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┃デッカのオーディション落選と┃
┃ そのテープがもたらしたもの ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━┛ビートルズ物語 1962年
1961(昭和36)年12月13日(水)、このオーディションは、マイク・スミス (Mike Smith) が、デッカ・レコード会社のA&R(アーティストの発掘・契約・育成とそのアーティストに合った楽曲の発掘・契約・制作を担当する職務)の代表としてキャバーン・クラブを訪れ、ビートルズの演奏を見た結果を受けて開催されたもので、その夜の彼らのパフォーマンスは、すぐにレコード契約を保証できるほどのものではありませんが、スミスは意欲的で、デッカのスタジオで改めてオーディションすることを彼らに提案したものです。
1962(昭和37)年01月01日(月)、ジョン・レノン (John Lennon)、ポール・マッカートニー (Paul McCartney)、ジョージ・ハリソン (George Harrison)、ピート・ベスト (Pete Best) の4人は、ローディーのニール・アスピノール(Neil Aspinall) が運転するヴァンでリヴァプールから移動しますが(ブライアン・エプスタイン は列車移動)、吹雪の天候にたたられ、一行は午前11時からのオーディションにぎりぎりで間に合います。そして、ロンドンのウェスト・ハムステッド区 (West Hampstead) ブロードハースト・ガーデンズ(Broadhurst Gardens) 165番にあるデッカ・レコード社で、ビートルズのオーディションは始まります。オーディションにぎりぎりで間に合ったビートルとその一行に待っていたものは、デッカの担当者マイク・スミスからの待ちぼうけで、徹夜の新年会で遅れて来たスミスは、ビートルズの持ち込んだアンプ類の使用を認めず、スタジオの機器を使い、待望の「オーディション」は始まります。スミスは
1961(昭和36)年12月31日(日)、大晦日の夜にハリキリ過ぎて遅れて来た上に、ビートルズの使ってるのは音が問題外だからデッカのアンプを使えと言ってきかず、ビートルズの神経を逆撫でてしまいます。ビートルズは、15曲(「Like Dreamers Do」「Hello Little Girl」「Love Of The Loved」の3曲がレノン=マッカートニーの作品で、残り12曲はカバー曲)を演奏し、オーバー・ダビング無しの一発録りで、おおよそ1時間で全曲の録音を終了させます・・しかし、あえなく「落選」、ジョンは、この時の感想を率直に語っています、「これで終わりだなって、その時はほんとに思ったよ。ここまでだって」。ビートルズはオーディションが終わると、デッカのプロデューサーである“マイク・スミス”に、「次のバンド『BRIAN POOLE AND THE TREMELOES(ブライアン・プール&ザ・トレメローズ)』の開始時刻を過ぎてしまった」とせかされスタジオの外へ出されます。緊張のためにビートルズの演奏は最高とは言えないまでも、メンバー4人とブライアン・エプスタインは、このセッションがデッカとの契約に結びつくことを確信しますが、ブライアン・プール&ザ・トレメローズが合格したことを知らされ、その後、1月27日付のリバプール・エコー誌に短い記事が載ります。
「デッカのプロデューサーである“マイク・スミス”は、ビートルズはすごいバンドだと筆者に語った。30分以上に及ぶオーディションの模様をテープに録音しており、デッカのレーベルからぜひともデビューさせたいということである」と云う内容ですが、公式の理由としては「エプスタインさん、ギター・グループは消えゆく運命ですよ」と云うもので、この言葉は世間に広く知られ、ディック・ロウは後に「ビートルズを蹴落とした男」という悪名を背負うことになります。しかしジョージ・ハリソンの推薦を受け、ローリング・ストーンズ (The Rolling Stones) と契約するのも彼だと云うことです。
↓↓『Decca_studio』↓↓
ジョージは語ります、「雪が降る中、デッカのスタジオに言ったのを覚えれいる。ただ、入って行って、アンプをセットして、演奏しただけ。あの頃のロックンロールの曲は、実際には古い曲ばかりだった。40年代とか50年代とか、みんながロックにハマっていた頃のやつさ。やるものがない時はそう云うのをやってたんだ。ジョー・ブラウンが『シーク・オブ・アラビー』のロックンロールバージョンを出してたね。彼は土曜のテレビ番組『シックス/ファイブ・スペシャル』や『オー・ボーイ!』凄く人気があった。僕はそのジョー・ブラウンのレコードをやって、『シー・オブアラビー』を歌った。ポールは『セペテンバー・イン・ザ・レイン』を歌った。それぞれがやりたいこと曲を選んだんだよ。グループのメンバー全員が歌うって云うのは当時は珍しかった。あの頃は、クリフ&シャドウズって具合に、どのグループでもリードボーカルを前面に出してた。他のメンバーは全員スーツに揃いのタイとチーフで決まった動きをしているだけ。その前にボーカルが一人立って歌ってるんだ。オーディションは何時間か続いた。それが終わると僕らはホテルに帰った。(書籍『Anthology』抜粋参照)」。
