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 原爆資料館が7日から休館 コロナで4度目、9月12日まで
 2021(令和三)年08月03日(火) 17:56配信 毎日新聞
 平和記念公園と原爆ドーム(奥)=本社ヘリから猪飼健史撮影
 新型コロナウイルスの感染拡大を受け、広島市は7日から同市中区の原爆資料館を臨時休館することを決めた
 2021(令和三)年09月12日(日)までの予定。コロナ禍による臨時休館は2020年春以降4回目。市によると、広島原爆の日の
‡2021(令和三)年08月06日(金)は県内外から多くの来館者があるため、周知期間も考慮して休館は7日からとした。平和記念式典が行われる6日までは入館可能。これまでに予約が入っている団体への被爆者体験講話などは7日以降も館内で実施される。国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(中区)も
 2021(令和三)年08月07日(土)から休館となる【賀有勇】
◎バイキンマン 広島市以外はワクチン接種かなり進んでいるから、広島市以外もう自粛不要だと思いますけどね。廿日市とか東広島まで巻き込む県独自対策とか、明らかにこの2つの町に必要なら、いつまでも自粛になる。
◎jii 今日から休館しろよ!「8/6による県外からの来館者があるため」?それを止めろと言ってんだろ!!
◎ys 広島は8/6に固執しすぎ。カネになる、観光資源だからだよね。
◎il9 イイコトイッタ!・:*+.\(( °ω° ))/.:+
 https://news.yahoo.co.jp/articles/342946b8b470b39fa62e532c7886058d808209d8

【カラー映像】昭和45年の広島② HIROSHIMA 1970  https://youtu.be/RgHiN5pJkTw
 2015/07/21 に公開
 原爆ドーム 流川銀座 広電タクシー 芸者さん? モーテルグリーンアイランド 広電観光航空センター 西広島駅 広島市農協 サニー広島 キャバレー香港!
‡【ドラマ】広島・昭和20年8月6日 出演:松たか子、長澤まさみ 2005年放送  https://youtu.be/jvWl2Px6FuM

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 ┃     広島平和記念資料館     ┃
 ┃  Hiroshima Peace Memorial Museum ┃
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‡1971(昭和46)年08月06日(金) 原爆投下後26年目 初出席 佐藤栄作
 2002(平成14)年08月19日(月) 来館者数が5000万人に到達
 2010(平成22)年09月05日(日) 来館者数が6000万人に到達
 2017(平成29)年09月24日(日) 来館者数が7000万人に到達
 2016(平成28)年度には、オバマ米大統領の訪問があり、入館者数が
 1991(平成三)年度の159万3280人を超え過去最多
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%B9%B3%E5%92%8C%E8%A8%98%E5%BF%B5%E8%B3%87%E6%96%99%E9%A4%A8
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 ┃ 『ヒロシマをのこす           ┃
 ┃  平和記念資料館をつくった人・長岡省吾』┃
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 2018(平成30)年07月31日(火) 汐文社 著:佐藤真澄
 https://www.amazon.co.jp/dp/4811325001

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 ┃ 千の風になって ドラマスペシャル ┃
 ┃    第3弾『はだしのゲン』   ┃
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 2007(平成19)年08月10日(金) 前編 21:00~22:52 18.2%『金曜プレステージ』
 2007(平成19)年08月11日(土) 後編 21:00~23:10 20.5%『土曜プレミアム』
 2007(平成19)年08月11日(土) 前編 13:00~14:52 TV宮崎 ※後編同時ネット放送
 2008(平成20)年01月25日(金) DVD released
 平均視聴率・・・19.3% 関東地区・ビデオリサーチ社
    備考・・・前編と後編の2夜連続放送。同名漫画が原作で、映像化はすでにされているが、本作で初めてテレビドラマ化された。原作者・中沢啓治自身の被爆体験をもとにしている
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E3%81%AE%E9%A2%A8%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%A6_%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB#%E7%AC%AC3%E5%BC%BE%E3%80%8E%E3%81%AF%E3%81%A0%E3%81%97%E3%81%AE%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%80%8F
