本日4月12日に大地震は来ないと確信できる理由
2015年04月12日(日) よもやま話
ここ数日、めっさうるさい。本日4/12に地震おきるとか、マジで馬鹿ですかレベル。一番腹立たしいのは「信じるかどうかはあなたに任せます」って責任回避したあとでデマをシェアする輩。お里が知れます。
イルカが打ち上げられた → 地震おきた
またイルカが打ち上げられた → また地震おきる
って、
カツ丼食ってた → 地震おきた
カツ丼食う → 地震おきる
と同じ事だとわかんないかな。イルカは電磁波を感じて岸に打ち寄せられる・・・って・・イルカはめっちゃ賢いわけでしょう。何万年も前から地震がおきる予兆を察しできているのなら、
地震の前兆感じる → 沖に一目散に逃げる
というのが当たり前の行動でしょう。岸に来てどうするっての!
で、この報道で一番馬鹿臭いのが、イルカが打ち上げられるというのが珍しいと決めつけていること。
数が多い事例だけでも
1927年01月20日 113頭 茨城県波崎海岸
1990年02月19日 030頭 鹿島郡鹿島町(現鹿嶋市)明石海岸
2001年02月11日 053頭 茨城県鹿島郡波崎町
2002年02月24日 024頭 茨城県鹿島郡波崎町柳川海岸
2002年02月24日 085頭 茨城県鹿島郡波崎町波崎海水浴場
2011年03月04日 054頭 茨城県鹿嶋市下津海岸に限らず、イルカもクジラも大量に打ち上げられてます
http://whalelab.org/IbaragiPRF.htm
見れば分かりますが、イルカとかクジラが打ち上げられるのはほぼ2?3月の水温が一番冷たい時期なわけです。わたくし鹿島周辺にはサーフィンに行くわけですが、夏ならともかく真冬の水温は半端ないので冬はいけません。なぜかっていうと
4/9の水温。ここって書いたのが鹿島のあたりですが、銚子の下くらいが沖合の黒潮で16?19度なのに鹿島沖だといきなり10度くらいまで水温が急に下がる。岸よりだと川の水が入るのでもっと水温は低い。黒潮にのってイルカがやってきたら、それはもう物凄いショック。頭もクラクラくらいするわ。
釣りとかサーフィンやってるとわかるんだが、海水って一定水温ではなく、冷たいところとそうでないところが帯になっている。沖合から風が強く吹くとターンオーバーと言って深海の水が表層に出て一気に下がる。寒流と暖流が激しくぶつかるわけだから、物凄く冷たい部分ができること(冷水塊)ができることもあるはずで、イルカさんたちがそこに突っ込んだらビビる大木です!
そう思ってたらやはり
イルカ大量漂着「冷水域でパニックか」 国立科学博物館
やっぱそうじゃん・・・
■関東大震災は9/1の暑い時期で、上のリンク先見てもその時期に大量死の例はない。また神戸の震災の時にも同じ事があったとしたり顔で書いてるサイトもいるが、そんな例はない。
さらに瀬戸内海にはイルカもクジラが見られた(生きて泳いでるヤツ)だけで「地震の前兆か」っていう馬鹿がいるけど、東京湾だってイルカもクジラもいる。かつて自分のボートで油壺から房総に渡るときに東京湾ででかいクジラに10メートルまで接近したことがあるし、イルカなんてめちゃくちゃ見かけるのです。ヨットマンやボートマンはみんな知ってる。みんな知らないだけ。特にマスコミの人!!!そして外に出ないオタク系のみなさま!!
