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┃ 『THE BEATLES Interviews Database』 ┃
┃ 163 Beatles interviews & press conferences ┃
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‡1972(昭和47)年2月
‡No.153(1) 1972-02-00(???) Lennon / Hit Parader (1 photo) John and Yoko interview, "I don't like all this dribblin' pop-opera jazz."
Note・・・『THE BEATLES Interviews Database』First and last article in 1972
John Lennon Interview: Hit Parader magazine, February 1972
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http://www.beatlesinterviews.org/db1972.02jl.beatles.html
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キャヴァーンの新たなオーナーとなったレイ・マックフォールが彼らの実力に感心して、
このライヴ直前の2月9日にメインバンドに据えたぐらいですから。やはり、ハンブルクでの修行が彼らを鍛えあげたんですね。
http://abbeyroad0310.hatenadiary.jp/entry/2018/04/27/220000
アメリカ初上陸
★リンゴのコメント、、、「誰かに髪の毛を一束切り取られた。本当に頭にきた。ここの人達はおそろしい。キッズよりまるでタチが悪い。」
★リンゴのコメント、、、「ボクらにとって何もかもが好転し、神もボクらに味方しているように思えた。バンドにはすごいシンガー・ソング・ライターもいたしね。とにかく何もかもがうまくいっていたんだ。ボクらはスウェーデン、フランス、スペイン、イタリアと大成功を収めていた。だけど、アメリカだけは不安だったんだ。」
★ジョンのコメント、、、「イギリスにくらべたら、アメリカのインタビュアーはちょろかった。」
★ジョンのコメント、、、「アメリカでウケるなんて、まったく予想外だった。クリフ(リチャード)でさえ、アメリカではまったくウケなかったんだからね。」
★ジョンのコメント、、、「初めてアメリカに行く時、マネージャーのブライアンが「エド・サリヴァン・ショー」の出演を決めていたのは知っていたけど、俺たちはアメリカで好きなレコードを買ったり、聴いたりするくらいは出来るだろうくらいに考えていた。だからウケたのはびっくりしたなんてもんじゃないよ。ほんと仰天したぜ。」
★ポールのコメント、、、「アメリカへの旅で興奮することはいっぱいあったけど、舞い上がることは無かった。ここまでにいくつかのステップがあったからね。舞い上がるなら、キャヴァーンで成功した時にそうなっていたよ。ボクらは平常心を失わなかった。」
★ポールのコメント、、、「ある夜、オランピア劇場からホテルに戻ると、ブライアン宛にキャピトル・レコードから電報が届いていた。アメリカで「抱きしめたい」が1位になったんだ。そのときのボク達の反応はちょっと説明できないな。みんなでビッグ・マルの背中に乗って「ヤッター!!」って部屋の中を飛びまわった。それから1週間というもの興奮が冷めることはなかったよ。」
★ジョージのコメント、、、「エド・サリヴァンがビッグだってことは、エルヴィスとマネジャーのパーカー大佐から電報をもらってわかったんだ。番組の放送中、警察に届け出された犯罪がなかったとか、そういう話を聞いたことがあるよ。ボク達がエド・サリヴァン・ショーに出演していた10分間は、犯罪者でさえ休憩していたんだね。」
★ジョージのコメント、、、「アメリカ・ツアーをやってたころは立場が変わったことをよく理解していなかったんだと思う。ボクは自分の将来にあまり期待していなかった。そのときそのときを楽しもうと思っていただけだよ。」
http://music.geocities.jp/yjunchan_999/first-america.htm
Vol.11 4人はどう「並べられて」いる?(US盤編)
‡Feb-9,2001記
前回は、Beatlesの4人が主体的にジャケットデザインに関わったと考えられるUK盤を中心に話を進めましたが…。
では、Capitolがアルバム収録曲を「バラ売り」していた(^^;)US盤の場合はどうでしょうか?