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 ┃ 『はだしのゲン』 ┃
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 1950(昭和25)年12月31日(日) 夏江は直腸癌と急性心臓麻痺が原因でこの世を去った
 1975(昭和50)年03月18日(火)付の朝日新聞夕刊社会面に「原爆劇画、単行本に」と題した横田の記事が掲載され、2カ月後の5月に汐文社版全4巻の単行本が刊行
 2007(平成19)年05月30日(水)からウィーンで開催された核拡散防止条約(NPT)運用検討会議の第1回準備委員会で、日本政府代表団は、本作の英訳版を加盟国に配布することになった。外務省が英語版30冊を出版社から譲り受け、今後も「漫画外交」を活発に展開させる予定と報じられた
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 ┃ 『はだしのゲンが見たヒロシマ』 ┃
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‡2011(平成23)年08月06日(土) 放送
 2011(平成23)年07月30日(土) 紀伊國屋書店
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 https://www.amazon.co.jp/dp/B005094Q1U
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AF%E3%81%A0%E3%81%97%E3%81%AE%E3%82%B2%E3%83%B3
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 ┃『原爆の子~広島の少年少女のうったえ~』┃
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 1951(昭和26)年10月XX日(X) 長田新編 岩波書店 刊行
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 ┃ 『原爆体験記』 ┃
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 1965(昭和40)年07月XX日(X) 広島市原爆体験記刊行会編 朝日新聞社刊行
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%88%86%E3%81%AE%E5%AD%90%E3%80%9C%E5%BA%83%E5%B3%B6%E3%81%AE%E5%B0%91%E5%B9%B4%E5%B0%91%E5%A5%B3%E3%81%AE%E3%81%86%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%88
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%88%86%E4%BD%93%E9%A8%93%E8%A8%98_(%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%B8%82)
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 ┃ 『原爆市長』 ┃
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 2011(平成23)年01月01日(土) シフトプロジェクト 著+イラスト:浜井信三
 https://www.amazon.co.jp/dp/4990245121
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①┃ 浜井信三 ┃
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 1905(明治38)年05月28日(日) 生誕
‡1945(昭和20)年08月06日(月) 広島市大河町の自宅で被爆 当時の役職:配給課長
‡1947(昭和22)年08月06日(水) 第1回広島平和祭と慰霊祭にて平和宣言を発表
 1958(昭和33)年07月29日(火) 広島市民球場 オールスター第2戦試合開始前 ヘリコプター・グラウンド着陸登場 始球式
 1968(昭和43)年02月26日(月) 広島平和記念資料館の講堂 第4回広島地方同盟定期大会に出席
 1968(昭和43)年02月26日(月) 逝去
 1968(昭和43)年03月08日(金) 山田節男市長らが発起人 市民葬
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②┃ 広島平和記念都市建設法 ┃
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 1949(昭和24)年07月07日(木) 日本国憲法第95条による初の住民投票において過半数賛成獲得
‡1949(昭和24)年08月06日(土) 公布・施行
‡1949(昭和24)年08月06日(土) 広島平和記念都市建設記念切手 発行
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%9C%E4%BA%95%E4%BF%A1%E4%B8%89
