過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日の走る投げる打つシンプルなゲーム等だヨ(=^◇^=)


 パン屋 純
‡2020(令和二)年12月07日(月)
 海田町にオープンの パン屋 純
 https://ameblo.jp/lovelove2960/entry-12646799205.html

 No.06 ご冥福をお祈りします。
 通夜 12月10日(土)午後7:00 分開式
 葬儀 12月11日(日)午後1:00 分開式
 出棺 12月11日(日)午後2:00  
 喪主 安保 道子(妻)
 式場 セレモニーホール青山会堂
 新潟県新潟市西区青山8丁目4番15号
 TEL.025-265-7667 FAX.025-265-7110 生花は0120-414107へ
 http://www.arkbell-ceremony.com/ch/aoyama_kaidou/車
 アクセス:JR小針駅または青山駅より約5分。JR新潟駅(万代口)よりタクシーで約20分。バスは、新潟駅万代口より西小針経由「内野」または「新潟大学前」または「信楽園病院」行きに乗車、「上山」バス停下車、徒歩約1分
†2016(平成28)年12月07日(水) 日本自律神経病研究会事務局
 ※足を運んでみては如何でしょうか※
 2016(平成28)年12月09日(金) 16:58:36 東京都民9
 https://ameblo.jp/64152966/entry-12226985539.html

 嵐のように生き、刃物のように闘う。ダイナマイト・キッドよ、永遠に!
‡2018(平成30)年12月07日(金) 17:00 posted, Text by 堀江ガンツ
 写真◆タイガーマスクと過酷な戦いを繰り広げたキッド。代償は大きかったが、リングに残したものも多かった。
“爆弾小僧”ダイナマイト・キッドが自身の60歳の誕生日である
 2018(平成30)年12月05日(水)、帰らぬ人となった。1980年代前半、空前のプロレスブームを巻き起こした初代タイガーマスクのデビュー戦の相手であり、最大のライバルであったダイナマイト・キッド。当時『ワールドプロレスリング』実況の古舘伊知郎アナウンサーが「全身これ鋭利な刃物!」と称したとおり、すごみを漂わせる危険な佇まいと、カミソリのような切れ味のファイトで多くのファンを魅了した。身長173cmという小さな身体ながら、常に全力で相手に攻撃を仕掛け、また全力で相手の攻撃を受けきる。その命を削るような闘いぶりは、今も伝説としてファンの記憶に残り、また世界中のレスラーたちに多大なる影響を与えた。しかし、自らの身体を顧みない過激すぎるファイトは代償も大きく、引退後は車椅子生活となり、後年はほぼ寝たきりの生活を送っていたことも知られている。プロレス黄金時代を全力で駆け抜けていき、何も言わずに静かに去っていったダイナマイト・キッドのレスラー人生をあらためて振り返ってみたい。
◇空前のプロレスブームを起こすきっかけ。 ⇒ ダイナマイト・キッドこと本名トーマス・ビリントンは、1958年イギリス・ランカシャー州生まれ。12歳でランカシャーレスリングのトレーニングを開始。“神様”カール・ゴッチや“人間風車”ビル・ロビンソンを輩出し、劇画『タイガーマスク』に登場する虎の穴のモデルとしても知られる“蛇の穴”ビリー・ライレージムでも修行を積み、16歳でプロデビュー。19歳でカナダの名門ハート一家にスカウトされカルガリーへと渡ると、その過激なファイトで一躍現地のトップレスラーとなった。'79年7月、国際プロレスに初来日。'80年からは新日本プロレスに参戦し、'81年4月23日にタイガーマスクデビュー戦の相手に抜擢されると、これまで誰も見たことがないような名勝負を展開。ダイナマイト・キッドの名を一躍世間に轟かせるとともに、タイガーマスク人気爆発により、空前のプロレスブームを巻き起こすきっかけを作った。
【次ページ】 リング内外で“危険”でありつづけた。
 https://number.bunshun.jp/articles/-/832779