1964~1970年の間にCapitolがリリースしたUS独自編集盤に絞リ、かつ“MEET THE BEATLES”のようにUK盤と同一の写真を使用したものを除いて見て行くと、下記のような結果になります。
SECOND ALBUM (上段)P→G→J→R (中段)P→R→G→J
SOMETHING NEW 前列P→G→J、後ろにR
THE BEATLES STORY G→P→J→R
BEATLES'65 (上段)G→R→P→J (下段)左J→R→P→G 中P→J→G→R 右R→J→P→G
THE EARLY BEATLES P→G→J→R
BEATLES Ⅵ P→R→J→G
HELP! G→R→J→P
YESTERDAY AND TODAY(Butcher) 前列J→P→R、後ろにG
YESTERDAY AND TODAY(Trank) 前列P、後列J→G→R
HEY JUDE J→G→P→R
…採り上げた10種類のアルバムのうち5枚に、定石どおり(?!)Paulが左端にいる写真が使われています。どうもCapitolサイドでは、「一般的」なBeatlesのビジュアル面をかなり重視した写真選択を行っていたのではないか?…という気がしてくるんですよね。
とすると、ライブシーンやフォトセッションの中で「出来のいい」写真が選ばれて、そこにはメンバーのメッセージ的なものは全く反映させられていないようにも思えるのです。
因みに、“HELP!”での4人の並べ方も、UK盤とは異なっています(手旗の合図にするとUK盤では「HELP」ではなく「NUJV」となってしまうそうですが、US盤では「NVUJ」となり、ますますワケが判らなくなります…^^)。
Capitolによる「切り売り」を4人が快く思ってなかった証拠が、 “YESTERDAY AND TODAY”のButcher Coverに繋がった…と言われています。
写真を見る限り、あながちこの推測は外れていないように思います。前列3人、後列1人という配置は通常のライブのセッティングと同じですが、後列にいるのはドラマーのRingoではなく、Georgeなのですから。
多分この配列にも、「抗議」のメッセージが暗に含まれていた…と考えるのはうがち過ぎでしょうか?
こうして見て行くと、Paulをあえて「定位置」から外した写真を使い続けたUK盤のジャケットには、やはり何がしかのメッセージが込められていたように思えてなりません。
それは、既成の概念を打破し続けて活動していた4人の姿に重なるものがありますよね。
これらのUS盤の大半は解散後に日本でもリリースされていましたが、1984年のビートルズ・コミッティ(英国政府のBeatles保存機関)の決定により、他の大半の編集盤と共に絶版となりました。この決定の背景には、彼らのオリジナリティを楽曲だけでなく、アルバムデザイン全般に対して認めようとした配慮があったのは、間違いないと考えられますが…。
皆さんはどう思われますか?
参考文献…「ザ・ビートルズ 日本盤ディスコグラフィ」(三井徹監修・ピーター・インガム著 1986・シンコーミュージック)…また、US盤廃盤の背景に掛る資料は、Johneyおぐら氏から提供して頂きました。ありがとうございました。
http://moving.la.coocan.jp/yabunirami11.htm
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┃ Sophie Tucker ┃
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1886(明治19)年01月13日(wed) Born Tulchyn, Podolia Governorate Russian Empire
†1966(昭和41)年02月09日(wed) Died (aged 80) Manhattan, New York City
映像◆Sophie Tucker https://youtu.be/7YGZ-uJ7MzM
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https://en.wikipedia.org/wiki/Sophie_Tucker#Film
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映像◆♪TILL THERE WAS YOU♪http://youtu.be/VZ79mWBcjJg
┏━━━━━━━━━━━━━┓かみばやし さとる 朝日文庫
┃ 『この日のビートルズ』 ┃上林 格 P.288 本体680円+税 朝日新聞出版
┗━━━━━━━━━━━━━┛ 2013(平成25)年11月30日(土)第1刷発行
No.13 P.077 1963年11月04日「御前演奏を沸かせた名文句」◎「ロイヤル・バラエティー・パフォーマンス」出演日◎
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┃ 『この日のビートルズ』 ┃上林 格 P.288 714円(税込) 朝日新聞出版
┗━━━━━━━━━━━━━┛2013(平成25)年11月7日(木) 朝日文庫発行
人類がまだ月面着陸を夢見ていた1960年代、英国出身の4人の若者が世界を席巻した。
ポピュラー音楽史の記録を次々と塗り替えただけではなく、
文化、思想、生活スタイル、あらゆる分野に強烈な影響を与えた。
語り継がれる20世紀最高のファブ・フォーの「この日」にこだわってみました。
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|1963(昭和38)年11月 4日(月)|「御前演奏をわかせた名文句」
|1963(昭和38)年11月10日(日)|「御前演奏をわかせた名文句」 TV放送
|2007(平成19)年11月 4日(日)|甲虫日記更新日 No.012
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1963年、英国はビートルズ一色に染まった。音楽誌チャートの首位を独占。テレビ・ラジオの出演は50回を超え、250日近くのステージもこなした。彼らを追いかけて交通をマヒさせたり、コンサート会場で金切り声をあげたりするファンの執着と熱狂ぶりから、有名な「ビートルマニア」という言葉が生まれた。
前年10月にレコードデビューした4人が英国のスターダムにのし上がるのに長い時間は必要なかった。初のナンバーワン・ヒットは年明けに発売された2枚目のシングル「プリーズ・プリーズ・ミー」。2月22日付でニュー・ミュージック・エクスプレスの1位に輝いた。