ジョンがブライアン・エプスタインを語ります①、「ブライン・エプスタインはこう言った『なあ、本当にもっと大きな場所でやりたいなら、変わらなきゃだめだ。ステージでものを食べるのも、汚い言葉を使うのも、煙草も、止めろ!』ってね。彼は僕らのイメージをクリーンにしようと考えていたんじゃなく、恰好が間違っているって言ったんだ。『そのままじゃいいところには絶対出れない』って。僕らはステージの上でも下でも、いつだって好きな格好をしていたからね。『ジーンズはあまりスマートじゃない、きっちとしたスラックスを履かないか』って彼は言ってたけど、いきなりかしこまった格好をさせようとしたんじゃないよ。彼は僕らに、個性ってものを分からせようとしたんだ。僕らにすればブライアンはエキスパートだった。だってもともと店をやってただろ。店を持ってる人間ならみんな正しいはずだって思った。それに車にでかい家、それが全部父親のだろうと関係ない。こいつこそ理想の人間だって僕らは思ったのさ。『成功するか、ステージでチキンを食べ続けるか、どっちだ!?」と云う彼の考えを僕らは尊重した。チーズ・ロールやジャム・パンをかじるのもやめた。もっと自分たちのやってることを考え、遅刻しないようにして洒落た格好をするようになった。(書籍『Anthology』抜粋参照)』」。
ジョンがブライン・エプスタインを語ります②、「彼はあちこちに行ってニコニコし、新聞屋などにも気に入られた。みんな彼のことは認めていたよ。宣伝してもらうのはゲームになるのさ。僕らは地元の新聞社や音楽誌の事務所を回って、記事を書いてくれるように頼んだ。そうしなきゃダメなんだ。最高のステージをやるには当然のことだけどね。記者の前ではいい顔をしなきゃならなかった。たとえ相手がすごい傲慢な奴で、『恩を売ってるんだぞ!』って態度だとしてもね。僕らはそいつらに調子を合わせてやたよ。『取材をしてくれてありがとう!!』みたいな態度でね。そい云う点では見事に二重人格だったね。ブライアンはずっとリヴァプールとロンドンを往復してた。そしてある時ロンドンから戻ってくると、こう言ったんだ『オーディションだぞ!』って。僕らは大喜びだったよ。それはデッカのオーディションだった。彼は『マイク・スミス』とか云う奴と話をつけていて、僕らはそこへ行くことになった。それで色々曲をやったんだけど、不安と緊張でガチガチでね、それがしっかり演奏にも出てた。でも、最初は不安だったものの、そのうち気持ちも落ち着いて来た。『トゥー・ノウ・ハー・イズ・トゥ・ラヴ・ハー』って云うフェイル・スペクターの曲と持ち歌をいくつかやった。キャバーンのステージをそのまま再現したようなもので、何曲か外したようなね。20曲くらいやったと思う。テープはデッカとバイの送ったけど、バイには行かなかった。(書籍『Anthology』抜粋参照)」。
★デッカA&R部のトップだったディック・ロウ (Dick Rowe) は後にこう語っています、「私はマイクに『どちらにするのか君が決めろ』と言った。ビートルズか、それともトレメローズか、それは彼次第だった。彼は『どちらもいいんです。ただ一方は地元のグループで、他方はリヴァプールからのグループです。』と言った。そして地元のクループを取った方が良いという結論になった。彼らはダグナム (Dagenham) から来ていたので、仕事がやりやすいし親密でいられると考えた。」。
★マイク・スミスは語ります、「経験豊富な彼が、どちらを良いと判断するか知りたかったが、彼は何も意見を言わなかった。ディックは私に『君が決めろ』と言った。あとになってディックは、ビートルズがシャドウズに似ていたので契約を交わさなかったと発言したが、まったくおかしな話だ……歌も聴いていないのに」。両者の見解と解釈や発言はかみ合っていません。そして
‡1962(昭和37)年02月初め、「オーディション不合格」の知らせがブライアンの元に届きます。理由は「シャドウズに似ている。ギターバンドは売れない」と云うもの。
★釈然としないブライアン・エプスタインはデッカ本社まで押しかけ、「デッカがリリースするビートルズのすべてのシングル盤に付き、僕が3,000枚の買い取りを保証する」と販売部に約束します。
