過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日のetSETOraだヨ(=^◇^=)O♂


 ♪一本の鉛筆♪
‡1974(昭和49)年08月09日(金)、美空ひばりは歌で平和を訴える第1回広島平和音楽祭に出演した。出演者全員がオリジナルの平和を願う歌を歌うことになっている。この時、誕生した歌が「一本の鉛筆」
‡1974(昭和49)年08月09日(金)、第一回広島平和音楽祭の当日。真夏日の中、会場となった広島県立総合体育館で、美空ひばりは舞台の脇で出番を待っていた。すると、スタッフが美空ひばりに「冷房のある別の楽屋でお待ちください」と声をかけたが、美空ひばりは「あの時の広島の人たちはもっと熱かったんでしょうね。私に気を使わないでください」と答え、被曝した人達に対する美空ひばりの気持ちにスタッフは衝撃を受けたという。美空ひばりは音楽祭で、音楽祭の3日前に完成した新曲「一本の鉛筆」を熱唱した。
 https://kakaku.com/tv/search/keyword=%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%B9%B3%E5%92%8C%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E7%A5%AD/
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%B9%B3%E5%92%8C%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E7%A5%AD

 ?40℃超のシベリアで黒パンをかじりながら、祖国へ戻る希望をひたすら抱き続けた【抑留体験】
 2018-12-17
 https://www.hotpepper.jp/mesitsu/entry/yasushi-nishimuta/18-00402
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 ┃ ピサの斜塔 Torre di Pisa ┃
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‡1173(承安三)年08月09日(木) 第1工期には鉛直
 1990(平成二)年01月07日(日) 安全上の問題により公開を休止し、傾斜角を是正するために改修工事が行われた。当初は沈み込んだ側と反対の北側におもりを載せることでバランスをとろうとしたが、根本的な解決には至らなかった。その後、改修工法には世界各国の建設会社から様々な提案がなされたが、最終的に、北側の地盤を掘削するという工法が採られた。他にも、薬液を注入して地盤改良を行うなどの案もあったが、透水性の低い粘土層への注入は難しく、強引に注入すれば攪乱が起こり前述の鋭敏比の問題は避けられなかった。そして2001年6月16日、10年間にわたる作業が終了し公開は再開された。
 2008(平成20)年05月28日(水) 監視担当のエンジニアで地質学者でもあるミケレ・ジャミオルコウスキ教授により、少なくともあと300年は倒れる危険がないとの見解が示されている
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%B5%E3%81%AE%E6%96%9C%E5%A1%94
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 米国は第3の原爆投下を計画していた
 1945年の夏、米国は広島、長崎に続く準備を着々と進めていた
‡2020(令和二)年08月09日(日) 文=ALEX WELLERSTEIN/訳=ルーバー荒井ハンナ
‡1945(昭和20)年08月09日(木)◆写真◆テニアン島に到着した巨大なプルトニウム爆弾「ファットマン」。1945年8月9日に長崎へ投下された。(UNIVERSAL HISTORY ARCHIVE/GETTY IMAGES)
 1945年の夏、米国が世界で最初の原子爆弾を投下したとき、戦争は永久に変わった。たった1個の爆弾が、都市とその住民を丸ごと消し去ってしまう時代が訪れたのだ。米国は、7月にニューメキシコ州の砂漠で原子爆弾の爆発実験を行った後、8月に日本の広島と長崎に原爆を投下した。だが、長崎への投下から日本が降伏するまでの6日間、米国はこれで終わりとはまだ考えていなかった。次の原爆投下は間近に迫っていた。長崎への投下で米国は原爆を使い果たしており、降伏しなければさらに原爆を落とすというのはハリー・トルーマン大統領の脅しだったとする主張が根強くある。しかし、それは決して単なる脅しではなかった。第二次世界大戦末期、米国はできる限りの原子爆弾を製造していた。そして日本が降伏する直前まで、第3の原爆を落とす準備に入ろうとしていた。1945年8月15日に日本が降伏するわずか数時間前、米国時間では14日、英国の外交官を前にトルーマン大統領は沈痛な面持ちで、第3の原爆投下を命令する以外に「選択肢はない」と漏らしていた。戦争があと数日続いていたら、第3、そして第4、第5の原爆投下の可能性は著しく高まっていた。
 写真◆1945年夏、太平洋戦域の地図上で、日本に焦点を定めるレスリー・R・グローブス少将。(AGE FOTOSTOCK)
 米国の計画では、2発の原爆で戦争が終わるとは考えられていなかった。核兵器に加え、日本の本土決戦が必要になるだろうと予測されていた。原子爆弾は強力な新兵器とはなるかもしれないが、それが決定打となるのか、日本の戦意を左右しうるのかは、まったくわかっていなかった。日本の通信を傍受していた米国は、日本の内閣上層部の意見が割れていることを承知していた。1945年半ばに内閣の多数派を占めていた軍部は、米国を「流血」させ続ければ米国民はやがて戦争に飽きてくるだろうという淡い期待を抱いていたが、「和平」派はこれを愚かな戦略と考え、そんなことをすれば日本が崩壊してしまうと危惧していた。もし米国が日本の降伏を引き出すなら、軍部の支配を切り崩す必要がある。これまでの空襲作戦だけでは十分ではない。米軍は1945年3月から何度も日本の都市に対して空襲を行っていた。東京大空襲では、一夜にして10万人以上が死亡したとされ、数百万人が家を失った。ほかにも7月までに日本各地で60カ所以上が空襲を受けていたが、日本が降伏する様子はなかった。直ちにその態度を変えさせるには、原爆が革命的な武器であることを日本に理解させる必要があった。(参考記事:「第二次大戦の空襲のエネルギー、宇宙に達していた」)
■目標都市の選定■米国は、1回目の原爆投下によって断固とした意思表示をしたかったため、最初の攻撃目標の選定には慎重な議論が重ねられた。科学者と主な軍の代表が率いるマンハッタン計画の目標選定委員会は、1945年4月(ドイツ降伏の約1週間前)に第1回目の会合を開き、目標都市の選定に入った。候補地として「ある程度広い都市地域で、目標自体は直径3マイル(4.8キロ)以上あり…東京と長崎の間にあって…戦略的価値が高いこと」との基準を設け、具体的に東京湾、川崎市、横浜市、名古屋市、大阪市、神戸市、京都市、広島市、呉市、八幡市、小倉市、下関市、山口市、熊本市、福岡市、長崎市、佐世保市の17都市を検討した。
 1945(昭和20)年04月28日(土)◆写真◆1945年4月28日付の文書。最初の原爆投下の目標候補に挙げられた日本の都市と、選定基準の概要が書かれている。(NATIONAL ARCHIVES AND RECORDS ADMINISTRATION, WASHINGTON D.C.)
