『その永遠の一秒に~The Moment Of The Moment~』
‡1993(平成五)年09月06日(mon) released
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%B0%B8%E9%81%A0%E3%81%AE%E4%B8%80%E7%A7%92%E3%81%AB
┏━━━━━━━━━━┓
┃ 衣谷遊(池本裕治) ┃1962(昭和37)年
┗━━━━━━━━━━┛日本の漫画家。愛媛県北宇和郡松野町出身
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%A3%E8%B0%B7%E9%81%8A
https://renta.papy.co.jp/renta/sc/frm/search?author=%B0%E1%C3%AB%CD%B7
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┃『その永遠の一秒に~The Moment Of The Moment~』┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
‡1993(平成五)年09月06日(月) released
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%B0%B8%E9%81%A0%E3%81%AE%E4%B8%80%E7%A7%92%E3%81%AB
♪こんな気持ちのまま♪
省略
君に電話していつものように
踊って食事して
たわいない話して
9時になる前に
君を家まで
送って行くそんなお決まりのデートメニュー
省略
君に会うまでは
土曜の夜は
独り新宿辺り
朝まで飲んでいたよ
君を失くしたら
またあの頃の何もない空っぽな毎日に戻りそう
もう少しだけこのまま君
踊ってお呉
せめて心は固まるまで
※省略箇所は、アルバムの歌詞 or 歌詞ネットを検索して呉ヨ(=^◇^=)O♂
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┃『The Moonlight Cats Radio Show Vol.1』┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
‡2017(平成29)年09月06日(水) \1,574+税 SECL-2038
1. ♪Soulful Strut♪(Instrumental)
2. ♪My Cherie Amour♪
3. ♪Mercy, Mercy, Mercy♪
4. ♪You've Really Got a Hold on Me♪
5. ♪Will You Still Love Me Tomorrow♪
6. ♪What's Going on♪
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃『The Moonlight Cats Radio Show Vol.2』┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
‡2017(平成29)年09月06日(水) \1,574+税 SECL-2039
1. ♪The in Crowd♪(Instrumental)
2. ♪My Girl♪
3. ♪The Supremes Medley♪
4. ♪Crazy Love♪
5. ♪This Boy♪
6. ♪Ain't No Mountain High Enough♪
Written by 古矢 徹―― ラジオから聴こえてきたヒットチューン。一瞬で恋に落ちたあの日――。浜田省吾とツアーバンドメンバーによるカバーミニアルバム、2枚同時発売。 2015年に発表した『Journey of a Songwriter ~ 旅するソングライター』がオリコン週間アルバムチャート初登場1位を獲得(5/11付・オリコン調べ)。オリジナルアルバムとしては『青空の扉』以来久々の1位で、18年半ぶりの首位獲得というインターバルはそれまでの記録を抜き歴代1位、さらに2週連続1位獲得(5/18付・オリコン調べ)という快挙も成し遂げ、シングル・アルバムを通じての最年長記録も更新した。その浜田省吾が、ソロデビューから41年目にして自身初となる洋楽カバーのアルバムを制作した。マーヴィン・ゲイ、スティーヴィー・ワンダーなどモータウン系のR&Bを中心に、ビートルズ、キャロル・キング、さらにはラムゼイ・ルイス・トリオのインストゥルメンタルナンバーなど選曲は幅広いが、共通しているのは浜田が少年時代によく聴き、大好きだった曲ということだ。