してはばかることなくこれまで生きてきた。
しかしここ数年、そんな自分に限界を感じるようになった。
人の言っていることが分からない。
もっと人の言っていることを分かりたい。
四十を過ぎてやっとそんな気持ちになったのである。遅い。あまりにも遅い。
勉強が足りない人は、人を理解できない、人に理解してもらえない。人と交わることができない。幸せになれない…かもしれない!?
人を理解したい。人に理解されたい。人を愛したい。自分を取り巻くすべてを理解したい、愛したい。
それってもしかして…勉強したい!?