◇リング内外で“危険”でありつづけた。 ⇒ タイガーマスクとの一連の試合があれほどまでに人気を博した要因は、タイガーの華麗な空中殺法だけではない。ふたりの闘いは、常に緊張感に満ちた、ストロングスタイルの真髄ともいえる闘いだったことが、何よりの要因だ。ひとたびリングに上がると、キッドから一切の妥協は消える。ケガのリスクを恐れない危険な闘いを自らに課すと同時に、それに対戦相手が対応できなければ、相手を壊すことも厭わなかった。だからこそ、一瞬の気の緩みも許されない、緊張感あふれる試合となったのだ。またキッドは、試合以外でも常にファンの目があるところでは“爆弾小僧”であり続けるプロでもあった。ファンの前では一切の笑顔は見せず、サインを求める色紙を差し出されれば、その場で破り捨て踏みつける。入場時に観客がふざけてコスチュームを引っ張ったりすれば、容赦なく殴りつけたことも1度や2度ではない。それらはすべてダイナマイト・キッドとしての危険なイメージを守るための行動であった。
◇「身体がパンクする予兆は……」 ⇒ そしてキッドは自分がキッドであり続けるために、危険を顧みない激しいファイトを続けていく。こうした試合の連続は、キッドの身体を徐々に、そして確実に蝕んでいった。キッド自身、自伝で「俺の身体がパンクする予兆は、タイガーマスクとの抗争の頃からすでに始まっていた」と語っている。しかも、キッドの身体を蝕んでいったのは、激しすぎるファイトだけではなかった。その最も大きな要因は、アナボリック・ステロイド(筋肉増強剤)をはじめとした薬物の乱用だったのだ。当時のアメリカのプロレス界は、ハルク・ホーガンに代表されるマッチョなヘビー級レスラー全盛時代。いまでは考えられぬことだが、マット界にステロイドが蔓延し、多くのレスラーが当たり前のように使用していた。
【次ページ】 あまりにも刹那的なキッドの生き方。https://number.bunshun.jp/articles/-/832779?page=2
◇あまりにも刹那的なキッドの生き方。 ⇒ '83年のタイガーマスク引退後、ライバルを失ったキッドは、全日本プロレス参戦を経て、'85年にアメリカ最大のメジャー団体WWFと契約する。身体の小さなキッドの場合、大きなレスラーに対抗するために身体を大きくする必要があり、また人の何倍も受け身を取るため、受け身を楽にするための筋肉も必要だった。そのため、ステロイドの過剰摂取が始まり、さらに鎮痛剤との併用が日常化してしまったのだ。その上で、全米を飛び回るハードスケジュールの中で過激な試合を続けた結果、'86年12月、キッドの身体はついに悲鳴をあげた。試合中のアクシデントにより、第4第5椎間板断裂の重傷を負い、戦線離脱。医師からは引退勧告を受けることとなったのだ。それでもキッドは、まだ麻痺が残る中、痛み止めを打ちながらリングに復帰。そしてステロイドを打つことで、リングに向かう気持ちを奮い立たせた。もはや、キッドはステロイドなしではいられない身体になっていたのだ。当時の気持ちをキッドは、自伝で次のように語っている。「ケガをしていようが、大観衆が俺の名前を叫んでいれば、その期待には何としても応えなければならない。身体が動こうが動くまいが、やるしかない」あまりにも刹那的であるが、それがキッドの生き方だった。
◇プロレスも家族も33歳で失って。 ⇒ ステロイドはキッドの肉体だけでなく精神をも蝕んだ。“理不尽な怒り”という副作用によって、私生活でも極めて攻撃的な人間になってしまったのだ。そしてバックステージでのケンカなど、トラブルを日常的に起こすようになる。そして椎間板断裂の大ケガ以降、かつてのような激しい試合ができなくなり、トラブルも絶えなかったキッドは、'88年に解雇同然のケンカ別れでWWFを離脱する。その後、全日本プロレスのリングに復帰し、日本とカナダを往復する生活を送るようになるが、キッドの試練はさらに続いた。ステロイドの副作用による性格の激変に耐えられなくなった妻・ミシェルに見切りをつけられたのだ。ある日、キッドが全日本のツアーを終えてカナダの自宅に帰ると、そこはもぬけの殻で、テーブルの上には祖国イギリスへの片道航空券だけが残されていたという。キッドはカナダを永久に去り、離婚が成立すると、すべての財産を妻と3人の子供たちに譲り渡した。またWWF離脱後、体調は悪化の一途を辿り、
