過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日のetSETOmeだヨ(=^◇^=)O♂


 削除映像◆R・木村のマイクパフォーマンスはここから始まった? 「R・木村 「こんばんは」事件」https://youtu.be/8_MJjSWxdD0
‡1981(昭和56)年09月23日、田園コロシアムで行われた新日本プロレスの興行に浜口を連れて現れた木村は、リング上で保坂正紀(当時テレビ朝日アナウンサー)からマイクを向けられると、決意表明に先立ち、まずは集まってくれた観客に対し挨拶をしなければと思い、冒頭「こんばんは…」と丁重に挨拶を行なった。これは団体対決に付き物の殺伐とした雰囲気を好む当時のファンを拍子抜けさせ、会場の失笑を買った。あまりにもおかしかったため当時ビートたけしが「こんばんは、ラッシャー木村です」とネタにしたこともあって、世間にギャグとして広まってしまった(ここからラッシャー木村のお家芸が金網からマイク・パフォーマンスになる)。たけしについては当時自分の弟子を集めて結成した「たけし軍団」の鈴木浩に「ラッシャー板前」という名前をつけて、木村と同じ黒のロングタイツをはかせるなどしていた。なお笑われた木村本人は「初めてのところに行ってきちんと挨拶するのは当然なのに、なんで笑われなくちゃいけないんだ」とおかんむりだった。その場に居合わせた浜口は、「“こんばんは”というのは、素の木村さんがそのまんま出た」「不細工だったかもしれないけど、その裏にあるのは心温かい人間性ですよ」と語っている
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E6%9C%A8%E6%9D%91#%E3%80%8C%E3%81%93%E3%82%93%E3%81%B0%E3%82%93%E3%81%AF%E3%80%8D%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 キャリステニクスとは?
 10月04(木), 2018 by シゲル キャリステニクスとは、英語で”Calisthenics”と書き、その語源は古代ギリシャ語の”kallos“と”sthenos“からきています。“Kallos”は英語で”Beauty”つまり「美」を意味し、”sthenos“は”Strength”「力」を意味します。古代ギリシャ軍の戦士たちが採用していたトレーニング方法とも言われ、場所を問わずに体を鍛える方法です。その特徴として
 ①基本的に自分の体重が負荷
 ②負荷の調整は体勢を変える
 ③複数の筋肉を同時に鍛える
 ④見た目よりも機能的な筋肉 といった事があげられます。私はキャリステニクスは自重トレーニングの延長線上にあるものと捉えています。腕立て伏せや懸垂は自重トレーニングです。しかし、トレーニングの負荷を高める為にウェイトベストやアンクルウェイトを装着してもトレーニングは可能なので、そうなると自重ではなくなってしまいます。私が参考にしているYoutubeチャンネルのThenx では、ウェイトトレーニングとキャリステニクスの違いをわかりやすくまとめてくれています。音声は英語ですが、日本語訳を提供していますので、ぜひ参考にしてみてください。(※当時の私はキャリステニクスを自重と捉えていたので、日本語訳が「自重トレーニング」となってますが、「キャリステニクス」として読んでもらえたらと思います)動画でも述べていますが、キャリステニクスの一番の特徴は「コンパウンドムーブメント」、日本語では多関節種目と言われ複数の筋肉を連動させて行うトレーニングです。これは、人間の筋肉は個別よりも連動して使われるように進化してきているので、人間の動きにとって自然なフォームで行う事ができる為、関節を痛めにくい特徴もあります。私のブログの方でも上の動画をまとめた記事を紹介していますので参考にしてみてください。
 https://calisthenics-parks-japan.com/starting-point/what-calisthenics-is-about/
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 smart life 自分の生活を ⇒ https://primitiveconditioning.com/
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 握力を鍛える チンパンジーやオランウータンに学ぶ器具不要の鍛え方
‡2019(令和元)年09月23日(月)
 https://primitiveconditioning.com/progress/grip-training/

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 ┃ ヒロシマ・ナタリー HIROSHIMA NATALIE ┃
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‡1973(昭和48)年09月XX日(X) 総工費30億円建設開始
 1974(昭和49)年04月23日(火) 14時オープン
 1974(昭和49)年04月23日(火) キャンディーズ・イベント
 1974(昭和49)年05月05日(日) キャンディーズ・イベント
 1974(昭和49)年05月06日(月) キャンディーズ・イベント
 1974(昭和49)年08月12日(月) キャンディーズ・イベント
 1974(昭和49)年08月13日(火) キャンディーズ・イベント
