過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日の浜省さんとetSETOraだヨ(=^◇^=)


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 ┃ 浜田省吾 #08 軽井沢 ┃
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 2016(平成28)年03月30日(水)
 1980(昭和55)年の冬、浜田省吾さんのリハーサルが軽井沢の山荘で行われました。その頃のお話を。
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 1979(昭和54)年の秋から始まったツアーを
‡1980(昭和55)年02月01日(金)の横須賀文化会館で終えたぼく達は、次のツアーまでの短い間をそれぞれに過ごしていた。ぼくはこの頃、浜田さんと並行して松原みきさんのバンドにも参加していたため、浜田さんのツアーのスケジュールを縫うようにみきさんのスケジュールが入っていた。浜田さんのツアーは終わったのだが、ツアーが終わった後にも浜田さんのラジオの公録の仕事がちょこちょこ入っていて、横須賀の直後の
 1980(昭和55)年02月03日(日)にも日帰りで札幌での公録の仕事が入っていた。この時ぼくは
 1980(昭和55)年02月02日(土) 前日の夜遅くにニッポン放送でのみきさんの仕事を終えて、次の日の早朝の飛行機で札幌入りするために、空港近くのホテルに宿泊した。横須賀のコンサートあたりから何となく風邪っぽかったのだが、札幌に行く日の朝から極端に調子が悪くなった。飛行機の機内で猛烈な悪寒が襲って来た。千歳に着く頃には悪寒で歯がガチガチ鳴りだした。札幌STVのスタジオに到着する頃には立っているのも辛くなってきて、しばらく楽屋で横になっていた。この日はちょうど札幌雪まつりが行われていて、本番まで少し時間があるので雪まつりを観に行こうということになった。ぼくは高熱が出て来たのを自覚していたので、辞退しようと思ったのだが、ラジオ局やイベンターの方の手前、そういうわけにもいかず這うようにしてみんなに付いて行った。外に出ると結構吹雪いていて気温は氷点下。高熱の身には自殺行為に等しい。ますます悪寒がひどくなって来たので、ぼくは口実をつけて先に戻らせてもらった。みんなには体調が悪いことは伏せていた。この時の雪まつりの会場で、みんなで撮った写真が手元に残っているのだが、にこやかに微笑んでいる浜田さんと町支さんの横で、真っ青な顔をしたゾンビのようなぼくが写っている(笑)。その後はどうやって演奏して、どのように帰ったのかよく覚えていない。朦朧とした意識の中、ようやく夜に羽田に着くと、そこから倒れ込むようにタクシーに乗って家まで帰った。そのまま二日間寝込んで、すぐにまた広島に飛んだ。広島から戻る頃にようやく体調も回復して来た。そしてそれから少し経った
 1980(昭和55)年02月25日(月)から
 1980(昭和55)年02月29日(金)までの五日間、浜田省吾さんの春のツアーのリハーサルも兼ねた合宿のため、ぼく達は軽井沢の山荘に向かった。上野発10時46分のあさま7号に乗って軽井沢に着いた。軽井沢駅から車に乗って走ること数十分、山奥のログハウスのような大きな山荘に到着した。あたりは他にもたくさん別荘が立ち並ぶ、いわゆる別荘地帯。夏には避暑地として賑わう場所なのだろうが、我々が行ったのは真冬の軽井沢。周りを見渡しても当然人っ子一人いない。しかもすごく寒い。山荘の中に入ると一階に大きなリビングとキッチンの他に、何部屋か仕切られた部屋がある。二階は吹き抜けになっていて、廊下を囲むようにツインの部屋が何個かあった。バンドのメンバーは二階の部屋で、浜田さんとスタッフは一階の部屋で寝泊まりすることになった。山荘に着いたのはいいのだが、肝心の楽器を載せたトラックまだ到着していなかった。楽器が着くまでぼく達はやることがなく、お腹もへって来たので、駅前で買い込んだパンやおやつを食べて楽器の到着を待った。写真はその時の様子。この合宿に同行したのは浜田省吾&バンド以外に、マネージャーとプロデューサー、雑誌の取材で来ていたカメラウーマンの中村ねこさん。他にも何人かいたかもしれない。がらんとした底冷えのする山荘で待つこと数時間、やっと楽器を積んだトラックが到着した。早速一階のリビング部分に楽器と簡単なPAをセットした。
 1980(昭和55)年02月25日(月) 初日は楽器のセッティングと簡単なサウンドチェックをした後、少しリハーサルをして終了。リハーサルも勿論大事だが、人里離れた雪深い場所での合宿生活のため、食材の買い出しが結構大変だった(と思う)。周りにはお店などあるはずもなく、車で下山して町まで行かないと、それこそ飲み物一本もタバコも買えない。そのため、ぼく達がリハーサルをしている間、スタッフは食材の買い出しも大切な仕事となった。リハに煮詰まると、外に出てキャッチボールをしたりして気分転換をして遊んだ。しかし凍ってしまいそうな寒さのため、すぐに部屋に戻ってまたリハーサルを続けた。この合宿でのリハーサルは、まだ演奏したことのない曲のチェックや新曲の練習、バンドのアンサンブル等に重点を置いて行われた。まわりに何も無い環境ゆえ、逆にリハーサルに集中することが出来、ぼく達は充実した五日間を過ごすことが出来た。リハーサルが終わると夜はスタッフが作った料理をみんなで食べた。お酒も少し。文字通りぼく達は同じ釜のメシを食う仲間だった。合宿が終わる頃、浜田さんとバンドの連帯感はいっそう強まった。軽井沢での合宿は実り多いものとなった。そして
 1980(昭和55)年02月29日(金) リハの最終日、ぼくとベースの岡島ブンちゃんは、佐野元春さんのレコーディングに参加するため、そのまま軽井沢から新宿のスタジオに向かった。
 写真◆キーボード隊の楽器。ぼくの場所は奥で、ヤマハCP80&フェンダーローズ・スーツケースピアノを使用。  
 写真◆山荘のリビング。まだ楽器が到着していない。 
 写真◆山荘の外観。 
**************** http://air.edisc.jp/ima/
 http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2016/03/8.html
 https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
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非売品CD 「show around Ⅱ」
1 悲しみは雪のように
2 愛という名のもとに
3 愛の世代の前に
4 ラスト・ダンス
5 ラストショー
6 J.BOY
7 路地裏の少年
8 もうひとつの土曜日
9 MIDNIGHT FLIGHT~ひとりぼっちのクリスマス・イヴ
10 片想い
11 AMERICA
12 愛のかけひき
13 いつわりの日々
http://page21.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/j416641487
http://www.flashandshadow.com/shogo/discography/pr/pr72.html

BOΦWYの歴史~1986年~
という事で今回は1986年です。
この頃こんな事がメンバーの中で話し合われてたなんて・・・・・・
これを見たときはショックでした。
http://boowydaisuki.seesaa.net/article/38287674.html

