過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日の走る投げる打つシンプルなゲーム等だヨ(=^◇^=)


‡2021(令和三)年02月08日(月)「ガジェット通信」にて 『一蘭 とんこつ』 をご紹介いただきました。
 コスパ完全度外視! 具なしで490円“一蘭”の超高級カップ麺が登場!
‡2021(令和三)年02月08日(月)「マイライフニュース」にて 『一蘭 とんこつ』 をご紹介いただきました。
 一蘭、史上初のカップ麺「一蘭 とんこつ」を発売
‡2021(令和三)年02月08日(月)「BCN」にて 『一蘭 とんこつ』 をご紹介いただきました。
 カップ麺「一蘭 とんこつ」が発売、一蘭の味を自宅に居ながら楽しめる

‡今日は、208もの島々が海上に散らばる九十九島No.1の日だヨ(=^◇^=)
「世界で最も美しい湾」と認められた珠玉の島々「長崎県九十九島」
 2018(平成30)年04月28日(月) 03:00 TABIZINE
 日本の碧い海に存在する、数々の美しい離島。夏が近づくと、私たちは離島へ心惹かれます。長崎県佐世保市の「九十九島(くじゅうくしま)」は、佐世保港の外側から北方向25kmへ小さな島々が点在しています。点々と208もの島が浮かぶさまは、海から生まれた泡(あぶく)のようにも見えます。「九十九」の名前の由来は、数え切れないほどがたくさんあるという意味から付いたと言われます。
 2018(平成30)年04月19日(土)、九十九島湾は、フランスに本部を置く「世界で最も美しい湾クラブ」に加盟認定。日本国内では、松島湾(宮城県)、富山湾(富山県)、駿河湾(静岡県)、宮津・伊根湾(京都府)に続く快挙。海外では、フランスのモンサンミシェル湾、ベトナムのハロン湾など美しい湾が選ばれています。
‡208もの島々が海上に散らばる ⇒ エメラルドグリーンの海に浮かぶ208もの小さな島々。島の密度は日本一。人が住む島は4つだけで、残りはすべて無人島。西海国立公園に指定され、288.5kmに及ぶ海岸線の80%以上が、自然のまま保たれています。小さな島々を探検しに出かけたくなりますね。エメラルドグリーンの海上を滑るように ⇒ 美しい海と島々を楽しむならクルーズで。潮風をいっぱい浴びながら。クルージングメニュー パールクィーン、海賊遊覧船みらい、リラクルーズほか、詳細は公式サイトでご確認ください。九十九島パールシーリゾートhttp://www.pearlsea.jp/cruising
 展望台はマストで行きたい ⇒ ■日の出を見られる高島番岳展望台 ⇒ 九十九島八景一で、九十九島から上る朝日を見られる唯一の場所。九十九島から日の出を見る旅は、思い出が作れそうです。
【ドローンでみた九十九島 ロングバージョン/(公財)佐世保観光コンベンション協会】
 http://getnews.jp/archives/2039640

 呉製鉄所閉鎖、知事に事前連絡なし「簡単に理解できぬ」
‡2020(令和二)年02月08日(土) 10:26『朝日新聞デジタル』配信 
 2020(令和二)年02月07日(金)午後4時24分 休止が決まった日鉄日新製鋼呉製鉄所の高炉=広島県呉市、上田幸一撮影 
 60年近くともされ続けた高炉の火が消える――。長く呉市の経済を支えてきた日鉄日新製鋼呉製鉄所は、2021年度に全2基の高炉を止め、23年度には閉鎖される見通しとなった。「まさか仕事場がなくなるとは」。あまりの衝撃に、地元は息をのんだ。
【写真】休止が決まった日鉄日新製鋼呉製鉄所の高炉=2020年2月7日午後4時24分、広島県呉市、上田幸一撮影
 7日午後、呉製鉄所。どんよりとした寒空の下、仕事を終えた人たちが足早に門から出てきた。
「高校を卒業してからずっとですから、寂しいですね」。18歳で日新製鋼(当時)に就職し、定年後も協力会社の従業員として製鉄所に通い続ける60代の男性は嘆いた。「私らは年金でどうにかなるかもしれないけど、若い人たちは……」運輸系の子会社に勤め、3年前に呉市近郊に持ち家を新築したばかりという40代の男性は、帰りのバス停に向かう途中で足を止め、こぼした。
「独り身じゃないですしね。赴任先次第では退職も考えんと。家に帰って家族と相談します」製鉄所の閉鎖は、製鉄所や子会社の社員に加え、「協力会社」と呼ばれる下請け企業の従業員の雇用も直撃する。合わせて約3300人が働くのは、基幹の製鋼工程にとどまらない。鉄鉱石や石炭を貨物船から揚げる港湾荷役、それらを運ぶ運輸業、プラント設備の更新を担う建設業――。飲食業や事務機器リースなど出入り業者を含めれば、関連企業は呉市と周辺に網の目のように広がる。取引先まで含めると、影響はさらに甚大だ。帝国データバンク広島支店によると、日鉄日新製鋼などグループ6社との取引企業は県内に117社。全体の従業員数は約1万8千人に上る。同支店は「非正規雇用者を含めると、さらに多い」と指摘する。首長たちは衝撃を隠せない。「大変残念に思っている」。呉市の新原芳明市長は日本製鉄の発表を受け、硬い表情で取材に応じた。この日午前、日鉄日新製鋼の柳川欽也社長と呉市内で面会したという。呉製鉄所とその子会社の社員については雇用を確保するとの説明を受けた。協力会社への対応についても「できるだけのことはする」との言及があったという。
