🌺歩いてきた道 歩いていく道 どこかへ続いて🌺 『北国からつれづれなんとなくだけど♪』

幸せを探す為に生きています
1度きりの人生は自分の人生♡
日々笑顔で生きたいよね
🌼コメントは承認制!🌼

きよしこの夜

2014年12月26日 | 思い出・過去の出来事

クリスマスが終わりましたね。

 

子供の頃から、毎年毎年ケーキを食べる前。

キリスト教でもなんでもないのに。

部屋の電気を暗くして、この歌を歌って、誰かがろうそくを吹き消す。

ということを何十年も毎年、毎年繰り返して来たように思う。

私の周りということだけで言うと、私にこの歌を教えたのは母なのだろうか

幼稚園か小学校、またはテレビで覚えたのだろうか

子供の頃は、母ときょうだいとクリスマスをしていた。

(義理の父は、クリスマスに、ほとんどいた記憶はない)

自分が子供の頃は、この歌を、ケーキ目の前に電気を消し。

恥ずかしげもなく、きょうだいや母と歌っていて。

だんだん成長し、サンタさんを信じなくなる頃から。

そのうち。私はクリスマスなんて親とはしなくなり。

母親もクリスマス会なんてしなくなり。

イコール=歌わなくなる わけだけど。

 

でも。今度は結婚。家族が増えて行き、今度は自分の子供たちの為に。

毎年ほんとは恥ずかしいけど、元気に歌ってみせて。

子供が数歳になると今度は子供たちが歌いだし。

その子たちが今度は親になり、ますます人数が増え。今度はその子の為に電気を暗くする。

小さければ小さいほど子供は、純粋で。それがあたりまえ。

そんな風に、毎年のように歌って来た。(キリスト教でもないのに)

 

その『きよしこの夜』なのだけれど。(1番しか知らないけど)

 

きよしこの夜 星はひかり

すくいの御子は、まぶねの中に

眠りたもう いとやすく

きよしこの夜で探すと・・ほとんどがこの歌詞だ↑↑↑

youtubeでなんとなく探してみたら、なんか私が勝手に周りに伝承(笑)して来た歌と

歌詞がちょっと違うやつがほとんどで。ちょっと焦り始めた。

きよしこの夜で探すと・・ほとんどがこの歌詞だ↑↑↑

 

私がずっと歌って来た歌はこうだ。

きよしこの夜 星はひかり

すくいのみ子は み母の胸に

眠りたもう  夢やすく

私はどこかで歌詞を間違えた・・・

 

でもさ。

み母の胸と。夢やすく

のほうが歌詞として、素敵だと思うけどな・・。とかっ。

 

で。

やっと。やっと。

私が知っているような歌詞を見つけた。一応似てる。

きよしこの夜 星はひかり

すくいのみ子は み母の胸に

眠りたもう  いとやすく(だから。私は・・夢やすくだけどぉ

 

もしかしたら、他とはちょっと歌詞が違う私の歌。

(でもきっと、どこかの誰かが作詞した歌だと思うけど)

きよしこの夜 星はひかり

すくいのみ子は み母の胸に

眠りたもう  夢やすく

私が歌って来たこの歌は。

これから私を知っている人間その後何代か。

きよしこの夜の歌として受け継がれて行くかな。

それとも誰かが、まぶねの中に・・いとやすくと変えたかな。

 

照れくさいけれど、みんなの為に。頑張って歌って来たんだけどな。

それとも、私が歌っていた。それさえも。みんなもう忘れちゃったかな。


ソとン。シとツ。

2014年08月24日 | 思い出・過去の出来事

東北に住んでいたときに。一気に中華料理屋さんが街なかに増え、

そのお店の看板やメニューの日本語がどこかおかしいというのを

かなり以前ブログに画像入りで載せた記憶があるけれど。

 

最近、別のお店で同じような日本語間違っている看板を見つけ

その間違いがかなりたくさんあり。思わず目につく。

 

よーく見ると。

を間違えているお店があった。

違いがわからないんだなーそりゃ難しいよなーー。と思いつつ。

 

そういえば、自分の子供の頃にもそんな記憶がある。

と言うことを思い出した。

 

カタカナを習うのは、小学校1年生だったっけ。

と書きたいのだけれど、どうしてもになってしまう。

テストの答案用紙に先生に赤い字で大きくと書かれた

思い出があるような気がする。(のを思い出した

 

左のテンテンをちょっと縦気味に書き、右側は上から下へ書く。

それが

 

左のテンテンをちょっと横気味に書き、右側は下から上へ書く。

それが

の違いもそんな違いだね。

 

何度も練習し、書けるようになったこの4つの文字。

簡単な字だからこそ難しい。

 

そう考えると。

子供の頃のあひる、よく頑張って覚えたいいこいいこ。

(ってみなさんも、子供の頃の自分に言ってあげたくなりませんかぁぁ~笑)


思い出の牛丼

2014年07月09日 | 思い出・過去の出来事

きのうの朝、こんなメールが届く。

ちょっと前に送ったメールのReで。今頃返信来たのかなぁぁ・・

思いながらメールを開く。

 

昔食べた○○病院んとこ(病院の食堂)の牛丼食べたいw

 

文はそれだけで。

朝から牛丼の話しである。

仕事しながら、牛丼の話しかよぉぉ。

普通なら朝からなに言ってんの?えっ?あそこの牛丼??な話しなのだけれど。

 

この文を見て(笑)のがなんか、切ない・・と思うのは、たぶん私だけだろう。

その前に来ていたメールに書かれていた。

いれば楽しいのにな。。

・・(てんてん)の代わりの。。(まるまる)にも私は切なさを感じてしまう。

 

 

食堂の牛丼、前に会ったときも、そういえば、すっかり同じことを言っていた。

そんとき私は

「あははは。あーそういえば食堂うんうん。あったねー。病院の帰りによく食べたよね。」

と笑って聞き流した。それで終わった。

その会話をしたときは、今はもうないその食堂、牛丼も懐かしい。と思っただけで。

 

でも、きのうの朝メールでその文字を突然読んだときに、

私のなかで、その食堂の牛丼が、繋がってしまった。

確か、前もその牛丼の話ししてたよね??

なんで、そんな特別に美味しかったわけでもない牛丼の話しを何度もしてんの???

(だってなんでもない食堂の牛丼なんかより、その後の人生

もっと美味しい牛丼なんていくらでもあったはずだ)

昔食った○○病院の牛丼食べたい その文字見たとたん、私は号泣し始めた。

 

みんなでの思い出なら。

いくらでもある。たくさんある。

私はたくさんみんなに思い出作って来た。という自負もある。

でも、子供達1人1人と向き合い、誰もいない2人だけでの思い出。というのは、数えるほどしかない。

昔はお金も無くて、外食なんて贅沢で、私は車の免許も無かったし。

2人だけで、どこかに行けるなんて自由は、ほとんどなかった。

そんななかで2人っきりで、出かける、出かけた、数少ない思い出の場所、

それが子供が風邪などをひいた時の病院だった。

 

帰りはもうお昼。

「お腹すいたよーーー。牛丼食べたい!!」という。

「みんな(きょうだい)には今日食べたこと内緒だよ?いい?」と。

「うん!!」と。約束。

2人だけの秘密で、食堂へ行く。

私は、ラーメンなんかを食べながら、

牛丼を食べる嬉しそうな顔を見ていたっけ。

 

これって、みんなではなく、2人だけの思い出のこと???

今はもう食べられない、そこの牛丼のことを言っているんじゃなくて???