アルバムタイトルは『The Moonlight Cats Radio Show』。1960年代から1970年代初期、ラジオで聴いた海の向こうのヒットチューンの数々。テンプテーションズ「My Girl」、ビートルズのカバーでも知られるスモーキー・ロビンソン&ミラクルズ「You’ve Really Got a Hold on Me」……あの頃夢中になったギターやピアノの印象的なフレーズが次々に奏でられ、自分の心のどこかにもその音がずっと鳴り続けていたと気づかされる。一方、たとえば「My Girl」には、恋人ではなく娘=子どもたちを思う歌と解釈することで原曲とは違った輝きを与えるなど(もちろん歌詞は原曲のまま歌われているのだが)、懐かしさと新しさの加減が絶妙なカバーアルバムでもある。圧巻はマーヴィン・ゲイ「What’s Going on」。邦盤シングルのタイトルは「愛のゆくえ」だった。心地よいサウンドに乗る甘いメロディーとボーカルが、実は「あまりにも多くの人々が(ベトナム戦争で)死んでいる」と静かに叫んでいると知るのは、少し歳を重ねてからだっただろう。モータウンに新たな“ソウル(魂)”を込めたその曲の浜田省吾バージョンは、カバーを聴くことの面白さが短いイントロからいきなり炸裂している。オリジナルのサウンドを特徴づけているゆるいグルーヴをさらに強調した、エレクトリックギターのローコードのストローク!表面上はクールでありながら、胸のうちで何かが燃えているのを強く感じさせる浜田省吾の歌声。「難しい歌なので、最初は自分にこの曲が歌えるだろうかと思った」という、キャリア40年を越えたボーカリストのものとは思えない言葉には、少年の頃聴いた愛する曲への敬意と畏れが表れているのと同時に、名曲のカバーを新鮮に響かせる浜田省吾の歌のマジックの一端が垣間見える。浜田省吾とモータウンとの関係については、伊藤銀次が以前こんなことを語ったこともある。「僕は発見した! どっちかっていうとシンガーソングライターのイメージがあったんだけど、浜田さんのルーツはモータウンなんですよ。70年代の浜田さんのレコードを聴くと、体に入っているものがメロディーの端々に自然に出ている」1997年のアルバム『初夏の頃』にサウンドプロデューサーとして参加したときのものだ。本作品のアーティスト名は、Shogo Hamada & The J.S. Inspirations。The J.S. Inspirationsは、『Journey of a Songwriter ? 旅するソングライター』の収録曲をすべて歌った2015年のツアーから行動をともにするバンドに、新たにつけられた名前である。原曲の、特に後半部分に顕著なあやしい煙に包まれたようなざわめき(!)を、トランペット、エレクトリックギター、サックス、バッキングボーカルのメロウなバトルに生まれ変わらせた「What’s Going on」など、素晴らしいプレイを聴かせてくれるメンバーは小田原豊(Ds)、美久月千晴(Bs)、河内肇(Pf)、福田裕彦(Key)、町支寛二(Gt&Vo)、長田進(Gt)、古村敏比古(Sax)、清岡太郎(Tb)、佐々木史郎(Tp)、竹内宏美(Vo)、中嶋ユキノ(Vo)、そして浜田省吾(Vo)。各曲のサウンドプロデュースをそれぞれが担当、曲によってはバンドメンバーもメインボーカルをとるというスタイルは「バンドの雰囲気がよくて、2015年のツアーがすごく楽しかったので、一緒に作品を残したかった」という浜田省吾の意向を反映したものだ。浜田と同じくラジオから流れる海外のヒットチューンに夢中になった世代もいれば、「懐かしいというより新しさのほうが強い」と語る世代もいるメンバー。本作を聴くリスナーも、さまざまな世代にわたるのだろう。コーマック・マッカーシーという作家のピュリッツァー賞受賞作『ザ・ロード』(2009年に映画化もされた)に“火を運ぶ”というキーワードが登場する。荒れ果てた世界に残されたわずかな人々が、絶望とわずかな希望の中、未来のために“火を運ぶ”。“火”は人類が得た生命の糧を意味しつつ、核兵器などの隠喩でもある。カバーとは、ミュージシャンからミュージシャンへ、国から国へ、世代から世代へ、歌という“火”を運ぶ行為ともいえる。Shogo Hamada & The J.S. Inspirationsの「What’s Going on」、そしてアルバム『The Moonlight Cats Radio Show』が2017年の世界にどう運ばれ、どう届くのか。もしかしたら僕たちは、とても近い将来、驚きと喜びでこうつぶやくのかもしれない。……いったい何が起こっているんだ?
