過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日のTHE BEATLESだヨ(=^◇^=)

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 ┃ THE BEATLES ON ED SULLIVAN 1964-1970 ┃
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 | 『The Ed Sullivan Show』 |9th broadcast
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 1966(昭和41)年06月05日(sun) TV broadcast 8:00pm
  ♪Paperback Writer♪ & ♪Rain♪ promo films; tape interview for future broadcast 
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 | 『The Ed Sullivan Show』 |10th broadcast
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‡1966(昭和41)年08月?日(sun)?? TV broadcast 8:00pm ♪Paperback Writer♪/♪Rain♪ clips shown again 
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 http://www.rarebeatles.com/photopg7/sullivan.htm
 https://en.wikipedia.org/wiki/The_Ed_Sullivan_Show#The_Beatles
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 ┃ ビートルズ詳解 The Beatles’Corpus ┃
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①1960(昭和35)年08月28日(日) ライヴ演奏:インドラ・クラブ/ハンブルグ (12日目)
②1961(昭和36)年08月28日(月) ライヴ演奏:キャバーン・クラブ (昼) /リヴァプール
③1962(昭和37)年08月28日(火) ライヴ演奏:キャバーン・クラブ (夜)/リヴァプール
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①1960(昭和35)年08月28日(日) ライヴ演奏:インドラ・クラブ/ハンブルグ (12日目)
 日曜日の夜は、
 05:00pm~06:00pm
 06:30pm~07:30pm
 08:00pm~09:00pm
 09:30pm~10:30pm
 11:00pm~00:00pm
 00:30pm~01:30pm 以上、6時間の演奏良好だヨ(=^◇^=)
④1963(昭和38)年03月01日(金) ライヴ演奏:オデオン・シネマ/サウスポート
 ヘレン・シャピロ (Helen Shapiro) を主役とするUKツアーは、この日ランカシャー (Lancashire) のサウスポート (Southport) にやって来た。
 会場となったオデオン・シネマ (Odeon Cinema) はサウスポートのロード通り (Lord Street) にあるが、1979(昭和54)年に映画館としては閉館した。老朽化したその建物は翌年取り壊され、セインベリーズ (Sainbury's) のスパーマーケットになった。ビートルズは、この年の
 1963(昭和38)年08月26日(月)にもう一度この会場に戻り、6夜連続で公演するヨ(=^◇^=)
 1963(昭和38)年08月27日(火) 2夜
‡1963(昭和38)年08月28日(水) 3夜
 1963(昭和38)年08月29日(木) 4夜
 1963(昭和38)年08月30日(金) 5夜
 1963(昭和38)年08月31日(土) 6夜連続で公演するヨ(=^◇^=)
⑤1961(昭和36)年10月28日(土) レイモンド・ジョーンズ、♪マイ・ボニー♪をNEMSに注文
