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┃板倉雅一┃
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‡1956(昭和31)年10月20日(土) 生誕
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http://mi-mychronicle.blogspot.com/
https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
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①┃ 浜田省吾 #27 『BIG BOY BLUES/SWEET LITTLE DARLIN'』 ┃
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2016(平成28)年07月11日(月)
浜田省吾19枚目のシングル『BIG BOY BLUES』が
1985(昭和60)年12月08日(日)に発売になりました。今回はその話を。
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浜田省吾のクリスマスミニアルバム『CLUB SNOWBOUND』のトラックダウンを
1985(昭和60)年10月14日(月)、15日(火)の二日間で終えた直後の
1985(昭和60)年10月19日(土)に、ぼく達はシングル『BIG BOY BLUES』のレコーディングのため、信濃町のソニーのレコーディングスタジオに集合した。今回のレコーディングメンバーも『CLUB SNOWBOUND』の時と同じ。この日のリズム録りのメンバーは
ドラムス:滝本 季延
ベース:江澤 宏明
ギター:町支 寛二
ピアノ:板倉 雅一 夕方5時30分から音楽雑誌「GB」の取材を浜田さんと町支さんとぼくの三人で受けた後の、夜の7時からリズム録りは始まった。今日一日で二曲のリズムを録る予定になっていた。この日のスタジオは2スタと呼ばれる第2スタジオ。信濃町ソニー、通称”シナソ”には第1~第3スタジオまで三つのスタジオがあって、第1スタジオが一番大きなスタジオだった。第2スタジオはやや小ぶりなスタジオだが、バンドが入ってレコーディングするには何ら問題の無い広さだった。レコーディングする一曲は『BIG BOY BLUES』、もう一曲はB面予定曲の『SWEET LITTLE DARLIN'』。アレンジは二曲ともぼくが担当した。BIG BOY BLUESはアップテンポのロックチューンで、浜田さんとは事前に軽く打ち合わせをしただけだったが、意思の疎通は出来ていたので、今回はプリプロは行わないでレコーディングに臨んだ。冒頭はギターの8ビートのカッティングから始まり、途中からピアノに導かれるようにリズムがなだれ込んでくるようなアレンジにした。BIG BOY BLUESのリズム録りは割とスムーズに終える事が出来た。もう一曲のSWEET LITTLE DARLIN'はブルージーなR&Bのバラード。ぼくは浜田さんからいただいたこの曲のデモテープを聴いた瞬間から、この三連の切ないバラードが大好きになった。アレンジするにあたって浜田さんからのリクエストは、「生のストリングスとブラスを入れて欲しい」。弦のアレンジはぼく、ブラスのアレンジは古村敏比古くんが担当することになった。ベーシックなアレンジはピアノの三連符のアルペジオから始まり、所々経過音で洒落たコードトーンやブレイクを挿入し、間奏では大胆に転調してクロマティック・ハープにソロを取ってもらうという構成にした。SWEET LITTLE DARLIN'のリズム録りも順調に終わり、ぼくが弾くフェンダー・ローズピアノを録ってこの日のレコーディングは深夜に終了した。
‡1985(昭和60)年10月20日(日)は六本木のソニースタジオでギターとコーラスのダビング。ギターは法田勇虫さん。BIG BOY BLUESの間奏の部分でのスリリングでトリッキーなギターソロに一同大喜びした。SWEET LITTLE DARLIN'でもブルージーなギターソロを弾いて貰った。そしてこの日はぼくの29才の誕生日でもあった。スタジオでみんなに祝福してもらって幸せだった。