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%B9%B3%E5%92%8C%E8%A8%98%E5%BF%B5%E9%83%BD%E5%B8%82%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E6%B3%95
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 「原爆市長」が語るヒロシマ 映像と音声を復元【前編】
 2020(令和二)年08月04日(火) 午後6:30 テレビ新広島
 戦後・広島の復興に尽力し「原爆市長」の名でも知られる元広島市長・浜井信三さん。被爆75年を迎える今年、浜井市長のプライベート映像と大学の講演で被爆の実相を語ったとみられる肉声が新たに見つかりました。映像は1958年、そして音声は1967年代のものとみられています、音声には75年前の8月6日に見た出来事、そして平和への思いが残されていました自宅の庭でゴルフのスイングをする一人の男性。この映像では、顔はよく見えません。しかし別の映像でその人物をはっきりと確認することができます。右から2番目のスーツを着た人物。戦後の復興に尽力し「原爆市長」の愛称で知られる浜井信三(しんそう)さんです。慰霊碑前で撮影したこちらの写真。映像と同じ日に撮影されたものとみられます。浜井さんは1945年8月当時、広島市の職員で、食料を提供する「配給課長」でした。被爆の実相を語る肉声は8月5日の広島の様子から始まります。
【音声:元広島市長・浜井信三】
 1945(昭和20)年08月05日(日)「8月5日、これは非常に我々としては不気味な日だったんですけれども、向こうさんの飛行機がビラを撒いたということでございました。そのビラの中に8月5日に大きな土産を広島へ持って行くから楽しみにして待っておれというビラをまいたという噂が一週間くらい前からたっておったわけです」「8月5日というのは危ないぞと、気をつけなきゃいけないぞという気持ちを我々は持っておったわけです」
 「ところが夜の9時ごろになりまして、空襲警報が発令されました。「そら来た」といって私どもは身支度をしまして防空本部へつめました。しばらくしたら空襲警報が解除になりました」その後、午前0時に再び、空襲警報がなり、浜井さんは市の防空本部へ向かいます。そして午前2時、空襲警報が解除されました。
 「(自宅と防空本部を)行ったり来たりするのは面倒ですから、遠いところ」「ひとつ役所で寝てやろうと思って、役所のソファーへころんどったんですけれども、蚊が多くてとても寝られない」朝まで眠れないと感じた浜井さんは市役所にほど近い、広島市中区榎町の親族の家で寝ようと考えますが、夜中に起こすのは申し訳ないと思いなおし自宅へ戻ります
 「8時頃に兄嫁が干し物を干していたら、それが庭で大きな声でBさんが何かを落としたよと大きな声で言っているんです、飛び起きて、洋服へ手をかけようと思った瞬間でした、ピカッと目がくらむような閃光、伏せると同時にドッと爆風のようなものがやって参りまして、家を木っ端みじんに壊した」原爆投下後、浜井さんはすぐに市役所へ向かいます
 「比治山橋の近所までやってまいりますと、むこうから雪崩をうつように、色んな人が逃げてきている、私と反対方向へどんどん逃げていく、みんな血相を変えているし、頭から血を浴びて真っ赤になっている人がたくさん、そして私を見ると、「あちらのほうには火はないか」「お医者さんはないか」ということを聞いてくる、火もない、お医者さんもどこへ行けと教えてやろう思う答えも待たないでまたどんどん走り去っていく、何かに追われているような格好で走り去っていく」
 「よく見ると、みんな幽霊みたいな格好をしてですね、何かボロを持って逃げている、何を持って逃げているんだろうなと思って見ましたら、ボロじゃないんです、やけどをしてですね、皮が手の先へ垂れ下がって、そのままでどんどんどんこうして逃げてくる、その人たちに聞いてみると、全部「私の家に直撃弾が落ちました」とこう言っている、誰に聞いてもみんなそう言ってる」広島市佐伯区。浜井さんの妻・文子(ふみこ)さんの自宅から音声と映像が見つかりました。
【長男・浜井順三さん】「実は昨年、母が亡くなりましてね、70年前のおやじのこういう資料がですね、出てきたんですよ」
 2019(令和元)年07月 去年7月、浜井さんの妻・文子(ふみこ)さんが105歳で亡くなり、今年、家族が遺品整理をしていたところ見慣れない箱を発見。中から白黒とカラーの映像フィルムと、音声テープが発見されました。
 1958(昭和33)年09月 1958年に完成した原爆の子の像が写っていること。そして、撮影した親族の日記に、この年の9月に「浜井家と一緒に平和公園を訪れて撮影した」と書かれていたことなどから、白黒とカラーの映像は1958年。そして浜井さんの声は市長を引退した1967年5月以降、大学の講演で被爆の実相を語ったものとみられます。順三さんの許可を得てフィルムとテープを預かり、TSSのスタジオなどで復元しました。
 証言の中では落とされた爆弾が新型の原子爆弾であると知った経緯についても触れています。
 「2、3日後に私、新聞記者に聞きました、これが原子爆弾なんだと、どうしてそれを知ったのかと新聞記者に聞いてみましたら、新聞社では、当時は禁止されておったんですけれども、地下室に短波放送をキャッチする受信機を備えていた、それでトルーマン大統領が広島へ原子爆弾を落としたという放送をしたと、それをつかんだんだと、こういうことでございます、原子爆弾というものを初めて私たちは知ったわけです」その2年後の1947年、広島市長に初当選。そしてその年の8月6日、平和記念式典の始まりとなった第一回平和祭を開催します。この平和祭を開催した理由についても語っています。
 「それはもう、全く原爆を体験した、そして生き残った市民の実感だったと思う」
