エルヴィス・プレスリー ニクソン元米大統領からジョン・レノン監視を依頼されていた!?
‡2021(令和三)年09月22日(wed)
リチャード・ニクソン元米大統領は、当時ニューヨークに住んでいたエルヴィス・プレスリーにジョン・レノンを監視するよう依頼していたそうだ。1975年に英BBC音楽番組『ジ・オールド・グレイ・ホイッスル・テスト』でジョンをインタビューした音楽プレゼンターのボブ・ハリスによると、ニクソン元米大統領は、ベトナム戦争に批判的だったジョンを酷く嫌っていたという。ボブはポッドキャスト番組『Rockonteurs』で当時をこう振り返っている。「ジョンが『僕の電話は盗聴されているし、何処へ行くにも後をつけられている』って言った時には、彼の想像の産物のように聞こえたけど、それは真実だったんだ。その通りだった」「ニクソンは、彼を捕まえようとしていたよ。だからジョンはニューヨーク、もしくはアメリカから出れなかった。イギリスへ戻ったら、アメリカには2度と戻れないって知っていたんだ。ニクソンがホワイトハウスにいる間はね」そしてニクソンは、当時友人だったエルヴィスに、ジョンに関する情報を集めるよう頼んだそうで、「ニクソンとエルヴィスは仲の良い友人同士だった。ニクソンは出来る限りジョン・レノンに関する情報を集めるようエルヴィスに依頼したんだ」とボブは続ける。また1965年にロサンゼルスで初めて会ったというジョンとエルヴィスだが、当初ジョンはエルヴィスの大ファンであったものの、ライバル同士となったことで関係が徐々に悪化していったという。「エルヴィスのレコードを愛していたジョンにとっては、彼が南部出身の右派の偏屈者と知った時は大ショックで、幻滅した瞬間だった」「同時にエルヴィスは、レノンのことを自分の王冠を奪った知ったかぶりの駆け出しのリバプール出身者と考えていた。エルヴィスは彼に地位を奪われたことで、酷く憤慨していたんだ」
https://www.daily.co.jp/gossip/foreign_topics/2021/09/22/0014698535.shtml
ポール・マッカートニーとリンゴ・スター、ビートルズがライヴを辞めた経緯を明かす
‡2016(平成28)年08月25日(木) Photo: GETTY
ザ・ビートルズはビートルマニア絶頂の1966年にサンフランシスコのキャンドルスティック・パークで行った記念碑的なショウを最後に永遠にツアーを止めてしまうことになったが、そうする意図は決してなかったとリンゴ・スターが明かしている。ロン・ハワードによる映画『ザ・ビートルズ?EIGHT DAYS A WEEK ‐ The Touring Years』に関連した『モジョ』誌のインタヴューのなかで、リンゴ・スターは「ザ・ビートルズが消え去ったことなんて一度もないんだ。そして、戻ってくることだって可能だったんだよ」と語っている。その後、ライヴに戻ってくることはなかったが、最後にもう1度だけ、1969年にサヴィル・ロウにある当時のアップル本社の屋上でライヴを行っている。ポール・マッカートニーは、バンドがライヴを終わりにしようと決断した瞬間について説明している。「その時までには僕たちはすっかりうんざりしていて、実際にステンレスの箱のなかに戻ったんだ」と、キャンドルスティック・パークのライヴを去る際に使用した武装された車のことを振り返っている。この車は映画の中で見ることができる。「今見れば、風変わりな2001年のSFか何かのように見えるね。実際、風変わりな場所だったんだ。僕が思い出すのは……警察がやるようなひどい扱いって分かるだろう? そんな感じで、ヴァンの後ろに乗せられるんだけど、縛られているわけじゃなくてさ。それで、誰かを殺したって非難されるわけだけど、まあ、そんな感じさ。僕たちはヴァンの後ろに乗って突然立ち去ることになって、それで『もうやめだ!』っていう感じになったんだ。ついにね。ジョン(・レノン)とジョージ(・ハリスン)はその前からツアーについてブツブツ言っていてね、そしてついに全員が『こんなことクソくらえ!』となった。それが、決定的な瞬間だよ」キャンドルスティック・パークでライヴが行われたのは、1963年から始まった一連の大規模な世界ツアーにより盛り上がりを見せたビートルマニア現象の最盛期だった。『アポロ13』や『ラッシュ/プライドと友情』を手掛け、ドキュメンタリーの監督を務めたロン・ハワードはインタヴューの中で、ザ・ビートルズが解散する原因になったとも考えられるビートルマニア現象の「過激化」について議論している。「少し衝突もあってね、終わりの頃はうんざりしていたんだ」と、ポール・マッカートニーは説明している。