その後は「フロム・ミー・トゥ・ユー」(4月発売、2週連続1位)、「シー・ラヴズ・ユー」(8月発売、通算6週1位)、「抱きしめたい」(11月発売、6週連続1位)と、この年発売したシングル4枚がたて続けに1位になる。
ファースト・アルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」は5月8日付から29週間連続で首位の座を続け、11月27日付で2位に落ちると、入れ替わって1位になったのはセカンド・アルバム「ウイズ・ザ・ビートルズ」。これは21週間連続で1位を守り、同じグループが連続50週間首位を続ける離れ業を達成した。
しかし、この年のハイライトは「ロイヤル・バラエティー・パフォーマンス」の出演につきる。芸能アーティスト慈善基金を支援するため11月4日、ロンドンのプリンス・オブ・ウェールズ・シアターでエリザベス皇太后、マーガレット王女、スノードン卿らが臨席して開かれた。
マレーネ・デートリッヒも出演者に名を連ねた御前演奏に19組中7番目に登場した。プロモーターのバーナード・デルフォントは、英国国教会の重鎮やプレス関係者の気分を害するかもしれない危険を承知したうえでビートルズを招いたという。10歳になる彼の娘の推薦があったとされるが、宮殿からおとがめはなかった。
カーテンが上がってすぐに「フロム・ミー・トゥ・ユー」を始めたが、客席からはいつもの歓声や金切り声は聞こえてこなかった。彼らの視界の先には、社交界の名士やこれからデビューしようとする淑女らが宝飾を身にまとって座っていた。
1年ほど前までは革ジャン姿で演奏していた「おにいちゃん」たちにとって、ここは明らかに場違いだった。
続いて「シー・ラヴズ・ユー」を演奏し、ポールが名作ミュージカル「ザ・ミュージック・マン」からの曲を歌うと告げる。「いつもちょっとフラットなポール」は、ボードビルの女王と呼ばれ、およそビートルズが好きとは考えられない歌手ソフィー・タッカーが「ビートルズがお気に入りの米国のグループだ」と冗談をいって会場を少し沸かせた。そして「ティル・ゼア・ウォズ・ユー」を演奏した。
ジョンは最後の曲「ツイスト・アンド・シャウト」を紹介する際、あの名文句を発する。 「最後の曲になりましたので、みなさんにも少し協力していただきたく思います。安い席の方は拍手を、そのほかの方は宝石をジャラジャラ鳴らしていただけますか」
会場が爆笑の渦に包まれる中、ジョンはクイーン・マザーにおちゃめに一礼するのを忘れなかった。
客席にいたブラインアン・エプスタインは胸をなで下ろした。本番前、ジョンは楽屋で「そのいまいましい宝石とやらをジャラジャラ鳴らしてみやがれ、とでもいってやるか」と話していたからだ。
「ぼくもひどくあがっていた。だけどちょっとばかり反抗的なことを言いたかった」とジョン。アンコールは許されなかったが、称賛の拍手が長引き、次の出演者のディッキー・ヘンダーソンの登場が遅れてしまった。
翌日、「ビートルズが王室をロックさせる」と見出しをつけた新聞もあった。全国紙のデイリー・ミラーは「ビートルマニア!」の見出しで「ロイヤル・バラエティー出演者の首根っこをつかみ、ティーンエージャーみたいに『ビートルマニア』にさせたのは実に爽快(そうかい)だった」と書いた。
このショーは6日後にテレビで全国放送された。王室や上流階級をやんわりと皮肉ったジョンの当意即妙なジョークは、彼らの人気とその後の評価を決定づけたといっていい。ショーのあとに4人と会って会話を交わしたクイーン・マザーは、後に「彼らが一番興味深かった」と発言している。
◎『この日のビートルズ』の次回の更新は、11月24日(更新は11月22日)です。この日はなんの日でしょうか? お楽しみに。
◎お知らせ「プリーズ・プリーズ・ミー」1998年3月11日発売 EMIミュージック・ジャパン
***************** https://www.amazon.co.jp/dp/4022617802
https://dot.asahi.com/1satsu/tyosya/2013110700049.html
http://doraku.asahi.com/entertainment/beatles/071102.html
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音源◆The Beatles - Sgt. Pepper Outtakes Medley https://youtu.be/8yC8uVImDh0
6 December 1966, EMI Studios, Abbey Road
22 March 1967, EMI Studios, Abbey Road
01. When I'm Sixty-Four (Unknown Take) [0:00]
02. Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band (Unknown Take) [0:29]
03. Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band (Unknown Take) [1:39]
04. Fixing A Hole (Unknown Take) [2:00]
05. Good Morning Good Morning (Unknown Take) [2:25]
06. Being For The Benefit Of Mr. Kite (Take 7) [2:54]
07. Being For The Benefit Of Mr. Kite (Unknown Takes) [3:06]
08. Lovely Rita (Unknown Takes) [3:29]
09. Lucy In The Sky With Diamonds (Unknown Take) [4:01]
10. Lucy In The Sky With Diamonds (Unknown Take) [4:39]
11. Getting Better (Unknown Take) [4:52]
12. Getting Better (Unknown Take) [5:02]
13. Getting Better (Unknown Take) [5:24]
14. She's Leaving Home (Unknown Take) [5:56]
15. She's Leaving Home (Unknown Take) [6:06]