 この日、リヴァプールのホワイトチャペル (Whitechapel) にあるレコード店、NEMS(North End Music Store) の経営者ブライアン・エプスタイン (Brian Epstein) は、非常に重要なレコードの注文を受ける。注文した客の名はレイモンド・ジョーンズ (Raymond Jones)、注文したレコードはビートルズのシングル盤『マイ・ボニー (My Bonnie)』である。 ジョーンズに注文を受けるこの日まで、エプスタインがビートルズの存在を知らなかったというのは、絶対に有り得ないとは言わないが、可能性は非常に低い。ビートルズはリヴァプールの音楽情報誌『マージー・ビート (Mersey Beat)』に常時取り上げられていたが、エプスタインはそれを自分の店で販売し、また自らレコード評論を誌上に書いているのだ。彼は誌の実際の内容には興味がなかったかもしれないが、ハンブルグを魅了した革服のグループに気がつかなかったとは考えにくい。さりながら、エプスタインの興味はジョーンズの熱意との遭遇によって掻き立てられ、12日後の
 1961(昭和36)年11月09日(木)に彼は、ビートルズの演奏を見に初めてキャバーン・クラブを訪れるのである。それは関係する人々の人生を不可逆的に変貌させ、大衆文化に革命を引き起こす連鎖反応に火を点ける事件であった。レイモンド・ジョーンズへの最初の言及は、イギリスの新聞社がエプスタインに行ったインタビューの中に現れる。
 レイモンド・ジョーンズ ⇒ ビートルズが自分たちのレコードを2枚出したくらいの頃、全国紙がブライアン・エプスタインのインタビューを掲載した。その記事の中で彼が僕を「18歳の古い革ジャンを着たみすぼらしい若者」と表現しているのが頭にきた。僕は彼の発言に対する自分の憤慨を示すためにNEMSに手紙を書いた。その中で「すべての人がスーツを着ているわけではない。生きるために労働せざるを得ない人々もいる。」と書いた。その後すぐにNEMSの誰かが僕に手紙で、オフィスにいるエプスタイン氏に連絡をとって欲しいと頼んできた。当時そのオフィスはデール通り (Dale Street) を曲がったムアフィールズ (Moorfields) にあった。彼に電話すると、直接謝りたいからオフィスまで来てくれないかと言う。幾分ぞんざいな彼の謝罪の後、デール通りのリグビーズ (Rigby's) というパブに二人で出かけて2杯飲んだ。彼はさまざまな質問をしてきて、僕の答えのメモを取っていた。彼は口には出さなかったけど、『A Cellarful Of Noise』の出版を計画していたに違いなかったと思うよ。しばらくして、何のためなのか知らないが、僕の仲間がブライアンに手紙を書いた。折り返し彼女は、エプスタインの秘書ダイアナ・ヴェロ (Diana Vero) から返信を受ける。それには、エプスタインの本のコピーを送りたいから僕の住所を知らせてくれとあった。1周間くらい後に僕はそれを受け取った。
 エプスタインは1964(昭和39)年初版の彼の自伝『A Cellarful of Noise』の中で、ジョーンズのレコード注文の話を詳しく伝えている。その記述は序文の2つの段落に現れ、ビートルズの歴史の中でそれが如何に重要な出来事だったかを説明している。
 ブライアン・エプスタイン『A Cellarful of Noise』1961年10月28日、土曜の午後3時頃にレイモンド・ジョーンズという18歳の少年が、ジーンズと黒の革ジャン姿でリヴァプールのホワイトチャペルにあるレコード店に入って来た。「欲しいレコードがあるんだ。それは "マイ・ボニー" という曲名でドイツで作られた。これある?」カウンターのうしろにはここの店長、27歳のブライアン・エプスタインがいた。彼は首を振って「誰のレコードですか?」と尋ねる。「彼らのこと聞いたことないの?」とジョーンズが言う。「それはビートルズというグループのレコードだよ。」
 この話は本の後半で再び詳しく述べられている。
 ブライアン・エプスタイン『A Cellarful of Noise』10月28日の土曜、私はスペインでの長い休暇から戻ったばかりだった。休暇中、私は自分の興味をどうやったら拡張して行けるかを考えていた。 そして突然に、けっしてドラマチックではなかったが、レイモンド・ジョーンズの発した数語の言葉が解答をもたらす。その言葉とはもちろん「ビートルズのレコードありますか?」私はそれまでリヴァプールのいかなるビート・グループにも関心を持ったことはなく、地下クラブ (cellar clubs) に行くということも考えたことすらなかった。それらは私の人生には含まれていなかった。なぜならば私はその世代の人間ではなかったし、また私は忙しすぎたからである。しかし私は、50年代後半のプレスリーやトミー・スティールからシャドーズにいたる10代のスターの影響で、多くの少年がギターを手にしていることを知った。