ついでにいうと湘南の沖合はでかい鮫がうようよいる。秋になるとなんでか知らないけどイルカみたいにボンボン飛んでる。
4/12に地震が来ると言ってるゲリー・ボーネルは詐欺師
これも腐れバイラルとかが「過去に阪神淡路や3.11を的中させたボーネルが本日地震が来ると言っている」と盛り立ててシェアを狙って広告収入を稼ごうとしているわけですが、こいつのAmazonの書評見ましょう。
901運動
1990年代までに技術の世界一を目指す」車作りを目標とした運動
https://ja.wikipedia.org/wiki/901%E9%81%8B%E5%8B%95
松任谷由実さんに「早く死んだほうがいい」 政治学者・白井聡氏、物議の発言削除し「つい乱暴なことを口走ってしまいました」
‡2020(令和二)年09月01日(火) 17:24配信 J-CASTニュース編集部 野口博之
写真◆白井聡氏のフェイスブック投稿が物議(現在は削除済み)
シンガーソングライターの松任谷由実さんに対し、京都精華大学の白井聡講師(政治学・思想史)がフェイスブックで、「醜態をさらすより、早く死んだほうがいい」などと発言し、物議を醸している。
きっかけは、松任谷さんが安倍晋三首相の辞任会見を見て切なくなったなどとラジオ番組で発言したことだ。白井氏はその後、「反省いたします」として投稿を削除した。
■「荒井由実のまま夭折すべきだったね」「荒井由実のまま夭折すべきだったね」白井氏は
2020(令和二)年08月29日(土)、松任谷さんのラジオ発言を伝えるスポーツ紙の記事を自らのフェイスブックに引用し、松任谷さんの旧姓を挙げてこう断言した。松任谷さんは
2020(令和二)年08月28日(金)夜、ニッポン放送の番組『松任谷由実のオールナイトニッポンGOLD』で、安倍夫妻と仲がよいことから、辞任会見について「テレビでちょうど見ていて泣いちゃった。切なくて」と心境を明かした。安倍首相とは、プライベートでは同じ価値観を共有しているとして、今後については、「もっと自由にご飯に行ったりできるかな」と漏らしていた。これに対し、白井氏は、フェイスブックで続けて、こう揶揄した。「本当に、醜態をさらすより、早く死んだほうがいいと思いますよ。ご本人の名誉のために」『永続敗戦論』『武器としての「資本論」』などの著書で知られる白井氏は、フェイスブックやツイッターなどで、安倍政権を批判・揶揄する発言を繰り返している。
2020(令和二)年08月30日(日)には「安倍政権の7年余りとは、日本史上の汚点である」と題する記事を朝日新聞の言論サイト「論座」に投稿し、ネット上で論議になった。松任谷さんを非難したのは、こうした背景があるからだとみられている。
■橋下徹氏なども言及「俺たちがやれば社会的に抹殺」
白井氏のフェイスブックには当初、白井氏に共感する人たちから「ユーミンも落ちたもんだ」「生活、人生をめちゃくちゃにされた国民の方が泣きたいよ」といった声がコメント欄に寄せられた。これに対し、白井氏は、松任谷さんに対し、「老いとは残酷なものだ」「戦後日本の劣化と共に劣化していったということかもしれませんね」といった書き込みを同欄でしていた。その後、ネット上で注目されて、コメント欄などには白井氏への批判が相次ぎ、「言っていいことと悪いことがある」「発言には強い嫌悪を感じます」「他者をねぎらう言葉さえ許されないとは」といった声が寄せられて炎上状態になっている。元大阪市長で弁護士の橋下徹氏も、ツイッターで、「こんな発言を俺たちがやれば社会的に抹殺だよ」などと苦言を呈した。白井氏は、
‡2020(令和二)年09月01日(火)になってフェイスブックを更新し、次のような「声明」を出した。「松任谷由実氏についての私の発言が、物議をかもしているということですが、削除いたしました。私は、ユーミン、特に荒井由実時代の音楽はかなり好きです(あるいは、でした)。それだけに、要するにがっかりしたのですよ。偉大なアーティストは同時に偉大な知性であって欲しかった。そういうわけで、つい乱暴なことを口走ってしまいました。反省いたします」ツイッター上でも、ミュージシャンなどのファンは才能に見合った立派な人格者を期待するとの指摘を受けて、「実にその通りだと思います。偉大な詩人には偉大な知性を期待したくなってしまう。要するに私は、ひどくがっかりしたのです」と説明していた。白井氏が所属する京都精華大学の広報グループは
‡2020(令和二)年09月01日(火)、白井氏の発言について、「今は事実確認中で、対応を協議しています」とJ-CASTニュースの取材に答えた。総務グループによると、メールなどで様々な意見が大学に寄せられているという。
J-CASTニュースでは、白井氏にも大学を通じて取材を申し込んでいる。
https://news.yahoo.co.jp/articles/0329d6db8f9c265f3d5b2aba08fb4dc062dadf41
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大学側にも非難殺到…安倍政権批判する講師がユーミンに暴言
‡2020(令和二)年09月01日(火) 20:36配信 女性自身 Copyright (C) 2020 Kobunsha Co., Ltd. All Rights Reserved.