 https://www.fnn.jp/articles/-/70295
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 「原爆市長」が語るヒロシマ 映像と音声を復元【後編】
 2020(令和二)年08月04日(火) 午後6:30 テレビ新広島
 半世紀の時を超え、被爆75年の今年新たに見つかった「原爆市長」の映像や肉声。毎年8月6日に開催される平和記念式典の元となった1947年に開催した平和祭について次のように述べています。
【声:元広島市長・浜井信三】「昭和22年頃になりましてようやく市民が、当時、虚脱状態、ふぬけのようになって何をしらいいのか分からないような状態で、市民は過ごして来たんですけども、ようやくそういった虚脱状態から市民が目覚め始めた時に平和祭をやろうよ、平和式典をやろうと。そうして私たちの体験を全世界の人に伝えて、そして二度とこういったことが起きないように、私たちは努力しなきゃいかんじゃないかというような声がですね、市民の中から湧きあがって来ました」「こういうことはじっくりと準備してかからないと、かえって世界の物笑いになることもあるから、もう少し落ち着いて考えていこうじゃないかと、小賢しくも私どもはそういう主張をしたんですけれども、市民の方はそれを許さない、とにかく、いけなければやりながら直していけばいいんだと、とにかくやろうということで、第一回の平和式典を昭和22年の8月6日にやったわけです、それはもう、全く原爆を体験した、そして生き残った市民の実感だったと思う、どうしても我々の使命だと、そうすることは生き残った我々の使命なんだというふうなことで、市民意志が結集されたのがこの平和祭だったんです」
 2020(令和二)年07月下旬、現像した映像を浜井さんの長男・順三さんに見てもらいました
【長男・浜井順三さん】「一番左が僕だと思います」
 Q:いくつくらいの時?「おそらく大学に入ったか、そこらじゃないかと思いますけどね」~
「妹だと思います、それから母親、父親、ほれからこれも妹だと思います」「昭和30年代くらいじゃないでしょうか、大学に入ったか、そこらじゃないかと思いますけどね」その後、私たちは順三さんと平和記念式典を間近に控えた平和公園を訪れました。「このあたりが動画で見たあたりですね」
【長男・浜井順三さん】「そうですね、こういう方向で写真をとって、そうそうそうそう」順三さんはあの日と同じ場所を探します
【長男・浜井信三さん】「この辺かもわからん、この辺だね」「やっぱり、木が大きくなっているよね、すごく」
 Q:時の流れは感じますか?「感じますね、一つ一つが木も大きくなっていますしね、70年経って、本当に見違えるようですよね」浜井さんは広島平和記念都市建設法の成立に尽力し、平和記念公園を建設するなど広島の復興と平和活動に尽力しますが、1968年に62歳の若さでこの世を去りました。肉声の中で浜井さんは科学の進歩に合わせて核兵器が更に恐ろしいものになるのではないかと危惧しています。、
【声:元広島市長・浜井信三】「私たち当時直観したんですけれども、もうこんな兵器ができた以上、もう戦争は二度とやったらいけんだろうと、おそらく広島で使われた爆弾は、大した大きな爆弾じゃなかったに違いないけれども、もう人知を無限に発達していくわけですから、生産力や科学がどんどん発達していくと、それをどんどん殺戮や破壊に使っていくということになると、どんなものができてくるか分かりゃあしないと、いうことを私ども当時の災害で直感いたしました」[人道的に許しがたい残酷なものであり、非道なものであるということはすぐ我々も感じたわけですけど、それ以上に将来のことを考えた場合に科学兵器というものが、どんどん発達していけば結局人類は兵器のために自殺しなきゃならん時がくるんじゃないかということを痛感したわけです」長男の順三さん。父親に言われた言葉が今も強く残っていると話します。
【長男・浜井順三さん】「75年草木も生えないだろうと言われるようながれきの惨状の絶望の中から、何としても広島を蘇らせるんだということを子供(私たち兄弟)に言い聞かせていたことを未だに強く頭に印象に残っている」「広島は世界に向かって伝えていく使命と責務がある都市であるということ、市民一人ひとり含めて、そういうことが今、ほとんど知られなくなってきていると思うので、これを何とか少しでも伝え継いでいかないといけないと思う」
 https://www.fnn.jp/articles/-/70296
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 原爆投下から75年…「原爆市長」の新たな映像と音声「こんな兵器ができた以上戦争は二度とやってはいけない」
 2020(令和二)年08月05日(水) 19:01配信 FNNプライムオンライン テレビ新広島
 写真◆戦後の復興に尽力 「原爆市長」浜井信三さん
【画像】「絶望から広島を蘇らせる」…子どもに言い聞かせていた浜井信三さん
 自宅の庭でゴルフのスイングをする1人の男性。映像では、顔はよく見えない。しかし、別の映像でその人物をはっきりと確認することができる。右から2番目のスーツを着た人物。戦後の復興に尽力し、「原爆市長」の愛称で知られる浜井信三さん。1958年、慰霊碑前で撮影した写真。映像と同じ日に撮影されたものとみられる。浜井さんは1945年8月当時、広島市の職員で、食料を提供する「配給課長」だった。被爆の実相を語る肉声は、8月5日の広島の様子から始まる。
 声 元広島市長 浜井信三さん:8月5日、これは非常に、われわれとしては不気味な日だったんですけれども、向こうさんの飛行機がビラをまいたということでございました。そのビラの中に、「8月5日に大きな土産を広島へ持って行くから楽しみにして待っておれ」というビラをまいたといううわさが1週間くらい前からたっておったわけです。8月5日は危ないぞと、気をつけなきゃいけないぞという気持ちをわれわれは持っておったわけです。