シャドーズは1962年の秋まではクリフ・リチャードのバックバンドでありながら、インストゥルメンタル曲のスターであり、比類の無い英国のアイドルである。私にとって "Beatle" という名に意味はなかった。ニュー・ブライトン・タワー (New Brighton Tower) で催された大学ダンスパーティーの広告ポスターで、その名を見たおぼろげな記憶があるが、その時も奇妙で無意味なスペルだと思っていた。レイモンド・ジョーンズは、未知のレコードを求めて毎日のように来店する極普通の客の一人だった。今思えば顧客への通常のサービスを超えて、レコーディング・アーティストの長々としたリストを調べる理由は思い当たらない。にもかからわず私はそれを行ったのである。私は時々、"Beatle" という名には神秘的な磁力があるのだろうかと思うことがある。10月28日、私はレイモンド・ジョーンズの注文を書き留め、彼は店を出て行った。私はメモに「"マイ・ボニー"、ザ・ビートルズ。月曜にチェック。」と書いた。
 レイモンド・ジョーンズの注文の話は、ハンター・デイヴィス (Hunter Davis) が1968(昭和43)年に書いたビートルズ認定の伝記の中で再浮上している。おもしろいことにデイヴィスは、ブライアン・エプスタインはその日までビートルズを知らなかったと主張して物語を潤色している。
 ハンター・デイヴィス『The Beatles』正確に言うと、1961年10月28日の午後3時にそれは起こった。黒の革ジャン姿のレイモンド・ジョーンズという若者が、リヴァプールのホワイトチャペルにあるNEMSというレコード店に入り、ザ・ビートルズというグループの『マイ・ボニー』というレコードを求めた。カウンターのうしろにいたブライアン・エプスタインは「大変申し訳ありません」と言った。彼はそんなレコードも、ビートルズというグループも聞いたことがなかったのである。 
 『A Cellarful Of Noise』の中でエプスタインは、リヴァプールでの公演の宣伝ポスターでビートルズの名を見ていること、また自分のレコード店内で彼らを見た記憶があることを語っている。彼はまたジョーンズの他に、2人のリヴァプールの女の子が「マイ・ボニー」を求めて来たとも語っている。ストーリーはは、エプスタインがさらなる調査を決意し、次の月曜に供給業者に電話して顧客の求めたレコードを注文するという話に展開していく。
 フィリップ・ノーマン『Shout!』「ポリドール・レコードはエプスタインのオーダー♪マイ・ボニー♪200枚を発送」とマージー・ビート誌は忠実に書いた。そのレコードはビートルズ追従者の間にかなり良く売れたが、中にはレイモンド・ジョーンズも含めて、彼らが単にトニー・シェリダン (Tony Sheridan) のバックバンドで、名前も「ザ・ビート・ブラザーズ (The Beat Brothers)」であることにがっかりした者もいた。 
 エプスタインの気をビートルズに最初に引いたのはレイモンド・ジョーンズではなかった。ビル・ハリー (Bill Harry) は自分が発行するマージー・ビート誌で、頻繁にビートルズを取り上げているため、エプスタインは彼らの音楽は知らなかったとしても、名前を知らなかったはずはまずない。
 ビル・ハリー『Beatles Examiner』僕は1961(昭和36)年07月の第1週に、『マージー・ビート』誌のコピーを携えてNEMSに行き、支配人に面会を求めた。ブライアン・エプスタインはオフィスから降りてきて、僕が創刊号のコピーを見せると、彼は1ダースの注文をくれた。その後彼は電話で追加注文を入れた。(うちの電話番号は、第2ページの「ジョンの書いたビートルズの伝記」の隣に書いてあった。) 彼はたちまち売り切れたことに驚いていた。
 1961(昭和36)年07月06日(木)、創刊号の日付
 1961(昭和36)年07月20日(木)に第2号は発行されている。ブライアンは第2号には144部の注文を入れている。この数は、1レコード店の購入部数としては前代未聞だ。そしてそれらは完売した。ブライアンはマージーサイド地域の音楽シーンについてはまったく無知だった。地元で多くの事が起こっていることをマージー・ビート誌で読んで本当に驚いていた。彼は僕を自分のオフィスに招いて音楽的な動きについて話をしたが、それにかなり驚いていたようだった。その後の二人の話の中で、グループについて問われると時々ビートルズの名前が出た。なぜなら彼らは他の誰にもまして、僕がマージー・ビート誌でプッシュし続けているグループだったからね。
