浜田省吾『82年の武道館公演のはじまりの話』
2022(令和四)年01月29日(土) 19時34分01秒 テーマ:浜田省吾さん
【ライター古矢さんのLIVEレポートの件】
『SHOGO HAMADA / 40th Anniversary ON THE ROAD 2022 LIVE at 武道館』
2022(令和四)年1月6日(木)、7日(金)
日本武道館 文:古矢徹さん 写真:内藤順司さん
長年に渡って浜田省吾さんのファンクラブ会報誌『Road&Sky』の編集・インタビューも務めている古矢さんの記事は素敵なLIVEレポートが書かれていましたね。皆様も読まれたと思います。で、LIVE2日目で姫路で「武道館」の話が持ち上がったと言う話の補足をしたいと思います。姫路とは、
‡1980(昭和55)年09月23日(火) 姫路市文化センターになります。田家さんの本
『陽のあたる場所』<P.252参照>にも記載されています。姫路市文化センター公演後の食事の時だったとあります。
「この日のライブはとてもうまく歌えていて、これなら武道館も十分やれるのではないか?」と思ったとのこと。いつものようにぼそぼそと話すような感じで観客も300人程しか入っていなかったと言われています。LIVEのMCでは、ロスで例のオカマに遭遇した話とか、ニッキー・ホプキンスに是非一緒にツアーをまわろうと誘われたけど「自分には最高のバンドがあるから」と断った話など・・・。ALBUMが発売前なので「新しい曲を歌います」と言われるのが、今では懐かしい感じです。ちょうど夜中にセイヤングをされた後に姫路に来てLIVEをされています。
1980(昭和55)年09月16日(火)に『セイヤング』は“終了”を告知されてます。番組では、町支さんはスティーブ・ルカサーのギターを一生懸命練習して手にたくさんバンドエイドを貼ってますとか言われていました。ロスから帰国して10日してツアーが始まってるからバンドメンバーも大変だったんだろうね。セイヤングを辞める理由も少し語られていました。ちなみに、武道館のチケットは2日間で完売してます。で、どんなセットリストかというと下記になります。
‡1980(昭和55)年09月23日(火) 姫路市文化センター】
★01)終わりなき疾走
02)風を感じて
MC01
★03)今夜こそ
04)朝のシルエット
MC02
★05)あばずれセブンティーン
06)反抗期
MC03
07)いつかもうすぐ(弾き語り)
MC04
07)君の微笑(弾き語り)
MC05
08)片想い
MC06
★08)丘の上の愛
MC07
09)青春のビジョン
10)路地裏の少年
MC08
11)いつわりの日々
MC09
★12)東京
★13)明日なき世代
MC10
★14)家路◎
☆アンコール☆
1)今夜はごきげん
MC11
2)演奏旅行
MC12
3)Midnight Blue Train
★ALBUM曲。発売の一月前のLIVEです。オーディエンスにしたら初めて聴く曲ばかりで興奮したと思います。今回は◎に力を入れてみました。当時のLIVEの雰囲気を感じていただけたら幸いです。町支さんのギターソロも素晴らしいです。本当に・・・。YouTubeアドレスはこちらです?
