過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日のTHE BEATLESだヨ(=^◇^=)

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 ┃ ビートルズ詳解 The Beatles’Corpus ┃
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①1960(昭和35)年11月09日(水) ライヴ演奏:カイザーケラー/ハンブルグ (37日目)
②1961(昭和36)年11月09日(木) ライヴ演奏1:キャバーン・クラブ (昼) ※エプスタイン ビートルズを見る
③1961(昭和36)年11月09日(木) ライヴ演奏2:リザーランド・タウン・ホール/リヴァプール
④1962(昭和37)年11月09日(金) ライヴ演奏:スター☆クラブ/ハンブルグ (09日目)
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②1961(昭和36)年11月09日(木) ライヴ演奏1:キャバーン・クラブ (昼)  エプスタイン ビートルズを見る
 マージー・ビート誌やリヴァプールの各地に貼られた宣伝ポスターで、ビートルズの名前を度々目にしたブライアン・エプスタイン (Brian Epstein) は、彼らに興味を持つようになっていた。レイモンド・ジョーンズ (Raymond Jones) という客がエプスタインのNEMSレコード店に来て、最近ハンブルグで録音した『マイ・ボニー (My Bonnie)』というシングル盤を求めた後、エプスタインはその若いグループが大きな話題となっていることに初めて気がついた、というビートルズ伝説がある。
 デヴィッド・ブラックハウス(リヴァプールの建築家)『The Cavern』スペンサー・レイ ⇒ ブライアン・エプスタインがキャバーンに来た時、僕もその場ににいた。彼は立派な身なりの上品な男で、まったく場違いな感じだったよ。僕は彼が誰かを知っていた。もっとも口を利いたことはなかったけどね。
 エプスタインの個人アシスタントのアリステア・テイラー (Alistair Taylor) は、ファンからの多くの要望を耳にして、そのレコードを在庫しようとレイモンド・ジョーンズという架空の名前をつくったと主張している。(当時のNEMSの発注手続きでは、購入予約したお客の名前を付記することが義務付けられていたため、在庫するためには架空の顧客名が必要だった。) しかしテイラーのこの主張こそでっち上げであった。ジョーンズは本当に顧客として実在していたし、現在もスペインに実在している。ビートルズの名前をあちらこちらで聞いて、エプスタインの彼らへの興味は募っていった。そしてマージー・ビート誌のビル・ハリー (Bill Harry) は、エプスタインとテイラーがリヴァプールで彼らの演奏を見るための準備を引き受ける。
 ボブ・ウーラー『The Cavern』スペンサー・レイ ⇒ ブライアン・エプスタインは、ビートルズが彼のホワイトチャペルの店の近くで演奏していることを知った。彼はビートルズがどんな連中かという好奇心に駆られた。それでマージー・ビート誌のビル・ハリーに電話して、自分がキャバーンに行くのをうまく取りなして欲しいと頼んだ。ビルはレイ・マクフォール (Ray McFall) とドアマンのパディ・デラニー (Paddy Delaney) に話を通して準備を調えた。
 この日11月9日は、ビートルズがキャバーン・クラブのランチタイムに出演する日であった。エプスタインとテイラーは順番待ちの列に並ぶこと無く入場を許可された。そしてエプスタインはDJのボブ・ウーラーが待機するPAシステムの上のスペースに案内される。
 ボブ・ウーラー『The Cavern』スペンサー・レイ ⇒ 1961年11月9日、ブライアンは個人アシスタントのアリステア・テイラーを連れてやって来た。そして彼らは群衆の背後に立ってジョン・ポール・ジョージ・ピートのステージを見た。あまり良く見えなかったが、それでもブライアンは彼らに打ち倒された。彼がキャバーンに来たあの日のランチタイムは、いい演奏だったのは幸運だった。彼はビートルズの身のこなし方も気に入って、とても動物的だと感じた。彼らは野性的で、髪にはくしも入れず、そして何より重要なのは、彼らはしなやかで肉体的に魅力的だった。
 エプスタインは後にデレク・テイラー (Derek Taylor) をゴースト・ライターとして自伝を出版するが、その中でビートルズのプレーを見た時の最初の印象を語っている。
 ブライアン・エプスタイン ⇒ 私は即座に彼らの音楽、そのビート、ステージでの彼らのユーモアのセンスに打たれました。その後に彼らと対面した時にも、私はふたたび彼らの個人的な魅力に打たれました。ですからすべてが始まったのは、本当にあの場所でした。