1985(昭和60)年10月21日(月)は場所を麹町のサウンドイン・スタジオに移して、シンセサイザーのダビング。サウンドイン・スタジオは日本テレビ別館の6階にあるスタジオで、日テレと言う場所柄、ビルの中に入るのに非常に面倒なスタジオでもあった。シンセのオペレーターは、フクちゃんこと福田裕彦さんにお願いした。フクちゃんはヤマハのシンセサイザー「DX7」のオーソリティで、フクちゃんと作曲家の生方則孝さんの共同名義で開発した、DX7用音色カートリッジ「生福」は当時大きな話題となった。フクちゃんはプレイヤーとしては勿論のこと、シンセのプログラマーとしても名を馳せていた。フクちゃんに作ってもらった音色をぼくが演奏するという、ちょっと珍しい組み合わせではあったが、非常にクリエイティブなコラボレーションになった。BIG BOY BLUESのイントロ部分には、当時流行っていたオケヒット(オーケストラル・ヒットの略。オーケストラが全員で同時に音を鳴らした時のインパクトある音をサンプリングしたもの)の音を入れた。後日、生のストリングスとブラスのダビングが行われた。ストリングスの編成は「6.4.2.2」と呼ばれるもので、第1バイオリンが6名、第2バイオリンが4名、ビオラが2名、チェロが2名で構成される総勢14名からなる、ポップスやロックのレコーディングでは一般的な編成だった。ぼくは生のストリングスのアレンジを手がけるのは初めてだったので、譜面を書いている時から緊張していた。ストリングスの譜面は楽器によって調号を変えて書かなければならないのと、独特の和音の積み重ね方をしないと心地よい弦の響きが得られないので、そんな事ををかなりナーバスになりながら考えた。SWEET LITTLE DARLIN'のストリングス録音のために、”シナソ”にストリングスの方々が続々とやって来た。ぼくの書いたストリングスの譜面は写譜屋さんの手によって清書されて、綺麗にパートごとの譜面となって並んでいた。広いスタジオの中で各々のポジションについたストリングスの方々が、ケースから楽器を取り出しチューニングを始めた。ぼくはスタジオの中で譜面の説明をしながら生の弦を響きを聴いていた。「生の弦はスゲぇ良い音だなぁ?!」ぼくは緊張を悟られないよう平然を装いながらもとても興奮していた。この日スタジオ入りしたストリングスの方々は、年齢層も幅広く女性の方も何人かいた。おそらくアカデミックな教育を受けて来たであろうストリングスの面々を前にして、クラシックとは対極のロックミュージックをやっているぼくが書いた譜面は果たして通用するのか、音を出してみるまではとても不安だった。試しに練習を兼ねて、先日レコーディングしたオケに合わせてストリングスの方達に弾いてもらった。ぼくは自分がアレンジした譜面に間違いが無いか緊張しながら聴いていた。すると一カ所響きが濁る場所があった。慌てて譜面を確認してみると、第2バイオリンの音が他の音とぶつかっている箇所があった。どうやら写譜ミスのようだった。すぐさま譜面を訂正して、その箇所を弾いてもらうと今度は大丈夫だった。一度レコーディングしてみて細かいニュアンス等の修正を確認し、本番のレコーディングを開始した。今度は素晴らしい響きのアンサンブルだった。レコーディングは二時間程で終了した。初めての弦アレンジのプレッシャーと緊張から解放されたぼくは、ストリングス・マスターの元へ駆け寄りお礼を言った。「素晴らしい演奏をありがとうございました。」するとストリングス・マスターの友田さんが労いの言葉をかけてくれた。「とても良いアレンジで気持ちよく演奏出来ましたよ。」別の日には古村くんのアレンジでブラスのダビングが行われた。ぼくは同席出来なかったのだが、後日聴かせてもらったブラスの演奏はとても格好良い仕上がりだった。シングル『BIG BOY BLUES/SWEET LITTLE DARLIN'』は、TBSドラマ『華やかな誤算』の主題歌となってリリースされると、オリコンチャート14位を記録するヒットとなった。B面の『SWEET LITTLE DARLIN'』も劇中歌としてドラマの中で流れた。SWEET LITTLE DARLIN'は、ドラマの中で女優の佐倉しおりさんが演じる、中学二年生の楠田康子の登場するシーンによく流れることが決まっていたため、ぼく達はレコーディングの最中から、通称「しおりのテーマ」と呼んでいた。
