岐路に立つ”広島城” 復元か補強か…直面する老朽化問題
‡2020(令和二)年10月28日(水) 20:33 TSSテレビ新広島掲載 地域 生活
特集プライムプラスです。今回は広島城を取り上げます。現在の広島城は実は3代目。今から62年前の1958年に再建されました。耐用年数をめぐり、今、広島城が岐路に立たされています。広島市の中心部にある『広島城』。別名「鯉の城」「鯉城」とも呼ばれています。去年は32万人以上が訪れました。ところでみなさん!広島城のことをどれくらい知っていますか?
【街頭インタビュー】Q広島城の歴史は知っていますか?「全然分からないです」「階段が高くて年寄りが上がりにくいしか知らない」「(広島城がある)場所くらいしか分からないです」幅広い年齢層に聞いてみましたが、よく知らない人が多いようです。広島城の歴史を短く紹介します。広島城を築城したのは戦国大名・毛利元就の孫、毛利輝元です。毛利輝元は豊臣秀吉が築いた大坂城と京都の聚楽第を訪れ、城づくりを決意したと言われています。江戸時代中期に書かれた大変貴重な広島城の資料。今回、特別に見せて頂きました。
【広島城・篠原達也主任学芸員】「こちらに年次が記されていまして、元禄14年と書いてあります。西暦でいうと1701年ですので320年前くらいですかね」「赤く塗られている場所、こちらこちら、そしてここですね、3ヵ所ほど赤で塗られた場所の石垣を修復したいということで(幕府に)申請が行われたそうです」「こちらの絵図には今、復元されている天守以外の櫓や城門なども描かれています」かつての広島城には、南と東にそれぞれ小天守がある連結式の天守でした。小天守は明治初期に取り壊されましたが、大天守は江戸・明治・大正・昭和とおよそ350年近くその姿がありました。しかし、ある出来事で一瞬の内に姿を消しました。1945年8月6日、アメリカが落とした一発の原子爆弾。広島城は焼けることなく、爆風で崩れたそうです。広島城の木材は被爆者たちの家の建築や冬の寒さをしのぐために使われたともいわれています。原爆投下後、石垣や堀を残すのみとなった広島城ですが、1951年、国民体育大会に先立ち開催された体育文化博覧会の一環で二代目となる広島城が建設されます。実際の天守より小さな『模擬天守』で、城内ではゾウが展示された他、ジェットコースターが備え付けられるなど、戦後の復興から立ち上がる市民を楽しませる憩いの場所でした。その後、模擬天守は解体されますが、広島城の再建を求める声が市民から上がり、今から62年前の1958年に現在の天守閣が再建されました。そんな広島城、今、ある大きな問題を抱えているのです。
【藤原記者】「ここは天守閣の真下です。実はこの場所、以前は通行できていましたが、落下物の危険性があることから通行ができなくなっています」広島城が直面している問題、それは老朽化。一般的に鉄筋コンクリート建造物の耐用年数は60年程度。1958年に再建された天守閣そして石垣など、多くの場所で劣化が進んでいるのです。広島市によりますと震度6強?7程度の地震に耐えられないため「耐震化」を施す必要があります。耐震改修は地震の振動や衝撃に対して建物が崩壊する危険性を取り除くために行う工事で、耐用年数を延ばすことはできません。
【広島市元職員・檜垣栄次さん】「ここに来るのは3年か4年ぶりくらいかな」広島市東区に住む檜垣栄次さん、広島市の元職員で広島城の館長を務めた経験もあります。檜垣さんは今から30年以上前に広島城の保存管理と整備基本計画書の作成に携わりました。
【広島市元職員・檜垣栄次さん】「今ある天守閣じゃなしに、これも含めて東小天守も南小天守も含めた三連郭の建物を復元したらどうかという話があった。大学の先生が(木造復元の)試算をしたことがある」これは当時制作された整備完成のイメージ図。天守閣と小天守が連結している他、木もすっきりしていて城内のどこからも広島城を見ることができています。
【広島市元職員・檜垣栄次さん】「広島城の場合は図面が残っている、それを元に復元することは可能」「木造はやっぱり材料費、木材は高い」「手に入らないから、金をかけて集めるしかない」「ここを復元したら材料費が結構かかるじゃろうなという感じはする」広島城の再建について市民に聞いてみました。
【街頭インタビュー】(賛成/広島城・女性)「歴史の中で感じることができる。復元する方がいいかな」(賛成/八丁堀・男性)「広島のシンボルみたいなものだと思うので、(木造での再建に)税金を使うことに賛成です」(広島城・男性)「作り替えたりせずに補強の方がいいと思います、コストが結構大変だと思いますけどね」(保留/八丁堀・男性)「どれくらい費用がかかるのかっていうのを市民としてはまずは知りたいと思いました。でないと、なかなか判断が難しい」広島市は現在、『広島城の在り方に関する懇談会』を開催していて、引き続き、議論を重ねることにしています。
