過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日の走る投げる打つシンプルなゲーム等だヨ(=^◇^=)



 ベトナム 50歳以上、年の差16歳以上の韓国男性との結婚禁止
 2012(平成24)年09月25日(火) 16:00
 李明博大統領の竹島上陸、天皇陛下への不敬発言があって、日本人の「嫌韓感情」に火がついている。しかし、嫌韓は日本だけではなくアジア各地にも広がっている。ベトナムの例をジャーナリストの山村明義氏が紹介する。
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 2010(平成22)年07月、慶尚北道清道郡に住む37歳の韓国人の夫が、20歳のベトナム人新妻を、韓国に来てわずか1週間で殺害するという悲惨な事件が発生した。前年の2009年7月にも、釜山市で精神疾患を患った韓国人男性がベトナム人妻を殺害する事件が起きた。その以前から、「韓国人は、女性を商品のように扱う」とベトナム主要紙が韓国を批判的に報道していた経緯もあり、ベトナム・韓国間の外交問題になっていた。実際にベトナム政府は2011年以降、「満50歳以上、または年齢差が16歳以上」の韓国人男性とベトナム人女性との国際結婚を禁止する厳しい制限規定を設けた。先進国で韓国以外の国が規制対象になることはあり得ないだろう。海外商社の現役ベトナム駐在員が語る。「一般的にベトナム人には、ベトナム戦争時代、韓国人兵士との間に混血児として生まれた“ライタイハン問題”への悪感情が今なお残っているため、韓国人への嫌悪感が強い。それでも最近、ベトナムへの著しい経済進出で、大人しいベトナム人女性と国際結婚したがる韓国人男性が増えてきた。
 一昨年7月のベトナム人新妻惨殺事件でも、ベトナム政府は、あまりにも多い韓国人男性による殺害事件の再発防止のため、男性の財産や病歴などの情報提出を求めたほど。ベトナム人女性を韓国へ連れ帰る際には平気で“韓国の生活は良い”と嘘をつき、“ベトナム人女性は逃げ出さない”などと見下す。DV(家庭内暴力)などの事例が相次いでいるから、韓国人の評判は悪いままだ」
 2012(平成24)年10月03日(水)号『SAPIO』
‡2012(平成24)年10月10日(水)号『SAPIO』
 http://www.news-postseven.com/archives/20120925_144616.html


 株式会社 広島タクシーは、故小野正夫前社長が昭和22年創業以来、現在に至る事ができました。これもひとえに皆様方のご支援の賜と感謝申し上げます。三滝山の交通安全地蔵尊は、交通事故によりなくなられた方々や車にぶつかって死んだ小さな虫にいたるまですべての霊を供養する為、
‡1960(昭和35)年10月10日(月)に建立されました。広タクグループでは、春秋2回のお彼岸に法要を営んでおります。三滝山へおいでの節は、交通安全地蔵尊にお参りいただければ幸いに存じます。株式会社 広島タクシー 代表取締役社長 小野 正博
 https://www.hiroshimataxi.co.jp/company.html
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 老舗「広島タクシー」 コロナ下、今秋までに自主廃業へ
 2021(令和三)年05月28日(金) 7:30配信 朝日新聞デジタル
 写真◆緊急事態宣言が出た後の広島市の繁華街。深夜になると人通りは少なく、タクシーだけが道ばたに列をなしていた
 広島県の老舗タクシー会社「広島タクシー」(広島市)が今秋までに営業を終え、自主廃業する検討に入った。業界の構造不況に加え、収束の見えないコロナ禍が重しとなった。資金繰りがつくうちに従業員への協力金を払い、雇用への影響も極力抑える考えだ。取引先の一部にはすでにこうした方針を伝え、従業員組合との協議も大詰めを迎えている。タクシー業界は乗務員不足による売り上げ減少に加え、コロナ禍で客足が急減。赤字に陥る企業が続出している。同社も売り上げが回復しないまま、乗務員の高齢化も進んだ。事業存続をめざして昨年から、首都圏など複数の同業大手と経営譲渡などを交渉してきたが、まとまらなかった。同社のオーナーである社長の体調不安なども重なったという。同社幹部によると、検討を始めたのは4月初め。社長ら一部役員の間で、年度末に向けて財務処理を終えられるよう10月下旬までに営業を終え、自主廃業する方針で一致した。資金のある現段階で「従業員の再就職支援や金融機関への融資返済を着実に進めたい」(役員)とし、廃業時期を早めに決めることに。4月に従業員組合に申し入れ、今月下旬まで協議を重ねた。従業員に退職金に代わる協力金を支払う方向だ。同社は1950年設立。約200台を保有する大手で、広島市内を中心に法人・個人客を対象に無線配車の事業を展開している。(松田史朗)
【写真】高卒、留学経験なし。30歳で英語の勉強を始め、4年で「ペラペラ」と言われるようになったタクシー運転手
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 https://news.yahoo.co.jp/articles/0e2b5b7e356dc2c179d527147b725735de71ac98


 呉 |アウトサイダーな街 vol.1
‡2016(平成28)年10月10日(月) Goto Izumi
 https://www.gethiroshima.jp/do/kure-outsider-1/
 呉 |アウトサイダーな街 vol.2
 2016(平成28)年10月20日(木) Goto Izumi
 https://www.gethiroshima.jp/do/kure-outsider-2/
 呉 |アウトサイダーな街 vol.3
 2016(平成28)年10月24日(月) Goto Izumi
 https://www.gethiroshima.jp/do/kure-outsider-3/


 東京五輪中止 お・も・て・な・し 表無し=裏金