 1978(昭和53)年03月23日(木)『ザ・ベストテン』ナタリー号から♪微笑がえし♪熱省中継後、広島の暴走族が1000人集まって宿泊先に移動するキャンディーズの車を追い掛け回したというエピソードも残っているヨ(=^◇^=)
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 ┃ 『Woman of Straw わらの女』 ┃
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 1964(昭和39)年04月28日 US released
 Note・・・ナタリーの名称は、1937(昭和12)年に建造されたエンジン付き帆船「ナタリー号」より付けられた。現役時代は地中海で使われ、ショーン・コネリー1964年の主演映画『Woman of Straw わらの女』の劇中にも登場するというヨ(=^◇^=)
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E3%83%8A%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%83%BC
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 ┃ 凌雲閣 ┃
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 1890(明治23)年11月11日(火) 開館開所
†1923(大正12)年09月23日(日) 解体
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/凌雲閣
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 映画館では3階から客が墜落、73メートルの凌雲閣は倒壊――壊滅していく首都・東京
 2020(令和二)年03月11日(水) 11:00配信 文春オンライン 吉村 昭
 地震計の針は飛び散った。家屋崩壊、列車の転覆、地盤沈下――“関東大震災”が起こった日  から続く東日本大震災の90年近く前、日本は大地震に襲われている。
 1923(大正12)年09月01日(土)、午前11時58分、関東地方を襲った地震は東京・中央気象台の観測室におかれていた地震計の針が1本残らず飛び散り、すべての地震計を破壊させてしまう規模だった。建物の倒壊、直後に発生した大火災は東京・横浜を包囲し、おびただしい死者を出した。人々は混乱し、様々なデマが流れ――。20万の命を奪った大災害をノンフィクション作家・吉村昭氏が書いた『 関東大震災 』(文春文庫)より「東京の家屋崩壊」を再構成の上、一部抜粋して公開する。
 ◆◆◆
■東京・消防署勤務だった林錠太郎さんの回想 ⇒ 麹町区第一消防署勤務であった林錠太郎氏の回想によると、その日も若い署員が望楼に上って火災発生を監視していた。正午少し前、林氏が突然起った地震で署外に飛び出し望楼を見上げると、鉄骨作りの望楼が左右に激しく揺れている。倒れる恐れがあると思ったが、望楼は柔軟にしなうだけで折れる気配はなかった。
■瓦が落下し壁が落ち、街の色彩は急激に変化してゆく ⇒ 後になって署員に地震発生時の状況をきくと、署員は望楼の上に伏して振り落されまいと手すりにしがみつき眼下の市街を見つめていた。街々は、篩(ふるい)の上の豆粒のようにひしめきながら震動していた。地鳴りのようなすさまじい轟音がふき上って、激浪の逆巻く大海にもまれる小舟にしがみついているような心細さを感じたという。そのうちに街の色彩が急激に変化していった。瓦が落下し壁が落ちはじめたのだ。と同時に、茶色い土埃が一斉に立ちのぼり、震動しつづける街をおおいかくしていった。
■友人と浅草に遊びに行っていた14歳の少年が見た光景 ⇒ 小櫃政男という本所区柳島梅森町に住む14歳の少年がいた。かれは、柳島小学校卒業後、精工舎に入社し時計の組立てに従事していた。9月1日は、休日だった。前日は給与支給日であったので、かれは小学校時代の同級生であった潮田文吉と浅草へ遊びに行った。浅草はいつものように賑わいを見せていて、かれは白地の浴衣姿で映画街へ入った。時刻は、11時近くであった。洋画専門の日本館では、フート・ギブソン主演の西部劇を上映していた。かれは、潮田と、胸を躍らせて館内に入った。フート・ギブソンの演ずるカウボーイは二挺拳銃使いで、乗馬も巧みであった。政男は、弁士のせりふに耳を傾けながら画面に眼を据えていた。
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 ⇒ 次ページは:頭上から絶叫! 3階で映画を見ていた客が床に落下
■頭上から絶叫! 3階で映画を見ていた客が床に落下 ⇒ 館内に入って1時間ほどした頃、不意に体が持ち上げられ、そして左右に激しく傾いた。と同時に、頭上から絶叫に似た声が起って、1階の椅子席に黒いものがたたきつけられた。かれは、一瞬なにが起ったのかわからなかった。が、椅子席に落下したものが、3階で映画を見ていた客の体であることに気づいた。館内は、大混乱におちいった。客は総立ちになると、出口に殺到した。その間にも、3階から2人の客が叫び声をあげながら落下した。
■館外に出るも建物が倒れかかってくるような恐怖に ⇒ スクリーンでは、依然としてカウボーイが原野に馬を走らせている。地震でスクリーンが伸縮するらしく、画像はゆがみながら揺れていた。政男は、潮田と人にもまれながらようやく館外に出た。前の道は鮨屋横丁で、余りの激しい震動に立っていることができず鮨屋の軒先の柱にしがみついた。が、その柱も大きく左右に揺れて、今にも店の建物が倒れかかってくるような恐怖に襲われた。地面に手をついている者もいれば、よろけて倒れる者もいた。映画館の看板が随所で落下する音があたりにみちた。