1987(昭和62)年 翌年、CBSソニー主催のパーティが東京・銀座の老舗フランス料理店「マキシム・ド・パリ」で行われた。アルバム「J.BOY」のレコーディングの最中だった。このパーティはCBSソニー・レコードが主催したもので、1985年の同社のヒット曲に関わった人達が招待されていた。数あるヒット曲の中に『BIG BOY BLUES』も選ばれていた。ぼくは「ゴールデン編曲大賞」という賞を受賞したということで出席することとなった。出席者は豪華な顔ぶれで、ほとんどの人達がドレスやタキシードで着飾っていた。ぼく達の隣のテーブルは杉真理さんのご一行様で、やはりみんなスーツやタキシードを着ていた。そこにひときわ異彩を放っている集団が一組いた。ぼく達浜田省吾の一行だった。ぼく達はタキシードを着ているものは一人もおらず、みんなアロハにGパンやシャツの上にジャケットを羽織っただけのようなラフな格好だった。ぼくはパーティということで一応ジャケットは着ていったのだが、それでも他の面々に比べたらとてもカジュアルな格好だった。ぼくは隣の席の水谷公生さんと一緒にパーティの模様を楽しんでいた。次々と受賞者の名前が呼ばれて行く。やがて浜田省吾さんの番になった。そしてぼくの名前も呼ばれ、ぼくはゴールド・ディスクと副賞をいただいた。音楽人生の中で初めて貰った賞だった。いただいたゴールドディスクは、片面しかプレスされていないとのことだった。どうやら裏をひっくり返してもB面のSWEET LITTLE DARLIN'は入っていないらしい。そして実際にプレイヤーに乗せて針を落とせば、ちゃんと再生されるとのことだったが、勿論そんなことを一度もしたことは無い。
写真◆BIG BOY BLUESのアナログ盤。
写真◆BIG BOY BLUESのゴールドディスク。
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②┃ 浜田省吾 #30 "I'm a J.Boy" ┃
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2016(平成28)年09月10日(土)
1986(昭和61)年09月04日(木)、浜田省吾さんの二枚組LP「J.BOY」が発売になりました。それと同時に過去に類を見ない大規模なコンサートツアーが始まりました。今回はそんなON THE ROAD'86 "I'm a J.Boy"ツアーの話です。
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1986(昭和61)年09月04日(木)京都会館から始まり、翌
1987(昭和62)年04月06日(月)の那覇市民会館で幕を閉じた浜田省吾「On The Road I'm A J.BOY」は、合計で85本のスケジュールが組まれていた。そしてこのツアーから、ぼく達バンドにも大きな変更があった。まず新メンバーとして、アルバムJ.BOYのレコーディングから加わったドラムの高橋伸之くんがツアーにも参加することになった。そしてもうひとりのキーボードに梁邦彦くんが加わった。また初めての試みとして、ホーンセクションがツアーにも帯同することになった。メンバーは
トランペット:小林正弘
トロンボーン:清岡太郎
サックス:中村浩 そしてもう一人のサックスはおなじみ古村敏比古くんの4人。他にもJ.BOYツアーで変わったことは、ベースの江澤くんが鍵盤ベースも使用する事になったこと。彼のポジションにはヤマハのシンセサイザーDX7がセットされて、ベースギターと鍵盤によるシンセベースを曲によって弾き分けると言う、当時としては画期的な試みに挑戦した。今までもあまり語られることは無かったが、この時の江澤くんの試みはぼくは快挙だったと思っている。現在に至るまでいわゆるベーシストで、ステージ上で鍵盤ベースをプレイする人物は殆どいないと思う。彼は天才的なものを持っていた。ぼくの機材まわりも大きく変貌した。まずそれまでのツアーで使用していた、KAWAIのエレクトリック・グランドピアノを辞めて、代わりにテクニクスから新たに発売されたデジタルピアノ「SX-PX1」を使う事にした。新たにぼくのポジションに「SX-PX1」が二台置かれることとなった。テクニクスのピアノは、ぼくが実際に演奏してみて感じたフィーリングを何度もメーカーに伝え、ぼくの意見をフィードバックしてもらって、ぼくの好みのタッチと音色にチューニングしてもらった。おかげで素晴らしい音色と弾きやすいタッチのピアノになった。シンセサイザーも一新した。新たにヤマハDX5とオーバハイム・エキスパンダー、そして時にプロフィットT8という布陣になった。バンドの名前もそれまでの「His New Band」から約二年ぶりに「The Fuse」名が復活した。
