過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日の走る投げる打つシンプルなゲーム等だヨ(=^◇^=)


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 ┃ 『津山三十人殺し 日本犯罪史上空前の惨劇』 ┃
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‡2001(平成23)年11月10日(土) 筑波昭★新潮OH文庫。定価は税別733円です。内容 ⇒ その男は30人を嬲り殺した、しかも一夜のうちに──。昭和13年春、岡山県内のある村を鮮血に染めた「津山事件」。漆黒の晩、日本刀一振と匕首二口、そして猟銃をぶら下げ襲撃を遂行し、その後、自らも果てた男の抱える闇とは何だったのか? 丹念な取材と豊富な捜査資料をもとに再現される、戦慄の惨劇。日本犯罪史に暗い影を落とす“大量殺人の記録”に迫る。不朽のノンフィクション。
 https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/r414381849
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 ┃ 津山事件 津山三十人殺し ┃
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 1938(昭和13)年05月20日(金) 午後05時頃、都井は電柱によじ登り送電線を切断、貝尾集落のみを全面的に停電させる。しかし村人たちは停電を特に不審に思わず、これについて電気の管理会社への通報や、原因の特定などを試みることはなかった。翌
 1938(昭和13)年05月21日(土) 01時40分頃、都井は行動を開始する。詰襟の学生服に軍用のゲートルと地下足袋を身に着け、頭にははちまきを締め、小型懐中電灯を両側に1本ずつ結わえつけた。首からは自転車用のナショナルランプ[3]を提げ、腰には日本刀一振りと匕首を二振り、手には改造した9連発ブローニング猟銃を持ち犯行開始・・・
 2008(平成20)年05月13日(火) 事件発生から70年後にあたる2008年『週刊朝日』5月13日号にて津山事件関係者による証言記事(記者:小宮山明希)が掲載された。その記事内で匿名でのインタビューに応じた90代の老人によると、都井は村が停電になった時によく修理を頼まれていた。また、事件が発生したその日のうちに「昭和の鬼熊事件」と題した号外が出たと述べている[5]。当時村に残っていたとされている夜這いの風習については否定している[5]。なお、この証言については司法省刑事局による「津山事件報告書」[6]と食い違う部分がある。
 2008(平成20)年07月21日(月) テレビ朝日『スーパーモーニング』内のコーナー「時空ミステリー」で、「八つ墓村70年目の真実」として事件の特集が組まれている。取材を受けた村民は、夜這いの風習が当時はあったと証言、容疑者も数々の女性と性的関係を持っていたと証言した。容疑者は当時幼なじみと婚約していたが、肺結核に感染した容疑者との結婚を周囲に反対され、2人は破局、女性は別の男性と結婚した。容疑者はそのことから犯行に及んだ可能性があり、肺結核に対する自身への悪口を言った村人を順に殺害したといわれている。しかし、容疑者は幼なじみの女性をわざと手にかけなかったと当時は噂された。その女性は事件後に貝尾を離れ、他の集落に転居した。2014年の時点で生存が確認されており、2020年現在は生誕100年を超えているが、被害者の一人であるにもかかわらず周囲からは「被害を作った張本人」と見なされ、70年経っても地域社会から孤立していた
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6
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 西日本の「物流大動脈」山陽線の特殊な事情 急曲線と急勾配で貨物大量輸送に不向き
‡2018(平成30)年11月10日(土) 04:50 梅原淳:鉄道ジャーナリスト
 写真◆山陽線の八本松―瀬野間が急勾配のため前後の区間は貨物列車の最後尾に補助機関車を連結する(写真:T.Tsuchiya / PIXTA)
 「平成30年7月豪雨」によって不通区間が生じていたJR西日本山陽線は、
 2018(平成30)年09月30日(日)に広島県の三原駅と白市(しらいち)駅との間の30.6kmが復旧し、列車の運転が再開された。この結果、JR西日本が第一種鉄道事業を実施する山陽線は神戸―下関間528.1kmを通して列車の運転が可能となっている――。と思ったら、