そうだ。

2人だけ。が、きっと嬉しかったんだよね。

私にとっては、家族での思い出が記憶に多いけれど、子供にとっては、私と1対1のほうが、

うれしい思い出だったのかもしれない。

当時実はお金もあまり無かったわけだけど、そんなんでも。

美味しかった。あの時は幸せだった。

ということじゃないのかな。

 

と思ったら、は午前中ずっと、その牛丼食べたときのことを思い出しては号泣する羽目になった。

私は。昔の自分の未熟さや若さや、後悔が、そのメール見たら一気に襲って来た。

牛丼だけではなく、あそこでは、他には誰もいなくて。いるのは1人だけだから。

お菓子買ったり、ジュース買ったり

いろんな楽しいことがあったのかもね。

あんなこともあった。こんなこともあった。

あの牛丼が食べたいってのは、そういう意味なんだろうな。って。

 

 

返信。

○○病院の牛丼かぁ・・。

そうだねー。食べたいねー。

○○の帰りに、2人だけでできる、ちょっとした外食だったよね。

 

美味しかったね。

なんだか、涙でてきたよ。

 

そうしてこちらから返信してメールは終わり

きっと当分また音沙汰は無いのかな。

私のこのメールで、なにを思ったのかな。

 

 

きのうは、他から写真もメールで送られて来た。

可愛いね。

それしか言えない。

 

きのうは、そんな日だった。


子供と向き合うということ

2014年07月07日 | 思い出・過去の出来事

先日ビッグ〇ディーの元奥さんの子供たちとの生活をテレビで特集していた。

その中で、小学生の女の子。子供の1人がテレビカメラが回る夜に、

「どうせ○○(自分)が悪いんでしょならいいもう出て行く」と

家を飛び出した。

 

これを見て私は自分の小さい頃や、自分の子供たちの小さい頃を思い出しました。

こういうことをする子供の気持ちが私にもわかり・・。

 

こういう風に家を飛び出す。という行為。小学生というのは実際本気で家出する気など、

ないのは、どんな親でもわかっていると思います。

(これが中学生くらいになればわからないけど💦)小学生くらいの子供だと

家出してもその後1人で生活できないことなど子供も本当はわかっているのだと思います。

親が追いかけて来るだろう。ということをわかっていてしている。

探しに来てもらう為にしている。

親自身も、心配だからとか、(世間体とかも)で探しに行く。

なんというか・・親子の駆け引きなのだと思う。

相手がどう出てくるかを試して見ているというか、

人を試す。相手を試す。

子供の気持ちも(私も小さい頃そんなことした記憶があるから)本当は

わかるのですが。

我が家の子供たちも、小学生のときに「だったら出て行く

そういえば、そんなことを言って外に走りだしたことがあったっけ。

たぶん、全員一度はやったよなぁぁぁ・・。

その番組を見ていて思い出していた。

 

子供ってむずかしい。

一度、そうやって家を飛び出し、そうしたときに親が探してくれる。ということがわかると、

次もまた、同じようなことが起こると、同じように飛び出して見せたりする。

だって前回、出て行けば追いかけてくれる。と学習したのだから・・。

そういう騒ぎ方をすれば、向こうが探してくれて、その後の話し合いの状況が変わると学習するから。

いじけて見せたり~怒ってみせたり~そうすればどうにかなると学習してしまうから💦

 

学習と言えば、これと同じようなことでね、漫画本見てたらこんなのを見つけました。

病気ぶる人間のあしらい方。だそうです。

相手が「(自分は)病気だから」と言いだしたときに優しくするのは逆効果で、

病気になると優しくしてもらえることを相手が学ぶのだそうです。

なるほどなーと思った。

これが子供だと、ずる休みとか・・それがそのまま、登校拒否とかに繋がりそうなことだよね。

万が一そうなると、その後、中学生、高校生と、親はひじょーに大変そう。

こ普段のしつけの積み重ねで、親が負けてしまう・・。

これも私は子供たちが小学生の頃から気を付けました。

子どもが「具合悪い」と学校を休む。

でも本人休んだとたん、なぜか元気な時は多々あり話しが違う。

日中は、お菓子を食べたり、テレビを見たり、遊び始めようとします。

 

でも、ここで、具合悪いと言えば学校休んで遊べる。という

学習は絶対して欲しくなかったので💦

「具合が悪くて休んだんだから、寝ていなさい」(と言っても子供は起き出すわけですが

「さっきまで学校行けないくらい具合悪かったんだよねじゃぁ起きないで寝てなきゃ

「起きるのじゃぁ元気になったんだから、今から登校できるね。」

を繰り返す。

すると子供は、風邪で学校休んでもなにも楽しいことはない。と学習します。

するとずる休みもしなくなる。

小学生の頃というのは、これからどんな人間になって行くか、しつけが一番難しい時だと思う。

ただこれ・・中、高校生くらいになったら、もう自由にさせましたけどね。

その頃にはもう、休みたいなんてことは子供も考えなくなってますし。

中、高校生の頃になると、長女なんかは言ってました。

「ママって絶対、小学生の時とかさー学校ずる休みさせなかったよね。」

長男や下の子も、きょうだいで笑いながら言ってました。

「ぜってーー学校休ませないっけもん・・・この人(あひる)。👉」(笑)

 

子供が小学生の時。

家を飛び出したとき、私は子供を追いかけて、子供の両手を掴んで言いました。

子供は手をふりほどこうと反発する。

それを両手で無理矢理押さえつけてこう言った。

(小学生、低、中学年くらいであれば、まだ押さえつけられる)

 

「本当に出て行くの本気で出て行きたいのならいい。行きなさい。

でも、出て行く気、本当にないのなら、わざとそういうことはするな。

わかる

あんたは本当に出て行く気もないのに、これってママにわざと、やってない

本当に出て行く気でやってるの

出て行くのなら、本当に出て行きなさい。

本当に出て行くために今こうしてるならいい。好きなところに行けばいい。

でも人に心配させたり、おどかしたりするために、わざとやっているのなら、

そんなずるいことはするな。

ママが言ってる意味わかる

あんた今、どういう気持ちでこういうことやってるの

 

出て行く。というのはそういうことだと思う。

そういう気持ちだから出て行くはずだ。

相手を困らせる為に、探してもらい戻って来る為にすることではないと思う。

その気持ちを出て行く。とは言わない。

結局はすぐ戻る気なのに、何度も繰り返すようになってしまったとしたら、

その都度自分を心配しろ。結局はそういうことになってしまう。

子供は覚えてるかどうか、わからないけれど。

どの子とも、1度はそういう大喧嘩をしたことがあったと思う。

たぶんどの子の時も最初の1回目で私は真剣に怒った。

子供の手を離さず、真剣に怒った。

家を飛び出すふり。なんてのは、どの子もその最初の1度きりで、

その後は一切しなくなりました。

 

これと同じような揉め事。子供と言い合いになり、子供が捨てゼリフ残しながら、

子供部屋にバーンとドアを閉め、閉じこもる。これも何度かあった。

そのときもこちらからは一切声をかけませんでした。

そんなことをしてもなにもならない。ということを教える為でした。

気持ちが落ち着けば、いつかは子供は自分から部屋を出て来ます。

勝手に怒ってドアを閉めたはずが、勝手に開けて出て来る。

これも小学生のうちに経験しておくと、中高生になったときに、そんなことはしなくなる。

親が相手にしない。とわかっているから。

前にテレビで30代の大人の男の人の引きこもりのテレビを見た。

何十年も部屋にひきこもっているのだそうだ。

ナレーターが言っていた。

年老いた母親が、部屋に引きこもり出て来ない子供(大人だけどね)に対し、

毎日子供の部屋の前にお盆に載せた食事を運んで置く。

食事を運んでやる。だから子供は永遠に出て来ないのだ。ということには

気づかない。と。

 

 