(スタジオ)大きく分けて「耐震改修」か「再建」か2つの方針があるわけですけれども、詳しく見ていきましょう。広島城とほぼ同じ延べ床面積の小田原城の場合、その耐震改修工事にはおよそ10億円かかりました。ただ、VTRにもあったように60年程度とされている耐用年数を伸ばすものではありません。一方で、木材での再建の場合、観光地としての魅力向上が見込めますが、材料費の高騰など耐震改修工事の何倍もの費用がかかることになります。また、忠実に再現できる職人の確保なども課題となります。どちらにしても私たちの大事な税金をあてるわけですから、費用対効果の面も重要と言えます。
https://www.tss-tv.co.jp/tssnews/000007577.html
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┃ 『知らなきゃよかった ┃
┃ プロレス界の残念な伝説』 ┃¥1,650
┗━━━━━━━━━━━━━━┛著者:ミスター高橋
2018(平成30)年10月24日(水) amazon 発売日
2018(平成30)年11月07日(水) 第1刷発行 宝島社
伝説 073 力道山はトレーニング開始からわずか2週間でプロレスデビューした
判定 〇 P.166~167
プロレスの父・力道山のプロレスデビューについては、まだ日本プロレス協会設立前の
‡1951(昭和26)年10月28日(日)、メモリアル・ホール(アメリカ軍に接収されていた国技館)におけるボビー・ブランズ戦とされている。10分1本勝負の試合は時間切れドローの引き分け。ちなみにその5日前、
1951(昭和26)年10月23日(火) ブラジルのリオデジャネイロで柔道の木村政彦がエリオ・グレイシー(ヒクソン・グレイシーの父)と柔道マッチを行い勝利している。大相撲を廃業した力道山は同年
1951(昭和26)年09月30日(日)、ナイトクラブで日系レスラーのハロルド坂田と喧嘩になったとされる(本人は否定)。だが、そこで坂田の力の強さに驚いた力道山はプロレスなるものを知り、逆に興味を持つ。
1951(昭和26)年10月01日(月) 翌日、ハロルド坂田はボビー・ブランズを力道山に紹介。
1951(昭和26)年10月15日(月)にトレーニングを開始し、わずか13日後にデビューした。当時、ハロルド坂田やボビー・ブランズら6人のレスラーは、朝鮮戦争の国連軍慰問団として、進駐軍兵士にプロレスを見せるため来日していたところだった。まさに急転直下のプロレス入りが、やがて日本国民の間に爆発的ブームを呼ぶのだから人生は分からない。アイオワ州出身のボビー・ブランズは力道山、遠藤幸吉のコーチ役をつとめた。「プロレスの父」は、アメリカ人にプロレスを学んだわけである。わずか2週間しか練習期間のなかった力道山をデビュー戦でうまくリードし、自信をつけさせて成長させたボビー・ブランズはまさに、日本のプロレス界の陰の功労者と言えるだろう。
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https://www.amazon.co.jp/dp/4800289211
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┃ 石井紘基刺殺事件 ┃
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‡2002(平成14)年10月28日(月)に予定されていた国会質問を前に、石井は「これで与党の連中がひっくり返る」と発言したという事実などが挙げられている[3]。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/石井紘基刺殺事件
https://www.uta-net.com/song/11684/
https://matome.naver.jp/odai/2147997226852760901
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┃ 今日は何の日? ┃名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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‡1993(平成五)年10月28日(木) ドーハの悲劇、サッカー日本代表がワールドカップ出場逃す ⇒ カタールの首都ドーハで開かれた1994年サッカー・ワールドカップ米国大会のアジア地区最終予選で、日本は勝てば本大会初出場が決まるイラクとの最終戦に引き分け、出場を逃した。1点をリードしたロスタイムに痛恨の失点。「ドーハの悲劇」と呼ばれた。写真は、試合終了直前のイラクの同点ゴール【時事通信社】
‡1886(明治19)年10月28日(木) ニューヨークの自由の女神像で除幕式 ※2020(令和二)年記事追加