 エプスタインは♪マイ・ボニー♪のことを聞く以前からビートルズの存在に気づいていたが、おそらくNEMSの客からそのレコードの注文を受けたことが一つの刺激となって、キャバーンに彼らを見に行く気を起こしたというのが真相だろう。しかしエプスタインが新聞のインタビューと『A Cellarful Of Noise』の両方で、レイモンド・ジョーンズの名を挙げている事実は依然として重要である。エプスタインのアシスタントのアリステア・テイラー (Alistair Taylor) は長年に渡って、レイモンド・ジョーンズはそのレコードを注文するためにでっち上げた人物だと主張してきた。(当時のNEMSの発注手続きでは、購入予約したお客の名前を付記することが義務付けられていた。そしてテイラーはそのシングル盤を在庫したかったのだという。) しかしそれは事実ではない。レイモンド・ジョーンズは実在した。彼は1941年に生まれ、リヴァプールの印刷会社で働いた。彼はビートルズの公演を何度も見ており、確かにNEMSでエプスタインに『マイ・ボニー』のレコードを注文していた。
‡2010(平成22)年08月、レイモンド・ジョーンズは The Beatles Bible サイトのインタビューに応じている。彼はアリステア・テイラーの主張してきた記録を正すことを熱望していること、また彼のビートルズの思い出、エプスタインから『A Cellarful Of Noise』のコピーを受け取った経緯などについて語っている。
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 ①https://gejirin.com/beatles/history/1960/19600817_live_indra1.html
  https://gejirin.com/beatles/history/1960/19600818_live_indra2.html
 ②https://gejirin.com/beatles/history/1961/0history_index-1961.html
 ③https://gejirin.com/beatles/history/1962/0history_index-1962.html
 ④https://gejirin.com/beatles/history/1963/19630301_live_Odeon_Southport.html
 ⑤https://gejirin.com/beatles/history/1961/19611028_raymond_order_mybonnie.html
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 ┃ THE BEATLES HISTORY ┃|August 28|240
 ┃    ザ・ビートルズの今日の出来事   ┃|8月28日|
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①1964(昭和39)年08月28日(金),29日(土) ニューヨーク州フォレスト・ヒルズ フォレスト・ヒルズ・テニス・スタジアム公演
 ★観客数、両日とも16,000人 宿泊先はデルモニコ・ホテル
 ★JFK空港に深夜に到着したにもかかわらず、約3,000人のファンが出迎えた。2日前から空港で待っていたファンもいた。
 ★2月の初訪米時にニューヨークのプラザ・ホテルでの騒動を目の当たりにしているニューヨークのホテルは一斉にビートルズの宿泊を拒否したが、デルモニコに住んでいるエド・サリヴァンの口添えでデルモニコ・ホテルに宿泊できることになった。
 ★ビートルズの乗ったヘリが遅れて、オープニング・アクトを務めていたライチャス・ブラザーズが演奏中にスタジアム上空を飛ぶことになってしまった。怒ったライチャスは次のアトランティック・シティ公演からステージを去った。
 ★計画的にステージに上がったファンがいて「狙いはジョージだから心配しないでと言ったら、ジョンが笑って道を開けてくれたわ」と語った。
 ★ホテルにボブ・ディランが訪ねてきて、4人にマリファナを勧めている。
②1965(昭和40)年08月28日(土) カリフォルニア州サンディエゴ バルボア・スタジアム
 ★観客数1万7,013人 宿泊先 個人邸宅をレンタル
 ★セットリスト「Twist And Shout」「She's A Woman」「I Feel Fine」「Dizzy Miss Lizzy」「Ticket To Ride」「Everybody's Trying To Be My Baby」「Can't Buy Me Love」「Baby's In Black」「I Wanna Be Your Man」「A Hard Day's Night」「Help !」「I'm Down」