1986(昭和61)年09月04日(木) ツアーは京都会館での初日を無事終え順調に進んでいた。今回のコンサートは二部構成の毎回三時間超えの長丁場で、時には三時間半を超える事も珍しくなかった。当時はまだ若かったとはいうものの、コンサートを終えた後の疲労感は半端じゃなかった。ツアー中に一人でも倒れたらコンサートは成立しなくなる。そのためぼくは今までにも増して、身体のケアに気をくばるようになった。ツアー中に羽目を外すことも勿論あったが、ツアーが終了するまではコンサートの無い時でも常に緊張感を持って過ごしていた。新しく加入したバンドメンバーとの関係は良好だった。ぼくもキーボードの梁くんとプラベートでも一緒に食事に行ったりする仲になった。梁くんのクレバーでおおらかな人柄はすぐにみんなから好かれるようになった。ドラムの高橋くんとはJ.BOYのレコーディングを共にしていたので、すでに気心知れる間柄になっていた。彼の生真面目な性格はドラムのプレイにも良く現れていて、その一糸乱れぬビートはバンドのサウンドをよりタイト&シャープにした。J.BOYツアーの中でもぼくがひときわ印象に残っているのが、
‡1986(昭和61)年10月20日(月)、ぼくの30才の誕生日に松本市社会文化会館で行われたコンサート。
1986(昭和61)年10月14日(火)富山、
1986(昭和61)年10月15日(水)福井、
1986(昭和61)年10月17(金),18日(土)長野でのコンサートを終えたぼく達は、
1986(昭和61)年10月19日(日)は松本への移動日でオフだった。そこでメンバーのうちの何人かは一旦東京に戻る事になった。東京への戻り組はぼくと江澤くん、古村くんと梁くんの四人だった。
1986(昭和61)年10月21日(火) 次の日、松本までぼく達四人は一台の車に便乗して中央高速を快調に走っていた。すると途中で事故渋滞に巻き込まれて、まったく動かなくなってしまった。でもすぐに渋滞は解消されるだろうと、まだこの時点では高をくくっていた。時間はまだたっぷりあった。午後三時までに会館に着けば大丈夫なので、気持ちにもゆとりがあった。しかし一時間経っても一向に渋滞は解消されないどころか、わずか数キロしか進まない。松本まではまだかなりの距離があった。やがて二時になり、やがて会館入りのリミットである三時を過ぎてしまった。高速を降りて下道を走ることも考えたが協議の結果、下で行ったら開演時間には間に合わないだろうという結論に達した。どうにか最寄りのSAに入り、マネージャーの岩熊さんに電話で到着が開演ギリギリになってしまうかもしれない旨を伝えた。18時過ぎ、ようやく会館に到着した。楽屋口で岩熊さんが仁王立ちで待っていた(笑)客席はすでに開場していてたくさんのお客さんが入っていた。結局この日は先に入っていたメンバーの簡単なサウンドッチェックぐらいしか出来なく、リハーサル無しで本番を迎えることとなってしまった。しかしアクシデントがあった時のコンサートはなぜか盛り上がるもので、この日はいつにも増して熱いコンサートになった。セットリストは以下のとおり。
ON THE ROAD'86 "I'm a J.Boy"
‡1986(昭和61)年10月20日(月) 松本市社会文化会館
01.A NEW STYLE WAR
02.HELLO ROCK&ROLL CITY
03.DANCE
04.AMERICA
05.A RICHMAN'S GIRL
06.想い出のファイヤーストーム
07.晩夏の鐘(インスト)
08.悲しみの岸辺
09.もうひとつの土曜日
10.勝利への道
11.路地裏の少年
休憩
12.反抗期
13.MAINSTREET
14.MONEY
15.DADDY'S TOWN
16.19のままさ
17.遠くへ
18.八月の歌
19.マイホームタウン
20.BIG BOY BLUES
21.J.BOY
アンコール:R&B Medley
You Can't Hurry Love(ザ・スプリームス)
A Thousand Nights(浜田省吾)
Unchained Melody(ライチャス・ブラザーズ)
Trying to Live My Life Without You(オーティス・クレイ)
Proud Mary(クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル)
Just One Look(ドリス・ トロイ)
Hold On I'm Coming(サム&デイヴ)
メンバー紹介(各々ソロ廻し)