 1991(平成三)年12月06日(金)、全日本の日本武道館大会で引退を発表する。この時33歳。金と名誉、さらには天職であるプロレスと家族まで失ったキッド。残ったのは、身体中の痛みだけだった。
【次ページ】 2016年につきとめられた居場所。https://number.bunshun.jp/articles/-/832779?page=3
◇2016(平成28)年につきとめられた居場所。 ⇒ その後、'93年にイギリスで現役復帰。身体はボロボロでまともな試合ができる状態ではなかったが、全財産を失ったキッドが金を稼ぐ手段はプロレスしかなかったのだ。'96年10月には日本のみちのくプロレスにも参戦。そこで、同じくプロレス活動を再開していた初代タイガーマスクとの再会をはたすが、キッドの身体は痩せこけており、もはやかつての爆弾小僧の姿はどこにもなかった。このタイガーとの再会マッチを最後にキッドは完全に引退。プロレス関係者との連絡を一切断ち、マット界から姿を消した。そのため引退後のキッドの近況は断片的にしか知ることはできなかったが、
 2016(平成28)年10月05日(火)にNHKの『アナザーストーリーズ 運命の分岐点』でタイガーマスクを取り上げられた際、番組はキッドの居場所を突き止めることに成功。現在の様子を多くの人が知ることとなる。キッドは'13年に重い脳卒中にかかり、晩年は介護施設で暮らしていた。傍らには現在の妻ドットの姿があった。キッドが引退した翌年、ふたりは出会い結婚。妻はキッドが有名なプロレスラーだとは知らなかったという。だからこそ、リングを降りたキッドが心を許せる人だったのだろう。ダイナマイト・キッドは、妻ドットと出会うことで、ようやくトーマス・ビリントンに戻ることができ、故郷で静かな余生を過ごしたのだ。
◇たった10年の太く短い現役。 ⇒ キッドが表舞台で活躍したのは、せいぜい10年強とあまりにも短いが、その後のプロレス界に与えた影響はあまりにも大きい。日本の獣神サンダー・ライガーをはじめ、'80年代後半以降の世界のジュニアヘビー級レスラーは、ほぼ全員、キッドの影響を少なからず受けている。そして、小さな身体であってもヘビー級の世界トップで闘うというキッドが作った道筋は、その後、弟子でもあるクリス・ベノワに受け継がれ、現在のトップ、AJスタイルズやケニー・オメガにまで続いている。ダイナマイト・キッドは嵐のように激しく生きて、あっという間に我々の前から去ってしまった。しかし、キッドが残した遺伝子は、いま世界中に広まり、これからもずっとプロレス界に生き続けることだろう。ダイナマイト・キッドよ、永遠に!
 https://number.bunshun.jp/articles/-/832779?page=4


 WI-1000XM2 ワイヤレスノイズキャンセリングステレオヘッドセット
‡2019(令和元)年12月07日(土) 発売予定
 \38,500(税込) 3,850 ヤマダポイント(10%還元)
 いい音には、静寂が要る。ハイレゾを、業界最高クラス(*)ノイキャンで。ネックバンド型ワイヤレスノイズキャンセリングヘッドホン市場において。
 2019(令和元)年09月05日(木)時点、ソニー調べ、電子情報技術産業協会(JEITA)基準に則る
 https://www.sony.jp/headphone/products/WI-1000XM2/
 https://www.yamada-denkiweb.com/4218691012

 古舘伊知郎の生年月日が
 1954(昭和29)年12月7日(火)であるが、その約10か月前の
 1954(昭和29)年2月19日(金)は「力道山・木村政彦VSシャープ兄弟」の試合が街頭テレビで放送され、日本中が熱狂した日であった。そのため古舘は父親に「親父はこの日にやったのか?」と訪ねたところ「試合を見たのははっきり覚えてるが、その日にやったかは覚えてない」と言われたという。そのため確定はしていないが、古舘は一応この日を「自分が受精した日」としている