 ◆『PSYCHOPATH』BOΦWY◆ラストアルバムに「ヤラれた」と唸る小室哲哉「世間がBOφWYを聴くのは89年から」と津田大介
 2018年2月1日(木) 09時45分 ライター情報:寺西ジャジューカ エキサイトレビュー
 ①季刊ペースで発行中の音楽誌「ロックジェット」vol.71にて、BOφWYの特集が組まれている。
「ロックジェット」vol.71/シンコーミュージック
書店でこの表紙が視界に飛び込んでくると、ドキッとする。今さら、このバンドに何かが起こるのか? と。確かに、出来事はあった。昨年はBOφWY35周年イヤーであり、渋谷公会堂での「解散宣言」から数えて30年後だ。同誌が唐突にBOφWYへスポットを当てたわけではなく、昨年12月に発売されたブルーレイ『1224 -THE ORIGINAL-』に合わせての今回の企画であった。
 ◆世間がBOφWYを聴くようになったのは解散後の1989年以降 ⇒ それにしてもこの雑誌、いつもインタビューの人選が変化球である。本人に話を聞かないまでも、メンバーに近しい人物を辿りオファーするのは定石。しかし、今回の特集で真っ先に登場するのは、なぜかあのDAIGOであった。確かに、彼はヒムロックチルドレン。ソロ時代「DAIGO☆STARDUST」としてのデビュー曲「MARIA」を作曲しているのは氷室京介だ。いや、それにしても。DAIGOに続いて登場したのは、これまた意外な人選。ジャーナリストの津田大介であった。彼は中学時代、同級生から『BEAT EMOTION』(1986年9月リリース)を薦められてロックに目覚めたという。そして程なく、津田が中2の頃にBOφWYは解散する。「僕が観ていた感じだと、BOφWYは解散してからどんどん火が点いていった印象が強くて。解散してから、みんな、BOφWYをコピーし出したんですね。(中略)みんなが聴くようになったのは1989年以降というイメージが強いですね」(津田)この辺り、リアルタイムで愛聴していた者ならではの証言だ。そう考えると、合点が行く。DAIGOは、BOφWYの楽曲を”過去の日本の名曲”だと表現する。「美空ひばりさんにはいろいろな時代の映像がありますけど、どの時代の歌を聴いてもすごくパワーを感じるというか、時代を感じさせない超越した何かを発してる方だと思います。そういう感覚でBOφWYを捉えていたと、今になってですけれども思うんです」(DAIGO)
 ◆「作品作りの才能は布袋さんより氷室さんにある」奥田民生 ⇒ BOφWYのメインソングライターと言えば、布袋寅泰。彼の下地、方向性にニューウェイヴからの影響が大きく息づいていることは明らかだ。津田はBOφWYとあるバンドの類似性を指摘する。…
 ②「当時(高校時代)、小学生の時からの幼馴染から教わったのがXTCです。『ブラック・シー』だったんですけど、すごく好きになりました。傑作なのが、『BOφWYみたいなバンドがイギリスにいるぜ』と教えてくれたことで(笑)。冷静に見れば逆だろ、という話なんだけど(笑)」(津田)XTCのフォロワーと言ったらBLUR辺りが真っ先に思い浮かぶが、そういえばBOφWYもXTCを感じさせる。かつて、Twitterでファンから「OASISとBLUR、どちらが好きですか?」と質問された布袋が「BLUR」と即答していたのは印象深い。とは言えこのバンド、実は氷室が作曲した楽曲のファンも意外に多いのだ。筆者もその1人で、「SENSITIVE LOVE」や「DON'T ASK ME」、「RATS」、「GIVE IT TO ME」が全て氷室作曲だと後から気付き、驚いたことがある。津田も、氷室の作曲に惹かれていたと告白する。「曲については、氷室さんの曲が好きだったんです。でも、BOφWYのシングルで氷室さんが作曲したのは『わがままジュリエット』だけなんですね。それ以外は全部、布袋さんの曲です。だから、代表曲はほとんど布袋さんに譲っている。氷室さんは、シンガーとしてもコンポーザーとしても才能を持っていたのに、シングルを自分の曲にしなかった。(中略)僕は、氷室さんは布袋さんの才能を最大限評価して育てたんだと思っています」(津田)そういえば、あの奥田民生もBOφWYについてこんな発言を残している。「『曲作りの上手さ』という点で、氷室さんを尊敬していました。BOφWYでは氷室さんと布袋さんが曲を作っていたけど、作品作りの才能というのは、布袋さんより氷室さんの方があると思いますよ。氷室さんの作る曲って、やっぱりおいしいんですよ」(MSムック「King of Rock Band BOφWY」より)バンドブームについて「皆なクソだと思うもん。ウンコみたいな奴ばっかりでバンドなんかやる資格がない奴が多いよ」(「宝島」1989年2月号)と辛辣な意見を述べていた氷室も、ユニコーンだけは容認していた。両者の言動を並べ、噛みしめると、認め合う2人の関係性は感慨深い。
 ◆『PSYCHOPATH』を聴き「ヤラれた……」と唸る小室哲哉 ⇒ BOφWY解散宣言の舞台である渋谷公会堂公演が行われたのは、1987年12月24日。しかし、某スポーツ紙がそれに先駆けて11月上旬に「BOφWY解散」をスクープ報道してしまう。
 ③BOφWYを取り巻く空気感について、当時、音楽誌「B-PASS」の編集者だった相田智恵はこう述懐している。
「音楽専門誌の世界では1986年からブレイク状態でしたけれども、一般のマスコミも含めて盛り上がって、メジャーシーンに出ていったのは1987年だったと思うんです。これは何者だという印象を一般の人たちが持って、若い女の子たちがどんどんチケットを買い求めるようになり、いわゆるロック少女、ロック少年のバンド・ファンだけでなく、普通の音楽ファンを巻き込んだカリスマ的存在に、一気に駆け上がっていったのが1987年でした。そうした中での解散報道だったんです。えっ、ここで解散しちゃうの! という印象を一般の人が抱いたのは当然だと思うんですね」
BOφWYのラストアルバムは、1987年9月にリリースされた『PSYCHOPATH』。本作について、解散して4年後に氷室は「『BEAT EMOTION』で一種極めた大衆芸能的な部分をブッ壊そうと思いつつ、それがうまくいかないジレンマが出ていますね」と自ら解説している。しかし、この作品は同世代の他のミュージシャンに少なからず影響を与えていた。まず、小室哲哉。彼は「どっかでBOφWYに追いつければいいな」と思いながらTM ネットワークを活動していたと告白する。「BOφWYの背中を見てやっていたところはありましたね」と、過去に小室はきっぱりと打ち明けているのだ。例えば、TMの楽曲「Be Together」はBOφWYの「B・Blue」を意識して制作されたものだという。「タイトルも“Be”から始めようとか。そのへんから疾走感ってものを意識し始めて、風を感じさせるような勢いというか、そこから“Get Wild”につながっていくわけです」ライバルと見定めていたバンドの最終作『PSYCHOPATH』に対する小室の思い入れは、特に深い。「『PSYCHOPATH』ってアルバムが出た時には、ヤラれたなぁというか、かなり上を行かれたなぁって感じだったんで、そこで奮起して僕らは『humansystem』ってアルバムを作ったんです。(中略)だから88年に突然解散してしまった時は、ちょっと困ったなぁというのはどこかにあったかもしれないですね」(ともに「RollingStone」2012年5月号より)
 ◆自分の最後を布袋の曲で閉めた氷室 ⇒ BOφWYファンの間では「“氷室派”か? “布袋派”か?」という議論が挨拶代わりに交わされたものだが、解散後は両者ともにソロアーティストとして成功。
 ④そして、時を経て氷室はライブ活動休止を宣言し、2016年に開催されたドームツアー「KYOSUKE HIMURO LAST GIGS」でライブ活動に終止符を打った。ファイナル公演が行われた5月23日、氷室が最後に歌った曲はバンド時代の名曲「B・Blue」である。「ソロのキャリアの中でたくさんのヒット曲があるのに、氷室さんは最後の曲として『B・Blue』を選んだ。本来はソロになって最初のシングルだった『ANGEL』でもいいわけじゃないですか。でも、そこでBOφWYの曲、しかも布袋さんが作曲した『B・Blue』を選んだ。(中略)僕はいろいろなことを考えちゃいましたね。ああ、自分の最後は布袋さんの曲で閉めるんだと。(中略)氷室さんが『B・Blue』を選んだことについて、布袋さんはどう受け止めたのかなということも考えてしまいます(笑)」(津田)ライブ活動の最後の最後まで、ファンに深読みさせる余地を残した氷室。なるほど、世に打ち出す確固たるイメージ(ヴィジュアル含む)が出来上がっていたバンド・BOφWYのヴォーカリストだなという気がしてしまう。サクッと皆の前から姿を消してしまうのも、らしい。昨年の『1224 -THE ORIGINAL-』だけでなく、これからも次々とBOφWYの関連商品はリリースされていく気がしてならない。しかし、そういった動きと相反してメンバー4人の活動は総じて潔い。この辺りは解散以降、ずっと一貫している。寺西ジャジューカ
 https://www.excite.co.jp/News/reviewbook/20180201/E1517410211061.html?_p=4