 同年5月の会合でリストが修正され、有力候補順に京都市、広島市、横浜市、小倉市、新潟市に絞られた。京都は、大都市でまだ空襲を受けていなかったため、最有力候補に挙げられた。同じくまだ空襲を受けていなかった広島は、中心部に大きな軍事基地があり、周囲が山で囲まれていることから、爆発を「集中させて」破壊力を増幅させるとしてリストに加えられた。6月末に、委員会は京都、広島、小倉、新潟を指定目標リストに載せ、これら4都市への空襲を禁止した。5月末に空襲が行われた横浜は、このリストから外された。また、京都もそのすぐ後にリストから外され、空襲や原爆を含め一切の攻撃が禁止された。ヘンリー・スティムソン陸軍長官が、戦略的理由と感情的理由から、日本の古都は守るべきと判断したためだ。マンハッタン計画の軍部責任者だったレスリー・グローブス少将はこれに強く反対し、京都は価値の高い重要な目標であると繰り返し主張したが、最終的にスティムソンがトルーマン大統領を説得し、リストから外された。
 写真◆日本本土への攻撃 1945年3月に始まった大規模な対日空襲は、カーティス・ルメイ米陸軍少将が指揮した。1945年8月の終戦までに、東京を含む60カ所以上が空襲を受けた。(ROSEMARY WARDLEY AND CHRISTINA SHINTANI, NG STAFF; SOURCE: ALEX WELLERSTEIN)
 1945(昭和20)年07月、ポツダム会談に出席していたトルーマン大統領とスティムソン陸軍長官のもとへ、ニューメキシコ州のトリニティ実験場で原爆実験が成功したとの知らせが入り、トルーマンは興奮した。それまでは原爆開発にあまり関心を示していなかった大統領だったが、今やその新型爆弾が日本への強力な武器となり、ソ連に対してもメッセージを送ることになるとの理解にいたった。(参考記事:「人類初の原爆実験、「核の時代」こうして始まった」)
 1945(昭和20)年07月16日(月)◆写真◆1945年7月16日、米国ニューメキシコ州の砂漠にあるトリニティ実験場で人類初の核実験が行われた。(GRANGER)
 写真◆トリニティ実験の後、マンハッタン計画を率いたレスリー・グローブスとロバート・オッペンハイマーは、その成功に満足すると同時に、畏怖の念に包まれたと、後に回顧している。(THE GRANGER COLLECTION, NEW YORK)
 写真◆マンハッタン計画 原子爆弾は、米国各地に広く分散して開発・製造された。広島に落とされた「リトルボーイ」の高濃縮ウランはテネシー州オークリッジの「Site X」で、長崎に落とされた「ファットマン」のプルトニウムは、ワシントン州ハンフォードの「Site W」で製造された。最も精密性を要する作業は、トリニティ実験場に近いニューメキシコ州ロスアラモスの研究所「Site Y」で行われた。(CHRISTINA SHINTANI, NGM STAFF; SOURCE: ALEX WELLERSTEIN)
 京都を外したことで、悪天候などに備えて、もう一カ所広島と小倉の近くにある都市を加える必要があった。長崎には捕虜収容所があり、地形もそれほど好ましくなかったが、港湾都市で軍需工場が2カ所あったことから、長崎をリストに加えた。
 最終的な攻撃命令の草稿はグローブスが作成し、トルーマンが閲覧した後、スティムソンとジョージ・マーシャル陸軍参謀総長によって承認され、7月25日に発効された。トーマス・ハンディ参謀総長代行からカール・スパーツ太平洋戦略航空軍司令官に送られた命令書には、次のように書かれていた。
  https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/080700466/
 1945(昭和20)年08月03日(金)「1945年8月3日以降」第20航空軍は最初の「特殊爆弾」を広島、小倉、新潟、長崎のいずれかへ投下せよ(これ以前の草稿では、これが優先順位であると明記されていた)。投下は(レーダーではなく)目視で行うこと。同行するのは観測用航空機数機に限ること。さらに「計画担当者による準備が整い次第、上記攻撃目標に追加の爆弾を投下するものとする」とある。初の4都市以外の目標については、改めて指示を出すとされていた。
 それは、原爆を1個投下せよという命令ではなかった。準備さえ整えば、何個でも投下することを許可するという内容だった。
■1回目の投下■日本への空襲と原爆投下作戦の基地として使われたのは、北マリアナ諸島にある小さなテニアン島だった。日本が統治していたが、1944年夏に米軍が占領した後、島全土が基地化された。このテニアン島へ
 1945(昭和20)年07月29日(日)、「リトルボーイ」と名付けられた原爆の部品が運び込まれ、最終的な組み立て作業が行われた。8月6日午前1時頃、リトルボーイはB-29爆撃機「エノラゲイ」に乗せられ、基地を飛び立った。この日、広島の上空には雲がほとんどなく、午前8時すぎに町が視界に入った。(参考記事:「原爆を運んだ米軍艦、撃沈から70年」)
 8時15分、原爆が投下された。それは44秒間落下した後、TNT火薬およそ1万5000トンに匹敵する威力で爆発した。広島はほぼ一瞬にして炎に包まれ、破壊された。数分のうちに数万人が命を落とし、その後も原爆の影響でおよそ10万人が犠牲となった。エノラゲイは1万メートルの高度を1時間弱旋回して町を観測した後、テニアン島へ戻っていった。(参考記事:「あの日から75年 広島の記憶」)
 写真◆広島へ投下された原爆「リトルボーイ」を乗せたB-29爆撃機「エノラゲイ」。(WORLD HISTORY ARCHIVE/ACI)
 写真◆広島の焼け野原から回収された腕時計。原爆が投下された8時15分で針が止まっている。(SCIENCE SOURCE/BRIAN BRAKE/ALBUM)
■第2の攻撃■ポツダム会談からの帰り、船の中で原爆投下の報告を受けたトルーマンは大喜びし、「歴史上最も偉大なこと」とコメントした。ニュースはすぐに報道機関に公開され、日本向けのラジオ放送でも流された。
 1945(昭和20)年08月06日(月)時点では、広島が受けた攻撃についてよく把握できていなかった日本軍は、科学調査団を現地へ派遣した。日本の原子物理学の第一人者だった仁科芳雄教授は
 1945(昭和20)年08月08日(水)、広島から「倒れずに残っている建物はほぼ皆無」で、見たところ「いわゆる新型とされる爆弾は、原子爆弾である」と報告した。
  ⇒ 次ページ:同じ日、テニアン島では次の原子爆弾が
  https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/080700466/?P=2
 日本がまだ広島で調査をしていたころ、次の投下準備は既に始まっていた。
 1945(昭和20)年08月08日(水)に気象予報を確認すると、作戦予定日とされていた
 1945(昭和20)年08月10日(金)の天気は思わしくなかった。そこでテニアン島の幹部はワシントンDCに相談することなく(トルーマンだけでなくスティムソンにすら知らせなかった)、当初の命令書により次の作戦遂行の決定権も自分たちにあると判断し、時を移さず原子爆弾「ファットマン」を組み立てて別のB-29爆撃機「ボックスカー」へ積み込むと、日本へと送り出した。目標は、九州北端にある武器庫の町、小倉市(現北九州市の一部)だった。ところが、町の上空は雲のせいなのか煙のせいなのか(前日に近くの八幡市が空襲を受けていた)視界が悪かった。ボックスカーは45分間上空から目標を探していたが、やがてあきらめて長崎へ向かった。
‡1945(昭和20)年08月09日(木)午前11時2分、ファットマンは長崎上空でTNT火薬2万トン相当の威力で爆発し、一瞬にして7万人以上の命を奪った。ボックスカーはしばらくの間破壊の状態を観察してから、基地へ戻っていった。(参考記事:「「ナガサキ」本を米国で出版、著者に聞いた」)日本の大本営は
‡1945(昭和20)年08月09日(木)、数日前のソ連による宣戦布告とそれに続く満州侵攻について話し合っていた時に、長崎が攻撃されたとの報告を受けた。このとき、日本がさらなる攻撃を予測していたかどうかは定かではない。しかし2回目の攻撃があったことで、米国には爆弾が1個しかないかもしれないという期待は吹き飛んだ。ところが、2回の原爆投下もソビエト侵攻も、日本の無条件降伏受け入れを引き出すことはできなかった。日本は、天皇制を維持するという条件付きの降伏を米国へ申し入れる準備を進めていた。