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E8%88%98%E4%BC%8A%E7%9F%A5%E9%83%8E#経歴
 ┏━━━━━━━━━┓
 ┃ 今日は何の日? ┃※名称、肩書き、年齢などは当時のものですヨ(=^◇^=)
 ┗━━━━━━━━━┛
 1941(昭和16)年12月07日(土) 日本海軍が真珠湾を攻撃、太平洋戦争勃発 ⇒ 日本海軍艦隊から出撃した戦闘機が、ハワイのオアフ島にある真珠湾の米海軍を奇襲攻撃し、太平洋戦争が勃発した(日本時間8日)。米軍は、戦艦アリゾナなど複数の艦船と多数の航空機を失い、約2400人の死者を出した。写真は、日本海軍の奇襲攻撃を浴びて炎上する米太平洋艦隊の戦艦群【AFP時事】※2019(令和元)年記事追加
 1957(昭和32)年12月07日(土) 神宮のスター、長嶋茂雄選手が巨人入団 ⇒ プロ野球・巨人が神宮のスター、長嶋茂雄内野手(立大)の入団を発表。当時の東京六大学の記録を更新する8本塁打を放つなど、人気と実力を兼ね備えた選手だった。背番号は、名手・千葉茂氏から受け継いだ「3」。写真はバットを構える若き日の長嶋選手【時事通信社】※2019(令和元)年記事消滅
 1950(昭和25)年12月07日(木) 池田勇人首相が国会答弁で「貧乏人は麦を食え」という趣旨の発言
 1988(昭和63)年12月07日(水) 長崎市の本島等市長が天皇の戦争責任に言
 https://www.jiji.com/jc/daily
 ┏━━━━━━━━━━━━━┓
①┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
 ┗━━━━━━━━━━━━━┛
‡1987(昭和62)年12月7日(月) いま泣いた烏がもう笑った?西武・鈴木健入団会見
‡2017(平成29)年12月7日(木) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は12月7日だ。 
 写真◆ドラフト当日の会見では渋い顔を見せていた鈴木健
 話の起点は12月7日からはややさかのぼり、
 1987(昭和62)年11月18日(水)のドラフト会議だ。西武が浦和学院高の鈴木健を1位で指名。高校通算82本塁打の大砲として全国に名をとどろかせていたが、早くから早大進学希望を打ちだし、プロ拒否を表明。当時の西武お得意の(?)強行指名だった。すでに早大の入学願書を取り寄せ、
 1987(昭和62)年11月19日(木) 翌日には投函するはずだったという鈴木は、渋い表情で「プロでやっていく自信なんてありません」と語り、チームの監督は「プロ側の方々にはお誘いのお断りをしていた。だから指名はないと思ったのに……。ほかの11球団に申し訳ない」と怒りの表情を浮かべた。 
 当時の西武フロントには球界の寝業師・根本陸夫がいた。もしやまた根本マジックか、とも思ったが、実際には進学希望を明言しつつも、鈴木の心が揺れていたことがある(あるいは、それを見抜く情報を得ていたのか……)。 
 鈴木は早大の野球部関係者から「合格の可能性は五分五分。勉学と野球の両立も難しいものがある」と伝えられ、迷っていた。もともとプロ志望は強かったが、早大にあこがれ、大学経由のほうがいいかもと思っていた。だが、入れない可能性があるなら1位で評価してくれた西武にお世話になったほうがいいかもしれない……と考えたからだ。 
 翌日には進学断念を決め、
‡1987(昭和62)年12月7日(月)、西武球団事務所で入団発表。このときはドラフト当日とは打って変わって笑顔、笑顔だった。まさに「いま泣いたカラスがもう笑った」ようなものか。 
「秋山さん、清原さんのようなホームランバッターになりたい」と西武が誇る秋山幸二、清原和博の名前を挙げ、「はっきり言って自信はあります」ときっぱり言い切る。背番号は「8」だった。
 ┏━━━━━━━━━━━━━┓
②┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
 ┗━━━━━━━━━━━━━┛
‡2001(平成13)年12月07日(金) 福浦和也がついに年俸1億円突破!