ON THE ROAD'93"OCEAN AVENUE 7493"その1(回想No.202) 記事をクリップするクリップ追加 
92年ヒットチャートがうなぎのぼりなのに本人は絶不調の一年を経てなんとON THE ROAD'83のあの街が10年経ったという設定のコンサートが"OCEAN AVENUE 7493"でした
なんだか懐かしい感じがしたのも当然ですね、しかし大分近代化してきてました(笑)
そして、1曲目から10年の時を引き戻されるかのような演出でした
01 路地裏の少年
02 HELLO ROCK & ROLL CITY
03 独立記念日
04 土曜の夜と日曜の朝
やぁ!しばらくぶりです どうか最後までよろしく!
05 悲しみは雪のように
06 ラストショー
07 08 DJお願い!~バックシートラブ
83年でもやった、ボーカルリレーです!今回は町史・関・古村・姫野の順でした
どうもありがとう! まぁ、座ってください
みんな、元気だった?
俺はこんなに髪が伸びてしまった みんなに不評なんだけどね ロッカーは、やっぱり長髪だよな~(笑)
「夏の終わり」作って「アヴェ・マリア」作ったら、もうすべてやってしまったような気がしたけど・・・でも、やっぱり音楽が好きなのかな(笑) 
戻って来てしまった
09 AMERICA
久しぶりということもあって、今日は古い曲を何曲かやろうと思います
次の曲は1977年に作って、1978年に発表したアルバムで、できれば廃盤にしたいと思っているんですが(笑)
その中に入ってる曲です
10 散歩道
次の曲は、2枚目の『ラブトレイン』というアルバムに入ってる曲です あのアルバムのジャケットは、上がラガーシャツで下はサッカーパンツって、どういうカッコなんだよ! 
こんな曲が入っています 「恋に気づいて」 ~走り出すバスの窓 追いかけ叩いて 大声で叫んだ 僕のテレフォンナンバー~ こんな感じでね!(笑) 
これ、キーがまちがっているんだよね 高すぎるの(笑)このアルバムをお店で見かけたら、チャゲ&飛鳥の棚の後ろの方に隠しておいてね・・・(笑)恋をしはじめた若いカップルの歌です
11 君に会うまでは
12 もうひとつの土曜日
13 愛という名のもとに
14 青の時間~
15 MY OLD 50'S GUITAR
16 WHAT'S THE MATTER,BABY?
ベッドで~!バスルームで~!ソファーで!公園のベンチのうえで~!あとはどこ?(笑)
17 MONEY
18 J.BOY
スクリーンに映し出されるのは・・・兵士達、アラファト議長、ワレサ書記長、天安門事件、ベルリンの壁崩壊、サダムフセイン、湾岸戦争、宮沢総理大臣
(今みたいに映像だらけでは無かったので、印象は悪くなかったです;苦笑)
19 僕と彼女と週末に
別立てのスクリーンが使われて・・・広い海のなかに浮かぶボートが、そしてそこには大人ふたりに子供ふたりおそらく4人は家族で、島にたどり着き、さらに4人はボートで漕ぎ出す
その向かう先は、真っ赤に染まる太陽(その象徴的な暗示は「君を守りたい」という歌詞にすごく合っていました)
またいつの日か、この会場に参加してくれた全ての人が欠席者もなく、健康な体と健康な心で また再会できたらと思います 今夜はどうもありがとう! 
20 ON THE ROAD バックのスクリーンには道路とその向こうに連なる山々 空とこの道出会う場所まで・・・
EC
21 境界線上のアリア
22 傷だらけの欲望
23 最後のキス
http://blogs.yahoo.co.jp/bar_flashandshadow/15228087.html
通常、コンサートツアーっていうのは、新しいアルバムが出ると、新しい曲がメインになるわけです。
この一つ前の「ONE AND ONLY」ツアーっていうのは、わりとトータルな代表曲をやったんですけど、それは大都市だけだったんです。
全国ツアーとしていろんな街では長いあいだ歌ってない代表曲がたくさんある。
だから、今回、ホールだけのツアーをやろうというときに、代表曲をやろう、古い曲をたくさんやろうと思ったんです。
アルバムのプロモーション・ツアーみたいなのじゃなくてね。
今回は、代表曲をやったほうが自分も気持ちいいし、お客さんもそのほうが喜んでくれるんじゃないかって思ったり、逆に、今回は古い曲はやりたくない、新しいのだけでやりたいっていうときもあるんですよ。
そのときの気分なんです。
感覚なんですよ。
ただ、僕はレコードとツアーというのは一緒じゃないと思ってるから、レコードとステージはやっぱり違うものだと思ってるから、ステージはステージだけのことを考えてます。
やっぱり楽屋に入ってステージに立つと、この2年間はいったい、何をやっていたんだろうというくらい、ステージの感覚が、あっという間に蘇りました。
だから、ブランクという感じはないです。
舞台に立って曲を始めると、1週間前も2年前も、あんまり差はないですね。
社会状況も平和だったりとか、こうやって健康で音楽をやれてるってことはやっぱり素晴しいことだと思います。
そうじゃなきゃ音楽なんかやれないでしょ。
俺たちのやってることというのはミニ・コミュニケーションだと思うんです。
考え方によっては、60回か70回こういうホールでやっても集まってくれるお客さんの数は12万人か15万人くらいなんですよ。
動員数的には東京ドームで3日やるのと一緒なんですよね。
6ヶ月かけてやることと、東京ドームで3日間やることが同じことなの。
ビジネスだけではないですよね。
心意気というか、姿勢というか。
ビジネスだけを考えたら東京ドームで3日のほうが効率はいいかもしれない。
アリーナ・ツアーにしてもそうだよね。
リハーサルを1ヶ月やって20回くらいやれば、3ヶ月で終わるし動員数だって何倍もある(笑)。
でもそういうことじゃないんですね、コンサートツアーっていうのは。
http://blogs.yahoo.co.jp/bar_flashandshadow/15234713.html