 写真◆広島、長崎への原爆投下 原子爆弾は、テニアン島を発ったB-29爆撃機「エノラゲイ」「ボックスカー」によって広島、長崎に投下された。(ROSEMARY WARDLEY AND CHRISTINA SHINTANI, NG STAFF、SOURCE: ALEX WELLERSTEIN)
■待機、そして次の投下への準備■米国の首都は騒然としていた。
 1945(昭和20)年08月10日(金)、日本から条件付き降伏案を受け取ったトルーマン大統領と閣僚らは、その内容を隅から隅まで精査していた。グローブス少将はマーシャル参謀総長に書簡を送り、「次の爆弾」は予想よりも早く準備できると報告した。ニューメキシコ州ロスアラモスでは、次の爆弾に使用される部品を完成させて、テニアン島へ運搬するための作業が急ピッチで進められていた。
 1945(昭和20)年08月12日(日)か13日(月)にも最後の部品がロスアラモスを出発し、その1週間後には日本に投下できる見込みだった。トルーマンはこの報告を受けるなり、準備作業を止めるよう命じた。マーシャルはグローブスへ「大統領の明確な許可なしに日本へ原爆を投下してはならない」と書き送った。広島への原爆投下後に「歴史上最も偉大なこと」と発言したトルーマンが、なぜ突然投下禁止命令を出したのだろうか。これ以上の原爆は戦争終結を早めるのではなく、終結へ向けた努力を妨げることになるのではと恐れていたという意見もあるが、別の歴史家は、トルーマンは大量殺戮をやめさせたかったからだと考えている。当時の商務長官で元副大統領ヘンリー・ウォレスの日記には、その朝トルーマンが閣僚に対して「さらに10万人の命を奪うなど考えただけで恐ろしい」と語ったと書かれている。トルーマンの口から出た「あの子どもたちが皆」との言葉は、人を殺すことへの嫌悪の表れだったのだろう。いずれにしても、トルーマンは決定権を自らの手に取り戻そうとしていた。おそらく知らず知らずのうちに、新型爆弾の使用に関する決定権は自分たちにあると軍に思い込ませてしまっていたようだ。最初の原爆投下については承知していたが、2回目はそうではなかった。もし3回目があるとしたら、それはトルーマンが直接命令を下さなければならない。
 写真◆ジョージ・マーシャルからグローブスへの文書。大統領の許可なしに第3の原爆を投下してはならないと書かれている。(NATIONAL ARCHIVES AND RECORDS ADMINISTRATION, WASHINGTON, D.C.)
 写真◆デーモン・コア(悪魔の核)1945年8月にロスアラモスで作られた最後の核は、日本まで運ばれることはなかった。当初は「ルーファス」、「ダーティ・ゲーティ」などと名付けられていたが、ロスアラモスで別の実験に使用され、後に「デーモン・コア」と呼ばれるようになった。(NATURE AND SCIENCE/ALAMY STOCK PHOTO)
  https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/080700466/?P=3
■第3の原爆、標的は東京だったか■ 日本から降伏案が提示されたことは良い兆候ではあったが、トルーマンと閣僚にとっては十分ではなかった。受け入れられるのは無条件降伏だけであると、トルーマンは返した。そして次の数日間、ワシントンはひたすら日本からの返答を待った。米国メディアと軍では、次の原爆がいつ、どこへ落されるかについて様々な憶測が飛び交っていた。トルーマンからの中止命令を受けた後も、陸軍はさらなる原爆は必須と考えていた。8月10日、スパーツ太平洋戦略航空軍司令官は陸軍航空軍の目標計画責任者ローリス・ノースタッドへ電報を打ち、次なる目標は東京にすべしと強く勧告した。「明確な目標を狙ったほうがより多くの破壊効果が得られるが、現時点では破壊よりも日本政府の指導部へ心理的圧力をかけるほうが重要であると考える」
 1946年3月◆写真◆1946年3月、広島はまだ廃墟のままだった。原爆による正確な死者数を把握することは不可能だが、爆発による直接の死者と、その影響によって後で亡くなった人々を合わせると10万人に達するとみられている。(UNIVERSAL IMAGES GROUP/UNIVERSAL HISTORY ARCHIVE/UIG/ALBUM)同じ日、スパーツは「上層部がこの提案を検討中」であり、「最終決定」は2日以内に下されると告げられた。
 1945(昭和20)年08月13日(月)、スティムソンはテニアン島への部品の運搬を再開したほうが良さそうだと示唆した。グローブス少将は、今後の原爆投下スケジュールに関する最新情報をマーシャル参謀総長に伝達する役割を任された。マーシャルは、準備が整い次第原爆を使用すべきか、それとも日本本土進攻へ備えてそれを取っておくべきかを思案していた。本土決戦となれば、約12個の原爆が必要となる。いずれにしても、グローブスの代理人がマーシャルの代理人へ伝えたところによると、第3の原爆は「運搬の準備が整い、命令を待っている」状態であるということだった。
 1945(昭和20)年08月14日(火)、スパーツは相変わらず東京を次の目標にせよとの主張を続け、「一刻も早く」第3の原爆を「東京へ投下すべく」、テニアン島へ運ぶよう求めていた。だが、またも決断は保留中であると告げられた。グローブスは、翌日にでも原爆投下に関する決定が下されると告げられていた。その日の午後、トルーマンは英国大使と面会し、日本が無条件降伏に前向きでないことから、「東京への原爆投下を命じる以外もはや選択肢はなくなった」と伝えた。もしその命令が下っていれば、数日のうちに作戦は遂行されていたはずだ。(参考記事:「戦中戦後の日本を米国人記者はこう見ていた」)
 1945(昭和20)年08月15日(水)◆写真◆1945年8月15日、ラジオで日本の降伏と終戦を告げる玉音放送を聞く人々。(THE ASAHI SHIMBUN/GETTY IMAGES)
■終戦■だが、幸いなことにそれが遂行されることはなかった。トルーマンが英国大使と話をして間もなく、日本時間で
 1945年8月15日、日本は無条件降伏を受諾すると発表した。日本がなぜ考えを変えたのか。原爆、ソ連の宣戦布告、日本軍の内部勢力。それぞれの相対的な役割を紐解くのは難しく、それらすべてが何らかの役割を果たしたと思われる。第3、第4の原爆投下は確かに、第二次世界大戦終結をにらんだ米国の戦略に含まれていた。原爆が戦争を終結させるだろうという期待はあったものの、トルーマンから軍の司令官まで、あのタイミングで終戦になるとは思っていなかった。さらに多くの原爆が必要と考えられており、米国の上層部はさらなる投下命令に備えて急速に動いていた。もしあのまま戦争が続いていたら、次の原爆は確実に落とされていたはずだ。(参考記事:「核の亡霊――世界の核実験の4分の1が行われた土地は今 写真24点」)
 1945(昭和20)年09月02日(日)◆写真◆日本の降伏後、連合国は天皇を戦犯として裁判にかけることを検討していたが、ダグラス・マッカーサー元帥はこれから日本を占領するにあたって天皇が存在していたほうが日本人には受け入れられやすいと訴え、その意見が聞き入れられた。1945年9月2日、日本と連合国軍の代表は戦艦ミズーリ号で日本の降伏文書に署名した。こうして天皇制は象徴として維持され、日本の統治権はマッカーサーの手にゆだねられた。写真は
 1945(昭和20)年09月27日(木)に撮影されたもの。(UNIVERSAL IMAGES GROUP/UNIVERSAL HISTORY ARCHIVE/ALBUM)
  https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/080700466/?P=4