 2018(平成30)年09月09日(日)に豪雨災害から復旧したばかりの山口県の柳井駅と下松(くだまつ)駅との間27.7kmが台風24号の影響で
 2018(平成30)年09月30日(日)から再度不通となり、約半月後の
 2018(平成30)年10月13日(土)にようやく復旧を果たした。
■重要路線なのに課題が多い山陽線 ⇒ 山陽線には課題が多い。多数の旅客列車、貨物列車が運転され、人や物の流れのうえで極めて重要な路線である割に線路は大変お粗末で、高速での運転や大量輸送に向かない区間が多々存在するからだ。その傾向は三原―海田市(かいたいち)間65.0kmで顕著になる。高速での運転のためには、列車の速度に制限を課さないよう、できる限り曲線半径を緩くしたい。新幹線それも山陽新幹線以降開業のような半径4000m以上は在来線では無理ながら、JRの主要な幹線では半径600m以上というのが一応の基準値となっている。半径600mでの制限速度は、電車やディーゼル動車が用いられる高性能列車であれば時速90km、高性能列車以外の一般列車であれば時速85kmだ。振子車両であれば制限速度はさらに向上し、たとえば名古屋―長野間の特急「しなの」に投入されているJR東海の383系特急形直流電車であればこのカーブを時速120kmで通過できる。乗り心地や線路の保守の手間などは別として、最高速度が時速130kmの383系電車にとって半径600mの曲線はもはや直線並みと言ってよい。山陽線三原―海田市間の場合、本線上に存在する最小曲線半径は300mだ。数も多く、筆者の計測では22カ所に達するうえ、うち半数の11カ所は急勾配区間でもある八本松(はちほんまつ)―瀬野間10.6kmに集中している。半径300mの区間での制限速度は高性能列車で時速65km、一般列車で時速60kmにすぎない。先ほどの383系電車はさすがに時速90kmで走行可能だが、曲線区間での運転に関しては国内で最高の性能をもつ383系でさえ、最高速度の時速130kmとの速度差は時速40km分も生じてしまう。
 →次ページ大量輸送には勾配の緩さも必要
 さて、大量輸送にはできる限り勾配を緩くしたい。JRの主要幹線では最も急な勾配を10パーミル(水平に1000m進んだときの標高差が10mであることを示す)以下とするというのが一応の基準だ。旅客列車については列車そのものの質量が小さく、なおかつ勾配に強い電車が主流となったためにあまり問題とされない。現実に新幹線には35パーミルの勾配区間も存在する。しかし、貨物列車は質量が大きく、機関車の引張力には限りがあるので、10パーミルを超える上り勾配はやはり避けたい。近年は機関車の性能が向上したので、走行自体はおおむね可能だが、均衡速度といってこれ以上出すことのできない速度が時速20~30km台と非現実的なほど遅くなってしまう。したがって、貨物列車の質量を減らすか、機関車の数を増やすかのどちらかで対処することとなる。貨物列車のうち、輸送力の特に大きな列車とは、貨物と貨車とを合わせた質量が1000tを超える列車で、コンテナ列車であれば1300tが、石油タンク列車であれば1380tがそれぞれ最大だ。これらの貨物列車は一部の例外を除いて上り勾配が10パーミル以下の区間でしか運転されていない。
■山陽線の「例外的」な急勾配 ⇒ その一部の例外こそが山陽線だ。2区間あり、一つは三原―海田市間に含まれる八本松―瀬野間で勾配は最急22.6パーミル、平均で22.5パーミル、もう一つはJR九州が第一種鉄道事業を実施する下関―門司間6.3kmの関門トンネル内で最急、平均とも20パーミルとなる。山陽線で1300tのコンテナ列車を牽引するEF210形直流電気機関車の場合、10パーミルの勾配区間での均衡速度は時速66kmだ。しかし、八本松―瀬野間ではそのままでは均衡速度は半分以下に落ちてしまう。補助機関車のEF67形またはEF210形の直流電気機関車1両を補助機関車として連結することで、この区間での均衡速度は時速75kmまで向上する。現実には同時に存在する半径300mの曲線区間での速度制限が加えられるために最高速度は時速60kmに抑えられているのだが。八本松―瀬野間では上り線となる瀬野駅から八本松駅までの間が上り勾配となるため、その前後の区間となる広島貨物ターミナル駅から西条駅までの間の30.2kmで貨物列車の最後尾に補助機関車の連結を行う。なお、八本松―瀬野間では600t以下の貨物列車であれば補助機関車の連結は不要だ。