過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日のetSETOraだヨ(=^◇^=)O♂


回答No.1 http://okwave.jp/qa/q6280359.html
2006(平成18)年12月5日(tue)にニューヨーク市内の24600軒の飲食店の全てに対しトランス型脂肪酸の使用を禁止が発表され、レストランやファーストフード店は2007(平成19)年7月までにマーガリンやショートニング、食用油、揚げ油をトランス脂肪を含まないものに切り替えてゆき、一人分の料理品のトランス脂肪含有量を0.5グラム以下にしなければいけないとういう条例になっています。最近のニュースですと、カルフォルニア州が2010年からレストランや総菜店などで、マーガリンなどTFAを含む油脂類の使用ができなくなり2011(平成23)年にはケーキや焼き菓子などでの使用も禁止されるというのがあります。マクドナルドやケンタッキーなど欧米にあるファーストフード店は既に油をトランス脂肪酸の少ない(又は含まない)ものに変えていますが日本は変えていないという事も知りました。

『飲食の戦士たち~プロフェッショナルたちの仕事(じんせい)論』は、飲食業界をリードする企業の社長の生い立ちから生き様、独立までの軌跡を紹介するシリーズです。思い出の写真と共に、企業理念とそれを掲げるに至った経緯、今後のビジョン、人材観などを紹介しています。飲食業界を志す方、もっと上のレベルで働きたい方、そしてこれから独立を志す方、必見です! 
第156回 株式会社一蘭 代表取締役社長 吉冨 学氏
生年月日 1964(昭和39)年12月5日(土)、福岡県北九州市に生まれる。 
プロフィール 大学在学中、父親が病に倒れ、生活費を捻出するためにアルバイトを開始。卒業後、さまざまな事業を興し、「一蘭」の屋号を守ることになる。小さな店だったが、それを全国区に。2010年6月現在、27店舗まで広がり、2007年にはニューヨークにオフィスを構えるまでになっている。稀代のアイデアマンが、ラーメン業界に巻き起こした新風と新たな常識に注目していきたい。 
主な業態 「一蘭」企業HP http://www.ichiran.co.jp/ 
19歳。新規開業の店舗で、アルバイトを始める。1964年12月5日、福岡県北九州市に生まれる。4人家族の長男。姉が一人いる。サラリーマンの父。母は専業主婦。ごく一般的な家庭のなかで育っていく。小学生の頃にはソフトボール。中学時代には野球に取り組んだ。運動神経はよく、とにかくスポーツならなんでもできるタイプの少年だった。一方、小学生の頃からリーダーシップに長けていたそうだ。とはいえ、10代の頃はたいした目標もなくその日暮らし。とくに何かに打ち込んだこともなかった。そんな吉冨に一つの転機が訪れたのは19歳。父が病魔に侵され闘病生活を始めたのだ。当時、吉冨は、第一経済大学の学生。仕送りがなくなったため、食堂でアルバイトを開始した。これが飲食業との出会いである。新規開業の、オープニングスタッフの募集に応募して採用される。店主とチーフと吉冨の3人が立ち上げメンバーだった。「開業の企画からその後の運営までを経験することができた」と吉冨。「けっして楽ではなかったが、この間に経営をまなび、ラーメンビジネスにも興味を持ち始めた」とも言っている。 
「子どもの頃からおまえはアイデアマンだった」と父は語った。父の最期の言葉は、吉冨を奮い立たせた。「おまえは商売に向いている。商売人になれ」。その一言に吉冨は、こう答えた。「商売するなら資金がいる」、と。だが、父は諭すようにこう付け加えたのだった。「うちにはお金も、土地も、人脈もない。だが、おまえには頭があるじゃないか。おまえは子どもの頃からアイデアマンだった。おまえなら必ずできるから…」。吉冨、20歳の時に父は他界した。吉冨は、商売を自らの方法で模索する。メモとペンを持ち歩きアイデアがひらめけばすぐに書き留めた。だが、それほど商売は、簡単ではない。アイデアを錬り、事業を興すこともあったが、なかなか軌道に乗らない。最初に始めたのはファミコンの販売。ショップまで持ったが、儲けが出るまでには至らなかった。それもそうだろう。経営について吉冨は学んだこともない。アイデアは良かったが、商売に変換する能力はまだ修得できていなかったのである。人手不足の状況から派遣事業を開始。ある人との出会いをきっかけにコンビニエンスストア関連の物流倉庫の請負業も行なっている。外国人でも分かるように商品名を数字に置き換えたり、作業をマニュアル化したりするなどアイデアで効率を高めた。しかし、良かれと思って始めた小さな接待で人の本性をみた。相手の要求が徐々にエスカレートする。吉冨がいまも、社内で一切の接待を禁じるのはこの時の教訓からである。 