 2016(平成28)年05月15日(日) 00:02:25 英紙のガーディアンが日本が東京オリンピックをお金で買ったと裏金疑惑を報道している。東京オリンピックの招致に際して日本が当時オリンピック委員会(IOC)委員の国際陸連の前会長ディアク氏関連口座に130万ユーロ(約1億6000万円)を支払った疑惑があると指摘している。私が前々から東京オリンピックは中止になると主張しておりますが、いよいよ中止が現実味を帯びてきました。上の図は英紙ガーディアンからの元記事を抜粋しております。右下の白い○には「Dentsu marketing company」と記載されています。電通の関連会社なのです。テレビ界や大手新聞社の親分である電通がこの疑惑に絡んでいるのでテレビや新聞ではこの件は報道規制がされているのです。そもそも、日本政府がお金でオリンピックを買った理由は『安保法案』を法案化する為なのです。安保法案は法案が既に通過しているので日本政府は東京オリンピックにはもう用無しなのです。安保法案の為に日本政府は東京オリンピックを利用しただけなのであります。ですから、競技場問題やエンブレム問題が安保法案の目くらましに使われたのです。そして、舛添都知事の疑惑、止めにはオリンピック買収疑惑なのです。また、東日本大震災や熊本地震の復興という大きな問題も抱えています。2020年の東京オリンピックは実現不可能となったのです。あとは東京オリンピックを返上するだけで終わりなのであります。
 https://ameblo.jp/jam512412/entry-12160420837.html


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 ┃ ワンカップ大関 ┃
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‡1964(昭和39)年10月10日(土) ワンカップは東京オリンピックの開会に合わせて発売
 https://ja.wikipedia.org/wiki/ワンカップ大関


 ベトナム 50歳以上、年の差16歳以上の韓国男性との結婚禁止
 2012.09.25 16:00
 李明博大統領の竹島上陸、天皇陛下への不敬発言があって、日本人の「嫌韓感情」に火がついている。しかし、嫌韓は日本だけではなくアジア各地にも広がっている。ベトナムの例をジャーナリストの山村明義氏が紹介する。
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 2010年7月、慶尚北道清道郡に住む37歳の韓国人の夫が、20歳のベトナム人新妻を、韓国に来てわずか1週間で殺害するという悲惨な事件が発生した。前年の2009年7月にも、釜山市で精神疾患を患った韓国人男性がベトナム人妻を殺害する事件が起きた。その以前から、「韓国人は、女性を商品のように扱う」とベトナム主要紙が韓国を批判的に報道していた経緯もあり、ベトナム・韓国間の外交問題になっていた。実際にベトナム政府は2011年以降、「満50歳以上、または年齢差が16歳以上」の韓国人男性とベトナム人女性との国際結婚を禁止する厳しい制限規定を設けた。先進国で韓国以外の国が規制対象になることはあり得ないだろう。海外商社の現役ベトナム駐在員が語る。「一般的にベトナム人には、ベトナム戦争時代、韓国人兵士との間に混血児として生まれた“ライタイハン問題”への悪感情が今なお残っているため、韓国人への嫌悪感が強い。それでも最近、ベトナムへの著しい経済進出で、大人しいベトナム人女性と国際結婚したがる韓国人男性が増えてきた。
 一昨年7月のベトナム人新妻惨殺事件でも、ベトナム政府は、あまりにも多い韓国人男性による殺害事件の再発防止のため、男性の財産や病歴などの情報提出を求めたほど。ベトナム人女性を韓国へ連れ帰る際には平気で“韓国の生活は良い”と嘘をつき、“ベトナム人女性は逃げ出さない”などと見下す。DV(家庭内暴力)などの事例が相次いでいるから、韓国人の評判は悪いままだ」
 2012年10月3・10日号『SAPIO』
 http://www.news-postseven.com/archives/20120925_144616.html
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 ┃ 数え年と暦 ┃
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 1997(平成九)年08月25日(月)
 ひふみよいむなやこと。古代から、一(ひ)から十(と)までの数霊の全てを兼ね備えたのが人(ひと)とされてきました。「一から十まで」という表現は、今でも、始めから終わりまでという意味のように全事象を指し示す言葉として通用しています。我が国は、万葉集で山上憶良が詠ったように、「言霊の幸はふ國」であるとともに、このように「数霊の幸はふ國」でもあります。人々は季節の織りなす自然の中で生き、その暮らしや営みを支えるものを大切にしてきました。森羅万象は全て巡り巡って循環し、始めと終わりは表裏のものとして、特に、事物の始まりと終わりを神聖なものと認識して祭禮を執り行いました。そして、年、月、日、年号でも、その始め(初め)は一(元)であり、人の生まれの始め(初め)は一歳というように、人の暮らしと営みは農事と儀式の暦に従い、四季の移り変わりとともに月日を重ねてきました。ところが、権力的干渉によってこの伝統文化が破壊され、人の年齢だけは、その生まれの初めを零歳とすることが法律で決められて今日に至っています。それは、年齢計算ニ関スル法律(明治三十五年)と年齢のとなえ方に関する法律(昭和二十四年)の二つの法律によるものです。しかし、「いのち」は、母の胎内から始まり、出生から始まるものではありません。もし、年齢というものを「生命の年齢」、「生命年数」という意味に理解すれば、法律で強要された、いわゆる満年齢という数え方は、単に「出生後の生存年数」に過ぎず、「生命年数」とは全く異なります。現に、現代医学という名の施術を用いると、分娩を遅らせたり早めたりすることもできるし、意識が回復不能の状態でも生命維持装置を用いて限りなく延命することも、安楽死とか尊厳死という名でいのちの終わりを早めることもできるので、年齢を考えるにあたって、その始めも終わりも人為的に左右される満年齢という「出生後の生存年数」も決して正確なものではなく、殊更にこの年数に固執して年齢を表示する意味も薄らいでいます。その点、伝統的な数え年は、もののはじめが一であるという数霊に適うものであると同時に、この「生命年数」の理念に最も近いものでした。受精から出生までの
