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┃ アルシオーネ ALCYONE ┃
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1985(昭和60)年01月XX日(X) アメリカ「デトロイト・ショー」で北米デビュー
‡1985(昭和60)年06月08日(土) 日本発売開始。「4WDアヴァンギャルド」
1985(昭和60)年10月XX日(X) 第26回「東京モーターショー」に2.7L水平対向6気筒エンジン搭載「ACX-II」を参考出品
1986(昭和61)年03月XX日(X) VSターボオートマチック追加
1987(昭和62)年07月04日(土) 2.7L水平対向6気筒エンジン搭載「2.7VX」追加。アルシオーネ・シリーズ マイナーチェンジ
1989(平成元)年08月XX日(X) 2.7VXに新色「ブラックマイカ」追加他、ボディカラーのBC/BF型レガシィとの共用化。受注生産に。
1991(平成三)年09月18日(水) アルシオーネSVX発売(モデルチェンジ)
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%8D
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ソ連軍進駐の大連。「電気屋です。修理させて」。ソ連人の家を訪ね回り、残飯をもらった。街は無法状態。冬は寒かった。鉄線で電気ストーブをつくって寝た〈証言 語り継ぐ戦争〉
‡2020(令和二)年6月8日(月)付掲載 南日本新聞
2020(令和二)年9月15日(火) 17:00配信
写真◆大連時代の思い出を語る池田國治さん=霧島市隼人
■池田 國治さん(89)霧島市隼人
【写真】大連の海岸で、満州電業の仲間と写真に納まる池田國治さん(前列左から2番目)。1945年夏とみられる(本人提供)
戦時中の私の記憶に残る歌がある。「万世一系たぐいなき すめらみことを仰ぎつつ(中略)荒地開きて 敷島の 大和魂 植うるこそ」―。隼人の宮内国民学校高等科2年を卒業したばかり、14歳だった私は1945年3月28日、同級生10人くらいと隼人駅から汽車に乗り込んだ。向かった先は茨城県内原(うちはら)(現・水戸市)の「満州鉱工青少年技術生訓練所」。ゲートルを巻き、戦闘帽子をかぶり、ほふく前進を繰り返す日々。満州に渡る直前の若者を鍛えるこの訓練所で覚えたのが、冒頭の歌だった。食前には、天皇陛下と親の恩に感謝して、「箸とらば 雨(あめ)土(つち)御代(みよ)の御(おん)恵み 君と親とのご恩味わえ いただきます」と唱えた。3カ月ほどをここで過ごし、山口県の仙崎港から船で釜山へ渡り、満州鉄道から分離独立した日満合弁の満州電業に入社した。本社があった満州首都の新京(現・長春)に、同期数十人と1カ月程度いた後、大連の社員養成所へ移った。 大連に着いたのは8月初め。既に日本は負けると思っていた。「きょうは重大放送がある」と知らされても、諦めの気持ちだった。戦争が終わるとすぐソ連軍の進駐が始まった。日本人と中国人の立場は逆転した。満州全土の電力業務を担っていた会社は中国側に引き渡されたが、私たちはそのまま残り、養成所の寮で暮らしながら、大人の従業員の仕事を手伝って糊口(ここう)をしのいだ。 会社から支給される食事は1日1回のコーリャンだけ。そこでソ連の言葉で「私は電気屋です。修理させてください。ご飯を食べさせてください」と言いながらソ連人が住む家を訪ね回り、台所の残飯をもらった。この時、意味も分からずに教えられるまま「カピタン」という単語を交えて呼び掛けていた。その意味が「大佐」と分かったのは、ほんの数年前のことだ。当時はまだ子どもで男だったし、襲われることはなかったが、街は荒れていた。警察は消えて、無法状態。路上で行き倒れた人も、ずっとほったらかしにされていた。大連の冬は寒かった。寮で直径3ミリの黒い鉄線をぐるぐる巻きにして即席の電気ストーブを作り、2枚の布団の端同士を縫い合わせて筒状にした中に友達と潜り込んでくっついて寝た。引き揚げ命令は突然だった。
1947(昭和22)年1月2日(木)、電気修理の手伝いで街に出ていたら呼び戻され、そのまま船に乗せられた。日露の日本海海戦でバルチック艦隊を見つけ「敵艦見ゆ」と電報を打った、あの信濃丸だ。復員輸送船に使われていた。長崎に着き、列車を乗り継いで隼人駅に着いたのは
1947(昭和22)年1月18日(土)。故郷の家族に連絡する手段もなく、誰にも伝えていなかった。鹿児島神宮近くの家に向かう途中で会った知人が知らせに行ってくれたのだろう。向こうから母親が走ってくるのが見えた。台所を飛び出してきたのか、手に包丁と野菜を持ったまま、あぜ道の真ん中で「こげなこっが…。たまがっせえ」と息を弾ませていた。後ろから姉たちも次々に現れた。 それから自動車修理工として働きながら、親機が電波を受信し有線で各家庭の子機に流す「親子ラジオ」の設置を隼人地域で始めた。23歳で結婚し、隼人駅前で電器店を開業。テレビが本格的に普及し始めると、面白いように売れた。戦後、大連に10回以上、足を運んだ。どんどん変わっていった。14歳から15歳の約1年半しか過ごしていないが、苦労しただけに終生忘れられない場所だ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/aed619fe05fabb5528cac17e2c570ea464d47238
TBS「昼の顔」恵俊彰に意外な“コワモテ”な顔も 長渕剛に憧れる「マッチョ」な志向
2020(令和二)年06月24日(水) 11:30
写真◆AERA dot. 提供 穏やかな笑顔の裏に「マッチョ」な一面も秘める恵俊彰(C)朝日新聞社
コロナ禍を挟んで、東出昌大、渡部建の二大不倫騒動と大ネタが続き、今年もワイドショーは元気だ。なかでも平日昼枠において、安定した人気を誇っているのが、恵俊彰司会の「ひるおび!」(TBS系)である。2011年あたりから、この時間帯における視聴率トップをほぼ独走。かつてTBSのこの枠が業界用語でいうゴミ箱(数字がとれない時間帯)だったことを思うと、隔世の感がある。本題に入る前に、その苦難の歴史(1985~2000年)を番組名で振り返ってみよう。「コント山口君と竹田君のおじゃまします」「新伍のお待ちどおさま」「ぴりっとタケロー」「悠々!お昼です」「吉村明宏のクイズランチ」「素敵な気分De!」「わいど!ウォッチャー」「山田邦子のしあわせにしてよ」「ちょっと言わせて」「黄金のレシピ」「宮本和知の熱血!昼休み」「おサイフいっぱいクイズ! QQQのQ」「マダムんむん」「スーパー知恵MON」……。番組名を羅列しただけでも、その迷走ぶりが伝わってくる。ちなみに、この期間は「笑っていいとも!」(フジテレビ系)が昼の顔として君臨。バラエティーでは勝ち目がなかったが、1996年に「TBSオウムビデオ問題」を認めたことにより、同局はワイドショーからも撤退することになる。2000年からは、福留功男の「ベストタイム」で巻き返しを図ったものの、V字回復とはいかなかった。そんななか、04年に「(特)情報とってもインサイト」がスタートする。TBSにとって8年ぶりのワイドショー復活であり、この司会に起用されたのが恵だ。同局はその後も福澤朗に「ピンポン!」をやらせるなど試行錯誤を続けたが、恵は後番組の「きょう発プラス!」や別枠の「2時っチャオ!」でも結果を残した。そして、09年春、ついに「ひるおび!」が始まるのである。この番組も当初はそれほどでもなかったが、転機となったのは11年。東日本大震災による報道への関心アップと「ヒルナンデス!」