相手にしないことで向き合う。

こういう何度となくたくさんの向き合いがあったから、

中学生など、反抗期ときも、反抗もなく、我が家の子供たち全員素直に育ってくれたような気がする。

小さい頃からの積み重ねが、中学や高校の一番難しいときに答えが出るような気がする。

子供と向き合うということは、子供と真剣勝負で向き合うことだったのかもしれません。

 

 

出て行く。

自分が家を出て行くというときはどういう気持ちなのだろうな。

以前に私はビジネスホテルに家出をしたことがあると、ブログに書いたことがあると思うけど。

そん時はどんな気持ちで出ていたかな。

出て行くというのはそういうことだ。と、ふと思い出す。


サンリオショップ

2014年06月21日 | 思い出・過去の出来事

子供の頃、小学校の近くに、サンリオショップが出来た。
たぶん私の住んでた県では、初めてのサンリオショップ。

女の子にとって、サンリオショップは夢の国で。
お年玉やたまにおこづかいをもらうと、おこづかいを握りしめ買い物に行きました。
少ないお金の中で、いかに自分の欲しいものを買うか、
それは、遠足の時のおやつを選ぶときと同じ真剣さ。(^-^;)(笑)

キティちゃんのビニール製のお札いれつき財布(すぐ小銭いれのところが破れてきて
壊れた。笑)、
キキとララの、ナイトランプ。
電気をつけると電球の上のランプの笠に空けられた星の形が天井に浮かんだ。

そんなものを、自分で選んで自分のお金で買った嬉しさは、今でも忘れていません。
(いつも買えないものだからうれしかったのでしょうね。
今の子は、なんでも買い与えられるから、こういう気持ちには、なかなかなれないかも)

その後すぐ、私は小学校を転校し。
今まで学区内だったサンリオショップが、
その転校した小学校からは、学区外。になってしまいました。
なんてこったい。( ̄ー ̄)(笑)
それでも、サンリオショップが好きなのは、どこの学校の女子も一緒なようで。(^ー^)

先生や他の友達に、学区外に行っていることが、ばれる恐怖を感じながらも、
友達と、そのサンリオショップにたまに行っていました。

サンリオショップでは、プレゼントラッピングを頼むとリボンのかわりに。
ひものついたサンリオのキャラクターたちの、小物やプラスチックのおもちゃなどを袋の表にシールで貼ってくれます。
そのときなにを貼ってもらえるかは、運のようなもので。
わからないのですが、グリコのキャラメルのおまけのようなサンリオのキャラクターたちは。
なにをつけてもらえるか、とても楽しみで。
女の子のあいだでも、それがついた、お誕生プレゼントを友達からもらえたりするのは、
サンリオのプレゼントを、二個もらったような、うれしさがありました。
なので自分のものを買うときでも、必ずどの子も「プレゼントです」とレジのお姉さんに言っていました。(⌒‐⌒)


私も、あんなに好きだったサンリオですが、小学校を卒業するあたりから徐々に興味は無くなったようで。
月日は流れ。
その後も私は年齢を重ね。
今度は子供が生まれ。
その子供も、サンリオに興味があったのは、せいぜい小学校中学年くらいまでで。
姪っこの時代になると、もう、サンリオ卒業は、小学校低学年くらいになっていて。(^-^;)

私には、めったに、サンリオ製品が目に止まることが無くなっていたのですが。

ちょっと時間潰しをするためにサンリオショップをブラブラすることに。
学校休みの日なのですが、買い物しているのは、なぜかほとんどが大人です。(^-^;)



なんとなーく見ていたら…。
なんだか、子供の頃の、私の。(笑)
サンリオワクワク感♪が戻って来てしまいました。(*´ー`*)(笑)


マイメロですね。
見てくださいー。ピンクがこんなに並ぶと~可愛くないですかー?(^-^;)
まさか、この年齢になって、サンリオのポーチやバックやぬいぐるみが欲しいとはさすがに思いませんが(^-^;)(笑)
全部くまなく見て歩き。

ふぅんん………今は、こんなものがあるんだぁぁぁ??(。・。・)
と見て歩く。
でも時代の流れは(スマホ用品以外は)あまり感じなかったですが。


なにも買うつもりなかったはずが。結局これ買っちゃいました。
今家にある電卓が300円で購入したミッキーの電卓で。
それがどーもうまく押せない、さすが300円(-""-;)の、
シロモノで~新しいの前から欲しかった。( ̄ー ̄)


スヌーピーとキティちゃんで、悩んだ末に、どうせなら、赤の派手なほう!!(* ̄∇ ̄)ノ
で。
キティちゃんを買っちゃった。(´▽`;)ゞ

これで、電卓の押し具合にイラつかなくて良くなった。(&見るたびきっと可愛い~(。・。・)ノ笑)


そして。
レジで聞かれる。
「ご自宅用ですか?プレゼントですか?」
私はプレゼントではないのに、答える。
「プレゼントです。(^ー^)」
そしてリボンと飾りどちらがいいか聞かれ、私は答える。
「飾りでお願いします。(^ー^)」

で。
つけてくれたのが、これ。

キティちゃんのシール。(⌒‐⌒)

私が持つ外袋にも。


その後、別のレジで、キティちゃんの、紙シールを買ったのですが…こちらでは、
袋にキティちゃん&ケロッピのマグネットをつけてくれました。(^ー^)


この揺れる、おまけたちを見ていたら、
レジのお姉さんに、おまけをつけてもらった時、当時の。
あの、ワクワクしたうれしさを思いだし、思わずにっこり。してしまいました。

今でもまだ、続いているんだねぇぇ…この、おまけ(⌒‐⌒)♪
昔はほんとに、ほんとに、うれしかったんだよなぁぁぁ…この、
揺れるおまけ。(*´ー`*)ノ

って。(^ー^)



サンリオは、40周年らしいです。
そうかぁぁ…サンリオって。子供の頃からずっと一緒に歩んで来た。
すごく身近なキャラクターたちだったんだね。(。・x・)ゞ♪


めだかの学校

2014年06月10日 | 思い出・過去の出来事

こんな額を見つけました。(^-^)

 

♪めだかのがっこうは川のなか
 そっとのぞいて みてごらん
 そっとのぞいて みてごらん
 みんなでおゆうぎしているよ♪

 

♪めだかのがっこうのめだかたち
 誰が生徒か先生か 誰が生徒か先生か
 みんなで楽しく遊んでる♪

♪めだかのがっこうはうれしそう
 水に流れてつーいつい 水に流れてつーいつい
   みんなが揃ってつーいつい♪

 

そういえば幼い頃大きな声で歌ってましたよよね。この歌♪(#^.^#)

大人になると、こういう歌も、なかなか真剣に聴くこともなくなっちゃいましたね。

私はこの歌記憶の彼方に忘れてしまい。2番も気持ちあやふやだったのですが、

けど3番も。こんな詞だったみたいですね。

 

なるほど。(^-^;


いわてアーカイブの旅

2014年02月25日 | 思い出・過去の出来事

本屋さんでこんなDVDを見つけた。

裏を見る。

あちこちのお祭りなども、もちろん懐かしいのですが。

 

デパート屋上遊園地

この文字を見たら欲しくてたまらなくなった。

これはきっと川徳の遊園地のはずだ。

youtubeなどで川徳の昔のたぶんヘリコプターから撮ったと思われる

コマーシャルで全景などは見ているのですが

遊園地の映像は私の記憶の中にしかなく、それを見られることなんてもしかしてもうないのかも。

そう思うとどうしても欲しくなりました。

(白黒画像の昭和36年は私はまだ生まれていませんがっ


屋上の遊園地は夢の国でした。

この電車に乗ったこと。

左奥に見えるような、屋上から周りの景色を見える網や柵や壁(塀)の感じ。

イスなどが置いてあって母親たちが座って待っていた。乗り物に乗り終わると、その母親の元に

走って行った自分はワクワクしていた。そんな記憶もこれを見て蘇って来ました。

 