‡十月十日を出生時に一歳と認識して、その後の齢は暦計算に基づいて重ねていくものと捉えれば、生命年数の捉え方の理念としては最も合理性があると認められるからです。確かに、数え年という年齢計算は、科学的に正確な生命年数ではありませんが、太陽暦によっても、一年は三百六十五日ではなく、閏年や閏秒があることから、年齢計算を暦計算で行うことはやはり科学的には不正確と言わざるを得ません。ともあれ、現在の法律では、人は生まれたときは零歳ということになります。何とも奇妙であり、その「零歳」という響きには、いかがわしさすら感じられます。一(ひ)から始まらない生存は「ひと」ではありません。また、胎児はそれ以前ですから、理屈からすればマイナス年齢で表示されることになり、人としては認識されなくなりました。胎児の命は軽んじられ、堕胎に歯止めがないに等しい昨今の風潮が生まれる素地がここにあるのではないでしょうか。ところで、GHQの占領下では数多くの伝統破壊が行われましたが、伝統的な年齢計算が法律によって強引に否定されたのは戦前のことであり、いわば明治維新やその後の明治政府の施策によって、GHQによるものに勝るとも劣らないような伝統破壊や文化干渉がなされていることを忘れてはなりません。数え年の廃止も暦に関連した大事件ですが、これに勝るとも劣らない最大の事件としては、明治五年の太陽暦改暦があります。明治政府は、欧米諸国と暦を共通することによる外交上や貿易などの便益から、従来までの太陰太陽暦(旧暦)から太陽暦(グレゴリオ暦、新暦)への改暦を決定し、旧暦の
 明治五年十二月三日を新暦の
 明治六年一月一日(元旦)とすることを僅か二十三日前に発表して改暦を行いました。改暦を行うことが仮に時代の趨勢としてこれに抗することができなかったとしても、何故この時期に行ったかということが問われなければなりません。その理由は、一言で言えば、当時の政府が著しい財政難であったことが原因しています。つまり、旧暦によると翌年の明治六年には閏六月があり、十三ヶ月、三百八十四日となっていました。このままでは、官吏(公務員)の俸給(給料)を十三ヶ月分支払うことになります。そこで、旧暦の明治五年十二月三日を新暦の明治六年元旦とすれば、明治五年十二月は、一日と二日の二日間しかないので、この十二月分の給料を支払わずに済みますし、しかも、明治六年は十三ヶ月分の給料を支払うところを十二ヶ月分で済ませられるので、向こう一年で二ヶ月分の給料が節約できるとの計算から、そのように計画して実行したのです。そもそも暦を決定する権限は、古今東西において「王権」に属するものであるにもかかわらず、財政的な理由や諸外国に迎合することを善とした文明開化という名の伝統破壊思想によって、大御稜威を簒奪し、改暦による文化的・社会的な悪影響を全く考慮せずに、暦という重要な國體的素因を無造作に変更してしまったという過ちは、決してぬぐい去ることのできない汚点と言わざるをえません。近現代史の捉え方において、日本はいつでも悪いことをやってきた犯罪国家であるとするコミンテルン史観や東京裁判史観などは論外ですが、戦争に勝っているころ(明治時代)の日本は正しいが、昭和に入って負けてきたころ以降の日本は悪かったとする司馬遼太郎の歴史観にもほとほと呆れ果てます。これは、昭和初期から敗戦までの日本は日本でありながら日本ではないとする断絶史観です。戦前は悪で、戦後は善とする戦後保守思想もこれと同列のものです。歴史は連続しており、金太郎飴のように、どこを切ってみても「日本」なのです。こんな単細胞的な司馬史観などが最近ではもてはやされていますが、司馬遼太郎が大好きな、明るく逞しい明治維新や日清・日露戦争は、同じく大嫌いな、暗くて苦しい昭和史を作った最大の原因であったことを自覚すれば、歴史の評価においては、一時代に限って全肯定したり全否定したりすることが如何に愚かしいものであるかが解ります。光と影の双方を見つめなければ、歴史の立体構造を知ることができません。その意味でも明治維新や明治政府の施策を全肯定することも全否定することもできません。この改暦も、数え年の廃止も、明治維新を遂行した明治政府が、我が国の伝統を破壊して歴史に禍根を残している一例なのです。しかし、この改暦や数え年の廃止がもたらした功罪について、今まで誰も本格的に論じていなかったことが不思議でなりません。ともあれ、我が国の歴史は、修理固成の御神勅のとおり歩んで行くと信ずるがゆえに、この改暦による弊害はいつの日か治癒されると確信します。太陰太陽暦には、確かに難点はありましたが、決して致命的な欠陥はなく、実生活の面において多くの利点と効用があります。現代において、これを単純に復活させ、新暦を廃止せよというものではありませんが、せめて韓国のように、新暦と旧暦の併記併用を公式に認めさせるべきです。そして、さらに旧暦の併記併用型の復活に際しては次のことが考慮されなければなりません。それは、新暦を従来どおり主たる暦として使用継続する場合であっても、元旦を立春とする古式伝統を復活させるべきではないか、ということです。そもそも、ユダヤ暦のような純粋な太陰暦ではなく、太陽の運行をも考慮した太陰太陽暦は、元旦を立春に近い日になるように定められており、理想としては、立春を元旦とすることでした。しかし、新月の日(月立ちの日、朔日)と満月の日(十五日)の限定から、どうしても元旦と立春とのズレを生じますが、我が国の古式伝統では、立春を元旦として新年新春を祝います。そして、今でも、地方では、立春を元旦とし、その前日の節分を大晦日とする風習が残っており、それは、正月(睦月)を春の初めとする日本書紀の記述に由来していると思われます。「辛酉年春正月庚辰朔、天皇即帝位於橿原宮。是歳為天皇元年。」。これは、神武天皇が橿原の宮で践祚された神武肇國に関する日本書紀の記述部分です。中国暦(陰暦)の影響を強く受けた記述ではありますが、「春正月」(はるむつき)という表記は、立春を元旦(朔)としている意味と解釈できるからです。立春は、太陽の運行に基づき地球の北半球で観測した春の始まりであり、これが我が国の季節の始まり、年の始まり、暮らしと営みの始まりとして、二十四節気の内で最も重要なものです。この立春を暦の元基となる節日(基日、元日、元旦)するものが真の太陽暦なのです。戦前においてもこの神武肇國の記述から紀元節を何時と定めるかについて諸説があり、戦前から二月十一日となっていますが、立春とするのが自然な解釈のはずです。太陽の運行や節気とは無関係で何ら意味のない日に即位されたとする解釈の方が不自然でしょう。ともあれ、「春正月朔」が立春であることから、正月の挨拶には、新年を「初春」、「迎春」、「新春」などの言葉で表現し、これが季語にもなっています。しかし、今の新暦では立春が