★そのことを知らされていないディックは丁寧さを装いつつも高慢な態度でブライアンを突き返しこの発言を言い放ちます、「ビートルズは成功しませんよ。エプスタインさん。我々にはわかるんです。あなたはリバプールで立派なレコード店を経営していらっしゃる。なにがご不満なのですか」。ディック・ロウがブラインの発言を知らされていたなら、歴史はまったく違っていたかもしれません。
★冷静さを失ったブライアンは、ディックにこう言い返します、「この子たちは今に爆発的な成功を収めますよ。いずれエルビス・プレスリーより大物になると断言します」。
★後にディック・ロウは語っています、「あの時点では私はそのことを聞いていなかった。当時のレコード業界の常識を考えると、3,000枚の売上げが確実ということになれば、たとえそれが何者であっても、そのレコードを出さざるを得なかっただろう。」。ビートルズのロディ担当・ニール・アスピノールは語ります、「
1961(昭和36)年12月31日(日)の大晦日にロンドンに行くことになったんだ。デッカ・レコードのオーディションがあったからね。ミッドドランドのどこかで道を間違った。その大晦日が僕らのロンドン初体験だった。全員が一文無し。その上、雪が降って凄い寒いときてる。シャフツベリー・アベニューあたりに行ってみたんだ。買いたいものばかりで、目を見張ったね。角に靴屋のアネロ&ダビデがあって、洋服のセシル・ジーがあって、セント・ガイルス・サーカスでクラブに入った。退屈だからすぐに出ちゃったよ。女の格好をしている髭の生えたのがいたりしてさ。飢え死にしそうだったからレストランに入ったんだけど、僕らの持ってる金じゃスープしか頼めなかった。それで追い出されて、ソーホー行って何とかしのいだ。ロンドンはほんとエキサイティングで、全てが新しかったね。(書籍『Anthology』抜粋参照)」。
↓↓『Decca Audition Bootleg&Decca studio 3 - West Hampstead』↓↓
ジョージは語ります「僕らがロンドンで逢ったグループが、その後『ビートル・ブーツ』として知られるようになるブーツを履いててね。そう云うブーツを始めてみたのがその時だった。先が柔らかいんだよ。チャリング・クロス・ロードのアネロ&ダビデって云う店で作られてるものだった。デッカからいつまでたっても何も言ってこない。ブライアンは何度もせっついていたんだけどね。それでも結局は断られた。おかしなことに、断ってきたのがあの手の“ダン・ド・ダン”的なバンドをやっていたトニー・ミーハンでね。彼、その頃はデッカのディレクターとして成功してた。それでも有名な話がある。ブライアン・エプスタインが彼をつかまえて、僕らを気に入ったかどうかを聞き出そうとした。『僕らは契約できるのか?』って、すると帰ってきた言葉が、『ミスター・エプスタイン、私は忙しいんです』。奴はまだ若造だったんだぜ。何年も後で知ったんだけど、彼らがあの時採用したのは『ブライアン・トレメローズ』だった。デッカの社長のディック・ロウは鋭い予想をしていたんだだ。『ギター・バンドはもう終わりですよ、ミスター・エプスタインさん』だってさ。(書籍『Anthology』抜粋参照)」。
ジョンは語ります「リヴァプールに戻って待ち続けた。そしてようやく、通らなかったことが分かったんだ。『これで終わりだな』って、その時はほんとに思ったよ。『ここまでだ』って。『ブルージーすぎる』とか『ロックンロール色が強すぎる、ロックはもう過去の音楽だ』とか、いつもそう云うことを言われてた。ハンブルグでドイツの会社のオーディションを受けた時にも、『ロックやブルースはやめろ、他のものにしろ』って言われた。みんなロックは死んだと思っているんだよ。でも、間違ったのは彼らの方だよ(1977)。ポールは『今聴けばどうして落ちたのか分かる。あんまり出来が良くない。』って言うけど、テープを聴いてみて、僕ならこれで断りはしないだろうね。問題無いと思うな。後半なんて、あの時代にこれだけできれば文句ないさ。当時はああいう音楽をやっている人間はそんなに無かった(1972)。デッカはすっかり洗練されたグループを期待してたんだろうね。でも、僕らがやったのはただのデモ・テープだった。僕らの将来を見るべきだね(1967)。(書籍『Anthology』抜粋参照)」。
ポールは語ります「ジョンとは少し意見が違うけど、今テープを聴けば、どうして落ちたのか分かる。あんまり出来が良くない。とはいえ、凄く面白くてオリジナリティがあるのも入ってた。(書籍『Anthology』抜粋参照)」。
■「ビートルズ・デッカ・オーディション」とは、一般的に想像される生演奏を審査してのオーディションではなく、「権限のある」デッカ社内の人間に聞かせるためにサンプル・テープを録音するセッションの事で、内容は