‡1995(平成七)年08月09日水曜日
『長崎市の原爆投下の平和祈念像は、悪魔像にしなさい』と
 ニューヨークのアシュケナージム・ユダヤ悪魔が命令した。
 だから、長崎市の原爆投下の平和祈念像は悪魔像みたいな形になった。
 ニューヨークのアシュケナージム・ユダヤ悪魔達は、
 こういう極端な悪戯が好きであるヨ(=^◇^=)
 平和祈念像は、長崎県長崎市松山町にある平和公園の北端に建てられた像
 北村西望によって造られた被爆10周年にあたる
 1955(昭和30)年08月08日(月)に完成
 http://hinokounet.blogspot.jp/1995/08/blog-post.html

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 ┃      広島電鉄株式会社      ┃
 ┃ Hiroshima Electric Railway Co., Ltd. ┃
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 1910(明治43)年06月18日(土) 創業
 1942(昭和17)年04月10日(金) 設立
 1945(昭和20)年08月06日(月) 広島市への原爆投下。市内線全線不通。本社を楽々園に移動
‡1945(昭和20)年08月09日(木) 六日の原爆投下による被害での運行停止から一部区間で市内電車運行再開
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E9%9B%BB%E9%89%84
 https://www.uta-net.com/song/11609 https://www.uta-net.com/song/64356
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「焼き場に立つ少年」はあの子?謎追う被爆者 ローマ法王注目の写真
 2019/8/5 6:00 西日本新聞 社会面
 2019/8/5 14:32 更新  
「焼き場に立つ少年」を捜す村岡正則さん=長崎市
 ローマ法王フランシスコの指示で印刷された「焼き場に立つ少年」の写真カードの表側
 亡くなった弟を背負った少年が、真っすぐ前を見つめる。原爆投下後の長崎で撮影したとされる写真「焼き場に立つ少年」は、11月に来日予定のローマ法王フランシスコが世界中に広めるよう呼び掛けたことで注目された。法王は言う。<このような写真は千の言葉よりも伝える力がある>。だが少年の身元も撮影場所も分かっていない。長崎市のある被爆者は今も、写真の謎を追っている。
 写真は、米軍の従軍カメラマンだった故ジョー・オダネルさんが1945年に長崎で撮影。少年が焼き場で弟を火葬する順番を待っている場面だとされる。
 「あの子じゃなかろうか」。長崎市の元小学校長、村岡正則さん(85)は10年ほど前、写真が長崎で公開されることを伝えるニュースを見て驚いた。同じ銭座国民学校(現銭座小)に通っていた少年にそっくり。学級は違ったが、何度か校庭で遊んだことがある。丸顔でおとなしい性格。転校生だったと記憶するが、名前は思い出せなかった。
 45年8月9日、村岡さんは爆心地から1・6キロ離れた自宅で被爆。外出しようとした瞬間、閃光(せんこう)が走り吹き飛ばされた。がれきの下からはい出し、両脚と左腕のやけどの痛みをこらえながら母たちと裏山に逃げ込んだ。あの少年も幼子を背負って裏山にいた。「どうしよっとね」と尋ねると、少年は「母ちゃんを捜しよると」と言い、立ち去ったという。それっきり会っていない。
   ◇    ◇
 2017年末、法王は写真をカードに印刷し、<戦争がもたらすもの>というメッセージを添えて各国に配るよう指示。日本ではカトリック中央協議会(東京)などを通じて配布された。「私はあの子に会うたとさ、話したとさ」。カトリック信者でもある村岡さんは法王の行動に背中を押され、少年を捜し始めた。
 銭座小は児童約850人のうち約500人が犠牲となり、学籍簿も焼失した。写真のことが書かれた本に出てくる人に会い、自分の記憶と照らし合わせて手掛かりを探った。調査範囲は市外にも広げたが、有力な情報は得られていない。
 法王はかつて<核兵器は人類の平和的共存の基礎にはなれない>と語り、その教訓となる被爆者の証言を<予言的な声>と表現した。「焼き場に立つ少年」は核廃絶が進まない世界の未来を示唆する、と伝えたいのだろうか。
 法王は11月、長崎と広島を訪れる予定だ。「この写真は末永く戦争の惨禍と平和の尊さを力強く、訴え続けていくに違いない」と村岡さん。少年に光を当てた法王の来日を機に、新たな証言が出てくることを待ちわびる。
 https://www.nishinippon.co.jp/item/n/532764/
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 ┃ ♪一本の鉛筆♪ ┃
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 1945(昭和20)年08月05日(日) B面 ♪八月五日の夜だった♪
 1945(昭和20)年08月06日(月) ヒロシマ市に人類最初の原子爆弾投下
‡1945(昭和20)年08月09日(木) ナガサキ市に人類二発目の原子爆弾投下
‡1974(昭和49)年08月09日(金) 第一回広島平和音楽祭 広島県立総合体育館
 1974(昭和49)年10月01日(火) シングルレコード発表
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 ┃ 『美空ひばりの広島平和音楽祭』 ┃
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 2001(平成13)年06月24日(日) 日本コロムビア VHS:COVA-6540
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 ┃ 『24時間テレビ「愛は地球を救う」』 ┃
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 2006(平成18)年08月27日(日) 広島テレビのローカル企画に実妹の佐藤勢津子がゲスト出演し歌唱
 動画◆https://youtu.be/dDEck4i-Ipg
 