【写真】投稿はスクリーンショットなどで瞬く間に拡散され、批判が殺到している
持病の潰瘍性大腸炎が再発したことを理由に、
2020(令和二)年08月28日(金)に辞意を表明した安倍晋三首相(65)。同日に開かれた会見では、「国民の負託に自信をもって応えられる状態でなくなった」と健康状態を説明した。安倍首相の予期せぬ辞任は、世間を大きく揺るがした。いっぽうで、思わぬところで余波を生んでいる。ユーミンこと松任谷由実(66)は、同日放送の『松任谷由実のオールナイトニッポンGOLD』(ニッポン放送)で会見の感想をこう述べた。「テレビでちょうど見ていて泣いちゃった。切なくて。私の中ではプライベートでは同じ価値観を共有できる。同い年だし、ロマンの在り方が同じ。辞任されたから言えるけど、ご夫妻は仲良しです。もっと自由にご飯に行ったりできるかな」松任谷といえば、安倍首相や妻の昭恵夫人(58)と親交が深いことでも知られている。17年12月と19年3月には、夫妻が松任谷の舞台を鑑賞する姿も報じられていた。
■「他人の感想が自分と違うからと言って、早く死んだ方がいいは無い」
そんななか、京都精華大学の専任講師・白井聡氏は松任谷を痛烈に罵倒。白井氏は、Facebookでこのように投稿した。
「荒井由実(松任谷の旧芸名)のまま夭折すべきだったね。本当に、醜態をさらすより、早く死んだほうがいいと思いますよ。ご本人の名誉のために」この投稿はスクリーンショットなどで瞬く間に拡散され、批判が殺到している。
《自分と政治的思想が相容れないからって死んだほうがいいと言えてしまうなんて…怖い》
《白井聡氏の松任谷由実さんに対する「死んだ方がいい」は、流石に人間を辞めているレベルのヘイトだと思いますが、いかがでしょうか?》
《安倍首相が好きな人もいるし嫌いな人もいる。辞任会見に対する思いも人それぞれ。他人の感想が自分と違うからと言って、早く死んだ方がいいは無い》橋下徹氏(51)も
‡2020(令和二)年09月01日(火)、《京都精華大学は、さすがにこんな教授を雇い続けるのはまずいだろ》とTwitterで苦言を呈した。「安倍首相が辞意を表明してから、各メディアは約8年にわたる長期政権の総括記事を出しました。新型コロナウイルス対策や経済回復といった課題が山積するなか、政治空白が生まれる懸念が指摘されています。他にも“森友・加計問題”といった不祥事に対して、説明責任を問う記事も出されました。白井氏も
2020(令和二)年08月30日(日)に、『安倍政権の7年半余りとは、日本史上の汚点である』と題した記事を朝日新聞に掲載。ですが嫌悪感や私的感情がむき出しにつづられた内容に、『偏向だ』といった指摘もされています」(社会部記者)
‡2020(令和二)年09月01日(火)、批判を受けて白井氏はFacebookに「声明」を発表。上記の投稿を削除したことを報告した。そして、「ユーミン、特に荒井由実時代の音楽はかなり好きです(あるいは、でした)。それだけに、要するにがっかりしたのですよ」と説明。続けて、「偉大なアーティストは同時に偉大な知性であって欲しかった。そういうわけで、つい乱暴なことを口走ってしまいました。反省いたします」と謝罪した。同大学の「教育の基本方針に関する覚書」には、「礼と言葉の紊れ(みだれ)が、新しい時代にむかって正され、品位のない態度と言葉とは、学園から除かれなければならない」と記載されているがーー。同大学のTwitter公式アカウントにも、《大学の名誉にも関わる問題なのでは?》《大学はどのような見解でしょうか》といった抗議の声が寄せられている。
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https://news.yahoo.co.jp/articles/6d4a6b9ed7ae36c0f83abad003ec6d706d6dc9e4