1962(昭和36)年01月01日(月)に行われた、セミプロによる失敗のほとんどない優秀な演奏であり、この驚異的な録音は1962年の彼らの熱狂を唯一感じることのできるものです。デッカ・オーディション落選後、エプスタインは、デッカ社から譲り受けた録音テープを持ち、友人であるロンドンのオックスフォード通り (Oxford Street) のHMVレコード店の店長を訪ねます。彼は、もっと簡単に再生できる方法とオープンリールのテープからレコード盤を作ることをエプスタインに提案し、エプスタインが同意しすると、すぐにそのレコード店の上にあるスタジオとプレス工房にテープを持って行きます。その録音テープを聴いたその店のエンジニアであるジム・フォイは、とても感動したと云います。エプスタインが「その内の3曲はレノン=マッカートニーの自作だ」と伝えると、フォイは音楽出版のアードモア&ビーチウッド社 (EMIの子会社) のシド・コールマンにそのことを伝え、そしてコールマンはエプスタインに出版契約をオファーします。しかし、エプスタインの優先すべきはビートルズのレコード会社への契約で、そこでコールマンはエプスタインとパーロフォン・レコード (Parlophone Record) のA&Rのトップを会わせる手はずを調え、これによりブライアン・エプスタインとEMI傘下のパーロフォン・レコードのヘッドであるジョージ・マーティン (George Martin)との面談が実現します。ジョージ・マーティンは、
1962(昭和37)年05月09日(水)にブライアン・エプスタインと会談した際、ビートルズとレコーディング契約を結ぶことを承諾しますが、実際にサインするのは彼らを見聞してからだとエプスタインに告げます。デッカの録音を聴き、かなり興味を感じたマーティンが、アビー・ロードでのオーディションをエプスタインに申し入れることとなったわけです。
■E.M.Iスタジオ・オーディション■
<1962(昭和37)年06月05日(火)>ロンドンのアビイ・ロードにあるE.M.I.・スタジオ (Abbey Road Studios) での翌日午後7時からのレコーディング・セッションの前日、ビートルズはEMIレコーディング契約成功させるために、交通渋滞や悪天候など、あらゆる可能性を排除するためリヴァプールからロンドンに向けて車で出発させ、その夜にはロンドン市内に到着宿泊します。
<1962(昭和37)年06月06日(水)>この日が、ビートルズがロンドンのセント・ジョンズ・ウッド (St. John's Wood) アビー・ロード (Abbey Road) 3番にあるEMIスタジオを初めて訪れた歴史的な日になります。アビイ・ロード第2スタジオで午後7時~10時に行われたこのレコーディング・セッションは、所謂オーディションのようなもので、オーディションのメンバーである、ポール・マッカートニー、ジョン・レノン、ジョージ・ハリソン、ピート・ベストの4人は多くの曲をひと通りプレーしてウォーミングアップした後、本番の演奏を始め、『Besame Mucho』『Love Me Do』『PS I Love You』『Ask Me Why』の順に4曲、テープに収めます。但し、正確なテイク数は現在でも分かっていません。
■E.M.Iスタジオ・オーディション■ノーマン・スミスは語ります、「ビートルズの印象はルックス以外はあまりよくなかった。つまりジョンとポールのソングライターとしての資質はまったく聴き取ることはできなかった。彼らはちっぽけなVOX社製のアンプとスピーカーを持ってたが、それらは楽器の源音を再生できていなかった。言うまでもなくすべての音響技師はあるレベルの源音を欲しがる。それさえあれば後でいくらでも改良したり効果を加えたりできるからね。しかし僕らがビートルズの装置から得たものは大量のノイズやハム、あと正体不明の音だけだった。ポールの装置は最悪だった。その頃は残響を付加するために残響室 (echo chamber) という部屋があったが、僕は彼の音をなんとかテープに収められるレベルにするのに、第2スタジオの残響室にあったアンプとスピーカーを引っぱり出さなければならなかった。また、ジョンのギターアンプが振動してカタカタ鳴るのを、僕らは実際にひもで縛って止めた。それからピート・ベストのドラムのシンバルにも確か問題があったと思う。でも最終的に何とかすべてを整頓し、やっとのことでレコーディング開始にこぎつけた。」。
写真◆左からリチャード・ランガム、ノーマン・スミス、ジョージ・マーティン
https://beatles-in-ashtray.jimdofree.com/1962-decca-audition/
1964(昭和39)年04月04日(土)、ザ・ビートルズが全米トップ5独占~同時にチャート・インしたもう一つの理由とは?