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/一本の鉛筆
 https://ja.wikipedia.org/wiki/広島平和音楽祭
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 「焼き場に立つ少年」はあの子?謎追う被爆者 ローマ法王注目の写真
 2019(令和元)年08月05日(月) 6:00 西日本新聞 社会面
 2019(令和元)年08月05日(月) 14:32 更新  
 「焼き場に立つ少年」を捜す村岡正則さん=長崎市
 ローマ法王フランシスコの指示で印刷された「焼き場に立つ少年」の写真カードの表側
 亡くなった弟を背負った少年が、真っすぐ前を見つめる。原爆投下後の長崎で撮影したとされる写真「焼き場に立つ少年」は、11月に来日予定のローマ法王フランシスコが世界中に広めるよう呼び掛けたことで注目された。法王は言う。<このような写真は千の言葉よりも伝える力がある>。だが少年の身元も撮影場所も分かっていない。長崎市のある被爆者は今も、写真の謎を追っている。
 写真は、米軍の従軍カメラマンだった故ジョー・オダネルさんが1945年に長崎で撮影。少年が焼き場で弟を火葬する順番を待っている場面だとされる。
 「あの子じゃなかろうか」。長崎市の元小学校長、村岡正則さん(85)は10年ほど前、写真が長崎で公開されることを伝えるニュースを見て驚いた。同じ銭座国民学校(現銭座小)に通っていた少年にそっくり。学級は違ったが、何度か校庭で遊んだことがある。丸顔でおとなしい性格。転校生だったと記憶するが、名前は思い出せなかった。
‡1945(昭和20)年08月09日(木)、村岡さんは爆心地から1・6キロ離れた自宅で被爆。外出しようとした瞬間、閃光(せんこう)が走り吹き飛ばされた。がれきの下からはい出し、両脚と左腕のやけどの痛みをこらえながら母たちと裏山に逃げ込んだ。あの少年も幼子を背負って裏山にいた。「どうしよっとね」と尋ねると、少年は「母ちゃんを捜しよると」と言い、立ち去ったという。それっきり会っていない。
   ◇    ◇
 2017年末、法王は写真をカードに印刷し、<戦争がもたらすもの>というメッセージを添えて各国に配るよう指示。日本ではカトリック中央協議会(東京)などを通じて配布された。「私はあの子に会うたとさ、話したとさ」。カトリック信者でもある村岡さんは法王の行動に背中を押され、少年を捜し始めた。
 銭座小は児童約850人のうち約500人が犠牲となり、学籍簿も焼失した。写真のことが書かれた本に出てくる人に会い、自分の記憶と照らし合わせて手掛かりを探った。調査範囲は市外にも広げたが、有力な情報は得られていない。
 法王はかつて<核兵器は人類の平和的共存の基礎にはなれない>と語り、その教訓となる被爆者の証言を<予言的な声>と表現した。「焼き場に立つ少年」は核廃絶が進まない世界の未来を示唆する、と伝えたいのだろうか。
 法王は11月、長崎と広島を訪れる予定だ。「この写真は末永く戦争の惨禍と平和の尊さを力強く、訴え続けていくに違いない」と村岡さん。少年に光を当てた法王の来日を機に、新たな証言が出てくることを待ちわびる。
 https://www.nishinippon.co.jp/item/n/532764/