■材木に挟まった男性は、眼球が飛び出し口から舌を垂らしていた ⇒ 震動がわずかに衰えた。かれは、柱から手をはなすと鮨屋横丁をぬけ出た。角に建っていた天ぷら屋が倒れ、1人の男が太い材木の下から顔だけを突き出していた。眼球が飛び出し、口から舌を垂らしていた。政男は、初めて眼にする死者の顔に恐怖を感じた。思考力は失われていた。大地震が起ったのだということは意識できたが、どのようにしたらよいのかはわからなかった。
■「瓢箪池へ逃げろ」⇒ 突然かれの耳に、「瓢箪池(ひょうたんいけ)へ逃げろ」という人の叫び声がきこえた。その声に、かれは池の方向に走り出した。路面は粘液のように揺れつづけていて、足もとが宙をふむように心許なかった。ただかれは、潮田と手をにぎり合っていることに救いを感じていた。瓢箪池近くに来た時、潮田の口から短い叫び声が起り、その眼が前方に注がれていた。
■高さは73メートルもあろうかという凌雲閣は傾き……倒壊 ⇒ 政男は、その視線の方向に眼を向けた。前方には東京初の高層建築物といわれた十二階(凌雲閣・りょううんかく)が立っている。高さは220尺(73メートル弱)で、10階までが総煉瓦造り、11階と12階が木造の八角形の塔状建物であった。館内には絵画室、音楽演奏室、休憩室等があり、11階と12階には見料一銭の望遠鏡が設置され、雲を凌ぐ高層建築物として東京名物になっていた。その凌雲閣の上部が傾いている。そして、中央からやや上方の部分が裂けると右方へ倒れていった。揺れつづける足元に新たな地響きが伝わって、建物の倒壊音が鼓膜をふるわせた。その光景に、かれの足は萎(な)え、全身に激しい痙攣が起った。凌雲閣が、倒壊したのである。
 ⇒ 次ページは:花屋敷の檻が破れたのか、動物を射殺するらしい銃撃音
■花屋敷の檻が破れたのか、動物を射殺するらしい銃撃音 ⇒ 政男たちが立ちすくんでいると、凌雲閣の飛び散った煉瓦に傷ついた者や土埃に包まれた者たちが逃げてくる。さらに花屋敷の檻も破れたのか、さまざまな鳥類が飛び交い、獣類を射殺するらしい銃撃音もきこえてきた。そのうちに、池の近くにあるキネマ倶楽部が傾いてきたので、政男は、他の人々とともに浅草観音の境内に逃げた。が、早くも花屋敷方面に起った火災の炎が近づいてきて、かれは母のいる家へ帰るため吾嬬橋を渡って本所区に足を踏み入れた。
■凌雲閣の頂上展望台にいた人々 ⇒ 凌雲閣は、東京の代表的な高層建築物であっただけにその倒壊は東京人の関心をひいた。その日、凌雲閣の頂上展望台附近には12名乃至13名の登閣者があったが、8階から折れたため地上にふり落されて即死し、ただその中の1名は途中福助足袋の大看板にひっかかって奇蹟的にも死をまぬがれた。堅牢と思われていた他の大建築物にも倒壊又は大破したものが多く、丸の内のビルディング街でも工事半ばのビルや土台の軟弱な建物がつぎつぎに倒れた。さらに丸の内郵船ビルの裏手に建築中であった内外ビルも後方に倒れ、工事作業中の労務者300余名が圧死した。また芝区三田四国町にあった日本電気会社工場は米国製の最新式設備をもった3階建て鉄筋コンクリート造りであったが、第一震でもろくも全壊した。当時工場内には約400名の社員・職工が勤務中で、出口近くにいた十数名の者をのぞく全員が瓦礫の下敷きになって死亡した。
■地割れが発生し、橋梁は落ち電柱は倒れ、水道管が破裂 ⇒ その他、市内各所に地割れが生じ、橋梁は落ち電柱は倒れ水道管は破裂して、隆起・沈下によって東京市とその周辺の大地は激しく波打った。下町の本所区は、家屋全壊493戸、半壊479戸という大被害を受けているが、当時小学生であった内馬場一郎氏の回想談を記してみる。
■内馬場一郎さんの回想談 ⇒「私の家は南二葉町にあって、本所被服廠跡(ひふくしょうあと)のすぐ前の横丁を入った所にありました。家業は金属加工業で、職人を10名ほどかかえておりました。その日(9月1日)は2学期がはじまる日で、始業式を終えて帰宅してから十軒ほどはなれた友達の家に遊びに行きました。ひととき遊んだ頃、友達の家の台所でまな板に庖丁を小刻みにあてる音がしてきました。母から他人様の家で遊ぶのもよいが食事時近くになったらすぐ帰ってこなければならぬと厳しく言い渡されておりましたので、友達の家を出ました。その時です。突然体がはね上ったと思った直後、地面が横に激しく揺れはじめました。立っているどころではなく、恐しさでしゃがんでしまいますと、傍の家の瓦が波のような音を立ててすべり落ち、壁も崩れてきます。そのうちに激しくきしみながら揺れていた眼前の家が、土煙りをあげて露地に倒れました。
 ⇒ 次ページは:「この樹木をはなしたら死ぬ!」
■「この樹木をはなしたら死ぬ!」⇒ 私は、這ってでも家へ行くつもりでしたが、倒れた家で露地がふさがり進むこともできません。今にも傍の家が倒れはせぬかという恐怖で、私は物につかまりながら被服廠跡前の大通りへ辛うじて出ました。路上にも、多くの家が倒れていました。道に並木がありましたので、私は樹木にしがみつきました。木も右に左に揺れていましたが、この樹木をはなしたら死ぬと思いました。どれほどたった頃かわかりませんが、私の肩をつかむ人がいます。振り向くと、それは梅原という父の雇っている若い見習い職人でした。梅原の言うには私の家もすでにつぶれてしまったということで、ひどく悲しい気持になりました。震動が少しゆるやかになったので、私は、梅原と被服廠跡の敷地へ入りました。空地の多い亀戸村へ逃げようかという話もありましたが、広い被服廠跡の方が安全だと思ったのです。その頃、町の中から火事が所々で起きはじめていました」警告されていた大火災の発生。意外な発火原因と、延焼をうながした最大の原因  へ続く
