過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日の走る投げる打つシンプルなゲーム等だヨ(=^◇^=)

 


 No.06 ご冥福をお祈りします。
 通夜 12月10日(土)午後7:00 分開式
 葬儀 12月11日(日)午後1:00 分開式
 出棺 12月11日(日)午後2:00  
 喪主 安保 道子(妻)
 式場 セレモニーホール青山会堂
 新潟県新潟市西区青山8丁目4番15号
 TEL.025-265-7667 FAX.025-265-7110 生花は0120-414107へ
 http://www.arkbell-ceremony.com/ch/aoyama_kaidou/車
 アクセス:JR小針駅または青山駅より約5分。JR新潟駅(万代口)よりタクシーで約20分。バスは、新潟駅万代口より西小針経由「内野」または「新潟大学前」または「信楽園病院」行きに乗車、「上山」バス停下車、徒歩約1分
 2016(平成28)年12月07日(水) 日本自律神経病研究会事務局
 ※足を運んでみては如何でしょうか※
†2016(平成28)年12月09日(金) 16:58:36 東京都民9
 https://ameblo.jp/64152966/entry-12226985539.html

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 ┃ 織田幹雄 ┃
 ┗━━━━━━┛☆\(=^◇^=)/☆
 日本人初のオリンピック(金)メダリストだヨ(=^◇^=)O♂
 1905(明治38)年03月30日(木) 広島県安芸郡海田市町 ※現:海田町稲荷町
 1928(昭和三)年07月28日(土) 走高跳 1m88で8位
 1928(昭和三)年08月02日(木) 三段跳 予選15m21トップ記録で決勝 日本人初金メダル獲得
‡1945(昭和20)年12月09日(日) 織田の提案で東京大学競技場 競技会開催。陸上競技愛好家が全国から集い織田も走高跳に出場。同日、平沼亮三を会長として日本陸上競技連盟(JAAF)新組織発足、織田はJAAF強化担当ヘッドコーチに就任。つまりこの日が日本陸上界復活の日となったヨ(=^◇^=)
 1998(平成十)年12月02日(水) 神奈川県鎌倉市 93歳没
 1998(平成十)年12月25日(金) 国立競技場で織田幹雄お別れ会
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/織田幹雄
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 日本人初の金メダリスト 広島出身 織田幹雄の「超人力」に迫る
 2020(令和二)年06月16日(火)  20:00 掲載 TSSテレビ新広島 地域 生活 スポーツ 
 7月から開催される予定だった東京オリンピックと共に大きな注目を浴びるはずだった施設が、海田町にオープンしました。日本初の金メダリスト織田幹雄さんの知られざる物語に迫ります。皆さんはご存じですか。日本初の金メダルリストを。想像を超えた「人間の力」を。そして、その金メダルが今、広島にあることを。100年近く前に行われたアムステルダム・オリンピック。この大舞台、三段跳びで優勝を果たし、日本初の金メダルを手にした人物がいます。織田幹雄。当時23歳。この男の情熱が日本のオリンピックの歴史を切り開いたのです。織田さんの故郷、海田町に先月、その功績を称える記念館が誕生しました。ここには織田さんのことがよく分かるちょっとした仕掛けがあります。
【織田幹雄記念館・小谷幸子館長】「織田幹雄さんが三段跳びで金メダルを取られたときの記録を体感していただこうということで足型があります」通路の端に左右並んだ足型が。これは一体?「これが最後15メートル21センチ、着地したときの足型でじつはもっと向こうのほうにホップステップジャンプと足型が続いているんですスタートがこちらになります」織田さんが三段跳びで記録した15メートル21センチ。その着地点を実際の距離で再現してあるんです。
【やりとり】「(すごい距離ですね)結構挑まれます(挑まれます?挑みましょうか?挑んでみましょうか)」
【前田記者が三段跳びに挑戦】「全然ダメ。織田さんの1歩にもなりません織田さんは3歩であそこまで跳んだということですもんね)」
【織田幹雄記念館・小谷幸子館長】「その距離を目で見ていただくことですごい記録だというのが体感していただける」窓ガラスにはこの記録をつくったときのシルエットを再現、織田さんがどのようにして跳んだのかがわかります。このほかにも…