「事前に情報提供もなく、決定事項として発表したのは遺憾」。県庁で取材に応じた湯崎英彦知事は、不信感をあらわにした。湯崎知事も柳川社長と面会し、呉市と同様の説明を受けたが、「簡単に理解できるものではない」と答えたという。
【関連記事】
「当社の生産能力は過大では」縮む日本、日本製鉄に逆風 
 日鉄閉鎖、地元に衝撃 呉の企業幹部「街衰退の始まり」 
 日本製鉄、荒療治のワケ 呉高炉の全面停止検討 
 日本製鉄、呉製鉄所を閉鎖へ 極めて異例の全面閉鎖 
 世界遺産「八幡製鉄所」の名消える 日本製鉄が組織再編 
 https://www.asahi.com/articles/ASN2776MVN27PITB007.html?iref=pc_ss_date
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 ┃ 呉そごう ┃
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  ※呉ではじめての、都市型本格派百貨店
 1981(昭和56)年06月X日(X)『呉駅前再開発特別委員会』設置
 1987(昭和62)年09月26日(土) 設立
 1988(昭和63)年02月01日(月) 呉市交通局は国鉄が所有する隣地に建築した新庁舎に移転
‡1988(昭和63)年02月08日(月) 呉駅前西地区第一種市街地再開発計画認可
 1988(昭和63)年08月X日(X) 建物着工
 1990(平成仁)年03月01日(木)『呉駅前西地区再開発ビル』交通局権利分の貸付事業開始
 1990(平成仁)年03月03日(土) 同時に建築していた貸しビル『交通局西中央ビル』が完成
 1990(平成仁)年03月18日(日) 株式会社そごう(初代)の系列会社である株式会社呉そごうにより、そごうの27号店「呉そごう」として開店
 1990(平成仁)年06月X日(X) 事業終了の認可公告
 2000(平成12)年07月26日(水) 民事再生手続開始決定。
‡2001(平成13)年02月X日(X) 100%減資を行い株式会社十合の完全子会社となる
‡2002(平成14)年02月X日(X) 株式会社そごう(初代)が、現そごう横浜店の旧法人であった株式会社横浜そごうに吸収合併され解散、横浜そごうが株式会社そごう(2代目)に商号変更
 2002(平成14)年09月01日(日) 株式会社そごうに吸収され、呉そごうは解散。店舗呼称を「そごう呉店」に変更
 2002(平成14)年09月01日(日)「十合」傘下の再生各社との合併により、百貨店運営会社「株式会社そごう(旧株式会社横浜そごう)」へ統合
 2009(平成21)年08月01日(土) そごうを存続会社として、西武百貨店、持ち株会社ミレニアムリテイリングと合併、株式会社そごう・西武の運営となる
 2012(平成24)年06月27日(水) 運営するそごう・西武が、そごう呉店を2013年1月末で営業終了する方針であると発表
 2013(平成25)年01月31日(木) 閉店
 ※・・・日本百貨店協会に入っている系列の店舗としては呉初である。ただし、1970年代に『大呉百貨店』ジャスコ系列・現「クレアル」『銀座デパート』ニチイ系列・現在閉店『いづみ呉店』イズミ系列・現『イズミシティパルク呉』があり、当時の百貨店並みの施設を有していた。また、市内には小規模店舗の福屋呉店がある
 https://ja.wikipedia.org/wiki/そごう呉店
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 ┃ 今日は何の日? ┃※名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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 1982(昭和57)年02月08日(月) ホテルニュージャパンで火災、33人死亡 ⇒ 東京都千代田区永田町のホテルニュージャパンで火災が発生し、33人が死亡。逃げ場を失って窓から飛び降りる人など衝撃的な場面も報じられた。高級ホテルとして知られていたが、防火設備に不備が多く、大惨事となった。写真は消火作業が続けられるホテルニュージャパンの火災現場【時事通信社】
 1969(昭和44)年02月08日(土) 航空自衛隊F104戦闘機が金沢市内に墜落