 ★フットボール・スタジアムの中央辺りにステージを組んで、後ろ半分は客を入れなかったが、これはチケットが1万席分売れ残ったための措置だといわれている。
③1966(昭和41)年08月28日(日) カリフォルニア州ロサンゼルス ドジャー・スタジアム
 ★観客数 45,000人 宿泊先 レンタル・ハウス(ハリウッド・ヒルズ)
 ★コンサート後ステージ裏に待機させていた装甲車に乗り込み、スタジアムから脱出する予定だった。しかし、ゲートのカギが閉まっていて立ち往生。たちまち大勢のファンに取り囲まれて一切身動きが取れなくなってしまった。別の脱出ルートが見つかるまで4人は狭くて不快な装甲車内に2時間も閉じ込められてしまった。
********** http://www.thebeatles.co.jp/contents/index2.htm
 http://www.beatlelinks.net/forums/showthread.php?t=17108
 http://beatlesdiary.web.fc2.com/day/008/0828.html
①https://beatlepedia.web.fc2.com/usa-tour-64.html
②https://beatlepedia.web.fc2.com/usa-tour-65.html
③https://beatlepedia.web.fc2.com/usa-tour-66.html
 http://www.beatlesagain.com/bhistory.html
 楽曲資料https://beatlesdata.info/
 歌詞充実http://tsugu.cside.com/index.html
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 NEWS映像◆THE BEATLES MEET BOB DYLAN 1964 https://youtu.be/ToqZqia4604
‡1964(昭和39)年08月28日(fri) August 28
 
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 ┃ 『この日のビートルズ』 ┃上林 格 P.288 714円(税込) 朝日新聞出版
 ┗━━━━━━━━━━━━━┛2013(平成25)年11月7日(木) 朝日文庫発行
  人類がまだ月面着陸を夢見ていた1960年代、英国出身の4人の若者が世界を席巻した。
  ポピュラー音楽史の記録を次々と塗り替えただけではなく、
  文化、思想、生活スタイル、あらゆる分野に強烈な影響を与えた。
  語り継がれる20世紀最高のファブ・フォーの「この日」にこだわってみました。
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 |1964(昭和39)年 8月28日(金)|「煙に包まれた初対面」
 |2011(平成23)年 8月26日(金)|甲虫日記更新日 No.095
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「大御所」といわれる数少ないロック・スター、ボブ・ディラン。ビートルズが彼と初めて会ったのは、1964年8月28日の金曜日だった。場所はニューヨーク。摩天楼マンハッタンのパークアベニューに建つデルモニコ・ホテルだ。その年2月の初渡米で「全米制覇」を成し遂げたビートルズの人気は、とどまるところを知らなかった。4月に音楽チャートの上位5曲を独占。8月から始まった約1カ月間の全米ツアーはどこも熱狂の嵐だった。その日、フォレスト・ヒルズ・テニス・スタジアムでは、1万6千人の観衆がジェット・エンジンンなみの絶叫を巻き起こした。両者を引き合わせたのは、アル・アロノヴィッツという米国人の音楽評論家だ。「サタディ・イブニング・ポスト紙」にビートルズに好意的な特集記事を載せたばかりの彼は、ビートルズのマネジャー、ブライアン・エプスタインから厚い信頼を得ていた。電話でジョンと直接話したアロノヴィッツによると、「ボブ・ディランに会いたいか」と聞かれたジョンは「もちろん」と即答したという。「ボブ・ディランは僕らのヒーローだった。ジョンがボブのレコードを聴かせてくれた。すごい曲をつくる、粋な若者だった」。リンゴがアンソロジーで回想したことは、初渡米直前にビートルズが公演のため滞在していたパリでの出来事だと推測できる。彼らはホテルで、地元ラジオ局のDJから借りたディランの2枚目のアルバム「FREEWHEELIN' Bob Dylan」を夢中で聴いていたという。