gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

会津が生んだ芥川賞作家 室井光広さんの死を悼む —土俗の力文学で表現―

2019-11-13 21:25:14 | 思想

 会津高校で僕より二つ後輩であった芥川賞作家の室井光広さんが去る9月27日に亡くなられました。室井さんは『おどろでく』という小説で芥川賞をもらったんですけど、ネットなんかを見てみますと、ほとんどの人が難解でよく分からないと言うんですけど、それには理由がありまして、室井さんは会津弁で書いているからです。
 会津弁という言葉の持つ強さというか、なかなか理解しにくい言葉を散りばめているがために、普通の日本人であっても、理解するのは困難です。会津弁の力というか、土俗性がこれから見直されていくんだということを、室井さんは言いたかったんだと思います。

 最初の出会いは会高

  僕は会津高校で彼と知り合ってから、色々とお付き合いをさせてもらいました。少しは室井さんのことを語れるのではないかと思って、今日はお引き受けしました。室井さんの小説は、これから10年20年後には、再評価されるような気がしてなりません。会津弁で今の世界の最先端の思想的課題を小説にするというのは、ものすごく大変なことですが、そこに彼は果敢にもチャレンジしたわけです。
 多くの人に理解されるまでには、それなりの時間がかかるし、会津弁の持っている土俗性とかを、きちんと踏まえつつ、最先端の思想課題を室井さんが掘り下げたことを論評する人が、必ず会津人の中から出てくるんではないかと思います。そして、今日僕が話すことは、そういうことをやってくれる人のまず前段の仕事として、室井さんが何を言いたかったかということを、お話できればと思っています。
 室井さんと初めてあったのは、僕が会津高校の3年生のときです。1年と2年は社弁クラブにいましたが、あの時代に学生運動とか色々ありまして、3年になってから哲学同好会に移りました。未だに忘れませんが、仲間と一緒に音楽室でたむろしていたら、彼が1人で部屋に入ってきたんです。室井さんの顔を見た途端、仲間に向かって「一風変わった雰囲気がある」と喋ったことを覚えています。僕たちにはないものを持っていたからです。僕の直感ですけど、室井文学でいうと「ねこまたの聞かせ」というか、第六感で、現実の世界以外の別の世界も見ている人間だと思いました。そのときから僕は、室井さんは作家になると確信していました。
 それでいて、室井さんはことさら目立っていたわけではありません。あの当時人の前で大演説をぶつ人間は結構いましたが、そういうタイプではありませんでした。しゃしゃり出るようなタイプではなくて、温厚で控えめだった気がします。

 

芥川賞と群像新人賞

  室井さんが『霊の力 J.Lボルヘスをめぐる断章』で第31回群像新人賞に輝いたのは昭和63年のことです。その当時僕は36歳で広告屋をやっていましたが、会津若松市役所の前にあった毎夕新聞の手伝いもしていました。「東西南北」というコラムを書いていたんですが、室井さんに電話でインタビューをしました。
 群像新人賞も会津で初めてですから、「よくやった。たいしたもんだ」と僕が褒めると、室井さんは「次は芥川賞ですよ。小説を書きますから」と言うんですよね。これには面食らいました。評論家としてデビューしたと思っていたら、小説家になると公言したからです。群像新人賞の受賞者として彼のことは記事にしましたが、芥川賞を口にしたことは触れませんでした。

驚くなかれ、彼の言葉は嘘ではありませんでした。平成6年に『おどるでく』で第111回の芥川賞を受賞したからです。それから間もなく、僕は室井さんの住む千葉県の四街道市を訪ねました。一度目のときは二階建てのアパートだったと思いますが、二度目のときは一戸建ての住宅でした。
 僕は広告屋をやっていたんで、室井さんにはお世話になりました。平成8年に湯川村の薬師三尊像が国宝に指定されました。僕の会社で広告を集めて、TUFで番組をつくってもらいました。その際に室井さんが出演してくれました。室井さんは自宅に勝常寺の薬師三尊像の写真を飾っているのを知っていましたから、断られるのを承知で声を掛けました。義理堅いというか、快く承諾してくれました。
 ただ、芥川賞のことで皆さんに知っておいて欲しいと思うのは、室井さんが取るべくして取ったというよりは、一編集者のおかげだということです。室井さんが僕に言っていましたが、一度は「群像」への掲載が拒否されたそうです。評論では評価されていますが、小説となるとジャンルが違いますから、そんな簡単なことではないのです。その編集者が室井さんの原稿を編集長に見せたら、編集長から「評判が落ちるのでこんなものは掲載できない」と突き返されたのでした。その編集者が強引に載せてしまったことで、室井さんが芥川賞作家になることができたんです。表に出ない隠されたドラマがあったわけです。

