J’sてんてんてまり

はじまりは黎明期。今は、記憶と記録。

合理的であるべきなのか

2011年11月12日 | ゆめ・夢

 

 

時には、自分で思う理性を働かせるより、直感が優れていることがある。

答えを出しても、何かが体の底から違うとささやく感じや、居心地の悪さ、違和感、すっきりしない感じ、
そういったものが, その後、答えが明らかになったときに教えてくれる正しさ。
たとえば、第一印象が知らせる人となりを、話してみての感触で塗り替え、
後日、第一印象こそが、正しかったのだと気づかせる苦い出来事。

そんなとき、わたしは思うのだ。

理性というのは、自分で理性だと思い込んでいる動物的感情にゆすぶられる表面的な思考で、
直感こそ、感情に左右されない、ヒトに与えられし理性なのだ、と。

時として、それらをカミと呼ぶ人もいる。

 

 

 

 

「バットとボールはセットで1ドル10セントします。バットはボールより1ドル高い。
 ボールはいくらですか」

この手の問題は得意だ。
すぐに分かる。

数字に苦しんだ若い頃があるので、簡単に出そうな答えでは直感が許さない。

つまり、苦手意識は、そこに立ち向かうとき、正しさに近づく道を照らす灯りとなる。

なぜ、この問題に多くの人が、特に賢い人々が誤答するのか、研究者が調べている。

 

不確かな状況に直面したとき、人間は情報を丹念に評価したり、関連のある統計データを調べたりしない。
代わりに、「知的ショートカット」(mental short cuts)に判断をゆだねるのだが、
そのせいで、しばしば馬鹿げた判断を下すことになる。
このショートカットは、検討を速く行うというわけではなく、検討をまったくやめてしまうというものだ

カーネマン教授らが特定したさまざまなバイアスや盲点は、人間の愚かさの症状ではない。それらは人間性の本質的な要素であり、長い進化を遂げてきた脳が持つ、避けがたい副作用といえる。

意思決定においてわれわれが間違いをおかすことにつながるバイアスのひとつ、というのが
「自信過剰バイアス」
*現実以上に自分が周囲の情報を十分把握していると考え、また自分のスキルに現実以上に自信を持つ傾向

この現実以上というのが、難しいだろう。
だって、自分の能力を客観的に正確に判断できる事など、ヒトにできようはずも無いではないか。
相対的な能力であれば、なおのこと。

人間は自分を、プロメテウス、理性という特別な力を授かっていると思いたがる。
しかし、カーネマン氏の簡単な実験が明らかにしたように、人間の思考は理性的というにはほど遠く、
習慣に頼ってばかりで、しかもそれはほとんどの場合、われわれを誤った方向へと導いている

だからこその直感ではないかと思ったのだが、研究者はこう言及する。

さらに厄介なのは、このような習性は事実上、修正不可能ということだ。
カーネマン氏自身、次のように認めている。
「私の直感的思考も、やはり自信過剰や極端な予測、
計画錯誤[時間や予算といった計画完遂に必要な資源を常に過小評価し、遂行の容易さを過大評価する傾向]
といった傾向をもっており、それは、私がこれらの問題を研究する前と変わっていない」

つまりわれわれは、つまずく原因を知っていてもなお、転んでしまうようにできているのだ。

人間の非合理性を科学する WIRED.jp

なんだ。。。
といおうか、直感的思考の定義が若干違うのかもしれないなと思いながら、
それでも直感が絶えず正しいはずも無く、わたしもまた、転び続けるのだ。

人の思考は非合理的であり、間違い続け、それでもなお、進んでいける、非合理的な生き物で、
だからこそ、命のたくましさを保ち続けられるのだ、きっと。



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