ライヴ・パフォーマンスの最中、ファンの叫び声があまりに大きいため音がまったく聴こえず、ドラムのリンゴ・スターは他のメンバーの肩の動きを見て曲の進行を把握しなくてはならなかったという。「僕らは会場のPAを使っていてね、巨大なアンプがあったんだけど、僕はメンバーの背中を見なければならなかった。何も聴こえなかったからね。だから、みんなが(肩を小刻みに)やっていれば、『そうか、今はここだ!』と理解したんだ。僕たちはここをやっているんだってね。それから、これはあくまでも僕の意見だけど、僕たちはうまく演奏できていたとは言い難かったね」「最初は、その叫び声にも興奮したよ。サイン会をしたり写真を撮ったり、そういうことのすべてにね」とポール・マッカートニーは付け加えている。「それで、しばらくしたら、どんどんつまらなくなっていったんだ」そして、ポール・マッカートニーは次のように続けている。「リンゴが言ったように、何も聴こえないほどの叫び声だったんだ。だから、本当にすべての動きをやったし、それで『イエーイ!』みたいなこともやったわけだ。だって何かが起きていて、それをやらなければ小さなマッチ棒のような男たちがいるだけで何も聴こえないわけなんだから」ザ・ビートルズで存命しているメンバーである二人は他にもインタヴューの中で、アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のジャケットが、ザ・ビートルズの終焉を示唆しているのではないかという憶測を否定し、バンドの創作における方向性の転換のようなものだと説明している。1966年のキャンドルスティック・パークでの公演の後、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』は1967年にリリースしており、『アビイ・ロード』や『レット・イット・ビー』を含むさらに5枚のアルバムをリリースしている。
映画『ザ・ビートルズ~EIGHT DAYS A WEEK ‐ The Touring Years』は
‡2016(平成28)年09月22日(thu)に公開される。
https://nme-jp.com/news/25405/
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃ A R O N H O W A R D F I L M ┃
┃ 『EIGHT DAYS A WEEK THE TOURING YEARS』 ┃
┃ THE BAND YOU KNOW. THE STORY YOU DON'T. ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
2016(平成28)年09月09日(fri) Soundtrack Released
2016(平成28)年09月15日(thu) UK Released
2016(平成28)年09月16日(fri) US Released
‡2016(平成28)年09月22日(thu) JP Released
****************************************************
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Beatles:_Eight_Days_a_Week
音源◆https://music.amazon.co.jp/albums/B07FT6LBXS
音源◆https://music.amazon.co.jp/albums/B01KBWETBW
****************************************************
ザ・ビートルズ~EIGHT DAYS A WEEK ‐ The Touring Years>
Apple Corps Limited. All Rights Reserved.
‡2016年9/22(木・祝)より 角川シネマ有楽町ほか全国公開
配給:KADOKAWA
http://music-calendar.jp/2016091901
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃ 『ザ・ビートルズ EIGHT DAYS A WEEK The Touring Years』 ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
「ビートルズ」ドキュメンタリーにシガニー・ウィーバー、ウーピー・ゴールドバーグらが出演!
2016(平成28)年09月04日(日) 12:00
約21年ぶりのアップル公式作品
(C)White Horse Pictures
(C)Apple Corps Limited. All Rights Reserved.