【織田幹雄記念館・小谷幸子館長】「走高跳びの記録です。こちらが織田さんが高跳びを始めて初めて記録を残されたのが157センチ15歳で跳ばれたときは織田さんの身長は157センチなかったということですから初めて跳ばれて自分の身長よりも高いところを跳んだわけです」17歳の時には高跳びで日本新記録を達成。驚くのは、その跳び方です。
【織田幹雄記念館・小谷幸子館長】「今高跳びというと背面跳びとかそういうイメージがあると思うんですが織田さんの時代は挟み跳びで(挟み跳び)挟み跳びで跳ばれてますね」なんとバーを足で挟んで跳び越える「挟み跳び」で残した記録なんです。生涯では192センチの最高記録を残しています。織田さんは15歳で陸上競技と出会いオリンピックのことを知りました。
【織田幹雄記念館・小谷幸子館長】「オリンピックという言葉を初めて聞いて日本の代表になりたいオリンピックに出たいという気持ちが15歳のノートなんですけどとてもよく表れていると思います。今と違って陸上に対する情報もすごく少ないですから自分で情報を集めてみんなの記録を調べたりどういうふうにしたら跳べるかという創意工夫をずっと重ねていかれた方なので」1928年、織田さんはシベリア鉄道でオランダ・アムステルダムのオリンピック会場へと向かいました。今では考えられない1ヵ月の長旅。移動中もトレーニングは欠かしませんでした。
【織田さんの日記から】
 1928(昭和三)年08月02日(木)「8月2日。最後の日だ」出場したほかの競技は予選落ち。最後の競技が三段跳びでした。ホップ、ステップ、ジャンプ。織田さんが見出した6・4・5の黄金比で15メートル21センチを記録。競技場に掲げられた大きな日の丸は急遽、用意されたもの。日本人の優勝が予想外であったことを物語っています。
【織田幹雄記念館・小谷幸子館長】「開館にあたって秩父宮記念スポーツ博物館からお借りしているもので実物の金メダルが今9月までご覧いただける銀の地に金でメッキをしてあったんですね当時は全部純金ではなくて部分的にですが少しまだ金の輝きがあったりします」この金メダルと当日、胸に着けていたマーク、陸上競技のプログラムは今回、期間限定で特別に展示されているものです。
 ※織田さんは世界40ヵ国以上でコーチを務め生涯をスポーツの発展に尽くしました。そこには織田さんが伝えようとしたものがあります。晩年、小田さんは、「僕は一つの楽しみだったどんなに苦しいことがあっても成績が上がるあるいは人に勝てる楽しいんですだからどんなことでもやれたわけですだから今も私はスポーツは楽しくなきゃいけないそうでなくて苦しいんだったらスポーツの意味はないと思っている」という言葉を残していました。
 https://www.tss-tv.co.jp/tssnews/000006347.html
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 ┃ 織田幹雄さん ┃
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 2017(平成29)年07月14日(金) 更新 掲載日
■織田幹雄さんの生涯
☆幼少期☆織田幹雄さんは、
 1905(明治38)年03月30日(木)に広島県海田市町(現・安芸郡海田町)で生まれました。身体は小さくても丈夫で、成績は優秀でした。学校から帰れば、近所の子どもたちと野山をかけまわっていました。この遊びを通じて、運動神経や強いバネが養われたそうです。人前でおしゃべりをしたり、何かやることは苦手な恥ずかしがりやさんでした。織田さんは6人兄弟の3番目。家の手伝いは何でもやりました。井戸から水をくみ、風呂を焚く。他の手伝いも、工夫をこらしながら進めると、面白いようにはかどったそうです。
☆陸上競技との出会い☆鼓浦尋常高等小学校(現・海田小学校)に通っていた織田さんは、両親に経済的な負担をかけまいと、中学進学をあきらめかけていました。小学5年のとき、担任だった檜垣先生が父親を説得し、念願だった広島中(後の広島第一中学、現在の広島国泰寺高校)に進学します。中学1年のとき、あがり症の織田さんは、人前で跳躍がうまくできませんでした。体操の教官・宇佐美先生から1週間の補講を受けて練習を重ねたところ、クラスで一番高く跳べたそうです。織田さんは大いに褒められました。それからすっかり体が楽になり、人前でも平気で跳躍ができるようになったそうです。織田さんの才能に気づいていた宇佐美先生は、アントワープオリンピックから帰った野口源三郎選手の講習会への参加を勧めました。その講習会で、織田さんは、陸上にいろいろな種目があることを学んだそうです。それまでは「陸上競技という言葉も知らなかった」と振り返っています。講習会の中で行われた記録会(走高跳)で、身長155cmの織田さんは、157cmのバーを越えました。(記録については諸説あり)「小さいのによく跳ぶな。