 二月四日(ころ)ですから、元旦は真冬であり、「春」ではないのです。一年は、春夏秋冬ではなく、冬春夏秋冬であり、冬が始めと終わりに跨った変則的なものとなっています。そして、冬なのに「初春」という季節はずれの挨拶や白々しい季語がまかり通るため、「言霊」と「数霊」が阻害され、この季節と暦の「ずれ」により人々は健全な季節感を失ってしまっているのです。一年の始まりが正月(睦月)であり、それが春夏秋冬の季節の始まりの春であることからすれば、立春より約三十四日前の何ら意味のない日を元旦としている新暦よりも、農事暦でもある旧暦の方が季節感と合致しています。八十八夜とか、二百十日、二百二十日などという生活に密着したものも、立春から日数を数えますので、例え現在の太陽暦をそのまま継続採用するとしても、元旦を約三十四日ずらして立春を元旦とする暦へと変更すれば、これらの矛盾やズレはなくなり、季節の始まりは春であり、一年の始まりは春正月として、人々の暮らしと営みに伝統の智恵が蘇ることになるはずです。これは日本暦(真正太陽暦)の創設です。これは、戦前の国際連盟において、伊勢の皇太神宮を基点として、その真上の天空を通る子午線を基準とした真正太陽暦を採用したうえで立春を元旦とすることが検討されていたのですが、残念なことに、日本が昭和八年三月に国際連盟を脱退したことによってその採用が見送りとなったという経緯がありました。そして、この真正太陽暦の採用と同時に、皇紀紀元の復活がなされなければなりません。皇紀紀元は日本暦(真正太陽暦)の創設と一体とならなければ歴史的意義が損なわれるからです。ところで、現在広く用いられている西暦紀元は、ラテン語でアンノ・ド・ミニ(AD)、つまり、イエス・キリストが支配君臨している年数という意味のキリスト教紀元(基紀)であり、キリスト教国でない日本がこの宗教暦を無批判に受け入れ、国民にその使用を実質的に強制していることは、イスラム暦、ユダヤ暦、チベット暦など固有の紀元を採用している世界の国々などから顰蹙をかっています。キリスト教暦を受け入れていることは、キリスト教を国教として受容したものとみなされるからです。いわば、国民の全てがクリスチャンであると思われているのです。また、アジアでも新暦のみで元旦を祝う国は日本だけで、多くの国では旧暦の元旦の方を盛大に祝っていますが、正常な季節感からすれば、旧暦元旦、もっと正確には立春を新春として祝う方が自然です。このように、我が国の現状は、暦に関する文化的価値と宗教的意義について余りにも無頓着、無神経であり、二十一世紀だとか、ミレニアムなどと無邪気にはしゃいでいる姿は、誠に嘆かわしい限りです。しかし、宗教暦の強制は憲法的にも許されませんので、一日も早くキリスト教暦(西暦)による基紀紀元を廃して皇紀紀元に改めるべきことは言うまでもありません。ところで、この日本暦(真正太陽暦)は、さらに改良の余地はありますが、現在通用しているグレゴリオ暦(新暦)とは大きく矛盾しません。いわゆるサマータイムと同じ要領です。暦日が約三十四日ずれるに過ぎません。現在の元旦が我が国にとって全く意味のない日であるがゆえに、これを意味のある立春にしようとするものです。そして、これは、単なる古式伝統の復活ではなく、生活に密着した実利性の復活でもあり、実際にも実現可能なことです。このように、人と社会と国家の「いのち」を守るためも、
 一 数え年の復活
 二 太陰太陽暦の併記併用
 三 立春を元旦とする真正太陽暦(日本暦)の採用
 四 西紀(基紀)の廃止と皇紀の復活 の四つについて、その公式化を実現させることが必要であり、これを暦に関する文化復興運動として提唱したいと考えます。
 1997(平成九)年08月24日(日)記す 南出喜久治
 http://kokutaigoji.com/reports/rp_h90824.html




‡10月10日と言えば、一昔前は「体育の日」。しかし、最近では、じゅうじゅうで「お好み焼きの日」ですhttp://blogs.yahoo.co.jp/kn_hosoi_hue/41763960.html


 映像◆『SFマガジン』1974年10月増刊箱舟はいっぱい http://youtu.be/va3CpXIZKpU
 
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 ┃ 1940年東京オリンピック ┃
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 第12回オリンピック競技大会
 1940(昭和15)年09月21日(土) 開始予定
 1940(昭和15)年10月06日(日) 終了予定
 1937(昭和12)年03月20日(土) 衆議院予算総会では河野一郎(政友会、後に日本陸上競技連盟会長)が「今日のような一触即発の国際情勢において、オリンピックを開催するのはいかがと思う」旨を発言[14]。しかし当時これを真剣に受け取る者はいなかった
 1937(昭和12)年06月23日(水)に行われた閣議で軍部からの圧力を受けた内閣総理大臣の近衛文麿公爵は、戦争遂行以外の各資材の使用を制限する需要計画を決定し、この中に五輪の中止が明記されていたことから、事実上五輪の開催返上が内定
 1937(昭和12)年07月15日(木) 国内情勢が返上に傾いた日本政府は、閣議で開催権を正式に返上した。東京市が1930年から返上までの間、拠出した五輪関係費用は90万円(2017年8月現在の価値で約23億4千万円)にのぼる
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 ┃ 1964年東京オリンピック ┃
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 第18回オリンピック競技大会
‡1964(昭和39)年10月10日(土) 開会式
 1964(昭和39)年10月24日(土) 閉会式
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/1940年東京オリンピック