しかし、そのようなコンテナ列車は設定されていないし、閑散期でコンテナがあまり搭載されていないときもあるとはいえ、1300tのコンテナ列車の場合、連結された26両の貨車だけで質量は約490tとなる。このとき、5tのコンテナを22個、つまり4両分全部と1両のうち2個積むと600tに達してしまうから、補助機関車は事実上すべての貨物列車に必要であると言ってよい。いっぽう、下関―門司間では2車体をもち、他の区間で用いられている機関車よりも出力の大きいEH500形交直流電気機関車に交換して対処する。関門トンネルの急勾配区間は戦時中の突貫工事の名残で、九州内で産出された石炭を本州に運ぶため、運転への苦労よりも完成を優先させたのだ。なお、門司駅の構内には架線を流れる電気の種類が変わる境界があり、関門トンネル内は直流で、九州内は交流でそれぞれ電化されている。このため、山陽線神戸―下関間で用いられていた直流電気機関車ではどのみち走行できず、急勾配に加えて交流電化区間にも対応した電気機関車への交換は、八本松―瀬野間ほど余計な手間には感じられない。
 →次ページ高速運転にも大量輸送にも適さない
 https://toyokeizai.net/articles/-/248156?page=2
 急曲線と急勾配とにより、山陽線三原―海田市間、特に八本松―瀬野間は、高速での運転にも、大量輸送にも適していない。最大1300tのコンテナ列車が運転されているので大量輸送は成し遂げられているが、この目的を達成するためにJR貨物は専用の電気機関車を14両用意し、定期運転では29本のコンテナ貨物列車に対して補助機関車として使用する。補助機関車は広島貨物ターミナル駅から西条駅までを走れば仕事が終わりというものではない。再度補助機関車として使用するために広島貨物ターミナル駅まで戻す必要があり、機関車だけで走る単機列車が定期運転で同じく29本設定されている。西条駅から広島貨物ターミナル駅までの間では多数の旅客列車、貨物列車が運転されているなか、さらに29本の列車を走らせなくてはならないので、複々線の海田市―広島貨物ターミナル間はともかく、西条―海田市間では旅客列車の増発が時間帯によっては難しくなっている。ちなみに、東海道線の膳所(ぜぜ)―京都間が戦時中の
 1944(昭和19)年11月29日(水)に複線から線路が1本増設されたのも補助機関車の連結を行っていたからだ。当時京都駅から膳所駅までの間で使用されていた補助機関車を単機列車として京都駅に戻していた結果、膳所駅から京都駅までの線路に列車を増やす余裕がなくなってしまったのである。
■問題は古くから指摘されていた ⇒ 山陽線の問題はいまになって表れたのではない。すでに高度経済成長期からも問題になっていた。1960年代前半に国鉄本社の新幹線局調査室調査役を務めていた池原武一郎氏は当時の山陽本線の状況について次のように嘆く。「要するに山陽本線は輸送量の増大に応じて或いは軌道の強化・信号の自動化・車両の軽量化など、路盤より上の部分に対する近代化が進められたが、地形上の制約から勾配・曲線など、線路自体の近代化がはばまれてきたわけである。」(池原武一郎、「山陽新幹線の必要性」、「交通技術」1964年10月号、交通協力会、18ページ)池原氏が言う山陽線の線路の近代化は急曲線や急勾配の解消によって成し遂げられる。悪条件のそろった三原―海田市間では部分的な改良工事ではとても無理で、新線への切り替えが必須だ。事実、JR西日本は
 1990(平成二)年06月26日(火)に三原―本郷間の一部を新線に切り替えて半径420mの曲線2カ所が姿を消すとともにキロ程も0.6km短縮され、三原―本郷間は10.1kmから9.6kmとなった。他の区間、特に八本松―瀬野間は早急に新線に切り替えたいところだが、現在に至るまで実現していない。その最大の理由は経済性によるもの、つまり多額の費用を投入して新線を敷設しても見合った効果が得られないからだ。結論から言うと、八本松―瀬野間の急曲線や急勾配を緩和した新線に切り替えたとしても、得られる効果は貨物列車に対する補助機関車連結の廃止にほぼ限られてしまうので、ならば現状のままとなっている。
 →次ページ八本松―瀬野間が新線にできない理由
 新線への切り替えにより、旅客列車のスピードアップという効果ももちろん獲得可能だ。しかし、山陽線の列車の高速化という目標は、新大阪―博多間で総工事費8236億円を要した山陽新幹線の整備によって達成された。この区間で運転されている定期運転の旅客列車は普通列車だけであり、旅客運輸収入の少ない普通列車では新線の建設費を回収できないと見込まれているのだ。新線に切り替えるには他の理由も挙げられる。先に例に出した三原―本郷間の場合、三原駅付近の連続立体交差化という目的も果たせたために新線への切り替えが実現した。自然災害に頻繁に遭遇するというのも大きな理由となる。JR四国の土讃線阿波池田―土佐山田間67.4kmでは地滑りや土砂崩壊が頻発したため、阿波川口―小歩危(こぼけ)間、大歩危(おおぼけ)―土佐岩原間、大田口―土佐穴内間、土佐岩原―豊永間、大杉―土佐北川間の5区間で新線への切り替えが実施された。しかも、大歩危―土佐岩原間、大杉―土佐北川間では異なる2カ所で新線への切り替えが行われたほどである。