 声 元広島市長 浜井信三さん:ところが夜の9時ごろになりまして、空襲警報が発令されました。「そら来た」といって、私どもは身支度をしまして防空本部へつめました。しばらくしたら空襲警報が解除になりました
  その後、午前0時に再び空襲警報が鳴り、浜井さんは市の防空本部へ向かった。
  そして午前2時、空襲警報が解除された。
 声 元広島市長 浜井信三さん:(自宅と市役所を)行ったり来たりするのは面倒ですから、遠いところ。役所で寝てやろうと思って、役所のソファーへ転んどったんですけれども、蚊が多くてとても寝られない
 朝まで眠れないと感じた浜井さんは、市役所にほど近い、広島市中区榎町の親族の家で寝ようと考えたが、夜中に起こすのは申し訳ないと思い直し、自宅へ戻った。
■目がくらむような閃光、爆風が家を木っ端みじんに
 声 元広島市長 浜井信三さん:(午前)8時頃に兄嫁が庭で干し物をしていたら、「Bさん(B29)が何かを落としたよ」と大きな声で言っているんです。飛び起きて、洋服へ手をかけようと思った瞬間でした。ピカッと目がくらむような閃光、伏せると同時にドッと爆風のようなものがやって参りまして、家を木っ端みじんに壊した
  原爆投下後、浜井さんはすぐに市役所へ向かった。
 声 元広島市長 浜井信三さん:比治山橋の近所までやってまいりますと、向こうから雪崩をうつように、いろんな人が逃げてきている、私と反対方向へどんどん逃げていく。みんな血相を変えているし、頭から血を浴びて真っ赤になっている人がたくさん。
 声 元広島市長 浜井信三さん:そして私を見ると、「あちらの方には火はないか」、「お医者さんはいないか」ということを聞いてくる。火もない、お医者さんもどこへ行けと教えてやろう思う答えも待たないで、どんどん走り去っていく、何かに追われているような格好で走り去っていく
 声 元広島市長 浜井信三さん:よく見ると、みんな幽霊みたいな格好をしてですね、何かボロを持って逃げている。何を持って逃げているんだろうなと思って見ましたら、ボロじゃないんです。やけどをしてですね、皮が手の先へ垂れ下がって、このままでどんどん、どんどんこうして逃げてくる。その人たちに聞いてみると、全員が「私の家に直撃弾が落ちました」とこう言っている、誰に聞いてもみんなそう言ってる
 ⇒ 次ページは:“被爆の実相を語った”肉声の発見
■“被爆の実相を語った”肉声の発見
 広島市佐伯区。浜井さんの妻・文子さんの自宅から音声と映像が見つかった。
 長男・浜井順三さん(84):昨年、母が亡くなりましてね、70年前のおやじのこういう資料がですね出てきたんですよ
 2019年7月、浜井さんの妻・文子さんが105歳で亡くなり、2020年、家族が遺品整理をしていたところ見慣れない箱を発見。中から白黒とカラーの映像フィルムと音声テープが見つかった。
 1958年に完成した原爆の子の像が写っていること、そして撮影した親族の日記に、この年の9月に「浜井家と一緒に平和公園を訪れて撮影した」と書かれていたことなどから、白黒とカラーの映像は1958年。そして浜井さんの声は、市長を引退した1967年5月以降、大学の講演で被爆の実相を語ったものとみられる。順三さんの許可を得てフィルムとテープを預かり、テレビ新広島のスタジオなどで復元した。証言の中では、落とされた爆弾が新型の原子爆弾であると知った経緯についても触れている。
 声 元広島市長 浜井信三さん:2~3日後に私、新聞記者に聞きました。これが原子爆弾なんだと、どうしてそれを知ったのかと新聞記者に聞いてみましたら、新聞社では、当時は禁止されておったんですけれども、地下室に短波放送をキャッチする受信機を備えていた。それでトルーマン大統領が広島へ原子爆弾を落としたという放送をしたと、それをつかんだんだと、こういうことでございます。原子爆弾というものを初めて私たちは知ったわけです
■平和祭の開催…その理由は■その2年後の1947年、広島市長に初当選。そしてその年の8月6日、平和記念式典の始まりとなった第一回平和祭を開催する。この平和祭を開催した理由についても語っている。
 声 元広島市長 浜井信三さん:昭和22年頃になりまして、ようやく市民が当時、虚脱状態、ふぬけのようになって何をしらいいのか分からないような状態で市民は過ごして来たんですけども、ようやくそういった虚脱状態から市民が目覚め始めた時に平和祭をやろうよ、平和式典をやろうと。そうして私たちの体験を全世界の人に伝えて、そして二度とこういったことが起きないように、私たちは努力しなきゃいかんじゃないかというような声がですね、市民の中から湧きあがって来ました
 声 元広島市長 浜井信三さん:こういうことはじっくりと準備してかからないと、かえって世界の物笑いになることもあるから、もう少し落ち着いて考えていこうじゃないかと、小賢しくも私どもはそういう主張をしたんですけれども、市民の方はそれを許さない。いけなければ、やりながら直していけばいいんだと、とにかくやろうということで、第一回の平和式典を昭和22年の8月6日にやったわけです。それはもう、全く原爆を体験した、そして生き残った市民の実感だったと思う。どうしてもわれわれの使命だと、そうすることは生き残ったわれわれの使命なんだというふうなことで、市民の意志が結集されたのがこの平和祭だったんです
 ⇒ 次ページは:“あの日”と同じ場所の平和公園は…
■“あの日”と同じ場所の平和公園は…シカク7月下旬、現像した映像を浜井さんの長男・順三さんに見てもらった。
 長男・浜井順三さん(84):一番左が僕だと思います
 ーーいくつくらいの時?