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【続きを読む】警告されていた大火災の発生。意外な発火原因と、延焼をうながした最大の原因
 3月3日未明、黒々とそそり立った波が村落を襲った――死者911名を出した田老の津波
「津波太郎」と言われても離れることはできなかった――岩手・田老と津波の因縁
「腹破らんでくれ! 喉食って殺して!」本当にあった“ヒグマ食害事件”の地獄絵図
 https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200311-00036405-bunshun-life

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 ┃ ウィレム・ルスカ Willem Ruska ┃
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 1940(昭和15)年08月29日(木) 生誕
 2015(平成27)年02月14日(土) 逝去
 1976(昭和51)年02月06日(金) 日本武道館において「格闘技世界一決定戦」と銘打ち、猪木とシングルで対戦。バックドロップ3連発で猪木に敗れている。その後も継続的に新日本プロレスのリングに上がり続けたが、プロレスに対しての適応力が弱く、定着するには至らなかった。その後長いブランクの後に、
‡1994(平成六)年09月23日(金) 横浜アリーナで猪木と再戦。鍛え上げられた肉体を披露するも、チョークスリーパーで敗戦している。1994年には新日本プロレスの内部グループである平成維震軍に興行に参加し、後藤達俊と対戦。裸締めで勝利している
 備考・・・後にプロレス界の決まり事を暴露したミスター高橋がその著作の中で、ルスカを「自分が見てきた中で最も強い男」と述べている。ただし、ルスカ自身は、観客を相手にアピールするプロレス的センスが乏しく、また相手の話を良く聞く反面、簡単に負け役を飲んでしまう等、自己主張の弱い所があり、それが原因でプロレスラーとしては大成しなかったとも分析されている。なお、ミスター高橋は一連の異種格闘技戦も勝敗の決まったプロレスであったと証言している。 
 https://ja.wikipedia.org/wiki/ウィレム・ルスカ
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 ┃ 猪木vsウィリアムルスカ戦がセメントだったら? ┃
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 2018(平成30)年02月06日(火) プロレス
 船木がやっているYouTubeで数多いMMAの選手でプロレス団体出身の日本人プロレスラーで(猪木も込み)全員全盛期と仮定してセメント最強は?「藤田和之」という事でした。藤田もアテネオリンピック、レスリング金メダリストとMMAで闘いましたがフックを喰らわせ秒殺してしまいましたね。いくら元レスリング全日本チャンピオンとは云え金メダリストにレスリングで対抗する訳に行きませんしね。KOされた金メダリストは失神したのか立ち上がれませんでしたね。で、新日本プロレスの命運をかけた異種格闘技路線の初戦に選んだのはミューヘンオリンピック金メダリストの最強ウィリアムルスカと今考えれば凄いチョイスですよね。初戦だからインパクト絶大ですね。ミューヘンオリンピック、重量級と無差別級の二冠王、数多くのレスラーを見てきたミスター高橋はルスカの事を「あんな強い奴は居ない!」と書いていました。長州はミューヘンオリンピックのグレコローマン韓国代表。道場でのスパーリングでタイミングをつかんで長州が投げたかと思ったらルスカに切り返され「ルスカには敵わない」という事でしたし、総帥、アントニオ猪木とのスパーは書くまでも無いでしょうと……。私の子供時代の頭の中では柔道王というより「イタズラ大魔王」でした。絶対猪木はやらない筈ですがもしも?ルスカvs猪木の試合がリアルファイトだったら?やはり猪木不利と感じますね。猪木も脂の乗っていた時期ですが柔道王ですからねぇ。ただ、柔道元世界大会チャンピオンの小川vs橋本の初戦がリアルファイトだったら、小川もビビッて橋本有利だったとも言えるという事。ルスカは異種格闘技戦という事で見事に猪木を投げまくりワークでも相当効いたそうですね。猪木がパンチを入れバックドロップ三連発でTKO勝ちでしたが、リアルファイトだったとしてパンチを貰っても猪木にバックドロップで三回も投げられるなんて事はあり得ないでしょうしそれこそ柔道でくるルスカを何でもアリのプロレスで猪木がシュートのパンチを入れ、顔面殴り蹴りまくるとかじゃないと勝負勝てなかった気がします。ルスカは奥さんの大病で大金が必要だったのでこの試合受けたという事だそうですがルスカ本人がプロレスでの「勝ち」に無頓着という事も有りバッドニュースアレンとは違い柔道の型が抜けなかったルスカ、私が初めて買って貰ったプロレスラー名鑑では一番最後に小さく載っていました。猪木カウントダウン(カウントアップ)で再び合い交えた二人猪木は途中、スリーパーで落とされましたが、大慌ての長州の行為がアングルでも無かったら、本当に間違って落としてしまったんでしょうね。50代とは思えない体でしたね。
 2018-02-05 23:59:10 Unknown (10.9) これが真剣勝負たったら・・・猪木ぶっ殺されてる と思いますね(苦笑)この当時のルスカは どうなんでしょうステロイドやってんでしょうかね・・・_?!オランダも ステロイド使用率 昔から高いみたいなんで。尋常じゃない パワーあったらしいですから ルスカ。この間 UFCも推奨してるプロテイン飲んだんですが欧米人の 乳糖への 耐性を実感しましたね。まぁ 凄い 腹 パンパンなって 参りました(笑)消化剤 買ってなんとか 飲みました。。。あれ 飲んで なんとも ない って。。。