(日本テレビ系)スタートによる「いいとも」とのバラエティー同士のつぶし合いが追い風になった。ただ、長期安定の理由はもちろんそれだけではない。司会を務める恵の功績は見逃せないだろう。ではなぜ、彼がTBSの昼枠を立て直すことができたのか。鍵となるワードというか、人物は「長渕剛」だ。じつは恵、鹿児島市出身で、長渕と同じ公立中学に通った。恵はこの大先輩に憧れ、コンサートにも行ったという。その心酔ぶりを「ダウンタウンDX」(日本テレビ系)で語ったときには、浜田雅功から「おまえ、痛いやっちゃな(笑)」などとあきれられていた。しかし、本気で誰かに憧れることの効果はバカにできない。たとえば、野球界において、長嶋茂雄のマネばかりしていた中畑清がそれなりに長嶋っぽい人気選手になれたように、恵にも長渕イズムのようなものが刷り込まれ、それが成功へと導いていくのだ。そのひとつが「肉体改造」である。長渕は虚弱な子供で、少年期にはガリガリの体をプールで女子に笑われるなど、悔しい思いを味わった。それがのちの筋トレによるマッチョ化につながるわけで、似たコースをたどった作家の三島由紀夫同様、思想的にも右傾化していった。恵の場合は、肥満からのダイエットだ。ホンジャマカで世に出たときは石塚英彦が「大デブ」だったのに対し「小デブ」と呼ばれていたが、約20キロ痩せることで現在の体形になった。この変化が、キャラ立ちももたらすわけだ。そして、もうひとつが「他ジャンルへの進出」である。長渕は役者もこなすことでカリスマ性を高めたが、恵もまた、司会をやることで幅を広げた。グルメタレントとして売れっ子になった石塚との住み分けという意味もあったのだろう。ただ、適性に加え、努力もしたのだと思う。そんな恵の司会スタイルに影響を与えたのが、関口宏。なにしろ「東京フレンドパークII」(TBS系)では17年にわたって共演した。ホンジャマカとして着ぐるみでハイパーホッケーをしたりしながら、彼はその司会ぶりを見ていたのである。たとえば、恵は関口がちょくちょくゲストの名前を忘れるため「あなた」と呼ぶことで切り抜けていた話をしたことがある。そんなある意味、いいかげん(良い加減)なスタンスが意外と有効なことにも気づかされたのだろう。実際、関口は長年「サンデーモーニング」(TBS系)という一大帝国を築いているのだ。関口の同番組における長期安定ぶりはじつに33年、自分の事務所のタレントを次々とレギュラーに送り込むなど、豪腕なところも見せている。一見ソフトで、意外とコワモテという二面性も、両者に共通する特徴だろう。ただ、恵のコワモテっぽさはわかりにくい。前面に出さないよう、気をつけてもいるのだろう。それが一瞬、垣間見えたのが、
2020(令和二)年04月30日(木)のふかわりょうとのやりとりだった。その発端はコロナ報道について、ふかわがこんな疑問を投げかけたことだ。「こういう形で出演しながら葛藤のようなものがあるのは、人々の余裕を奪っている一因に、朝から晩までスマホやテレビをつければコロナのことを扱っている。(略)たとえばこの『ひるおび!』がこのコロナを扱わなくなるときが来るとしたら、それはどういう状況なのかというのをちょっと伺いたいなと」これに対し、恵はコロナばかりやっている番組への批判だと勘違いしたのだろうか。最初は冷静だったが、しだいに気色ばみ、やや憮然としながら、「東日本大震災が起きたときに、この国どうなるんだろうなと思ったけれども、スポーツで立ち上がったり、ボランティアで立ち上がったり、動きだしたから。今、集まることもできないのよ!(略)ごめんね、毎日毎日ふかわくんにしてみりゃつらいかもしんないけどさ、24時間。でも我々としては我々なりにやれることをやりたいのよ!」と、いつもより高い声でまくしたてたのである。たじろいたふかわはさらに説明を試みたものの、ぎくしゃくした空気のまま、CMに切り替わった。なお、恵とふかわは同じ事務所の先輩後輩だが、タイプは対照的だ。3浪して大学進学(早大志望だったらしい)を諦めた恵に対し、ふかわは慶應大卒。出身地も、鹿児島と横浜である。そのあたりも、このやりとりに関係したのかもしれない。ただ、このときの恵はまさに長渕イズムを感じさせた。というのも、コロナ禍のような状況においては「戦う」というのがその主義者のとるべきスタンスだからだ。たとえば、
‡2020(令和二)年06月08日(月)の「スッキリ」(日本テレビ系)で長渕は新曲を紹介しながら「コロナなんかにね、負けてたまるか」と熱く語った。また、東日本大震災のときには「復興」と題した文章に「自然が憎い」「地球よ 貴様が狂っている」「私たち人間の力をみくびると ただではおかない」などとつづっていたものだ。これには当時、違和感も覚えたが、その後、長渕が航空自衛隊松島基地で行った慰問ライブのニュースを見て、考えが少し変わった。沖縄から被災地に来たという隊員が「今日の出来事で自分が出来る極限が伸びた感じがします」と喜んでいたのだ。こうした戦うスタンスに励まされる人もいるのである。恵についても、こういう長渕イズムが根っこにあり、そこに好意を抱く視聴者が一定数いるのだろう。もちろん、これを全開にしてしまうと離れる視聴者も少なくない。「ひるおび!」と「バイキング」(フジテレビ系)の違いはそういうところだったりもする。あくまでふだんはソフトに振る舞い、たまにコワモテを見せるのがいいのだ。このバランスが、昼のワイドショーには合っている。争いはあまり好まないが、ときにはキレたいという日本人の気質にもちょうどいいのかもしれない。
●宝泉薫(ほうせん・かおる)/1964年生まれ。早稲田大学第一文学部除籍後、ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』発行人を経て『週刊明星』『宝島30』『テレビブロス』などに執筆する。著書に『平成の死 追悼は生きる糧』『平成「一発屋」見聞録』『文春ムック あのアイドルがなぜヌードに』など
https://news.yahoo.co.jp/articles/62dec4846a494c433888bbbb5b7f37867b8f88b8
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┃ コロナ NEWS 2020 ┃
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ファミレスのジョイフル、200店舗閉鎖へ コロナで業績悪化
2020(令和二)年06月08日(月) 10:51配信 毎日新聞
西日本を中心にファミリーレストランを展開するジョイフル(大分市)は8日、全国の不採算店約200店を7月以降順次閉店すると発表した。新型コロナウイルス感染拡大による外出自粛の影響で業績が悪化していた。同社は8日時点で九州など全国で713店舗を展開しているが、新型コロナの影響で、売り上げは4、5月の2カ月連続で前年同月比5割以上落ち込んでいた。閉店計画の影響額を算定して業績予想を出すことにしている。同社は「コロナ禍で外食産業を取り巻く環境が変化することが見込まれる。収益改善が見込めない店舗の退店を柱とする経営合理策を実施する」としている。新型コロナによる外食離れは大手チェーンも直撃しており、ファミレス業界ではロイヤルホールディングスが、「ロイヤルホスト」など約70店を2021年末までに閉店する方針。居酒屋チェーンのワタミや、回転ずしチェーン「かっぱ寿司」などを展開するコロワイドもそれぞれ不採算店舗の閉店を発表している。【浅野孝仁】
写真◆ファミリーレストラン「ジョイフル」=江刺弘子撮影
【関連記事】
<別府・老舗ホテル「三泉閣」破産申し立てへ>コロナで経営不振
<“コロナ倒産”レナウン>破綻の主因は別にある?