 長男・浜井順三さん(84):おそらく大学に入ったか、そこらじゃないかと思いますけどね。妹だと思います。それから母親、父親、これも妹だと思います
 長男・浜井順三さん(84):昭和30年くらいじゃないでしょうか、大学に入ったか、そこらじゃないかと思いますけどね
  その後、私たちは、順三さんと平和記念式典を間近に控えた平和公園を訪れた。
 ーーこのあたりが動画で見たあたりですね
 長男・浜井順三さん(84):そうですね、こういう方向で写真をとって、そうそうそうそう
  順三さんは、あの日と同じ場所を探した。
 長男・浜井順三さん(84):この辺かもわからん、この辺だね。やっぱり、木が大きくなっているよね、すごく
 ーー時の流れは感じますか?
 長男・浜井順三さん(84):感じますね、1つ1つが木も大きくなっていますしね、70年たって、本当に見違えるようですよね
■核兵器の恐ろしさ 世界へ伝えていく使命と責務■浜井さんは、広島平和記念都市建設法の成立に尽力し、平和記念公園を建設するなど、広島の復興と平和活動に尽力したが、1968年に62歳の若さでこの世を去った。肉声の中で浜井さんは、科学の進歩に合わせて、核兵器がさらに恐ろしいものになるのではないかと危惧している。
 声 元広島市長 浜井信三さん:私たち、当時直感したんですけれども、もうこんな兵器ができた以上、もう戦争は二度とやったらいけんだろうと。おそらく広島で使われた爆弾は、大した大きな爆弾じゃなかったに違いないけれども、もう人知を無限に発達していくわけですから、生産力や科学がどんどん発達していくと、それをどんどん殺りくや破壊に使っていくということになると、どんなものができてくるか分かりゃあしないと、いうことを私ども当時の災害で直感いたしました
 声 元広島市長 浜井信三さん:人道的に許しがたい残酷なものであり、非道なものであるということは、すぐわれわれも感じたわけですけど、それ以上に将来のことを考えた場合に、科学兵器というものがどんどん発達していけば、結局人類は、兵器のために自殺しなきゃならん時がくるんじゃないかということを痛感したわけです
  長男の順三さんは、父親に言われた言葉が今も強く残っていると話す。
 長男・浜井順三さん(84):75年草木も生えないだろうと言われるようながれきの惨状の絶望の中から、何としても広島を蘇らせるんだということを、子ども(私たちきょうだい)に言い聞かせていたことを、いまだに強く頭に印象に残っている
 長男・浜井順三さん(84):広島は、世界に向かって伝えていく使命と責務がある都市であるということ、市民1人ひとり含めて、そういうことが今ほとんど知られなくなってきていると思うので、これを何とか少しでも伝え継いでいかないといけないと思う
 https://news.yahoo.co.jp/articles/72b2b55e27dd0ca4419775ee285400a8369f1fba

「広島、全滅です」原爆の一報を伝えたのは14歳の少女だった。75年前のあの日、彼女が見たものは
‡2020(令和二)年08月06日(木) BuzzFeed News Reporter, Japan, by Saori Ibuki 伊吹早織
‡1945(昭和20)年08月06日(月)。広島に原爆が投下されたという「第一報」を知らせたのは、当時14歳の少女だった。のちに記録された証言をもとに、彼女が見た「8月6日」を辿る。
 75年前の08月06日。広島に原爆が投下されたという「第一報」を知らせたのは、中国軍管区司令部に学徒動員されていた14歳の少女だった。
 岡ヨシエさん、享年86歳。当時14歳だった岡さんは、空襲警報の連絡業務中に、爆心地から約500mの地下壕で被爆した。晩年まで被爆体験や平和への願いを語り継ぐ活動を続け、
 2017(平成29)年05月XX日(X)に他界した。
 2015(平成27)年06月30日(火)撮影◆広島への原爆投下を最初に知らせた岡ヨシエさん
 爆弾の投下直後、変わり果てた街の様子を伝えるために口をついて出た言葉は、「広島、全滅です」だったと、岡さんは語っている。広島を襲った惨劇を最初に知らせた14歳の少女はあの日、なにを見たのか。BuzzFeed Newsは岡さんが56歳のときに証言した内容を記録した広島平和記念資料館平和データベースの映像を一部書き起こした。
■「ものすごい紫色の閃光」交換機に向かって「広島県、8時13分、空襲警報は…」って言いかけた途端なんですね。ものすごい紫色の閃光がパッと目をいりましてね。瞬間、ちょっと頭の中では「電気の事故かな?」とこう思ったわけなんですね。…と、思う間もなくズーンと体が浮き上がって、そのまま意識がなくなったわけなんです。それで、時間にすれば1分か2分ぐらいのもんじゃないかと思うんですけど、目の前が灰色一色なんですね。それでおかしい、どうかしたのかしらと思いながらだんだん目を開けてみましたときに、自分が仕事の位置から1m以上飛ばされて、その場で仰向けに倒れてたわけなんですね。それで「あ、これは何事か起きたのだ。これは大変なことなんだ。これはただ普通の電気の故障ではないな」と思いました。