‡2018(平成30)年12月07日(金) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわってその日に何があったのか紹介していく。今回は2001年12月7日だ。 
 写真◆記者会見で笑顔を浮かべる福浦
 8年目で初の首位打者に輝いたロッテ・福浦和也が千葉マリンスタジアムで契約更改交渉に臨み、倍増の1億800万円を獲得、一気に1億円プレーヤーの仲間入りを果たした。タイトル料500万円もプラスされた(金額は推定)。 
「川北本部長から『ハナマルの成績だよ』と言われた。最高の評価をしてもらってうれしい」と福浦。打率.346、18本塁打、67打点は、いずれも自己最高だ。 
「最初は400万円ですからねえ。だれもここまで来るとは思ってなかったでしょう」と感慨深げだった。 
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 ①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171207-11
 ②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20181207-12
************************************************************
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.139 ┃  30円
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1960(昭和35)年12月07日(水)号“監督問題”嵐の中の巨人選手の発言
 2018(平成30)年03月15日(木) 11:08 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。 
◎『三原の握る5000万円のナゾ』
 写真◆表紙は左から巨人・堀本律雄、南海・杉浦忠
 今回は『1960年12月7日号』。定価は30円だ。グラビア巻頭は『新星巨人入り』で、高林恒夫(熊谷組)、山崎正之投手(法大)の巨人入り。まだ水原茂監督の進退ははっきりしていないが、会見では、代理で川上哲治ヘッドコーチが出席している。本文巻頭の『監督問題嵐の中の巨人選手の発言』によれば、水原監督は長男の結納のため欠席したらしい。 
 監督問題について巨人の選手たちの発言も集められていた。広岡達朗は、 
「聞けば水原さんはいままで、巨人との間に契約というものがなかったそうですね(以前、契約書を交わしたことがない、という水原の発言があった)。これからはちゃんと契約してアメリカ流に割り切っていくのが当然だと思うね。 
 水原さんがやめれば、川上さん以外に監督はないでしょう。ぼくと川上さんの仲がよく云々されるけど、ぼくはなんとも思っていない。川上さんの下でも喜んでやりますよ」 
 新人補強においては、『三原の握る5000万円のナゾ』という記事があった。球団に「1億円を用意してくれ」と言いながら、高林、さらに早大のスラッガー、徳武定之の争奪戦から早々に降りてしまった大洋・三原脩監督の話だ。現在、長田幸雄ら6人の獲得に成功しているが、契約金の総計は5000万円。つまり5000万円あまっているという。 
 三原監督は「1億円など言った覚えはない」と否定。さらに次のように語っている。 
「私はスカウトの人たちに言ってあるんです。自分で実際に見た選手以外は取るなって。どこの社会に海のものとも山のものともつかぬものに何千万円ものカネを投じるところがあるか。素人ののど自慢だって鐘を3つ鳴らした人だけが歌手の道に入るチャンスがあるのです。ところがプロ野球の場合は、鐘も鳴らさぬうちから大金で契約しようとする。モノになるか分からない選手のために、野球界の秩序を乱してまで入団させることはないですね」 
 実は1959年3月、新人選手の契約金の上限を税込で1000万円としたのだが、10月31日、井上登コミッショナーから、疑わしき例が多いと、この申し合わせを守るよう警告が発せられていた。 
 その渦中の一人で国鉄入団を果たした徳武は『佐々木信也連載対談』に登場。最後は何やら意味深な終わり方になっている。 
 佐々木 三原さんには会ったの。 
  徳武 ええ、お会いしてやっぱりいい方だなって感じがしました。 
 佐々木 大洋へという気持ちは起きなかった? 
  徳武 いやまあ、一時、それならって考えた時期はあったですね。 
 佐々木 今までの例では監督さんの人柄にほれて入っちゃう場合が多かったんだ。ところが今年の有望な新人はそういうことを一度もいってない。これは特徴だね。 
  徳武 そうですか。  
 以下、宣伝。 
 いよいよ週べ60年記念シリーズ『巨人編』が発売中(一部地域を除く)。次回は日本ハム予定です。 
 では、またあした。<次回に続く>
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.341 ┃  50円
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1964(昭和39)年12月07日(月)号 巨人・川上哲治の苦悩
 2018(平成30)年11月15日(木) 10:14 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 
◎大川博のNET社長退任
 写真◆表紙は巨人・柴田勲
 今回は『1964年12月7日号』。定価は50円だ。 