 2018-02-06 01:11:49 10.9さん (太郎) リアルファイトだったら・・・・猪木は喧嘩の方が得意だ!なんて漫画、プロレススーパースター列伝で語っていましたがルスカの喧嘩パワーは物凄かったですしね、全盛期とは云え猪木ですから反則使うかもですね。アリ戦は更に肘入れて反則負けでも良かったと話していましたしね。高橋本では、ルスカはウエイトトレーニングとかでは無く坂口の様に、ナチュラルパワーだそうですね。50歳で見事な体と、週間ゴングでポーズ決めたソロ写真載っていましたし最後の方にある三者三様(でしたかな?)で評論家3人ともルスカの体の事を褒め称えていましたし、高橋も見事だと書いていました。まだ見ていないのですが船木youtubeでステロイドの後悔みたいなタイトルの回がありましたな。武藤なんかは使っていたでしょうね。UFC推奨のプロテイン・・・・相当ハードにトレーニングしないと持たなさそうですね。そして、日本人と欧米人の食の違いについて、つくづく身に感じますね。出来上がる体が違い過ぎるというか・・・・アメリカのスーパに売ってあるアイスクリームがバケツ並にデカい事考えて体質が全く違うモノと感じています。まあ、そのヘビー級パワーにパワーでぶつかれた藤田の体は日本人離れしていた、という事でしょうね。あのタックルといい。私は筋トレ黄金期、お金無くて殆どプロテイン飲んでいなかったのですが今になって飲んでいなくて良かったです。今なら贅肉の固まりとなっていたでしょう・・・・。
 2018-02-07 11:52:17 Unknown (10.9) ああ船木さん ようつべの船木さんチャンネルの動画で言ってましたね~。確かにペールワンの目に指入れた猪木なら可能性はあった かも知れませんね。ガチの 括り も 究極まで 考えると深いものが ありますよね。木村浩一郎が 後藤達俊にガチスパー頼んだら 目つぶしされて泣いて 謝った て 話も ありますからね(笑)ほんとの意味の ガチ って そういう事なのかもって 最近 思いますね。
 2018-02-07 19:43:46 10.9さん (太郎) 私、船木の日本人セメント最強ネタから他の動画観てしまい元に戻れなくなってしまいました(汗)近々見てみます。ペールワンはもう峠を過ぎていたそうですが、パキスタン選手側は「イノキは汚い!」と相当怒ったそうですね。甥っ子がリベンジに燃えっていたとか。一応、猪木の師匠の力道山もゴッチもかなり汚い事してましたし。ネタ仕込んでいたのですが、強くて極められない北沢幹之に対してゴッチはお尻の穴や目に指入れてきたそうですからね。木村浩一郎が後藤に・・・・。後藤は元々空手出身でしたよね。木村は後楽園のIWAジャパンで田中将斗とのタッグマッチ見ましたが、蹴りまくってました。そういえば、木村はヒクソンと闘った事ありましたよね。負けましたが。その流れですが、昨日プロレス本を買ったのですが、その大会で中井に目潰しして失明させたジェラルドゴルドーのインタビューが載っていました。1.4で小川と橋本のセメントの時、猪木に小川のガードを頼まれたと。仕事だと。高橋本読まれたかと思いますが、新日本の道場破りで60kgの空手家を極めまくっていた恐らくFでしょうかね?が4点ポジションでしょうかね?下から膝喰らって額から血を流して失神してしまったという汚点があるそうですし、プロレス、格闘技、ケンカは全く違うという事ですよね。1回目のUFCなんか金網の中の喧嘩大会だったのかもですね。リアルセメントでしょうか?
 2018-02-07 22:40:50 Unknown (10.9) そうそう喧嘩だと また違いますよね。目ん玉 指突っ込んで 相手に一生残るキズ 負わせる 気構えで 行くのか?!その場 その場の状態も ありますね。山口組 三代目は 大男の 柔道有段者に目つぶしして 勝ったらしいです(笑)最初は 劣勢だったみたいです。
 2018-02-07 23:19:33 10,9さん (太郎) そうなんですよね、喧嘩強くてもMMAでは違いますよね。UFC初期なんかゴングとかでは喧嘩強いジプシージョー向きな大会だと言って居ました。そうなんです、喧嘩だと逃げて捕まらなければ後は復讐されない意外 後の事は知らない、耳に入らないですしね。でしょうね、私でもその立場だったら何でもやると思います。その辺りにある灰皿でも使ったりでしょう。喧嘩は何でもありですしね。そう言う面では兵士が一番強いでしょうが、MMAに出ても負けるんですよね‥。ここが違いですよね。第一回UFCでジェラルドゴルドーはホイスの腕に噛み付いたりして準優勝でしたね。今はボクシングもそうですがルールが洗練されて格闘技となったんでしょうね。
 https://blog.goo.ne.jp/tadapyon_1971/e/10f8848cfb3a2499b425184297bb1595


 オタクの孤独死、現場に取り残されるペット…… 「孤独死のミニチュア」を作り続ける遺品整理人に聞く「終活」
‡2019(令和元)年09/23(月) 11:40配信 ねとらぼ
 写真◆遺品整理人に聞く、「死への備え」の重要性 
 「孤独死が誰にとってもひとごとではないことを伝えたい」という思いから、自身が見てきた孤独死の現場を題材にしたミニチュア模型を作っている遺品整理人、小島美羽さん。2019年8月に出版した初の著書『時が止まった部屋 遺品整理人がミニチュアで伝える孤独死のはなし』(原書房)は、発売後2週間で重版がかかる大反響となりました。