 2004(平成16)年02月08日(日) イラク復興支援に当たる陸自本隊第1陣がサマワに到着
 https://www.jiji.com/jc/daily
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 ┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡2013(平成25)年02月08日(金) ラミレス監督の現役最終年スタート 
‡2018(平成30)年02月08日(木) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は2月8日だ。 
 写真◆左から新外国人で三番候補と言われたモーガン、ラミレス、ブランコのゲッツ!ポーズ
 DeNA現監督、アレックス・ラミレスの現役(NPB)最終年が2013年だった。 
 同年2月8日、前年に右ヒジの手術もあってキャンプは二軍スタートだったラミレスが一軍に合流した日だ。 
 この年、DeNAは中日を退団したブランコ、ソト、ソーサを総取り。09年の本塁打王、ブランコが目玉で、入団会見時、高田繁GMが「ブランコの怖さを(中日)高木守道監督にも味わってもらいましょう」と“口撃”。2年目を迎える中畑清監督も「四番・ブランコ、五番・ラミレス」と公言していた。 
 前年不動の四番としてチームを引っ張ったラミレスにしてみれば面白くなかったかもしれないが、いつもの笑顔で「自分は何番でも構わない。とにかく勝ちたい」とフォ・ザ・チームを強調。この日のフリー打撃でも3本のサク越えを放つなど好調さをアピールしていた。 
 さらに目前としていた外国人選手では初めてのNPBのみでの2000安打については「早く打ちたいけど、少し待たせてもいいかな」と余裕の表情で語っていた。 
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180208-12
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①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.099 ┃  30円
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
 1960(昭和35)年3月02日(水)号 特集 12球団スプリング・キャンプの内幕 対談 二年目のジンクスはない
 備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
 2018(平成30)年2月03日(土) 11:08 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。おかげ様で、まもなく通算3500号を迎える。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。 
張本勲の自信
表紙は巨人・長嶋茂雄
 今回は『1960(昭和35)年3月2日号』。定価は30円だ。巻頭は巨人の宮崎キャンプ。この年のキャンプインは2月8日となっていたらしい。週べ創刊100号である(高校野球特別号が入り、ナンバリングは連載の回数とは合わない)。 
 本文巻頭というか、一大特集が『12球団スプリング・キャンプの内幕~本誌特派記者がつづる現地ルポ』。各球団2ページで、すべてに南海なら野村克也、広瀬叔功など「ショート対談」が囲みで入る。ここでは見出しのみ紹介しよう。 
  南海 「杉浦にあがる危険信号」
  大毎 「葛城のコンバートは成功するか」
  東映 「新しい外人トリオの功罪」
  西鉄 「川崎監督と中西、豊田、稲尾」
  阪急 「再起を誓う衆樹」
  近鉄 「巨人勢と近鉄勢の対立」
  巨人 「浜崎コーチと投手陣の間」
  阪神 「金田新監督の人気は?」
  中日 「濃人はだれを育てる!」
  国鉄 「エース金田のキャンプ生活」
  広島 「一本化したチーム力」
  大洋 「“低姿勢”三原の腹の中」 
 キャンプ地一覧もあったので、ついでに紹介する。
  南海 1月20日(水)~2月25日(木)・中モズ
  南海 2月26日(金)~3月4日(金)・呉二河
  大毎 島原
  東映 ◆2月8日(月)~月末・伊東
  東映  3月1日(火)~10日(木)・岡山
  西鉄 平和台
  阪急 ◆2月08日(月)~14日(日)・姫路
  阪急  2月15日(月)~月末・西宮
  近鉄 今治
  巨人 宮崎
  阪神 甲子園
  中日 大分別府
  国鉄 指宿
  広島 2月02日(火)~24日(水)・呉二河
  広島 2月25日(木)から月末・広島
  大洋 明石。以前あった三保はなくなったのか?