 東映の大川博オーナーが兼務していたNET社長を追われた。 
 NETは現在の「テレビ朝日」で、当時の正式名は「日本教育テレビ」だった。東映をはじめ、旺文社、日本短波放送、東京タイムズがスポンサーになり、教育番組、教養番組の放送のために設立したもので、朝日新聞とは関係ない。 
 しかし業績不振もあって社長を務めていた旺文社の赤尾好夫が退任。会長だった大川が60年11月に社長となると、娯楽要素を強め、一気に黒字に転換させた。教育番組メーンということで免許が交付されたはずだが、そこはなし崩しだったようだ。。 
 しかし2億円の使途不明金や東映の旧作をNETがほかの映画会社からより高く買う、また、まだ番組が放映されていないうちに6千万あまりが東映に支払われているなどが発覚し、大川はNET社長を辞任した。 
 これにより東映球団の経営もかなり厳しくなるのでは、と噂された。 
 東映では張本勲が頭を抱えていた。 
 カラ―テレビの普及に合わせたのか、64年に各チームで色つきバットが大流行。黒、エンジ、黄色、青色、さらにはピンク色まで出回っていたという。 
 しかし一部のバットの着色が悪く、ボールに色がつくケースが増え、ついに65年からの使用禁止が通達された。 
 張本は、黒いバットを使い、すでにストックが30本ほどあったという。1本1500円ほどだからおカネ的にも痛い。 
「練習用にするか、(母校の)浪商に寄贈するしかないな」とこぼしていた。 
 この号の巻頭記事は元巨人軍社長の品川主計と作家の五味康祐の対談だったが、とにかく品川の川上哲治批判がすさまじい。 
「川上君が監督として不適任だということをいいたい。それはどこに根本の原因があると思う? 彼に愛情がないということなんだ。広岡(達朗)君にしてもああいう扱いはしない。自分が表に立って真剣にやるべきなのだ」 
 広岡の移籍に動いた川上監督が、広岡と面と向かって話し合いをしようとしなかったことへの批判だ。 
 のちの手記にもあるが、世論も品川と同じで、人気者の広岡を“追い出そう”とした川上にすさまじいバッシングを浴びせた。 
 非難の声は家族にまで届き、子どもはいじめられ、夫人は心労で倒れたという。 
 このとき川上は監督退任を決意したが、家族から止められ、再び野球に取り組むことを決めた。 
 では、またあした。<次回に続く>
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 ①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180315-12
 ②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20181114-01
************************************************************
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓  特大号
③┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.666 ┃  90円
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1970(昭和45)年12月07日(月)特大号 永田雅一オーナーの退却ラッパ?
 2020(令和二)年03月12日(木) 10:44 一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 
◎大揉めになったロッテ監督問題
 写真◆表紙は巨人・堀内恒夫
 今回は『1970年12月7日特大号』。定価は90円。 
 話は少しさかのぼる。 
 前年、球団の赤字経営を打破するため、岸信介元首相の仲介でロッテ製菓と業務提携したオリオンズの永田雅一オーナーは、 
「わし一人では経営的に疲れた。パートナーを探していたんだ。だが、わしの目が黒いうちはオーナーの座はだれにも渡さん。チーム売却なんて話はなかったし、今後もあるわけないよ」 
 と話していた。 
 この提携の際、岸元首相の敏腕秘書として知られた中村長芳が、球団経営の立て直しの手助けにと、オーナー代行に就いた。実際、中村は自身の人脈を使い、チケット販売に積極的に動き、赤字削減に成果をあげた。シーズン終盤には勝ち試合に報奨金を出すことを決め、優勝に向けたムードを盛り上げ、やり手と評判になっていた。 
 ただ、永田との間には少しずつ溝が広がっていたらしい。 
 きっかけは8月末だった。永田が次期監督に元南海・鶴岡一人に会い、監督就任を要請。このニュースに驚いたのは濃人監督、ナインだけではない。中村代行もまったく話を聞いておらず、「水くさいぞ」になった。 
 以後、この監督問題が両者のわだかまりになっていく。 
 永田はリーグ優勝した後もマスコミ、ファン受けの悪い濃人をとにかく代えたがったが、中村は「優勝した監督を代える必要はない」と強く主張していた。 
 ただ、互いに遠慮もあったのだろう。2人がこの問題をじっくり話し合った気配はなく、マスコミに対し、互いの意見を発信し合う形になっていた。 
 11月11日、スポーツ紙が濃人更迭をトップ記事に。永田は記者の「オーナー代行は留任だと言っていますが」の質問に対し、 
「だれが何といっても最後の決断はわしが下すんだ。オーナーはこのわしなんだ」 
 と声を荒げたという。 
 当時の永田は、まず鶴岡、ダメなら青田昇、それもダメなら大沢二軍監督の昇格を考えていたらしい。 
 だが、結局、岸元首相から「優勝監督をクビにするのは」と言われ、断念。当然、中村が岸に頼んで言ってもらったのだろう。 