https://ameblo.jp/kchan1982/entry-12723962433.html
1971(昭和46)年09月23日(木)レッド・ツェッペリン衝撃の初来日公演がおこなわれた【大人のMusic Calendar】
2016-09-23 公開【執筆者】大野祥之
2020-01-12 更新 By - NEWS ONLINE 編集部
写真◆LED ZEPPELIN,ロックカーニバル#7
あの日、ロック後進国だった日本は、ロックがいかに自由でいかに美しいものであるのかを,初めて知ったのだった……。1971年9月23 日、キョードー東京が主催した「Rock Carnival ♯7」という外タレの日本公演シリーズの一環だった。その数日前から来日して、赤坂日枝神社裏にあった赤坂ヒルトン・ホテルに投宿していたレッド・ツェッペリンの日本滞在は、まさにロック・シーンの黒船来航のような騒ぎだった。ボクが目撃した数多くのエピソードは、そのうち書くことになると思うけれど、まずは当時の彼らは現在のようなおじいさんではなく、20代の若さあったということを忘れてはいけない。最年長だったジミー・ペイジでさえ、当時はまだ27歳の若さだったし、ジョン・ポール・ジョーンズも25歳。メンバーのなかでいちばんの暴れ者だったジョン・ボーナムとロバート・プラントは、たった23歳でしかなかった。その若さで、彼らはすでに全世界のロック・バンドのトップに立っていたわけで、まさに血気盛んなお年頃だった。また、当時の日本では、ロックを聴くのは不良だと言われ、学校や家庭でも子供にロックを聴かせないようにしているところが多かった。そんな状況だったから、社会人でロック・ファンという人はほとんど見かけることもなかったし、ロック・ファンの中核をなしていたのは、中学生から高校生たちという年齢層だったことも、現在の日本のロック事情とはかなり違っていた。当時、オトナでロックを聴いているような人間は、ほとんどいなかったのだ……。そんな1971年11月には、あの歴史的名盤『レッド・ツェッペリン Ⅳ』がリリースされることになるが、9月の来日の時点では、まだ日本のロック・ファンでその音を聴いた人はほとんどいない状態だった。いまでもよく覚えているのだが、じつは初来日直前に、このアルバムの見本盤がごく少数だけできてきて、限られた関係者だけに配られていた。当時、日本盤に封入されていた歌詞カードの歌詞は、日本のレコード会社が在日外国人(英語が母国語の人とは限らない)に聞き取りを発注して作っていたために、かなりの割合で間違っていることが多かった。逆に言うならば、日本以外の国で、歌詞カードが入っているレコードを発売している国はなかったのだ。だから、たとえ間違っていることが多かったとしても、レコード会社のディレクター諸氏は、その精度をあげようと、英語圏が母国の外国人を探し求めていたのだ。そんな時代背景のなかで、『レッド・ツェッペリン Ⅳ』は、レコードの内袋に「天国への階段」の歌詞が、最初から印刷されていて、日本盤もそういう仕様にするようにという指示がされていた。
写真◆レッド・ツェッペリン特別公演,チケット,日本公演
それまで歌詞をレコードに封入することのなかった彼らから、特別に指示があったということだけでも、この「天国への階段」という曲が、彼らにとって特別な存在であることを物語っていた。
1971年9月23日午後6時を少しまわって始まったレッド・ツェッペリンの初来日ツアーの初日は、3枚目のアルバムのオープニングを飾っていた「移民の歌」だった。この日、ボクはアリーナの2列目、ジミー・ペイジのまえあたりの席だったが、それまで聴いたこともないような爆音がスピーカーから吐き出された瞬間に、背後から突き飛ばされるような衝撃を受けて、まえの席を乗り越えて、ステージと客席の間にもうけてあった空間に押し出されていた。ロバート・プラントのハイトーン・シャウトが響くなか、ふと振り返った目に飛び込んできたのは、血相を変えてステージ目掛けて突進してくるファンの群れだった。完全に目がイっちゃっている人たちが、こちらを目掛けて突進してくる様子は、じつに恐ろしかったので、ボクはいったんその場から少し下がり、パイプ椅子の上に立ってライヴを観ることにした。あの短い1曲が演奏されている間に、ステージ直前のアリーナの空間は、まるで戦場のような混沌状態におちいっていた。その当時のライヴ・メニューだと、一呼吸おいて「ハートブレイカー」が演奏されるはずだったのだが、この日はジミー・ペイジのギターの弦が切れるというアクシデントが起こって、弦を張り替えている間をロバート・プラントがMCでつなぐという、ちょっと珍しい展開だった。もう、そこからはまさに狂乱状態で、いかにもZEPらしいライヴがくり広げられたのだが、3枚目のアルバムに収録されていた「アウト・オン・ザ・タイルズ」のイントロが響き渡って、観客がどよめいた瞬間、ブレイクに続いて、まだリリースされていない4枚目のアルバムのオープニングに収録されていた「ブラック・ドッグ」へとなだれこんでいった。複合リズムを使ったこの曲は、ただエイトビートでのろうと思っても、思うようにのれないという、ユニークな楽曲で、初めてそんな曲にライヴで出会った武道館の観客たちは、リフが演奏された瞬間に凍りついたかのように動きを止めたのだった。お客さんが期待していた曲をイントロでぶった切って、のりにくいリズム・パターンの曲をぶつけてくるという発想は、まさに若くて柔軟性にあふれた頭脳から出てくるアイディアに他ならない。しかも、続いて披露されたのが、ヴァイオリンの弓でレスポールを弾くというパフォーマンスで有名な「幻惑されて」だった。ジミー・ペイジの弓の動きに合わせて、ギターの音が飛びまわるようなPA処理も、それまでの日本のロック・コンサートで出会ったことのないもので、その同期の見事さにひたすら驚かされたことを記憶している。