昔の屋上遊園地は、日曜日になると大混雑だったそうです。

私の子供の頃も、遊園地はたくさんの子供でごった返していました。

(この頃の、お父さんたちを見てください。

スーツにネクタイの人がたくさんいる。

 

ここらへんから昭和47年画像になります。画像はカラーになります。

デパートへのお出かけは(ここゲームセンターだよぉ)着物

(この人はおばあちゃん。だと思いますが)

そういえば私の小学校の入学式あたりまでは、付き添いの母親は着物を着る人がまだいたようです。

この頃はまだ着物はお出かけの正装だったのかもしれませんね。

(その次の年あたりからどんどん時代は変わり、卒業式のあたりはもうそんなことなかったかも)

いろんなゲーム機が並んでいました。

母親とおばさんや従兄弟と行き、おこづかいをもらいそのお金を握りしめ、

遊んだものです。

 

左奥の時計台。

けっこう遊園地のど真ん中にある時計台は真っ白い大きな壁のようになっていて

確か下はトンネルのようになっていて、その下をくぐりぬけて壁の向こうに行くことができたと思います。

向こうに行くとまた別の遊び場があるイメージ。

その時計台は1時間ごとに、音楽が鳴り、兵隊さんの鼓笛隊が太鼓を叩いていたような気がします。

(兵隊さんがどんな動きをしていたかよく覚えていませんがなにか動き出す)

そして頭の上の真ん中のドアが音楽と共に開き、お姫様が出て来たような気がしたのですが

どうだったでしょう。

私はこの音楽が鳴りだす真っ白い時計台が本当に大好きでした。

音楽が鳴りだすと、走りだし、時計台の目の前に行き、終わるまでずっと

1人で上を見上げて終わるまで眺めているような子供でした。

なので、遊園地で遊ぶのが終わり。

母親に「もう帰るよ」と怒られながらも、どうしても最後にそれを見てから帰りたいわけで。

「お願い。次の見てからお願い」と

毎回やっていました。

母親は「まだ20分もあるじゃないだめ」と・・・。

そしてあひるは泣きながら帰る・・と。(笑)

 

遊園地に行く日は、お出かけの日でした。

なので、行きか帰りには必ず、(確か5階の)おもちゃ売り場に寄りました。

ここもいつも大混雑でワクワクしたものです。

おじいちゃんに入学のお祝いに机と、ブタさんの貯金箱、

自分のからだの半分くらいある赤ちゃんの抱き人形を買ってもらった嬉しさ、

今でも覚えています。

小学校3年生くらいの時は切手集めをしよう。と思い立ち、お年玉で安い切手を買ってみたのもここでした。

 

おもちゃ売り場の階には大食堂もあり。

そこも子供にとっては夢の世界でした。

たぶん。お子様ランチしか食べなかったのでしょうが、お出かけに行き、食べるごはんは、本当に特別なものでした。

食堂入口の(レストランなどとは当時は言わなかった)ショーケースに並んだスイーツもきっと

子供にとっては夢の国だったんでしょうね。

 

昭和55年川徳は菜園に移転したようです。

そして屋上遊園地は無くなりました。

当時は川徳と。その隣のエンドーチェーンでも屋上に小さな遊園地があり、よく屋上ショーをやっていました。

昭和40年代くらいがきっと盛岡の一番いい時代だったんでしょうね。

 

私にとって盛岡(岩手)は自分の思い出の全てです。

盛岡を見ていると、昔の自分を思い出し、懐かしくどこか寂しく、

でもとても暖かい気持ちになるんです。

先日盛岡の朝の街を散歩しました。

マイナスの気温で、本当に寒かったのですが、私は寒さよりも嬉しさでいっぱいでした。

なんの予定も無く、ただブラブラと明るい朝の盛岡を歩いたのは、何年ぶりのことでしょう。

鉈屋町や下ノ橋、本町と、もっともっとグルグルと歩いていたい気持ちになりました。

どこまでも歩けるような気持ちがしました。

目に入って来るのは昔と変わらない街。

昔と変わらないということは廃れて行くということでもありますが💦

(特に今はもう盛南開発が進んでますもんね)

盛岡はずっとこのまま変わらないで欲しいです。

 

私はずっと幼い頃から盛岡(岩手)が大好きなのだと思います。

1960年の開運橋だそうです。

 

 

このDVDには、昔志戸平にあった路面電車や遊園地なども映っています。

昔こんなものがあったなんて信じられない現在ですが

DVDには映っていませんが花巻温泉にはもっと大きな遊園地があったそうですね。

盛岡にしても花巻にしても昔はたくさんの人がいたのですね。

 

DVDは結局全て見ました。


音楽室にいた作曲家

2013年09月06日 | 思い出・過去の出来事

子供頃、音楽室に貼ってあった外人の音楽家の肖像画。

誰もいないときに、肖像画全員の目が一斉に動くとかいろんな噂があり、

あのシーンんとした音楽室1人でにいるときなどは、本当にこわかったものだ。

 

音楽室の部屋の後ろに貼ってある、あの肖像画は・・なにかと話題にのぼった。

 

友達と、この中で好きなのは誰かなんて話しながら、爆笑した。(笑)

私は当時シューマンが好きだった。

一度好きだ。と思ったら、音楽室に行くたびに、この中でどれが好きかな。と毎回思い。

やっぱり毎回、目につくのはシューマンの肖像画だった。(笑)

 

けれど。

そんなこと、もう、ずっと忘れていて、きのう、ふと音楽家を思い出したときに、

自分が好きだったのが、シューベルトかシューマンかわからなくなっている自分がいて。

もはやシューマンは私の頭の中の架空の人物だったような気もして来て。

そういやぁ、あれはシューベルトだったかも。と気持ちは、なって。

でも、なんか気になり~検索してみたら。

シューマン実在してたぁぁぁぁ~~~(笑)

 

そうそう。音楽室の中の私の好きだった顔は、

シューマンこの人だ。

音楽に興味なんてなかったし~どんな曲を作曲したのかなんて

全くわからないし興味もない。

基準はだけである。(爆笑)

たぶんおじさんの肖像画ばかりの中で、シューマンの肖像画が一番若かった。

何歳で死んじゃったとか一切関係ない。

肖像画が若い。私がシューマンを好きだった理由はそれだけだったと思う。

だって私は当時まだ小、中学生なのだ。

シューベルトは当時はちょっと好みではなかった。

(今ならシューベルトの(顔の)いいところもなにげにわかる。日本人によくいそうな

タイプではないか。笑)

ベートーベンは髪型が嫌いだったし。(笑)

バッハの髪型は私の中ではもはや番外だった。

この頭の人と恋愛はできそうにない。(爆笑)

 

どの人がが好みかなんて、外人の大人(笑)を見て友達と言い合う私は

なんという、マセた子供だったのだろう。(笑)

 

しかし思うんだけどさぁ・・ここは日本なのにさぁ、日本の音楽の歴史たとえばさぁーー

荒城の月の作曲家瀧 廉太郎とかの肖像画はなんで貼らないんだろうねぇぇ(笑)

そういうのも肖像画貼って教えるべきなんじゃないの

でも。他に日本の作曲家なんて記憶に出ては来ないけどぅ・・

作詞家サトーハチローとかさぁぁ。

まっ日本の音楽家で、思い出せる人がほとんどいないというのも事実だけどぅ。


あまちゃん観てて思い出した地震の時の気持ち

2013年09月03日 | 思い出・過去の出来事

あまちゃん。でついに、3.11の日が放映されて~ツイッターなんか、その話しで

持ちきりなんだけど。

津波の映像が出なくてよかったとか

フラッシュバックしたとかあの日を思い出した。とかいろんなこと書いてて。

私も(内陸人にも関わらず)同じく。

あの日を思い出しテレビ観てたら鳥肌が立った。

 