ラーメンは演歌歌手。都会の片隅でなるべく寂れた小さな店を。ラーメン店を開業することを決意した吉冨。とんこつスープに洋ごしょうではなく、赤唐辛子を用い、スープのうえに赤いたれを浮かべる、まるで一つの蘭の花びらがスープに舞うようなラーメン。まずは物件探しである。ちょうどこの頃から、ラーメンが、映画やドラマのシーンなどで人生の侘び寂びを象徴するような使われ方をするようになったこともあり、「ラーメン店は無理に目立つ必要はない」という思いがあった。“都会の片隅的”な立地で、なるべく寂れた小さな店を探したのである。歌手に例えると、きらびやかなアイドルよりも、地味な演歌歌手の方がいいという思いがあったそうだ。 ただ、そんな中でも行列ができれば目立つように、通行量はなるべく多いところ、1階の物件であること、駐車スペースなども当然考慮した。 更に店に味わいを出すために、敢えて廃材を使用するなどかなりこだわった。そしついに1993年、吉冨は「那の川店」をオープンする。ちなみに「一蘭」の創業は1960年。吉冨が経営に乗り出すまでは、老夫婦2人が細々と営む大衆ラーメン店であった。吉冨は、このラーメン店を企業化し、全国区に育てていく。 
アイデアマンの本領が発揮される。とんこつ1本に絞る。一つ目の戦略は、この単品化だった。この戦略のアイデアは、学生時代のアルバイトの時に気づいた「捨てる勇気」がベースになっている。というのも、当時、働いていた食堂のメニューは豊富にありすぎたため、従業員にも過度な負担がかかっていた。それを見てきただけに、商品を絞り、一つのメニューに特化することに重きを置くことにしたのだ。「一蘭」の代名詞にもなっていた、唐辛子ベースの赤いたれも改良した。スープからは一切の臭みを取り除いていく。単品に絞ったことで、自慢のとんこつラーメンはさらに磨かれたことになる。製麺技術も研究を重ね、自家製麺を開発した。その一方で、250円、300円が主流の当時に、一杯650円という価格で勝負をかけた。それだけ手間隙をかけた究極のラーメンだったのである。他のラーメンと比べ高額だったが、客は価格に納得。「一蘭」は繁盛店になっていく。だが、吉冨はこれで満足したわけではない。吉冨のアイデアは尽きることがなかった。「記入式オーダーシステム」「味集中カウンター」はその好例だろう。「一蘭」では味の濃さ、こってり度、にんにくの量、ねぎの種類、チャーシューのあり、なし、秘伝のたれの量、麺の堅さが選択できる。さらに、こってり度だけでも5パターンからお気に入りの度合いを選べるようにしている。まるで、自分好みのラーメンをオーダーすることができるのだ。こうしたアイデアを盛り込みながら、「一蘭」はマスコミなどからも注目されるようになった。2001年には、東京都港区に「六本木大江戸線駅上店」を開店し、関東圏に初上陸。2007年にはニューヨークに現地法人ICHIRAN USA Inc.を設立した。現在、店舗は、博多、東京、大阪、名古屋に計27店を数えるまでになる。 
39歳、死の淵をみた。
2010年現在、すでに述べたように27店舗を展開する「一蘭」だが、吉冨39歳、2006年に、大きな挫折を経験することになった。事業のことではない。それであれば立ち向かえていたはずだ。人と人の信頼の糸が切れてしまったのである。ある日、突然、社員の4分の1が店を辞めてしまった。しかも、その社員たちを扇動したのは、小学時代からの幼馴染。右腕として、ともに戦ってきたはずのなかまだった。どうして? 彼がなかまたちを連れて辞めなければならないほどの状態になってしまっていたことが受け入れられず、苦悩する。思考は、暗い淵に沈んでいく。ついには遺書を書き、妻と子供、そして従業員を福岡に残し、新幹線に乗り込んだ。行き先は京都。京都の「吉兆」で食事をしたら、どこかで死のう、と思いつめた。そのとき、隣に老夫婦が座る。耳が悪いのか、何度も大きな声を張り上げていた。嫌でも話が耳に入る。「ばぁさん、ばぁさん」と夫が妻にアサヒビールを注ぎながら、「明日から原点に返ってキリンラガーにしよう」と。「原点に戻って」。その言葉が吉冨の頭のなかで何度もこだました。「また原点に戻ってやればいいじゃないか」と亡き父からそう言われているように感じた。またある店で、店員が声をかけてきた。「お客さんは、どちらから?」。吉冨が「福岡です」と答えると、店員はすかさず「一蘭のラーメンおいしいよね」と。心臓が脈打った。「遠い京都で一蘭を知っている人がいる。もう一度原点からやり直そう」。邪推だが、もしこのことがなければ、「一蘭」は、また吉冨は、アイデアと成功に溺れていたかもしれない。さらにいえば、資金があり、人脈があれば、どうだっただろう。父の言葉がやはり大きな意味を持つ。「おまえには頭があるじゃないか。おまえは子どもの頃からアイデアマンだった。おまえなら必ずできるから…」。ホームページにつぎのような一文が添えられている。<天然とんこつラーメン一蘭は、世界一とんこつラーメンを研究する会社です>。愚直なまでに磨きをかけたとんこつラーメンで勝負する「一蘭」。同時に、このラーメン店は従業員の幸せも徹底的に追求する「愛」に溢れていることも付け加えておこう。 