The Land Of 1000 Dances(ウィルソン・ピケット)
土曜の夜と日曜の朝(浜田省吾)
"I'm a J.Boy"ツアーの白眉はアンコールのR&Bメドレーだった。このメドレーのタイトルは出典によっていろんな記述がなされている。「Sweet&Sour(スウィート&サワー) Medley」と表記されているものもあれば、「Sweet&Soul(スウィート&ソウル) Medley」と表記されているものある。ぼくの記憶では後者だったような気もするのだが定かではない。このアンコールでのR&Bメドレーは、浜田さんが十代のころに良く聴いたり歌ったりした曲をチョイスして、その中に自分のオリジナルのR&Bナンバーを織り交ぜるという趣旨のメドレーだった。一曲目の「You Can't Hurry Love」から、途中メンバー紹介の各人のソロ廻しを入れて、最後の「土曜の夜と日曜の朝」までノンストップ、ビートが途切れることなく歌いっぱなし、演奏しっぱなしの約三十分にも及ぶメドレーだった。これは約三時間の本編を終えた後に演奏するのは本当にキツかった。この日のアンコールでとても嬉しかったのは、メンバー紹介のソロ廻しの箇所でぼくの番になった時、J.Honesと命名されたホーンセクションの連中が即興で「ハッピーバースデイ」を演奏してくれて、それに乗せて浜田さんとお客さんが歌ってくれたこと。全くのサプライズだったのですごく感激した。軽くメドレーの曲を紹介すると、
You Can't Hurry Love(恋はあせらず)は1966年にスプリームス(シュープリームス)が発表した曲で、全米二週連続一位に輝いた。1982年にはフィル・コリンズがカバーしてヒットした。
Unchained Melody(アンチェインド・メロディ)は1955年の曲だが、有名なのは1965年にライチャス・ブラザーズが発表したバージョン。浜田さんもライチャス・ブラザーズのバージョンを、町支さんとのデュエットで披露した。
Trying to Live My Life Without You(愛なき世界で)は1972年にオーティス・クレイが発表した曲。メンフィスソウルのいかしたナンバー。
Proud Mary(プラウド・メアリー)は1969年にアメリカのバンド、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(CCR)が発表した曲。アイク&ティナ・ターナーやエルヴィス・プレスリー等、数多くのミュージシャンがカバーしている。
Just One Look(ジャスト・ワン・ルック)は1963年にドリス・ トロイが発表した曲。リンダ・ロンシュタットがカバーしたことでも有名。
Hold On I'm Comingはサム&デイブが1966年に発表した曲。全米R&Bチャート一位に輝いた。
The Land Of 1000 Dances(ダンス天国)はウィルソン・ピケットが1966年に発表した曲。オリジナルは1963年のクリス・ケナー。ウォーカー・ブラザースやJ・ガイルズ・バンド等もカバーしている。
このR&Bメドレーは歌うのも演奏するのも本当にキツかったが、ぼくも大好きな曲ばかりだったので本当に楽しかった。浜田さん初の二枚組No.1アルバムを引っ提げての、三時間半に及ぶロック絵巻を全国85本のツアーで披露する試みは、当時の日本の音楽シーンにおいて例を見ない桁違いのスケールのツアーだった。そしてぼくもその中の一員であれたことを感謝すると共に誇らしく思っている。あれから三十年、ぼくも今年で還暦を迎えるが、気持ちはあの頃と少しも変わっていない。
写真◆ぼくがJ.BOYツアーで使っていたテクニクスSX-PX1。
写真◆J.BOYツアーのコンサートチケット。
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③┃ 浜田省吾 #13 The Fuse幻のデモ ┃
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2016(平成28)年04月13日(水)
先日、ぼくがパーソナリティを担当している鎌倉FM『サウンドグローブ』の中で、The Fuseの幻のデモテープというのをオンエアしました。今回はThe Fuseのお話です。
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1982(昭和57)年3月22日(月) 姫路市文化センターから始まった浜田省吾春のツアーは、