 https://ja.wikipedia.org/wiki/1964年東京オリンピック
 https://www.uta-net.com/song/38563
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 ┃ 東京オリンピック 第18回夏季オリンピック ┃
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‡|1964(昭和39)年10月10日(土)|第一日目 開会式
 |1964(昭和39)年10月11日(日)|第二日目
 |1964(昭和39)年10月12日(月)|第三日目
 |1964(昭和39)年10月13日(火)|第四日目
 |1964(昭和39)年10月14日(水)|第五日目
 |1964(昭和39)年10月15日(木)|第六日目
 |1964(昭和39)年10月16日(金)|第七日目
 |1964(昭和39)年10月17日(土)|第八日目
 |1964(昭和39)年10月18日(日)|第九日目
 |1964(昭和39)年10月19日(月)|第十日目
 |1964(昭和39)年10月20日(火)|第十一日目
 |1964(昭和39)年10月21日(水)|第十二日目
 |1964(昭和39)年10月22日(木)|第十三日目
 |1964(昭和39)年10月23日(金)|第十四日目
 |1964(昭和39)年10月24日(土)|第十五日目 閉会式
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 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF_(1964%E5%B9%B4)
 http://www.uta-net.com/user/phplib/Link.php?ID=4221 1984
 http://www.uta-net.com/user/phplib/Link.php?ID=51514 2005
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 ┃ 今日は何の日? ┃名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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 1964(昭和39)年10月10日(土) 東京五輪が開会 ⇒ アジア初の五輪、第18回夏季オリンピック東京大会が開会した。新幹線、高速道路などのインフラが整備されて「オリンピック景気」をもたらし、日本の戦後復興を象徴する大イベントとなった。日本の獲得メダルは金16、銀5、銅8だった。写真は、開会式で入場行進する日本選手団【時事通信社】
 1971(昭和46)年10月10日(日) NHK総合テレビの全時間カラー放送が開始
 2003(平成15)年10月10日(金) 日本産の最後のトキ「キン」が死ぬ
 https://www.jiji.com/jc/daily
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 ┃ 王貞治 ホームラン(本塁打)記録 ┃
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‡1976(昭和51)年10月10日(日) 714号 阪神タイガース22回戦 後楽園球場 7回裏 古沢憲司 右越ソロ 世界2位タイ
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 ┃ 王貞治 節目の記録 ┃
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‡1980(昭和55)年10月10日(金) 100犠飛 対中日ドラゴンズ26回戦 ナゴヤ球場 6回表に佐藤政夫から ※史上2人目
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/王貞治
 https://www.uta-net.com/song/2025
 https://www.uta-net.com/song/78844
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①┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡1991(平成三)年10月10日(木)“オバQ”田代、現役最後の打席は満塁弾
‡2017(平成29)年10月10日(火) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は10月10日だ。
 写真◆大のラーメン好きで、一時はラーメン屋を経営し、自ら厨房にも立っていた
 弱かったが、派手なユニフォームと個性派選手の存在もあってか、なぜか暗黒時代の印象がなかったのが、ホエールズ時代の大洋だった(それ以前、強かった時代が非常に短かったこともあるだろう)。
 そして、その象徴的な選手が「オバQ」の異名を取り、特大ホームランを連発した田代富雄だ。豪快さだけではなく、リーグ最多三振3回のもろさもまた、当時のホエールズっぽかった。
‡1991(平成三)年10月10日(木)は、ファンにヤジられつつも愛された、田代富雄の引退試合の日である。
 この日は、対阪神ダブルヘッダー。田代は第2試合に「四番・サード」として出場し、第1打席は二ゴロだった。実は、これで13打席(11打数)無安打。もっといえば、このシーズン1本もヒットは出ていなかった。まあ、だからこそ、引退するとも言えるだろうが。
 次は3回裏二死で一番に入っていたレイノルズが内野安打。このとき球場内のモニターで試合を見ていたのが、本誌でもおなじみの、やくみつる夫妻。ともに大の大洋ファンである。やくさんは「マサと豊が出れば、満塁で田代に回るな」と、あくまで“かなわぬ願い”として夫人に言ったという。
 マサ、高橋雅裕、豊、高木豊である。この願いがかなう。2人が四球を選んで田代が打席に入ると、阪神・葛西稔の投じた1球をこれでもかと強振。打球はレフトスタンドに飛び込む満塁弾だ。田代はこれでベンチに下がり、生涯最後の打席が満塁ホームランという、“オバQ”田代らしい引き際となった。