もう、これでツアーは終わりかも知れない…
そんな風に思わされたことは何度もありました(苦笑)
このときも浜田省吾はそう思わせたそのひとつの時でした
続き・・・
確かにいい時代には企業の冠がついて大イベントもやれるだろうし、赤字でも宣伝費ということで出してくれるかもしれない。
ただ、それはどうなるかわからないことですよね。
どういう形になろうと、音楽を愛する気持ちと情熱があればやり続けられると思う。
川が流れてて、もし、その川が浅かったら、雨が多く水かさが増したときには、川幅はものすごく広くなるかもしれない。
でも雨が少なくなったら、すごく小さなせせらぎにしかならないでしょ。
これからは、深くなりたい、川幅の広さを競うんじゃなくて、深くなりたい。
例えば川の幅は見た目には細く見えても、水は滔々と流れてる。
水の量っていうのは、細い川に見えても実はすごく深く流れてるっていう。
そんな音楽人生になればいいなと思いますね。
誰にもつまらないコンサートだけはやってほしくないですね。
僕にできないコンサート、ステージをやってる人はたくさんいると思うし、彼らにできないことを僕はやってると思う。
それが個性だと思うんです。
こいつよりこいつが素晴しいとか、優れてるというのはないと思うんです。
ただ、つまらないコンサートはやってほしくないです。
せっかくステージの楽しみっていうのを何年もかけて作ってきたわけじゃないですか、最初はコンサートツアーなんてなかったわけだから。
それをこんなに楽しいんだよって積み上げて作って広げてきたわけですからね。
俺たち20年くらいかけてね・・・
思えば、この2年間のブランクの間というのは、ただ疲れてたんだと思うんです。
なんせこの前のツアーが長い長いツアーだったでしょ。
やっぱりある種の波があって、その波のいちばん下にきたところがちょうどツアーとツアーの間の谷間だったから。
あの「アヴェ・マリア」を出して、印税をエイズ予防財団に100%寄付して、この歌で終わってしまっても、別にそれなりに違う生き方を捜してもいいかな、とか思ったりしてました。
ただどこかで、頭のどこかで、それは嘘だろうと思ってる自分もいたりしました。
自殺に対する衝動も似てるんでしょうけど。
自殺したいな、しようかな、でも、どこかで嘘だろ、そんなことできるわけじゃないだろうっていう・・・。
さすがに自殺は考えなかったけど、音楽やめるということに関しては、やめてもいいかな、でも、嘘だろっていう。
やっぱり休むことは必要だと思いますね。
ツアーやることが苦痛になってきたら、やめることはないけど、やりたくなるまでずっと休んでもいいんじゃないかっていうふうには思いますね。
だから2年間もあいたんですけど。
でもそれはステージの上では決して思わないけど、今のこの時点でもやっぱり抱えてる。
どこかにある。
そして、そう言いながらやり続けていくんだと思うんです。
http://blogs.yahoo.co.jp/bar_flashandshadow/15240657.html
「また、ここへ帰ってきます」
コンサートの締めくくりの台詞ですね…
でも、言わなかったことも何度かあるんですよ(苦笑)
続き・・・
何百日何千日って旅に出て、要するにひとつのことをずっと長くやってきて、同じことの繰り返しじゃないかって思ったりとかは、誰でもあることかなとも思うんです。
疲れてたんですね、
単純に。
スポーツ選手の知人に言うんです。
スポーツ選手だから、そんな簡単じゃないんだろうけど、やめたいと思ったらまずは休みなよって。
スポーツ選手たちも引退の時期を考える時が来る。
だけど、どんな仕事でも現役のときがいちばんいいんだよね。
ボロボロになっても現役でやってる限りは輝いてる。
でも、頂点にいてちょっと下り坂で惜しまれながらやめても、現役でなくなったらもうなんの輝きもないって、僕はいつも言うのね。
それは、自分に置き換えてもいるんです。
やっぱり現役でいることが大切なんだと思う。
ポップ・ミュージックっていうのは旬のものでいいんだっていうのは、そんな気持ちも含んでいます。
前回のツアーぐらいからだけど、このツアーが最後になるかもしれないって、毎日思ってる。
昔は、必ず「また来るからね。このツアーは永遠に続くんだよ」。
バンドにも「ずっと続くんだぜ」って言ってたけど、今は、いつもこれが最後になるかもしれないっていう気持ちでやってます。
それは自分の問題だけじゃなくて時代がどう変わっていくかわからないから。
コンサートをやれるような時代じゃなくなるかもしれない。
それがいつ来るかわからないという感じっていうのがあるんです。
音楽は好きだし、情熱があればいつまでもやりたいと思う。
レイ・チャールズとかみたいにね。
でも俺が50歳のときはコンサートをやれるような時代じゃないかもしれないよっていう。
そういうところに時代が来てるような気がするんです。
10年後20年後になってもやれてたら、僕がやってることよりも、やれる時代がそこにあるということのほうが素晴しいと思う。
それはレイ・チャールズやローリング・ストーンズが今やっててすごいねっていうのとは全く違う意味でね。
やはりスポーツとかエンターティンメントというのは、平和であるというのが必要条件であるわけです。
ある程度経済的にも余裕があって、音楽をみんなが楽しめる世界であってほしいなと思いますね。
そんな気持ちもあって馴染の曲をやるのかもしれないですね。
もし、これが最後だったらこの歌をやっぱりみんな聴きたいだろうなって、今は、とても穏やかな気持ちでツアーをやれてますね。
http://blogs.yahoo.co.jp/bar_flashandshadow/15247103.html
まぁここから先は愚痴みたいなものですが、ステージに上がってる2時間半はすごく幸せなんだけど、それ以外のホテル暮らしとか移動の時間とかはだんだん苦痛になってる(笑)。
毎日外で食事して、ホテルに戻ってもなかなか眠れないという生活。
俺たち元はといえば、世の中からドロップアウトした人間で、聖職者じゃないわけで(笑)。
人が眉をひそめる、眉をつり上げるようなこともたまにやるよ。
俺たちゃロック・バンドだぜ。
酒も飲みゃ、騒ぎもするし、けんかもすりゃあ、女も口説く、ざけんじゃねえやっていうのもありますが・・・。
それは実に自然で健全なロックバンドのあり方なんだけど、それにしてもね(笑)。
このツアーは来年の夏まで続きます。
2月まではホール・コンサート、ホールを中心にしたツアーをやって、で、1ヶ月くらい間をとって、リフレッシュのために少し休んで、リハーサルをやり直して、同じツアーの一環として来年の夏までやります。
アリーナも含めて大都市で、1ヵ所で3回とか4回やるんで、足すと百本くらいのステージになるでしょうね。
It's My Life !
町角から聞こえてくる音楽に、何も感じないんですよね。
でも、同じ土俵で音楽を作って、ある意味ではやっぱり同じ空気の中を流れるわけですから。
そういう意味では、気にしてはいないんですけど、いつもと同じところですよね。
自分はどういう音楽をやるんだろうっていう。
この状況の中でね。それが全く人とつながりのないところで音楽やってるわけじゃないんで。
ただ、反発するにしても、反発する材料がないし、反発するほどのものさえ、ない感じ? 例えば、凄く若かった頃はね、あんな音楽冗談じゃないよなっていう反発からも、何らかのものは生まれてたような気がするんだけども、じやあ俺はこういうの作ってやるよっていう。
そういうものが、もうないから、自分の中で生まれて、芽生えて育ってくるものしか、作品にならないから。
何が育ってるのかなっていうのを自分で見るしかないですよね。
そういう意味では、まだ何も見つけられない感じがしますね。
ほんとに正直なところ。
ただ、いいソング・ライターになれたらいいなと思ってますね。
ささやかに生きていくための動機として(笑)
http://blogs.yahoo.co.jp/bar_flashandshadow/15253556.html