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http://www.sonymusic.co.jp/Music/Info/ShogoHamada/Cats/
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90 : J.BOΦWY
2017/01/03(火) 00:01:22.98 ID:rxqAHOfN
浜田省吾の音楽があの歌に似ているとか?
メロディが一緒だとか言っていらっしゃいますが???
それは、オマージュですヨ(=^◇^=)
オマージュ(仏: hommage)は、芸術や文学においては、
尊敬する作家や作品に影響を受けて、
似たような作品を創作する事。
また必ずしも似た表現や表象がある必要はなく
作品のモチーフを過去作品に求めることを指す
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A5
パクリじゃぁなんじゃあかんじゃあ抜かしてる奴等に惑わされることなく
浜田省吾の音楽を好きで愛し聴き続けるのか?
浜田省吾の音楽を聴くのをドロップアウトするのか?
それはあなた次第です!?
㊦↓に浜田省吾が初恋の島でザ・ビートルズの恋した時から影響されたサウンドを
たくさん詰め込んでいますので、聴いてみれば
“パクリ”と“オマージュ”の境界線上の違いをアリアリと実感できます?ヨ(=^◇^=)ゞ
https://www.youtube.com/playlist?list=PLmQIzKRWaBRUTjPgDMJ4O7gyqMAR7hVG6
“パクリ”と“オマージュ”の境界線(上のアリア)とは?
http://www.oricon.co.jp/news/2049239/full/
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/musicjm/1483162281/l50
最も参考になったカスタマーレビュー ⇒ 42人中、40人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。22:49 2015/10/06(tue) 浜田省吾の、ひとつの頂点がここにある。投稿者 カスタマー 投稿日 2005/6/30 特筆すべきは、やはりラストを締めくくる<初秋>に尽きるだろう。この曲での表現は、浜田省吾というアーティストの視点がその全ての作品群のなかに於いても、これ以上ないほどに研ぎ澄まされた、結晶ともいうべき表現をしているのだ。どこかの紛争地。戦火に巻き込まれた愛する女性を抱き締めて泣き崩れる男の姿を、主人公がブラウン管越しに目にしたところから物語は始まる。そのTVニュースを眺めながら、彼は人を愛するということが、その喜びの裏に、その大きさと同じだけの"失う痛み"を隠し持つのだ、ということをリアルに感じてしまうのだ。そして主人公は大切な誰かに対して、だからこそ『僕の名を呼ぶ声も、僕の手に触れるぬくもりも儚くて愛おしい』と強く感じるに至る。あなたに問う。愛する人を"死"がいつか必ず奪ってゆくという現実、それを意識したことはあるだろうか?いつの間にか流れてゆく日常のなかで、あなたの妻が、夫が、恋人が、なんとなく永遠にいるような気がしているのではないだろうか?だとしたならば、ほんの一瞬でいい、この歌を聴いて考えてみて欲しい。曲の内容自体はフィクションだが、この曲には浜田省吾という生身の一人の男が出した偽らざる答えがある。単なる「愛」という言葉を越えて「死と生」にまで昇華させたそのメッセージは、すでにラブソングというには大きく深すぎるかもしれない。まさに究極のラブソングという名にふさわしい。確かに、決して、ヒットチャートを賑わすような、気軽に聴けるアルバムではない。でも、自分を投げ出しても惜しくないほどの『大切な誰か』がいる人には是非とも聴いて欲しい一枚だ。http://www.amazon.co.jp/dp/B00005G6M5
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%B0%B8%E9%81%A0%E3%81%AE%E4%B8%80%E7%A7%92%E3%81%AB
┏━━━━━━━━━━┓http://www.uta-net.com/song/8048/
┃ 横浜ベイブリッジ ┃1989(平成元)年9月27日(水) 開通
┗━━━━━━━━━━┛http://www.uta-net.com/song/6873/
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E6%B5%9C%E3%83%99%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%B8
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■1986(昭和61)年9月6日(土)曇り 京都二日間も無事に終わり今日は朝からラジオ局やイベンターの人達とゴルフ。昨日までは真夏の様に暑かったけれど今日は風も吹いていて気持ち良い。もっとも琵琶湖を見下せる山の上だったからかも…。終わってからは新幹線で新大阪まで行ってホテルにチェックインして一眠りした後、夢番地の善木さん達とタクシーで大阪城ホールへ向かう。プリンスのコンサートを見る為だ。シーラEの30~40分のステージの後、休憩をはさみプリンスが登場。思っていたイメージよりずっと健康的で音楽に真面目に取り組んでいる感じの素晴らしいエンターテインメントを見せてくれた。あれほど計算されて且つダイナミックな動きをバンド全員でやられたら俺のバンドは全く静止画像に見えてしまう。全員圧倒されたまま、雰囲気のある洋食屋で少し遅い夕食をする。とても充実した一日だった。