◎八本松―瀬野間の場合、連続立体交差化が必要なほど沿線の都市化は進展していないし、幸いにもと言ってよいのだが、
 平成30(2008)年7月豪雨で大きな被害が生じるまで自然災害をあまり受けないでいた。したがって、新線へと切り替える動機にはならない。
■新線は「不経済」になりうる ⇒ 仮に急曲線や勾配を緩和した新線に切り替えても、線路を維持するための費用はかえって増えると予想される点も、改良が進まない有力な理由の一つとして挙げられる。せっかくの新線がなぜ不経済なのかというと、勾配の緩和に伴って線路の長さが従来よりも延び、その分列車の運転費であるとか、線路の維持費である線路保存費が増加するからだ。この点については、
 1968(昭和43)年10月01日(火)までに成し遂げられた当時の東北本線の複線化工事に伴って実施された急勾配緩和の工事の模様が参考になる。国鉄は1965(昭和40)年ごろ、いまはIGRいわて銀河鉄道いわて銀河鉄道線となっているいわて沼宮内(当時の駅名は沼宮内)―一戸間32.5kmを複線化するに当たり、この区間に存在する25パーミルの急勾配を緩和すべきかどうか、緩和するのであればどのように緩和すべきかを経済比較と銘打って試算した。前提として挙げておきたいのは、この時点で同区間内の御堂―奥中山高原(当時の駅名は奥中山)間7.1kmはすでに複線であったという点である。複線化に当たり、従来の線路の横に腹付けして増設する方式の試算ではこの7.1km分を複線にするための投資額は不要だ。反対に勾配を改良して線路を増設するという新線への切り替えでは、1956年10月8日に完成したばかりの複線への投資が無駄になる。
 →次ページ国鉄の試算の結果は?
 最も経済的であったのは25パーミルの急勾配区間を残して複線化を図り、貨物列車の質量は1000tに抑えるという内容である。線路などの施設や車両への投資額が38億8500万円と最も少額と見込まれたのは当然のこと、年間の運転費や線路保存費まで最少となった。理想を言えば、急勾配を10パーミルに緩和して補助機関車の連結を中止し、なおかつ大輸送力列車の運転を行うというのが最もよい。だが、投資額が104億2700万円と最も多額に上るのはよいとして、年間の経費が11億3900万円と、25パーミルで貨物列車の質量を1000tとしたときと比べて3億1700万円も余計に要する11億3900万円では勝負は明白だ。かくして今日のいわて沼宮内―一戸間では、関門トンネルと同じEH500形交直流電気機関車が質量1000tに抑えられた貨物列車のけん引に従事している。付け加えて言うと、いわて沼宮内―一戸間で最も急な曲線半径は400mで、
 八本松―瀬野間と比べて恵まれている点も新線への切り替えが実施されなかった理由の一つと考えてよい。半径400mの曲線であれば制限速度は高性能列車は時速75km、一般列車で時速70km、ついでに振子車両の383系電車で時速95kmだ。半径600mが望ましいが、半径400mでも極端な速度の低下はないと見なされたのであろう。
■急曲線も解決すべきだが… ⇒ ところで、曲線区間の線路保存費は半径が小さくなるほど、つまり急カーブになるほど増えるので、
 八本松―瀬野間を新線に切り替える検討材料の一つとなる。とはいえ、この区間を10パーミルの勾配の新線に切り替えると、筆者の試算でキロ程は20.3kmと、現状の10.6kmに対して9.7km増える。表では勾配を10パーミルに改良した場合、施設だけの投資額は1km当たり2億300万円だ。この金額を企業物価指数(国内物価指数)で2017年の価格に換算すると4億700万円となり、20.3km分の総事業費は82億6200万円と見込まれる。JR西日本の2015年度における営業キロ1km当たりの線路保存費は1963万円であった。半径300mの急曲線に起因して線路保存費がこの平均値よりどれだけ高額となるかは不明だ。仮に1.5倍の2944万円だとしよう。差額となる981万円の20.3km分の1億9914万円で、いま挙げた82億6200万円がどのくらいの期間でつり合うかを計算すると41年5カ月余りとなった。この程度の期間であれば別に新線への切り替えは不利とならない。もちろん、いま挙げた数値はあくまでも机上の計算であるからこそ、新線への切り替えは実施されないのであろう。かくして41年後も八本松―瀬野間を行く上りの貨物列車には補助機関車が連結されている可能性が濃厚だ。