【画像】孤独死の現場を伝えるミニチュア
 ねとらぼ編集部は、小島さんの働く遺品整理・特殊清掃の会社「遺品整理クリーンサービス」を訪れ、直接お話をうかがいました。連続インタビュー最終回となる本記事では、孤独死の現場に残されるペットや、オタクが生前やっておくべきことについて考えます。
◎この企画は全3本の連載記事です。
第1回:【試し読みあり】遺品整理から、日本全体が見えてくる 「孤独死のミニチュア」を作り続ける遺品整理人はなぜこの道を選んだのか?(2019年9月21日公開)
第2回:遺品整理ってどうやって頼めばいいの? 「孤独死のミニチュア」を作り続ける遺品整理人に聞く「現場」の話(2019年9月22日公開)
第3回:オタクの孤独死、現場に取り残されるペット…… 「孤独死のミニチュア」を作り続ける遺品整理人に聞く「終活」(2019年9月23日公開)
◎依頼人の心も整理する
――依頼人の方にかけられた言葉で印象に残っているものはありますか。乳がんで亡くなってしまったお姉さんのお部屋の片づけを依頼してくださった方の言葉でしょうか。作業が終わった後にお姉さんの亡くなるまでの話を聞いたんです。「姉はずっとつらいのに全然泣かなくて、でも亡くなるときに『みんなより先に亡くなっちゃってごめんね』と言うので、(依頼人も)泣いた」という話をされながら泣いてらして、つられて私も泣きました。話をした後に「ありがとうございました、救われました」と言われたのが印象に残っています。「力になれてよかった」と思いました。
――依頼人の方との心の距離感はどういう形になっているんでしょうか。一緒になって泣くというのは共感がないとできないことだと思いますが、気持ちを引っ張られるのも苦しいことですよね。そうですね……私も姉がいるので、(お姉さんを亡くした依頼人の状況に)重なるところはありましたね。重なるところがなくてもその人の立場になって聞いてしまうというか、感情移入してしまうんだと思います。つらかっただろうな、と思うと自然と涙があふれてきます。お客様には我慢しないで泣いていただいたほうが私も気が楽になりますし、泣いてほしいです。
――小島さんの遺品整理にはある種心のケアの側面があるというか、依頼人の方の気持ちも整理していますよね。それはあるかもしれないです。そのお客様と会えるのは今だけじゃないですか。だから整理している時に、亡くなった方との思い出や好きだったものについて、いろいろお話したいんです。遺品整理の場は故人と遺族のためだけの空間なので、やっぱり私は他人ですけど、ご遺族の話を聞いて、楽しかった思い出を思い出してもらいたいと思っています。最初は、その場の雰囲気がすごく暗いんです。やっぱり遺族にはまず悲しい思いが先にあるので、たいてい黙っておられるんですけど、遺品整理していくなかで……例えば着物があったら「踊りをされてたんですか」と尋ねるとか、会話をしていくうちに「そうなんです」って自分から話してくださるんですよね。そうすると依頼人の方が不思議と笑顔になって、抑え込んでいた感情が前に出てくるんです。中には本当に話しかけないでほしい依頼人の方もいるので、そういう方はそっとしておきますけど。
 ◆次ページは:ゴキブリの幻覚が見えた◆
◎ゴキブリの幻覚が見えた
――葬儀会社に勤めている方で、「プロとしてできるだけ気持ちを動かさないようにしようとしている」とおっしゃってる人がいました。つらい式の時でも泣かないように努力する、仕事で感じた気分を家に持ち帰らないように心掛けるなど、その仕事の現場で気持ちを切り替えて帰らないと飲み込まれてしまう、と話していたのが印象に残っています。小島さんもお仕事で気持ちを揺さぶられることが多いと思うのですが、仕事と日常は切り離していらっしゃいますか。そうですね、仕事は仕事、プライベートはプライベートで切り離してます。でも(仕事で)感情的に泣くことは我慢しないです。意識しなくても勝手に出てきちゃうものなので。 ただ無意識に脳内に焼き付いていることがあると、夜眠れなかったりする場合はあります。私はいまだにゴキブリが苦手なんですけど、何千匹のゴキブリに囲まれるようなごみ屋敷状態の現場があって、そこで2、3日ぐらい続けて作業をしたんですね。それが終わって家に帰って、寝るとき電気を消して天井見るじゃないですか。ゴキブリがいるんですよ!「うわ~~!」と思って電気をつけると、それがどこにもいないんです。探してもいないんですよ。幻覚でした。分けるようにはしていますけど、分けきれないことはありますね。
――特殊清掃や遺品整理の仕事をしていて、一番やりがいを感じる瞬間はいつですか。最初は暗い顔だった遺族の方が、帰るころには明るい顔になって……明日のこと、明るい未来のことを考えているのがわかるときは、「やっててよかったなあ」って思いますね。「力になれた」と実感できます。
◎現場に取り残されるペット
――ペットが残されている現場もあるそうですね。いますね。もう息をしていない子が多いんですけど、生きている子が残されていることも結構あります。でも生き残っても、遺族の方が「殺処分してください」とおっしゃることもあって……。「殺処分」なんですよ。「新しい飼い主さんを見つけます」ではなくて、保健所か殺処分かの二択しかない。死しかないんですよ。そこで「殺す」選択肢になるのはおかしいのかなと思います。少しでも飼い主を探してほしいですし、ペットを飼う方には、その後自分が死んでしまったり、世話ができなくなったときにどうするかまで考えて飼ってほしいです。
――この本の中でも、現場にいたネコちゃんを引き取った話がありました。はい。里親を探して、みんなもらわれていきました。そのうち1匹はうちの実家にいます。……写真見ますか。