君は練習すればきっと日本の代表になれるぞ。」織田さんは、野口選手にこう声をかけられました。この一言が後の跳躍人生のきっかけとなりました。そのころ、サッカー部に所属していた織田さんは、新設された「徒歩部」へ入部します。織田さんは、サッカー部以外は許されていなかった全国大会への参加を校長先生に直訴します。「きっと優勝します」そう言った織田さんに校長先生は身銭を切って遠征を許可します。夏休みの40日間、校長と交わした「優勝」という約束を胸に、練習を1日も休まず続けました。結果は見事総合優勝。織田さんは、運命的な出会いを重ね、さらに工夫しながら努力を続けます。そして、1923年(大正12)年に第6回極東大会(アジア大会の前身)の日本代表に選ばれます。
☆初めてのオリンピック出場☆1924(大正13)年、跳躍種目ただ一人の日本代表として、第8回オリンピック・パリ大会へ出場します。パリまでの40日間の船旅では、甲板を走ったり、マットを敷いて跳躍したりして調整しました。現地では積極的に外国の選手と練習しました。大舞台でも、もうすっかりあがることもなく、結果は三段跳で日本陸上界として史上初の6位入賞。大会後、「記録と勝負は別物である。独特の雰囲気のオリンピックでは、自分の力を出し切れるかどうかが重要だ。次期オリンピックをめざし、記録を1m伸ばす目標を立てた」と振り返っています。ところが、厳しい練習による怪我をきっかけに、スランプに悩まされます。「もう織田は駄目かもしれない」と限界説もささやかれました。そこで織田さんは試行錯誤を続け、海外の選手のものまねではなく、「跳ぶ」ということの基本に立ち返ります。「いつどこに力を入れるのか。効果的な体勢は、踏み切りは。」毎日毎日ノートに書き留めました。記録を集約すると、3度のジャンプの比率が、6:4:5のときに距離が一番伸びることがわかりました。苦心の末、「織田さんのジャンプ」が完成します。
☆日本人初のオリンピック金メダル獲得☆迎えた
 1928(昭和三)年08月02日(木)、第9回オリンピック・アムステルダム大会三段跳で、15m21cmの記録で優勝。織田さんは、日本人初のオリンピック金メダリストとなりました。国旗掲揚台のセンターポールには、手違いにより外国のものの4倍ほど大きな日本の国旗が掲げられました。織田さんは、「自分がそこまでやれたのはやはり努力だった。人は主体性をもった努力・工夫が大事だ。それは人それぞれなりにやればできる。」と振り返っています。郷里・海田では、母校、海田尋常高等小学校グラウンドで、歓迎会(祝勝会)が開催されました。「多くの人の力があったからこそオリンピックで優勝者にもなれた。」と、心の中が満たされる思いであったそうです。
☆戦後のスポーツ復興☆大学卒業後、大阪朝日新聞社に入社。世界一のスポーツ記者をめざしながら、三段跳でも15m58cmの世界記録を出します。その後、第10回オリンピック・ロサンゼルス大会の後に第一線を引退しました。戦後の日本にとって、オリンピック金メダリスト・織田幹雄の存在はとても大きなものでした。パリ大会で顔見知りとなったGHQの体育スポーツ監督官ニューフェルドから欧米のスポーツ視察を勧められ、各国を巡り、最新の理論を学ぶとともに、世界中の選手の指導にあたりました。織田さんの世界各国での貢献が第18回オリンピック・東京大会の開催につながりました。旧国立競技場のこけら落としとして開催された東京アジア競技大会では、最終聖火ランナーを務め、同競技場の第4コーナー付近には、織田さんが金メダルを獲得したときの記録15m21cmと同じ高さの、通称「織田ポール」が建てられました。東京オリンピックでは、陸上日本代表チームの総監督を務めました。数々の功績が認められ、1976(昭和51)年、IOC(国際オリンピック委員会)から「オリンピック功労賞」を授与されました。織田さんは、「競技力の向上」を追及する一方で、高齢者のスポーツ「マスターズ」の普及などにも尽力しました。「喜びのないスポーツ、楽しみのないスポーツは本当の意味でのスポーツではない」と、国民の誰もがスポーツを楽しむ社会の発展を願っていました。最後まで陸上競技の発展に尽力し、1998(平成10)年、神奈川県において93年の生涯を閉じました。
■織田幹雄さんの展示などをしています
☆海田町ふるさと館☆2階企画展示室3で、金メダル、スパイク、ディプロマ(オリンピックの賞状)などの競技にまつわる資料のレプリカ、小学生時代の賞状のレプリカ、幼少期から晩年までの写真などを展示しています。映像で織田幹雄さんについて学ぶこともできます。