 https://toyokeizai.net/articles/-/248156

 両陛下、赤坂御所をご出発 
‡2019(令和元)年11月10日(日) 14:10 産経新聞
 天皇、皇后両陛下は10日午後2時ごろ、皇居・宮殿から約4・6キロにわたってパレードする国事行為「祝賀御列(おんれつ)の儀」に臨むため、お住まいの赤坂御所を出発された。
 祝賀御列の儀は同日午後3時ごろスタート。皇居・宮殿から二重橋前交差点、祝田橋交差点、警視庁前、青山通りを経由し、赤坂御所までの約4・6キロを約30分かけてパレードする。両陛下は、この日のために新調されたトヨタ・センチュリーのオープンカーから、沿道の声に応えられる。
 パレードは当初「即位の礼」の中心儀式「即位礼正殿(せいでん)の儀」などと合わせて10月22日に行われる予定だったが、台風19号などの甚大な被害を考慮して延期されていた。
  脱走カワセミ、保護の決め手は笑い声
  公開授業で、参加者が見守る中、授業を受ける生徒=東大阪市菱江の大阪朝鮮高級学校で 
  無償化対象外の朝鮮学校が公開授業
 http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e4%b8%a1%e9%99%9b%e4%b8%8b%e3%80%81%e8%b5%a4%e5%9d%82%e5%be%a1%e6%89%80%e3%82%92%e3%81%94%e5%87%ba%e7%99%ba/ar-BBWwnJ9?ocid=ientp
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 ┃ 今日は何の日? ┃名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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 2014(平成26)年11月10日(月) 高倉健さん死去 ⇒『網走番外地』シリーズや『幸福の黄色いハンカチ』など多数の映画に出演、戦後日本を代表するスター俳優として活躍し、文化勲章を受けた高倉健さんが亡くなった。83歳。陰影に富んだ演技で古風な男性像を体現した。写真は2013年に文化勲章を受章した高倉さん【時事通信社】
 1982(昭和57)年11月10日(水) 中央自動車道が全線開通
 2012(平成24)年11月10日(土) 国民栄誉賞を受けた女優の森光子さんが92歳で死去
 https://www.jiji.com/jc/daily
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 ┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡1950(昭和25)年11月10日(金) 水爆打線の松竹がセ初代王者に
‡2017(平成29)年11月10日(金) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は11月10日だ。 
 写真◆優勝セレモニーにて。前列左が小西監督
 1950(昭和25)年、2リーグ制初年度のセ・リーグの王者となったのが、松竹ロビンスだった。このチームは49年オフ、大陽ロビンスを映画会社の松竹が買収して誕生した球団だ。ちなみに「大陽」は間違いではない。47年までは「太陽」だったのだが、成績が低迷した時期、オーナーの田村駒治郎が「点があるから黒星がつくんだ!」と言って取らせたという。この逸話でも分かるように、かなり個性的なワンマンオーナーであった。 
 買収後、松竹は、豊富な資金力を背景に補強を進めた。特に同じ映画会社というのもあるのか、大映スターズをターゲットにし、ケンカでは球史最強と言われる大岡虎雄、さらに元中日球団代表・赤嶺昌志に心酔し、ともに球団を渡り歩いていた、いわゆる「赤嶺一派」の選手で、“和製ディマジオ”と言われた小鶴誠、俊足で鳴らした金山次郎らを引き入れた。 
 一番に金山、三番に小鶴、四番に前年から在籍していた怪力バッター、岩本義行、五番に大岡を置いた打線は開幕から猛威を振るい、かなり物騒なネーミングだが、“水爆打線”とも言われて、一世を風靡することになる。 
 監督は、のちNHKの野球解説者として人気者になる小西得郎だ。1リーグ時代は大東京、名古屋で監督経験がある理論家だが、終戦直後は闇屋の親分ともつながりがあったクセ者でもある。 