http://shogo.r-s.co.jp/fanclub/backnumber/backnumber019.html
『The Moonlight Cats Radio Show Vol.1』
『The Moonlight Cats Radio Show Vol.2』
‡2017(平成29)年9月6日(水)リリース
https://www.amazon.co.jp/dp/B074K68298
https://music.amazon.co.jp/albums/B0756D4XFD
https://music.amazon.co.jp/albums/B0756D675T
http://shogo.r-s.co.jp/disco/album33.html
『その永遠の一秒に ~The moment of the moment~』
‡1993(平成五)年9月6日(月) released SRCL-2685
01 境界線上のアリア
02 傷だらけの欲望
03 最後のキス
04 悲しみ深すぎて
05 ベイ・ブリッジ・セレナーデ
06 こんな気持のまま
07 星の指輪
08 裸の王達
09 初秋
ロサンゼルスでトラック・ダウンをしてきました。ミキサーのトム・ロード・アレジも、アシスタントのデイブも若い世代だから冗談ばかり言ってるんだけど、「俺たちはお世辞は言わないけどよー、ものすごい曲がいい」って(笑)。音もいいし、持ってきてくれた段階でチャンネルもすごい整理されてるし、やっててすごい楽しい、やりやすいって言ってくれたんです。「アメリカの音楽をルーツにした音楽をやってるけど、(日本語なので)言葉は全然わからないだろう?どんな感じがする?」って聞いたら、「確かに言葉はわからないけど、ものすごく個性がある」って。
アメリカの音楽をベースにしているけど、どこかちょっと、フレーズやコード進行が微妙に少しずつ違うと。でも、実はそういうことは全然気にしていない。日本っていう極東の国に住んでいてロック・ミュージックをやってることへの複雑な思い――『FATHER'S SON』や『J.BOY』のときに「それが俺なんだ」、「それが血なんだ」って割り切った部分があるから、今は俺もそんなにこだわってはいないけど――そういうものは彼らにとっては、不思議だという感覚さえない。とにかく曲がいい、それだけで充分楽しめちゃうっていう感じ。基本的に今回は、俺と星勝さんと梁(邦彦)くんとの3人で注文を出すんですが、一度にいろんな人がミキサーに言うとスムーズにいかないので、スタジオでいちばん最初に言ったことは、「俺たちはいちばん最年長の星さんを通して、意見をまとめて言うから」ということでした。曲によっては70数チャンネルとか、けっこうたくさん音が入っていて――それを整理するのがトラック・ダウンの仕事ですが――俺たちも「どうやって整理していくのか、見ものだな」って思ってたんだけど、最初のラフ・ミックスの段階で、我々が期待しているよりもはるかに上のものが、すでに出来上がってくるんです。自分たちが想像している以上のアイデアが入ってきて、うれしくなっちゃいました。
https://shogo.r-s.co.jp/disco/album18.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/その永遠の一秒に
https://www.amazon.co.jp/dp/B00005G6M5
┏━━━━━━━━━━━━━┓┌─――――――――――――┐ROBERT B. PARKER 7作目
┃ 『EARLY AUTUMN 初秋』 ┃|1980(昭和55)年X月X日(X)|アメリカ出版
┗━━━━━━━━━━━━━┛|1982(昭和57)年X月X日(X)|日 本出版 菊池光 早川書房
└─――――――――――――┘
美K日本では、第7作『初秋 Early Autumn』で数多くのファンを獲得したと言われているヨ(=^◇^=)
映像◆♪初秋♪'93 PV https://youtu.be/mmC4AhJO5PQ
************************** http://www.uta-net.com/song/5127/
https://en.wikipedia.org/wiki/Early_Autumn_(Robert_B._Parker_novel)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%9D%E7%A7%8B_(%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%A0)
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24.帰れない帰さないanothervirsion 19XX.XX.XX
http://www.flashandshadow.com/shogo/el/i_el_19.html
http://www.flashandshadow.com/shogo/el/i_el_index.html
こんな気持ちのまま
帰れない…
帰せない…
君に電話して
いつものように
踊って
食事して
たわいない話しして
9時になる前に
君を家まで送ってゆく
そんなお決まりのデート・メニュー
もう待てないと言ったら
君 どうするの?