<小売りは大きく変わる>ジャパネット創業・高田明さん
<「湯の谷温泉」228年の温泉に幕 新型コロナが決定打>
<ロイヤルホストなど70店閉鎖へ 外出自粛で業績悪化>
◎もともと薄利多売で商売してたから、客足が2割落ちるだけでもきついだろうな。チェーン店のビジネスモデルは秀逸なんだけどそろそろ転換期に来てたんじゃないかなと思う。昼間の売上を上げるのにジョイフルは日替わりランチ350円なんてことしてたから・・・そのしわ寄せは従業員に来てた。キッチン一人、ホール一人、兼用一人の3人で昼間回してたから。食べ終わっても、あまりにも忙しそうにしてるから申し訳なくてレジの前で手が空くのを待つこともしばしばだった。他のチェーンも似たり寄ったり・・・決まった数の客を奪い合うんだから。返信 145件 9270 1240
◎ほとんどの人が自分や家族の命を守ることに必死。私も行きつけのお店に行きたかったし、閉店して欲しくなくて、テイクアウトで協力するしかできませんでした。この先もまだまだ安心して外食を楽しめるとは思えないけど、お店が潰れないような支援をして欲しいです。馴染みの店の閉店は辛いですね。返信 60件 7231 1580
◎九州発祥のファミレスだから頑張って欲しいけど、やっぱり大変だよね。24時間営業は以前から人手不足で出来なくなっていたし、コロナの影響は本当に飲食業界はしんどい。九州ではガストよりもはるかに身近なファミレスなんだけどね。3割近い閉店はショックかな。九州の田舎ほどガスト無くてジョイフルがあるんだけどね。きっと田舎の店舗が閉鎖されるんだよなあ。近くに何もなくなっちまう。返信 24件 1937 202
【昭和の面影 銃剣タローの店内 コロナで閉店】
https://news.yahoo.co.jp/articles/13e82787e871c49c2b6ca44de2dff5932dc1449e
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生活保護申請が23区で4割増えるなか、窓口で渡されたサンマ缶ときんぴらごぼう缶。そして新宿区でのホテルから放り出された172人
2020(令和二)年06月11日(木) 09:39 ハフポスト日本版
久々に、頭が真っ白になるくらいの怒りが込み上げた。貧困問題にかかわって14年。生活保護の水際作戦や屈辱的な対応については散々見聞きしていた。しかし、今はコロナでみんなが大変な時期。厚労省から生活保護については迅速に対応するようにという通知も出ている。それなのに、「今に至ってもこんなことやってるの?」という現実に、ただただ言葉を失った。それは
2020(令和二)年06月03日(水)のこと。この日、私は千代田区役所にいた。つくろい東京ファンドの小林美穂子さんから連絡を受けたのだ。つくろい東京ファンドとは、住まいのない人などを支援する団体。つくろい東京ファンドには、4月から170件を超える相談が殺到している状態だ。所持金が尽きた、住む場所もないといった切実なSOSだ。小林さんは相談をくれた人のもとに駆けつけ、生活保護申請同行などの支援を続けている。その様子は「緊急事態宣言からの同行支援日記?ネットカフェ休業で『パンドラの箱』が開いた?」でも書かれている通りだ。そんな小林さんからの連絡は、「千代田区の福祉事務所に申請同行したが、申請はできたもののあまりにも対応がひどいので来てくれないか」というものだった。もし可能であれば、ということで、れいわ新選組党首・山本太郎氏の同行も希望されていた。コロナ経済危機が始まって以来、山本太郎氏もホットラインの相談員などをボランティアでし、街頭で見かけたホームレス状態の人に声をかけ、支援団体につなげるなど「ひとり福祉事務所」のような機能を果たしている。早速、太郎氏に事情を話すと「知恵はないけど圧は出す!」という力強い参加表明が届いたのだった。名言だな……。そうして
2020(令和二)年06月03日(水)午後1時、私たち3人と当事者のSさんは千代田区役所の福祉事務所にいた。まず驚いたのは、コロナ経済危機の中、生活保護を申請する人は激増し、東京23区では4割増になっていて、どこの区の福祉事務所にも人が殺到しているというのに、千代田区の福祉事務所はガラガラだったことだ。不審に思いつつ、この日の午後1時にSさんの担当者とアポイントをとっていることを伝える。と、山本太郎氏の登場に福祉事務所はざわつき始め、慌てた様子で係長と課長という人がやってくる。Sさんの担当となった人も含め、話し合いが始まった。ここで経緯を振り返ると、Sさんは
2020(令和二)年05月27日(水)、小林さんに同行してもらい、生活保護を申請。この時点で住まいはなく、所持金は200円ほど。申請の意思を示しているこのような場合、すぐに申請書が出てくるものだ。しかも現在は緊急時。しかし、申請書が出てくるまで、1時間5分もかかったという。この時点でありえない対応で、申請を諦めさせようとしていたと言われても仕方ない。しかも生活保護は申請からだいたい2週間以内で決定されるのだが、対応した職員は、千代田区では2週間で決定することはほぼない、一ヶ月かかると説明。また、申請時に所持金がない場合、決定まで待っていたら餓死してしまうので、他の区では仮払いがされるのだが(その日の夕食から困ってしまうため)、なんとこの日、Sさんに渡されたのは現金ではなく災害備蓄の缶詰などだったという。その内訳は、白粥13個、サンマ蒲焼缶15個、きんぴらごぼう缶15缶、500mlの水5本。これで生活保護決定まで過ごせということだろうか? 「なくなったら連絡を」ということだったそうが、Sさんが連絡しても折り返しはなかったという。ここで他の区はどうかということを紹介すると、申請時に所持金が尽きている場合、区によって違いはあるが1日2000円などが生活費として仮払いされる。私は今まで多くの生活保護申請に同行してきたが、所持金が尽きている人で、その日のうちに仮払い金が渡されなかったケースは皆無だ。場合によっては、その日から決定までのネットカフェの宿泊代も出る。そこからアパートに移るという流れだ。生活保護が決定すれば敷金などの初期費用も転宅費として出る。「そこまでしてくれるのか」と驚く人もいるだろう。しかし、こういった情報も支援団体が同行しないと教えてくれないこともある。そうしてアパート生活に移行すれば、生活は安定する。東京都内にはネットカフェ生活者が4000人いると言われているが、これほど多くの人がそのような生活をしている背景には、アパートに入るための初期費用が用意できないという現実があるのだ。Sさんの場合、住む場所はないものの現在宿泊している場所はあった。が、さすがに缶詰だけの支給というのは常軌を逸している。早く生活保護を抜けようと職探ししたくても、交通費もないのでは何もできない。「それでもありがたいと思え」と言う人は、所持金200円で1日3食、サンマ缶ときんぴらごぼう缶だけという生活をしてみるといい。いくらなんでもありえない、と抗議したのだが、私はこの「災害備蓄の食料支給」という事実によって、ある事件を思い出していた。それは、