 【BOΦWYデモ音源】わがままジュリエット 英語バージョン  https://youtu.be/Z_W-3zZ3Rgw
 当初レコード会社側は、前年にリリースされたシングル「Bad Feeling」のB面曲であった「No. New York」を改めてシングルA面としてリリースする計画を立てた。しかし、メンバーの間では既にリリース済みの楽曲を再びリリースする事は気が進まず、ボーカルの氷室京介が「もっといい曲を書くからもう少し待ってほしい」とレコード会社側に伝え、その後に作成されたという経歴を持つ。布袋寅泰が当時の妻である山下久美子のレコーディングに参加していたこともあり、この曲の作曲に当たっては氷室が初めて4chMTRにより打ち込みやフルパートの演奏を自ら行ってデモテープを作成した。後に正式にレコーディングされたバージョンよりもキーが半音高く、歌詞はデタラメ英語で歌われている。
 

 1987.7.31 or 8.7♪わがままジュリエット / BOΦWY https://youtu.be/-vLCQEQ2YkM
 泣き顔でスマイルすりきれてシャイン踊るならレイン
 ピントはずれの わがままジュリエット
 笑いかけた恋が 邪魔になれば
 傷つくだけの 夢が転がるネ
 [DON'T YOU CRY]はなればなれじゃCRY CRY CRY
 [DON'T YOU CRY]悲しがらすようなHOW TO LOVE
  アンニュイLAST NIGHTおざなりなPLAY漂うだけ
  さびついた夜のオブジェに抱かれて
  愛も夢もSO EASYから回りで
  何一つ残ってないけど
  [DON'T YOU CRY]すげない仕草のMY DARLING
  [DON'T YOU CRY]馴れ合いの指にFOR GOOD CHASE
  FRIDAY NIGHT笑い声が想い出に変わる
 ヨコシマなDAY DREAM
 なげやりなIRONY
 裏切りのRAINY DAY
 ヨコシマなDAY DREAM
 悲しみのSYMPATHY
  [DON'T YOU CRY]はなればなれじゃCRY CRY CRY
  [DON'T YOU CRY]悲しがらすような
  [DON'T YOU CRY]すげない仕草のMY DARLING
  [DON'T YOU CRY]馴れ合いの指にFOR GOOD CHASE
 FRIDAY NIGHT笑い声が想い出に染まる
  ヨコシマなDAY DREAM
  なげやりなIRONY
  裏切りのRAINY DAY・・・
 

 音源◆(Demo.) Juliet 歌詞違いver https://youtu.be/cxtHIVIkuZk 
 


 ♪悲しみは雪のように1981♪https://youtu.be/HFMbUvT2SlM
 

 吉田豪が語る 【布袋寅泰伝説】 果たしてどれくらい強いのか?  https://youtu.be/c3I5r3T_exc
 

 22.ロックンロールドール 19XX.XX.XX
 http://www.flashandshadow.com/shogo/el/i_el_26.html
 http://www.flashandshadow.com/shogo/el/i_el_index.html
9時の電車で人ごみに
揉まれて仕事に出掛けてゆく
二十歳過ぎるまで
俺もまた挫折とは
 ただの言葉の一つだったよ
誰もが勝つことを
信じてゲームを続ける
心すり減らして
負けてもいいんだぜ!
  恥じることなんてない!
 失うものは何ひとつない・・・