ついて来るかい?
今夜 僕に
こんな気持ちのまま
帰れない… 帰せない…
君に会うまでは
土曜の夜は
ひとりおんぼろ車
朝まで飛ばしてたよ
君をなくしたらまたあの頃の
何もない空っぽな毎日に戻りそう
もう少しだけ
踊っておくれ
せめて心あたたまるまで
こんな気持ちのまま
帰れない 帰せない…
こんな気持ちのまま
帰れない 帰せない…
8月25日デビュー!ピンク・レディーはテレビ黄金期が生んだ “はじめての味覚”
2022(令和四)年8月25日(木) 06:00『Re:minder』配信
1977(昭和52)年12月05日(月) ピンク・レディーのベストアルバム「ベスト・ヒット・アルバム」がリリースされた日
■ピンク・レディーがデビュー! キャッチフレーズは“はじめての味覚(あじ)”
♪ペッパー警部 邪魔をしないで
ペッパー警部 私たちこれからいいところ♪
抜群のハーモニーとリズム感を持つミイとケイがピンク・レディーとしてデビューしたのは
1976(昭和51)年8月25日(水)のこと。キャッチフレーズの “はじめての味覚(あじ)” には「誰もやっていないことをしよう」というスタッフの想いが込められていた。事実、デビュー曲の「ペッパー警部」は歌謡曲としては斬新なブラスロック調のソウルフルなサウンド。大胆なミニスカートや、ディスコダンスをベースにした振り付けにも十分なインパクトがあった。
‡1976(昭和51)年9月6日(月)付けのオリコンで99位に初登場した「ペッパー警部」は翌週100位圏外に落ちたのち78位に再浮上。以後、着実にランクを上げ、10月25日付で48位と初めて左ページ(1~50位)に入る。
1976(昭和51)年10月14日(木)の新宿音楽祭からプロジェクトに参加したデザイナーの野口よう子(当時は “野口庸子”)は「ミニで光り物がついているものを」という事務所からの注文を受けてスパンコールを多用した衣装を制作。デビュー時はテニスウェア風のシンプルなミニスカートだったが、ここからキラキラした華やかなステージ衣装がピンク・レディーのトレードマークとなる。同音楽祭で銀賞を受賞した2人は
1976(昭和51)年11月16日(火)の日本歌謡大賞で新人賞7組の一角に食い込み、
1976(昭和51)年11月19日(金)の日本レコード大賞でも新人賞5組に選ばれる。上昇気流に乗った「ペッパー警部」は
1976(昭和51)年11月29日(月)付けのオリコンで初のトップ10入り(8位)、翌年
1977(昭和52)年1月17日(月)付けではセカンドシングル「S・O・S」との2曲同時トップ10入りも達成する。
■ 第7回日本歌謡大賞新人賞受賞者
朝田のぼる / 白いスカーフ(40位)
角川博 / 嘘でもいいの(38位)
内藤やす子 / 想い出ぼろぼろ(9位)※放送音楽新人賞受賞
新沼謙治 / 嫁に来ないか(31位)※放送音楽新人賞受賞
ピンク・レディー / ペッパー警部(29位)
三木聖子 / まちぶせ(47位)
吉田真梨 / 水色の星(39位)
▼第18回日本レコード大賞新人賞受賞者
芦川よしみ / 雪ごもり(100位圏外)
角川博 / 嘘でもいいの
内藤やす子 / 想い出ぼろぼろ ※最優秀新人賞受賞
新沼謙治 / 嫁に来ないか
ピンク・レディー / ペッパー警部
(注)カッコ内は出場時点でのオリコン最高位
筆者は当時小学生だったが、この秋から冬にかけての空気の変化は今でもよく憶えている。まず新しもの好きの男子が「ペッパー警部」の股開きステップを面白おかしく真似して笑いをとり、やがて女子が休み時間のたびにミイとケイのパートを決めて、お互いの振りをチェックしながら歌い始めたのだ。それまでも教室でヒデキやキャンディーズの振り付けの一部を真似することはあった。が、あちこちでペアになった2人がフルで歌い踊る、そんな光景は“はじめて”だった。