2012(平成24)年に札幌市白石区で起きた姉妹餓死事件。42歳の姉と40歳の妹が1月、遺体で発見されたという痛ましい事件である。真冬の札幌で電気とガスは止められ、二人が住む部屋のガスストーブは使えない状態だった。冷蔵庫は空っぽで、遺体は衣服を何枚も重ね着している状態だったという。姉が先に亡くなり、知的障害のある妹は姉の遺体の横で半月ほど生きていたとみられる。携帯には、前年
2012(平成24)年12月20日(木)に「111」という発信記録が残されていた。110番か119番にかけようとしたものの、番号を間違ったのではないか。姉妹の姉は、生前、生活が苦しいと白石区役所に3度も相談に訪れている。が、3度とも「若いから働ける」などと追い返され、3度目に追い返されてから半年後、遺体となって発見された。そんな姉が2度目に相談に訪れた時に支給されたのが、「パンの缶詰」だったのだ。この時の姉妹の状況は逼迫していた。全財産はわずか1000円。両親はすでになく、知的障害の妹を抱える姉は体調不良で失業していた。食料も残り少なく、ライフラインも滞納。一刻も早く生活保護が開始されなければ命に危険が及ぶことは誰だってわかる状況だが、白石区の福祉事務所がしたことは、「非常用のパンの缶詰14缶の支給」。災害備蓄用のもので、14缶の根拠は「7日×1食×二人」。姉妹に対して1週間、1日1食、しかもパンだけで生き延びろということである。この日の「面接受付票」には、「食料確保により生活可能であるとして、生活保護の相談に至らず退室」と書かれている。そうして福祉に見放された二人は、餓死・凍死した状態で発見されたのだ。この事件を受けて12年3月、「全国『餓死』『孤立死』問題調査団」が弁護士らで結成され、私も加入。5月には調査団で事件調査のため札幌に行き、白石区に聞き取りもしたが、二人の命が失われたことについて、白石区はあまりにも冷淡だった。私自身、札幌の餓死事件の取材をしてきたという経緯があるからこそ、千代田区が災害備蓄の缶詰を渡したことがショックだった。白石区の時もそうだが、食料を渡すということは、飢える可能性があるとわかっているということだ。千代田区の場合、生活保護申請はできていたが、コロナ禍という非常時において、このような対応がなされていることが衝撃だった。この日、千代田区との話し合いの結果、「一ヶ月かかる」と言われていた保護の決定は2週間で下りることとなり(できるんじゃん!)、また、現金の仮払いもされることになった。1日2400円として、1万5000円がSさんに支給されたのだ。が、ここに至るまで、1時間10分。他の区では、自分から何も言わなくても所持金がない場合は出てくるお金だ。それをいろいろと理由をつけ、さらには「協議が必要」と20分間、席を外して協議して、やっと出てきたのだ。しかし、これは歴史的な一歩でもある。長年、現金支給が行われてこなかった千代田区で、こうして仮払いが認められたのだ。Sさんが頑張ってくれたことによって、大きく道が開いたのだ。担当課長は、今回に限らず、所持金のない人には仮払いをすることを口頭だが約束してくれた。何もしなければ変わらなかった制度にこの日、小さいけれど、確実に穴が空いたのだ。快哉を叫びたい一方で、窓口を訪れて、心がえぐられる思いもしていた。コロナ禍で困窮者が増える中、全国各地の福祉事務所の職員たちが奮闘していることは知っている。当事者に寄り添った素晴らしい支援をしてくれている職員の存在も知っている。一方で、時々耳にするのは「ひどい」としか言いようのない職員だ。水際作戦で追い返す、態度がものすごく横暴で喧嘩腰、高圧的、ニヤニヤしてばかりいて困窮した人を馬鹿にしたような態度をとる、等々。そのような人が、福祉事務所の窓口で困窮者対応をするわけである。そうして生活保護を受ける資格があるのに、受けなければ死んでしまうのに、難癖をつけて本人を追い返している。この事実を思うと、腹わたが煮え繰り返りそうな怒りに包まれる。なぜなら、生活保護の窓口は、そこで追い返されたら死ぬ確率がもっとも高い窓口だからだ。他の施策の窓口とは明らかに違う。他に生きる手段がない人たちが来る最後の砦だというのに、なぜ、福祉の知識もろくになく(本当にそういう人がたまにいる)、当事者を傷つける言動を平気でしてしまう人が配置されているのか。はっきり言って、その席にはプロ中のプロしか座ってほしくないのだ。命にかかわる仕事なのだから。素晴らしい仕事ぶりの職員たちがいることを知っているだけに、それが残念でならない。さて、この日、千代田区役所から帰る時、Sさんたちと歩いていると道端にきんぴらごぼうの缶詰の空き缶が落ちているのを発見した。Sさんに支給されたのも、まさに同じ缶詰だという。おそらく千代田区の福祉事務所でもらった人が空腹に耐えきれず、すぐに食べたのだろう。そんな缶詰の賞味期限は、来月だった。廃棄処分が近いものから渡しているのだろう。理解できるが、なんだかとても悲しくなった。一方で、生活保護の現場がなぜこれほど殺伐としているかもよくわかる。コロナ不況を受け、生活保護を申請する人が激増しているのに、現場には人手も予算も圧倒的に足りないからだ。「給付なき自粛」をこれだけやってきたのだから失業者や困窮者が増えるのは当たり前なのだ。だからこそ国は、困窮者対策に予算と人手を投入してほしいと切に思う。最後のセーフティネットなのに、どの市区町村に住んでいるかで生死が分かれるようなやり方を、とにかく今すぐ是正してほしい。と、ここまでが
2020(令和二)年06月03日(水)のこと。それに先駆ける
2020(令和二)年06月01日(月)、新宿区がトンデモないことをやらかしていた。一言でいうと、「嘘をついてネットカフェ生活者をホテルから追い出していた」のだ。緊急事態宣言を受けて、東京都がネットカフェ生活者のためにビジネスホテルを確保したことは多くの人が知っていると思う。
2020(令和二)年05月06日(水)時点で800人以上が入っていたのだが、この人たちは現在、
2020(令和二)年06月14日(日)までホテルにいられることが決まっている。しかし、
2020(令和二)年05月29日(金)、新宿区は区内のホテル利用者に「ホテル利用は
2020(令和二)年05月31日(日)(チェックアウト6月1日朝)まで」という文書を配布したのだ。新宿区でホテルを利用していたのは172人。うち74人が生活保護を申請したものの、少なくとも87人が行き場もなく、なんの制度へも繋がっていない状態で放り出されてしまったのだ。しかも、この通知が配布されたのは金曜の夕方。翌日と翌々日は土日で、月曜の朝チェックアウトとなっている。役所に相談しようにも時間はほぼない。そうして、本当に追い出されてしまった。このことに激怒して