 エプスタインとテイラーはショーの終了後、"掃除具ロッカーと同じサイズ" と評される彼らの楽屋に入った。ビートルズはエプスタインに気づくと、まずジョージが会話の口火を切る「ところでいったい何がエプスタインさんをここに運んできたのかな?」
 パディ・デラニー『The Cavern』スペンサー・レイ ⇒ ブライアン・エプスタインは整った髪と上品な黒っぽいスーツを着て、場に不釣合いな感じがした。すべてのショーが終わった後も、彼はまだうろうろしていた。だから僕は彼に近づいて「もうみんな終わりましたよ。」と言った。彼は「うん、いいんだ。私はビートルズに会いに行く。」
 エプスタインはその後の数週間、何度もキャバーンに足を運んで彼らのプレーを観察した。
 1961(昭和36)年12月10日(日)にエプスタインは、彼がビートルズのマネージャーになることを提案する。そして彼らは1962年1月24日に、期間5年のマネージメント契約にサインするのである。
 レイ・エニス(スウィンギング・ブルー・ジーンズ)『The Cavern』スペンサー・レイ ⇒ 僕は前にブライアン・エプスタインと会っていた。だから彼にキャバーンで何をしてるのか尋ねたんだ。彼は「ビートルズを見に来た。彼らはとてもいいと思う。」と言った。でも彼らと契約することについては何も言わなかったよ。
③1961(昭和36)年11月09日(木) ライヴ演奏2:リザーランド・タウン・ホール/リヴァプール
 1961(昭和36)年10月19日(木) ライヴ演奏:リザーランド・タウン・ホール/リヴァプール
 ビートルズは、ハンブルグに滞在を終えた後イギリスに戻り、1960年12月27日にリザーランド・タウン・ホール (Litherland Town Hall) で行われた帰国公演で記念碑的な大成功をおさめている。この日は、彼らのそのホールへの18度目の出演であった。この夜のショーはブライアン・ケリー (Brian Kelly) によって主催された。北リヴァプールのあらゆる会場で、彼の率いるビーケー・プロモーション社 (Beekay Promotion) の企画するイベントが催されていた。この日の他の出演者には、ジェリー&ザ・ペースメーカーズ (Gerry & The Pacemakers)、それにリヴァプールのもう一つのトップ・ビート・グループである、カール・テリー&ザ・クルーザーズ (Karl Terry & The Cruisers) がいた。この夜はビートルズとペースメーカーズがステージで共演して『ビートメーカーズ (The Beatmakers)』になったらどうかという提案があった。そこでジョージがリードギター、ポールはリズムギター、ピートとフレディ・マースデン (Freddy Marsden) は二人でピートのドラムセットを叩き、レス・マグワイア (Les Maguire) はサキソフォン、レス・チャッドウィック (Les Chadwick) がベースギター、ジョンはピアノを弾き、ジェリー・マースデン (Gerry Marsden) がリードギターとヴォーカル、カール・テリーもヴォーカルを取るという、豪華な(?) 共演が実現した。
 ビートルズはリザーランド・タウン・ホールに20回出演している。
†1961(昭和36)年11月09日(木)にリザーランド・タウン・ホールでの最後のショーは行われる。
⑤1961(昭和36)年10月28日(土) レイモンド・ジョーンズ、♪マイ・ボニー♪をNEMSに注文
 この日、リヴァプールのホワイトチャペル (Whitechapel) にあるレコード店、NEMS(North End Music Store) の経営者ブライアン・エプスタイン (Brian Epstein) は、非常に重要なレコードの注文を受ける。注文した客の名はレイモンド・ジョーンズ (Raymond Jones)、注文したレコードはビートルズのシングル盤『マイ・ボニー (My Bonnie)』である。 ジョーンズに注文を受けるこの日まで、エプスタインがビートルズの存在を知らなかったというのは、絶対に有り得ないとは言わないが、可能性は非常に低い。ビートルズはリヴァプールの音楽情報誌『マージー・ビート (Mersey Beat)』に常時取り上げられていたが、エプスタインはそれを自分の店で販売し、また自らレコード評論を誌上に書いているのだ。彼は誌の実際の内容には興味がなかったかもしれないが、ハンブルグを魅了した革服のグループに気がつかなかったとは考えにくい。さりながら、エプスタインの興味はジョーンズの熱意との遭遇によって掻き立てられ、12日後の
‡1961(昭和36)年11月09日(木)に彼は、ビートルズの演奏を見に初めてキャバーン・クラブを訪れるのである。それは関係する人々の人生を不可逆的に変貌させ、大衆文化に革命を引き起こす連鎖反応に火を点ける事件であった。レイモンド・ジョーンズへの最初の言及は、イギリスの新聞社がエプスタインに行ったインタビューの中に現れる。