普通に生活してた人間の暮らしの中の、それぞれの地震直後ってのを

映像で見せられたことは今までなかったので。

(フイクションだけど)それぞれの気持ちなどが、妙にわかり

普通過ぎて。ドラマの中の人間に最初実感ないことのほうが、リアル感があり。

今まで見て来た地震の映像とは違う、リアルな思い出し方をした。

 

地震から数か月の頃はネットなどで、地震直後のテレビ放映や、津波の映像など何度も

見たりしてたんだけど、それは最初だけで。今は見たくはない聞きたくない。

この気持ちの変化はなんなんだろうな。

地震のトラウマってやつが、数年して出て来たのかな・・。

NHKなどで、よく震災の特集を今でもやっているけど、私はチャンネルを変えちゃう。

気持ちが暗くなってしまうからだ。

私は本を読むことが好きだけれど、本屋さんに並ぶ震災関連の本なども手には、しない。

 

あの時は、車を駐車したとたんに車が揺れ出し。

すぐ外に出て。

もっと揺れはひどくなり。みんな立っていられなくなりしゃがんだ。

立ち上がれずしゃがんだまま、動けず。

目の前にあったコ○マ電機の背の高い四角い大きな重そうな看板が、メトロノームのように

揺れているのを、見上げていた。

大げさに言っているのではなく、本当にメトロノームを思い出した。

あれが折れたら(飛んできたら)死んじゃうんだな。

と思いながら、でも揺れがひどくて立ち上がることなんてできなくて。

あの時は大きな揺れの中で

あれが折れて死んじゃうかもしれないんだ。

それより、こっちの(後ろの)建物が倒れるかも。

そんなことを本気で考えていた。

さっきまでなんでもなかった日常が突然恐怖に変わった。

みんな、揺れに対し「なに・・これなんなの」そういう言葉しか出て来なかった。

揺れがおさまる。その後何度も余震が来る。

携帯は通じない。家族の安否が気になる。焦る。こわくてふるえてくる。

他の人もふるえている。

上の子が車で私の居場所まで私を迎えに来て、

仕事なんてそんなのどうでもいいから早く逃げよう。一緒に逃げよう。

と言う。

 

 

本気でこわかったな。

そしてあの日からなにかの考え方が変わった・・んだなぁぁ。


昔から聴いていたコマーシャルソング

2013年08月31日 | 思い出・過去の出来事

(前にもどっちかのコマーシャル載せたと思うけど)

先日テレビ観ていたら、このコマーシャルが同じ時間帯くらいに流れてた。

聞きたくないな。と思いつつ耳に入って来てしまう。

この2つのメロディーは、懐かしく好きなのだけれど・・

でも聴くと、昔からなんとなく。切なくなってしまうという

気持ちの矛盾する不思議なコマーシャルなのです。

大人になってからも、聞こえてくるたびに。私は。

懐かしくそしてどこか切ない気持ちになります。

 

 

これは両方とも昔のバージョン。

小学生の頃から繰り返しテレビで聞いて来たコマーシャルだね。

 

庭に広い芝生がある大きな家、庭では大きな犬を飼っている、

そんな友達の家が、うらやましかったし。

私は大人になったらこんな家に住む

コマーシャル見ながら、そんなことを思っていた小学生だった。

 

 

 

このコマーシャルを見ながら、どこにあるのかはわからないけれど、

大きくなったらこの木を見に行く とも思っていた。

大人になってからハワイにあることを知った。

会社の旅行でハワイに行った夫くんが、この木を見て来たとかで。

そういえば私も「行きたいー」と言ったら、

「広い公園の中に木が、ただあるだけだから見てもしょうがない。

つまんねーぞーーー。」みたいなことを言っていたっけ。

 

 

両方なんかどこかメロディーが切ない歌ではあったけど。

幼い頃から今までずっと繰り返し耳にして来たコマーシャル。

1年中聴こえて来たよね。

 

小さい頃から、漠然としてはいたのだけれど、でもいろんな夢があった。 

早く大きくなって自分が大好きだと思う人のお嫁さんになりたいとか。

その大好きな人とずっと一生仲良く一緒にいたいとか。

大人になって大きな家に住みたいとか。

小さい頃の夢ってそんな夢。

 

大人になって年齢重ねた今は。夢は。

違って来ているのかもしれないけれど。

でもさ。夢は変わっても。

夢ってずっと、作って行くものではないのかな。

一生あったほうが幸せなのではないのかな。

夢ってずっと紡いで~作って行くものではないのかな。

 

夢。

この先なにも見れないんじゃないか。

作れないんじゃないか。

なにも紡いで行けないんじゃないか。

そんな風に思える人生なんて、たぶんきっとつまらない人生だろうな。

そんなことを思った。

 

もう、このコマーシャルは。私の夢では。

なくなってしまったのかも・・しれないけれど・・。


遠き山に日は落ちて

2013年08月14日 | 思い出・過去の出来事

 

womanの「遠き山に日は落ちて」を聞くと、小学生の頃、山の麓のキャンプ場で

キャンプファイヤーをしたときのことを思い出す。

キャンプファイヤーが消える頃、この歌を習い、みんなで消えそうな火を見ながら

静かに歌ったのを思い出します。

幻想的で・・寂しく・・静かで・・。

 

その頃、歌詞の内容なんてちゃんと理解できてないで歌っていたとは思うのですが、

でもその時に感じたいろいろな気持ちは、今でもしっかり覚えていて。

そして大人になったあとで歌詞の内容と繋がり。

 

今の子供たちは、こういうこと。大人から教えてもらっているのかなぁぁ。


ミッキーマウスの腕時計

2013年07月24日 | 思い出・過去の出来事

きのう、ウインドーショッピングに出かけて、全品夏物40%offのショップを

見ていた。

そこに。

洋服とは関係ないものが1点だけ、ネックレスやカチューシャと一緒に陳列してあった。

1点のもの。

私の目はそこで止まってしまった。

そして30年以上忘れていたことを、突然思い出すことになった。

 

 

我が家の子供たちの頃には、もうなかった、あたりまえ

私が中学へ入学する頃は、入学に準備するもの。の中に腕時計というものがありました。

当時はテレビのコマーシャルでも入学前の季節になると、腕時計をコマーシャルが

バンバン流れた。

祖父母からや両親からの入学祝に買ってもらうというパターンがほとんどだったと思う。

形はだいたい決まっていて、シルバーの時計にシルバーのバンド(←色の話しね。

ステンレスだと思う)みんな、色も形も似たり寄ったりの時計だった。

あの時計をしているだけで、大人になれそうな、そんな憧れがあった。

 

腕時計を準備しなけらばならない。

そう学校から聞かされたが、我が家には時計を買える余裕は無かった。

周りはみんなそんな時計を周りからのお祝いでもらっていた。

私にはそんな祖父母もいなかった。

 

私は母に言われた。

「伯母ちゃんがね、時計買ってくれるんだって。でもね、高いのは買えないけど。

でも良かったね。

伯母ちゃんは、未亡人である。お金がそんなにあるわけはない。

その伯母ちゃんが入学祝いに、時計を買ってくれると言う。

私は母に、どんな時計を買ってくれる気なのか・・とか、

私もみんなと同じような時計が欲しい。ということを告げたのだと思う。

母は言った。

「そんな高い時計は買えないからねいい5000円以内くらいのだよ

そして母と伯母と、中学入学前の春休み私は盛岡の大通りの時計屋さんへ行った。

 

並んだ時計はどれも高かった。

当時の時計は今と違って高いもので(昔は眼鏡も高かったよね)