☆海田総合公園☆多目的広場横の芝生地に「織田幹雄氏 顕彰モニュメント」を設置しています。三段跳びの「跳躍」の軌跡をイメージした、放物線状のモニュメントです。表面には織田さんが金メダルを獲得したときの跳躍のようすや、生涯の経歴を表示しています。また、モニュメントの隣には、織田さんが金メダルを獲得した時の記録「15m21cm」を表示した体感ゾーンを整備しています。芝生地ですので、実際に飛んで記録の偉大さを体感することができます。
☆織田ポール(海田町内)☆織田幹雄さんがアムステルダムオリンピック三段跳で金メダルを獲得したときの記録と同じ高さ(15m21cm)の掲揚ポールを設置しています。設置している場所は、海田小学校、海田東小学校、海田西小学校、海田総合公園野球場です。
■織田幹雄さんの特集をしました■広報かいた平成27年5月号から平成28年4月号において、織田幹雄さんの特集を掲載しました。 
☆世界人と成るべし ~海田町名誉町民 織田幹雄氏をたどる~
 第01回 父・織田幹雄を語る(前編) 長男 織田 正雄さん
 第02回 父・織田幹雄を語る(後編) 長男 織田 正雄さん
 第03回 父・幹雄 次男 織田 和雄さん
 第04回 運命の出会い                   
 第05回 「かいたのみっちゃん」から「世界の織田幹雄」へ
 第06回 スポーツは、楽しいけれども、一方で勝つことは、記録を作る以上に難しい。
 第07回 選手からコーチ、監督へ
 第08回 戦後のスポーツ復興                               
 第09回 選手を変えるコーチの言葉
 第10回 楽しいスポーツ
 第11回 今に伝わる織田幹雄さん
 第12回 織田幹雄さんから学ぶこと
 https://www.town.kaita.lg.jp/site/miryoku/17607.html
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 織田幹雄スクエアについて
 2020(令和二)年04月01日(水) 開館 ※更新:掲載日
☆織田幹雄スクエアについて☆織田幹雄スクエアは、海田町の社会教育の拠点である「海田公民館」と海田町出身で日本人として初めてオリンピックで金メダルを獲得した織田幹雄さんを顕彰する施設「織田幹雄記念館」の複合施設です。隣接する広島県指定重要文化財・名勝の旧千葉家住宅と一体性を持たせることで、本町の学びと歴史文化の拠点施設となります。
 https://www.town.kaita.lg.jp/site/modasquare-kyuchibake/114182.html

 

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 ┃ BIG FRONT ひろしま ┃
 ┃    シティタワー広島   ┃Bブロック
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━┛広島駅南口再開発計画
 2013(平成25)年03月XX日(X) 着 工
 2013(平成25)年04月12日(金) 起工式
 2015(平成27)年03月05日(木) ナショナル会館開店
 2016(平成28)年08月17日(水) 竣 工
 2016(平成28)年08月31日(水) シティタワー広島東棟の残り部分及び、西棟が完成。Bブロックでの全ての工事が完了
 2016(平成28)年08月31日(水) 全館開館
 2016(平成28)年09月14日(水) ビックカメラ開店
 2016(平成28)年10月03日(月) 完成式
 2016(平成28)年10月21日(金) プレオープン ホテル川島 客室79室
 2016(平成28)年12月05日(月) 広島市総合福祉センターオープン
‡2016(平成28)年12月09日(金) グランドオープンイベント
************* https://skyskysky.net/construction/201609.html
 https://ja.wikipedia.org/wiki/広島駅南口再開発計画#シティタワー広島・BIG_FRONTひろしま(Bブロック)
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 ┃ 洋麺屋ピエトロ ┃
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‡1980(昭和55)年12月09日(火)
 「洋麺屋ピエトロ」が福岡市天神にオープンしたのは1980(昭和55)年12月09日(火)。たった6人でスタートした小さなそのパスタレストランでは、茹で立ての麺にたらこや、高菜、納豆などの“和”の素材を組み合わせて食べるというメニューがありました。当時、スパゲティと言えば、ミートソースやナポリタンくらいしかなかった時代、ピエトロのスパゲティは若い女性を中心に評判となり、行列のできるお店となりました。