‡2020(令和二)年06月08日(月)、私たち「新型コロナ災害緊急アクション」は新宿区に申し入れをした。申し入れをしたのは、つくろい東京ファンドの稲葉剛さん、小林美穂子さん、元自治体職員で生活保護を担当していた田川英信さん、医師の谷川智行さん、私など。新宿区からは福祉部長と課長が対応し、多くのマスコミも集まった。まずは稲葉氏が申し入れ書を読み上げたのだが、部長、課長はホテルから追い出したことについて、「そうしたほうが、必要な人が相談に来ると思った」などの苦しすぎる言い訳を展開。ホテルから出したほうが、困っている人が福祉事務所に生活の相談に来ると思った、ということである。それが現実離れしているということはすぐに明確になった。なぜなら、稲葉さんたちのもとには、行き場がなく追い出された87人のうち、数人から既にSOSが入っているからだ。ある人は、
2020(令和二)年05月29日(金)の文書を見て焦って新宿区に電話したという。2度にわたって電話して「ホテルに滞在したい」とお願いしたが埒があかず、その日のうちに直接窓口を訪れているのだ。しかし、福祉事務所の職員に、「新宿区としては
2020(令和二)年06月01日(月)までにチェックアウトいうことで決まっている」と追い返されたのだという。ちなみに、
2020(令和二)年05月22日(金)の時点で都の宿泊事業は
2020(令和二)年06月07日(日)まで延長され、
2020(令和二)年06月01日(月)には
2020(令和二)年06月14日(日)まで延長されている。他のすべての区では問題なくネットカフェ生活者らがホテル滞在を続けられるのに、なぜ新宿区だけが都の意向を押し切ってまで追い出したのか。数が多いから面倒だったのか、と勘ぐってしまうのは私だけではないだろう。結局、1日に追い出されてSOSをくれた人は、この週末は炊き出しに行ってなんとか食いつないでいたという。新宿区は、炊き出しに並ばないと食べるのにも事欠くような人々を放り出していたのだ。しかもこの日、課長、部長に質問して判明したのは、ホテルから追い出す際に所持金の確認もしていないこと。ホテルに入る時に所持金はいくらと書かせているらしいのだが、以降、ホテル滞在中も出る時も確認していないのだ。コロナで仕事がないのだから、所持金は減るばかりに決まっている。ちなみに他の区では、職員が一人ひとりの部屋を訪ねて生活保護制度はじめ、いろいろな説明をしているところもあるという。携帯電話が止まっている人も多いため、そのようなきめ細かな対応がとられている区もあるのだが、新宿区では、そういう対応はおろか、ホテルにいる間、電話すらしていなかったという。早い人では
2020(令和二)年04月11日(土)頃から入っているのに、だ。一ヶ月半以上、一体何をしていたのだろう。
2020(令和二)年06月01日(月)、ホテル追い出しが発覚してから、メディアでもこの問題が取り上げられるようになった。それを受けて慌てたのだろう。部長と課長は、追い出した87人のうち、電話番号がわかっている54人に今日から電話をかけ始めたと明かした。「一週間経ちましたので、どうしてますか? と電話をしています」と部長。いやいや、「どうしてますか」とか呑気なかけ声よりも、本来いられるはずのホテルから追い出してしまったことを謝罪し、必要であればすぐにホテルの再利用につなぐことが先ではないのだろうか。そしてそれは1週間経ってからでなく、彼ら彼女らが追い出された6月1日から始めるべきだったのだ。この一週間で携帯が止まった人もいるだろう。その上、そもそも携帯が止まっていたのだろう33人にはメールしたのだろうか。中にはメールアドレスすらない高齢の人などもいただろう。だから放り出してはダメなのだ。これでは面倒だから追い出したと言われても仕方ない。申し入れでは、区長の公式見解を明らかにすること、利用者に謝罪し、再発防止の検証をすること、また連絡先がわかる利用者に早急に連絡し、ホテル利用を希望される場合は責任をもって対応することなどを求めた。と、そんな8日前日の
2020(令和二)年06月07日(日)も怒涛だった。前回の原稿(「昨日から私も犬も食べてません」。ペットとともに住まいを失った女性。)で書いた犬が体調を崩し、休診日の夜間、動物病院に駆け込んだのだ。犬は3日頃から体調を崩しており、4日には私も一緒に動物病院に行っていた。しかし、注射をし、薬を飲んでもなかなか良くならない。その一方で、木曜夜からはうちの猫のぱぴちゃんも体調を崩し(頭がまったく上がらなくなり、動きも体つきもすべて変になる)、私も動物病院通いが始まった。ぱぴちゃんは脳に異常があるかもと言われて土曜日にMRIまで撮ったのだが、結局低カリウム血症とわかり、治療をするとみるみる良くなった。が、Aさんの犬の方はなかなか良くならない。ということで日曜夜、休診日だというのに獣医さんのご好意で診てもらい、さまざまな検査を経て、やっと病名が判明したのだ。これからも継続的な治療が必要となる。ということで、最近の私は、自分の職業がなんなのかよくわからない状態だ。もともとよくわからないが、最近はさらにわからなくなっている。が、私などまだまだ楽な方だ。今日も支援者たちは、「あと200円しかない」「もう食べものがない」というような待った無しのSOS対応に奔走している。まったくのボランティアでだ。だからこそ、役所の人たちには頑張ってもらいたいと思うのだ。「ボランティアでやれ」と言っているわけではないのだから。自分が手を放してしまったらこの人は命を失ってしまうのではないか。そんな想像力をすべての人が持てば、救われる人は大勢いる。ということで、最近、「このキャパ超え状態、いつまで続くんだろ」と考えるとふと怖くなる……。 ※ 新宿区に申し入れをした翌日、新宿区長は謝罪コメントを発表。それだけでなく、宿泊費相当の支給を行うことを発表した。申し入れをした甲斐があったというものである。どうか追い出された人たちにこの情報が届きますように。
2020(令和二)年06月10日(水)「雨宮処凛がゆく!」掲載記事『第524回:千代田区の缶詰、新宿区の嘘、そしてワンコの病気――「弱者」を見捨てさせないために。の巻』より転載。)
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/生活保護申請が23区で4割増えるなか、窓口で渡されたサンマ缶ときんぴらごぼう缶。そして新宿区でのホテルから放り出された172人/ar-BB15jBfa?ocid=spartandhp
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┃ 伝統保守と戦後保守編 ┃