私が欲しいシルバー色の時計は、どれも数万円した。

その数年後くらいからは、安い時計が出回り始めるのですが、

当時はまだ高級品だった。

私は、「これが欲しい」というワガママは言えないことはわかっていた。

けれど私も本当はみんなと同じようなシルバーの時計が欲しかった。

 

母が言う。

「これがいいんじゃない

それは、4900いくら。くらいの値段のミッキーマウスの時計だった。

文字盤が金色でミッキーの両手が時計の針になっている。

当時私は、茶色が好きだった。

伯母ちゃんも言う。「○○(あひる)こういうの好きなんじゃない

その腕時計のバンドは茶色いエナメルだった。

私は確かにミッキーも茶色も好きだ。

でも、学校にしていく腕時計がミッキーなんていやだ。

心の中で「こんなのじゃなく、あっちが欲しい」と思っていた。

だけど、せっかく買ってくれるという、伯母さんにそんなことは言えない。

選べる時計はそれしかないのだ。他のは高くて買えない。選んではいけない。

そうわかっていた。

 

私は子供の頃から、金銭面では我慢しなけらばならないことがたくさんあった。

その点、母は子供の頃からお嬢様で育って来た。

もしかしたら、母は本当に子供の気持ちがわからなかったのかもしれない。

母が「皆と違うもので可哀想だけれど・・うちはお金がないからね」と

思ったのか、

「別に時計なんて、なんでもいいじゃない。

○○(あひる)はミッキー好きだし、茶色好きだし。

可愛いし。」と思ったのかはわからない。

 

でも、もしかしたら母は、自分がそういう気持ちを味わったことがないので、

私の、皆と同じじゃないことがどれだけいやか。

という私の気持ちなど、理解していなかったかもしれない。

私の顔はそんときとても暗かったと思うし、顔を見たらわかるとは思うのだけれど、

さてどうだったのでしょう。

 

だって私なら、いくらお金が無くたって、子供が可哀想でしかたなくなると思う。

だから母の気持ちは私には、わからない。

 

その後、習字の授業で万年筆を使う。というのもあった。

当時万年筆もとても高いものだった。

友達はみな、万年筆もお祝いでもらったりしていた。こちらも数万円とかした。

これも買う余裕は、私の家にはなかった。

プラスチックのカラフルな色の1400円くらいの万年筆を買った。

ボールペンのようなおもちゃみたいな万年筆だった。

それが買えるくらいのお金しかもらえなかった。それしか選べなかった。

私は学校で、なんでもない顔を頑張ってしていたが、

授業中この万年筆を出すのも、本当はとても恥ずかしかった。

こんなおもちゃみたいな万年筆を持っているのは、私だけだった。

腕時計も万年筆も、普通に買えて。あたりまえ。な時代だった。

 

私は母に進められるまま、選ぶ自由も無く、そのミッキーマウスの時計を

伯母ちゃんに買ってもらい学校にして行った。

 

伯母ちゃんも、お金がたくさんあるわけではない中から買ってくれた

ミッキーマウスの時計。

でも私は、買ってもらったのに、全く感謝はしていなかったと思う。

当時全くうれしくなんてなかった。

友達には「これ見て~私の時計~ミッキーマウスだよぅ~」なんて、

笑いながら見せたのだけれど、中学1年生は、笑いながらおちゃらけるしかなかった。

私も本当はみんなと同じシルバー色の時計が欲しかった。

 

せっかく伯母ちゃんが買ってくれた時計。

でも私の中で、このミッキーマウスの時計は大嫌いな時計となり、

なんだか切なく悲しかった思い出のひとつになったのだと思う。

そんなだったので、たぶん、自分の心の中で封印していたのだと思うのですが、

その、すっかり忘れていたミッキーマウスの腕時計を、なぜかきのう

そのショップで見かけることになる。

その時計はちゃんと箱に入って売っているちゃんとした時計で。

ミッキーと言っても、キャラクターの時計がたくさんただぶら下がり売っている時計とは違う。

(そういう、ぶら下がってるミッキー時計みたいのはたぶんその後も何度も見ているが、

私は、ぶら下がって売っているような(千円台くらいのディズニー時計を見たときは)

そんなこと思い出したことはなかった。

この箱に入ったミッキーの時計を、目にすることになり、

伯母ちゃんが亡くなったことももちろんあるからなのだろうけど、

いろんな記憶の糸が手繰り寄せられてしまった。

私は当時の切なかった気持ちを思い出すと同時に。

記憶の糸は一気に当時に戻り~

私は買ってくれた伯母ちゃんの気持ちを初めて考えた。

 

私あんとき、ちゃんとお礼言ったんだろうか

私伯母ちゃんに、全然感謝していなかった。

きっと買ってもらったこと、心の中で封印してしまっていた。忘れていた。

伯母ちゃんが、こんなこともあったよね。と思い出させたのかもね。

 

伯母ちゃんごめんね。

伯母ちゃんあのときミッキーの時計買ってくれてありがとう。

 

 

その後私は10代後半になり大人になり、自分で好きな時計を選べるようになっていた。

時計が安くなった。というのもあるけれど、

それから何年も、ステンレス製にピンクやグリーン、ストーンの入った文字盤の時計、

四角や丸の形のもの。

ベルトのデザイン、ブレスレットタイプのデザインも、好きなものを選べるようになり、

私は気に入ったものを買えた。

そうして私の記憶は伯母ちゃんが買ってくれたミッキーの腕時計のことなど、

ずっとずっと忘れていた。


雨の帰り道

2013年06月03日 | 思い出・過去の出来事

今日は暑かったですね~。

明日は28度くらいまで気温が上がるそうです。

今日から半袖を着ているのですが、いつの間にか季節は夏みたいですね。

ほんとにいつの間にか。です。

私は今年は、春を通り越し、夏になってしまったような気がしています。

 

お昼に塩ワンタン麺を食べました。

麺はちょっと残しちゃったんですが~美味しかった。

 

小学校低学年の頃、私は母親の再婚の事情でバス通学していたことがあった。

だいぶ以前、ブログに載せたことがあると思うけれど、

近所。というのは大人になって歩いてみて初めてわかるのだが、

子供にとっては、とても遠く、大きな町だった。

大人の足で歩くとこんなに近かったのか・・と思うのだけれど

小学校低学年は、バスから降りて歩く距離もとてもとても遠かった。

バスが下校とちょうどよく来ればいいが、そうでなければ、1時間半とか

下校にかかってしまうことがあった。

もちろん、普通は学区内の学校に通うのが当然なので、私の通学は特殊な通学だった。

 

私は自分でいろいろなことを空想する子供だった。

登下校にもいつも空想をして歩いていた。

空想の他、低学年の音楽の授業は当時ハーモニカだったのだが

(←創立100周年とかの市内でもめずらしい学校だった。中学年からはピアニカ)

1人で暇な帰り道、そんな音楽の授業で習ったハーモニカを吹きながら

歩いていたりした子供だった。

 

毎日、バスを降り、川を左手に見ながら川沿いの道を歩いて帰る。

大人になって歩くと、10分で着く距離が、小学校2年生の足ではバスを降りた場所から

家までは30分かかった。

途中で雨が降り出すこともある。

こんなことがあった。

雨の中、ランドセルを背負った私はガードレール。

立ち止まったまま、ずーっと川を見ていた。

どこかの今思うと60代くらいのおばさんが私に声をかける。

「どうしたの??おうちに帰らないの??」

私は答える。

「お母さんが来てくれるかもしれないから待ってるの・・

 