 2個所の球団のみ日付を入れたが、キャンプインの
‡1960(昭和35)年2月8日(月)は、有名無実のものだったらしい。 
 座談会は越智正典の司会で前年の新人王、東映・張本勲、大洋・桑田武が登場。タイトルは『二年目のジンクスはない』だが、2年目のジンクスについて聞かれたときの張本の答えがいい。 
「ぜんぜん考えてないですね。だいいちジンクスやらそんな言葉知らんですもの(笑)」 
 実際、相手投手についても知らなかった1年目より2年目のほうが怖くないと言い切り、さらに「四角い中、これだけでしょ(手でホームベースの型をつくる)。どっか当たると思うですね。向こうもまた、バットに当てんようにという気持ちがあると思うんですけど、どっか当てられると思うんですね、ぼくは」 
 かなりの自信だ。
 では、またあした。<次回に続く>
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.148 ┃  30円
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1961(昭和36)年2月08日(水)号 ドーム球場建設話と嵐を呼ぶパ・リーグオーナー会議
 備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
 2018(平成30)年3月24日(土) 11:08 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。 
巨人の名誉を担う2人の監督
表紙は左から巨人・王貞治、東映・張本勲
 今回は『1961年2月8日号』。定価は30円だ。今回からタイトルは表紙のタイトルではなく、主な特集に見出しにしてみた。 
 センターグラビアでは吉田義男、村山実ら阪神選手のハンティング風景。山鳥三羽、ハト一羽、かけす三羽、もず一羽らしい。 
 大和球士の『パ・リーグオーナー会議』は、なぜか“推理物語”とある。読んでいっても特に説明はないが、要は「見てきたように書いた」ということか。 
 舞台は1月11日、博多のホテル。この年初めてのパ・リーグオーナー会議が行われた。そこでは近鉄・佐伯勇オーナーが名古屋進出構想を語り、さらに多少アルコールが入ったところで明かしたのが、 
「実はひそかに近鉄は、東京晴海に水陸両用機の発着所を作る計画を立てているんです。ここから水陸両用機を飛ばして、紀州から東京へと往復させます。成功すれば東京のファンも関西へくるし、関西ファンも東京に遊覧がてら行きます。東京関西を直結することになりますから、準フランチャイズ地として東京を指定することは当然のことになります」 
 さらに大毎・永田雅一オーナーからは「パ・リーグはやればやるほど人気が出る」と150試合制の提唱もあった。 
 球場といえば『実現しそうな屋根つき球場』の記事も。1958年3月に会見があり、以前から何度か書いている日本テレビ主導の屋根付き球場構想である。このため世界建築界の鬼才と呼ばれたフーラー博士を呼んだらしい。ハワイに巨大音楽堂を完成させた実績があるという。 
 この時点でドーム球場の最大の課題は5万人の観客が入った場合の熱気。そのためドームにエントツをつけたり、空気のスクリーンを作ったり……すいません、いろいろ書いてあったが、眉唾にしか思えませんでした。で、省略。 
 以下、宣伝。
 週べ60年記念シリーズ『巨人編』が好調発売中。次回、日本ハム編も佳境です。今回は巨人編に比べ、ややくだけた企画もあります。 
 では、またあした。<次回に続く> 
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③┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.350 ┃  50円
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1965(昭和40)年02月08日(月)号 新人研修制度が全廃へ?