 通算278号本塁打、試合後に胴上げもされた。会見では、涙を浮かべながらも笑顔で「王(貞治)さんの868号に比べれば大したことはないけど、278回はファンの方に夢を与えられたと思う」と語った。
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②┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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 1973(昭和48)年10月11日(木) 0対7から10対10のドロー。巨人対阪神、伝説の死闘
 2017(平成29)年10月11日(水) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は10月11日だ。
 写真◆6回に代打で登場し、逆転3ランを放った萩原。塁を回りながらバンザイした
 最終戦直接対決で巨人が阪神に大勝し、リーグ9連覇を飾った1973年。試合後、観客が一斉に甲子園のグラウンドになだれ込んだ大暴動の印象が強い方もいるだろう。
 この年は、そこに至るまでにも、GTは激しい戦いを幾度となく繰り広げた。
 そのハイライトとも言えるのが、10月11日の後楽園決戦だ。わずかの差だが、首位に立っていた巨人だが、前日の
‡1973(昭和48)年10月10日(水)の同カードで、2対5から阪神・田淵幸一に逆転の満塁弾を浴び、敗戦。ゲーム差はないが、勝率で抜かれ、2位となった。
 迎えた11日の試合。巨人は堀内恒夫、阪神は江夏豊と互いにエースを先発させ、必勝を期す。ただ、すでに22勝を挙げている江夏と、不振に苦しみ、ここまで12勝16敗と負け越していた堀内。立ち上がりは、その差がはっきり出た。
 堀内は初回4失点で早々に降板。後続もつかまり、2回を終え、巨人は0対7と大量リードを許してしまう。しかし、前日からの連投だった江夏もピリッとせず、4回には富田勝の3ランなどで巨人が4点を奪った。
 これで江夏を引きずり下ろすと、6回には黒江透修のソロの後、代打の萩原康弘が逆転3ランで9対7と試合をひっくり返す。
 阪神も負けてはいない。7回に藤田平のソロ、代打・和田徹のタイムリーで同点。さらに8回にも1点を取り、10対9とリードしたが、巨人もその裏、好調の柳田俊郎がソロ本塁打で10対10の同点とする。試合はそのまま延長10回、時間切れ引き分けとなった。3時間35分の死闘だった。
 9連覇に向け、首の皮1枚つないだ巨人だったが、2回には長嶋茂雄が三ゴロのイレギュラーで右手薬指を骨折するアクシデントもあった。37歳という年齢、さらには成績不振もあって、マスコミは、このまま引退して監督就任ではと騒いだが、長嶋は「バットマン長嶋はバットを離しません。ケガをした今こそ死んでも死にきれません」と否定した。そのほかにも王貞治が腰痛、土井正三は前日に右足を3針縫うケガ。みんなボロボロだった。
 試合後、川上哲治監督は
 1973(昭和48)年10月12日(金)「あすは完全休養日にする。ゆっくり休んでくれ」と珍しく優しい笑顔で言ったという。
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 1992(平成四)年9月11日(金) 阪神が優勝を逃したのは“幻の本塁打”が理由だったのか
 2017(平成29)年9月11日(月) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は9月11日だ。
 写真◆歓喜の表情でサヨナラのホームを踏んだ八木(背番号3)だったが……
 低迷期の真っ只中だった1992(平成四)年、亀山努、新庄剛志、“カメシン・コンビ”と呼ばれた若虎2人の活躍もあって旋風を起こした阪神。例年苦戦する8月の死のロードを10勝6敗と10年ぶりに勝ち越すと、勝負の
 1992(平成四)年9月は、9日(水)から引き分けをはさむ6年ぶりの7連勝で、
 1992(平成四)年9月13日(日)には首位に。1985(昭和60)年以来の優勝に向け、一気に加速した。
 そして、この7連勝の間の引き分けが、
 1992(平成四)年09月11日(金)のヤクルト戦(甲子園)だった。あまりの悔しさからか、この引き分けで優勝を逃したかのように記憶している阪神ファンもいるようだが、実際には22日からのロード13試合で3勝10敗の負け越しが響いた。さらに言えば、最後の2試合、
‡1992(平成四)年10月10日(土)、甲子園に戻っての首位・ヤクルトとの2連戦に連勝すれば、まだプレーオフの可能性もあったのだが、初戦に敗れ、目の前でヤクルト・野村克也監督の胴上げを見る屈辱を味わうことになる。では、
 1992(平成四)年10月11日(日)、“幻の本塁打”として語り継がれる一戦を簡単に振り返る。
 3対3で迎えた9回裏二死一塁だった。阪神の八木裕がフルカウントから左翼方向へ大飛球を放ち、スタンドイン。阪神のサヨナラ勝ちだ。八木はバンザイしてホームイン。阪神ナインが八木を囲み、お祭り騒ぎとなった。
 しかし、ここでヤクルトの野村監督が猛抗議、37分の中断。「フェンスのラバー上部に当たってのスタンドインであり、エンタイトル二塁打」と判定が覆る。今度は中村勝広監督が怒って猛抗議した。
 提訴試合を条件に試合を再開したが、そのまま互いに得点はできず、日付が変わった
 翌1992(平成四)年10月12日(月)の午前0時26分、延長15回3対3のまま引き分けとなった。試合時間は史上最長の6時間26分となった。
 ただ、この引き分けが響いて優勝を逃したわけではなく、前述のように、その後も連勝を続け、
 1992(平成四)年10月13日(火)に首位となった。のちの当時の選手のインタビュー記事を読んでも、この一戦がどうこうというより、中村監督がロードの前に「大きな土産を持って帰ります」と発言したのをきっかけに、監督も選手も優勝を意識してガチガチになってしまったのが、最大の原因になったようだ。
 もちろん、この試合をサヨナラで勝てば、さらに勢いに乗り、また違った状況になった可能性もないわけではないが……。
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‡1966(昭和41)年10月10日(月)号 川上哲治監督のこだわり