‡1950(昭和25)年11月10日(金)は、この松竹がセの初代王者となった日だ。  
 後楽園のダブルヘッダー第1戦で西日本パイレーツを9対0で破り、優勝決定。先発の真田重男は完封で39勝目を挙げている。西日本は福岡を本拠として誕生したが、翌年からパの西鉄と合併し消滅する球団でもある。 
 最終的には2位・中日に9ゲーム差をつけ、勝ち星はいまなおセ最多98勝を積み上げた。 
 なお、金山は74盗塁で盗塁王、小鶴は当時の記録51本塁打、161打点で本塁打王、打点王。打率も.355だ。岩本は39本塁打、127打点、大岡は34本塁打、109打点をマークしているが、さらにすごいのは、この年、38歳の岩本がトリプルスリーを達成していることだろう。実は大岡も同年齢なのだが、いまのようにトレーニング理論が普及した時代でも難しいことを、サプリメントもウエート・トレも知らないオッサンが成し遂げたのだ。 
 ただ、案の定というべきか、日本シリーズ後、チームは早くも分裂。嫌気がさした小西監督は、1年で退団している。
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171110-14
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 ┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.606 ┃  70円
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‡1969(昭和44)年11月10日(月)号 野村克也はなぜ南海監督就任を渋ったのか
 2019(令和元)年12月09日(月) 10:14 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 
◎近鉄・三原脩監督の負け惜しみ?
 写真◆表紙は左が巨人・王貞治、右が阪急・長池徳二
 今回は『1969年11月10日号』。定価は70円。 
 日本シリーズは巨人、阪急の対戦となり、この時点では1勝1敗。当時の世間がどうなっていたかは分からないが、八百長事件については、大きく取り上げておらず、この号のつくりだけを見ると、永易将之の処分で、すべて終わったかのような雰囲気になっている。 
 ペナントレース終わり、パでは西鉄・中西太監督、南海・飯田徳治監督が退任した。 
 西鉄では中西が退任時に推薦した稲尾和久が新監督候補に挙げられていた。稲尾は満更ではないようだが、球団では時期尚早の声が多かった。前述のとおり、八百長事件はもう終わったかのような雰囲気の中の話ではある。 
 一方、南海は「野村克也しかいない」と球団が結論を出した。しかし、野村は、 
「来年は四番打者として、もう一度タイトルを狙ってみたい。四番、捕手、そして監督までやったら神経がよれよれになってしまう。監督一本でいきたいんや。プロ野球の監督は一度は経験してみたいと思っているが、いまはまだ早すぎるんや」 
 と話していた。 
 野村が監督を渋っていたのは、現役に集中したいからだけではなく、以前からの球団不信もあったようだ。 
「ホークスは誰よりも好きなんやけど、野球会社のほうは大嫌いやで。なんで、もっとすっきりしないんだろうな」 
 が口癖だった。 
 阪急とデッドヒートを演じながら初優勝を逃した近鉄。前半戦は奇策もあった三原脩監督だが、後半戦になって正攻法に徹し、そして、敗れた。理由を尋ねると、こう答えている。 
「いま、私がこういうことを言うと、負け惜しみと受け取られるでしょうが、正直いって後半戦に挑むとき、私は今年は優勝すべきでないと思ったのです。いや、負けようとしたのではありませんよ。無理をして優勝することは将来のチームづくりにマイナスになる。前半戦の快進撃で球団も選手もプロ野球というものを甘く見た。たいした努力もせず、やり方さえうまくやれば勝てる。こう思ってしまった感じがある。これではいけない。このままだと大洋の二の舞になると判断したのです」 
 すごい負け惜しみに聞こえるが、皆さんはどうだろう。 
 では、またあした。<次回に続く>
 備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20191208-01
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
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