 祖母が残した手記 取材中に発見 焼け野原 歩いた祖母 被爆体験に涙
 2019(令和元)年08/08(木) 11:10 長崎新聞 配信 
 2019(令和元)年08/08(木) 15:35 長崎新聞 配信
 写真◆長男と次男を連れた祖母(中央)。1949年ごろ撮影 
 信じられなかった。涙がとめどなくこぼれ落ちた。昨年4月に92歳で亡くなった祖母が被爆体験をつづった手記を、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館(長崎県長崎市平野町)で、思いがけなく見つけた。家族にも被爆体験を語りたがらなかった祖母が、1945年8月9日の記憶を後世のために書き残していた。
 私は入社5年目で27歳。今年4月に報道部に異動し、長崎市政の担当となった。原爆関係の取材も多く、祖母の被爆体験を詳しく聞いておけばよかったと後悔した。
 6月中旬。祈念館を訪れた際、職員から「もしかしたら(祖母の手記が)あるかもしれませんよ。探してみたらどうですか」と勧められた。検索機に「中間妙子」と祖母の名前を入れてみると、あった。書棚を探して祖母の体験記を見つけ、手に取った。
 手記は95年に厚生省(現厚生労働省)が実施した被爆者実態調査の際、当時69歳の祖母がしたためていた。見覚えのある筆跡。時を越えて祖母に会えた気がしてうれしかった。手記は短いものだったが、祖母のつらく悲しい体験に触れ、読んでいるうちに声を出して泣いていた。
 祖母の手記には、次のようにつづられていた。
 「当時家族は松山町に住んでおりましたが、全員外出しており助かりましたが、父が茂里町の工場でヤケドを負い、長い通院の末治すことができました。私は会社に出社しており、日が暮れるのを待って母の実家長与へ長崎駅より線路の上をずっと歩いて行きましたが、途中喉が渇いてどうしようもなく田んぼの水を手ですくって飲み、家へたどりつきました。今でも松山付近を通ると思い出されてなりません。二度とこんなことはあってはいけないことと思います」
 調べてみると、祖母の自宅は爆心地からわずか約120メートルの場所にあった。もっと詳しく当時の様子を知りたくなり、被爆者健康手帳の情報開示を被爆2世の母に依頼した。母から3世の私が委任を受け、祖母と母の親子関係が分かる戸籍謄本などを市に提出した。約1週間後、祖母が62年に手帳を申請した書類の写しを入手した。
 そこには手記よりも詳しい被爆直後の状況がつづられていた。申請書によると、当時19歳の祖母は県漁業協同組合連合会に勤務しており、約2・5キロ離れた五島町で被爆していた。
 ■思いが交錯
 祖母はあの日、ピカッとした光に驚いた。避難命令に従い夢中で山へ逃げる際、足を負傷した。夜になって線路を伝い、歩いて祖母の母の実家があった長与へ向かった。約1週間後、家族と松山町の自宅に行ったが家は全焼していて、何も残っていなかった。
 祖母の妹、中村美智子さん(86)は長与の家にたどり着くなり泣きだした姉の姿を覚えていた。「何人もの死にかけた人に足を捕まれた。助けてください、水をくださいと言われたけど何もしてあげられなかった」と悔いていたという。着ていたもんぺの裾はかなり汚れていた。
 祖母の自宅があった松山町の平和公園付近を訪れた。現在ではきれいに整備されているが、長崎原爆資料館が所蔵している原爆投下直後の写真を見ると、まさに焼け野原で、ぞっとした。祖母は家も何もないのを見て、悲しかったのか。それとも生きていただけでもよかったと思ったのだろうか。
 被爆当時の勤務先は現在の五島町公園周辺にあったようだ。今は周囲に飲食店やコンビニが並んでいる。祖母は原爆がもたらした惨状を目に焼き付けながら、家族を心配して爆心地付近を歩いたのかと思うと、心が苦しくなった。
 ■日常に感謝 
 私にとっての祖母は、いつも笑顔で優しく接してくれる大好きな「ばあちゃん」だった。部活や勉強で疲れて帰宅した私を心配してくれたり、友達が遊びにくるとご飯を作ってくれたりした。
 しかし、原爆は祖母の心を深く傷つけていた。祖母は7人の子どもを育てた。このうち3人ががんを患い、長男と次男は祖母より先に亡くなった。その際「私が原爆に遭ったせいだ」と自分を責めていた。被爆体験を語らなかった背景には、想像を超えるつらい体験があったのだろう。
 もしあなたの周りに戦争や原爆を経験した人がいれば、寄り添って体験談に耳を傾けてほしい。身近な人が被爆者で既に亡くなったという人は、祈念館に足を運んでみてほしい。あなたの大事な人に何があったのか、私のように少しでも分かるかもしれない。
 あの日、祖母が自宅にいて被爆していれば、私はいま、この世にいなかったに違いない。祖母に心から「ありがとう」と言いたい。平和に暮らせる当たり前の日常に感謝し、健康で元気に生きることが何よりの恩返しになるはずだ。
 ◎体験記収集 11万人超 長崎原爆死没者追悼平和祈念館
 国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館(長崎県長崎市平野町)は、被爆者の遺影を登録し、被爆体験記など被爆関連資料の収集、公開に取り組んでいる。
 同館は被爆体験を継承し、原爆死没者を追悼するための施設として2003年に開館。現在、被爆体験が記された書籍を含め、11万4888人分の体験記を閲覧できる。
 同館は今年4月、約2万7千人の被爆者健康手帳所持者に、被爆体験記を募る文書を送った。8月7日現在で体験記29件が寄せられ、体験を同館に聞き取ってもらう「執筆補助」に79件、証言映像に5件の申し込みがあった。
 同館は体験記収集への協力を呼びかけている。問い合わせは同館(電095・814・0055)。
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 aya***** | 私も被爆者3世です。祖母は長崎市で被爆しました。私の祖母も生前は戦争や原爆のことは自分から語ることはありませんでした。ただ、それがあまりにも祖母の心に深く傷を残していたということに気付く経験がありました。それは一度だけ、祖母に被爆体験を聞いた時のことです。確か高校一年の授業一貫だったと思います。身の回りの人の戦争体験を聞いて作文にしなさいという平和と国語の授業だったと記憶しています。その宿題を持って、祖母の元に行きました。個人的には聞きたくありませんでした。なぜなら、今まで一度だって祖母の口から直接的に戦争体験を聞いたことはなかったから。意を決して切り出してましたが、その答えは両親から聞いていた私の知るエピソードとは違っていました。中身はとてもちぐはくで、自分の心を守るため長い年月の中で忘れようとした形跡がありました。その後の気持ちの落ち込み。これ以上は聞いてはいけないと、そう思いました。 
 yuk***** | 私も被爆三世です。私の祖母も原爆のことは語らずに逝ってしまいました。二世の母を含め祖母の子どもは五人中三人ガンでこの世を去りました。私もいつか遺伝子に刻まれた原爆の影響を恐れつつ、受け入れて生きています。こんな事が二度と起こらない世界になってほしいと明日を控え強く思います。 
 kab***** | 原爆の残酷さ、 戦争の悲惨さは 後世に 語り つがなくてはいけない事なのだと 、改めて 思った。 
 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190808-00000007-nagasaki-l42