■「新型爆弾にやられたぞ」外に出てパッと一瞬外を見ましたら、今まであった参謀本部の立派な建物も全然なくて。で、なんかもう全般的に茶褐色って感じだったんですね。赤茶けた感じというわけで。どうかなったのかしらと、ただキョロキョロ、キョロキョロしていましたら、その時に、防空壕を出ました右側の方にですね、用水路がございまして。その辺りにいらっしゃいました兵隊さんが「新型爆弾にやられたぞ」と、うめきとも叫びともつかない声でおっしゃったわけです。で、「新型爆弾…?」っていうのを自分自身心の中で繰り返してみたんですね。で、「え、新型爆弾どうなってるんだろう、どういうことだろう」と思いましたから、横からお堀端に上がりまして広島の街を見たわけです。
■「赤茶一色の瓦礫の街」そうしましたらね、一瞬、ばっと目の中に海が入ってきたんですね。そしてもう家が全然建物がなくて。赤茶一色の瓦礫の街という風景で、似島がもう目の前にパッとそびえてたわけなんです。で、もう愕然としましてね、なんかもう血が引く思いというか、頭から血がズーンと下がるような思いがしましてね。「これは大変だ!広島がやられた!広島がやられた!広島がやられた!」と心の中では思いましたけれど、周りには元気な方はいらっしゃらないわけなんです。みんなうめいてらっしゃる方とか、誰かわけのわからない方ばかりで。私はそこにあります電話機の倒れているのを起こしましてね、手当たり次第に回して、一番初めに出てくださった方に「大変です!」って言ったわけなんですね。
(質問者:最初に出た相手は?)その方が福山の司令部の、お名前はあとでわかったんですけど、福山司令部のオガワさんという当時、一等兵の方だったらしいんですね。それで私はもうしゃにむに出られた方に「大変です、広島がやられました」と言ったんですね。そしたら「なに、師団がやられたのか?」とおっしゃったわけです、割れるような声で。それで「いえ、広島、全滅です」って言ったんです。思わず。それで「なに?!」と割れるような声でおっしゃったわけですね。そうこうしてましたら、(中略)防空壕の中にゴーッという音とともに熱い風がごうごう入ってきましてね。私は「もう火がつきましたから、ここを出ます」って言ったんです、その連絡した兵隊さんに。そしたらその兵隊さんが「頑張ってください、しっかりしてね」と言われて。それでこの防空壕を後にしたわけなんです。
■「『つらい』とか『痛い』とか言わないんですよ」ちょうど私たちの交代の番にあたっておりました学徒が大本営の前で、朝礼の後に竹槍訓練が長引いてたみたいなんですね。で、竹槍を持ったまま即死した同級生もおりますし、みんなもう虫の息でね。そういう友達をみんな幼年学校に私たちがずっと、もう夜ここで仕事をして、交代でまた夜幼年学校に来て看病したんです。ずっと7日、8日、9日と看病したんですけれども、「きっと痛いだろう、つらいだろう」と思うのに、もう一言もみんな「つらい」とか「痛い」とか言わないんですよ。で、私たちがやかんにお水をくみましてね、あの当時のみんな軍医さんから「火傷に水をやるとすぐ死ぬるからやってはいけない」なんていう言葉をそのまま信じましてね。
「一口だけよ、一口だけよ、たくさん飲んじゃダメなのよ」って言いながら、やかんで口に直に持っていって「一口だけ、一口だけ」って言いながら、みんなを看病して歩いたんですけども、みんなお仕事のことしか言わないんですね。「交代の時間です、交代の時間です」って。もう意識の中に交代の時間だということがあるもんですから、「交代の時間だから行かせてください」とかそういうお仕事のことしか言わなくて。私たちも看病しながら非常に辛かったんです。
「お父さん、お母さん、お世話になりました」兄が二人おりまして、その兄がですね……。未だに胸が痛いのは、亡くなります時にね、本当に気力もないのに、昔の人はそういう教育をきちっと受けてたんですね。お布団の上に正座しましてね。「天皇陛下バンザーイ」と叫びましてね。
「お父さん、お母さん、お世話になりました」って言って亡くなりました。あの当時19歳でね。まあそういう風な立派な死に方をするっていう人はね、あの当時だからこそじゃないかなと思います。やっぱりもう心からお国のためにっていう気持ちをね、もう本っ当に詰め込まれてた、純粋に信じ込んでたというか、そういう風に思いましたね。
 https://www.buzzfeed.com/jp/saoriibuki/hiroshima-75
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 ┃      広島電鉄株式会社      ┃
 ┃ Hiroshima Electric Railway Co., Ltd. ┃
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 1910(明治43)年06月18日(土) 創業
 1942(昭和17)年04月10日(金) 設立
‡1945(昭和20)年08月06日(月) 広島市への原爆投下。市内線全線不通。本社を楽々園に移動
 1945(昭和20)年08月09日(木) 六日の原爆投下による被害での運行停止から一部区間で市内電車運行再開
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E9%9B%BB%E9%89%84
 https://www.uta-net.com/song/11609 https://www.uta-net.com/song/64356
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 ┃ 三島由紀夫 ┃核武装について