 レイモンド・ジョーンズ ⇒ ビートルズが自分たちのレコードを2枚出したくらいの頃、全国紙がブライアン・エプスタインのインタビューを掲載した。その記事の中で彼が僕を「18歳の古い革ジャンを着たみすぼらしい若者」と表現しているのが頭にきた。僕は彼の発言に対する自分の憤慨を示すためにNEMSに手紙を書いた。その中で「すべての人がスーツを着ているわけではない。生きるために労働せざるを得ない人々もいる。」と書いた。その後すぐにNEMSの誰かが僕に手紙で、オフィスにいるエプスタイン氏に連絡をとって欲しいと頼んできた。当時そのオフィスはデール通り (Dale Street) を曲がったムアフィールズ (Moorfields) にあった。彼に電話すると、直接謝りたいからオフィスまで来てくれないかと言う。幾分ぞんざいな彼の謝罪の後、デール通りのリグビーズ (Rigby's) というパブに二人で出かけて2杯飲んだ。彼はさまざまな質問をしてきて、僕の答えのメモを取っていた。彼は口には出さなかったけど、『A Cellarful Of Noise』の出版を計画していたに違いなかったと思うよ。しばらくして、何のためなのか知らないが、僕の仲間がブライアンに手紙を書いた。折り返し彼女は、エプスタインの秘書ダイアナ・ヴェロ (Diana Vero) から返信を受ける。それには、エプスタインの本のコピーを送りたいから僕の住所を知らせてくれとあった。1周間くらい後に僕はそれを受け取った。
 エプスタインは1964(昭和39)年初版の彼の自伝『A Cellarful of Noise』の中で、ジョーンズのレコード注文の話を詳しく伝えている。その記述は序文の2つの段落に現れ、ビートルズの歴史の中でそれが如何に重要な出来事だったかを説明している。
 ブライアン・エプスタイン『A Cellarful of Noise』1961年10月28日、土曜の午後3時頃にレイモンド・ジョーンズという18歳の少年が、ジーンズと黒の革ジャン姿でリヴァプールのホワイトチャペルにあるレコード店に入って来た。「欲しいレコードがあるんだ。それは "マイ・ボニー" という曲名でドイツで作られた。これある?」カウンターのうしろにはここの店長、27歳のブライアン・エプスタインがいた。彼は首を振って「誰のレコードですか?」と尋ねる。「彼らのこと聞いたことないの?」とジョーンズが言う。「それはビートルズというグループのレコードだよ。」
 この話は本の後半で再び詳しく述べられている。
 ブライアン・エプスタイン『A Cellarful of Noise』10月28日の土曜、私はスペインでの長い休暇から戻ったばかりだった。休暇中、私は自分の興味をどうやったら拡張して行けるかを考えていた。 そして突然に、けっしてドラマチックではなかったが、レイモンド・ジョーンズの発した数語の言葉が解答をもたらす。その言葉とはもちろん「ビートルズのレコードありますか?」私はそれまでリヴァプールのいかなるビート・グループにも関心を持ったことはなく、地下クラブ (cellar clubs) に行くということも考えたことすらなかった。それらは私の人生には含まれていなかった。なぜならば私はその世代の人間ではなかったし、また私は忙しすぎたからである。しかし私は、50年代後半のプレスリーやトミー・スティールからシャドーズにいたる10代のスターの影響で、多くの少年がギターを手にしていることを知った。シャドーズは1962年の秋まではクリフ・リチャードのバックバンドでありながら、インストゥルメンタル曲のスターであり、比類の無い英国のアイドルである。私にとって "Beatle" という名に意味はなかった。ニュー・ブライトン・タワー (New Brighton Tower) で催された大学ダンスパーティーの広告ポスターで、その名を見たおぼろげな記憶があるが、その時も奇妙で無意味なスペルだと思っていた。レイモンド・ジョーンズは、未知のレコードを求めて毎日のように来店する極普通の客の一人だった。今思えば顧客への通常のサービスを超えて、レコーディング・アーティストの長々としたリストを調べる理由は思い当たらない。にもかからわず私はそれを行ったのである。私は時々、"Beatle" という名には神秘的な磁力があるのだろうかと思うことがある。10月28日、私はレイモンド・ジョーンズの注文を書き留め、彼は店を出て行った。私はメモに「"マイ・ボニー"、ザ・ビートルズ。月曜にチェック。」と書いた。
 レイモンド・ジョーンズの注文の話は、ハンター・デイヴィス (Hunter Davis) が1968(昭和43)年に書いたビートルズ認定の伝記の中で再浮上している。おもしろいことにデイヴィスは、ブライアン・エプスタインはその日までビートルズを知らなかったと主張して物語を潤色している。