 備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
 2018(平成30)年11月28日(水) 10:14 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 
◎金田正一、大はしゃぎ
 写真◆表紙は左が川上哲治、右上が阪神・藤本定義監督、下が東映・水原茂監督
 今回は『1965年2月8日号』。定価は50円だ。 
 1月20日から多摩川で巨人のキャンプがスタート。目玉は、国鉄から移籍の金田正一だが、だれかれとなくつかまえてジョークを飛ばし、ランニングでも先頭を切るなど、大張り切り、というより、大はしゃぎだった。 
 この時点で通算353勝ながら、まだ31歳。怪物だ。 
 B級10年選手に人的補償があったかどうかは定かではないが、巨人の左腕・七森由康投手が金田の見返りとして巨人入りする、という記事もあった。 
 1月19日には永田雅一パ・リーグ総裁が新人研修制度にあらためて反対宣言をした。 
「新人がどんなプレーをするかはファンの楽しみである。研修制度はファンの夢を踏みにじるものだ。営業を自分で妨害しているようなものだ」 
 東京はこの年、大型新人・山崎裕之を獲得。永田の気持ちは分かる。 
 翌日、パはオーナー会議で同制度の全廃を決めたが、セはあくまで実行委員会決定を待つ、となった。 
 この制度は63年に未成年者100試合、成年者50試合でスタートし、64年は72日間になっていた。 
 同案の推進役だった内村祐之コミッショナーがパの動きに嫌気がさし、4月30日の任期切れの後、続投はしないのではないか、ともある。 
 ドラフト制では、さまざまな意見が乱立しているが、基本的には新人のプール案と各チームの余剰戦力のドラフト(選抜会議)がセットになっていたようだ。 
 創立30年目を迎えた阪急には、62年阪神優勝のキーマンの一人、青田昇がヘッドコーチとなった。 
 西本幸雄監督は、 
「この人以外にヘッドコーチに迎える人はいなかった。長い月日を費やして選手を育てる人はほかにもいるかもしれないが、すぐ効果があがる人は、この人だけだ」 
 と獲得理由を説明した。 
 では、またあした。<次回に続く>
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 ①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180203-10
 ②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180324-11
 ③http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20181127-01
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①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.676 ┃  90円
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‡1971(昭和46)年02月08日(月)号 情熱のオーナー、永田雅一が涙の引退(前編)
 2020(令和二)年03月26日(木) 10:14 一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 
◎野球は本当に余技だったのか
 写真◆表紙は巨人・堀内恒夫
 今回は『1971年2月8日号』。定価は90円。まず、記事の冒頭をそのまま引用しよう。永田雅一氏、涙の引退、という記事だ。長い記事なので前後編とさせていただく。 
「メンツにこだわってはおれないんだ。キミ……」 
 永田雅一ロッテオーナーの目に光るものがあった。沈痛な面持ち……。いつも朗々たる永田オーナーの声色も、しめりがちだった。 
 永田オーナーの涙、東京球場で選手やファンにもみくちゃになりながら、メガネもとばしたそのオーナーの赤く興奮した頬に流れたうれし涙──それから三カ月あまり、この日の永田オーナーの涙は、あの喜びのそれと、まったく異質の、無念の、断腸の思いがつのったものだったろう。 
 語り続けるうちに激してくる永田オーナーの頬は、ときおりケイレンでもしたようにひくひくと脈打っている。会場にはオーナーの声だけで、それが途切れると、不気味なほど静まり返る。 
 永田オーナーの記者会見は、いつも陽気で、笑い声が絶えず、オーバーにいえば、夏祭りの趣があった。だが、この日の会見は一転して通夜の風情──。悲壮感がひしひしと、人の胸を打つようであった。 
 ──これは一月二十二日、東京・京橋の大映本社四階の会議室で行われた。 
「永田オーナーが、ロッテ・オリオンズの経営から手をひく」という、プロ野球界にとって大きくショックを与える声明を記者団に発表した日の表情である。 
 この日の記者会見は、その日の朝、A新聞が特に報じた「永田オーナー、身を引く」の記事がきっかけとなっての緊急会見だったが、午後1時の予定に10分遅れて会場に姿を現した永田オーナーは、まず、 
「誤解を招くといけないから率直に言う。真面目に聞いてもらいたい」 