安ぽっい
 ロマンスならいくらでも
手に入るけど
愛がみつからない
負けてもいいんだぜ!
  恥じることなんてない!
 俺もひとり 
 何度も泣いたよ・・・

負けてもいいんだぜ! 
 恥じることなんてない!
 俺もひとり
 何度も泣いたよ・・・

<烏丸せつこに提供> 
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 ┃ 浜田省吾 #4 The Fuse 誕生 ┃
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 2016(平成28)年03月20日(日)
 ぼくが浜田省吾さんのバンドに加入して初めてのツアー?The Fuse誕生のエピソードなど。
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 ぼくが正式に浜田省吾さんのバンドに加入して初めてのツアーが、
 1979(昭和54)年9月22日(土) 岡山市民文化ホールを皮切りに始まった。翌年
†1980(昭和55)年2月01日(金)の横須賀市民文化会館までの40数本のツアーである。ぼくも浜田さんとの初めてのツアーということで最初は緊張していたのだが、本数を重ねるうちに雰囲気にも馴染んで来て、ツアーが終わる頃にはバンドのメンバーともすっかり仲良しになっていた。そしてそろそろ春の便りが届く頃、ぼく達は次のツアーに向けて赤坂のリハーサル・スタジオに連日のように詰めていた。1980(昭和55)年の春のツアーは「Vision」という言葉がキーワードになっていて、ステージのバックにも大きくVisionと書かれた書き割りが吊されていた。バンドのメンバーも固定し、これから始まる春のツアーに胸躍らせていた。1980(昭和55)年春のツアーは
 1980(昭和55)年3月22日(土)の徳島文化センターから、
 1980(昭和55)年7月20日(日) 栃木会館までの計43本。このときのバンドのメンバーは
  ドラムス:鈴木俊二
   ベース:岡嶋善文
   ギター:町支寛二
 キーボード:一戸清
 キーボード:板倉雅一といったラインアップだった。ある日ツアーの移動中の新幹線の食堂車で、浜田省吾さんを含むバンドのメンバーと食事をしていたときに、このバンドにはまだ名前が無いので、どうせならバンド名を付けようという話になった。それはグッドアイデアとばかりに、みんなあれやこれや思いついたバンド名を挙げたが、どれも今ひとつピンとくる名前が出てこない。そこでぼくが当時よく聞いていた、ジャクソン・ブラウンの「プリテンダー」というアルバムの一曲目に入っている「The Fuse」という曲名をバンド名にするのはどうかな?と提案すると、みんなが「ザ・フューズ?いいねぇ?、その名前!」と言った。The Fuseとは導火線とか触媒とかの意味があって、浜田省吾をバックアップするバンド名としてはなかなかいいのでは?と思った。しかし浜田省吾さんは別のバンド名を考えていたらしく、「The Fuse」もいいと思うけど「プリテンダーズ」とか「アウト・サイダーズ」というのはどうかな?と提案してきた。「プリテンダーズ」というのは言うまでもなく、やはりジャクソン・ブラウンのアルバムタイトルである。しかしすでにイギリスに「プリテンダーズ」というバンドがいたので、これは却下となった。「アウト・サイダーズ」も同じ名前のバンドがいたような気がする、とバンドメンバーの誰かが言ったのでこれも却下と相成った。後に「アウト・サイダーズ」は浜田省吾さんの野球チームの名前となった。そんなわけで1980(昭和55)年の或る日或る場所を移動中、新幹線の食堂車内にて浜田省吾&The Fuseが誕生した。
 写真◆1980(昭和55)年Visionツアー。どこかの会館でのリハーサルの様子。ベースの岡島ブンちゃんと。
**************** http://air.edisc.jp/ima/
 http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2016/03/4-fuse.html
 https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
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 日曜日のヒーロー・中村雅俊、、
 1997(平成九)年04月27日(日)『日刊スポーツ』
 写真◆「俺たちシリーズ」から20年以上たっても変わらない笑顔でインタビューにこたえる中村雅俊。笑いジワも素敵だ(フジテレビで)))
■ゼッタイいいひと■泣いても笑っても嫌みがない。デビュー23年の中村雅俊(46)。個性を競い合う芸能界で、歌手、俳優として第一線をキープしながら敵をつくらない。経歴には“努力の足跡”がにじむが、この話になるとしきりに照れる。4月スタートのフジテレビ「中村雅俊のゼッタイ!知りたがり」(金曜午後8時)では初の情報番組司会に挑戦しているが、武器になるのは、この嫌みのない照れ笑いだ。
■50歳意識■『中村雅俊のゼッタイ!知りたがり』の初収録は6時間にも及んだ。放送時間は1時間だが、スタッフも初体験とあって段取りにも時間がかかる。中村は情報番組の司会初体験とは思えないほど、落ち着いて見える。周囲の緊張を和らげる効果を狙ってか、笑みを絶やさない。だが、収録の最後にディレクターの「OK」の声がスタジオ内に響くと「フーッ」と息をはき、ほんの一瞬だけ笑顔が消えた。即席のインタビュールームとなった控室で待つことわずかに5分。おなじみのタレ目がちの笑顔に戻り、「お待たせしました」と律義に頭を下げた。ドラマのタイトルではないが、「いいひと」である。中村によれば、テレビは「ウソ発見機」。情報番組はドラマ以上にそれが端的だという。「ごまかせないですね。役者としてドラマに出る場合は演出、セリフがあったり、いかに自分が魅力的に映るか精いっぱい考えるんですけど、こういう番組はその場でポッと答える返事でその人の生き方や生きざまが出てしまう。そう見えないかもしれないけど、いちおう緊張しているんですよ」。ドラマの場合でも「その人の笑い方、怒り方、しゃべり方、ちょっとした表情とかその瞬間に(素顔が)見えることがある。悪役だけど、実は気さくでいい人だったり、その逆だったり。その瞬間に感じたものは当たっていることが多い」。これまでの共演者の中にはドキッとする人がいるかもしれない。情報番組の司会という“新ジャンル”を引き受ける気になったのは「50歳」の節目があと4年足らずに迫ってきたからだという。「5、6年前だったら絶対やらなかった。50の節目にやっぱり成長していたい。新しい“出会い”があるんじゃないか。そんな単純な動機なんですけどね」。個性派といわれる俳優や歌手の多くはデビュー当時のスタイルにこだわるが、この人は最初のジーンズにゲタばきから、年齢に応じてスタイルを変化させてきた。学生から就職、そして50歳の節目を意識する。同年代のサラリーマンも共感しやすい生き方といえるかもしれない。
3年前、故ジョン・レノン夫人のオノ・ヨーコが、知人の紹介で面識のない中村に快く会ってくれた。ビートルズ世代の彼にとっては夢のような対面だったが、ヨーコの理由は「共通の知り合いがいるから」だけだった。「彼女はオレのこと知らないのに何で会おうとしたんだろうと思って聞くと、“それも一つの出会い。その中で一生逆らわずに出会おうと思ってる”と言ってたんです。今回の番組もどういう経緯でオレに来たか知らないけど、“オレで”と言ってくれたら、未知の世界ですけど、出会ったからにはいい出会いにしたい」という。デビューから23年間、第一線にとどまってこられた理由については、照れくさそうに頭をかいた後、言葉を選ぶように言った。「オレが長くやれたのは、時の人にならなかったから。竹の子みたいに旬ではなく、ラーメンとかカレーライスとかすでに定着しているものになれたらって思ってきた。ピンク・レディーとかSMAPとかその時代に時の人っているじゃないですか。オレの場合、いつも2着で、大ブームというのがなかったんですよ」。