■吹き荒れたピンク・タイフーン、大スターになったポイントとは?■年が明けた1977年、ピンク・タイフーンはさらに吹き荒れた。
1977(昭和52)年2月14日付けオリコンで「S・O・S」が初の1位を獲得すると、3月には単月で35本のテレビ番組に出演。瞬く間に時代の寵児となった2人は「邪魔をしないで」「私たち これからいいところ」とばかり、歌謡界の記録を次々と塗り替えていく。以下、オリコンでの快進撃ぶりを振り返ろう。
1977年9月:天地真理を抜いてシングル4作連続1位(最終的には9作)
1977年11月:天地真理・小柳ルミ子を抜いて通算24週目のシングル1位を獲得(最終的には63週)
1978年2月:史上初のシングル2作連続ミリオン(最終的には5作)
1978年12月:史上初のシングル年間トップ3を独占
1979年4月:史上初のシングルセールス1000万枚突破
■「スター誕生!」でスカウトの札を上げた相馬一比古と飯田久彦の情熱■ピンク・レディーがここまでの大スターになれたのはなぜか。筆者は5つのキーポイントがあったからだと考えている。まずは『スター誕生!』(日本テレビ系)でミイとケイにスカウトの札を挙げた2人の人物の情熱である。その2人とは、所属事務所・T&Cミュージック(スカウト時点では“アクト・ワン・エンタープライズ”)の制作プロデューサーだった相馬一比古と、所属レコード会社・ビクター音楽産業(現JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)のディレクターだった飯田久彦――。相馬は芸映でいしだあゆみ、西城秀樹、浅田美代子らを手がけた敏腕マネージャーで、スカウト直後の面談で「君たちをアメリカのショービジネスで勝負させたい」と、いきなり大きな夢を語ったという。一方の飯田は60年代に「ルイジアナ・ママ」などのカバーポップスでヒットを飛ばした元歌手で、1972年にディレクターに転身。このときは「ザ・ピーナッツのような、歌って踊れるデュオを作りたい」との想いで札を挙げる。ビクター社内では同じ決戦大会に出場していた清水由貴子を推す声が圧倒的だったが、それを抑え込んでのスカウトだった。洋楽志向で、歌って踊れるエンターテイナーを自分の手で育てたいという男たちに見込まれたからこそピンク・レディーは誕生したというわけだ。
■阿久悠、都倉俊一、土居甫、野口よう子… 終結した気鋭のクリエイターたち■第2のポイントは進取の気性に富んだ気鋭のクリエイターたちが集結したこと。メンバーは作詞家の阿久悠、作曲家・編曲家の都倉俊一、振付師の土居甫、ファッションデザイナーの野口よう子だ。企画の中心となった阿久は山本リンダ、フィンガー5に次ぐ“絵空事路線”を設定。先にタイトルとコンセプトを決め、それをもとに都倉が作ったメロディに詞をはめていく手法で多くの楽曲が制作されていく。阿久・都倉のアクトクコンビが生み出した“3分間のアニメーション”の世界観を振り付けと衣装でさらに増幅したのが土居と野口であった。