そして、この有名なパフォーマンスを堪能したあとに演奏されたのが、まだ日本では知られていなかった「天国への階段」だった。イントロのギター・アルペジオとオルガンのアンサンブルは、それまでに親しんできたZEPサウンドとはまったく違っていたし、展開につぐ展開によって、壮大に広がっていくダイナミックなこの曲は、初めて聴いた人たちの耳を釘付けにしてしまうほどのインパクトにあふれていた。ライヴ中盤では、アコースティック・セットで2曲を披露。このアコースティック・セットを取り入れたステージングというのも、それまでに日本の観客が出会ったことのないものだったので、ZEPを単純なハード・ロック・バンドだと思っていた観客のなかには、このときこそトイレタイムとばかりに、トイレに駆け込んだ人もいた。とにかく、ジョン・ボーナムのドラム・ソロもウワサ以上の迫力だったし、「胸いっぱいの愛を」からメドレーで演奏されるロックン・ロールの名曲の数々も、日本でライヴ演奏されるのは初めての曲が多かった。今回は初日のライヴをちょこっとつまんで書いてみたが、ライヴとはレコードで聴ける曲をそのまま演奏するものだと思っていた日本のオーディエンスに、レコードとぜんぜん違う演奏を聴かせるのもライヴの魅力だということを、ストレートに伝えてくれたことや、まだリリースされていない曲でも、ライヴで演奏することで曲を成長させるという、ジミー・ペイジの音楽哲学をはっきりと見せてもらったような画期的な一夜だった。この9月23日のレッド・ツェッペリン初来日公演で、日本のロックは大きな衝撃を受けて、その後のシーンが作られていくことになる。そういう意味では、9月23日こそ、日本のロックが変わった日として記憶されるべきかもしれない。
https://news.1242.com/article/104119
映像◆FMW TV (September 26th, 1991) https://youtu.be/JJlJbgE--t4
‡1991(平成三)年9月23日(月) 川崎球場
1991(平成三)年9月26日(木)『プロレス ニューフォロンティア―FMWのすべて―』放送
Taped in Kawasaki Stadium in Kawasaki, Kanagawa on September 23rd
1) Eiji Ezaki vs Masashi Honda
2) Eight Man Battle Royal
3) Horace Boulder/The Shooter vs Jimmy Backlund/Kim Hyun Hwan
4) Akihito Ichihara/Amigo Ultra/Ultramancito vs El Pandita/Pandita Chiquita/Yukihido Ueno
5) Combat Toyoda vs Reggie Bennett (WWA Women's title Indian Strap match)
6) Svetlana Goundarenko vs Megumi Kudo
7) Big Titan/The Gladiator vs Ricky Fuji/Sambo Asako (Street Fight Stretcher match)
8) Grigory Verichev vs Katsuji Ueda
9) Atsushi Onita vs Tarzan Goto (No Ropes Exploding Barbed Wire Cage Death Match)
“鼻マスク”市議の振る舞いに…市民「大人げない」
‡2021(令和三)年09月23日(木) 19:13配信 テレビ朝日系(ANN)All Nippon NewsNetwork(ANN)
新型コロナの感染状況がいまだ予断を許さないなか、マスクやワクチンを巡るある議員の振る舞いが物議をかもしています。
大分県臼杵市議会の委員会はこんな言葉で始まりました。
委員長:「本委員会でも適切なマスクの着用のルールの順守をお願いします」ところが…。
委員長:「質疑は挙手をもってお願いいたします。若林委員、正しくマスクを着用してから発言して下さい」発言を求めた市議。マスクから鼻が出てしまっています。すぐにマスクを引っ張り上げるのかと思いきや…違いました。
若林純一市議:「あの、このままでの発言を許可して頂きたいと思います」たびたび注意されても…。
若林純一市議:「このままでの発言をお許し下さい」かたくなに鼻は出しておきたいようです。なぜ、そんなにも正しい着用を拒むのでしょうか。
若林純一市議:「要するに新鮮な空気が吸えないことは、要するに思考回路が働かない、100%。ですから私は強制、強要はされたくない。ただ最大限受忍の限度なりエチケットの範囲内であればします」その結果が鼻出しマスクだということです。ただ、鼻からも飛沫(ひまつ)は出ますし、ウイルスを吸い込みます。ツイッターにはこんなことも書き込んでいました。
「マスクが健康な人に強要されるべきではない。そんなローカルルールには従わない」とはいえ、健康な人が感染したり無症状で感染させたりするのが新型コロナです。
市民:「個人、それぞれの意見はあったとしてもやっぱり大人げないと言いますか、周りのことも考えて最低限のマナーだと思います」
市民:「自分を守って相手のことを守らないといけないじゃないですか、目に見えないから。印がついていればいいけど、だから私は(マスクを)しようかなと」
◎9/23(木) 23:08 Japanese Boy この議員は素晴らしい。言っておられることも正しい。何も問題ない!たかがコロナごときでガタガタ言うほうがおかしい!本当に怖いのはワクチンだ!!!