 ハンター・デイヴィス『The Beatles』正確に言うと、1961年10月28日の午後3時にそれは起こった。黒の革ジャン姿のレイモンド・ジョーンズという若者が、リヴァプールのホワイトチャペルにあるNEMSというレコード店に入り、ザ・ビートルズというグループの『マイ・ボニー』というレコードを求めた。カウンターのうしろにいたブライアン・エプスタインは「大変申し訳ありません」と言った。彼はそんなレコードも、ビートルズというグループも聞いたことがなかったのである。 
 『A Cellarful Of Noise』の中でエプスタインは、リヴァプールでの公演の宣伝ポスターでビートルズの名を見ていること、また自分のレコード店内で彼らを見た記憶があることを語っている。彼はまたジョーンズの他に、2人のリヴァプールの女の子が「マイ・ボニー」を求めて来たとも語っている。ストーリーはは、エプスタインがさらなる調査を決意し、次の月曜に供給業者に電話して顧客の求めたレコードを注文するという話に展開していく。
 フィリップ・ノーマン『Shout!』「ポリドール・レコードはエプスタインのオーダー♪マイ・ボニー♪200枚を発送」とマージー・ビート誌は忠実に書いた。そのレコードはビートルズ追従者の間にかなり良く売れたが、中にはレイモンド・ジョーンズも含めて、彼らが単にトニー・シェリダン (Tony Sheridan) のバックバンドで、名前も「ザ・ビート・ブラザーズ (The Beat Brothers)」であることにがっかりした者もいた。 
 エプスタインの気をビートルズに最初に引いたのはレイモンド・ジョーンズではなかった。ビル・ハリー (Bill Harry) は自分が発行するマージー・ビート誌で、頻繁にビートルズを取り上げているため、エプスタインは彼らの音楽は知らなかったとしても、名前を知らなかったはずはまずない。
 ビル・ハリー『Beatles Examiner』僕は1961(昭和36)年07月の第1週に、『マージー・ビート』誌のコピーを携えてNEMSに行き、支配人に面会を求めた。ブライアン・エプスタインはオフィスから降りてきて、僕が創刊号のコピーを見せると、彼は1ダースの注文をくれた。その後彼は電話で追加注文を入れた。(うちの電話番号は、第2ページの「ジョンの書いたビートルズの伝記」の隣に書いてあった。) 彼はたちまち売り切れたことに驚いていた。
 1961(昭和36)年07月06日(木)、創刊号の日付
 1961(昭和36)年07月20日(木)に第2号は発行されている。ブライアンは第2号には144部の注文を入れている。この数は、1レコード店の購入部数としては前代未聞だ。そしてそれらは完売した。ブライアンはマージーサイド地域の音楽シーンについてはまったく無知だった。地元で多くの事が起こっていることをマージー・ビート誌で読んで本当に驚いていた。彼は僕を自分のオフィスに招いて音楽的な動きについて話をしたが、それにかなり驚いていたようだった。その後の二人の話の中で、グループについて問われると時々ビートルズの名前が出た。なぜなら彼らは他の誰にもまして、僕がマージー・ビート誌でプッシュし続けているグループだったからね。
 エプスタインは♪マイ・ボニー♪のことを聞く以前からビートルズの存在に気づいていたが、おそらくNEMSの客からそのレコードの注文を受けたことが一つの刺激となって、キャバーンに彼らを見に行く気を起こしたというのが真相だろう。しかしエプスタインが新聞のインタビューと『A Cellarful Of Noise』の両方で、レイモンド・ジョーンズの名を挙げている事実は依然として重要である。エプスタインのアシスタントのアリステア・テイラー (Alistair Taylor) は長年に渡って、レイモンド・ジョーンズはそのレコードを注文するためにでっち上げた人物だと主張してきた。(当時のNEMSの発注手続きでは、購入予約したお客の名前を付記することが義務付けられていた。そしてテイラーはそのシングル盤を在庫したかったのだという。) しかしそれは事実ではない。レイモンド・ジョーンズは実在した。彼は1941年に生まれ、リヴァプールの印刷会社で働いた。彼はビートルズの公演を何度も見ており、確かにNEMSでエプスタインに『マイ・ボニー』のレコードを注文していた。
 2010(平成22)年08月、レイモンド・ジョーンズは The Beatles Bible サイトのインタビューに応じている。彼はアリステア・テイラーの主張してきた記録を正すことを熱望していること、また彼のビートルズの思い出、エプスタインから『A Cellarful Of Noise』のコピーを受け取った経緯などについて語っている。
⑪1962(昭和37)年11月のハンブルグ写真集 (1)
⑫1962(昭和37)年11月のハンブルグ写真集 (2)
  場所:不明 ⇒ ハンブルグにあるアストリッドのスタジオか?