■涙もろく■この日の収録では笑顔ばかりが印象に残ったが、青春ドラマからスタートした彼のイメージは第一に「涙」だ。「俺たちの旅」「俺たちの勲章」などの俺たちシリーズ、「夕日が丘の総理大臣」(いずれも日本テレビ)などでは必ず涙のラストシーンで締めた。ドラマの外でも、74年度の製作者協会新人賞の授賞式で当時の長髪を振り乱して大粒の涙を流した。男の涙は決して格好良いものではないが、この人に限っては視聴者の支持を得て、人気のもとになった。「実は私生活でもけっこう涙もろいんです。ドラマ見てても泣けるし、子供たちと一緒に見てる時、妻(女優の五十嵐淳子=44)に言われますもん。“ほら、また泣いてるよ”って。最近特にそうで、年のせいもあるんでしょうね」。中村のヒット曲「心の色」を作詞し、先月
 1997(平成九)年03月10日(月)にがん性腸膜炎のため47歳で死去した作詞家・大津あきらさんの話になると、みるみる目が潤んだ。「50ぐらいになってしてみたいこととか、具体的に考えてもその通りにいかない。大津さんだって47だったし。死んだ時どんな気持ちだっただろうと思う。ある日、突然死去されて……。人生に満足してるかって、満足してる人はいない」。つらそうな話しぶりだったが、自然に相手の気持ちになれる。感情移入してしまうタイプのようである。
■幸運74年■中村のデビューはラッキーの連続に見えた。74年(昭49)4月、日本テレビのドラマ「われら青春!!」でいきなりの主役デビュー。同年7月に発売した主題歌「ふれあい」は170万枚の大ヒットとなった。本人も言う。「74年ってオレのラッキー年なんです。おいしい思いをさせてもらいました」。慶大経済学部出身、当時40倍の倍率だった文学座の研究生。経歴だけ見るとエリートのにおいがプンプンする。だが、鼻にかけた雰囲気もなく、やっかみや反発も少なかったのは、その裏に彼なりの苦労があったからかもしれない。生まれは宮城県牡鹿郡の人口1万3000人の小さな町。姉二人の3人兄弟だった。3歳で父親を亡くし、バーを経営していた母八重子さんに育てられた。「(バーには)知り合いがよく来てたんで、わずらわしかったです。学校の先生も来て、酔っ払うと生徒のオレを店に呼び出して説教したがるんです。おまけにバッグなんか忘れてったりして、次の日職員室に届けなきゃいけないんですから。恥ずかしかったなあ」。状況を考えれば、かなりつらい思いをしたのだろうが、こういう話に限って楽しそうに語る。中学から高校まではバスケット部のキャプテン。時には練習をさぼる後輩を殴ったり、コーチからはスリッパで殴られた。「今のオレからは想像しにくいかもしれないが、“オラー”と大声で怒ったりね」。「オレらはオナガワ(女川)中学で略してオナ中って言うんですよ。オナガワ四中まであって、二中なんて悲惨ですよ。応援の時“フレー、フレー、オナニ~チュウ(オナ二中)”ですから」。下ネタも不思議にいやらしくは聞こえない。14年前、米ロック歌手のケニー・ロギンスが来日した時、たまたま音楽番組の進行役を務める機会があった。通訳なしでロギンスと流ちょうな英語で話す中村に驚く関係者は少なくなかった。当時のことを聞くと、途端に無口になるが、「意外とカゲではチョコチョコやるタイプなんです」と、うつむきながら言った。大学卒業後も独学で英会話の練習は続けてきたようだ。デビューしてからやはり独学でピアノを覚え、腕がけんしょう炎になるまで練習したエピソードもある。今はパソコンを使ってカラオケ も作ることができる。「ムキになっちゃうところがあるのかも。一生懸命やる自分の姿を客観的に見て、大変だなって思うのが好きなんです」とひとごとのように言った。
■五十嵐淳子亭主関白■結婚20年の中村夫妻は
25日に発表された新婚夫婦1200組が選ぶ理想の夫婦ランキング(リクルート調べ)でもトップとなった。「実態は亭主関白を通り越して亭主ワンパクといわれてるんです。実際は妻に握られてますが。メシを食うときはまず亭主って決まってるんですよ。メシを作ったこともないし、家事を何もしたことないんです。どうも一緒に(ご飯を)作ってるイメージがあるらしいんですけどね。ただ、夫婦はバランスじゃないですか。妻は料理を作るのが大好きなんです。もし、嫌いだったら、オレが作りますよ」。 夫妻に1男3女の中村家は、互いの気持ちを率直に尊重し合う形でバランスを取っているようだ。妻の五十嵐(写真)は現在、テレビ活動を控え、CMを中心に活動しているが、最近、安達祐実(16)主演の日本テレビ「聖龍伝説」に出演した。明らかに毛色の違う仕事だった。「ママ、出てほしい」という子供たちの希望を受けてのものだった。中村は「妻はやりたくなかったんですけど、子供たちが“(同世代の安達主演のドラマに)ママ、出て”って言うもんだから」と説明する。実は中村は終日番組収録が行われたこの日も、次女、三女の学校への送り迎えをしている。仕事にかまけて育児、教育を妻まかせにしている世のオヤジ族には、少しばかり耳の痛い話かもしれない。「それは、みんなしてますよ。大変じゃないです。オレは毎日じゃないから。自慢になりません。毎日やってるのは妻だから」。ますます耳が痛い。家庭内でも極め付きの「いい夫」のようなのである。
【取材・相原斎、大崎公一郎 カメラ・浦部歩】
◎ドラマ「俺たちシリーズ」(日本テレビ)で共演した俳優の秋野太作(54) 彼の周りの状況は変わっても、彼だけは変わってない。故石原裕次郎さんのように小細工をしない演技で、何をやっても中村雅俊なんです。ドラマの世界にいると、狭く役柄に入り込む人が多く、小細工して技術をふるって役づくりしてしまうと、自己満足に陥り、かえって視聴者は本当のキャラクターが分からなくなってしまう。彼は故松田優作さん、萩原健一さんらトンがった才気を振り回す俳優が多い中で、当時から丸く、監督さんからは「お前は幸せになるんだろう」と言われてました。この世界には珍しく敵がまったくいない。共演した俳優やスタッフはみんな好きになってしまうので、私は「中村雅俊教」と呼んでいるんです。私は初期からの信者で、年下ですけど尊敬しています。「こういう自分でありたい」と常に自分の将来像を描いており、目標に向かって一生懸命努力する人。慶応大入学、英語、歌、司会と実現してきましたが、5、10年先も何か考えているに違いありません。
◎『中村雅俊のゼッタイ!知りたがり』の司会でコンビを組むフジテレビの八木亜希子アナウンサー(31) 中村さんは何を言っても優しく聞いてくれるお父さんやお兄さんのような存在ですね。打ち合わせのときに中村さんがつぶやく「あれって○○だよなぁ」とか「オレって○○なんだ」とか言う姿は、とってもフランクでカメラが回ってないときも魅力的です。中村さんは情報番組の司会は初めてだそうですが、全然そんな風には感じさせませんでした。逆に私の方が中村さんのおかげでリラックスできた気がします。本番前の打ち合わせや直前にセリフを練習しているときの中村さんって、ホント一生懸命でステキですね。
◎アルバム「100年の勇気」の詞をプロデュースした作詞家の松井五郎氏(40) 「俺たちシリーズ」への思い入れが強くて、あのときの雅俊さんがどう成長していくかを考えながら詩を書いてきましたが、雅俊さんには永遠の青春像がある。老けないし、心の若さを感じる精神的な若さがある。ふつう40代になったりすると、“もう10代の歌は歌えない”という人もいますが、雅俊さんはユーミン(松任谷由実)と同じで、どんな世代の人物が主人公の歌を歌っても違和感がない。
 中村雅俊(なかむら・まさとし)
‡1951(昭和26)年02月01日(木)、宮城県牡鹿郡生まれ。慶応大学経済学部在学中の73年、文学座研究所に入り、74年日本テレビ「われら青春!!」で主役デビュー。主題歌「ふれあい」も170万枚のヒットとなった。「俺たちの勲章」「俺たちの旅」などのドラマに出演し、一躍青春スターに。NHK大河ドラマ「花神」(77年)「おんな太閤記」(81年)にも出演して演技の幅を広げ、82年にはシングル「心の色」「恋人も濡れる街角」がヒットし、NHK紅白歌合戦に初出場した。4月からフジテレビ「中村雅俊のゼッタイ!知りたがり」(金曜午後8時)で初の情報番組の司会を担当している。身長182センチ、血液型O。私生活では、77年2月1日、女優五十嵐淳子と結婚。子供は19歳から7歳までの1男3女。
 https://web.archive.org/web/19990504121609/http://www.nikkansports.com/news/entert/entert-etc3/et-etc30427.html
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B5%E3%82%8C%E3%81%82%E3%81%84_(%E6%9B%B2)#cite_ref-3