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https://news.yahoo.co.jp/articles/0fe649162b1e86a4ae9fbcfbbe41edf53d60ee16
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┃宮崎秀吉┃
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1910(明治43)年09月22日(木) 生誕
2019(平成31)年01月23日(水) 逝去
2019(令和元)年現在、105歳以上の部、世界記録保持者
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https://en.wikipedia.org/wiki/Hidekichi_Miyazaki
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世界最速105歳「競争相手いない」 次の目標難しい
2013(平成25)年11月13日(金) 08時20分『京都新聞』配信
写真◆毎日欠かさぬ体操を実演する宮崎さん(近江八幡市鷹飼町・滋賀県立男女共同参画センター)
105歳の世界最高齢スプリンターで、マスターズ陸上105~109歳クラスの100メートルと砲丸投げの世界記録保持者、宮崎秀吉さん(京都市右京区)が
2013(平成25)年11月12日(木)、近江八幡市鷹飼町の滋賀県立男女共同参画センターで講演し、健康を支える日常や競技生活を語った。宮崎さんは「最近はさすがに足が弱りましたが、競争相手がいないので、いつも優勝です」と近況を報告。健康長寿の秘けつについて、体と心、経済の三つの健康を挙げ、朝昼晩の体操や真っすぐな心、借金をしない生活など例を示した。また、手足を動かす独自の体操を実演すると会場から拍手が起こった。一緒に登壇した同居する長女の聖乃さん(74)は「布団の出し入れなど自分の事は自分でしている。介護の大変さはほとんどない」と話した。今後の目標を問われた宮崎さんは「90歳の時は100歳を、100歳では105歳を目標に競技を続けてきたが、これからは非常に難しい。家族は心配するし、世間は期待する。どうしたものか」と心情を語った。
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105歳、100m世界記録 京都の男性42秒22印刷用画面を開く
‡2015(平成27)年09月23日(水) 19時11分
マスターズ陸上の男子100メートルで世界記録を樹立し、大勢の報道陣を前にポーズを披露する宮崎秀吉さん(23日、京都市右京区・西京極補助競技場)宮崎さんは
2015(平成27)年09月22日(火)に誕生日を迎えたばかり。京都マスターズ陸上競技連盟が「京都で世界記録を」と誕生日翌日に会場を確保し、記録達成のため準備を整えた。100メートルではゴールを真っすぐに見据え、一歩ずつ脚を運んだ。ゴール後、最高齢スプリンターの世界記録を更新したとしてギネス社の公式認定員から認定証を受け取り、静岡県から駆けつけた5歳のひ孫、元場結(ゆい)ちゃんから花束を贈られた。1時間後には砲丸投げに挑戦。歯を食いしばり、3回の試技をこなした。宮崎さんは「ゴールできて良かったが、目標は35秒だった。あまりにも悪いタイムなのでやめる訳にはいかない」と話した。105歳まで走り続けられる秘けつについて、「根性だな」と意欲を見せた。90歳を過ぎてから本格的に陸上競技に取り組み、全日本や京都のマスターズ大会に出場。100歳だった2010年には滋賀マスターズで100メートル(100~104歳)の世界新記録(29秒83)を達成。105歳を迎える今年は、シルバーウイーク最終日の記録会で記録達成を狙っていた。
http://www.kyoto-np.co.jp/sports/article/20150923000105
■反戦映像◆ブラディ・ファイト・シリーズ
‡1981(昭和56)年09月23日 田園コロシアム
アンドレ・ザ・ジャイント VS スタン・ハンセン
https://njpwworld.com/p/s_series_00036_2_1
■猪木映像◆ブラディ・ファイト・シリーズ
‡1981(昭和56)年09月23日 田園コロシアム
アントニオ猪木 VS タイガー戸口
https://njpwworld.com/p/s_series_00036_2_3