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┃ ヒロシマ・ナタリー HIROSHIMA NATALIE ┃
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‡1973(昭和48)年09月XX日(X) 総工費30億円建設開始
1974(昭和49)年04月23日(火) 14時オープン
1974(昭和49)年04月23日(火) キャンディーズ・イベント
1974(昭和49)年05月05日(日) キャンディーズ・イベント
1974(昭和49)年05月06日(月) キャンディーズ・イベント
1974(昭和49)年08月12日(月) キャンディーズ・イベント
1974(昭和49)年08月13日(火) キャンディーズ・イベント
1978(昭和53)年03月23日(木)『ザ・ベストテン』ナタリー号から♪微笑がえし♪熱省中継後、広島の暴走族が1000人集まって宿泊先に移動するキャンディーズの車を追い掛け回したというエピソードも残っているヨ(=^◇^=)
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┃ 『Woman of Straw わらの女』 ┃
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1964(昭和39)年04月28日 US released
Note・・・ナタリーの名称は、1937(昭和12)年に建造されたエンジン付き帆船「ナタリー号」より付けられた。現役時代は地中海で使われ、ショーン・コネリー1964年の主演映画『Woman of Straw わらの女』の劇中にも登場するというヨ(=^◇^=)
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E3%83%8A%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%83%BC
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①┃ 東京ヒルトンホテル ┃
┗━━━━━━━━━━━┛
1958(昭和33)年07月21日(月) 東京ヒルトンホテル株式会社:設立
1963(昭和38)年06月20日(木) 日本初の外資系ホテル開業
1966(昭和41)年06月29日(水) ビートルズ宿泊一日目checkin
1966(昭和41)年06月30日(木) ビートルズ宿泊二日目
1966(昭和41)年07月01日(金) ビートルズ宿泊三日目
1966(昭和41)年07月02日(土) ビートルズ宿泊四日目
1966(昭和41)年07月03日(日) ビートルズ滞在五日目check out
1967(昭和42)年04月22日(土) ホテルジャパン東急:改称
1967(昭和42)年05月12日(金) 改称差し止め
1983(昭和58)年12月31日(土) 契約期間満了により閉館
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②┃ キャピトル東急ホテル ┃
┗━━━━━━━━━━━━┛
1984(昭和59)年01月01日(日) キャピトル東急ホテル:改称
2006(平成18)年11月30日(木) 建替えのため営業休止
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③┃ ザ・キャピトルホテル 東急 ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━┛
2008(平成20)年03月11日(火) 東急キャピトルタワー 着工
2010(平成22)年07月31日(土) 東急キャピトルタワー 竣工