 撮影者:アストリッド・キルヒャー (Astrid Kirchherr)
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 ①https://gejirin.com/beatles/history/1960/19601004_live_kaiserkeller1.html
 ②https://gejirin.com/beatles/history/1961/19611019_live_litherland.html
 ③https://gejirin.com/beatles/history/1961/0history_index-1961.html
 ④https://gejirin.com/beatles/history/1962/19621101_live_StarClub.html
 ⑤https://gejirin.com/beatles/history/1961/19611028_raymond_order_mybonnie.html
 ⑪https://gejirin.com/beatles/history/1962/19621101-14_Hamburg_photos_1.html
 ⑫https://gejirin.com/beatles/history/1962/19621101-14_Hamburg_photos_2.html
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 ┃ THE BEATLES HISTORY ┃|November 09|313
 ┃    ザ・ビートルズの今日の出来事   ┃|11月09日|
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 1960(昭和35)年(水) インドラ・クラブで演奏できなくなり、ブルーノ・コシュミダー経営の別のクラブ「カイザーケラー」に出演することになった。その37日目のステージ。
 1962(昭和37)年(金) 通算4回目の2週間という短いハンブルグ巡業9日目。会場はスタークラブ。報酬は1人週給600マルク(当時のレートで約51000円)
********** http://www.thebeatles.co.jp/contents/index2.htm
 http://www.beatlelinks.net/forums/showthread.php?t=17181
 http://beatlesdiary.web.fc2.com/day/011/1109.html
 https://blogs.yahoo.co.jp/fab4city/15553468.html
 http://www.beatlesagain.com/bhistory.html
 楽曲資料https://beatlesdata.info/
 歌詞充実http://tsugu.cside.com/index.html
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一方、アリステア・テイラーは、
2002(平成14)年4月10日(水)に受けたインタビューに対して、次のように答えています。
「キャヴァーン・クラブでビートルズを初めて見たのは、
●1961(昭和36)年11月9日(木)だった。ブライアンと私は、店から出てマシューストリートを歩いてクラブに行き、彼らを見た。
彼らをマネジメントするつもりじゃなく、単に好奇心をそそられたからなんだ。誰もが我々が彼らのことを知っていたから行ったんだというが、そうじゃない。『マイ・ボニー』が沢山売れたし、キャヴァーンは店のすぐ近くにあったからね。
レイモンド・ジョーンズは、この40年の間に一度だけ酷く酔っ払って、マージーサイドラジオに電話して来たんだ。私は、レイモンド・ジョーンズのことは全く記憶にない。だから、彼のことは気に留めないことにした。ボブ・ウーラーと私のどちらを信用するかは、あなた次第だ。レイモンド・ジョーンズか私のどちらかがやったことだよ。」
つまり、彼の主張では、レイモンド・ジョーンズなる人物は実在せず、あくまでマイ・ボニーが凄く売れたことで、ブライアンとテイラーがビートルズに興味を持ち、キャヴァーンが店から近いこともあって見に行ったのであって、決して彼らのことを知っていたわけではないということですね。スペンサー・リーの本が出版されても、自説を曲げなかったことになります。これがテイラーです。
私は、テイラーは、本人の個人的見解を述べたのであって、決してウソをついたつもりはないと思います。彼が記憶していることを忠実に語ったのでしょう。例え、それが結果的に真実に反していたとしても、そのことをもって彼を非難することはできないと思います。そして、ブライアンとジョーンズとのやり取りの時には、テイラーはたまたまその場にいなかったんでしょう。だから、知らなかったとしても不自然ではありません。
ただ、ブライアンの生前に何故そのことを本人に確かめなかったのかという素朴な疑問は残ります。このことについてテイラーは、ブライアンが伝説を作り、しかもそれが独り歩きしてもはや止めることができなくなったので、そのままそっとしておこうと考えたのだと語っています。テイラーは、ブライアンの片腕でしたから、彼の名声に傷を付けてはいけないと考えたのでしょう。
しかし、それならそれで、何故沈黙を守らず、何十年も経ってから突然ネタばらしをするようなことをしたのでしょうか?それに故意ではないにしても、ジョーンズを全く架空の人物と決め付けてしまったことには大いに問題があります。彼がジョーンズの発注を受けていなかったのは事実だとしても、それが直ちにジョーンズを架空の人物と決め付ける根拠とはなりません。店長が客との些細なやり取りを一々店員に告げることも無いでしょう。ブライアンとジョーンズとの出会いも、ブライアン自身が忘れてしまったとしても何ら不思議ではない位些細なやり取りですから。
確かに、マイ・ボニーが売れたことも、彼らをキャヴァーン・クラブへ向かわせた動機の一つであったことには違いありません。しかし、ブライアンにはそれに加えて、ジョーンズの存在があったのです。テイラーが、自分が目撃していなかった、あるいは、証拠となるものが存在しないという理由だけで、ジョーンズが実在しないと決め付けてしまったことは、ミスリーディング以外の何物でもないと思います。
しかも、それに加えて、ブライアンがビートルズ伝説を盛り上げるために作り話をしたとまで主張していますが、これは彼の憶測に過ぎず、これこそ何の根拠も無かったのです。このことで50年近くも世界中が惑わされたこと、それからブライアンの名誉を傷付けたことについては、批判されても致し方ないと思います。
一方、ジョーンズは責められないでしょう。確かに、彼がもっと早く名乗り出てくれさえすれば、世界中が惑わされることもなかったのですから。しかし、名乗り出ればマスコミが殺到し、一躍時の人に祭り上げられ、平穏な生活ができなくなってしまうおそれがあります。人によっては、それを苦痛と感ずることもあるでしょう。