1982(昭和57)年7月30日(金)の茨城県民文化センターまで、計73本のコンサートが組まれていた。今回のツアーではコンサートの中盤にThe Fuseのコーナーというのが設けられていて、ぼく達バンドは毎回二曲のオリジナル曲を演奏する機会に恵まれた。一曲はぼくが歌う「明日になれば」、もう一曲は町支さんが歌う「光と影」。コンサートは二部構成のような形になっていて、一部と二部のつなぎのような位置付けでThe Fuseのコーナーがあった。ツアー初日、
1982(昭和57)年3月22日(月) 姫路市文化センターのセットリストは以下の通り。
01.愛の世代の前に
02.土曜の夜と日曜の朝
03.ラストショー
04.愛という名のもとに
05.モダンガール
06.陽のあたる場所
07.The Fuse「光と影」
08.The Fuse「明日になれば」
09.二人の夏(アカペラ)
10.朝のシルエット
11.街角の天使
12.涙あふれて
13.とらわれの貧しい心で
14.独立記念日
15.ハイスクールR&R
16.東京
17.明日なき世代
18.On The Road
アンコール1
19.壁に向かって
20.終わりなき疾走
アンコール2
21.青春の絆 コンサートが始まり、ぼくはThe Fuseのコーナーが近づくにつれ、心臓の鼓動が高まっていくのを感じていた。6曲目の「陽のあたる場所」の頃になると、緊張のあまり吐き気も襲って来た。何しろツアー初日の緊張に加えて、The Fuseとして人前で歌うのも初めて。ぼくはダブルの緊張のあまり、どこかに逃げ出したくなる衝動をこらえ、何度か大きく深呼吸をした。やがて「陽のあたる場所」が終わると、浜田さんのThe Fuseを紹介する掛け声で一曲目の「光と影」が始まった。この曲のリードボーカルはギターの町支さん。さすがの歌の上手さである。それにひきかえボーカルに全く自信のないぼくは、堂々たる町支さんの歌を聴いてますます逃げ出したくなった。「光と影」が終わり、とうとうぼくが歌う「明日になれば」の番が来た。こうなったらもう開き直るしか無い。再び大きく息を吸い、気持ちを落ち着けて、ぼくはイントロのピアノのフレーズを弾き始めた。すると不思議なことに、さっきまでの吐き気もす~っと引いて、徐々に落ち着いて来た。一番を歌い終える頃には、何だか楽しくなって来た。どうにか歌詞も間違えずに、ぼくは無事に歌い終えることが出来た。当時ロンドンレコードという、外資系のレコード会社があった。主に洋楽部門を中心に展開していたが、社内には邦楽部門もあり、RCサクセション、忌野清志郎+坂本龍一等が在籍していた。そのロンドンからThe Fuseのレコードを作らないかという話があって、僕たちはデモテープのレコーディングを行った。
‡1982(昭和57)年10月20日(水)、中野にあった「サウンドスカイ中野スタジオ」でレコーディングは行われた。奇しくもぼくの26歳の誕生日の日であった。レコーディングエンジニアは、はっぴえんどのドラマーで作詞家の松本隆さんの弟さんの松本裕さん。そうそうたるアーティストの作品を手がける、名うてのエンジニアである。デモテープ制作のために、ぼく達に与えられた時間はこの日一日だけ。一日でリズム録りから楽器のダビング、ボーカルとコーラス録り、トラックダウンまですべてを行わなければならなかった。レコーディングした曲は「光と影」と「明日になれば」の二曲。この年の春のツアーで何十回と演奏して来た曲なので、楽器のレコーディングはスムーズに終わった。問題はボーカルだった。町支さんは慣れたもので、さっさと歌入れを済ませて涼しい顔をしていた。ぼくはそういう訳には行かなかった。元々ボーカルに自信が無いうえに、「明日になれば」はとても音域の広い曲だった。自分で作ったのに、自分のボーカリストとしての力量を全くを考えていなかったため、とんでもなく音域の広い曲になってしまった。ぼくの声質は町支さんのようにパンチもスピード感も無かったので、歌をダブルトラックで録ることにした。ダブルトラックとは同じことを二回歌ってそれを重ねて再生する技法のことで、声の線の細いボーカリストなどは、このダブルトラックで録音することが多かった。ボーカルをダブルにしたことで何とか聴けるレベルの歌になってきた。それでも自分の声と歌を聴くのはあまり好きではなかった。ボーカル録りを終え、今度はコーラスのダビングに移った。The Fuseの面々は、浜田さんのコンサートで散々鍛えられていたおかげで、コーラスワークはお手のものだった。