2010(平成22)年10月22日(金) 東急キャピトルタワー内で開業
東京都千代田区永田町二丁目10番3号
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④┃ 東京ヒルトンインターナショナル ┃
┃ ヒルトン東京 HILTON Tokyo ┃
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‡1984(昭和59)年09月01日(土) 日本初の完全外資によるシティホテル開業
東京都新宿区西新宿6丁目6番2号
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①https://ja.wikipedia.org/wiki/キャピトル東急ホテル
②https://ja.wikipedia.org/wiki/ヒルトン東京
③https://ja.wikipedia.org/wiki/ザ・キャピトルホテル_東急
④https://ja.wikipedia.org/wiki/ヒルトン東京
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映画館では3階から客が墜落、73メートルの凌雲閣は倒壊――壊滅していく首都・東京
2020(令和二)年03月11日(水) 11:00配信 文春オンライン 吉村 昭
地震計の針は飛び散った。家屋崩壊、列車の転覆、地盤沈下――“関東大震災”が起こった日 から続く東日本大震災の90年近く前、日本は大地震に襲われている。
‡1923(大正12)年09月01日(土)、午前11時58分、関東地方を襲った地震は東京・中央気象台の観測室におかれていた地震計の針が1本残らず飛び散り、すべての地震計を破壊させてしまう規模だった。建物の倒壊、直後に発生した大火災は東京・横浜を包囲し、おびただしい死者を出した。人々は混乱し、様々なデマが流れ――。20万の命を奪った大災害をノンフィクション作家・吉村昭氏が書いた『 関東大震災 』(文春文庫)より「東京の家屋崩壊」を再構成の上、一部抜粋して公開する。
◆◆◆
■東京・消防署勤務だった林錠太郎さんの回想 ⇒ 麹町区第一消防署勤務であった林錠太郎氏の回想によると、その日も若い署員が望楼に上って火災発生を監視していた。正午少し前、林氏が突然起った地震で署外に飛び出し望楼を見上げると、鉄骨作りの望楼が左右に激しく揺れている。倒れる恐れがあると思ったが、望楼は柔軟にしなうだけで折れる気配はなかった。
■瓦が落下し壁が落ち、街の色彩は急激に変化してゆく ⇒ 後になって署員に地震発生時の状況をきくと、署員は望楼の上に伏して振り落されまいと手すりにしがみつき眼下の市街を見つめていた。街々は、篩(ふるい)の上の豆粒のようにひしめきながら震動していた。地鳴りのようなすさまじい轟音がふき上って、激浪の逆巻く大海にもまれる小舟にしがみついているような心細さを感じたという。そのうちに街の色彩が急激に変化していった。瓦が落下し壁が落ちはじめたのだ。と同時に、茶色い土埃が一斉に立ちのぼり、震動しつづける街をおおいかくしていった。
■友人と浅草に遊びに行っていた14歳の少年が見た光景 ⇒ 小櫃政男という本所区柳島梅森町に住む14歳の少年がいた。かれは、柳島小学校卒業後、精工舎に入社し時計の組立てに従事していた。9月1日は、休日だった。前日は給与支給日であったので、かれは小学校時代の同級生であった潮田文吉と浅草へ遊びに行った。浅草はいつものように賑わいを見せていて、かれは白地の浴衣姿で映画街へ入った。時刻は、11時近くであった。洋画専門の日本館では、フート・ギブソン主演の西部劇を上映していた。かれは、潮田と、胸を躍らせて館内に入った。フート・ギブソンの演ずるカウボーイは二挺拳銃使いで、乗馬も巧みであった。政男は、弁士のせりふに耳を傾けながら画面に眼を据えていた。