16. With A Little Help From My Friends (Unknown Take) [6:17]
17. Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band Reprise (Unknown Take) [6:28]
18. Within You Without You (Unknown Take) [6:35]
Medley of really short outtakes recorded during the Sgt. Pepper sessions. On
06 December 1966 The Beatles recorded Christmas messages for the pirate stations Radio London and Radio Caroline. Afterwards they spent some time rehearsing When I'm Sixty-Four, before two takes of the rhythm track were recorded. Sgt. Pepper was recorded over four days. On
01 February 1967 The Beatles taped nine takes of the rhythm track, though only the first and last of these were complete. They recorded drums, bass and two guitars - the latter played by McCartney and Harrison. The recording of Fixing A Hole began on
‡09 February 1967. The Beatles used Regent Sound Studio in London as Abbey Road was unavailable. It was the first time the group used another studio to record for EMI. The Beatles began recording Good Morning Good Morning on 8 February 1967. They recorded eight takes, the final of which was considered best. The first seven takes of Mr. Kite were recorded on 17 February 1967, the day the Penny Lane/Strawberry Fields Forever single was released in the UK. In Abbey Road's studio two they taped the rhythm track only - bass, drums and harmonium - with Lennon's first vocal being overdubbed onto take seven. Lovely Rita began on
23 February 1967 in Abbey Road's studio two. Eight takes of the rhythm track were recorded, with George Harrison and John Lennon on acoustic guitars, Ringo playing the drums and Paul on piano. Take eight was the best, and onto this McCartney added his bass part. The Beatles spent an eight-hour night time session on 28 February 1967 rehearsing Lucy In The Sky With Diamonds without any recording taking place. Getting Better began on Thursday
09 March. Seven takes were recorded of the rhythm track, being made up of guitars, bass and drums, plus piano from George Martin - played by the strings of the instrument being directly struck. She's Leaving Home did not feature any musical instruments played by The Beatles. Instead it had a string backing, with a harp, violins, violas, cellos and a double bass. It was scored by Mike Leander, a freelance producer and arranger, because George Martin was unavailable at the short notice demanded by McCartney. Sgt Pepper (Reprise) was recorded on Saturday
01 April 1967 in Abbey Road's vast studio one. Between 7pm and 6am The Beatles firstly recorded nine takes of the rhythm track, with McCartney singing a guide vocal. They then overdubbed vocals to take nine, along with extra instrumentation. George Harrison was the only Beatle present during the recording of Within You Without You. He and Neil Aspinall played tamburas while Indian musicians performed traditional instruments.