‡1972(昭和47)年10月28日(土) ジャイアントパンダ「カンカン」と「ランラン」が上野動物園に到着
‡2013(平成25)年10月28日(月) 巨人を9連覇に導いた「打撃の神様」川上哲治氏が93歳で死去 ※2020(令和二)年記事削除
https://www.jiji.com/jc/daily
2016(平成28)年10月12日(水) ♪PPAP♪が動画サイトの週間再生回数で世界1位に ⇒ ピコ太郎さんが作曲した「PPAP(ペンパイナッポーアッポーペン)」が動画サイトYouTubeの週間再生回数ランキングで世界1位となった。日本人では初めて。コミカルな和製英語と振り付けで注目を集め、人気に火が付いた。
‡2016(平成28)年10月28日(金) 写真は10月28日に東京の日本外国特派員協会に招かれて会見するピコ太郎さん【時事通信社】
https://www.jiji.com/jc/daily?d=1012
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┃ 江夏の21球 ┃
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1979(昭和54)年11月04日(日) 広島vs近鉄 日本シリーズ第7戦
1980(昭和55)年04月XX日(?) 文藝春秋『Sports Graphic Number』創刊号掲載
1983(昭和58)年01月24日(月) スポーツドキュメント『江夏の21球』NHK総合放送
1999(平成11)年09月19日(日) 日本テレビ『知ってるつもり?!』「山際淳司・江夏の21球物語」
2006(平成18)年08月03日(木)『週刊ヤングサンデー』かわぐちかいじ読切漫画掲載
2010(平成22)年10月22日(金)『NHK特集 スポーツドキュメント 江夏の21球』
‡2018(平成30)年10月28日(日) NHK総合『あの日あの時あの番組』再放送。ゲスト:江夏 大野豊(NHKプロ野球解説者)
映像◆時の記録 NHK特集 選『江夏の21球』大阪球場 https://youtu.be/ETzd6CGt-ao
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https://ja.wikipedia.org/wiki/江夏の21球
https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009010278_00000
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┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡1999(平成11)年10月28日(木) 九州ホークス、初の日本一に
‡2017(平成29)年10月28日(土) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は10月28日だ。
写真◆見事日本一に輝き、ファンの声援に応える王監督
いよいよ福岡ソフトバンクホークス - 横浜DeNAの日本シリーズが始まるが、1999(平成11)年のこの日、10月28日は、ホークスが九州移転後、初の日本一に輝いたメモリアルデーでもある。
前身の南海ホークスが1973(昭和48)年にリーグ優勝を飾って以来、長く栄冠から遠ざかっていたホークス。日本一に関しては、さらに1964年東京五輪イヤーまでさかのぼる。
1989(平成元)年からダイエーホークスとなり、福岡で再スタート後を切るも低迷からなかなか抜け出せずにいた。
1999(平成11)年の下馬評も決して高くはなかったが、城島健司ら若手の成長、工藤公康、秋山幸二と西武からの移籍組の投打のベテランの活躍、さらには鉄壁のリリーフ陣の活躍もあって、優勝。王貞治監督、就任5年目のVだった。
続くターゲットは、王監督が巨人監督時代の1987(昭和62)年優勝時にも届かなかった日本一だ。相手は、現役時代の好敵手・星野仙一監督率いる中日ドラゴンズだった。
下馬評は圧倒的に中日有利だったが、日本シリーズ第1戦での工藤の13奪三振完封ですべてが変わった。中日Vのけん引役だった関川浩一を工藤がズタズタにすると、以後も関川はまったく打てず、シリーズ通算21打数2安打とダイエー投手陣に完ぺきに封じ込められた。短期決戦の怖さを感じさせるシリーズでもあった。
歓喜のときは、3勝1敗で迎えた第5戦、敵地ナゴヤドームで訪れた。
先発はダイエーが佐久本昌広、中日が野口茂樹の左腕対決。1回裏に第3、4戦と連続完封負けの中日が22イニングぶりの得点で1点先制するも、3回表、ダイエー打線は相手のミスもあって一挙6得点で勝負を決めた。その後、中日が3点を取るも反撃はそこまで。6対4でダイエーが勝利し、王監督は指揮官として初の日本一となった。