[映画.com ニュース]ロン・ハワード監督がロックバンド「ザ・ビートルズ」の初期に迫ったドキュメンタリー「ザ・ビートルズ EIGHT DAYS A WEEK The Touring Years」に、女優のシガニー・ウィーバー、ウーピー・ゴールドバーグ、ミュージシャンのエルビス・コステロ、カメラマンの浅井慎平氏が出演していることが明らかになり、同バンドへの思いを語る様子を切り取った場面写真が公開された。さらに、ライブを鑑賞する当時14歳のウィーバーの姿も披露された。テレビシリーズ「ザ・ビートルズ・アンソロジー」(1995)以来約21年、映画としては「ビートルズ レット・イット・ビー」以来約46年ぶりとなるアップル作品。ポール・マッカートニーとリンゴ・スターの新証言、「ビートルズがやって来る ヤア!ヤア!ヤア!」「HELP! 四人はアイドル」の監督を務めたリチャード・レスターのインタビューの模様といった貴重な映像から、同バンドがいかにして「ビートルマニア」と呼ばれる社会現象を巻き起こしたのかを紐解いていく。また日本で上映される際には、日本限定版として50年前の来日時の映像が長めに収録されることが決定している。日本武道館公演の模様はもちろん、オフィシャルカメラマンとして、日本を訪れたメンバーの姿を撮り続けた浅井氏が当時を振り返る様子も収められている。『ザ・ビートルズ EIGHT DAYS A WEEK The Touring Years』は、
‡2016(平成28)年09月22日(木・祝)から全国公開。
https://eiga.com/news/20160904/7/
有料映像◆https://youtu.be/FmCXVXSEvGM
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃ ビートルズ詳解 The Beatles’Corpus ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
①1960(昭和35)年09月22日(木) ライヴ演奏:インドラ・クラブ/ハンブルグ (37日目)
②1961(昭和36)年09月22日(金) ライヴ演奏:ノッティ・アッシュ・ヴィレッジ・ホール/リヴァプール
③1962(昭和37)年09月22日(土) ライヴ演奏:マジェスティック・ボールルーム/バーケンヘッド
------------------------------------------------------------
①1960(昭和35)年09月22日(木) ライヴ演奏:インドラ・クラブ/ハンブルグ (37日目)
平日の夜は、
08:00pm~09:30pm
10:00pm~11:00pm
11:30pm~00:30am
01:00am~02:00am 以上、4時間半の演奏良好だヨ(=^◇^=)
②1961(昭和36)年09月22日(金) ライヴ演奏:ノッティ・アッシュ・ヴィレッジ・ホール/リヴァプール
ビートルズはノッティ・アッシュ・ヴィレッジ・ホールに、8回出演しているヨ(=^◇^=)
‡1961(昭和36)年09月15日 22日 29日
1961(昭和36)年10月20日 27日
1961(昭和36)年11月10日 17日
1962(昭和37)年03月17日
③1962(昭和37)年09月22日(土) ライヴ演奏:マジェスティック・ボールルーム/バーケンヘッド
この日はビートルズの、バーケンヘッド (Birkenhead) にあるマジェスティック・ボールルーム (Majestic Ballroom) への17回目の出演だった。この会場は当時英国で最大のエンターテイメント企業、トップ・ランク社 (Top Rank) の所有するダンスホールであった。トップ・ランク社は全国でダンスホール、映画館、劇場、ビンゴ・ホールを経営しており、ビートルズはこの企業の経営する28のダンスホールの内、12会場に出演している。
ビートルズは、1962年6月28日から1963年4月10日までの期間に、17回マジェスティック・ボールルームに出演しているヨ(=^◇^=)
1962(昭和37)年06月28日
1962(昭和37)年07月05日 12日 19日 28日
1962(昭和37)年08月17日 24日
‡1962(昭和37)年09月08日 22日
1962(昭和37)年10月15日
1962(昭和37)年11月22日 29日
1962(昭和37)年12月15日
1963(昭和38)年01月17日 31日
1963(昭和38)年02月21日
1963(昭和38)年04月10日
⑪1962(昭和37)年9月下旬に撮影されたと思しき写真集 (1)
場所:ピーター・ケイ・スタジオ (Peter Kaye Studio)
撮影者:レス・チャドウィック (Les Chadwick)
この日ビートルズがケイのスタジオに着くと、ケイは屋外撮影の背景を探しにリヴァプール巡回に出かけていたのでチャドウィックがビートルズの写真を撮ることになった。このセッションは3時間に及び、ビートルズが過去経験した中では最長だった。その結果、チャドウィックがうろたえたことには、彼らは退屈して集中力が途切れてしまった。ケイが戻って来て「どうだった?」と聞くと「見込み無しだ」とチャドウィックは答えた。惨憺たる撮影とみなされてはいるものの、何枚かの写真はは1963年を通して使われている。しかしケイは満足できなかった。数日後に、ケイが探して来た場所での屋外撮影がスケジュールに組み込まれる。
⑫1962(昭和37)年9月下旬に撮影されたと思しき写真集 (2)
場所:リヴァプール埠頭周辺の倉庫
撮影者:レス・チャドウィック (Les Chadwick)
次なるピーター・ケイとの撮影セッションは、リヴァプール埠頭周辺での屋外撮影であった。日付については「しぐれもようの水曜日」ということしか判っていない。
⑬1962(昭和37)年9月下旬に撮影されたと思しき写真集 (3)
場所:ドック通りにある「The Bally」と呼ばれる場所