 https://www.pietro.co.jp/story/history/
◎はじまりは一軒のレストラン ⇒ 1980年12月9日、福岡市・天神三丁目の路地に小さなレストラン「洋麺屋ピエトロ」をオープンしました。スパゲティといえばミートソースやナポリタンが主流だった当時、「炊きたてのご飯に合うものは、茹でたてのスパゲティにも合う」というコンセプトで、明太子や高菜、納豆などの食材を取り入れ、和と伊(イタリアン)を融合させたメニューが次第に話題となり、オープン1周年を迎えるころには、行列のできる店となりました。
◎ピエトロドレッシングの誕生 ⇒ 茹でたてのスパゲティを召し上がっていただくために、茹で時間をお客様にお待ちいただく間、出していたサラダにかけていたのは、新鮮な国産たまねぎと、甘みのある九州のしょうゆをベースに、レストランの厨房で創業者・村田シェフが手作りしていたドレッシングです。日本人の味覚になじむ、まろやかな和風テイストが評判となり、「このドレッシングだと、子どもも主人もサラダをよく食べるので分けてください」と何人ものお客様からリクエストをいただきました。そのご要望にお応えするため、ドレッシングをワインの空き瓶に入れた“おすそわけ”からはじまり、「洋麺屋ピエトロ」のオープンから2年ほど経った頃、百貨店での販売を開始。その後、全国放送のテレビショッピングでの紹介をきっかけに、人気商品の仲間入りをしました。
 https://www.pietro.co.jp/story/pietro_story/
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 ┃ 株式会社ピエトロ PIETRO Co., Ltd ┃
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 1985(昭和60)年07月29日(月) 設立
 https://ja.wikipedia.org/wiki/ピエトロ_(福岡県)
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 ┃ 今日は何の日? ┃名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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 1986(昭和61)年12月09日(火) ビートたけしさん率いる「軍団」が講談社に乱入 ⇒ ビートたけしさんと弟子の「たけし軍団」が写真週刊誌「フライデー」編集部のある講談社に乱入し、全員が逮捕された。たけしさんと交際していた女性に執拗な取材が行われ、けがを負わせたことが事件の発端。写真は、拘留されている大塚警察署前に詰め掛けた多数の報道陣【時事通信社】※2021(令和三)年説明追加
 1992(平成四)年12月09日(水) 英国のチャールズ皇太子とダイアナ妃が別居 ⇒ 英王室が、かねて不仲が伝えられていたチャールズ皇太子夫妻の別居を発表。1996年に離婚した。写真は、88年2月にタイ王室の守護寺院を訪れた際の皇太子夫妻。チャールズ皇太子が芳名帳に署名しながら何か話し掛けるが、ダイアナ妃は知らん顔【AFP時事】※2021(令和三)年説明削除
 1990(平成二)年12月09日(日) ポーランド大統領選挙でワレサ「連帯」議長が当選
 https://www.jiji.com/jc/daily
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①┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡1987(昭和62)年12月9日(水) カモも祝福? 永射保500試合登板記念パーティー
‡2017(平成29)年12月9日(土) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は12月9日だ。 
 写真◆西武時代の永射。とにかく度胸のいいピッチャーだった
 地味ながら盛大で、なにより“あったかいパーティー”だった。 
 1987(昭和62)年、プロ15年目のこの年、西武から大洋に移籍し、あと7に迫っていた通算500試合登板を
 1987(昭和62)年05月2日(土)の阪神戦(甲子園)で達成した(史上59人目)左腕・永射保。その大記録を祝う会が
‡1987(昭和62)年12月9日(水)、池袋サンシャインシティプリンスホテルで行われた。 