今思うと私の母は、そんなことしてくれるような母ではなかった。

でも、私は、雨が降ったらもしかして、母が迎えに来てくれるのではないかと思い、

家の(今思うと10数分の場所で)来てくれるかも。そんなことを考えていたのだ。

でも今あの頃を考えると。

私はその前に雨の中、小学校から歩きその後バスに乗って、バスを降りたのだ。

学校に迎えに来てもいない母が、そんな途中の道に来るわけはない。

ましてや、9歳離れた妹が産まれたばかりの母が、私を迎えに来るわけはない。

私はたぶんずぶ濡れだったんだろうなぁ。と今になると思う。

(当時は別に気にしていない)

 

その声をかけて来てくれたおばさんは。

雨に濡れている私を見て「ちょっと待っててね。おばさんの、うち、そこだからね・・」と言い

自分の家に入って行った。

そして。

私の元へ帰って来たおばさんは、ビニールの風呂敷を私の頭にかけて結んでくれた。

そしてみかんを1個私の手に持たせてくれた。

「さっ・・これ持っておうちに帰りなさい。」おばさんは、にっこり笑った。

 

私は、おばさんに、頭から三角に折ったビニール風呂敷を首で結んでもらい家に帰った。

別にそのときに、のおばさん、優しいな。と思ったわけではなかった。

なんで、このおばさんはこんなことするんだろ

私はそんなことを思ったような気がする。

 

でもたぶん40年くらい経った今になっても。

私はあのとき声をかけてくれた、見ず知らずの

おばさんのことを時々思い出す。

 

たぶんうれしかったのに・・。

素直に、ありがとう。と言えなかった自分を思い出す。

 

そして私は、来ないとわかりきっていたはずの母をあの時待っていたのだ。と

いうことも切なく思い出した。

だって・・学校から帰ると、母はほとんど、寝ていたのだから。

(まぁ、まじで、先生に死んじゃうよ。と言われてた高血圧でしたから

調子は本当に悪かったので仕方ないのですが)


子供の頃 第4話  怒られる

2013年01月22日 | 思い出・過去の出来事

第4話(話しあちこち脱線するので、かなり長い上にたぶん読んでいるうちに

親戚関係がこんがらがります。笑)

 

私の母は、4人きょうだいの4番目末っ子。(と言っても下の2人は双子なのですが)

姉、兄、、姉、母、の4人きょうだいだった。

私が小さい頃は母の3姉妹は、よくそれぞれの家を行ったり来たりする仲良しで。

私の母方4きょうだいの子供は、(私含めいとこ)全員で8人いた。

母の一番上の姉の子供(あひるのいとこ)はあひるより全員年上だった。

その母の一番上の姉の子供は3人。一番年下の従兄があひるの7歳年上だった。

7歳年上は従兄とはほとんど共通点がない。

あひるが小さい頃この従兄はもう専門学校生だった。

専門学校生は小学校低学年から見たらあり得ない大人だった。

親戚が集まり、いとこで会うことがあっても、

私は歳の近い従兄(母の双子の子供)と仲が良く、いつもその従兄にべったりだったので、

歳の離れた従兄と会話は、親戚が集まっても、ほとんどすることは無かった。

 

当時、その歳の離れた従兄は自分でアルバイトもしていたしよく東京などにも遊びに行っていた。

着るものはいつも(今もあるけど)VANという、あひるよりちょっと上の当時の若者に流行ったブランドで。

お洒落な人で通っていた。

ずっと歳は離れているのですが、子供心にも、この従兄は親戚の中で顔は一番カッコイイ。と思っていたし。

実際その従兄はバンドもやっていて、いろんな会場を借りて

コンサートなどもしていてファンもそれなりにいて。

かなり女の子にもててる。という話しを聞いていた。

伯母も若いとき、なんのかは知りませんがモデルをしていたとかで、

当時の写真を家に飾っていたりしたし。

その伯母&その子供たち(あひるのいとこ)は、親戚の中でも

みんな服のセンスなども良く、ここの3きょうだいはお洒落でした。

それに刺激されそれより年下のいとこたち(あひるを含め)は、

だいぶ、その大きないとこたちの服のセンスを真似ました。

あひるは女の従姉に刺激を受けました。

当時まだ茶、金以外、色のついた髪を染めている人なんてみかけませんでしたが、

従姉は髪の毛を紫に染めていました。(今はご高齢の方がよくしていますが

綺麗な紫のテクノっぽいおかっぱのような短い髪はすごいと思ったし💦

とても綺麗でカッコイイ。と思ってみていたものでした。

実際従姉は美しいお姉さん。でした。

(その従姉にあひるも可愛いビキニをもらったり洋服をもらったり。

マニキュアの綺麗な塗り方などを教えてもらったりしました。)

 

話しは戻ります。

その日・母の一番上の姉(伯母さん)の家に母と遊びに行き。

家にいたのは、その伯母さんと母と双子の伯母さん。母と私。の4人だった。

居間の隣は従兄の部屋。日中だったので従兄は学校だろうか・・いない。

母たち姉妹は私のことは当然放置でおしゃべりに夢中。

隣の従兄の部屋は、ふすま4枚を開けてあり母たちがいる、居間と続く。

私は、一人で、その両方の部屋を行ったり来たりして遊んでいた。

従兄の部屋にはたくさんのギターやエレキギターが、ギターを立てる受け台の上に

立てかけられ畳の上にずらっと並べられていた。

私はとってもそれに興味があった。

とっても、とっても触ってみたかった。(あひるまた始まったぞ爆笑)

私は、ギターの前に膝をつく。マジマジとギターを見る。

私が静かになったので、母たちはなにかを察知したんだろう〜。

 

母が隣の部屋から叫ぶ。(ふすまの影なので、あひるの姿は見えない)

「○○(あひる名)〜○○ちゃん(従兄)のギター絶対

触っちゃだめよーーー

私答える。「うん・・。

「わかってるほんとにだめよーーー

私は答える。「うん・・。

 

だから低学年は〜触るな。と言われたら、触りたくなるのだ。

どうして大人はそれをわかってくれないんだろう。

もう遅い・・。あひるは無言で、ギターを触り始めていた。

 

あーあーやっちゃった。って感じである。

 

母がまた叫ぶ。

「ほんとにだめだからね〜触ったら○○ちゃん(従兄)に

怒られるんだからね

母が半分笑いながら叫んでいる。

そしたら、双子のおばさんも笑いながら言った。

「そうだよぅ壊したら○○(あひる名)怒られるよぉ

それに続けて一番上の伯母さん(従兄の母)も爆笑しながら言った。

「そうだよ壊したら・・○○(従兄)にすごく

怒られるからねぇぇぇ○○(従兄)恐いよぉぉぉぉ

 

その瞬間・・。

触っていたギターの弦が・・切れた(爆笑)

いいや・・もしかしてあれは、外れただけだったのかもしれないが

小学校低学年は、弦がどうのこうのなんてわからない。

どうしよう。壊した・・・・・壊した・・・・・壊した・・・・・。

 

このときのあひるは、素直に壊した。ことを母に告げた。

すると大人3人は、かわるがわる、言った。

母はもちろん、その時点で赤鬼に変身している。(爆笑)

「あ〜あぁぁぁほんとに壊しちゃったの〜

触っちゃだめって言ったでしょなにやってんの

続けて伯母2人は笑いながら言った。

「あ〜あぁぁぁ○○ちゃん(従兄)に怒られるんだ

「○○ちゃん(従兄)怒ったら〜恐いよぉぉぉ

 

私の気持ちは恐怖でどん底になった。(笑)

「壊したーーー○○(あひる名)怒られるよぉ

「見つかったら・・○○(従兄)にすごく怒られるだろうねぇぇぇ

「あ〜ぁぁ・・・・○○(従兄)ちゃんに会ったら謝らなきゃねぇぇ

「○○(従兄)恐いよぉぉぉぉ

大人3人に重ねて言われ、あひるの中でこの従兄は、もう、この瞬間から

恐ろしく恐い恐い存在になってしまった。

 