 2019(平成31)年04月09日(火) 10:14 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎いつも「野村さんのおかげです」
 写真◆表紙は巨人・長嶋茂雄
 今回は『1966年10月10日号』。定価は60円だ。
 1966年9月23日、阪神戦(後楽園)のダブルヘッダー第1試合に勝利し、巨人の連覇が決まった。
 ただ、川上哲治監督は宙を舞うというより、選手の手の上で転がった。重すぎるのと、選手があまりに密集し、押し合ったためらしい(本人はそんなもので選手が手首を痛めたら大変。胴上げなんてなくてもいいんです、と話していた)。
 その後、川上監督は、勝利者インタビューで「チームの和の勝利です」と甲高い声で喜びを語った。
 胴上げ投手は2対0の8回一死から登板した金田正一。思うようなシーズンを送れなかった金田に対する温情か、との記者の質問に川上監督は、
「僕はそういうことのできる男ではないし、大嫌いだ」
 と答えた。
 実際、この試合の先発だった若手左腕の高橋一三は、前々日の広島戦で3回途中KOされていた。ふつうであれば、城之内邦雄か堀内恒夫が先発。高橋一を投げさせたのは、阪神先発が村山実で濃厚とあって、「無理をせず」と思ったのではないか。
 股関節の故障で療養中の広岡達朗は祝賀会にも姿を見せず、どうやら同年限りの引退が濃厚となっていた。
 一方、パ・リーグはいまだ南海の西鉄のデッドヒートが続く。
 辛うじてだが首位を行く南海の打の主役は、野村克也。そして投の主役が渡辺泰輔だ。決め球のパームボールを駆使し、シーズン後半に勝ち星を伸ばしていた。
 性格は、とにかくまじめ。ただ、それがマスコミには物足りない。
「いつ話を聞いても同じ。野村さんのおかげ、としか言わん。テープレコーダーを聞いとるようなもんや」
 ただ、このチームには、いつも見出しになりやすい話をしてくれる。野村がいる。したがって渡辺が好投で勝っても、なぜか野村の周囲に報道陣が群がる珍現象となっていた。
 では、またあした。<次回に続く>
 備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
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 1935(昭和十)年12月10日(火) タイガース球団創設
 2017(平成29)年12月10日(日) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は12月10日だ。
 写真◆タイガース創設メンバー
 1934(昭和九)年12月26日(水)に大日本東京野球倶楽部(のち巨人)が誕生。その中心となった読売新聞社主・正力松太郎は、1920(大正九)年に発足した日本最初の職業野球チーム・日本運動協会が1チームのみの構成で、対戦相手をアマに求めて失敗したのをかんがみ、米球界同様、複数チームのリーグ戦を目指した。その際に声を掛けたのが東洋最大の球場・甲子園を持つ阪神電鉄だった。阪神では
 1935(昭和十)年10月01日(火)には設立に向けた準備委員会が発足し、フロントの組織づくり、選手の勧誘と動き始めたが、当初、誕生への動きは秘密裡に行われた。おそらく情報が漏れることで反対意見が強まることを恐れたのだろう。職業野球は、まだ海の物とも山の物とも分からなかった。しかし、
‡1935(昭和十)年10月10日(木)になって、なぜか読売新聞が「大阪でも職業野球結成」と報じ、世間にパッと広がった。
 1935(昭和十)年12月10日(火)は、日本で二番目の職業野球団・大阪野球倶楽部が誕生した日だが、実は社内稟議に決裁が下りたのが
 1935(昭和十)年12月06日(金)というあわただしさだった。ちなみに社内公募で球団のニックネームが「タイガース」と決まったのは翌
 1936(昭和11)年01月10日(金)だったという。
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 1989(平成元)年10月12日(木) 奇跡の逆転優勝に導いたブライアント4連発
 2017(平成29)年10月12日(木) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は10月12日だ。
 写真◆3打席連続弾のシーン。手前でマウンドにヒザを着いているのが渡辺久
◎崖っぷちからの逆襲
 前年の1988(昭和63)年、あの「10.19(水)」で時間との戦いにも敗れ、つかみかけていた優勝を2厘差で逃した近鉄バファローズ。その途方もない虚しさと悔しさから、翌89年を前に、個性派ぞろいの、いてまえ男たちが「今年こそは優勝!」と一つになった。
 しかし、ケガ人の続出に加え、22試合連続三振もあった四番・ブライアントの不振もあって出足でつまずく。対して破壊力満点の“ブルーサンダー打線”を擁する新生オリックス・ブレーブスが独走態勢を固めていた。
 それでも夏場に入り、近鉄はブライアントの復調もあって猛烈な追い上げを見せ、ついにはオリックス、近鉄、西武の三つ巴の混戦にもつれ込んだ。最初に脱落したのが
 1989(平成元)年10月5日(木)にオリックスに敗れ、自力優勝が消滅した近鉄と思われた。
 その日、近鉄グループの総帥・佐伯勇が死去の悲報も届く。一時期を除き、創設以来ずっとオーナーの座にあって、弱かった時代に「近鉄グループのお荷物」と批判があっても「ドラ息子だが、かわいいところもある」とかばい続けた人物だ。
 喪章をつけて戦った翌
 1989(平成元)年10月06日(金)のオリックス戦(藤井寺)から奇跡が始まる。1対2から9回裏二死に同点に追いつき、10回裏リベラがサヨナラ本塁打。仰木彬監督は「オーナーが見守ってくれたんでしょう」と声を震わせた。
◎1人で3本塁打
 その後、
‡1989(平成元)年10月10日(火)までの5連勝で近鉄は自力優勝が復活。この時点で1位・西武、2位・近鉄、3位・オリックスとなったが、近鉄、オリックスとも西武とのゲーム差はわずか1だった。翌
 1989(平成元)年10月11日(水)、西武─近鉄戦は雨で試合中止。日程が詰まっていたこともあって、
 1989(平成元)年10月12日(木)が対西武のダブルヘッダー(西武)となった。