撮影者:ピーター・ケイ (Peter Kaye)
次なるピーター・ケイとの撮影セッションは、リヴァプール埠頭周辺での屋外撮影であった。日付については「しぐれもようの水曜日」ということしか判っていない。
⑭1962(昭和37)年9月下旬に撮影されたと思しき写真集 (4)
場所:アルバート埠頭 (Albert Dock) に停泊する「Salvor号」
撮影者:レス・チャドウィック (Les Chadwick)
次なるピーター・ケイとの撮影セッションは、リヴァプール埠頭周辺での屋外撮影であった。日付については「しぐれもようの水曜日」ということしか判っていない。
⑮1962(昭和37)年9月下旬に撮影されたと思しき写真集 (5)
場所:アルバート埠頭 ⇒ 背景はロイアル・リヴァー・ビル (Royal Liver Building)
撮影者:レス・チャドウィック (Les Chadwick)
次なるピーター・ケイとの撮影セッションは、リヴァプール埠頭周辺での屋外撮影であった。日付については「しぐれもようの水曜日」ということしか判っていない。
⑯1962(昭和37)年9月下旬から10月上旬に撮影されたと思しき写真集
場所:マッカートニー宅 ⇒ リヴァプール・フォースリン通り (Forthlin Road, Liverpool)
撮影者:マイク・マッカートニー (Mike McCartney)
マッカートニー家でのスナップ。いくつかの報告によれば、ジョンとポールはこの時ここで『I Saw Her Standing There』の作曲に取り組んでいた。
写真◆ポール、父のジム、弟のマイク
************************************************************
①https://gejirin.com/beatles/history/1960/19600817_live_indra1.html
https://gejirin.com/beatles/history/1960/19600818_live_indra2.html
②https://gejirin.com/beatles/history/1962/19620317_knotty_ash.html
https://gejirin.com/beatles/history/1961/0history_index-1961.html
③https://gejirin.com/beatles/history/1962/19620922_live_Majestic_Ballroom.html
https://en.wikipedia.org/wiki/Give_My_Regards_to_Broad_Street
⑪https://gejirin.com/beatles/history/1962/196209XX_photos_1.html
⑫https://gejirin.com/beatles/history/1962/196209XX_photos_2.html
⑬https://gejirin.com/beatles/history/1962/196209XX_photos_3.html
⑭https://gejirin.com/beatles/history/1962/196209XX_photos_4.html
⑮https://gejirin.com/beatles/history/1962/196209XX_photos_5.html
⑯https://gejirin.com/beatles/history/1962/196209XX_photos_6.html
************************************************************
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓┌─―――――┐
┃ THE BEATLES HISTORY ┃|September 22|265
┃ ザ・ビートルズの今日の出来事 ┃| 9月22日 |
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛└─―――――┘
********** http://www.thebeatles.co.jp/contents/index2.htm
http://www.beatlelinks.net/forums/showthread.php?t=17133
http://beatlesdiary.web.fc2.com/day/009/0922.html
http://www.beatlesagain.com/bhistory.html
楽曲資料https://beatlesdata.info/
歌詞充実http://tsugu.cside.com/index.html
*******************************************
┏━━━━━━━━━━━━━┓
┃ 『この日のビートルズ』 ┃上林 格 P.288 714円(税込) 朝日新聞出版
┗━━━━━━━━━━━━━┛2013(平成25)年11月7日(木) 朝日文庫発行
┌─――――――――――――┐
|1968(昭和43)年 2月 3日(土)|「想い宇宙へ、未練の録音」
|2009(平成21)年 2月 3日(火)|甲虫日記更新日 No.042
└─――――――――――――┘
結局、♪アクロス……♪は、コメディアンのスパイク・ミリガンが67年12月に設立した世界野生動物保護基金のためのチャリティー・アルバム用に提供された。悪名高い69年1月のゲット・バック・セッションの際、リメイクの兆しもあったが、リハーサルだけで終わっている。
初出バージョンは、69年12月、歌詞にちなんだLP『NO ONE'S GONNA CHANGE OUR WORLD』が発売されてようやく日の目を見た。ザ・ビー・ジーズやクリフ・リチャードら他のアーティストの曲も収められたオムニバス・アルバムだった。