「選手が喜んでくれて、それだけで十分。何も言うことはありません」と語った王監督が、「本日の主役」とたすき掛けして挑んだ祝勝会は、アルコールのない「祝勝水」でも話題となった。
決め手となり、現役時代、西武時代から幾度となく日本一に輝き、短期決戦の機微を知り尽くした工藤投手はいまソフトバンク監督として勝負に挑む。果たして勢いに乗るDeNAに対し、どのような戦いを見せるのだろうか。期待は高まる。
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http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171028-11
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①┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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1986(昭和61)年10月27日(月) ミスター赤へル山本浩二引退
2017(平成29)年10月27日(金) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は10月27日だ。史上初めて8戦目にもつれ込んだ1986(昭和61)年、西武─広島の日本シリーズ。それは少しでも長く、この男との別れを引き延ばすためだったのかもしれない……。ミスター赤ヘル・山本浩二。69年ドラフト1位で地元・広島に入団し、チームの看板選手として長く活躍。2399安打、536本塁打を積み上げたスーパースターだ。シーズン終盤に引退記事が出てから自宅と球団事務所には「やめないで」という内容の手紙が連日のように届いたという。ただ、山本自身は「やめる、やめないは個人的なこと。いずれはっきりさせるからシーズン中はやめてくれ。野球はチームとチームの戦いなんだ」と引退について質問する新聞記者に声を荒げ、進退の明言はしなかった。同年は打率.276、27本塁打、78打点。「四番」としては物足りないかもしれないが、引退を選ぶような成績ではない。第6戦、
写真◆試合後の山本はずっと泣いていた
1986(昭和61)年10月25日(土)に40歳の誕生日を迎えた、この日本シリーズでもすべて定位置の「四番」に入り、第1戦では西武の東尾修から自ら「集大成」とも語るホームランも放っている。ただ、体は、もう悲鳴を上げていた。休みながらならともかく、フル出場し、中軸を打ち続けることは難しいだろう。山本には、「打てなくなって、走れなくなってボロボロになってスタンドから同情されてまでプレーは続けたくない」という美学があった。だから「カープの四番」として選手生命を終えることを決めた。迎えた
1986(昭和61)年10月27日(月)曜日の第8戦、広島市民球場のスタンドに両親と夫人、さらに男ばかりの子どもたちを座らせた。試合はまたも接戦となったが、西武が3対2で勝利し、1分けの後、3連敗4連勝という奇跡の日本一を達成している。敗軍の将・阿南準郎監督は「力は全部出しきったから悔いはない」と言いながらも「体調が悪く、バットも振れない状態だったのに、よく頑張ってくれた。引退の花道を飾ってやれなかったのは申し訳ない」と詫びた。閉会式の後、カープナインの手で胴上げ。「寂しいね。感無量。胴上げされていても、言葉が出なかった」という山本は、ずっと左手で涙を隠しながら宙を舞った。
‡1986(昭和61)年10月28日(火) 翌日の引退会見で広島は、山本の背番号8が球団初の永久欠番となることを発表。山本は万感の思いを込め、「山本浩二は本当に幸せな男です。山本浩二は本当によく頑張った」と真っ赤な目で言った。
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②┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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1973(昭和48)年10月30日(火) 巨人・堀内恒夫が完投&2本塁打
2017(平成29)年10月30日(月) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は10月30日だ。
写真◆ペナントレースの不振の悔しさもあり、天才堀内が“本気”になったシリーズだった。それにしても見事なスイングだ
巨人V9時代のエース、堀内恒夫。監督時代の低迷、さらには名球会ぎりぎりとも言える通算203勝もあって、現在のファンには、やや過小評価されているきらいがある。ただ、同時代を戦った仲間の選手、相手チーム選手の評価を聞いても、この男の力が別格だったことは間違いない。
さらにいえば、野球センスが抜群。投げて守って打つ、すべてを兼ね備えたスーパースターだった。