 永射は1972(昭和47)年、広島に入団も伸び悩み、オーバースローからサイドスローに。1974(昭和49)年、太平洋クラブ(のちクラウン─西武)に移籍し開花する。左打者の背中に当たりそうな角度からストライクゾーンに食い込むカーブを武器に1977(昭和52)年には先発、中継ぎでフル回転し、規定投球回到達。1979(昭和54)年からは主に中継ぎで3年連続、1984(昭和59)年を加え、4度リーグ最多登板を果たしている。 
 パーティーの発起人は、悪友たちだ。大田卓司(解説者。元西武ほか。当時以下同)、基満男(日本ハムコーチ)、東尾修(西武)、加藤博一(大洋)、若菜嘉晴(大洋)らが企画。豊田泰光(解説者。元西鉄ほか)、田淵幸一(解説者。元西武ほか)ら親交の深い先輩たちも訪れ、永射を祝福した。 
 一番沸いたのが、愛娘とともに元ロッテのレロン・リーが登壇した際だ。永射が「リーさんのおかげで選手寿命が延びた」と言って会場が爆笑となったが、左打者・リーにとって永射はまさに天敵。まったくタイミングが取れず、右打席に入ったこともあったという。 
 地味な仕事人のまさに晴れ舞台だった。
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②┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡2011(平成23)年12月09日(金) DeNA監督交渉破談の工藤公康が現役引退表明
‡2018(平成30)年12月09日(日) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわってその日に何があったのか紹介していく。今回は2011年12月9日だ。 
 写真◆西武、ダイエー、巨人で頂点に立つなど、選手としても“優勝請負人”だった
 誕生したばかりのDeNAの新監督就任が直前で破談となっていた工藤公康がこの日、自身の公式ブログで現役引退を表明した。西武、ダイエー、巨人、横浜の4球団で活躍し、通算224勝を挙げている工藤は前年、西武を退団。トレーニングを続けながらメジャー挑戦を目指していたが、「何をしても肩のことが気になり、病院に行って注射を打っても痛みが引かない日々を過ごしていました」と、左肩痛が引退の要因であることを明かした。 
 実働29年、3球団でチームを日本一に導いた名左腕がついにユニフォームを脱いだ。その後、3年間の評論家生活を経て、15年からソフトバンクの監督に。監督1年目、いきなり日本一に輝くと17年もリーグ優勝して日本シリーズを制覇。そして、今季はシーズン2位からクライマックスシリーズを勝ち抜き、“下克上日本一”を成し遂げた。
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 ①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171209-11
 ②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20181209-13
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①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.087 ┃30円
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‡1959(昭和34)年12月09日(水)号 特集1爆弾を投げつけた三原脩 2 川上はなぜ監督にならなかったのか
 2018(平成30)年 1月22日(月) 11:08 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。おかげ様で、すでに通算3500号が近づいている。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。 
◎オフらしくほのぼのとした企画も
 写真◆表紙は南海・杉浦忠
 今回は『1959年12月9日号』。定価は30円だ。今回もオフらしくほのぼの。センターグラビアには『花形選手の二世誕生』と題し、選手の夫人と赤ちゃんの2ショットがずらり。ドラフト前、選手争奪戦が激しい時代で1000万円という契約金の枠いっぱいで入団したと言われる60年入団選手も紹介されている。 
 後ろグラビアには大毎の新監督となった西本幸雄の秋のオープン戦の姿。39歳の青年指揮官だ。本文には『大毎新監督登場までの舞台裏』という記事もあった。永田雅一オーナーは、辞任がウワサされていた巨人の水原茂監督(留任)か西鉄の三原脩監督(大洋監督に)と思っていたが、いずれもうまく行かず、消去法での西本コーチ昇格だった。 