 小説『おどるでく』

 『おどろでく』は今日のために3回読み直しました。活字が詰まっていて、段落もないので読みにくいのは当然ですが、先ほど申しましたように、室井さんの造語である「ねこまたの聞かせ」がひらめいたような体験をしました。会津弁で書いてあることを理解すれば、すらすら読めるからです。ここにいられる皆さんは会津の人で、とりわけ奥会津の人はよく分かると思います。小説に出てくる言葉が常に使っている言葉ですから、違和感がないはずです。
 登場人物が多いわけではありません。室井さんの分身のような主人公がいて、その母親がいます。肥田岩男さんというのは、家族が疫病で亡くなってしまったので、血はつながっていませんが、母親の実家で一緒に育てられた人です。ですから、岩男さんの子供の到さんと、サキ子さんというのは、主人公とは「イトコ同士」のような付き合いをしています。そして、主人公の高校の同級生で同じ町に住む露文氏、時たま電話をかけてくる知人、主人公の祖父がいるだけです。
 この露文氏が書いたとされるロシア文字日記7冊が二階の片隅から発見されたことから、『おどるでく』は始まります。二階といっても、屋根裏部屋で蓑がぶら下がっているような所です。その日記を主人公が一年かけて翻訳したというんです。混乱するのは最初の方の文章で「それにしても他人の日記が私の生家の二階のスマッコから見つかるというのはいかにも不自然である。だから露文氏はじつは私であるといってもかまわない」と書いていることです。 
 それでいて、露文氏自体が実在するかのように記述しています。到さんが高校に入学すると、一年生で東洋思想研究会を立ち上げます。それは昭和45年当時、現実に会津高校にあった研究会です。ちょうど僕が高校三年のときに認められ、只見町出身の吉津耕一さんが中心になって活動していました。『おどるでく』では、その中心が到さんで、取り巻きに主人公と露文氏がいるわけです。
 そしてサチ子さんというのは、父親の岩男さんが屋根ふきですから、屋根ふき職人を英語に訳すとサッチャーなので、サキ子さんは「サッチャーの助手」ということになります。「サッチャー女氏」と呼ばれるようになったのは、「われわれの郷里でではシュの発音がうまくできないから」と主人公が説明しています。会津弁が顔を出すのです。露文氏は「サーシャ」というように、ロシア語の愛称で呼ぶわけです。 
 きっと室井さん自身が失恋を経験したか、さもなければ失恋談を聞かされたのだと思います。サーシャと主人公と露文氏は、精神的な三角関係であった暗示されています。
 露西亜文字日記ではサーシャは投身自殺をはかったことになっており、あたかも死んでしまったかのように書かれています。これは確実に、万葉集の歌に出てくる「真間の手児奈」の伝説をモチーフにしています。後からそれは出てくるわけですが、「葛飾の真間に見目うるわしい処女がいて複数の男に言い寄られ煩悶のすえにママ(崖)をすべり落ちて淵へ身を投げたという伝説」です
 ただし、すぐにどんでん返しがあって「現実には到さんの妹は今も生きており、兄がボーリングに成功した温泉の女将として活躍中」との文章が続きます。主人公は妄想と現実との間に、一線を引くことを拒否しています。はぐらかすことで、プラトニックであったことを、婉曲に表現しているのです。
 ロマンチックな夢を破壊するのは、性的な生々しいエネルギーです。室井さんはそれを語らないのではなく、あえて隠蔽することで、異次元の世界の出来事にしたのです。石川啄木が記した『ローマ字日記』とも共通しています。だからこそ、悪所通いに明け暮れた啄木のその日記からも引用することを、露文氏は躊躇しなかったのだと思います。
 また、ドミニコ会士フラーテル・ディダクス・コリャード著の『コリャード懺悔録』が紹介されているのも、日本人の性の自由奔放さが赤裸々に記述されているからです。「淫は外に漏らす」という言い方は、かえって生々しいものがあります。
 なぜサーシャという処女にこだわるかというと、『おどるでく』には隠された登場人物がいるからです。それを室井さんが蘇生させようとしたのです。奥会津には隠れキリシタンがいたというのが背景にあり、その亡霊がサチ子さんに憑依したのでした。