「風に吹かれて」「激しい雨が降る」など全曲オリジナルで構成された名盤だ。ジョンは流行に左右されやすい自分の性格を「カメレオン」と例えたが、この頃の彼は「ディラン時代」なのだという。パリ滞在中のジョンの写真には、ファースト・アルバムのジャケットでディランがかぶっているようなつば付きの帽子をしたカットが残っている。ジョンの心酔ぶりがうかがえる。ポールは「FREEWHEELIN'~」以前からディランの存在を知っていたが、それほど胸に響く印象はなかったようだ。「ディランの回りくどい言い回しや詩の世界がジョンの琴線に触れたんだ。ジョンは『これこそ僕の世界だ』と感じたんだろう」ジョンによれば、「I'm A Loser」や「You've Got To Hide Your Love Away」あたりから、「僕は自分自身の感情を曲に表現するようになっていた」という。それまでは自著「In His Own Write」(64年3月出版)で表現していた「自分の世界」を、自作曲のなかでも展開するようになった。そのことをジョンに気づかせたのがディランだ。「話し合いとかしたわけじゃなく、彼の作品を聴くうちに気づいたんだ」ディランがビートルズを知ったのは、全米初のナンバーワン・ソング「I Want To Hold Your Hand(抱きしめたい)」がきっかけになる。63年のクリスマスの翌日に発売され、最初の3日間で25万枚を売り上げると
1964(昭和39)年1月10日には計100万枚を突破。
1964(昭和39)年1月25日、ついに全米ヒット・チャートの1位に立った。
この曲をディランは、コロラドの山岳地帯をドライブしているときに聴いた。放送していたラジオ局のヒット・チャートは、上位10曲のうち8曲がビートルズの曲だったという。「私には彼らが音楽の未来を切り開くように思えた」と賛辞すると同時に「いったい何が起きているんだ」と驚いている。 
 ◎ビートルズとディランの出会いにまつわる伝説とは… 次のページへ
ビートルズとディランの出会いに関して、伝説と呼ばれるエピソードは多い。ディランが「I Want To Hold Your Hand」を聴いた時、歌詞の一部「I can't hide」を「I get high」と聞き違え、「こいつら絶対にマリフアナをやっている」と勘違いしたというエピソードもその一つだ。逸話のせいで、ディランは「ビートルズに最初にマリフアナを教えた人物」にされている。そのため、ドラッグ文化に縁のない日本では、ディランの好感度を引き下げているように思える。どれだけ彼の描く詩の世界が素晴らしいと強調したところで、言葉の意味がわからなければ、早口で唱えるお経や念仏を聞いているようなものだ。音楽とはいえ、言葉の壁は大きい。初対面の日、ディランはアロノヴィッツとともにウッドストックにある自宅から車に乗ってビートルズが宿泊するホテルに向かった。しかし、ロビーに入ると警備の警官に足止めを食らう。すでにアルバム4枚を発表していたディランだが、警官は彼の顔を知らなかったようだ。米国でも知名度はビートルズに比べて、まだ雲泥の差があった。ディランはビートルズからサウンド面で影響を受けたと言われる。グループを組み、本格的にエレクトリック・サウンドを採り入れた。翌年の65年8月、「Like A Rolling Stone」が収録された「追憶のハイウェイ61」を発表している。ホテルのロビーで足止めをくったディランたちは、ビートルズのローディー、マル・エヴァンスの案内で、ビートルズとエプスタインが待つスイート・ルームに入る。その後のことは写真もテープも一切記録がないとされ、関係者の証言でしか伝えられていない。ジョンは、7カ月ばかり年下のディランが意外に小さな男だったことに驚いた。「歌から察すると、なぜか背の高い男に想像していた」からだ。そして、痩せていた。それでも部屋に架かってくる電話に出ては「こちらビートルマニアです」と答え続けたディランに対し、「彼とは、ユーモアのセンスと音楽の趣味が同じだった」と好印象を持った。初対面の男たちは、マリフアナを吸うために寝室にこもった。ディランのローディーがポケットに隠し持っていた。煙が漏れて警備の警官に感づかれないために、ドアのすき間にタオルを詰めて目張りをした。ディランは吸いやすいように準備してジョンに渡した。「君が試せよ」。ジョンはそれをリンゴに渡した。リンゴは毒味役になった。そのやり取りを見たディランは、4人の中でのリンゴの立場を感じ取った。本当に初体験だったリンゴは、たばこのようにスパスパと吸って最初にクスクスと笑い出した。ポールは、エヴァンスに「紙と鉛筆をくれ、ひらめいたんだ」と何度も言った。「その夜、僕は人生の意味を見つけた気がして落ち着かなかった」。