 と釘を刺した。その声でやはり来るべきものがきた、という感じを記者団は感じた。 
 そしてオーナーは、記者団を前に、球団から身を引くことを説明した。 
「ここ数年、映画界は重大な危機に直面した。そのなかで大映もごたぶんにもれず、重大な危機を迎えている。 
 わたし自身、映画界で生まれ、映画界で死ぬというのが本当の心情だ。またそういう運命になるんだ。だから、このまま大映を捨てて球団につくということはできないんだ!」悲痛な声でそう言った。 
 昨年のいまごろ、大映は八十三億円の負債があった。これを会社の地所や本社も入れて五十五億円で売却した。そのまま赤字がなくなれば二十八億の負債で、なんとか立て直しの方策はつく。 
 しかし人件費、タレントのギャラアップなどで赤字は解消せず、逆に十三億の赤字。ついに合理的に編成し直さなくてはならないぎりぎりのところまで追い込まれたという。 
 過去、大映は球団に十五億のカネをつぎ込んでいるし、永田オーナー自身も、ここ二、三年に一億二千万円はつぎ込んだが、昨年優勝しても九千万円の赤字を抱え込んだというものである。 
 永田オーナーは、説明しながら、ときには目をつぶり、腕組みをして、激してくるものを抑えようとするのがいっそう悲壮感をただよわせたようであった。そして振り絞るような声で言った。 
「私は映画で死ぬ男だ。野球はやはり余技なのだ」だが、この言葉が本音だったのだろうか。では、またあした。<次回に続く>
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.677 ┃  90円
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1971(昭和46)年02月08日(月)号 情熱のオーナー、永田雅一が涙の引退(後編)
 2020(令和二)年03月27日(金) 10:14 一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 
◎野球をこよなく愛した男
 写真◆表紙は巨人・堀内恒夫
 今回は『1971年2月8日号』。定価は90円。前回の続きだ。
 ロッテの永田雅一オーナー(大映社長)が球団を手放すことを明らかにした。前日の記事と最後の部分が重複するが、ふたたび当時の記事を再録する。
 説明しながら、ときには目をつぶり、腕組みをして、激してくるものを抑えようとするのがいっそう悲壮感をただよわせたようであった。そして振り絞るような声で言った。 
「私は映画で死ぬ男だ。野球はやはり余技なのだ」 
 だが、この言葉が本音だったのだろうか(ここまでが前回)。 
「私の命の次は野球なのだ」と常々言っていた永田オーナーだ。 
 事実、これまで何度かの危機を自分のすべてをつぎ込んで、日本一になるまで、と頑張ってきた永田オーナーではないか。 
 選手もファンも、そして野球関係者も、永田オーナーが誰よりも球団経営に火のような情熱を傾けてきたのを知っている。 
 それだからこそ、昨年の優勝の際、ファンがわがことのように喜び、オーナーを胴上げし、ともに十年目のペナントに雀躍したのである。 
 そのオーナーが「やはり余技だった」と語ったのは、それこそ血の叫びであっただろう。決して本音ではなかったろう──。 
 野球ファンは皆そう思っているに違いない。それだけに永田オーナーが、そこまで追い込まれた苦境がひしひしと胸を打つのである。 
 その後、今後の方策について後述のように語ったが、そのなかで永田オーナーは精いっぱいの抵抗をのぞかせていた。 
「資本の肩代わりであって、これでまったく私はオリオンズと赤の他人になるのではない。できればロッテに全面的にやってほしい。赤の他人に渡すことだけは絶対にしたくない」 
 手離す、などの表現はいっさい使わず、終始「肩代わり」と言い続けたのは、情熱のオーナーの血のにじむようなオリオンズへの愛情が盛り込まれているような気がしてならない。最後にオーナーは、 
「球団も選手も、心配することはない。オリオンズは消えはしない。アメリカ・キャンプに、気持ちよく送り出したい。これからもよろしく」 
 そう言って、記者団に向かって深々と頭を下げた。 
 これが二十三年、オリオンズのオーナーとして、また球界のリーダーとしての永田雅一の最後の言葉なのだろうか。 
 これほど野球を愛し、またファンからもこよなく愛された永田オーナーのラッパはもう聞かれないのだろうか。 
 これまで資金は出しつつ「野球には素人だし、球団を経営する気は毛頭ない」と言っていた重光武雄ロッテ社長だが、その後、 
「本意ではないが、私がするしかないでしょう」と語った。後任オーナーには中村長芳が就いた。 
 最後、この話とは関係ないが、老婆心ながら付記する。 
 東京は週末の外出自粛など出ていますが、海外の状況を見ても、逆に運動不足、栄養の偏り、ストレス過多での重症化リスクのほうが高いように思います。 
 過度の自粛でストレスをためないよう、お体に気をつけ、お過ごしください。 
 では、また月曜に。<次回に続く> 
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③┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.678 ┃  90円