写真◆3歳の時 小学校3年生の時 派遣会社を営んでいた20代前半の頃(イベント現場での風船配り) 
写真◆93年オープンした1号店「那の川店」(28歳の頃) 師と仰ぐ 故・德永賢三先生と(天神店オープン時)
写真◆現地法人を設立した頃(2007年42歳) 
update 10/08/03(tue) 株式会社ドリーマーズ 中村正利氏
http://in-shoku.info/foodfighters/vol156.html

豚骨ラーメンの一蘭 吉冨学 社長のブランド戦略、商売の秘訣は「究極に絞り込むこと」
2015(平成27)年01月16日(金) 
「赤い秘伝のたれ」や「味集中カウンター」などのユニークな取り組みで知られる豚骨ラーメンの専門店「一蘭」は、1993年に1号店を開店してから着実に業績を伸ばし続け、今では年商100億を達成する一大チェーンへと成長した。この急成長の背後にあるのが、一蘭の吉冨学 社長が提唱する「一寸法師戦略」だ。吉富社長は「絶対的な商売の秘訣は、究極に絞り込んだブランドづくりにある」と強調する。
豚骨ラーメン一本に絞り込むからこそ、本物を追求できる
ラーメンとだけ向き合うための「味集中カウンター」は特許も取得している
今や他店の追随するようになった、ラーメンの中央に浮かべる唐辛子の赤い「秘伝のたれ」
独自のオーダーシステム
 「一蘭」というラーメン店をご存知だろうか。日本全国は言うに及ばず、今や世界にまで熱烈なファンを拡大し続けている豚骨ラーメン専門店である。ここでいう“専門店”は伊達ではない。豚骨ラーメン専門店を語りながらも、実際にはしょうゆラーメンやチャーハン、ギョーザなど色々なメニューを揃えている店が多い中、一蘭はあくまでも豚骨ラーメンのみである。 
豚骨ラーメン一本に絞り込むからこそ、味をより深く極め、本物を追求できるのだという。今では他店も追随するようになった唐辛子の赤い「秘伝のたれ」をラーメンの中央に浮かべ提供するという手法も、元祖は一蘭だ。 
実際、その豚骨ラーメンの味は絶品で、一度食べると病みつきになる。あのホリエモン(堀江貴文氏)もブログで、「あの独特な味。普通の豚骨ラーメンとは一味ちがう。私は好きすぎてマイ丼まで持っている」と絶賛するほどだ。 
一蘭が追求してきたのは味だけではない。「すべてのお客さまに、とにかく何も気にすることなく無心でラーメンを味わっていただきたい」そんな思いを抱いていた同社 代表取締役社長の吉冨学氏は、多くの女性に共通した意見があることに気付いた。「麺をすする口元を見られるのが恥ずかしい」「一人でラーメン店に入りにくい」というものだ。 
女性でも一人で気軽に入って、人目を気にすることなくラーメンを食べられるようにするにはどうしたらいいのか――。そこから考えされたのが、一人ひとりに間仕切りが設けられた「味集中カウンター」なのである。 
ほかにも専用の用紙に記入することで、麺のかたさや味の濃さ、こってり度などを好みにあわせて注文できる「オーダーシステム」、替玉を頼むとチャルメラが鳴る「替玉システム」など、試行錯誤の上にさまざまなアイデアが具現化されてきた。 
このように豚骨ラーメンに徹底してこだわり、年商100億円を達成する一大チェーンへと一蘭を発展させてきた吉冨社長が、cybozu.com カンファレンス2014に登壇。弱者が強者に勝つための商売の秘訣として、同社が実践してきた「一寸法師戦略」を明かした。 
人々の記憶に“粘りつく”イメージを作ることで商売の“シード権”を獲得できる。一般的なイメージとしては、豚骨ラーメン専門店とITはあまり結びつかないかもしれないが、実際には吉冨社長ほど“デジタル”を重視している経営者は珍しい。 
現在のビジネスの世界やコンシューマーの間で流通している情報量は15年前に比べて3,000倍になっている時代の潮流をとらえ、「経営者は決してデジタルが苦手という意識をもってはならない」と説くのである。 