1973(昭和48)年10月30日(火)、そんな堀内のすごみが分かる一戦があった。
8年連続日本一の巨人が挑んだ日本シリーズ、相手は野村克也兼任監督が率いる南海だった。12勝17敗とシーズン絶不調だった堀内は、「開幕投手」を高橋一三に譲り、最初の登板は、
‡1973(昭和48)年10月28日(日)の二番手(大阪球場)だったが、7回途中からの登板で延長11回まで打者15人に1安打無四球、さらに決勝打まで放っている。
1日を空け、舞台を後楽園に移して迎えた第3戦。堀内は投げては2失点の完投と、さほど際立った出来ではなかったが、バットがすごかった。まず3回に先制本塁打、6回には2ラン。投手の1試合2本塁打は史上初の快挙でもあった。試合はそのまま8対2で巨人の大勝となっている。
捕手・野村は「堀内が打撃がいいのは知っていたが、スコアラーからはカーブとスライダーを打つのがうまいと言われ、シュート中心で攻めた。しかし堀内はカーブ、スライダーを打つのがうまいのではなく、ヤマを張って打つのがうまいタイプだった。スコアラーの報告をうのみにした私が悪かった」と振り返っている。
巨人は、そのまま4勝1敗で9年連続日本一、いわゆるV9を達成。MVPは第5戦ではリリーフで好投し、胴上げ投手となった堀内だ。3試合で2勝、打っては打率.429、2本塁打、4打点だから当然だろう。なお、このシリーズ全5戦で、巨人はなんと堀内、高橋一、倉田誠以外の投手を使っていない。これもまた、隠れた大記録だ。
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②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?id=097-20171030-10&pid=column_detail
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①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.081 ┃30円
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‡1959(昭和34)年10月28日(水)号 特集 巨人・南海、優勝の日・秘話
2018(平成30)年01月16日(火) 11:08 今年、創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。おかげ様で、すでに通算3500号も近い。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。
◎座談会で石原裕次郎が登場
写真◆表紙は巨人・藤田元司
今回は『1959年10月28日号』。定価は30円だ。まず巻頭グラビアは10月3日、大雨の広島球場で決まった巨人の優勝シーン。センターグラビアでは10月4日、同じく雨中で決まった南海の優勝シーンだ。
実は、この雑誌には「ミステリー」がある。表紙文字が写真の『特別対談 藤田元司─石原裕次郎─長嶋茂雄』バージョンと『特集 巨人・南海、優勝の日・秘話』の2つの雑誌が現存しているのだ。残念ながら当時を知る者がいまの会社におらず、理由は分からない。
ひとまず本文巻頭は『巨人・南海、優勝の日・秘話』。「第一話・水原監督と若手の間」「第二話・活字にならなかった両監督の発言録」「第三話・川上哲治」「第四話・蔭山コーチの愛のムチ」「第五話・忘れられた人々」で構成されている。
座談会は売れっ子で巨人ファンの石原裕次郎参加の座談会。タイトルは『選手権でがんばろう』だ。野球に対する話ではないが、「さすが大スター」と感じる石原の話があったので抜粋する。
石原 僕は変わってるんだ。せりふなんか台本もらっても、みんな忘れちゃう(笑)。読んだことないんです。いまの映画でも知らないんです、ストーリーは。それがおかしなもんで、十回もやっていると、相手役のマコちゃん(北原三枝。のちの夫人で本名は荒井まき子)がきてなにかしゃべるでしょ。ははあと思っているうちに、十回やったらストーリーたいがい分かりますよ。
歌の吹き込みだって歌詞覚えてったことない。それでポカポカうしろからやってるの聞いているうちにのみ込んじゃってオーケーって五曲くらいすぐすましちゃうんです。だから、覚えるの早いけど、忘れるのも早い。だいたい流行歌なんて似てるでしょ、節が。だから、ちょっと聞いていて、なんだこれ“有楽町で逢いましょう”に似てるじゃねえかなんて(笑)。見当つけて歌っちゃう。ひどいもんだよ(笑)。で、そのころになると有楽町のほうがつい出ちゃってブーブーブー(笑)。NGですよ。