でも、彼が勇気を奮って名乗り出てくれたお陰で、ビートルズにまつわる大きな謎の一つが解明されました。私は、(その5)でブライアンがビートルズ伝説を盛り上げるために、話を盛ったという説もあると書きましたが、もうその時点で真相が明らかになってたんですね。調査不足のために誤った情報を提供してしまいました。ここで訂正してお詫びしますm(_ _)m「過去の歴史は、後世になって書き換えられる可能性がある。」ということも良く分かりました。
それから、天国のエピー、ごめんね。少なくとも、このブログを読んで頂いた皆さんに、あなたが話を盛った可能性もあるなんて印象を与えてしまって、申し訳ありません。
ということで、このお話しはここまでとしておきます。
(参照文献)THE BEATLES BIBLE, THE ALISTAIR TAYLOR INTERVIEW, BEATLES MUSIC HISTORY
 http://abbeyroad0310.hatenadiary.jp/entry/2016/01/21/000359

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 ┃ 『この日のビートルズ』 ┃上林 格 P.288 714円(税込) 朝日新聞出版
 ┗━━━━━━━━━━━━━┛2013(平成25)年11月7日(木) 朝日文庫発行
  人類がまだ月面着陸を夢見ていた1960年代、英国出身の4人の若者が世界を席巻した。
  ポピュラー音楽史の記録を次々と塗り替えただけではなく、
  文化、思想、生活スタイル、あらゆる分野に強烈な影響を与えた。
  語り継がれる20世紀最高のファブ・フォーの「この日」にこだわってみました。
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 |1966(昭和41)年11月 9日(水)|「ヨーコとの出会い」
 |2008(平成20)年11月 7日(金)|甲虫日記更新日 No.035
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ロック音楽で名声を得たイングランド北部出身の男性と、前衛芸術家で日本の裕福な銀行家の娘との出会い。しかし、ファンは必ずしも2人を祝福したわけではなかった。
1966年11月9日、ジョンは友人のジョン・ダンバーが経営するロンドンのインディカ画廊に現れた。その夜、オノ・ヨーコの個展「ヨーコ・オノによる、未完の絵画と彫刻」の初日前のプレビューが開かれていた。
学習院大を中退し、ニューヨークの名門女子大サラ・ローレンスで音楽を専攻したヨーコは、美術の分野でも活躍し、風変わりな芸術家としての名声を高めていた。黒い袋に人が押し込められていたりする、ちょっとしたハプニング・アートを見せる「驚嘆すべき女性」――。それが出会う前のジョンのヨーコに対する印象だった。
画廊のなかをぶらぶらしていたジョンは、入り口の近くにあった梯子(はしご)に目が行った。それは天井にぶら下がっている1枚の絵を見るための梯子で、その端に小さな虫眼鏡が鎖でぶら下がっていた。
絵は無地の白いキャンパスのように見えた。ジョンは梯子を登り、虫眼鏡をのぞくと、絵には小さな文字で「YES」と書いてあった。
「僕は救われたような気分になった。『NO』とか『FUCK YOU』とかの言葉じゃなくて『YES』だったんだから」
この作品がジョンの心を大きく揺さぶった。
ハンマーでピアノを粉々にしたり彫刻を壊したり。当時の前衛芸術を「アンチ主義の連続で退屈だった」と否定的だったジョンにとって、ヨーコの作品群は新鮮に映った。
1個のリンゴが200ポンドで売られていた。台の上に新鮮なリンゴが乗っていて、そのリンゴがやがて腐っていくのを見る料金だった。
「彼女のユーモアが僕を直撃した」
『釘(くぎ)をハンマーで打ち込め』と書いた掲示板があった。「僕は、やってもいいか」。ジョンはたずねた。ヨーコは断った。そこへ店の主人が出てきて、小さな声でヨーコとヒソヒソ話をしていた。
結局、ヨーコが「5シリング出してくれたらやってもいいわ」と言った。
機転の利いた返しこそ、ジョンの得意技だ。
「わかった。5シリング君にあげたつもりで、釘をハンマーに打ち込んだつもりになるよ」
「その時、本当の意味で2人は出会ったんだ。2人はお互いの目をしっかり見つめあった」(『プレイボーイ』1981年1月号)
ジョン26歳、ヨーコ33歳。
ヨーコはジョンに会ったとき、ビートルズが何者であるか知らなかったと主張していた。しかし、ヨーコはビートルズが誰なのかを十分に知っていた。
約2カ月前、ポールの自宅をヨーコが訪れた。ポールによれば、その日は米国の前衛音楽家ジョン・ケージの54歳の誕生日だったという。今年の文化功労者に選ばれた作曲家の一柳慧氏は、ヨーコの最初の夫である。一柳氏は米国留学中、ジョン・ケージの影響を強く受け、帰国後、五線譜によらない図形楽譜など音楽の概念を覆す実験に挑んだ。
ヨーコは、そのジョン・ケージにプレゼントするため、いろいろな作曲家の楽譜を手に入れたいのだと説明し、ジョンとポールの楽譜を求めた。
ポールはやんわりと断った。「そうだなあ、僕はいいけど、ジョンにも聞かなくちゃならないよ」
そして彼女は……ジョンの腕をとり、個展を案内して回った。ジョンが帰るときも連れて行ってとせがみ、彼の車に乗り込もうとしたくらいだった。
「ヨーコと出会った当初は、彼女に恋したことに気づかなかった。芸術上の協力者と考えていた」(『アンソロジー』より)
ジョンとヨーコが男女の仲になるのは、それから1年半後の68年5月20日とされる。2人が全裸になったジャケットで知られるアルバム「トゥ・ヴァージンズ」が1日がかりでジョンの自宅で録音された日だ。妻シンシアはイタリア旅行に出かけていた。
イングランド北部の封建的な風土で育ったジョンに対し、独立心の強いヨーコは、対等に女性の権利を主張した。ジョンはそこにひかれた。自分を育てたミミおばさんや自由奔放な母親ジュリアに共通する強さを感じたのだろう。ヨーコがジョンに近づいた動機は何であれ、2人の出会いは運命的だった。
ただ、不幸なことに、ジョンのパートナーがポールでなくなってしまったため、「終わりの始まり」と受け取られてしまっている。
ビートルズは68年5月30日から、「ホワイト・アルバム」の制作に入った。スタジオの中でもヨーコはジョンのそばを離れず、曲づくりにも口を挟むようになる。ヨーコが病気になるとスタジオに彼女のベッドが置かれた。ジョンはヨーコなしでいられなくなっていた。
「僕ら4人の関係は密接で、家族のようなものだったから、ヨーコの登場は緊張を生んだ。僕らは他人からの度を越した干渉が嫌いだった。ヨーコは他人だった」(リンゴ)
「ふたりの絆(きずな)が育つにつれ、ジョンはポールや他のメンバーとの絆を縮小していった。以前のような親密な4人組――私を入れて5人組――ではなくなっていた」(ジョージ・マーティン)