「ITを使えば、調べたいこと、知りたいことが瞬時にわかる。何年も修行を積まなければ学べなかったことを、データや統計として入手することができる。速いスピードで流れていく世の中で、未来を予見しないと生き残ることはできない」 
IT活用こそが一蘭の急成長の原動力になっているわけだ。実際、全国店舗に広がる220人の社員間のコミュニケーションはサイボウズOfficeを用いて、売上報告はもちろん、ワークフローでの決済、新アイデアの募集などを積極的に行っているという。 
こうしたITが支援する形で取り組んできたのが、吉富社長の掲げる「一寸法師戦略」で、一蘭が具体的にどんなことを追求してきたのかというと、あらゆる思いや施策が「ブランドづくり」に集約されている。「価値あるブランドをつくることが、絶対的な商売の秘訣」と吉冨社長は言い切る。 
同氏のいうブランドとは、「その名前を聞いた時に、人々の頭の中で連想される」もの。これをどんどん研ぎ澄ませていくことで、あらゆる事象を商品やサービスに関連付けていくことができる。多様かつ大勢の顧客に同じものを連想してもらえるようになることが、何よりも重要なのだ。 
「たとえば、『銀座』と聞けば、ほとんどの人が『高級』と連想する。クラブのママであれば、銀座出身というだけで価値が上がる。地方に店を出しても、皆から『行ってみたい』と思ってもらえる」(吉冨社長) 
さらに、そうした連想をより広い領域で起こしてもらえるようにすることで、ブランドの価値はますます上がっていく。「豚骨といえば一蘭」→「ラーメンといえば一蘭」→「麺類といえば一蘭」→「ランチといえば一蘭」→「B級グルメといえば一蘭」→「食事といえば一蘭」と領域を広げていくことに、吉冨社長は全力を挙げてきた。 
実際、これによる効果は絶大であり、「人々の記憶に“粘りつく”イメージを作ることができれば、その価値の大きさはゴールデンタイムに永遠に無料でCMを流し続けることに相当する。口コミで広がり、マスコミにも取り上げられるようになり、人々の頭の中に“シード権”を獲得することができる」と吉冨社長は語る。 
先の堀江氏のブログをあらためて引用すると、そこには次のように評されている。できればそのラーメン屋にストーリーがあったほうが受けるのだ。でもその話は口コミでしか伝わらない。しかし一蘭の場合、ほぼ全員が半強制的にそのストーリーを覚えるので口コミが伝わりやすいのである。選ばれる第一の要素を完全に満たしている。 
そして結論づける「この会社の社長は只者ではない」と。 
【次ページ】「究極に絞り込んでいく」ことの大切さ 
 http://www.sbbit.jp/article/cont1/29105
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 http://www.sbbit.jp/article/cont1/29105?page=2

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①|2013(平成25)年 6月26日(水)|発売 第31号 
 └─――――――――――――┘   猪木、世紀の異種格闘技戦!ボクシング王者アリと対決
  日本プロレス激闘史 ⇒ 
 ‡1974(昭和49)年12月 5日(木) ジャイアント馬場 VS ジャック・ブリスコ 東京・日大講堂
  NWA認定世界&PWF認定両ヘビー級選手権試合60分3本勝負
  王者ジャイアント馬場(2-1)挑戦者ジャック・ブリスコ
  http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10136142835
ジャイアント馬場VSジャック・ブリスコ NWA・PWFタブルタイトル戦 74年12月日大講堂  https://youtu.be/uVXQSOSoidE

 ┌─――――――――――――┐   
②|2013(平成25)年 4月24日(水)|発売 第27号 
 └─――――――――――――┘   猪木がNWA王者ドリーと60分ノーフォールの死闘!
 ‡1984(昭和59)年12月 5日(水) 猪木&藤波 VS マードック&アドニス 大阪府立体育会館
 ┌─――――――――――――┐   
③|2014(平成26)年 6月25日(水)|発売 第55号 
 └─――――――――――――┘   猪木とアンドレが"異種格闘技戦"で激突!
 ‡1984(昭和59)年12月 5日(水) スーパー・タイガー VS 藤原喜明 東京・後楽園ホール
 ┌─――――――――――――┐   
④|2014(平成26)年 8月27日(水)|発売 第59号 
 └─――――――――――――┘   復帰した長州が大仁田と電流爆破戦!