オリジナル録音の「第8テイク」をもとに、最終リミックスで鳥の羽ばたく音などが重ねられ、テープ速度も速められた。しかし、LPは英国限定発売のうえ、2~3年で廃盤になり、長い間、真のレアリティとなっていた。
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
①┃ 『NO ONE'S GONNA CHANGE OUR WORLD』 ┃(Wildlife Version)" (Mono) http://youtu.be/8vuudq9enI4
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ジャケット画像あり(=^◇^=)
WWF(世界自然保護基金)のチャリティ・アルバム作品
1969(昭和44)年12月12日(金) リリース
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
②┃ WWF World Wildlife Fund ⇒ World Wide Fund for Nature ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
世界野生生物基金(WWF ⇒ World Wildlife Fund)※1986年までこの名称で活動
世界自然保護基金(WWF ⇒ World Wide Fund for Nature)
1961(昭和36)年 4月29日(土) 設立
1961(昭和36)年 9月11日(月) 最初のオフィスはスイスのモルジュにオープン
‡1971(昭和46)年 9月22日(水) WWFジャパン発足
******************** https://www.amazon.co.jp/dp/4022617802
①http://en.wikipedia.org/wiki/No_One%27s_Gonna_Change_Our_World
①http://en.wikipedia.org/wiki/Across_the_Universe http://parlophone.fc2web.com/RAR/rar.html
②http://en.wikipedia.org/wiki/World_Wide_Fund_for_Nature
***********************************************************
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃ THE BEATLES Live at the Majestic Ballroom ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
‡No.09 1962(昭和37)年 9月22日(sat) Majestic Ballroom
************************************************************
http://gejirin.com/beatles/history/1962/19621215_live_Majestic_Ballroom.html
************************************************************
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃ ♪Lucy in the Sky with Diamonds♪ ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
†2009(平成21)年9月22日(火) この曲のモデルとなったルーシー・ヴォデンは46歳の若さで、この世を去った
************************************************************
https://beatlesdata.info/8/03_lucyintheskywithdiamonds.html
https://en.wikipedia.org/wiki/Lucy_in_the_Sky_with_Diamonds
************************************************************
┏━━━━━━━━━━━━━━┓
┃ 『Magical Mystery Tour』 ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━┛
Capitol (S)MAL 2835 - November 27, 1967
Parlophone PCTC 255 - November 19, 1976
(Originally released in the UK as an EP, (S)MMT 1)
Parlophone PCTC 255 (Yellow Vinyl) - May 1979
Mobile Fidelity MFSL 1-047 - January 30, 1981
‡(CD) Parlophone CDP 7 48062 2 - September 22, 1987
Capitol C1-48062 - July 1, 1988
****************************************
http://www.beatlesagain.com/btlps.html
****************************************
映像◆『ザ・ビートルズ~EIGHT DAYS A WEEK ‐ The Touring Years』本予告 https://youtu.be/OAt6EbGgILc
2016/07/28 に公開 公式サイト:http://thebeatles-eightdaysaweek.jp/
KADOKAWA配給 (C)Apple Corps Limited.