※先日の9月以降入団の選手が日本シリーズに出られるかの話ですが、当時の週べでは9月以降、堀本律雄を取って日本シリーズの秘密兵器に、という内容で間違いありませんでした。ただ、61年9月入団で「秘密兵器」と言われた巨人・村瀬広基の記事では、確かに「9月以降の入団なので日本シリーズには投げられない」という記述がありました。59年当時の編集部の勘違いか、あるいは61年春の「柳川事件」の関係で、村瀬のときから規制があったのか、のいずれかだと思います。すいませんが、今度、はっきりしてからまた記事にできればと思っています。
では、またあした。<次回に続く>
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.282 ┃ 40円
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1963(昭和38)年10月28日(月)号 広島・古葉毅の悲劇
2018(平成30)年08月27日(月) 9:15 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。
◎西鉄・中西太監督は上機嫌
写真◆表紙は左から中西太、稲尾和久
特集 巨人軍優勝の“人間模様”←表紙の一番上
今回は『1963年10月28日号』。定価は40円だ。
まずはセ・リーグだが、巨人の優勝が10月15日に決定した。
マジック1で対象の中日と4連戦だったが、まずは中日球場の2連戦に連敗、15日、後楽園に移ってのダブルヘッダーでも1試合目に敗れたが、2試合目は7対0と快勝し、優勝を決めた。
すでに大差がついていたことで、選手も比較的淡々。
川上哲治監督は優勝インタビューで、
「優勝するというのは、本当に難しい。この後、日本選手権試合があるわけだが、ペナントレースで優勝したということでおごることなく、大リーグの勝者と選手権試合をやるということを目標にチームをさらに強化していきたい」
要は、油断せずに常に常に上を目指す気持ちが大切ということなのだろう。
対してパ・リーグは西鉄、南海の死闘が続く。
西鉄を先にしたのは、順位がついに入れ替わったからだ。
15日から大阪球場での直接対決2連戦。試合前日、首位西鉄・中西太監督は上機嫌だった。
「ワシは新聞屋をもうけさせるためにやってるみたいなもんや。このくらいやったら新聞も売れたやろ」
あまり本筋に関係はないが、“中西節”があったので紹介しておく。
この人の語りには独特の味がある。
「ワシは、いまのプロ野球の中で、一番のスターは野村(克也。南海)だと思う。あんなふうに徐々にのしてくるのが、ほんまのスターや。
そのほかは薄っぺらいジャコばかりや。ちょっと出てきて、3割打った、20勝したというて、チヤホヤされとる。大体、いまプロ野球に入ってくるやつはカネが目当てばかりや。
自分で自分のことをいうのはおかしな話だけれど、ワシが西鉄に入ったときは、ユニフォームを着せてもらえる、修行のためや、これだけを考えとった。カネなんか問題外やった。
いやほんまやで、これは!」
15日の試合は和田博実の3ランが出て西鉄が3対2で勝利。翌16日は野村克也の49号ホームランが出て南海が6対3で勝利と最後の対決は1勝1敗で終わった。
150試合の長丁場も、残るは西鉄4試合、南海1試合となった。互いの相手はすべて近鉄だ。
巨人・長嶋茂雄と激しく首位打者を争っていた古葉毅に悲劇が起きた。
10月12日の大洋戦(広島市民)で島田源太郎のシュートが左アゴに直撃。骨折し、そのまま閉幕となった。
島田は荒れ球で知られ、古葉負傷を名古屋の宿舎で聞いた長嶋は、
「島田の球か。あれはちょっとよけきれんからな。それにしても気の毒だね」
と語った。
この日の試合終了時点で長嶋の打率は.345、古葉は.339。ただし、最終的に10月の月間打率が.271だった長嶋に対し、古葉は、8月が.474、9月が.371、10月が.386と打ちまくっていた。
ケガなければ逆転でタイトルの可能性も十分にあった。
最後にお詫び。
この原稿は26日夜に書き、27日朝アップに設定したつもりだったが、設定を26日9時と打ち間違え瞬時にアップされてしまった(というか、表示的には過去にさかのぼった)。
すぐ消そうと思ったが、うまくいかず、やむなく27日朝と2回、まったく同じものをアップすることにした。
混乱したとお怒りの方がいたらお詫びします。
では、またあした。<次回に続く>
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③┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.548 ┃ 60円
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‡1968(昭和43)年10月28日(月)号 なぜ嫌われたのか?パで阪急を優勝させないための包囲網ができていた
2019(令和元)年09月16日(月) 10:14 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎南海に対する無気力試合続出?