2018(平成30)年04月04日(水)【大人のMusic Calendar】By - NEWS ONLINE 編集部
ザ・ビートルズが全米ヒット・チャートに遺した前人未到の記録の中でも、とりわけ華々しく語られているのが、シングル・ランキングのトップ5独占であろう。日付は1964年4月4日。一般的に全米チャートとしてもっとも幅広く認識されるビルボード誌Hot 100のデータに拠るものだ。
第1位♪キャント・バイ・ミー・ラヴ♪ キャピトル
第2位♪ツイスト・アンド・シャウト♪ トリー、ヴィージェイ系列
第3位♪シー・ラヴズ・ユー♪ スワン
第4位♪抱きしめたい♪ キャピトル
第5位♪プリーズ・プリーズ・ミー♪ ヴィージェイ。参考までにこの週のHot 100には
第31位♪アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア♪ キャピトル
第41位♪フロム・ミー・トゥ・ユー♪ ヴィージェイ
第46位♪ドゥ・ユー・ウォント・トゥ・ノウ・ア・シークレット♪ ヴィージェイ
第58位♪オール・マイ・ラヴィング♪ キャピトル
第65位♪ユー・キャント・ドゥ・ザット♪ キャピトル
第68位♪ロール・オーバー・ベートーヴェン♪ キャピトル
第79位♪サンキュー・ガール♪ ヴィージェイの計12曲が入っていた。そもそもなぜ,これほどの数の楽曲が一度にチャート・インしたのか? 曲名後に表記したように、アメリカにおいてザ・ビートルズのシングル盤が複数のレーベルから発売されていたことが小さくない要因であろう。1962年10月にイギリスにて公式デビューを果たし、よく63年を通じて本国のマーケットを制圧した彼らながら、大国アメリカでの反応はまだ鈍かった。所属レーベル=パーロフォンを持つEMIは2枚目のシングル♪プリーズ・プリーズ・ミー♪の時点でアメリカでの系列キャピトル・レコードに発売を要請するが見送られる。そこでEMI音源の販売促進を請け負っていたニューヨークの代理業会社トランスグローバルを通じてアメリカ発売実現のため、他のレーベルへの売り込みがかけられる。バンドのマネージャーだったブライアン・エプスタインの意向もあり、これに応じたシカゴのR&Bレーベル=ヴィージェイが63年2月に♪プリーズ・プリーズ・ミー♪をアメリカ発売するが売り上げは5,650枚と、広い国土で限られた都市からしか反応は得られなかった。デビュー・アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』も出そうと考えたヴィージェイは、『INTRODUCING ...THE BEATLES』のタイトルで7月末のアメリカ発売を予定する。一方乏しい成果とシングルからの印税未払いなどを理由に、トランスグローバルはヴィージェイに見切りをつけるが、♪シー・ラヴズ・ユー♪をまたまたキャピトルのデイヴ・デクスターが見送ったため、実力者ディック・クラークにも近いフィラデルフィアのレーベル=スワンが9月に発売する。だが、まだアメリカではラジオが彼らに注目していなかった。63年11月に、「抱きしめたい」を持って渡米したエプスタインの、キャピトルのブラウン・メグスとの交渉によって事態は動く。様相が本格的に変わるのは、
1964(昭和39)年01月03日(金)に米NBC-TVの『ザ・ジャック・パー・ショー』で♪シー・ラヴズ・ユー♪の映像が紹介されたころからで、ついにキャピトルから発売された♪抱きしめたい♪が
1964(昭和39)年01月18日(土)付けで全米第45位に初登場すると、登場3週目、
‡1964(昭和39)年02月01日(土)付けで堂々の第1位を獲得。そしておよそ7,300万人が観たともされる
1964(昭和39)年02月09日(日)のCBS-TV『エド・サリヴァン・ショー』への伝説的な出演以降、リヴァプールの4人組は1964年の社会現象となっていく。発売権をめぐってキャピトル/トランスグローバルとの係争に入っていたヴィージェイは、いかなる法的紛争に陥ろうとも出せるレコードを売るだけ売ってしまおうと考えていただろう。当初獲得した音源の6ヶ月間の販売猶予で裁判が決着したこともありシングルが多数流通し、結果としてそれがバンドの加熱する人気に対応し得る状況作りに結びついた。キャピトルだけがザ・ビートルズのシングルを出していたら、これほどの曲数がチャートにひしめくことにはならなかったかもしれないと考えると、ひとつの必然的なドラマだったようにも感じられてならない。