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⇒ 次ページは:頭上から絶叫! 3階で映画を見ていた客が床に落下
■頭上から絶叫! 3階で映画を見ていた客が床に落下 ⇒ 館内に入って1時間ほどした頃、不意に体が持ち上げられ、そして左右に激しく傾いた。と同時に、頭上から絶叫に似た声が起って、1階の椅子席に黒いものがたたきつけられた。かれは、一瞬なにが起ったのかわからなかった。が、椅子席に落下したものが、3階で映画を見ていた客の体であることに気づいた。館内は、大混乱におちいった。客は総立ちになると、出口に殺到した。その間にも、3階から2人の客が叫び声をあげながら落下した。
■館外に出るも建物が倒れかかってくるような恐怖に ⇒ スクリーンでは、依然としてカウボーイが原野に馬を走らせている。地震でスクリーンが伸縮するらしく、画像はゆがみながら揺れていた。政男は、潮田と人にもまれながらようやく館外に出た。前の道は鮨屋横丁で、余りの激しい震動に立っていることができず鮨屋の軒先の柱にしがみついた。が、その柱も大きく左右に揺れて、今にも店の建物が倒れかかってくるような恐怖に襲われた。地面に手をついている者もいれば、よろけて倒れる者もいた。映画館の看板が随所で落下する音があたりにみちた。
■材木に挟まった男性は、眼球が飛び出し口から舌を垂らしていた ⇒ 震動がわずかに衰えた。かれは、柱から手をはなすと鮨屋横丁をぬけ出た。角に建っていた天ぷら屋が倒れ、1人の男が太い材木の下から顔だけを突き出していた。眼球が飛び出し、口から舌を垂らしていた。政男は、初めて眼にする死者の顔に恐怖を感じた。思考力は失われていた。大地震が起ったのだということは意識できたが、どのようにしたらよいのかはわからなかった。
■「瓢箪池へ逃げろ」⇒ 突然かれの耳に、「瓢箪池(ひょうたんいけ)へ逃げろ」という人の叫び声がきこえた。その声に、かれは池の方向に走り出した。路面は粘液のように揺れつづけていて、足もとが宙をふむように心許なかった。ただかれは、潮田と手をにぎり合っていることに救いを感じていた。瓢箪池近くに来た時、潮田の口から短い叫び声が起り、その眼が前方に注がれていた。
■高さは73メートルもあろうかという凌雲閣は傾き……倒壊 ⇒ 政男は、その視線の方向に眼を向けた。前方には東京初の高層建築物といわれた十二階(凌雲閣・りょううんかく)が立っている。高さは220尺(73メートル弱)で、10階までが総煉瓦造り、11階と12階が木造の八角形の塔状建物であった。館内には絵画室、音楽演奏室、休憩室等があり、11階と12階には見料一銭の望遠鏡が設置され、雲を凌ぐ高層建築物として東京名物になっていた。その凌雲閣の上部が傾いている。そして、中央からやや上方の部分が裂けると右方へ倒れていった。揺れつづける足元に新たな地響きが伝わって、建物の倒壊音が鼓膜をふるわせた。その光景に、かれの足は萎(な)え、全身に激しい痙攣が起った。凌雲閣が、倒壊したのである。
⇒ 次ページは:花屋敷の檻が破れたのか、動物を射殺するらしい銃撃音
■花屋敷の檻が破れたのか、動物を射殺するらしい銃撃音 ⇒ 政男たちが立ちすくんでいると、凌雲閣の飛び散った煉瓦に傷ついた者や土埃に包まれた者たちが逃げてくる。さらに花屋敷の檻も破れたのか、さまざまな鳥類が飛び交い、獣類を射殺するらしい銃撃音もきこえてきた。そのうちに、池の近くにあるキネマ倶楽部が傾いてきたので、政男は、他の人々とともに浅草観音の境内に逃げた。が、早くも花屋敷方面に起った火災の炎が近づいてきて、かれは母のいる家へ帰るため吾嬬橋を渡って本所区に足を踏み入れた。