 ‡1998(平成十)年12月 5日(土) 馬場&木村&百田 VS 渕&永源&菊地 東京・日本武道館
 ┌─――――――――――――┐   
⑤|2013(平成25)年11月13日(水)|発売 第40号 
 └─――――――――――――┘   
 ‡1998(平成十)年12月 5日(土) 小橋&秋山 VS ハンセン&ベイダー   東京・日本武道館
************* http://www.sportsclick.jp/pro60/index.html
 ①http://www.sportsclick.jp/pro60/lineup/31/index.html
 ②http://www.sportsclick.jp/pro60/lineup/27/index.html
 ③http://www.sportsclick.jp/pro60/lineup/55/index.html
 ④http://www.sportsclick.jp/pro60/lineup/59/index.html
 ⑤http://www.sportsclick.jp/pro60/lineup/40/index.html
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 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ 広島平和記念公園 Hiroshima Peace Memorial Park ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 ┌─――――――――――――┐原爆ドームが世界遺産に登録。
 |1996(平成八)年12月 5日(木)|これにともない、
 └─――――――――――――┘平和公園はバッファーゾーン(緩衝地域)に指定される。
  http://www.uta-net.com/user/phplib/Link.php?ID=107
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 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%B9%B3%E5%92%8C%E8%A8%98%E5%BF%B5%E5%85%AC%E5%9C%92
 1981  http://www.uta-net.com/song/107/  1985 http://www.uta-net.com/song/3798/
 1986A http://www.uta-net.com/song/41193/ 1987 http://www.uta-net.com/song/39172/
 1986B http://www.uta-net.com/song/38562/ 2002 http://www.uta-net.com/song/15535/
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●本日の今日、中通りの海軍のカレー屋さんOPEN OK♂♀
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 ┃ ♪ワインレッドの心♪ ┃安全地帯の4枚目のシングル作品
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 |1983(昭和58)年11月25日(金)|リリース
 |2012(平成24)年12月 5日(日)|グランドプリンスホテル新高輪「飛天」から生放送『2012 FNS歌謡祭』
 |2013(平成25)年 7月31日(水)|安全地帯×ATSUSHIに国立代々木競技場第一体育館から生放送
 └─――――――――――――┘『FNSうたの夏まつり』安全地帯×徳永英明×沖仁×上妻宏光×宮本笑里
 LIVE映像◆http://youtu.be/fqxCWkfahj8
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E3%81%AE%E5%BF%83

渡辺美里 死んでるみたいに生きたくない  http://youtu.be/SI_VBauvAik
1985.12.5
1989.12.1


 Mr.Children桜井和寿のカラオケ http://youtu.be/LidbvJtKBw0
 郷ひろみ「お嫁サンバ」1981年5月1日
 フィンガー5「恋のダイヤル6700」1973年12月5日
 安全地帯「ワインレッドの心」1983年11月25日
 チェッカーズ「ギザギザハートの子守歌」1983年9月21日
 
 KAN×桜井和寿(Mr.Children)  http://youtu.be/5Q3NNF61Ias
 

笑福亭鶴光のオールナイトニッホ?ン 1976年12月5日
https://www.youtube.com/playlist?list=PL3kqh6SYEL_SBbpdufNLCURqMePyPasIQ

破壊屋初来日 
1967.12.5(火)
破壊屋クラッシャー・リソワスキーが初来日した昭和42年のポスターです。馬場さんは、このクラッシャー来日まで、ハワイ特訓をしていて、この間日プロは「馬場抜き」シリーズとして興行していましたが、観客の入りはすこぶる悪かったそうです。 