 ┗━━━━━━━┛三島は、ナチスのユダヤ人虐殺と並ぶ史上最大の「虐殺行為」の被害を広島がアメリカから受けたにもかかわらず、日本人が「過ちは二度とくりかへしません」と原爆碑で掲げていることに疑問を呈し[143][注釈 32]、「原爆に対する日本人の民族的憤激を正当に表現した文字は、終戦の詔勅の『五内為ニ裂ク』といふ一節以外に、私は知らない」と述べている[143]。そして、そうした「民族的憤激」や「最大の屈辱」を「最大の誇り」に転換するべく「東京オリンピックに象徴される工業力誇示」を進めてきた日本人だが、はたして「そのことで民族的憤激は解決したことになるだらうか」として、唯一の被爆国である日本こそが核武装する権利があるという見解を1967年(昭和42年)の時点で以下のように示している[143]。 
◎三島由紀夫『私の中のヒロシマ――原爆の日によせて』「日本人は、
八月十五日を転機に最大の屈辱を最大の誇りに切りかへるといふ奇妙な転換をやつてのけた。一つはおのれの傷口を誇りにする“ヒロシマ平和運動”であり、もう一つは東京オリンピックに象徴される工業力誇示である。だが、そのことで民族的憤激は解決したことになるだらうか。いま、日本は工業化、都市化の道を進んでゐる。明らかに“核”をつくる文化を受入れて生きてゐる。日本は核時代に向ふほかない。単なる被曝国として、手を汚さずに生きて行けるものではない。核大国は、多かれ少なかれ、良心の痛みをおさへながら核を作つてゐる。彼らは言ひわけなしに、それを作ることができない。良心の呵責なしに作りうるのは、唯一の被曝国・日本以外にない。われわれは新しい核時代に、輝かしい特権をもつて対処すべきではないのか。そのための新しい政治的論理を確立すべきではないのか。日本人は、ここで民族的憤激を思ひ起すべきではないのか。
 また、日本の自主防衛に関連し、1969年(昭和44年)に受けたカナダのTVインタビューでも、「私は、多くの日本人が、日本での核の保有を認めるとは思いません」と悲観的な予想を示しながら、自衛隊を二分し予備軍が国連軍に加わることで「核兵器による武装が可能になる」と答えている[452]。そして自決前の『檄』の後半では、日本にとって不平等な核拡散防止条約 (NPT) のことも語っている[358]。 
◎三島由紀夫『檄』「諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。(中略)国家百年の大計にかかはる核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかつた。沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。
 この警告について西尾幹二は、三島が「明らかに核の脅威を及ぼしてくる外敵」を意識し、このままでよいのかと問いかけているとし[453]、三島自決の6年前に中国が核実験に成功し、核保有の5大国としてNPTで特権的位置を占め、三島自決の1970年(昭和45年)に中国が国連に加盟して常任理事国となったことに触れながら、「国家百年の大計にかかはる」と三島が言った日本のNPTの署名(核武装の放棄)を政府が決断したのが、同年2月3日だった当時の時代背景を説明している[453]。 そして、三島が「あと二年の内」と言った意味は、この2年の期間に日本政府とアメリカの間で沖縄返還を巡り、日本の恒久的な核武装放棄を要望するアメリカと中国の思惑などの準備と工作があり、日本の核武装放棄と代替に1972年(昭和47年)に佐藤栄作がノーベル平和賞を受賞し、表向き沖縄返還がなされたことで、自衛隊が「永遠にアメリカの傭兵として終る」ことが暗示されていたと西尾は解説している[453]。 
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/三島由紀夫#核武装について
 https://ameblo.jp/jam512412/entry-12584825987.html
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 ┃ 原爆慰霊碑破損事件 ┃
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 2005(平成17)年07月26日(火) 事件発生
‡2005(平成17)年08月06日(土) 広島平和記念式典のために破損箇所は粘土などにより応急処置
 2005(平成17)年10月26日(水) 広島地方裁判所にて懲役2年8ヶ月(求刑懲役3年)の実刑判決をうけ、控訴せずに確定
 2009(平成21)年04月24日(金) 広島地方裁判所は訴えを認める判決 ⇒ 石碑は約182万円の制作費をかけ、2005年12月に交換された。犯人は刑期を終え出所後東京都に転居したが、広島市は慰霊碑の修繕費や金利など220万円を請求する民事訴訟を起こす
**************** https://www.uta-net.com/song/107
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%88%86%E6%85%B0%E9%9C%8A%E7%A2%91%E7%A0%B4%E6%90%8D%E4%BA%8B%E4%BB%B6
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