“ラッパ”とも言われた永田オーナーは映画畑の人物らしく、大言壮語が多く、かねてから「交通至便の旧横浜市役所跡に新球場を建設する。そして大物選手をそろえて東京レッド・ソックスをつくる」と2球団目への野心も語っていた。 
 本文巻頭は二大特集。まず最初が『爆弾を投げつけた三原脩~大洋入りまでの真相はこうだ』。前年オフに続き、新聞のスクープから始まった西鉄・三原監督の退団、大洋監督就任騒動についてだ。前回は元のさやに納まったが、今回は本当になった。ただ、この時点では西鉄への辞表の提出のみ。 
 第2特集『川上はなぜ監督にならなかったのか』。正力松太郎読売新聞社主は、水原監督をやめさせ、ヘッドコーチの川上哲治を監督に昇格させるつもりだったらしい。それを翻意させたのは、鈴木龍二セ会長。どこまで本当か分からないが、当時のセ、パの関係が垣間見える。鈴木会長はこう言ったようだ。 
「水原はいろいろ批判されても一流の監督である。水原が辞任すれば、彼をほしがっている永田大毎会長が直接あなたのところに申し入れてくるに違いない。申し込まれたあなたのほうは監督をやめた水原をくれぬということは言いづらいかもしれない。選手権の結果としてセとパの人気が微妙な段階に来ているとき、水原というセの財産をパに走らせるのは得策でない」 
 では、またあした。<次回に続く>
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.289 ┃  50円
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‡1963(昭和38)年12月9日(月)増大号 映画「勝利の旗」クランクイン
 2018(平成30)年9月03日(月) 19:28 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。 
◎東京オリンピック近づく
 写真◆表紙は巨人・王貞治
 今回は『1963年12月9日増大号』。10円上がって定価は50円だ。 
 いよいよ翌年は東京オリンピックだ。 
 考えてみればだが、オリンピックが始まれば、いや、それ以前であっても、とても東京でプロ野球という雰囲気にはなるまい。先走って悪いが、64年に関西の阪神、南海が優勝というのは、面白いめぐり合わせではある。 
 このオリンピックまでの試合を終わらせるため、3月14日開幕で動いているパでは東映の渡米キャンプ中止が決定。3月初旬には帰ってこなければならず、ほぼメジャーとの合同練習ができないからだった。 
 国鉄監督は既報どおり、浜崎真二が退任し、サンケイと関係が深い林義一元阪神コーチとなった。 
 11月21日には映画「勝利の旗」がクランクイン。巨人の選手が実際に出てくるカラー映画で、以前は時々CSテレビで流れていた。なかなか貴重なものである。 
 多摩川での撮影で、長嶋茂雄の最初のセリフはこんな感じのものだったらしい。 
 ベンチで空を見上げる長嶋。これに藤田元司が声をかける。 
「シゲ、何を見ているんだ」 
 長嶋答える。 
「空ですよ。神宮で八本目(東京六大学記録の通算8本塁打)を打ったときと同じような空なんですよ」 
 ここで傍にいた広岡達郎が、 
「あの八本目は忘れられないだろうからな」 
 となる。  
 しかし長嶋が“はまった”。「空ですよ」のセリフが出ず、ついには涙を流し大笑い。女優の淡島千景ら共演者もつられて笑いだしてしまい、収拾がつかなくなったらしい。 
 ではまたあした。<次回に続く>
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③┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.555 ┃  60円
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‡1968(昭和43)年12月09日(月)号 明大・星野仙一の爆弾発言
 2019(令和元)年09月25日(水) 10:14 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 
◎中日に水原茂監督就任
 写真◆表紙は中日・江藤慎一
 今回は『1968年12月9日号』。定価は60円。 
 11月14日、かねてからのウワサどおり、中日に水原茂監督が誕生した。当時、中日の監督はそこそこの成績を残しながらも、親会社の派閥争いもあって、1、2年での交代が頻繁にあった。 
 中日ファンの水原に対する期待は大きかったようで、就任会見のため名古屋に向かう新幹線のプラットホームには、中日の応援団が現れ、「祝・水原茂中日監督就任」と書かれたのぼりを振って大歓声。名古屋駅は名古屋駅で、ファンが殺到し、サインを求めた。 