■初虎仮面映像◆ブラディ・ファイト・シリーズ
‡1981(昭和56)年09月23日 田園コロシアム
タイガーマスク VS エル・ソラール
https://njpwworld.com/p/s_series_00036_2_2
■猪木映像◆G1 CLIMAX SPECIAL 1994
‡1994(平成六)年09月23日 横浜アリーナ INOKI FINAL COUNTDOWN 2nd プロレス VS 柔道異種格闘技戦
アントニオ猪木 VS ウイリエム・ルスカ
https://njpwworld.com/p/s_series_00129_1_01
■猪木映像◆G1 CLIMAX SPECIAL 1995
‡1995(平成七)年09月23日 横浜アリーナ
長州力&永田裕志 VS 安生洋二&中野龍雄
https://njpwworld.com/p/s_series_00138_1_1
映像◆【昭和のプロレス】田園コロシアムでの語り継がれる名勝負、アンドレVSハンセン。試合後に古舘はhttps://youtu.be/9j9_Se1-zW8
映像◆【田コロ決戦】スタン・ハンセンvsアンドレ・ザ・ジャイアント【最強対決】https://youtu.be/SfmrOpWnUh4
‡1981(昭和56)年09月23日(wed) 田園コロシアムで対決したアンドレ・ザ・ジャイアントとスタン・ハンセン。このカードこそ、ガイジン対決のベストバウトに推す声も多い。伝説の田コロ決戦の舞台裏を考察します。
映像◆【伝説のハンセンvsアンドレ】両者が控室で話し合って決めた決着方法。その3つの演出ポイントとは?https://youtu.be/bJG8x6jJSsM
映像◆Led Zeppelin - Live in Tokyo 1971 (Rare Film Series) https://youtu.be/eNNEPfdjPXo
スタン・ハンセン 衝撃のウエスタンラリアット
2020(令和二)年12月20日(日) テーマ:プロレス
入場テーマソングの「サンライズ」は不沈艦スタン・ハンセンに見事に合っている。あのメロディは大好きだ。超一流のプロレスラーは、入場シーンでファンを魅了する。スタン・ハンセンはブルロープをぶん回し、すでにエキサイトしている形相で群がるファンを蹴散らしながらリングへ進み、ロープをくぐってリングインすると「ウィー!」というお馴染みの雄叫びを上げる。絵になる男だ。ゴングが鳴ると試合が終わるまでひたすら動き続ける。ボディにキック、首筋にエルボーのラフファイト。ボディスラムで叩きつけてエルボードロップ!フライングメイヤーで投げてエルボーバットからのスリーパーホールド。とにかく止まらない。私が初めてスタン・ハンセンの試合を観たのは、新日本プロレスのテレビ中継だった。何と、上田馬之助とのシングルマッチだ。当時、上田馬之助はトップのヒールレスラーとして、アントニオ猪木や藤波辰巳が毎試合苦戦していた。そんな上田馬之助をウエスタンラリアットでフォールしてしまったのだ。私は衝撃を受けた。当時、スタン・ハンセンは首折り男として有名だった。ニューヨークのMSGでブルーノ・サンマルチノの首をへし折ってやったと豪語していた。後々詳しく話を聞くと、決してウエスタンラリアットで首を骨折させたわけではないらしい。しかし、スタン・ハンセンとの試合でブルーノ・サンマルチノが負傷したのは事実だ。スタン・ハンセンは、アントニオ猪木にはなかなか勝てなかったが、
1980年、NWFヘビー級選手権で、猪木をウエスタンラリアットで場外に転落させ、リングアウト勝ちした。ついに猪木に完勝し、ベルトを強奪した。
‡新日本プロレスでは、スタン・ハンセンとアンドレ・ザ・ジャイアントの夢の対決を観ることができた。223センチ、260キロのアンドレをボディスラムでぶん投げるスタン・ハンセンの怪力には度肝を抜かれた。スタン・ハンセンはハルク・ホーガンやブッチャーともタッグを組んだことがあるが、相手選手が気の毒だ。強過ぎた。現代の日本のプロレス界では、レスラーがあちこちのリングに、結構自由に上がることができる。しかし当時は、馬場社長が厳格だったので、新日本プロレスに所属しているレスラーが、全日本プロレスのリングに上がることはできなかった。そういう時代背景だからこそ、大事件が起こった。