http://blogs.yahoo.co.jp/hk08300830/32858382.html
 終戦50年特別企画『金曜の夜 日本は燃えた ~リングが見つめた戦後ニッポン~』①http://youtu.be/JO2DMN8UFB8
 2013/06/21 公開
 1968(昭和43)年1月3日(水) 馬場対クラッシャー・リソワスキー
 1995年 テレビ局の枠を超えたプロレスのスペシャル番組。プロレスの歴史がわかります。
 日本プロレス、全日本プロレス、新日本プロレス、全日本女子プロレス、FMW、みちのくプロレス、WWFなど。力道山、猪木&馬場から四天王プロレスまで。
 
 終戦50年特別企画『金曜の夜 日本は燃えた ~リングが見つめた戦後ニッポン~』②http://youtu.be/9Ou7z9Yv3yg
 width="960" height="720" src="//www.youtube.com/embed/9Ou7z9Yv3yg" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


 映像◆志、情熱企業|2012年8月18日 株式会社一蘭  http://youtu.be/27lDjiosFU8
 志、情熱企業 毎週土曜 ごご6時50分放送
 
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ 株式会社一蘭 代表取締役社長 吉冨学 ごあいさつ ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛皆さまへ
社長の吉冨でございます。お陰さまで、創業以来毎年出店を重ね、現在では日本全国各地に46店舗、海外に1店舗の直営店と福岡に原田工場・松島製麺所、神奈川県に横浜工場、 そして福岡市博多区に研究所を展開することができております。また近年では、「とんこつラーメンを世界一研究する会社」として世界中にとんこつラーメンを広げるべくニューヨークに海外支社Ichiran.USA Incを設立いたしました。ひとえに、お客様・お取引業者様・地域の皆さまをはじめ全てのステークホルダーの皆さまのご支援、ご鞭撻の賜物と心から感謝御礼申し上げます。今後とも厳しいご意見、ご指導ご鞭撻の程宜しくお願い申し上げます。私はいつも変わらぬ美味しいラーメンとサービスを提供することは勿論、それ以前に『幸せに満ち溢れた高い人間性を持つ人を育てる会社』を作ることが経営者としての使命だと考えております。人間教育に注力し「幸せに満ち溢れた高い人間性を持つ従業員がお客様の為に勤勉に誠実に心を込めて仕事を行ない、世の中に喜びや価値を提供させていただく。仕事だけではなく、幸せに満ち溢れた高い人間性を持つ従業員が普段の生活の中でも世の為人の為になる行為を行う」この好循環を拡大しながら、世の中に貢献して参ります。
また弊社に所属する数多いアルバイトスタッフに対しても社員と同じ人間教育を行い高い人間性を備えた世の中に役立つ人材を育成・輩出し弊社だけではなく世の中全体に喜びと幸せを伝播していく所存です。今後とも人間教育に力を入れ、コンプライアンスを重視し俯瞰的思考と緻密な研究心をもって一歩ずつ堅実・誠実な経営を行って参ります。 引き続きのご愛顧のほど、ひとえに宜しくお願い申し上げます。

最近では様々な方面から講演のご依頼をお受けする事もあり、僭越ながら私の今まで培ってきた経験などをお話させていただく事も多くなりました。以前より講演のお話をいただく事もございましたが当時はまだ皆様にお話しできる立場ではないと考えており、お断りをさせていただいておりました。そんな私が昨今皆様の前でお話をさせていただこうと考えるようになりましたひとつの背景には、恩師との永遠の別れがございました。私は大学在学中の二十歳より商売をはじめて参りました。当時通っていた大学の教授でございました恩師・徳永賢三先生は 人間としての生き方を親身になってお教えくださいました。大学を卒業した後も、多くの場面でアドバイスをくださり時には励まし時には本気で叱ってくださる先生は、私にとって父親のような存在でございました。先生のアドバイスなしに現在の私はありません。そんな先生が、数年前に永眠されました。先生がお亡くなりになった少し後に母校の大学より講演依頼が入りました。それまではお断りさせていただいておりましたが、これは先生が「若い人たちを今度は君が導いてあげて欲しい。よろしく頼むよ。」とおっしゃられているように感じお受けさせていただきました。それ以来、様々な場面でお話させていただいております。講演は私が常々部下へ伝えている事、後世に残したいとの思いでメモに残してきた事を体系的にまとめた物になります。商売の秘訣でもあり、弱者が強者に勝つ戦略を一寸法師戦略と命名しました。講演をさせていただくようになり、ある言葉をより鮮明に思い出すようになりました。私が商売を始めて間もない頃、ビール1本も頼む事ができないような貧しい時代が6年近くございました。「おかぁん」と慕っていた小料理屋に顔をだしては、焼酎につまみ一品とおかぁんとの会話がなによりの楽しみでした。ある日常連の方が「ボーナスが入ったから、 今日はビールを一本ご馳走しちゃるよ」とお声をかけてくださいました。私は申し訳ないという気持ちからお断りをしたのですが、おかぁんが「学ちゃん、ご馳走してあげるとおっしゃってるんだから、遠慮せんと気持ちよくもらっときなさい。次は学ちゃんが誰かにしてあげれば良かたい。世の中、じゅんぐり、じゅんぐりばい。あんたはこのままでは終わらん。きっと大きな人間になるけんそんときは誰かに沢山してやればよかたい。」そう言って、ビールをコップに注いてくださいました。この美味しさは今でも忘れられません。「世の中、じゅんぐり、じゅんぐりばい。」今の私が存在するのは、多くの人々との出会い、多くの本、出来事との出会いのお陰と感じております。様々の人々の支えがなければ、何も成し遂げる事ができなかったと思います。深い感謝の気持ちで一杯です。今度は私が学んできた事・経験してきた事などを若い方々へお伝えしていく事が、なによりの恩返しだと思い登壇させていただいております。少しでも世の中のお役に立てれば幸いでございます。 