スムーズにコーラス録りは終了して、残すはトラックダウンの作業だけとなった。トラックダウンとは24chのテープに録音した個々の音を、バランスや音質を整えながら最終的に2chにまとめる作業のことで、ここでの仕上がり次第で良くも悪くもなる。ミックスダウンやミックスと言ったり、TDと略して呼ぶこともあった。どんなに素晴らしい演奏やボーカルが録音されていたとしても、トラックダウンの仕上がりが良くないと、台無しになってしまうことも往々にしてある。よってトラックダウンの作業は、エンジニアの腕の見せ所でもあった。トラックダウンはエンジニアの孤独な作業で、ある程度音が整理されてからでないとぼく達は何もやることが無い。そこでぼく達はスタジオの階下にあったビリヤード台で遊んで時間をつぶした。数時間後、エンジニアの松本さんからトラックダウンが完了したとの知らせが入った。早速出来上がった音を聴かせてもらった。ドライブ感と迫力のある素晴らしい仕上がりだった。ぼく達はすごくいかしたサウンドにとても満足だった。最後に細かい箇所の修正をして、The Fuseの記念すべきデモテープは完成した。後はレコード会社の判断を仰ぐだけだった。ぼく達はデモテープの出来に自信があったので、吉報が届くのを信じていた。しかし諸般の事情が重なって、ロンドンレコードからのデビューは叶わなかった。浜田さんのツアーの日々に忙殺されるうちに、何となくデビューの話もフェイドアウトしていった。他のレコード会社を当たるという手段もあったが、ぼく達はそうしなかった。デモを録音した二曲の他にもオリジナル曲は何曲かあったが、それ以降の展開は無かった。1983(昭和58)年になるとツアーの本数は更に増え、バンド内に目に見えない違和感のようなものが、少しずつ芽生え始めているのをメンバー全員が薄々感じ始めていた。『ファースト・フィナーレ』と題された83年秋のツアーは、これでバンドが終ってしまうことが分かっていたので、勿論コンサートはベストを尽くして臨んでいたが、それ以外の部分では正直あまり良い思い出はない。と言うかあまり思い出せない。そして
1984(昭和59)年02月19日(日)、NHKホールでのファースト・フィナーレ最終公演をもって、The Fuseの歴史も幕を閉じた。もうこのメンバーでのサウンドを奏でる事は永遠に叶わぬ夢となった。
写真◆岡山のイベンター「夢番地」が発行していたThe Fuseの機関誌「Fuse fan」。
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381:1987(昭和62)年2月3日(火) 大阪城ホール No.④
2017/02/03(金) 17:07:05.24 ID:zJoKcfRf
で、親父はもうその年、定年退職だったから、
まぁ、このまま無駄に親の金を使ってもしょうがないなぁと思って、
もう、大学やめてしまおうかと迷ってた頃…。
それがちょうど大学2年生の秋だった…、
●10月20日の夜で、その日、俺は大学の前のアパートに住んでたんだけど、
夜の11時ごろ、大騒ぎがするので外にでてみた、そして学校の方に行ってみた。
白いヘルメットや、青いヘルメットや、自分と同じような年頃の、
若いヤツらが、夜の11時から、朝の7時まで、延々、1つの教室をめぐって…、
闘ってる。その、その抗争っていうか、その争いで、3人の学生が死んで、
26名の重傷者が出て、あと怪我をした人は、数知れない。
そして、今でも、植物人間のように、ずっと病院に入ったままの人もいる。
それで、おれは、その次の日に、大学を辞める決心をした。
みんなには少し、なじみの薄い話かもしれないけど、
それが自分の20歳の頃の話で、今でも心に残ってる。
あの時代に、俺たちが何を学んだのか、そして、あれからあとの世代が、
そっからどんなふうに成長したのか、今でもわからない…。
ただ、残ったのは、二十歳の頃作った、こんな歌…」
17.遠くへ~1973年・春・20歳
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/musicjm/1484917179/
荒井由実 ユーミンさよなら独身時代 https://youtu.be/n72gTEMIj44
1976(昭和51)年10月20日(水) 八王子市民会館
歌 荒井由実 演奏 コズミックララバイ
1.海を見ていた午後
2.あの日に帰りたい
3.空と海の輝きに向けて
4.14番目の月
5.天気雨
6.翳りゆく部屋
7.アフリカへ行きたい