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 ┃ ♪春咲小紅♪/矢野顕子 シングルは売れたけど…天才歌手 CM曲歌う ┃
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 |2012(平成24)年 3月22日(木)|スポニチ Sponichi Annex 情報配信
 |1981(昭和56)年 2月 1日(日)|リリース
 └─――――――――――――┘【春咲小紅/矢野顕子】自分の才能にあふれるほどの自信を持っているアーティストが、まさか化粧品会社のCMソングのオファーを引き受けるとは思わなかった。「自由にやらせてくれるという言うから」というのがその理由だった。個性派の女性歌手、矢野顕子が歌ったカネボウの春のキャンペーンソング「春咲小紅」は、作詞糸井重里、作曲は矢野自身のコンビで、明るく飛び跳ねるようなリズムが春にマッチし、レコード売り上げ38万枚を記録。アルバム「ジャパニーズガール」などで音楽業界では名は知れていたが、シングル盤のヒットによって、それこそ「子どもからお年寄りまで」矢野の顔と歌が浸透した。TBS「ザ・ベストテン」にも出演。夫である坂本龍一、ドラムの高橋幸宏の「イエロー・マジック・オーケストラ」のメンバーがバックで演奏するなど、派手な初登場が話題にもなった。YMOは「春咲…」の編曲も担当していた。1回だけのベストテン出演の効果はすごかった。たどたどしい文章の小学生の女の子からもファンレターが来るようにもなったが、売れっ子の流行歌手になることに微塵も魅力を感じてなかった矢野の反応は鈍かった。シングルが売れれば、アルバムを聴いてくれる人も増えるだろうと、「春咲小紅」が売れた直後に新作アルバムをリリースしたが、思ったほどの売れ行きではなかった。CMソングを歌って、アルバムの曲も聞いていもらい、矢野顕子というアーティストの存在を認識してもらいたいという狙いが必ずしも思い通りにいかなかった矢野にとって、ヒット曲はどういう存在だったのか。矢野は雑誌のインタビューなどで、しばしばこう答えている。「ファンをひきつけることも商売としては大切だけど、良質な音楽を作ろうとするとすればマイナス」。母親の希望で3歳の時からフランス人の先生からクラシックピアノを習い、小学校6年にしてジャズを聴いていたほど、音楽に対しては“ませていた”。青森から上京して、高校は青山学院に入学。雑誌に載った軽音楽部に入るためだった。しかし、思ったほど情熱のある部員がいなかったことやジャズ喫茶などでピアノを弾くバイトが忙しくなり、中退した。16歳でバンドを結成したが、程なく解散。「自分より才能がない人とやるのは嫌だから」とストレートな物言いが示す通り、フワフワ浮いているような歌の雰囲気とは違って、若い頃は結構辛口な発言が彼女の特徴でもあった。 
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 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E5%92%B2%E5%B0%8F%E7%B4%85
 http://www.sponichi.co.jp/entertainment/yomimono/music/anokoro/03/kiji/K20120322002888740.html
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 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ ♪モニカ/吉川晃司 デビューからブレーク 自ら売り込んだ元五輪候補 ┃
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 |2012(平成24)年 3月 6日(火)|スポニチ Sponichi Annex 情報配信
 |1984(昭和59)年 2月 1日(水)|リリース
 └─――――――――――――┘【モニカ/吉川晃司】1枚の写真と5枚の便せんに綴られた売込みの紹介文…。広島から送られてきた、一通の封筒を渡辺プロのプロデューサーが保管していなければ、歌手・吉川晃司は誕生しなかったであろう。84年2月、吉川のデビュー作にして主演映画の「すかんぴんウォーク」の主題歌「モニカ」はレコード売り上げ34万枚を記録。ナベプロが計2億円の宣伝費をかけたといわれる、大物新人は順調なスタートを切った。事務所に送った手紙、実は吉川本人が書いたものだったという。当時、広島の高校生だった吉川はバンド活動をしていたが、それよりも彼は水球選手としての方がはるかに知名度が高かった。中学時代は全国大会に出場し、主将としてチームを準優勝に導き、高校では1年生でジュニアの日本代表に選ばれ、イタリアでの世界大会に出場。84年に開かれるロサンゼルス五輪の代表候補選手だった。周囲からは水球一筋のように見られていたが、その頃音楽への興味がどんどん膨らみつつあった。水球の練習が終わると、今度はライブハウスへ。ここでボーカルを務めた吉川は「もっと目立ちたい」という若さならではの感情を抱いた。「水球は所詮マイナースポーツ。もっとでっかい世界でやってみたい」と、歌手の道を選択。東京と違って広島ではなかなかチャンスがないことから、思い切って唯一名前を知っている芸能プロダクションであるナベプロに手紙を書いた。この手の売り込みはいくらでもあった。普通ならゴミ箱行きだが、水球でならしたという経歴と、1メートル81、胸囲が102センチという体格に魅かれ手紙は捨てられずに済んだ。担当者がたまたま四国での仕事があり、そのついでに寄ったところ、地元で女の子の親衛隊が付くほど人気ぶりにびっくり。声にも独特のツヤがあって悪くない。水球で鍛えた身のこなしも魅力があった。まさに掘り出し物。さっそく契約へと話を進めた。男性アイドルはジャニーズからでないと大成しない、というその頃の図式を破った、アブない匂いのする18歳はピンク色のスーツをトレードマークに、アイドルらしからぬロック調のデビュー曲で、ヒットチャートを簡単に席巻した。 
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 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%8B%E3%82%AB_(%E6%9B%B2)
 http://www.sponichi.co.jp/entertainment/yomimono/music/anokoro/03/kiji/K20120306002771630.html
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