┃ 其の六:司馬史観と占領憲法<全2頁> ┃
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2008(平成20)年07月29日(火)
◆司馬史観の原風景 ⇒ ちまたには、コミンテルン(コミンフォルム)史観とか、東京裁判史観とか、さらには、司馬遼太郎史観なるものが未だに蔓延つてゐて、昭和史を完膚無きまでに断罪する風潮が今も残つてゐる。このうち、コミンテルン史観と東京裁判史観については噴飯ものとして言及する価値がないとしても、司馬史観なるものが一斉を風靡してきたことが、保守層や保守論壇に与へた影響は計り知れないものがある。この司馬史観、つまり、司馬遼太郎(本名・福田定一)の歴史観は、司馬の特異な「軍務体験」なるものから始まる。そのことを『朝日ジャーナル』(昭和四十六年一月一、八日号)の「対談・歴史の中の狂と死 司馬遼太郎(作家)&鶴見俊輔(評論家)」において、司馬は、次のやうに語つてゐる。これが司馬の原点となつてゐることは否定できない。「私はね、戦後社会を非常にきらびやかなものとして考えるくせがあるんです。これは動かせない。それは自分の体験からくるんですけれども、私は兵隊にとられて戦車隊におりました。終戦の直前、栃木県の佐野の辺にいたんですけれども、東京湾か相模湾に米軍が上陸してきた場合に、高崎を経由している街道を南下して迎え撃てというのです。私はそのとき、東京から大八車引いて戦争を非難すべく北上してくる人が街道にあふれます、その連中と南下しようとしている、こっち側の交通整理はちゃんとあるんですか、と連隊にやってきた大本営参謀に質問したんです。そうしたら、その人は初めて聞いたというようなぎょっとした顔で考え込んで、すぐ言いました。これが私が思想というもの、狂気というものを尊敬しなくなった原点ですけれども、『ひき殺していけ』といった。」しかし、この話にはそもそも信憑性がない。このことに関してなされた司馬のその後の発言内容にも微妙な変化があり、この話が伝聞なのか直接体験なのかも不明である。それらを総合してみると、その発言の日時も不特定で、発言者が「上司」なのか「上官」なのか、「大本営の少佐参謀」なのか、その名前の特定などは一切なされてゐない。また、司馬が当時所属してゐた戦車第一連隊の関係者や参謀本部の関係者もそのやうなおぞましい見解を持つ者は一人もなく、冗談でもそのやうな発言をした者は居ないと断言してゐるのである。その上、当時の事情からしても、司馬がこれを真に受けて憤慨するやうな状況は全くなかつたと云へる。すなはち、
昭和二十年
‡六月八日(金)、天皇御臨席の最高戦争指導会議(御前会議)において、聖戦完遂、國體護持、皇土保護の国策決定を行つたものの、
七月二十六日(木)には、ソ連を除外してポツダム宣言が発表され、
七月二十八日(土)には、鈴木貫太郎首相が、「ポツダム宣言」について「政府はこれを黙殺し、あくまで戦争完遂に邁進する。」と声明した。すると、
八月六日(月)、アメリカは、広島に原爆を投下し、
八月八日(水)、ソ連は、ヤルタ密約により日ソ中立条約を不当に破棄して対日宣戦を通告し、ポツダム宣言に参加することを表明した。さらに、
八月九日(木)、アメリカは、ソ連の参戦が早まつたこともあつて、今度は長崎に原爆を投下した。そして、
八月十日(金)午前二時二十分、御前会議において、國體護持などを条件としてポツダム宣言の受諾を決定し、
八月十四日(火)の御前会議では最終的な御聖断を仰いだといふ経緯からして、
‡六月八日(金)の国策決定のうち、聖戦完遂と皇土保護の観点から本土決戦に備へて、帝都防衛のための戦車隊投入計画の立案がなされたとしても、
八月十日(金)にはポツダム宣言を受諾といふ国策決定がなされてゐることから、それは廃案になつたはずである。司馬の話によると、前に述べたとほり、伝聞なのか直接体験なのかも不明で、発言者の名前も所属も階級も定かではない。そして、その発言の日時についても、「昭和二十年の初夏」といふ程度の曖昧なものである。「初夏」とは、陰暦四月の異称であるから、新暦では五月ころである。
‡六月八日(金)から
八月十日(金)までの間は、本土決戦となる可能性があると予測されてゐた時期であるが、初夏ならば、その計画案の素案が立案されうる時期ではあつたが、作戦として正式に決定されたものではありえない。沖縄戦の最中であつて、作戦計画自体が完成してゐないはずである。この時期は、本土に上陸が予測される米軍規模の検討、上陸場所の予測、米軍海兵隊が使用する火器等の装備とこれを迎撃する迫撃戦法の検討、戦車部隊の任務分担その他迎撃作戦計画に必要な情報を、沖縄戦の詳細な実情を踏まへて具体的に立案しうる以前の段階なのである。物事には順序がある。まづ、大本営において迎撃戦闘作戦計画を決定し、その計画実行のために必要な事項、すなはち、附近地域に対する戒厳命令、附近住民に対する避難命令、疎開措置、戦車移動用道路の一般車両等通行禁止措置などの事前準備が具体的に内務省などを含めて立案されることになる。それゆゑ、仮に、司馬の所属部隊を訪問したこの少佐参謀にそれなりの任務があつたとすれば、それは作戦立案のために必要な事前調査視察を兼ねて、本土決戦のための士気高揚を図る目的であつたこと以外にはなく、大本営や内務省などの協議によつて決定されるべき事項をその参謀が独断で判断することができないことは、司馬に解らないはずはない。それゆゑ、この視察に来た参謀将校に、非難措置や交通整理などの具体的な方針を質問すること自体が見当違ひである。敗戦色濃厚なこの時期に、国民の総力戦としての士気高揚が最も必要であつたにもかかはらず、苟も皇軍将校(戦車第一連隊の陸軍少尉)である司馬から、真つ先にこのやうな質問しか出てこないことにその参謀は落胆したであらう。つまり、司馬の言葉を借りれば、交通整理の質問を受けた参謀が「初めて聞いたというようなぎょっとした顔」をするのも当たり前であらう。本来的な迎撃戦闘作戦に全く関心を持たず、交通整理のことにしか関心がない司馬の質問に、その士気が著しく低いことを感じて落胆し、このやうな自虐的ないしは揶揄したやうな回答をしたとしてもさほど不思議ではない。このやうに検討してくると、司馬の「体験」は捏造されたものか、あるいは著しい思ひ込みによる過剰反応が虚言癖を生んだことの結果としか考へられない。学徒動員により戦車隊での士官経験があり、しかも、著名な作家となつた者の発言は、世間では重みがあると自惚れて、自らの言葉を「特権化」し、極めて微少で特異な自己の体験、しかも、「参謀との会話」にすぎないものを、「大本営の決定」であるかの如く「肥大化」させ、そして、これを「大東亜戦争全体」に「拡大化」し、ついには、これを戦争観や歴史観として「普遍化」し、傲慢にも全体としての昭和史を語つたことになる。