 11月14日の選手家族慰安会であいさつに立った永田は、 
「日本シリーズに惨敗したのは監督、コーチの責任ではない。もちろん、ナインの責任でもない。オーナーであるわしに勝ち運がなかったのだ。来シーズンこそツキが回ってくるだろう」 
 監督問題への白旗。スポーツ紙では「退却ラッパ」と書いていた。 
 永田は最後、「だれが監督になっても文句を言わずついてきてくれ。チームは一致団結してこそ力が出るんだ。協力してくれる人は手をあげてくれ」と言った。 
 記事ではやるからには濃人についていってくれ、という解釈になっていたが、その後を考えると、「監督」を「オーナー」に変えたほうがしっくりくる。 
 では、またあした。<次回に続く>
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓  特大号
④┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.667 ┃  90円
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1970(昭和45)年12月07日(月)特大号 第1回現役ドラフトの勝者は南海・野村克也? それとも…
 2020(令和二)年03月13日(金) 10:14 一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 
◎広島・松田恒次オーナー死去
 写真◆表紙は巨人・堀内恒夫
 今回は『1970年12月7日特大号』。定価は90円。 
 前回と同じ号からもう1回、出す。 
 現在NPBで導入が進む現役ドラフトの元祖の話だ。 
 11月19日、東京・日生会館で「プロ野球選抜会議」が行われた。 
 要は力がありながらチーム状況もあって出番の少ない男たちに移籍でチャンスを与えようという制度。ロッテの永田雅一オーナーが提案し、「十二球団の戦力均等を図る」という目的もあった。 
 12球団が供出したリストは130人(非公開)。ただ、これがかなり低調に終わった。 
 ウエーバー順で行われたが、同年の参加報酬プラス200万円と決まっていた1巡目の指名はゼロ。プラス100万円の2巡目からようやくチラホラ出始めた。 
 広島・根本陸夫監督は、 
「ウチが出した選手も全部残り、うちがほしい選手は一人もいなかった」 
 と話していた。実際、広島、東映、西鉄は一人も指名していない。 
 一番の成功と言われたのが、一時はヤクルトのクリーンアップも打った高山忠克を取った阪神だった。 
 まあ、この選手は……だが。
 本当に使える選手がいなかったのかは正直謎。当時、おそらく他球団の二軍選手の情報はあまり知らなかったのでは、と思えるからだ。 
 実質的にもっとも得をしたと言われたのは、南海だ。野村克也兼任監督が指名したのは、ほぼブルペン捕手だったロッテ・里見進。そのときロッテ・濃人渉監督は明らかに渋い顔になった。 
 野村は「うちは控え捕手がいなかったからね。こういう縁の下の力持ち的な選手は必要だよ。僕は初めからそんな大物選手は出ないと思っていた。だから大収穫と言っていいよ」と話していた。当時専門のブルペン捕手はおらず、若手かベテランのほぼ出番のない選手が務めていた。 
 ただ、野村の真意はもう少し深いのでは、と言われていた。 
 里見は、一軍実戦の戦力にこそなっていないが、ロッテの誇る三本柱・成田文男、木樽正明、小山正明の陰の恋女房。球をたっぷり受けて特徴も知り尽くす。 
 さらにいえば、この男、バッティングピッチャーも務め、ロッテの強力打線を支えていたという。ロッテの打者たちは「コントロールはいいし、球質もバッティングピッチャーにもってこいなんだ」と話していた。 
 里見にはロッテの投打の情報がたっぷり頭に入っていたはずだ。南海は優勝に向け、最大の強敵から陰の功労者をゲットしたともいえる。 
 ただ、不思議なのは、里見が1年でロッテに戻っていることだ。のちの号で理由が出てくるかもしれないが、深読みすれば推測はある。 
 プロ野球の世界でブルペン捕手は日陰の存在だが、性格のいい人が多い。野村─ブレイザーから情報を根掘り葉掘り聞かれても、それに答えなかったのではないか。 
 聞き出したとしたら逆に1年で戻した意味が分からない。 
 1970年11月15日、広島の松田恒次オーナーが死去した。 
 それまで赤字だった広島を黒字に変えた伝説的オーナーだ。 
 死因は肺感染症と関節リュウマチと書いてあった。根本監督は、 
「何をどう言っていいのか分からん。あまりにも突然だ。自分のオヤジに死なれたように悲しい」 
 と沈痛な表情で語った。
 では、また月曜日に<次回に続く>
 備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 ③https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20200312-01
 ④https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20200313-01
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
************************************************************

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「日記」カテゴリーもっと見る