全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦の優勝戦で、ブルーザー・ブロディとジミー・スヌーカが入場する時、スタン・ハンセンがセコンドとして一緒に入場して来た。放送席は大騒ぎで、ファンも驚き、会場はどよめいた。リング上のザ・ファンクスもレフェリーに抗議する仕草を見せた。そして、まさかの乱入。リング上では、ドリーがスヌーカに伝家の宝刀スピニングトーホールド。しかし場外ではブロディがテリー・ファンクの腕をつかんで思い切り振って、スタン・ハンセンが衝撃のウエスタンラリアット!テリー・ファンクは失神KOだ。私は感動のオープンタッグの再現で、またテリー・ファンクが不屈のテキサスブロンコを発揮し、ブロディとスヌーカとハンセンに左の拳を炸裂させるドラマになると思った。ところが、テリーは起き上がることはなく、ブロディがキングコングニードロップでドリーをフォールするというリアルファイトだった。試合直後、激怒したジャイアント馬場とジャンボ鶴田が走って来てスタン・ハンセンに襲いかかり、大乱闘になった。その後、スタン・ハンセンは全日本プロレスに移籍した。スタン・ハンセンは誰よりもブロディの性格を知っている。ブロディのプライドがエベレストよりも高いことを熟知しているハンセンは、移籍する話を一番最初にブロディに打ち明けた。「聞いてない」とキレかかったブロディに、ハンセンは「だから今話している」となだめた。そして、ブロディとハンセンのミラクルパワーコンビが再結成された。まだグリーンボーイだった頃にタッグを組んでいた二人とは実力が違う。超ド級のスピードとパワーで暴れまくる無敵の最強コンビだ。「組むこと自体が反則」と言われた。試合中の乱入は良くない。これは論を待たない。やるからには、スタン・ハンセンのように日本マット界を揺るがす大事件になるような乱入劇にする覚悟が欲しい。小粒な選手の乱入や裏切り行為は、その団体内の小さな出来事に過ぎない。プロレスラーは自分を安売りしてはいけない。自分の行動が大事件になるには、それなりの影響力のある実力者になることが先だ。でないと事件にはならない。全日本プロレスでは、ザ・ファンクスと対決している時は、スタン・ハンセンはヒールだったが、徐々にヒール色が薄らいだ。ヒールではなく、ヒーローとして四天王の高く厚い壁となり、スタン・ハンセンはトップの座をなかなか譲らなかった。ただ、私はやはり、新日本プロレスで皆から恐れられていたヒールのスタン・ハンセンが懐かしい。スタン・ハンセンと試合するレスラーは、冗談抜きに壊されるかもしれないという覚悟でリングに上がった。スタン・ハンセンは、外国人レスラーの中で、最も成功したプロレスラーかもしれない。日本マット界を盛り上げた大功労者だ。多くの名レスラーが旅立つなかで、71歳のスタン・ハンセンが今でも健在なのが嬉しい。
https://ameblo.jp/sawasato-takashi/entry-12645209945.html
┏━━━━━━━━━━┓ 1933(昭和八)年12月1日(金) 生誕
┃ 藤子・F・不二雄 ┃†1996(平成八)年9月23日(月) 逝去
┗━━━━━━━━━━┛http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%AD%90%E3%83%BBF%E3%83%BB%E4%B8%8D%E4%BA%8C%E9%9B%84
ドラえもんの名言 ⇒ 人間の値打ちは顔じゃない。頭だ!力だ!障害があったらのりこえればいい!道をえらぶということは、かならずしも歩きやすい安全な道をえらぶってことじゃないんだぞ。大人ってかわいそうだね。自分より大きなものがいないもの。よりかかってあまえたりしかってくれる人がいないんだもの。どっちも自分が正しいと思ってるよ。戦争なんてそんなもんだよ。どんなに勉強ができなくても、どんなに喧嘩が弱くても どこかに君の宝石があるはずだよ。その宝石を磨いて、 魂をピカピカに磨いて魅せてよ。科学は人間の心を豊かにしたが、同時に心を貧しくしたのではあるまいか。流れさった時間は二度とかえってこないんだ。悩んでいる暇に一つでもやりなよ。無理しないで、自分の力で出来ることをやってみようよ。みせびらかしていばるなんて、感心しないな。自分で楽しんでいればそれでいいじゃない。人にできて、きみだけにできないことなんてことあるもんか。毎日の小さな努力のつみ重ねが、歴史を作っていくんだよ。過ぎたことを悔やんでも、しょうがないじゃないか。目はどうして前についていると思う?前向きに進んでいくためだよ。いっしょうけんめいのんびりしよう。時々、理屈にあわないことするのが人間なのよ。
http://quote.qooin.com/maxim/doraemon.html