 国鉄は1945(昭和20)年8月6日(月)正午過ぎには線路上の瓦礫を撤去し、
 国鉄広島駅 - 国鉄西条駅間をピストン運行して被災者を西条方面に避難させた。
‡1945(昭和20)年8月9日(木) その3日後になり広電は己斐電停 - 西天満町電停間で折り返し運転を開始
  https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10177456550
‡8月9日の午前9時ころ、原爆によって一面、焼け野原となった広島の街を、
 広島電鉄(以下「広電」と略す)の復旧一番電車が走ったそうじゃ。
  https://blog.goo.ne.jp/hiroshima-2/e/93fe42f338dcaee4d334bf81bca41c1c

 長崎の被爆伝える写真「黒焦げの少年」は同級生 生死分けた母の言葉
‡2018/8/9(木) 05:55神戸新聞NEXT
 写真◆「一人一人の人間が、その他大勢の遺体の一つになった」。長崎での被爆体験を川上博夫さんが振り返る=加東市南山 
 写真◆1945年8月10日(金) 山端庸介さん撮影(山端祥吾さん提供) 70年以上、身元が分からなかった「黒焦げとなった少年」の写真。長崎市長が国際司法裁判所で原爆の被害を訴えた際に掲げたことでも知られる
 2016年、長崎の被爆者らの間で、あるニュースが話題になった。長崎原爆資料館に展示され、被爆の悲惨な実相を伝える写真「黒焦げとなった少年」の身元が浮上したという。知人から伝え聞いた兵庫県加東市の川上博夫さん(85)は、それが旧制瓊浦(けいほ)中の同級生だったと知り、言葉を失った。長崎に原爆が投下された73年前の8月9日、普段通り登校した少年は、素性が分からなくなるほど無残な姿で亡くなり、川上さんは学校を休んで命を拾った。わずかな差で分かれた生死をどう受け止めるべきか、川上さんは今も問い続ける。(小川 晶)
 英語の試験日だった。平時なら夏休みのただ中だが、2年生になれば軍需工場に動員されるため、川上さんら1年生は詰め込みで授業を受けていた。
 だが、川上さんはきょうだいと家にいた。朝、空襲警報が鳴り、母の「学校に行かんでいい」との言い付けに従ったためだ。
 早めの昼食で、炊いたカボチャに箸を伸ばしていたとき、空の色が黄、紫と変わった。「ドーン」。ごう音と爆風に、両手で目と耳を押さえ、身を伏せた。
 自宅は爆心地から約3・7キロ、勤務先にいた父も含め家族全員が無事だった。一方、瓊浦中は爆心地から約800メートル。同窓会の役員によると、原爆によって、1年生約300人中114人が亡くなったという。
 その一人が、谷崎昭治さんだった。登校後の詳しい状況は分からず、遺体も見つかっていない。下宿先で見つかった水筒が、遺骨代わりに墓に納められた。
 □   □
 70年後、長崎市で原爆写真展が開かれ、谷崎さんの妹が1枚の写真の前で立ち止まった。全身が炭のようになった少年の遺体。有名な写真で、存在は知っていたが、改めてじっくり見たところ「兄と額の形が似ている」と思ったという。
 法医学研究者による鑑定で「谷崎さんの可能性が高い」との結論に至り、16年6月に地元の平和団体が発表。川上さんにも、長崎の知人から連絡が来た。
 クラスが違ったため、名前を聞いてもぴんとこなかった。ただ、被爆による甲状腺機能低下症に悩まされながらも戦後を生き抜いてきた自身と、13歳で途絶えた谷崎さんの人生を重ね合わせると、言葉が見つからなかった。
 同じように登校し、被爆した同級生の姿を思い出した。全身の皮膚がただれ、赤く腫れ上がっている。かすかな呼吸。群がるハエ。家族がすすり泣きながら、うちわであおいでいた。
 分かれた生死をどう捉えるべきか。川上さんは絞り出すように「運命のあや」と表現し、あの日、登校をやめさせた母の指示をかみしめる。
 原爆投下の10日ほど前、長崎は空襲に遭い、自宅と家族を失った父の同僚が川上さんの家に身を寄せていた。母は、一人生き残った同僚の悲しみを肌で感じていたという。
 「母が私を登校させなかったのは危険だからではない。『死ぬときは家族一緒に』との思いからだった。生き延びるためではなく、死の覚悟によって、結果的に命を救われたんです」
 https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201808/0011525786.shtml