 水原も地元の熱気に触れ、「中日の監督を引き受けて、いまさらながら責任の重大さを痛感した」と語っている。 
 その後、中日球場での秋季キャンプにも顔を出し、 
「僕は中日監督の1年生。力を合わせてしっかりやろうじゃないか。なんでも話し合ってやっていきたい」 
 とあいさつした。 
 ドラフトで阪神に1位指名された法大・田淵幸一だが、「1年ノンプロでやってからプロへ」という言葉が新聞で「腰掛け気分では社会人に失礼」とたたかれ、「社会人には行かないと思う」となった。ただ、「阪神には行く気になれない」は変わらない。 
 巨人の正力亨オーナーは「阪神から田淵のトレードの話が来たら、喜んで受けたい」と話したが(こういう物言いへの批判はなかった。それもありだったのか)、阪神の戸沢代表は「トレ―ドは毛頭考えていない」と言っている。 
 まだ一波乱ありそうだ。 
 ほか1位では、亜大の大橋穣(東映)、法大の富田勝(南海)、富士鉄釜石の山田久志(阪急)、箕島高の東尾修(西鉄)の交渉が難航していた。東尾はスカウトからの声として投手より野手のほうが大成する、と言われていたようだ。 
 11月13日の報知新聞には、中日に指名された星野仙一と田淵、大橋、富田の座談会が掲載されたが、その中の星野のこんな発言が物議を醸していた。 
「なんで、あんな小僧を。田淵が指名されたのならあきらめがつくが」 
「ドラフト制度などぶっこわせだ。巨人は島野と星野の字を間違えたんじゃないかな」 
 島野修も、これではつらかっただろう。 
 なお、鶴岡一人南海前監督に断られた阪神は後藤次男ヘッドコーチの監督昇格を発表。ただ契約の細かい話はまったくなかったようだ。 
「契約金? 参加報酬? 何もしらんわ。これから話し合うんだろう。契約年数のことも考えんようにしてる。もし1年限りやったら、それでもええやないか」 
 さすが、仏のクマさんだ。 
 では、またあした。<次回に続く>
 備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
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 ┃ プロ野球仰天伝説 No.009 ┃ ONLINE
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 相手から延々と打ち続けた千葉茂のファウル打ち
 2018(平成30)年1月1日(月) 11:06 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。 
“ストリップ打法”とも呼ばれ
右打ち、犠牲フライなども名人芸と言われた千葉
 セカンド守備と右打ちの名人(右打者)と言われた巨人・千葉茂。ここでは、数ある名人芸の中から、ファウル打ちについて紹介する。 
「もともとワシは右打ちのために、球を引き付けるだけ引き付け、バットのヘッドを遅らせるタイプ。ファウル打ちもそこは同じ。最後は左手で細工をするのがコツやな。左手がもともと強いからできるんだ」 
 最高では13球続けたこともあり、「変化球投手なら1日中でも打っていられるよ」とも。後輩・長嶋茂雄から自分もやってみたいとコツを聞かれたこともある。 
 この技術を磨いたのは
 1949(昭和24)年、飛ぶボールの導入でホームランブームになった際だった。 
「ホームランなんて出会いがしらで面白くない。それより投手と駆け引きし、ファウルで甘い球を待ったり、四球を選んだりしたときのほうがずっとうれしかった」という、千葉らしい天邪鬼な心もあった。投手がさまざまな球種を投げ、“丸裸”になることから、“ストリップ打法”とも言われる。 
 1950(昭和25)年には当時の史上最多105四球、同年から3年連続リーグ最多四球だった。とにかく器用なタイプで、ほかにもバント、犠牲フライが名人芸と言われている。 
●千葉茂(ちば・しげる) 
 1919(大正八)年5月10日(土)生まれ。愛媛県出身。松山商から
 1938(昭和13)年巨人入団。
 1939(昭和14)年に正二塁手に定着した。
 1941(昭和16)年限りで応召。戦後は
 1947(昭和22)年から7年連続でベストナインに選ばれるも、ついに打撃タイトル獲得はならず。
 1956(昭和31)年限りで現役引退。二塁手としてのベストナイン7回は日本タイ記録。“猛牛”の愛称で呼ばれ、近鉄監督就任時には球団の愛称が「バファロー」に変更された。
 1980(昭和55)年野球殿堂入り。
†2002(平成14)年12月9日(月)死去。通算成績1512試合、1605安打、96本塁打、691打点、155盗塁、打率.284
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