それでなくても私は幼い頃かなり、シャイだった。

今では考えられませんが写真を撮られるのも大嫌いな子供だった。

カメラに向かって笑ったりなんて絶対できなかった。

(歳の近い従兄が、笑って言いました。「○○(あひる)小っちゃいとき、写真撮ろうとすると

魂取られるみたいに嫌がってたもんなぁ~」爆笑)

すごく恥ずかしがり屋だったのだ。

そんな子を大人がよってたかって、脅してはいけない・・。(笑)(笑)(笑)

それから私は思春期を過ぎ、大人になって行くわけだが、このギターの持ち主従兄とは

その一件から一切話さなくなっていた。

他のもっと年上の従兄とは話すけれど、その従兄とだけは話さないのだ。

(向こうも無口でシャイ。ってのもあったからなんでしょうが・・)

子供の時に、恐い。と思ってしまったトラウマは消えない。

もちろん、爆笑していた親たちは悪気など全くなく、私のそんな気持ちなどなにも知らない。(笑)

 

今は東京だか埼玉だかに住んでいるその従兄に、おととし、親戚のお葬式で数年ぶりにあった。

そのとき伯母さんなども一緒にいて、私は従兄に初めてその話しをした。

 

小さい頃、ギターを触り、母や伯母たちに散々言われ、怒られる。と思い

そのことが、どれだけ恐かったか。

そして、その従兄とだけ話しができなくなってしまったこと。

すると、従兄は合点が行ったとでも言うように爆笑し始めた。

「そうか〜〜〜そういうわけかぁ〜〜〜

俺、ずっと不思議だったんだよぉ

なんで・・○○(あひる)が、俺のこと無視するか

そうかぁ〜なーんだ。そういうことか〜

やっと疑問が解けたぞぉ

子供を脅しちゃだめだろうなぁ・・○○(あひる名)〜

そうか悪いのはこの人たちかぁ〜

従兄は、伯母さんたちを指刺した。(笑)

伯母さんが言う。

「え〜そんなことあったっけ〜おばちゃん、覚えてないんだけどぉぉぉ」(笑)

 

何十年ぶりに私は従兄と普通に話しをした。

従兄は「そうだったのか〜そういうわけか

「話さなきゃわからないことってあるなそうかぁぁ」と何度も繰り返していた。

 

この歳になり誤解がよーやく解けた。(笑)

そして私は普通に話せた・・。

 

小さい頃私はほんとにシャイで、こわがりだった。

知っている人の前ではあり得ないお転婆なのだけれど、

おもいっきり内弁慶な女の子だった。

いつも母のお尻の後ろに隠れ、少しだけ覗いているような子供だった。

おどかされることが大嫌いだったし笑われることも嫌いだった。

 

小さい頃。

親戚みんなで、ボーリングに行った。

ボールが重くて、投げる。ということができなかった。

レーンのギリギリまでボールを運び、私は転がした。

弟たちは、投げることができるのだが、私には重くて、できなかった。

すると大人はみんな笑った。

母も笑った。私はボールを転がすたびに笑われた。

大人たちはボール転がす姿が可愛い。という意味で笑ったのだろうと今なら

わかるのだけれど、そのころは笑われたことで、私はすごく傷ついていた。

それから私は、ボーリングは一切しなかった。子供時代、学生時代いつも見ていた。

みんなで、行っても「絶対にしない」と言った。

母親はこういうところでも私のことを。

一度いや。と言い出したらテコでも動かない子。そう思っていたようだ。

そんなわけで。

20歳過ぎるまで、ボーリングをしたことが無かったので

今では普通にやりますが、ボーリングはあまり慣れていません。(笑)

 

母はけっこう、そうやって無意識のなかで、悪気も無くむずかしいあひるの(笑)

子供心を傷つける人だったし・・。(笑)

お嬢様の末っ子だったし。

くじ。の時みたいに、怒ると赤鬼によく変身したしぃ〜

でもそういう相手の気持ちをよくわからない(笑)親を持つと。

その子(あひる)は。

自分の子供の気持ちは、絶対わかってあげる。と思いながら育ちます。

 

今自分の子供たちを育てた日々のこと思い起こすと。

私の子供の頃と比べたら、私と比べほんと。いい子で育ってくれたと思います。

我が子自慢みたいですが私の子供のときなんかより、ほんとにずっと聞き分けのいい、

優しい子にみんな育って行ってくれたと思います。

 

だから・・・。

私の母は、母。あのキャラで・・たぶんよかったのだと思います。

 

4話続いた、怒られ話。

よーやく。おしまい・・・・・。

 こんな中で・・・私の現在の性格は作られたのだと思います。

 

そしたらねぇ・・・・・・こんな大人ができあがりましたぁぁぁ

そして・・私は・・・こんな今の自分がぁ・・実は・・・。

けっこう好きなのでした・・・。にっ。(笑)

 


子供の頃 第3話 怒られる

2013年01月21日 | 思い出・過去の出来事

中学3年生頃。

近所の男の高校生の先輩の家に女の子の友達と2人で遊びに行くことになった。

その先輩はヤンキーって感じで。

かっこよくはなかったが、面白い先輩だった。

 

家に行くと先輩の母親が出て来た。

母親は、子供に興味があまりないみたいで~「いないよ~」と言った。

私たちは、「待たせてもらってもいいですか」と聞いた。

母親は私たちにも全く興味なさそうに

先輩がいないにも関わらず部屋に通してくれた。

 

初めて先輩の部屋に行き私と友達は驚いた。

部屋の中に足を置くスペースがない。

部屋中に、ふとんや、衣類やとにかく全てのものが散乱し

これは片づけられない人(男)の部屋である。

私と友達はその、ゴミとしか思えない、小高い山の上に立っていた。

つーか部屋全体がいろんなものが積み重なった山なのだ。

 

なんなんじゃ・・この部屋は。

 

友達と呆然と部屋に立っていた。

先輩は・・全然帰って来ない。

私のなかでこの部屋はもう。

ゴミ箱のような気持ちになってきた。

 

たぶんこれ・・いらないからこんなことになっているんだろう

きっと全部がゴミと一緒なんだ。

私の思考回路はそうなった。(爆笑)

 

どう見てもゴミしかない山の中で、落ちている風にしか見えないものを見つけた。

ゴミの中に半分うずまっていた。

いいものをゴミの山で拾った感。である。

目ざまし時計。

手に取る。

 

私は友達に聞く。「ねぇ・・・これもらって、いいのかなぁぁぁ

友達が言う。「いいんじゃなーーーーいどうせそんなのいらないでしょっ

 

先輩が戻って来る気配は無かった。

私はゴミの山から、使える目覚まし時計を見つけた気分で、その目覚まし時計を持ち家へ帰った。(爆笑)

 

後日先輩に会った。

先輩は私たちが訪ねたことを知っていた。

そして先輩は言った。

 

「おまえらさーーー俺の部屋からなんか持ってかなかった

 

「え~~~うーーーーーん別になにも

持ってってないですねぇ・・

 

おまえさーーー俺の目覚まし時計持って帰ってないっ

 

私は真顔で答えた。

「えっあれあれは持って帰っちゃだめだったんですか

私ゴミから拾ったんですけどぉぉぉ・・。」(真顔)

 

先輩は言った。

「だから~あれ俺のだろ

 

「えっ私・・ゴミから見つけたんですけどぉぉ。

 

「だから・・・あれは・・俺のだつーの

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

おまえなぁ・・・・・返せ・・・よ・・・・・。

 

ゴミから拾ったのにぃ~~~怒られたぁぁ。(爆笑)

 

 

 

次回、第4話 怒られる。でようやく、怒られ話は終了します。

長々と、どーもすみません。

こんなの読んでくれて、ありがとうございます。(笑)