まさに「井の中の蛙」であり、「裸の王様」である。その参謀に対する反感が、皇軍全体に対する反感に昇華し、さらに、昭和史全体に対する憎悪へと転換させたのである。このやうに、司馬は、始めに結論ありきである。前掲『朝日ジャーナル』でも、「私はね、戦後社会を非常にきらびやかなものとして考えるくせがあるんです。これは動かせない。・・・」とし、その固定観念を披瀝した上で、その後に続く対談の内容の中でも、次のやうに、司馬自身が「反國體論者」であることを明確に告白してゐる。だから、朝日ジャーナルで対談したとも云へるのである。それは、鶴見俊輔が「・・・そういうふうな戦争の末期は、まったく集団狂気ですね。一億玉砕して神州を守る、国体を守る、と。」といふ発言に答へて、司馬は、「国体を守るということだけで十分狂気ですから。」と答へてゐることからも明らかなのである。「集団狂気」を批判するのならまだしも、これに託けて、「國體護持」の至誠を「狂気」の仕業とするのである。
http://kokutaigoji.com/reports/rp_iwa_h200729-1p.html
偽造私文書行使で刑事告発までされた小池都知事
2020(令和二)年06月11日(木) 07:00 黒木 亮:作家
2020(令和二)年06月02日(火)写真◆東京都は新型コロナウィルス対策本部会議にて「東京アラート」発令を正式決定。対策本部会議後に報道陣のぶら下がり取材に応じる小池百合子都知事(写真:Pasya/アフロ)
小池百合子東京都知事の学歴詐称疑惑に関し、去る
2020(令和二)年06月09日(火)、東京都の男性が、告発状を東京地検に郵送した。
2016(平成28)年06月30日(木)放送のフジテレビの報道番組「とくダネ!」で公開された小池氏の卒業証書と卒業証明書が偽造されたもの(偽造有印私文書行使罪)である可能性があるとの内容だ。告発は、文書の形式が整っていて、告発事実が具体的に特定されていれば、告発人が自主的に取り下げない限り、不受理にはできず、捜査が始まる。
小池氏の卒業証書類に関しては、筆者も従来から不審な点があることを指摘してきた。スクリーンショットで見る限り、卒業証明書は最重要要件のスタンプが3つとも不鮮明で、エジプトの国家機関を表す鷲のマークも、その周囲の文字も読み取ることができない。また文章が男性形で書かれ、4つある署名者欄のうち署名が確実にあると言えるのは2つだけ、収入印紙が逆さまで、写真もピンでとめてある。これらは筆者が比較対照のために集めた20通ほどのカイロ大学の卒業証明書にはない特徴だ。卒業証書に関しては、さらに疑わしく、明らかにいくつかの要件を欠いている。
筆者はこれらに関し、2018年11月に文書で小池氏に質問をしたが、回答はなかった。また小池氏は、これら不審点についてこれまで説明することもなく、都議会で再三にわたって卒業証書類を提出するよう求められたが、ことごとく拒んでいる。正規のルートで堂々と卒業したのなら、50回でも100回でも卒業証書類を開示できるはずで、こうした態度をとっている限り、疑惑が晴れないのは当然だ。
検察の捜査が開始された場合、筆者はまだ公開していないものも含め、手元にある資料はすべて提供し、必要があれば裁判で証言するつもりだ。『女帝 小池百合子』(文藝春秋)で学歴詐称の実態を解明した石井妙子氏も捜査に協力するはずだ。また、これまで口を閉ざしてきた小池百合子氏の元夫も捜査に協力するかもしれない。
■カイロ大学側は「卒業した」と言うが■一方、
‡2020(令和二)年06月08日(月)にカイロ大学は、学長名で以下のような声明を発表した。
「カイロ大学は、1952年生まれのコイケユリコ氏が、1976年10月にカイロ大学文学部社会学科を卒業したことを証明する。卒業証書はカイロ大学の正式な手続きにより発行された。遺憾なことに、日本のジャーナリストが幾度もカイロ大学の証書類の信憑性に疑義を呈している。これはカイロ大学及びカイロ大学卒業生への名誉棄損であり、看過することはできない。本声明は、一連の言動に対する警告であり、我々はかかる言動を精査し、エジプトの法令に則り、適切な対応策を講じることを検討している」都知事選告示前のこの時期に、唐突にカイロ大学が横槍を入れてきたのは奇妙である。しかもその内容は、小池氏の卒業証書類に特にこだわっており、あたかもそれらの提示を拒んでいる小池氏を擁護しているかのようだ。さらにどの卒業証書類に言及しているのかも明確ではなく、小池氏の証書類のすべてが真正なものであるという内容になっている。しかし、すでに石井妙子氏が文春オンラインで指摘しているとおり、小池氏はロゴの異なる2つの卒業証書を持っており、小池氏の「卒業証書は1枚しかない」という言葉に従うなら、論理的に言って、そのうち一つは偽物だ。
2020(令和二)年06月09日(火)、筆者の黒木亮氏と弁護士の郷原信郎氏は、小池都知事の学歴問題について記者会見を開いた。黒木氏は英国からビデオ中継で参加した。その様子はこちらで視聴できる。https://www.youtube.com/watch?v=iwwcwcfH3Ac
カイロ大学の声明の背景には、日本のメディアによる卒業証書類の追及を断ち切るのに協力してほしいという小池氏側からの、文面も含めた要請があったのではないか? もし小池氏が今後「カイロ大学の声明があるので、卒業証書類は出さない」と言えば、この推測が裏付けられることになる。
■カイロ大学の声明では、疑惑は何一つ解消しない■小池氏のカイロ大学“お友達人脈”については、すでにこのJBpressで<「カイロ大卒業」を取り繕うエジプトの小池人脈>に書いたとおりで、彼らがこういった声明を出すことは予想がついていた。残念ながら、こんな声明では、これまで指摘してきた学歴詐称疑惑は何一つ解消しない。
参考URL◆「カイロ大卒業」を取り繕うエジプトの小池人脈https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/60763
筆者が小池氏の学歴詐称を疑う理由は、同じくJBpress<卒業が本当ならなぜ都知事は卒業証書提示を拒むのか>で列挙したとおりである。すなわち、
(1)小池氏は卒業していないという物的証拠のある同居女性の証言
(2)卒業証書類の提出を頑なに拒む態度
(3)卒論に関する嘘
(4)「首席で卒業した」「トップの成績と言われた」「1年目で落第したが4年で卒業した」「1971年(存在しない)カイロ・アメリカ大学・東洋学科入学(翌年終了)」、「何度も卒業証書を公開した」(都議会答弁)「卒業証書類を、複数のアラブの専門家が判読し、本物と認めた」(同)等、卒業や証書に関する小池氏の様々な嘘
(5)「お使い」レベルのアラビア語
(6)有効性に疑義のある卒業証書類、である。