映像◆ビートルズ映画2016 https://youtu.be/JzpIDOLhcpo
映像◆'88? ビートルズ大辞典1/4 https://youtu.be/5FuCqxlFp78
2014/07/20 に公開 歴史になった音楽家 ザ・ビートルズ大辞典 DJ柴田チコ、東芝EMI 石坂敬一、BEATLESシネクラブも出演☆基本 *2/4以降はUP不可也
DISC FIVE
WBCN FM RADIO SHOW Broadcasted Sep. 22, 1969
01. DJ
02. Let It Be
03. Don't Let Me Down
04. For You Blue
05. Get Back
06. DJ
07. Hey Jude
08. Golden Slumbers - Carry That Weight - The End
09. DJ
10. Get Back
11. Get Back
12. Teddy Boy
13. Two Of Us
14. Dig A Pony
15. DJ
16. Give Peace A Chance - The Ballad Of John And Yoko
17. Carry That Weight - The End
18. Ad
19. The Walk
20. Mean Mr.Mustard - Polythene Pam - She Came In Through The Bathroom Window
21. I've Got A Feeling
22. The Long And Winding Road
23. Here Comes The Sun
ディスク5は、ビートルズ初の海賊盤「Kum Back」の元となったといわれるWBCNの放送を、ビートルズの部分だけでなく、放送局のアナウンスや途中のCM、そして他のアーティストの曲などを含め、そのまま収録しています。内容的には有名なもので、こちらも今まで数多くのタイトルに収録されてきたものですが、ただし、1箇所のみ、今までにリリースされたものと異なるところがあります。今となってはビートルマニアの永遠の謎ですが、ぜひ皆さんで解明していただきたいと思います。
┏━━━━━━━━━━━━━┓
┃ 『この日のビートルズ』 ┃上林 格 P.288 714円(税込) 朝日新聞出版
┗━━━━━━━━━━━━━┛2013(平成25)年11月7日(木) 朝日文庫発行
人類がまだ月面着陸を夢見ていた1960年代、英国出身の4人の若者が世界を席巻した。
ポピュラー音楽史の記録を次々と塗り替えただけではなく、
文化、思想、生活スタイル、あらゆる分野に強烈な影響を与えた。
語り継がれる20世紀最高のファブ・フォーの「この日」にこだわってみました。
┌─――――――――――――┐
|1969(昭和44)年10月24日(金)|「死人が歩く、死人が答える」
|2009(平成21)年10月23日(金)|甲虫日記更新日 No.060
└─――――――――――――┘
アルバム「ABBEY ROAD」が発売された1969(昭和44)年秋、ポール・マッカートニーが死んだという噂が米国を中心にものすごい勢いで広まっていた。「僕が死んだって? なんで誰も僕に教えてくれないんだ」。ポールは新聞のインタビューに短く答えただけで、妻リンダと生まれたばかりのメアリーら家族を連れてスコットランドの北西部・キンタイヤ岬にある農場に引きこもっていた。
1969(昭和44)年10月24日(金)、一向におさまる様子がない噂の真相を確かめるべく、BBCの記者クリス・ドレイクがポールの農場に出かけた。ポールはばかげた噂をやめさせる良い機会と考え、ドレイクの独占インタビューを受け、自分は確かに生きていると断言した。その内容はラジオで3回放送され、少なくとも英国では噂はデマだと信じられた。まことしやかな噂の出所は、正確にはわからない。
1969(昭和44)年09月17日(水)、米国アイオワ州のドレイク大学学生新聞が、「ポールは
1966(昭和41)年11月09日(水)、スコットランドにおける交通事故で死亡していて、うり二つの人物が身代わりを演じている」という噂について論じた。
‡1969(昭和44)年09月22日(月)には、イリノイ州のイリノイ大学学生新聞が、「Strawberry Fields Forever」のフェイド・アウト部分に「私はポールを埋葬した」と聞こえる言葉がある、ことなどを根拠に「死亡説」をほのめかした。この噂を一気に広めたのが、ミシガン州デトロイトにあるアングラ系ラジオ放送局WKNRだ。
1969(昭和44)年10月12日(日)、イースタンミシガン大学の学生だという『トム』は、同局のリスナー参加番組に電話をかけ、「ポールが死んだ話をしたい。レコードに手がかりがある」と主張し、DJにビートルズの「Revolution 9」を逆回転で聴くように強く迫った。おもしろがったDJは、この曲の「ナンバー・ナイン……ナンバー・ナイン」という声が繰り返される部分のテープを逆回転させた。単調な声が聞こえた。リスナーは「私をハイにしてくれ、死者よ……私をハイにしてくれ、死者よ」と聞こえると主張した。この放送を聞いていたミシガン大学のある学生が、噂の質をさらに高めるような突飛な記事を学生新聞に掲載した。その学生は「ウィリアム・キャンベル」という名のエディンバラ出身の孤児を「ポールの替え玉」に仕立てた。「キャンベル」はポールになりすますため、ほかのビートルズのメンバーからひそかに訓練を受けたというのだ。