後でポケットに入っていた紙を見た。「七つのレベルがある」と書かれていた。後になって、ジョンとジョージは、「この時が初体験だった」という定説を覆す告白をしている。初対面の彼らは、音楽をつくったり語り合ったりするような創造的な雰囲気をつくりだせなかった。気まずい時を過ごすことを避け、安易に「狂ったパーティー」に走った。現在、ポールは過去のドラッグ体験を積極的に語らない。「ドラッグは深刻な問題であり、いまの時代の人たちに影響を与えたくない」とまっとうな意見を述べる。ドラッグが「軽いもの」と誤解されないように慎重な態度をとっているようだ。しかし、始まりはいかなる出会いだとしても、両者はお互いに影響を与えあう存在になっていった。 
 ◎お知らせ ⇒ 全世界で3000万枚のセールスを記録したアルバム「ザ・ビートルズ 1」が最新リマスター音源で9月2日に世界同時発売される。ザ・ビートルズが英米で1位を獲得した楽曲全27曲を全て網羅している。税込み2600円。
  ザ・ビートルズ 1 2011年09月02日 EMIミュージック・ジャパン
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 https://dot.asahi.com/1satsu/tyosya/2013110700049.html
 http://doraku.asahi.com/entertainment/beatles/110826.html
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 1965/8/27 Later that afternoon, they meet with Elvis Presley, at his Bel Air house
‡1965/8/28 2.00am. The reunion with Elvis Presley finishes
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 ┃ 『この日のビートルズ』 ┃上林 格 P.288 714円(税込) 朝日新聞出版
 ┗━━━━━━━━━━━━━┛2013(平成25)年11月7日(木) 朝日文庫発行
  人類がまだ月面着陸を夢見ていた1960年代、英国出身の4人の若者が世界を席巻した。
  ポピュラー音楽史の記録を次々と塗り替えただけではなく、
  文化、思想、生活スタイル、あらゆる分野に強烈な影響を与えた。
  語り継がれる20世紀最高のファブ・フォーの「この日」にこだわってみました。
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 |1965(昭和40)年 8月27日(金)|「アイドルに会った夜」 夜遅く初対面
 |1965(昭和40)年 8月28日(土)|「アイドルに会った夜」 午前二時まで
 |2008(平成20)年 8月27日(水)|甲虫日記更新日 No.031
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ハリウッドのベネディクト・キャニオンにある隠れ家からリムジンに乗って出発した4人は、いつになく寡黙だった。そう遠くは離れていない、ベル・エアのペルージャ・ウェイ沿いにあるエルビス・プレスリー邸を目指していた。
1965年8月27日、ビートルズはかつてあこがれの的だったアイドルと会った。初めての本格的な全米ツアーのため渡米した64年8月、電話で話したエルビスとポールは、できるだけ早い機会に会うことをお互いが約束した。
会談は、ブライアン・エプスタインとトム・パーカー大佐、マネジャー同士が連絡を取り合い、2回目の全米ツアーのオフにあたる週末にセットした。
4人に同行したローディーの1人、広報担当のトニー・バーロウはそのときの4人の緊張ぶりが忘れられない。午後11時に到着。豪邸の門が開くのを待つ間、ジョージが「のどがカラカラだよ」といい、ポールが「ファンが1人もいないぜ、警官だらけだよ」と驚いた。
グレーのパンツに目の覚めるような赤いシャツ。豪邸の主は彼なりの正装で玄関の外に立ち、ゲストを出迎えた。赤と青のライトの灯った円形のロビーを通って、音の消された巨大なカラーテレビのある応接間へと一行を招いた。
4人は落ち着かない様子でソファに座り、両手で膝頭をぎゅっと握り締めていた。「サー、彼らはいつもこんなにシャイなのか」。バー・カウンターでカクテルをつくるエルビスはトニーに耳打ちした。「4人はアルコールが好きなのか」「僕がギターを持ち出してきて、軽くロックンロールをやろうよ、といったら、あの子たちは困っちゃうかな」