参考URL◆卒業が本当ならなぜ都知事は卒業証書提示を拒むのかhttps://jbpress.ismedia.jp/articles/-/60762
■組織防衛に走るカイロ大学■法律が比較的守られ、大学が政治から独立している日本では、大学が言うのだから間違いないと単純に考える人が多い。しかし、エジプトは腐敗認識指数世界180カ国中105位(ランキングが低いほど腐敗が深刻)という不正が横行する国なのである。しかも、カイロ大学は独立しておらず、軍事政権がコントロールする国家機関だ。政府や国家機関の言うことなど、あてにならないのはエジプトを知る人間の常識だ。筆者の知人で長年中近東に住んでいるビジネスマンも、「石井妙子氏の本は読んでいませんが、これとカイロ大学の声明は恐らく相反するものでしょう。自分としては、カイロ大学の声明を単純に信ずるほどエジプトを信用していないので、どうってことないのですが」とメールを送ってきた。筆者もエジプトに約2年間留学し、その後、銀行のロンドン支店でエジプト航空向け融資(航空機担保付)などを手がけたので、友人のコメントには全面的に同意する。今般の声明を仕組んだのは、小池氏がカイロ大学で最も頼りにしているアーデル・アミン・サーレハ文学部日本語学科長だと思われる。4年前に筆者がカイロでサーレハ氏に会った際には「小池さんはすごい! 度胸がある! 次の総理大臣になるかもしれない!」とはしゃいでいた。カイロ大学では、小池氏は「日本の総理大臣になるかもしれない人」と認識されているようだ。エジプトは昔から経済が極めて脆弱で、国の長期格付けは、シングルBという投機的等級の中でも低い部類である。商業ベースでファイナンスを調達することはほぼ不可能で、社会的インフラの建設をもっぱら外国からのODA(経済開発援助)に頼っている。ODAがなくなれば、道路、橋、港、発電所、学校、病院等の建設ができなくなり、社会生活は支障をきたし、建設労働者は仕事にあぶれ、暴動が起きる。エジプトにとってODA獲得は国家の至上命題の一つなのである。日本は巨額のODAをエジプトに供与しており、2016年までの総額は約9139億円に達する。そうした巨額のODAを提供している国の「総理大臣になるかもしれない人」が実は自分のところの大学を卒業していないなどと言えば、学長、文学部長、日本語学科長は確実にクビが飛ぶ。カイロ大学の現文学部長アフメド・シェルビーニ氏は「カイロ大学では2年前から小池氏に関する書類を出す場合は学長の承諾が必要になった」と言い、カイロ大学の職員の1人は「小池氏の件は、政府の上層部が関与しているのではないかと思う」と話す。エジプトではサダト・ムバラク時代(1970~2011年)以来、カネやコネで不正な卒業証書の発行が行われており、2015年にはカイロ大学のナッサール前学長もテレビのインタビューでこれを認め、2017年にはダリヤ・シェブルという女性ジャーナリストが、大学内部の記録まで書き換えて偽の卒業証書を発行する業者との接触に成功している。もし同居人女性の証言が正しければ、カイロ大学内の小池氏の記録は1976年から現在までのどこかの時点で書き換えられている。サーレハ氏や現学長は、万一小池氏の卒業が虚偽だと発覚しても、「大学内の記録を見て声明を出しただけ」と言えば責任を免れる。今般のカイロ大学の声明は、こうした文脈の中で読む必要がある。
■カイロ大学の声明の2つの嘘■カイロ大学の声明は小池氏の入学年度については、何も述べていない。しかし、従来からサーレハ氏は日本のメディアに対し、「小池氏は1972年にカイロ大学に入学し、1976年に4年間で卒業した」と回答している。この回答は嘘である。なぜなら、同居人女性が、当時のメモや手紙という物的証拠にもとづき、小池氏は1973年10月に2年に編入したと証言しているからだ。さらに石井妙子氏は、当時エジプトの別の大学に留学していた女性から裏付け証言をとっており、筆者も当時をよく知る別の日本人から裏付け証言をとっている。さらにカイロ大学の声明の「1976年10月に卒業した」という記述は、小池氏自身の本の記述とも矛盾している。小池氏は自著『振り袖、ピラミッドを登る』の中で、1年目に落第したと明記しており、そうであればエジプトの国立大学の制度上、卒業は早くても1977年になる。カイロ大学は、小池氏が言っているとおりに回答したつもりだろうが、小池氏が日本で書いたり話したりしていることまでは調べていないようで、嘘の声明になっている。カイロ大学の声明などというのは、この程度の代物であり、真に受けると騙されるだけだ。
■「カイロ大学卒業」のまま立候補すれば、さらに告発の可能性あり■今般、検察庁に郵送された告発状は、偽造有印私文書行使罪に関するものだ。なお小池氏がカイロ大学を卒業していないことが明らかになれば、公職選挙法の虚偽事項公表罪に該当するが、こちらは公訴時効が3年で、前回の都知事選に関しては、時効が成立している。しかし来る都知事選で再び「カイロ大学卒業」という経歴のまま立候補すれば、別の刑事告発を受け、捜査が始まる可能性がある。筆者は同居女性の物的証拠のある証言や、小池氏の著書や議会発言に重大かつ非常に多くの矛盾があることに照らし、学歴詐称はすでに立証されていると考える。小池氏は、来る都知事選にどのような学歴で出馬するのか、慎重に考える必要があるだろう。
◎もはや小池氏が実際に卒業したかどうかという問題ではない、カイロ大が卒業したというならそうなんだろう。問題は小池氏の卒業証書が本物かどうかということだ。仮に卒業証書を無くしたなら、「無くした」といって必要なら大学から卒業証明書を取り寄せればいいわけだ。ところが小池氏は過去に卒業証書らしきものをマスコミにさらしている。ならばその卒業証書を公にすれば全て済むのになぜかしない。ゆえに刑事告発された。
◎なぜ、最近の政治家たちは、学歴を捏造したり、ロンダリングするのか不思議です。田中角栄さんだって尋常高等小学校卒でも堂々としていたではないですか。近代においても、例えは悪いにせよ、ヒトラーだって実科学校を半ば中退してドイツの首相になったではないですか。「時代は変わった」の一言では済まないと思います。学歴の捏造・ロンダリングは、政治指導者としての人格的根源に疑義を持たせるものではないでしょうか?
◎今度の都知事選で経歴からカイロ大学卒業が無くなっていたら現在は時効の告訴を恐れた嘘だったことになるし、載せていればずっとこの疑惑は続くだろう。卒業していなくても政治手腕があればどうでもいいのにはくをつけるためなら無駄なことだ。
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https://news.yahoo.co.jp/articles/1ed5f6428c6a4235c4c99fc69ee255201b975879