【著者】矢口清治:ディスク・ジョッキー。1959年群馬生まれ。78年『全米トップ40』への出演をきっかけにラジオ業界入り。これまで『Music Today』、『GOOD MORNING YOKOHAMA』、『MUSIC GUMBO』、『ミュージック・プラザ』、『全米トップ40 THE 80'S』などを担当。またCD『僕たちの洋楽ヒット』の監修などを行なっている。
https://news.1242.com/article/140970
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ザ・ビートルズが全米TOP5を4つのレーベルで独占した週
2019(平成31)年04月08日(月) Published on 4月 8, 2019 Written by Richard Havers
それは、1964年の4月のことだった、アメリカにおけるブリティッシュ・インヴェイジョンが決定的なものになったのだ。ザ・ビートルズの♪Can’t Buy Me Love♪が全米シングル・チャートで27位から1位にジャンプ、アップ、そのあとの4つの場所もすべてザ・ビートルズの作品がその場所を占めることとなった。これはかつてない偉業であり、そのあと繰り返されることもないであろう。ザ・ビートルズの初期のアメリカのレーベルとそれにまつわる物語は非常に複雑だ、それは、ヴィージェイから
1963(昭和38)年02月07日(木)にリリースされた♪Please Please Me♪から始まる。ヴィージェイがリリースできたのは、EMIのアメリカ・レーベルであるキャピトルがその機会をパスしたからに他ならず、それにより、夫婦が運営するブラック系に非常に強かったインディアナ州ゲイリーにあるレーベルのヴィージェイがオファーをすることになった。ヴィージェイは数々の財政的な問題を抱えていたため、ザ・ビートルズの次のシングル♪She Loves You♪(1963年9月イギリスで4週1位を獲得)のリリースの際には、EMIから権利を借り受けたスワン・レコードというフィラデルフィアの小さなレーベルがリリースの準備を整えた。キャピトルはまたもこのリリースを拒んだのだ。スワンは
1963(昭和38)年09月18日(水)に、♪She Loves You♪をリリースするが、大したラジオでのオンエアも得られず、その存在が知られなかったため、レコード・バイヤーたちからはわずかの関心しか得ることができなかった。1月になり、NBCが『The Jack Paar Program』でザ・ビートルズが♪She Loves You♪を演奏する映像を放映し、多くの人が完全に気づくまでに、ザ・ビートルズはうまくいきはじめる。キャピトルはとうとうザ・ビートルズの可能性に目覚め、1963年のクリスマス直後に♪I Want To Hold Your Hand♪邦題:抱きしめたい♪をリリース。3週間後に全米シングル・チャート入りをはたし、
‡1964(昭和39)年02月01日(土)には1位を獲得、7週にわたってその座を守った。その座をうけ渡すことになるのは、スワン・レコードからリリースされた「She Loves You」であり、2週間1位をキープ、このおかげで他の独立系レーベルのライヴァル以上にレーベルが長持ちすることになった。エド・サリヴァン・ショウに登場したザ・ビートルズに対する大きな反響を受け、ヴィー・ジェイは彼らの子会社トリー・レコードから♪Twist and Shout♪(ヴィージェイからリリースされたアメリカ・デビュー・アルバムに収録)をリリースし、
1964(昭和39)年04月04日(土)に2位を獲得する。 「Twist and Shout」は、ザ・ビートルズの♪Can’t Buy Me Love♪に阻まれ、唯一1位をとることができなかった。5月の初めには、♪Can’t Buy Me Love♪、♪Twist and Shout♪と新しいシングル♪Do You Want To Know A Secret♪がチャートの3位までを占め、トップ10内には、他のイギリスのグループでイヴ・クラーク・ファイヴが2曲ランクインしていた。
https://www.udiscovermusic.jp/stories/thebeatles-5-4-3-2-1