 まず第1試合、近鉄は、西武の辻発彦に2ランを浴びるなど、3回までに0対4とリードを許す。4回に四番・ブライアントが46号ソロを放つも、5回裏に1点を返され、1対5で迎えた6回表だった。
 この回、西武先発の郭泰源が突然崩れ、無死満塁でブライアントに回る。マウンドに行った森祇晶監督は「歩かせてもいいから。初球は必ずボールで」と指示したが、ブライアントは吸い込まれるように入った高めの甘いスライダーをとらえ、満塁弾。5対5と振り出しに戻った。
 8回から西武・渡辺久信がマウンドに上がったとき、スタンドから少しざわめきが起こった。2日前の近鉄戦で8イニング131球を投げ、2対2からの8回にリベラに決勝本塁打を浴びていたからだ。この年、初めてのリリーフだったが、ブライアントとの相性の良さを見込まれてのスクランブル登板だろう。
 そして打席には再びブライアント。渡辺久がカウント2ストライク1ボールから投じた速球だった。ブライアントが豪快なフルスイングをすると、打球はライトスタンド上段に突き刺さり、3打席連続ホームラン。近鉄ベンチから選手が飛び出し、ブライアントを手荒く祝福し、渡辺久は呆然とした表情でマウンドにヒザを着いた。
 渡辺は試合後、記者たちに「あの高めの球は今まで打たれていないんだ、クソ」と吐き捨てた。森監督からは「なぜフォークを投げなかったんだ」と詰問されたというが、渡辺久は現役引退会見で「後悔しないように一番自信を持っていた球を投げた」と語っている。
◎ついに悲願達成
 これが決勝点となり、近鉄が6対5で勝利。この日、西武が1戦目に勝てばだが、川崎球場で2位のオリックスがロッテと同じくダブルヘッダーを戦っており、オリックスが1試合に負けか引き分けで2戦目での西武優勝の可能性もあったが、ブライアントのバットがそれを打ち砕いた。
 2試合目、観客は1試合目よりさらに増えた。「10.19(水)」以来、近鉄ファンは関東圏でも急増。「パ・リーグ元年」と言われ、人気面でもセ・リーグを追い上げ始めた時期だ。
 まず近鉄が2点先制も、西武打線が近鉄の先発・阿波野秀幸の立ち上がりを攻め、2対2の同点。そしてブライアントが2打席目でセンター左にホームラン。1打席目は敬遠だったので、4打数連続本塁打となる。勢いに乗った近鉄は15安打、14得点で大勝。ついにマジック2を点灯させた。
 1日にして首位を陥落し、3位となった西武・森監督は「想像もせんことになった。でも、これも野球だ」と語り、仰木監督は「あと2勝は考えない。最後の最後まで。130試合全力で戦うという最初からの目標を実現させるだけ」と表情を引き締めた。
 歓喜の胴上げは
 1989(平成元)年10月14日(土)、本拠地・藤井寺でのダイエー戦で実現する。「10.19」だけでも、「10.12」だけでもなく、「10.19」から「10.14」まで。これが、仰木近鉄が球史に残した、渾身のドラマだ。
 備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
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 ④http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171210-11
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 ┃ プロ野球仰天伝説 No.176 ┃ ONLINE
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 ノーヒットノーラン&3打席連続本塁打を記録した堀内恒夫
 2018(平成30)年6月16日(土) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。
 9回のマウンドに向かう直前まで気づかず……
 巨人・堀内恒夫
 8回裏の攻撃中、ベンチの雰囲気がおかしいことに堀内は気がついた。「ノーヒットノーラン」という言葉が耳に入った。それでも、「ヨソの球場でそんな記録が出たのか」と、気にも留めなかった。9回のマウンドに向かう直前、「そういえば俺も今日は打たれた記憶がないなあ……」と聞いてみると「なに言ってんだ、それはお前のことだよ!」。そのとき初めて、自分がしようとしていることに気がついた――。
‡1967(昭和42)年10月10日(火)。巨人はすでにV3を決めていた。広島とのダブルヘッダー第1試合は消化試合。巨人にとっては日本シリーズに向けての調整だった。立ち上がり、堀内の調子は良くなかった。2四球でピンチを招き、初回の投球数は27。観客も両軍ベンチも堀内自身も、大記録が出る予感すらなかった。
 一方の巨人打線は猛烈な勢いで広島に襲いかかる。1回に先制すると、2回には2ランの後、堀内が自ら左翼席中段に叩き込んだ。堀内の猛打ショーはここから始まる。
 4回の2打席目、左翼ポール際に打ち込んだ。注目は投手初の3打席連続本塁打なるか、である。誰もノーヒットノーランなど考えない。それぐらい堀内の球は荒れていた。3打席目は6回。当然のように左翼席へ打ち込んでしまった。7回の第4打席、さすがに一発はなかったが、中前に運んで4安打の固め打ち。こういう事情があったため、堀内は自分の快投に気づいていなかった。ただ、尻上がりに調子を上げていることには気づいていた。5回以降はすべて三者凡退。テンポが良くなると、守っている野手は「まだ打たれてない」と気づき始めたわけだ。
 ようやくもう一つの快挙に気づき、最終回のマウンドに向かった堀内。ベンチは静まり返るが、本人は大胆不敵。ニヤリと笑う。もうこうなるとこの男は手をつけられない。しかも3打席連発で気分は上々。すでにこの時点で広島がヒットを打てる可能性はきわめてゼロに近かっただろう。堀内とはそういう男だ。
 簡単に二死を取る。なんとか阻止しようと打席に立ったのは四番の藤井弘。すると堀内はボールを立て続けに3球。ベンチからは「歩かせてもいい」という指示が飛ぶ。が、「打たれる気がしなかった。歩かせようなんて思わなかったです」。
 3ボール2ストライク。藤井の打球は低い軌道で左翼手のグラブへ収まりゲームセット。打っては4安打、3本塁打、5打点、投げてはノーヒットノーランという大記録を、堀内はやってのけた。
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