エルビスは何とかして打ち解けようとあれこれ考えるが、なかなか思うようにいかず、じれったそうにしていたという。飲み物が全員に行き渡ると、ソファに座る4人の中央にエルビスが割って入った。エルビスは、ソーダ水の入ったグラスを手にしていた。
有名なメンフィス・マフィアと呼ばれる取り巻きたちはいつでも主人に駆け寄り、灰皿をきれいにしたり、グラスを替えたりしようと待機している。いつの間にかエルビスはギターを抱えていた。ネックの先で巨大なカラーテレビの前についたボタンを押し、次々とチャンネルを変えている。相変わらず音声は消されたままだ。
エルビスはジューク・ボックスに近寄り、電源を入れるとボリュームをいっぱいにあげ、6曲選び、ご機嫌な様子で4人が座っているソファに戻ってきた。
4人はぶつぶつと言い合っていた。「おい、このままここに座って、このくだらないテレビを見続けているつもりかよ。それなら家に帰って寝た方がましだぞ」
それでも音楽のおかげでようやく場の雰囲気が和んできた。4人は、固く握りしめていたこぶしの力を緩め、指でビートを刻み始める。リンゴはカクテル・スティックを手に取ると、曲のリズムに合わせてコーヒー・テーブルをたたき始めた。
奇妙なパーティーの主役5人は、言葉ではなく音楽を介してコミュニケーションを取り始めた。ジューク・ボックスが奏でるエルビスのレコード・コレクションに合わせてライブ演奏を楽しんだ。
ジョンとジョージがギター、エルビスがベース、ポールがピアノを弾いた。エルビスはリンゴのほうを向き、「メンフィスにドラムズを置いてきたのが残念」と言った。
エルビスに命じられた取り巻きが、新しいギターを抱えて次々に部屋に戻ってくる。ジョージはギターについてエルビスに熱心に質問し、トニーには時折、メーカー名と型番をメモするように頼んだ。
堅苦しさは薄れてきた。ビートルズの曲を演奏中、自分のパートをエルビスが弾くのを見ながら、ポールは「なかなかうまいじゃない。練習を続ければ、僕とエプスタインのだんなとでスターにしてみせる」とおどけた口調で言う。
ジョンは、エルビスが俳優ピーター・セラーズ好きだと知っていたので、ピーターの声色をまねて、「こうでなくちゃね、友達がいて音楽がある、こぢんまりした和やかな集まり」と言った。
5人がプレーをしている間、パーカー大佐とブライアンは茶卓に見せかけたルーレット・テーブルを開いて、賭博に興じた。
この時のジャム・セッションや会話を録音した音質が悪いテープが残っている、という有名な噂がある。だが、期待は薄そうだ。「カメラなし。録音もなし」がブライアンとパーカー大佐が決めた会談のルールだった。
トニーによれば、会話に関しては録音に値するようなものはほとんどなかったという。ただ、5人が目の前で繰り広げた貴重なジャム・セッションの模様は、後世に伝えるためにぜひとも残しておきたかった、と書き残している。
5人は、お互いのツアーでの失敗談や災難についても話した。ビートルズ一行はエルビス邸で3時間過ごし、午前2時に家を出た。ビートルズにはエルビスのアルバム・セット、金の革ベルトのついたピストル・ケース、幌馬車のような形をしたテーブル・ランプが贈られた。
だが、このスーパースター会談は「決して大成功とは言えなかった」とトニーは結論づけている。「エルビスとビートルズの会話は最後まで堅苦しく、どちらもどこか居心地が悪そうで、両者が完全に打ち解けることはついになかった」
別れ際にビートルズは、エルビスと取り巻きたちをベネディクト・キャニオンの隠れ家に誘った。エルビスは「行けるように調整してみるよ」と答えたが、エルビスは現れなかった。
リムジンに乗り込むビートルズたちに向かってポーチに立つエルビスは、「忘れるなよ、メンフィスでまた会おう」と声をかけたが、これも果たされなかった。
 ◎『この日のビートルズ』の次回は、9月9日です。この日はなんの日でしょうか? お楽しみに。
 ◎お知らせ ⇒ ビートルズ研究家マーク・ルイソンによると、1957年にクオリーメンが誕生してから66年にコンサートを中止するまで、ビートルズが演奏したレパートリーは、判明しただけで325曲ある。そのうち30曲はエルビス・プレスリーのカバーで、彼らの自作曲を除けば最も多い。ビートルズは公式レコーディングでエルビスの曲をカバーしなかったが、「ライブ!!アット・ザ・BBC」には「ザッツ・オール・ライト」など4曲が収録されている。エルビスは「サムシング」「イエスタディ」などビートルズの曲をカバーしている。
2007年10月31日  EMIミュージック・ジャパン 
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