■ミイとケイの向上心■第3のポイントはミイとケイのポテンシャルと向上心だ。2人はもともと地元静岡のヤマハで2年以上、ソウルフルな曲をミニスカートにブーツ姿で踊りながら歌っていた実力派。『スタ誕』でフォーク調の「部屋を出て下さい」を歌ったのは、その方が純朴に見られて、合格する可能性が高まるだろうという計算の上でのことだった。それゆえ一時はフォークデュオとして売り出される可能性もあったが、程なくして「ペッパー警部」とB面の「乾杯お嬢さん」が完成。いずれもダンサブルな楽曲で、2人が望む路線でデビューすることが決定する。当時は一部で「こんな風に変えられちゃって可哀想」と見る向きもあったが、本人たちはノリノリ。『スタ誕』合格からわずか半年後にデビューすることができたのは、彼女たちにそういう曲を歌いこなせる素養があったからに他ならない。またアイドルとしては遅めの18歳でのデビューというのも結果的にはよかった。高校卒業を間近に控えた『スタ誕』出場まで、進学も就職も決まっていなかった2人は「もう後がない」状態。ラストチャンスでようやくプロになれたことが「歌い続けていくためにはどんなことも乗り越えていく」という強い想いに結びつく。睡眠1~2時間の殺人的なスケジュールに追われながら全米進出を果たすまでに成長したのは、あくなき向上心があったからに違いない。さらにもう1つ、18歳でのデビューは、阿久が仕組んだ「カラリとしたお色気路線」を体現するにもちょうどいい年齢だった。
■新興事務所が可能にした慣例にとらわれない冒険■第4のポイントは新興事務所の所属だったことが挙げられる。T&Cミュージックは脱サラした証券マンと生保マンが1976年4月に設立したばかりの新会社。制作部長に就任した相馬以外は芸能界での実績がないメンバーだったが、それが業界の慣例にとらわれない冒険を可能とする。「君たちをアメリカのショービジネスで勝負させたい」という相馬の夢が短期間で叶ったのはT&Cがベンチャー企業だったからといえるだろう。
■ビクターに他にいなかった有力新人■そして第5のポイントは1976年のビクターに有力新人がいなかったことである。1972年の麻丘めぐみ以来、桜田淳子、西川峰子、岩崎宏美…と、毎年日本レコード大賞の新人賞5枠に新人を送り込んできたビクターだが、1976年はその席がぽっかりと空いていた。当時の宣伝マンの証言によると、当初の宣伝費はピンク・レディーと同じ日にデビューした女性5人組のフラワーキッスの方が多かったらしいが(それほど2人が期待されていなかったという証しでもある)、「ペッパー警部」が動き始めたことでイチオシに昇格。暮れの音楽祭に向けてプロモーションが加速していく。「歴史にIFはない」と言うが、もし8月以前にビクターからデビューした新人がそこそこのヒットを記録していたら、ピンク・レディーが新人賞レースに参戦する余地はなかったであろう。それはともかく――。この5つのキーポイントで国民的アイドルに上り詰めたピンク・レディーを、筆者はテレビの黄金期が生んだ最強のスターだと捉えている。まずは時代背景を確認しておこう。
■カラーテレビの急速な普及と視聴環境■1973年に白黒テレビを抜いたカラーテレビの世帯普及率は彼女たちがデビューした1976年に93.7%に到達。家庭用ビデオの調査が始まるのはその2年後で(1978年の世帯普及率はわずか1.3%)、テレビはリアルタイムで視聴するものだった。当時の番組表を見ると、30分もしくは1時間枠が基本で、今のように長尺のバラエティは皆無。歌謡界が元気だった時代性を反映して、プライムタイム(19時~23時)の歌番組は週に10本、歌のコーナーがあるバラエティも週に8本放送されていた(1976年時点)。現在は『CDTVライブ!ライブ!』(TBS系)、『SONGS』(NHK総合)、『ミュージックステーション』(テレビ朝日系)の3本しかないことを考えると隔世の感がある。カラーテレビの普及で華やかなステージや衣装がより楽しめるようになったことも大きく、年末の音楽番組は軒並み高視聴率を獲得。各局が自社主催の音楽祭を開催し、いわゆる賞レースがいちばん盛り上がったのは70年代後半だった。その頂点はジュリーが「勝手にしやがれ」、ピンク・レディーが「ウォンテッド(指名手配)」でグランプリを目指した1977年だったと言えるだろう。