日本人はほとんど知らない。イタリアで毎年行われる広島・長崎の原爆忌の式典
作成:2015-08-11 By - grape編集部
更新:2015-08-13
皆さんは、毎年イタリアで「広島・長崎の原爆忌の式典」が行われていることをご存知ですか?
17:20 2015年8月9日 藤村シシン5/18青山NHK @s_i_s_i_n イタリアでも、広島・長崎原爆忌の式典を毎年ローマの万神殿の前でやってくれている(写真は去年の)。ただ日本で知名度がないので、この時期大量にローマに来ているはずの日本の観光客が全く参加してくれない事を残念がっていた。誰でも参列できます! 
この式典は、広島・長崎に原爆が投下された8月6日?9日前後に、ローマの古代遺跡「パンテオン」前の広場で毎年行われます。
原爆で亡くなった方たちへ追悼の意を込め、戦争反対の集会も開かれているそうです。
■2014年の式典
16:27 2014年8月6日 藤村シシン5/18青山NHK @s_i_s_i_n 広島に原爆が落とされた今日8月6日をイタリアの人も記憶してくれていて、ここローマではパンテオン(万神殿)の前でセレモニーが行われてる。「広島を二度と繰り返さない」と幕に書いてある。ちょうど私も出席できて嬉しい 
日本ではあまり知られていないこの式典。知名度が低いためか、観光客が多い時期にも関わらず日本人の参加はほとんどないそうです。
それでも、毎年変わらず式典は行われています。
遠く離れた地で、日本のために祈りを捧げてくれている人々がいる…このTwitterのコメント欄には「感謝」の言葉が多く見られました。
■ローマ法王、平和を呼びかける
そしてこの日、フランシスコ・ローマ法王はバチカンのサン・ピエトロ広場で国民に平和を呼びかけました。
「長い年月を経た今も、その戦慄と悲惨さに反感を呼び起こす」
「戦争に打ち勝つには、戦争をしないことしかない」
私たちの知らない場所で、日本を想ってくれている人々がいるということ。感謝の気持ちを忘れずに、日々を過ごしていきたいですね。
https://grapee.jp/75405

■生傷男ザ・ブルーザー、粉砕者ザ・クラッシャー
 電話帳が真っ二つ その恐るべき肉塊!
泣く子も黙る、生傷男ディック・ザ・ブルーザーと粉砕者クラッシャー・リソワスキーです。
昭和44年8月二人揃って来日した直後で、ホテルで電話帳を真っ二つに引きちぎるというデモンストレーションを行ないました。
1週間の特別参加でしたが、札幌では、馬場・猪木組からインタータッグ選手権を獲得しています。この二人も鉄の爪エリック同様、立っているだけで絵になるレスラーでした。
http://blogs.yahoo.co.jp/hk08300830/34767757.htmlこの

有名人衝撃死の真相「力道山」“最古参プロレス記者が語る力道山の死”
Posted on 2015年8月9日(日) 9:56 AM 
戦後最大の英雄だった力道山は
1963(昭和38)年12月15日(日) ヤクザに刺された傷がもとで、39年の生涯を終える。現役最古参のプロレス記者・門馬忠雄氏が、当時の緊迫した様子を再現告白する。当時、「東京スポーツ」のボクシング担当だった私は社で原稿を書いていると、「力道山、急死」のニュースに原稿を放り投げて現場に向かった。プロレス担当になるのは1年後だったが、これだけ大きな事件だから担当も何もない。すでに赤坂の山王病院から自宅のリキアパートに遺体が運び込まれ、周辺を取り囲んだ日本プロレスの所属レスラーたちは、一様にピリピリした空気を出していた。先輩記者に聞いた話では、力道山の病室では、刺した組員への「仕返し」を考えているレスラーもいたというから。力道山は
1963(昭和38)年12月 7日(土) 静岡・浜松で試合をし、夜行列車で帰京。翌
1963(昭和38)年12月 8日(日) 赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で飲んでいたところ、口論となった若い組員に腹部を刺される。そして
1963(昭和38)年12月15日(日) 腸閉塞から容体が悪化し、午後9時20分に亡くなった──これが当時の私の取材メモです。日本にプロレスを根づかせ、熱狂を生んだカリスマだけに、翌日のスポーツ紙には「プロレスの灯が消えた」と書いているところがあった。力道山の死はイコール、プロレスの死だと報じられたのです。そして
1963(昭和38)年12月20日(金) 池上本門寺で行われた葬儀は、これほどの人がどこから集まってくるのかと思うくらい、とぐろを巻くほどの列だった。葬儀を終えた日本プロレスは、未亡人の名を借りた4人の合議制(豊登、遠藤幸吉、芳の里、吉村道明)に移行。そこから豊登が次の社長になったが、競輪や競馬に会社の金をつぎ込むなど経営者の器ではなかった。そんな混乱を救ったのが、アメリカから凱旋帰国したジャイアント馬場だ。馬場はアメリカでもスーパースター級の活躍をしていたが、日本に帰ってきたことで一躍、救世主となった。これにアントニオ猪木も続いた。力道山の死がプロレス界にもたらしたのは、インパクトを与えながらの「世代交代」という概念。日本の戦後と同じで、何もないところから復興を果たすという歴史の繰り返しだ。とりわけ、馬場と猪木の2大スターを育てたことが、力道山の最大の功績だったと思うね。
http://www.asagei.com/excerpt/40693

広島・長崎原爆、被爆者をモルモットにして=放射能障害の予防薬!ガンや発育障害を予防する薬が米国で売ら
2014-07-29 20:06:57 | 脱原発
広島・長崎原爆、被爆者を モルモットにして= 放射能障害の予防薬!ガンや発育障害を予防する薬と米国で売られているんだ!
 写真家・福島菊次郎
http://blog.goo.ne.jp/kimito39/e/c82838be86e2a5c1785687af98e0784b
    
長崎の平和祈念像は残念ながら悪魔教の像です【タルムード】
2016-08-10 11:34:02 | 新興宗教科学教
タルムードとは<ひとをだますこと>です
悪魔崇拝者とはこの人たちのことです 子供の肉を食べ、血をのんでいます 生贄儀式を大昔からやっています 児童相談所(児童虐待防止法<家族の廃止>)がこの儀式に関係があることを日本人はまったく知りません バカだから知らないのではなく、日本人には考えられないのです 日本人にはそんな発想はないのです だから信じられないし、知らないのです
https://blog.goo.ne.jp/j4goocast/e/98dff69fbbb1ed76f0c19dcabe449f0a

平和祈念像は広島も、長崎も、悪魔崇拝者がおがんでいる像です
1995年8月9日水曜日
『長崎市の原爆投下の平和祈念像は、悪魔像にしなさい』と
ニューヨークのアシュケナージム・ユダヤ悪魔が命令した。
だから、長崎市の原爆投下の平和祈念像は悪魔像みたいな形になった。
ニューヨークのアシュケナージム・ユダヤ悪魔達は、
こういう極端な悪戯が好きであるヨ(=^◇^=)
平和祈念像は、長崎県長崎市松山町にある平和公園の北端に建てられた像
北村西望によって造られた被爆10周年にあたる
1955年8月8日に完成
http://hinokounet.blogspot.jp/1995/08/blog-post.html

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