「ジョンがグループを離れたのは、ヨーコとの関係の障害になるものすべてを精算するためだったんだと思う。彼は、ビートルズという大きな重荷を背負っていた。その重荷とは僕らとかかわりを続けることだった」(ポール)
「解散の全責任をヨーコに負わせるはフェアじゃない。みんな、自分の道を歩き始めていた。ヨーコはその状況を促進させる触媒のようなものに過ぎなかった。だけど、当時は彼女がいることが煩わしかった」(ジョージ)
「僕は、ツアーを辞めて以来、ビートルズから離れることをずっと考えていたのに、怖くてできなかった。ヨーコに出会って彼女が好きになった時、こう思った。ヒット・レコード以上だ」(ジョン)
 ◎『この日のビートルズ』の次回は、11月23日(更新は21日)です。この日はなんの日でしょうか? お楽しみに。
 ◎お知らせ ⇒ 映画「PEACE BED アメリカ vs ジョン・レノン」は、2007年12月8日に日本で公開された。「ベトナム戦争や人種差別、世界にあふれる貧困や暴力と闘うために何ができるのか」。1969年、その思いをジョンとヨーコは大胆な方法で表現する。新婚旅行先のアムステルダムで「戦争をする代わりにベッドで過ごそう 髪を伸ばそう 平和になるまで」と、有名な「ベッド・イン」でメディアに登場。斬新な意見広告のさきがけともなったメッセージ“HAIR PEACE BED PEACE”は世間を驚かせ、若者たちを戦争反対へと動かす大きなムーブメントとなった。
商品写真◆(C)2006 Lions Gate Films Inc. All Rights Reserved.PEACE BED アメリカ vs ジョン・レノン
2008年12月8日DVD発売 メディアファクトリー 
***************** https://www.amazon.co.jp/dp/4022617802
 https://dot.asahi.com/1satsu/tyosya/2013110700049.html
 http://doraku.asahi.com/entertainment/beatles/081107.html
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    ┛THE BEATLES 1965 Editing ┛Abbey Road, Room 65
    ┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛2:30-5:30pm
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①┃ 『The Beatles Third Christmas Record』 ┃takes 1-3
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  ┛THE BEATLES 1965 Mono mixing ┛Abbey Road, Room 65
  ┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛2:30-5:30pm
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②┃              ♪Michelle♪  ┃remix 1, from take 2
③┃      ♪What Goes On (消えた恋)♪  ┃from take 1
④┃     ♪Run For Your Life (浮気娘)♪  ┃from take 5
⑤┃   ♪Think for Yourself (嘘つき女)♪  ┃from take 1
①┃ 『The Beatles Third Christmas Record』 ┃from edit of takes 1-3
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 ┛THE BEATLES 1965 Stereo mixing ┛Abbey Road, Room 65
 ┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛2:30-5:30pm
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⑤┃   ♪Think for Yourself (嘘つき女)♪  ┃from take 1
②┃              ♪Michelle♪  ┃from take 2
③┃      ♪What Goes On (消えた恋)♪  ┃from take 1
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  Producer: George Martin
  Engineer: Norman Smith
  2nd Engineer: Jerry Boys
 ‡1965(昭和40)年11月9日(tue)
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 ①https://en.wikipedia.org/wiki/The_Beatles%27_Christmas_records
 ②https://beatlesdata.info/6/07_michelle.html
 ②https://en.wikipedia.org/wiki/Michelle_(song)
 ③https://beatlesdata.info/6/08_whatgoeson.html
 ③https://en.wikipedia.org/wiki/What_Goes_On_(Beatles_song)
 ④https://beatlesdata.info/6/14_runforyourlife.html
 ④https://en.wikipedia.org/wiki/Run_for_Your_Life_(Beatles_song)
 ⑤https://beatlesdata.info/6/05_thinkforyourself.html
 ⑤https://en.wikipedia.org/wiki/Think_for_Yourself
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 ┃ THE BEATLES Live 1961 ┃
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‡(thu)09 November 1961 Liverpool, England, The Cavern Club
  Cavern lunch session: THE BEATLES
  By 12:30pm, Brian and Alistair Taylor visit the Cavern, during the Beatles performance