 隠れキリシタンの伝説

  ボーリングをして温泉を掘り当てた到さんは、奇妙なものが見つけたのでした。「発掘されたのは人骨で、霧下村が古くキリシタン信仰の隠れ里だったという言い伝えは、それが白人の人骨と鑑定され、地元の新聞にもなったことで信憑性を増した」とわざわざそのことを話題にしているのは、それに気が付かせるためなのです。
 到さんは東大を出るほどに優秀で、金儲けにかけても才能を発揮しました。露文氏も側近として活用し、かるかや商事を設立し、文化財の指定を受けた集落の復元に尽くします。さらには、自然水の「おどるでく」のパック瓶が爆発的な人気を博しますが、それよりも何よりも人骨を見つけた功労者として特筆されるのです。
 土俗性ということでは、屋根ふきの親方である岩男さんを無視することはできません。軍隊生活が長かったせいで、様々な試練をくぐり抜けましたが、苦労話などは口にしませんでした。上官のために何ができるかということを考えあぐんだ末に、「班長殿フンドシを洗わせて下さい」の一言物申したかったのに、それができなかったことを悔やむ一土俗民なのです。
 そんな岩男さんにも「岩あんにゃのマリア物語」があったのです。岩男さんは北支で終戦を迎えましたが、ソビエトに抑留されたのでした。三回目の収容所で、女性の所長であったマリア・パーヴロブナに淡い恋心を抱いたのです。学問のある日本人のインテリは、共産主義を賛美するのに対して、ひらがなを読める程度の学力しかない岩男さんは、そのときばかりは「あなたの着ている者を洗濯させて下さい」と懇願し、かなえられたのでした。
 土俗民の健気さと、黙々と「サッカケ小屋」作った功績で、共産党員でもあるその女性所長から「社会主義労働の英雄」とまつりあげられたというのです。白人の女の人の人骨が見つかっただけではなく、計5つの「オンバマリア像」が出土すると、わざわざマリア地蔵尊堂を建立したのは、マリア・パーヴロブナへの恋心と無関係ではないのです。

 湯の上は霧下温泉

  このほか『おどるでく』では、下郷町の地名が愛称に置き換えられています。全国的に観光地として有名になった大内宿は「木霊(もくれい)の宿」であり、塔のへつりは「ママの河原」、湯の上温泉は「霧下温泉」なのです。そこまでするのは、失われた者たちの記憶を、今生きている者たちが呼び覚ますには、そうした舞台が欠かせないからです。
 さらに、そこにプラスして、自他の区別をなくす言葉の力が、今なお奥会津に息づいていることを、室井さんは『おどるでく』で示したかったのです。万葉集の「ら」が「われわれの地方に今も生きている」と言いたかったのです。「到らは偉いもんだ」と言うのは、単数でありながらも、「露文氏は自分が「僕ら」と書くときは万葉のしっぽ(おどるでくの糸くず)と同じように、単数でありながらも「千変万化」するエネルギーが秘められていると断言するのです。
 それもまた会津弁の秘められた力なのです。自分が変わることで、サキ子さんも変わり、世界も一新されて、どこからか過去の亡霊が立ち現れるのです。室生文学を理解できるかどうかは、生物か無機物を問わず霊魂が宿るという、アミニズム的な信仰の核心をつかめるかどうかなのです。



コメントを投稿