後に別のラジオ局が実在するキャンベルを探し出す。キャンベルは一度「ポールそっくりさん」コンテストで優勝した経歴を持っていたのだ。アルバムを片っ端から聴き返し、ジャケットを穴の開くほど眺める日々を過ごしていたファンは、ビートルズがアルバムにちょっとしたジョークや隠されたメッセージを入れて味付けするのが好きなことを知っていた。コンサート活動をやめた1966(昭和41)年以降のレコードは様々な速度で逆回転させられ、アルバム・ジャケットや宣伝用写真は他に証拠がないかと吟味され、「ポールは死んだのか」会まで作られた。しかし、結果的にはどれも深読みされすぎていて、ビートルズがまるで意図しなかった「解釈」へと発展したものばかりだ。
◎次々と現れるポール死亡の「深読み」… 次のページへ
例えば、1967(昭和42)年発表のアルバム『SGT. PEPPER'S LONELY HEARTS CLUB BAND』のフロント・カバーは、ポールの墓に集まる会葬者たちの姿とされた。黄色いヒヤシンスでできたベース・ギターがポールを暗示させ、ポールが手に持つ黒いクラリネットは「死の色」となり、ポールの頭上にかざされた手のひらは「東洋では死の象徴」と説明される。
ポールだけが背中を向けているバック・カバーは「意味シンだ」となり、ジョージの親指が指す「She's Leaving Home」の最初の一行「水曜日の朝5時……」はポールの死亡時刻とされた。実際、
「1966(昭和41)年11月9日」は水曜日だった。1968(昭和43)年発表のアルバム『』の「Glass Onion」でジョンが「WALRUSはポールだった」と歌ったため、アルバム『MAGICAL MYSTERY TOUR』のジャケット写真の黒いセイウチも暗示のひとつになった。北欧のある地方では、黒いセイウチは死の象徴とされているという。数え上げたらきりがない。こうした騒ぎの渦中に『ABBEY ROAD』は発売されたため、そのカバー写真は格好の餌食になった。先頭を歩く牧師のジョンが、黒い喪服を着た葬儀屋のリンゴ、裸足で歩く生き返ったポール、墓堀人のジョージを先導している、とされた。しかし、替え玉のポールはここで初めて過ちを犯した。左利きのポールが右手の人さし指と中指でたばこを持っていたからだ……。一連の騒ぎからは、「1969年」という、反体制の嵐が吹き荒れた時代の空気が読み取れる。学生新聞に記事を掲載したある学生は、「ぼくらの多くは、ベトナム戦争と、いわゆる権力側のせいで、どんな種類のデマであろうといつでも進んで信じるようになった」と後にインタビューに答えている。
硬派の雑誌やテレビ番組も取り上げた。タイム誌は「ポールは死んだのか?」という記事を掲載し、すぐに世界中の注目を引いた。ライフ誌は、マイアミ大学の研究者に「Hey Jude」と「Yesterday」の声紋の比較分析を依頼し、両者の声が別人のものだとする声紋写真付きで掲載した。著名な弁護士がテレビで模擬裁判を主宰する騒ぎにまで発展した。
商魂もたくましい。「Dear Paul」「Saint Paul」など騒ぎに便乗したタイトルのレコードが発売された。ビートルズのレコード・セールスが伸びたのも事実だ。
「僕が聞いたことがある噂の中で、最もくだらないものだ」とジョンは言った。11月に入り、再びマスコミのインタビューに応じたポールの談話がライフ誌に掲載された。表紙を飾ったマッカートニー家の写真と、「ポールはまだ我らとともにある」という見出しの文字が、噂を消し始めた。
写真◆『SGT. PEPPER'S LONELY HEARTS CLUB BAND』のジャケット写真にも、「ポールの死」を暗示するものがあるといわれた
◎『この日のビートルズ』の次回は11月10日です。この日はなんの日でしょうか? お楽しみに。
◎お知らせ ⇒ 1967(昭和42)年発表のアルバム『MAGICAL MYSTERY TOUR』(英国は6曲入り2枚組EP盤)の付録、24ページのブック・レットに掲載された写真は「ポール死亡説」の根拠を探し出そうとするファンにとって宝の山になった。「ポールの頭上に手が挙がっている」「ポールだけが襟に黒いカーネーションをつけている」「ポールだけが靴を履いていない」とするものや「軍人に扮したポールの前に『I Was』という過去形のサインが置かれている」などこじつけの度が過ぎるものもあった。
『MAGICAL MYSTERY TOUR』
2009(平成21)年9月9日(水) EMIミュージック・ジャパン
***************** https://www.amazon.co.jp/dp/4022617802
https://dot.asahi.com/1satsu/tyosya/2013110700049.html
http://doraku.asahi.com/entertainment/beatles/091023.html
********************************************************