‡(thu)09 November 1961 Evening performance at the Litherland Town Hall
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 ┃ THE BEATLES Live 1962 ┃
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‡(fri)09 November 1962 Hamburg, Germany, Star-Club ?(1~14 November 1962)
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 ┃ Autumn 1963 UK Tour“THE BEATLES SHOW” ┃
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‡No.09 (sat)09 November 1963 East Ham, England, England Granada 
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 ┃ 1964 Autumn UK Tour ┃THE BEATLES SHOW
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‡No.26 (mon)09 November 1964, 6:30pm and 8:50pm
 Sheffield, England, City Hall ※『Gold Tour Programme』(8)
  参考パンフ■23:04 2017/03/18 1963 Gold Tour Programme (UK) An original concert programme from the Beatles UK tour of 1st November 1963 to 13th December 1963. The 12-page programme has the gold cover and contains various information and images of The Beatles and their support acts including Peter Jay & The Jaywalkers and The Brook Brothers. There is some mottling to the cover and a 19.5cm (7.75 inches) split down the spine. Condition is very good.
  https://www.tracks.co.uk/product/b23325-the-beatles-1963-gold-tour-programme-uk/
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 https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_the_Beatles%27_live_performances
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 ┃ Late 1963 Concert Reference Guide ┃
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‡写真◆November 9 Granada Cinema, London
 Note・・・It is planned to continue The Savage Young Beatles  through to the end of 1963. However, this will focus only, as was the original intention of the site, on "performances". This page is simply both a preview and a quick-reference to date and venue of The Beatles' concert performances through the rest of 1963. For 1963 television appearances, see here Radio appearances will be forthcoming. What this page is NOT...At this point, unlike the rest of The Savage Young Beatles... - Photographers are not named. That will be added later. - There are no enlargement links. - These are not all the photos I have but all dates are represented - These are not intended to be the best quality or most complete photos - The layout is not as concise as the rest of this site MANY thanks to Marcelo Ravello for his considerable help with this page. An additional thanks to Jules, Grinch, Murray15 and Trini.
 http://www.beatlesource.com/savage/1963/63.zz.zz/63.xx.xxConcerts.html
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓THE MIRACLES
 ┃ ♪You've Really Got a Hold on Me♪ ┃Released (fri)November 9, 1962
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛Recorded (tue)October 16, 1962 Hitsville USA (Studio A)
 https://beatlesdata.info/2/10_youreallygotaholdonme.html
 https://en.wikipedia.org/wiki/You%27ve_Really_Got_a_Hold_on_Me

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