――見たいです! おいくつなんですか。今6歳ぐらいかな。引き取ったときにはすでに5歳ぐらいでした。……この子です!(写真を見せる)
――かわいい! 美ネコですね。ライオンみたいにふさふさです。かわいいですよね! 最初は毛玉がすごかったんですよ。全然取れなかったのでネコを洗って毛玉取ってくれるところを探して、私も実家もネコを飼うのが初めてだったので、実家にネコちゃんのケージとトイレと、全部置いて……。
――すごい労力ですね……。それは遺族の方が動いてくれるわけではないんですね。 そうですね。遺族の方は「もう保健所で」という感じだったので、「じゃあこっちで飼い主を探します」と言って、探しました。そのときは奇跡的に友人や家族のつながりで里親が見つかったのでよかったのですが、ペットをもらってくれる方は本当に少ないです。ネコは特に。自分でも残された三毛ネコを飼わないといけないと思って、わざわざペット可の物件に引っ越したのですが、結局そのネコは別の人にもらわれていきました。ネコ、飼いたい気持ちはまだちょっとありますね……。ただ、今後また引き取り手のいない動物に出会うかもしれないので、引き取り手のいないペットに巡り会うまでは動物を飼わないようにしようと思って、今もペットがいないペット可の部屋に住んでいます。
 ◆次ページは:オタクの孤独死◆
◎オタクの孤独死
――近年まんだらけの生前見積サービスが話題になるなど、オタクの終活に注目が集まっています。小島さんから見たオタクならではの現場の話や、気を付けるべきことがあれば教えていただけますか。本でも紹介しましたが(※1)、遺品を(売却目的で勝手に)持っていく方がいるんですよ。これは実際にあったことなのですが、社宅で亡くなった方のお部屋に同僚がみんなで来たんです。亡くなった方の遺品にはフィギュアがとても多かったのですが、その同僚の方が「これ売ろうぜ」とか、遺族の方もいらっしゃるところで話してるんですよ。
 ※1……『時が止まった部屋』では、亡くなったオタクの部屋にどこからともなくやってきて故人の友人を名乗り、売却目的でフィギュアやグッズを持っていく正体不明の人物に遭遇したエピソードが紹介されている。
――うわあ……。結局どんなに信頼していた人でも、遺品を勝手に持っていってしまうことはあるんですよね。若い方でも生きている間に、これはどこで売ってほしい、誰にあげてほしい、というのをリストにして、パソコンや紙に残したり、家族に話しておくのがいいのかなと。
――突然亡くなることもあるわけですもんね。そうなんですよね。突然死は30代の方が多いです。20~30代の方は自分が亡くなるなんて思っていないので、遺書がない場合がほとんどですからね……。もう生前に売っておく、というのも一つの手ですけど、それでは宝物を手放すことになるし……。「この人だったら譲ってもいい!」という人に「きみにあげるよ」と事前に話しておくのがいいかもしれないですね。
――若いうちから備えはしておくに越したことはないですね。私も家に帰ったら、自分の遺品リストを書いてみます!(了)(ねとらぼGirlSide/不義浦)
 ★hat***** 死っていうのは、人との付き合いや本性が見えてしまうから私はそっちの方が嫌。死人を見送ることよりも、わざわざその場にきて何しにきたの?と思うような人や、呼ばれたから嫌々来ましたというあの空気。なので、葬儀が嫌いです。葬儀は、しきたりではなく本当に気持ちのある人だけで行えば良い。お金集めや見栄でするものじゃない。その人の人生が見えます。亡くなった人が実直で何の害もない人だったのに、世帯主だったりするとそれを境に親族から手の平返されることも多い。付き合いってなんだろうなと思いました。 
 ☆** 今年45歳。断捨離をスタート。コレクションは、状態の良いうちに処分。不要品は廃棄。お庭は、業者さんに依頼。今後のメンテナンスの楽なように整備し直してる最中。40代で、体力 気力 お金のあるうちに処分しておくつもり。 
 ☆humblepie 無論、個々の心がけも大事だけど、賃貸マンションやアパートのオーナーとしても、少なくとも経営に重大なダメージを受けるほどの被害を被らないために、店子に対してどういう管理をすべきか対策を講じる必要もあるのでは。とはいえ今は個人情報だのプライベートにうるさい時代ではあるので、あまり過干渉になってもいけないし、不審を感じた時勝手に部屋の鍵を使うのも制限があるのだろうとは思うけど。何かを根本的に変えないと、これからますます、まずい時代に。
 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190923-00000006-it_nlab-soci

 回答者:gsmy5 
‡2009(平成21)/09/23(水) 21:49 回答日時 
 この現象を理解するには、なぜ多くの公営路面電車は廃止されたのかを理解する必要があります。
もちろん、1つの現象には種々の要因が複雑に絡み合い、しかも関係者が積極的に理由を明らかにしないことも多いので、1冊の本に書いても正確な事情は説明しきれることはないでしょう。
以下に非常に大雑把に事情を説明します。
昭和30年ごろまで多くの都市には路面電車があり、大活躍していました。路面電車は東日本は公営が多く、西日本は民営が多かったです。多くの路面電車の開業時期である明治や大正時代、西日本は民間企業でも経営できる素地があり、東日本は(雪害対策など維持費が掛かることも含めて)民間企業で経営が難しい素地があったのも一因と言われています。また、大都市では一部を除き、民営で開業→公営に移管となっていることが多いようです
それが昭和40年代頃から路面電車は次々と廃止されていました。
その傾向は50年頃まで続き、50年代に新たに廃止方針を示したものは例外的な条件があった所に限られます。