写真◆表紙は巨人・川上哲治監督
今回は『1968年10月28日号』。定価は60円。
『パの優勝戦線を狂わせた八百長説の真相』とあったが、まだ、あの事件の発覚前だ。“八百長”という言葉も安易に使われていたし、首脳陣、選手たちも軽く考えていたところがあった。
というか、「ご当地選手に花を持たせる」という言葉もあるように、日本の文化として、勝敗に「情」をはさみやすいところがあったのも確かだ。
阪急と南海の激闘となっていたパ・リーグ。10月1日、阪急─南海最後の2連戦を前に、阪急・西本幸雄監督は「どんなことをしても勝ちたい。南海に連勝することで優勝をあきらめてもらいたい」と熱く語った。
この時点で阪急は南海に3ゲーム差の首位。担当記者たちは「なんで、あんなにムキになっているのだろう。もっと気楽にやればいいのに」とクビをひねった。
しかし、現実に阪急が南海に連敗した後、何やらきな臭い試合が続く。
なぜか知らないが、阪急は当時のパで嫌われていた。東京は西本監督の古巣だから分からないことはないが、東映、西鉄にもそんな雰囲気があった。
急に強くなったことへのやっかみかもしれないし、西本監督が、寡黙なわりに攻撃的な発言をすることが多かったのもあるかもしれない。
このとき南海に対し本気だったのは、三原脩監督の近鉄だけだったと言われた。話が前後してしまうが、南海は以後、10月3日から閉幕まで8勝2敗。負けた2つは、いずれも近鉄戦だった。
いずれにせよ、ややこしいうえに憶測もたっぷり入った記事の要約だ。読み終わってもすっきりはしないと思う。
3日の南海は東京戦だが、東京は初戦に今季初先発の八木沢荘六を送り、延長14回で敗戦。翌日、西宮球場で東京ナインに阪急・真田重蔵コーチが、
「お前らは、いい加減にしとけよ。あんまり目にあまることをしとると、この世界から抹殺されるぞ。真面目にやらなあかんぞ」
と冗談めかして言ったとある。4日は、どちらも試合がないから、次の日、日生で試合の東京にグラウンドを貸したということだろうか。
6日からの南海─東映3連戦も不可解だ。東映は中軸の張本勲、毒島章一をスタメンから外し、3連敗。張本は打率が下降気味だったので、タイトル狙いの時期の“いつものこと”だったかもしれないが、毒島は翌8日の阪急戦ではスタメンに戻っていた。
投手も初戦が今季2勝の伊藤、2戦目が今季初登板の石井だった。特に石井は、打撃投手として一軍に帯同していた選手だったらしい。
この3連勝で南海は阪急に0.5ゲーム差まで迫った。
さすがの西本監督も「こんな馬鹿な話があるか。こんな馬鹿なことをする奴は誰も相手にしなくなるし、ほかの仕事についても馬鹿にされるだけや。自分で自分の誇りを傷つけているのやないか」と吐き捨てるように言ったという。
その後、南海は東京、西鉄に4連勝。阪急も6日の対近鉄ダブル2試合目から4連勝で、79勝50敗で並んだ。
いずれも11日が最終戦で、阪急が東京戦、南海が近鉄戦となっていた。
11日の試合は、阪急が9回裏、1対2から四番の矢野清の同点打で延長に入り、11回裏、今度は同じ矢野のサヨナラ弾で勝利。7分後、南海が敗れ、阪急の連覇が決まった。
試合後、西本監督は「価値ある優勝だった」と声を詰まらせながら言ったという。
このように「あそこだけには勝たせたくない」とばかり他球団にあっさり負けた例は、実は少なからずある。
有名なのは62年のセだ。
大洋は阪神と優勝を争っていたのだが、終盤戦の9月19日、最下位の国鉄に敗れた際、大洋・三原脩監督が「死に馬に蹴られたようなものです」と発言。これに国鉄・砂押監督が「死に馬にだって意地はあるぜ」と憤慨。国鉄は残りの阪神戦3試合に全敗した。
しかも阪神戦で三塁コーチスボックスに立った砂押監督は、ホームランを打った味方打者と握手もせず、顔を背けたり、絶好のチャンスで、投手の金田正一が監督の指示が出る前にベンチから出て審判に代打と告げ、まったくやる気のないスイングで空振り三振したこともある。
このときは阪神ファンからはやんやの歓声が飛んだという。
試合後、「あれは片八百長ではなかったか」と報道陣に聞かれた砂押監督は、
「男の意地さ」
と言った。
ただ、国鉄は9月27日から閉幕までの9試合で、阪神戦の3敗を含め、1勝8敗。ただ単に弱かっただけ、ともいえる。
それ以前に「男の意地」という言葉が、あまりに軽い。
なお、この号では、すでに巨人─阪急の日本シリーズ第1戦も掲載。実は11日の試合は、第1戦の前日だった。試合は、前日の余韻を引きずる矢野の2ランもあって阪急が先勝している。
では、またあした。<次回に続く>
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