吉冨 学 
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ 『飲食の戦士たちプロフェッショナルたちの仕事(じんせい)論』 ┃   update
 ┃    第156回 株式会社一蘭 代表取締役社長 吉冨学氏    ┃2010(平成22)年
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 8月3日(火)
    生年月日 1964(昭和39)年12月5日(土)、福岡県北九州市に生まれる。 
    主な業態「一蘭」 
    企業HP http://www.ichiran.co.jp/ 
  プロフィール 大学在学中、父親が病に倒れ、生活費を捻出するためにアルバイトを開始。卒業後、さまざまな事業を興し、「一蘭」の屋号を守ることになる。小さな店だったが、それを全国区に。2010年6月現在、27店舗まで広がり、2007年にはニューヨークにオフィスを構えるまでになっている。稀代のアイデアマンが、ラーメン業界に巻き起こした新風と新たな常識に注目していきたい。 
 ┌─―――――――――――――――――――――┐
 |19歳。新規開業の店舗で、アルバイトを始める|
 └─―――――――――――――――――――――┘1964年12月5日、福岡県北九州市に生まれる。4人家族の長男。姉が一人いる。サラリーマンの父。母は専業主婦。ごく一般的な家庭のなかで育っていく。小学生の頃にはソフトボール。中学時代には野球に取り組んだ。運動神経はよく、とにかくスポーツならなんでもできるタイプの少年だった。一方、小学生の頃からリーダーシップに長けていたそうだ。とはいえ、10代の頃はたいした目標もなくその日暮らし。とくに何かに打ち込んだこともなかった。そんな吉冨に一つの転機が訪れたのは19歳。父が病魔に侵され闘病生活を始めたのだ。当時、吉冨は、第一経済大学の学生。仕送りがなくなったため、食堂でアルバイトを開始した。これが飲食業との出会いである。新規開業の、オープニングスタッフの募集に応募して採用される。店主とチーフと吉冨の3人が立ち上げメンバーだった。「開業の企画からその後の運営までを経験することができた」と吉冨。「けっして楽ではなかったが、この間に経営をまなび、ラーメンビジネスにも興味を持ち始めた」とも言っている。
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 |「子どもの頃からおまえはアイデアマンだった」と父は語った|
 └─―――――――――――――――――――――――――――┘父の最期の言葉は、吉冨を奮い立たせた。「おまえは商売に向いている。商売人になれ」。その一言に吉冨は、こう答えた。「商売するなら資金がいる」、と。だが、父は諭すようにこう付け加えたのだった。「うちにはお金も、土地も、人脈もない。だが、おまえには頭があるじゃないか。おまえは子どもの頃からアイデアマンだった。おまえなら必ずできるから…」。吉冨、20歳の時に父は他界した。吉冨は、商売を自らの方法で模索する。メモとペンを持ち歩きアイデアがひらめけばすぐに書き留めた。だが、それほど商売は、簡単ではない。アイデアを錬り、事業を興すこともあったが、なかなか軌道に乗らない。最初に始めたのはファミコンの販売。ショップまで持ったが、儲けが出るまでには至らなかった。それもそうだろう。経営について吉冨は学んだこともない。アイデアは良かったが、商売に変換する能力はまだ修得できていなかったのである。人手不足の状況から派遣事業を開始。ある人との出会いをきっかけにコンビニエンスストア関連の物流倉庫の請負業も行なっている。外国人でも分かるように商品名を数字に置き換えたり、作業をマニュアル化したりするなどアイデアで効率を高めた。しかし、良かれと思って始めた小さな接待で人の本性をみた。相手の要求が徐々にエスカレートする。吉冨がいまも、社内で一切の接待を禁じるのはこの時の教訓からである。
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 |ラーメンは演歌歌手。都会の片隅でなるべく寂れた小さな店を|