ある時期だけ、多くの場所で同じように路面電車が廃止されていることに何らかの「意思」を感じませんか。
そうです。各地で自動車の渋滞が問題視され始めた時(昭和40年代)国も交通政策関係者も皆、渋滞の原因を路面電車のせいにしました。
また、渋滞が始まると多くの都市で路面電車の収益が大幅減少するようになって来ました。悪いことに、戦後すぐに復旧させた諸施設や車両の更新時期が多くの都市で近づき始めました。
で、国は「諸悪の根源」(と決め付けた)である路面電車の廃止を積極的に薦める政策を行いました。
まずは、路面電車の軌道敷内の自動車通行を認める方針を出しました。国の方針を受けてこれを実施した都市は、渋滞の影響が路面電車にも及ぶようになり、定時性がなくなった路面電車は急激な乗客減→収益悪化となりました。
次に、渋滞や赤字で悩む「公営事業者」に対して、路面電車を廃止し、バスや地下鉄で代替すれば、「市の事業の合理化をした」として、地方税交付などで優遇する措置を取ったのです。
その効果は大きく、公営のほとんどがその政策に乗りました。
今残っている市電も、すべてその当時に全廃計画を立て、実際に40年代から50年代にかけて一部廃止を始めましたが、その後の情勢の変化で市電を全廃できなくなったものです。(さらにその後の路面電車見直しの風潮により、全廃計画を撤廃しています。あるいは廃止を始めた時点で具体的な全廃の計画に至ってなかったに過ぎません。)
以上の事情により、札幌などの市電は廃止が進みました。現存路線も廃止の予定でしたが、廃止が遅れているうちに、赤字ではないこと、路面電車見直しの風潮により、一転して存続が正式決定されました。
広島も全国で廃止が続く時期に、廃止の計画もあったようです。しかし、上述のように廃止が有利だったのは「公営」であり、下手に規模が大きすぎた広島は、なかなか廃止へ向けての具体化が進みませんでした。電車の更新等は、幸い各地で廃止された電車(しかも40年代に急遽廃止が決まった所が多く、車暦の浅い非常に状態のよい車両が多数ありました)が入手できたので、大きな負担がありませんでした。
渋滞対策としては、広島県警が協力的で、軌道敷内の自動車通行を認めませんでした。このため、どんなに道路が混んでも、電車は定時制が保て、安定した乗客が維持できました。(もちろんそのための路面電車関係者の努力は相当なものだったようです。日の目を見るまでかなり長期大変な時期を経験しました。)
同様の事情で長崎も路面電車が完全な形で残っています。しかも今秋の値上げまで100円運賃が維持できていました。
つまり、広島で地下鉄が導入されなかった理由は端的にいうと、以下のようになります。
 1.路面電車が民営である為、昭和40年代の路面電車廃止を薦める政策の対象外となった。
 2.全廃できない路面電車に対して、渋滞の影響を及ぼさないように軌道敷内通行禁止を維持した。(県警や市民の協力が得られた)
 3.そのため路面電車の経営状態が安定し、無理して廃止する必要がなかった。
 4.路面電車の廃止が不必要なので、その廃止が前提となる地下鉄の計画をする必要がなかった。
もちろん、路面電車を廃止しない決めた裏には他の回答にあるような「地下鉄を作るにしても地質上の問題で難工事が予測される」と言うような事情もあったかもしれませんが、他の都市の状況を見る限り、地下鉄が難工事だから市電を廃止しないと言うことが単純に認められる様な時代背景ではなかったと考えます。
おそらく、もし広島も電車が市営だぅたら、あっけなく地下鉄になったかもしれません。そして、巨大な工事費により地下鉄は赤字に苦しみ、しかも便利とはいえない状態であったでしょう。あるいは、その難工事ゆえに「地下鉄代替は不可能」という計画に変更され、すべてをバスに頼ると言う今の京都よりひどい状態になってしまったかもしれません。
なお、京都あたり(説によっては仙台あたりも)は全廃計画がもう少し遅かったら、その後の路面電車見直しの風潮に乗って、市電が残り、今のようにわずかな地下鉄と大多数の市バスだけに頼るような不便な状態にならなかったと言われています。
京都の場合、比較的経営状態のよい路線を先に廃止している為、市電最終年度の頃には路面電車見直しの風潮があった(実際、市も廃止反対運動に対して市電存続可能かを検討したようである)にもかかわらず、経営的に問題のある市電の全廃計画を撤廃するわけにいかないという事情があったようです。
 https://oshiete.goo.ne.jp/qa/5313069.html?from=navi_recommend
 連続コンビニ強盗・強盗未遂事件の呉市で緊急逮捕「手配写真によく似た男か」
‡2019(令和元)年09/23(月)  20:00 掲載 TSSテレビ新広島
 23日午後、20代の男が、呉市のコンビニエンスストアに刃物を持って押し入り現金を奪った疑いで、緊急逮捕されました。午後2時頃、呉市阿賀南のコンビニエンスストアで男がレジに1人でいた女性店員に包丁をつきつけておどし、ジェスチャーで金を出すよう指示しました。店員が現金1万5千円を手渡すと男はこれを奪ってバイクに乗り逃走。およそ10分後に、警察が現場付近の交差点でバイクに乗っていた男を緊急逮捕しました。男は「間違いない」と容疑を認めているということです。呉市内では、同じような手口でおとといコンビ二強盗が発生、さらにきのうは、2件の未遂事件が起きていました。公開された手配写真によく似ているということで警察は、この男の連続犯行の可能性があるとみて捜査しています。
 http://www.tss-tv.co.jp/tssnews/000004494.html

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