▼2大音楽祭の歴代視聴率トップ5
・日本レコード大賞
1位:1977年 50.8%
2位:1972年 46.5%
3位:1974年 45.7%
4位:1973年 44.1%
5位:1979年 43.3%
・日本歌謡大賞
1位:1973年 47.4%
2位:1977年 46.3%
3位:1974年 45.3%
4位:1976年 41.8%
5位:1980年 40.1%
■広告費でテレビが新聞を抜いた! 初代CM女王はピンク・レディー■ブラウン管時代のテレビは画角が「4:3」だったため、一度に映すのは2人が精いっぱい。それまでのアイドルは動きの少ない手振りが主流だったが、本格的なダンスを見せたピンク・レディーは “引き” で撮られることも多かったため、ミイとケイはなるべく距離を開けず、カメラに収まるようにしていたという。ピンク・レディーの場合、ラメやスパンコールをふんだんに使った煌びやかな衣装もカラーテレビ向きだった。デザイナーの野口は新宿音楽祭で初めて衣装を手がけたとき、ステージではキラキラして見えたのに、テレビでは黒にしか見えなくてショックを受けたと述懐しているが、その後は工夫を重ねたのだろう。新曲が出るたびに様々な色違いを用意して、「今日はどんな衣装だろう」という興味を引き付けていく。事務所によると、1977~1978年は年間300本以上のテレビ番組に出演したミイとケイ。多いときは週に5本のレギュラーや冠番組を抱えていたが、それと同じくらい凄まじかったのがCM出演だ。牛乳石鹸、松下電器、神州一味噌、雪印乳業、アサヒ玩具、日清食品、日本ハム、片倉工業、学習研究社、大日本除虫菊、日本コカ・コーラなど、名だたるスポンサーと契約。文字通り、テレビで観ない日はない活躍ぶりだった。ちなみに日本の広告費でテレビが新聞を抜いたのは1975年。カラーの普及でテレビの媒体力がさらに増したことの反映と見ていいだろう。ピンク・レディーはテレビが黄金期を迎えたときの初代CM女王だったのだ。
■ピンク・レディー45周年PLUSプロジェクト稼働中!動向から目を離すな!■そんな彼女たちの軌跡が丸ごと楽しめる、おいしいアルバムがつい先日、配信を開始した。
1977(昭和52)年12月5日(月)に発売され、累計でミリオンセラーとなった『ベスト・ヒット・アルバム』の収録曲に、その後リリースされたシングルA面を追加した全31曲の復刻盤だ。オリジナル盤はオリコンのLPチャートで11週連続の1位を記録し、1978年の年間1位も獲得。別バージョンの「UFO」や初期シングルのカップリング曲、ミイとケイのソロ曲も網羅している。今回の配信にあたっては最新のデジタル・リマスタリングを施し、96kHz/24bitのハイレゾ音源も同時リリース。さらにこの最新リマスターを使用した高音質SHM-CDのリイシュー盤も
2022(令和四)年9月21日(水)に発売される(内容は2003年の紙ジャケットCDと同じ)。今日でデビュー46周年を迎えたピンク・レディー。ビクターによると、今年から来年にかけて「ピンク・レディー45周年PLUS」プロジェクトとして様々な情報発信やリリースを予定しているという。モンスターデュオの動向に注目したい。
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ピンク・レディー「ペッパー警部」伝説の幕開けはスター誕生の合格からわずか半年!
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