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1971(昭和46)年02月08日(月)号 ヤクルト・荒川堯の処分は1カ月の出場辞退に
 2020(令和二)年03月30日(月) 10:14 一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 
◎野球選手は記録、と張本勲が主張
 写真◆表紙は巨人・堀内恒夫
 今回は『1971年2月8日号』。定価は90円。  
 ロッテ・永田雅一オーナー退陣で2回やったが、もう1回分、同じ号から書く。 
 大騒動の末、大洋から移籍したヤクルトの新人?・荒川堯が、1月20日、神宮の自主トレに初参加した。 
「とにかく1日も早く決着がついてほしい」 
 と荒川が話していたのは制裁処分の内容だ。セ・リーグの理事会で出場停止を骨子にする処分を下すことだけは決まっていたが、この時点では細かい部分の決定はまだだった。 
 松園オーナーは、鈴木龍二セ会長の説得にもかかわらず、荒川と契約。 
「法が決めるすれすれのところまでやって、トレードを実現させた。そうまでしなくてはファンに不振挽回の責任が果たせたとは言えない」と話していた。 
 鈴木会長もこうなればと思ったのか、その後はヤクルトに協力し、宮沢コミッショナー委員長が主張した「1年間の出場辞退勧告」を「公式戦1カ月出場辞退」に譲歩させた。 
 ただ、次に波紋を起こしたのは父親だ。巨人を退団した荒川博が2月1日からの湯之元キャンプで、息子の指導をしたい、と要求してきた。 
 とんでもないとは思うが、三原脩監督は中西太ヘッドコーチに、 
「堯君のことは荒川に任せない。彼の打撃に手を出さないように」と言っていた。 
 そのほうが荒川のためにいいと思ったのか、あるいは話題づくりにちょうどいいと思ったのか。この人の考えは、いつも読みづらい。 
 日本最高の打率.3834をマークした東映・張本勲が契約でもめていた。 
 球団の提示は13パーセントアップの1900万円。「昨年に関する限り、ワシはノー文句の成績を残したはずだ。悪くても30パーセントは」という張本に球団代表は、 
「君くらいの年俸になると数字は問題じゃない」と言い、張本は、 
「冗談じゃない。野球選手は記録で生きているんだ。その言い分には納得できん」と頑なになったらしい。 
 呑気な話も1つ書いておこう。
 東映のカールトン半田コーチに自ら電話をかけて売り込んできた22歳のエドモンド青年の話だ。 
「自分はアメリカのアマチュアでピッチャーをやっていた。兵役も終わったし、ぜひフライヤーズで頑張りたい。テストしてくれ」ということだった。 
 兵役中に出会った日本人女性と結婚し、日本で暮らすことにしたが、仕事がない、好きな野球でもやるか、ということらしい。 
 左腕と聞いて興味を持った半田コーチが多摩川に呼んだが、投げさせてみると、球がホームベースに届かず、3日でクビ。 
 エドモンド青年、「まだ寒いから筋肉があったまっていないだけ。もったいないと思うんだがな」と捨て台詞を残し、去っていった。 
 では、またあした。<次回に続く> 
 備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
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 達川に“見える魔球”と呼ばれた小林誠二のパームボール
‡2018(平成30)年2月8日(木) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。 
 習得には紆余曲折
 パームを自在に操った小林
「あれは消える魔球じゃない。見える魔球じゃな」
 広島の名物捕手・達川光男の言葉だ。小林誠二のパームボールをさした言葉である。スライダーのように高速から鋭く変化する“消える系”ではなく、遅いが大きく変化し、タイミングが取りづらい“見える系”というわけだ。 
 ただ、習得はかなり紆余曲折がある。もともとはオーバースロー。76年に広島入団も、肩を痛めたこともあって登板機会に恵まれず81年西武へ。ここでサイドスローに変え、落ちる球が欲しかったので、普通はオーバースローの変化球なのだが、パームを習得。開花の兆しを見せた。 
 広島に復帰した84年がキャリアハイだ。パームも西武時代のように低めに集める意識だけでなく、左右に投げ分けることができるようになり、この年は全投球の3割、終盤には4割近く投げた。 
 同年はリーグ優勝に貢献し、主に抑えながら最優秀防御率。V決定試合にはプロ初の完投勝利で胴上げ投手となった。ただ、パームの多投がヒジに負担をかけ、まず速球の威力が落ちた。それが結果的に“緩”のパームの効果を軽減させ、88年限りで引退となる。 
 小林誠二 
 1958(昭和33)年1月22日(水)生まれ。広島工高からドラフト4位で
 1976(昭和51)年広島入団。
 1981(昭和56)年西武に移籍して登板機会を増やした。広島に復帰した
 1984(昭和59)年には主に抑えながら最優秀防御率に輝く。
 1988(昭和63)年限りで現役引退。主なタイトルは最優秀防御率1回。通算成績222試合登板、29勝15敗20セーブ、防御率3.70
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