 └─―――――――――――――――――――――――――――┘ラーメン店を開業することを決意した吉冨。とんこつスープに洋ごしょうではなく、赤唐辛子を用い、スープのうえに赤いたれを浮かべる、まるで一つの蘭の花びらがスープに舞うようなラーメン。まずは物件探しである。ちょうどこの頃から、ラーメンが、映画やドラマのシーンなどで人生の侘び寂びを象徴するような使われ方をするようになったこともあり、「ラーメン店は無理に目立つ必要はない」という思いがあった。“都会の片隅的”な立地で、なるべく寂れた小さな店を探したのである。歌手に例えると、きらびやかなアイドルよりも、地味な演歌歌手の方がいいという思いがあったそうだ。 ただ、そんな中でも行列ができれば目立つように、通行量はなるべく多いところ、1階の物件であること、駐車スペースなども当然考慮した。 更に店に味わいを出すために、敢えて廃材を使用するなどかなりこだわった。そしついに1993年、吉冨は「那の川店」をオープンする。ちなみに「一蘭」の創業は1960年。吉冨が経営に乗り出すまでは、老夫婦2人が細々と営む大衆ラーメン店であった。吉冨は、このラーメン店を企業化し、全国区に育てていく。
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 |アイデアマンの本領が発揮される|
 └─――――――――――――――┘とんこつ1本に絞る。一つ目の戦略は、この単品化だった。この戦略のアイデアは、学生時代のアルバイトの時に気づいた「捨てる勇気」がベースになっている。というのも、当時、働いていた食堂のメニューは豊富にありすぎたため、従業員にも過度な負担がかかっていた。それを見てきただけに、商品を絞り、一つのメニューに特化することに重きを置くことにしたのだ。「一蘭」の代名詞にもなっていた、唐辛子ベースの赤いたれも改良した。スープからは一切の臭みを取り除いていく。単品に絞ったことで、自慢のとんこつラーメンはさらに磨かれたことになる。製麺技術も研究を重ね、自家製麺を開発した。その一方で、250円、300円が主流の当時に、一杯650円という価格で勝負をかけた。それだけ手間隙をかけた究極のラーメンだったのである。他のラーメンと比べ高額だったが、客は価格に納得。「一蘭」は繁盛店になっていく。だが、吉冨はこれで満足したわけではない。吉冨のアイデアは尽きることがなかった。「記入式オーダーシステム」「味集中カウンター」はその好例だろう。「一蘭」では味の濃さ、こってり度、にんにくの量、ねぎの種類、チャーシューのあり、なし、秘伝のたれの量、麺の堅さが選択できる。さらに、こってり度だけでも5パターンからお気に入りの度合いを選べるようにしている。まるで、自分好みのラーメンをオーダーすることができるのだ。こうしたアイデアを盛り込みながら、「一蘭」はマスコミなどからも注目されるようになった。2001年には、東京都港区に「六本木大江戸線駅上店」を開店し、関東圏に初上陸。2007年にはニューヨークに現地法人ICHIRAN USA Inc.を設立した。現在、店舗は、博多、東京、大阪、名古屋に計27店を数えるまでになる。
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 |39歳、死の淵をみた|
 └─―――――――――┘2010年現在、すでに述べたように27店舗を展開する「一蘭」だが、吉冨39歳、2006年に、大きな挫折を経験することになった。事業のことではない。それであれば立ち向かえていたはずだ。人と人の信頼の糸が切れてしまったのである。ある日、突然、社員の4分の1が店を辞めてしまった。しかも、その社員たちを扇動したのは、小学時代からの幼馴染。右腕として、ともに戦ってきたはずのなかまだった。どうして? 彼がなかまたちを連れて辞めなければならないほどの状態になってしまっていたことが受け入れられず、苦悩する。思考は、暗い淵に沈んでいく。ついには遺書を書き、妻と子供、そして従業員を福岡に残し、新幹線に乗り込んだ。行き先は京都。京都の「吉兆」で食事をしたら、どこかで死のう、と思いつめた。そのとき、隣に老夫婦が座る。耳が悪いのか、何度も大きな声を張り上げていた。嫌でも話が耳に入る。「ばぁさん、ばぁさん」と夫が妻にアサヒビールを注ぎながら、「明日から原点に返ってキリンラガーにしよう」と。「原点に戻って」。その言葉が吉冨の頭のなかで何度もこだました。「また原点に戻ってやればいいじゃないか」と亡き父からそう言われているように感じた。またある店で、店員が声をかけてきた。「お客さんは、どちらから?」。吉冨が「福岡です」と答えると、店員はすかさず「一蘭のラーメンおいしいよね」と。心臓が脈打った。「遠い京都で一蘭を知っている人がいる。もう一度原点からやり直そう」。邪推だが、もしこのことがなければ、「一蘭」は、また吉冨は、アイデアと成功に溺れていたかもしれない。さらにいえば、資金があり、人脈があれば、どうだっただろう。父の言葉がやはり大きな意味を持つ。「おまえには頭があるじゃないか。おまえは子どもの頃からアイデアマンだった。おまえなら必ずできるから…」。ホームページにつぎのような一文が添えられている。<天然とんこつラーメン一蘭は、世界一とんこつラーメンを研究する会社です>。愚直なまでに磨きをかけたとんこつラーメンで勝負する「一蘭」。同時に、このラーメン店は従業員の幸せも徹底的に追求する「愛」に溢れていることも付け加えておこう。
************** http://in-shoku.info/foodfighters/vol156.html
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%98%AD
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