■凌雲閣の頂上展望台にいた人々 ⇒ 凌雲閣は、東京の代表的な高層建築物であっただけにその倒壊は東京人の関心をひいた。その日、凌雲閣の頂上展望台附近には12名乃至13名の登閣者があったが、8階から折れたため地上にふり落されて即死し、ただその中の1名は途中福助足袋の大看板にひっかかって奇蹟的にも死をまぬがれた。堅牢と思われていた他の大建築物にも倒壊又は大破したものが多く、丸の内のビルディング街でも工事半ばのビルや土台の軟弱な建物がつぎつぎに倒れた。さらに丸の内郵船ビルの裏手に建築中であった内外ビルも後方に倒れ、工事作業中の労務者300余名が圧死した。また芝区三田四国町にあった日本電気会社工場は米国製の最新式設備をもった3階建て鉄筋コンクリート造りであったが、第一震でもろくも全壊した。当時工場内には約400名の社員・職工が勤務中で、出口近くにいた十数名の者をのぞく全員が瓦礫の下敷きになって死亡した。
■地割れが発生し、橋梁は落ち電柱は倒れ、水道管が破裂 ⇒ その他、市内各所に地割れが生じ、橋梁は落ち電柱は倒れ水道管は破裂して、隆起・沈下によって東京市とその周辺の大地は激しく波打った。下町の本所区は、家屋全壊493戸、半壊479戸という大被害を受けているが、当時小学生であった内馬場一郎氏の回想談を記してみる。
■内馬場一郎さんの回想談 ⇒「私の家は南二葉町にあって、本所被服廠跡(ひふくしょうあと)のすぐ前の横丁を入った所にありました。家業は金属加工業で、職人を10名ほどかかえておりました。その日(9月1日)は2学期がはじまる日で、始業式を終えて帰宅してから十軒ほどはなれた友達の家に遊びに行きました。ひととき遊んだ頃、友達の家の台所でまな板に庖丁を小刻みにあてる音がしてきました。母から他人様の家で遊ぶのもよいが食事時近くになったらすぐ帰ってこなければならぬと厳しく言い渡されておりましたので、友達の家を出ました。その時です。突然体がはね上ったと思った直後、地面が横に激しく揺れはじめました。立っているどころではなく、恐しさでしゃがんでしまいますと、傍の家の瓦が波のような音を立ててすべり落ち、壁も崩れてきます。そのうちに激しくきしみながら揺れていた眼前の家が、土煙りをあげて露地に倒れました。
⇒ 次ページは:「この樹木をはなしたら死ぬ!」
■「この樹木をはなしたら死ぬ!」⇒ 私は、這ってでも家へ行くつもりでしたが、倒れた家で露地がふさがり進むこともできません。今にも傍の家が倒れはせぬかという恐怖で、私は物につかまりながら被服廠跡前の大通りへ辛うじて出ました。路上にも、多くの家が倒れていました。道に並木がありましたので、私は樹木にしがみつきました。木も右に左に揺れていましたが、この樹木をはなしたら死ぬと思いました。どれほどたった頃かわかりませんが、私の肩をつかむ人がいます。振り向くと、それは梅原という父の雇っている若い見習い職人でした。梅原の言うには私の家もすでにつぶれてしまったということで、ひどく悲しい気持になりました。震動が少しゆるやかになったので、私は、梅原と被服廠跡の敷地へ入りました。空地の多い亀戸村へ逃げようかという話もありましたが、広い被服廠跡の方が安全だと思ったのです。その頃、町の中から火事が所々で起きはじめていました」警告されていた大火災の発生。意外な発火原因と、延焼をうながした最大の原因 へ続く
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【前の話を読む】地震計の針は飛び散った。家屋崩壊、列車の転覆、地盤沈下――“関東大震災”が起こった日
【続きを読む】警告されていた大火災の発生。意外な発火原因と、延焼をうながした最大の原因
3月3日未明、黒々とそそり立った波が村落を襲った――死者911名を出した田老の津波
「津波太郎」と言われても離れることはできなかった――岩手・田老と津波の因縁
「腹破らんでくれ! 喉食って殺して!」本当にあった“ヒグマ食害事件”の地獄絵図
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200311-00036405-bunshun-life