過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日のBOΦWYだヨ(=^◇^=)

 BOφWY、1986年に高崎で収録した映像作品『BOφWY VIDEO』へ込めた秘密!?
 2021(令和三)年09月05日(日) 9:54 ふくりゅう音楽コンシェルジュ
 BOφWY photo by UNIVERSAL MUSIC JAPAN
 1986(昭和61)年07月02日(水)、まだ音楽アーティストがビデオ作品を気軽に販売できなかった映像カルチャー黎明期。BOOWYは初のビデオ作品『BOOWY VIDEO』をリリースした(※2021年9月1日、BOφWY 40周年を記念してBlu-rayにて復刻)。当時、1万円近い価格ながら販売はもちろん、ビデオショップによるレンタルや、ファンによるネットワークを通じての貸し借り、ダビングされた結果、インターネットなき時代にBOφWYは“映像ありきのクチコミ”によって全国でファンを増やし続けた。そのひとつのきっかけが本作だ。監督は、後のBOφWY映像作品でも知られる前嶋 輝(株式会社フィッツロイ代表取締役)。収録は、
‡1986(昭和61)年05月01日(木)に氷室京介(Vo)布袋寅泰(G,Cho)松井恒松(B)(※現在は松井常松)のお膝元、高崎市文化会館にて行われた。ツアー中であったが本公演のみ、映像収録が主目的であったため、2台のクレーンと5台のカメラと花道、そしてライヴ・レコーディングのために様々な機材が準備され、コンセプチュアルなイメージ映像を楽曲の合間に挟み込むことでバンドのニュー・ウェーブかつニュー・ロマンティックス世界観を具現化した。ステージ衣裳は、沢田研二などを手掛けたデザイナー早川タケジが担当。BOφWYのライヴを観てファンとなった早川は、限られた制作時間の中で当日に間に合わせたという。メンバーそれぞれのキャラクター性を活かしたデザインが興味深い。氷室が珍しく髪をおろしているのは、衣装に合わせてのアレンジだろう。オープニング「PROLOGUE」は、ライヴ・アルバム『"GIGS" JUST A HERO TOUR 1986』のものとは異なり、歓声の入っていないヴァージョンが収録されている。のちに、2015年にスタートした会員制アーカイブ・サイト『BOφWY HUNT』が新宿で主催したファンミーティングでも公開された布袋寅泰作編曲によるレア音源だ。そして何といっても本作の見所はオープニング「BAD FEELING」での氷室京介のシルエットだろう。バンドの“らしさ”を解き放つ象徴的なシルエットは、BOφWYによる発明だと思う。もっとも注目すべきは、ライヴパフォーマンスの完成度の高さだ。すでに、この時点で“BOOWYらしさ”は完成していた。当時25歳だった氷室京介による空間を支配するステージング、自由自在にサウンドを展開していくダンサブルな布袋寅泰の圧巻のプレイ、ビートを牽引する松井恒松と高橋まこと(Ds)による鉄壁のリズム隊の凄み。この映像に惚れ込み、楽器やバンドをはじめたバンドキッズは後を絶たない。さらに、松井恒松が自身が作詞した「LIKE A CHILD」演奏時にシンセサイザーDX7を駆使してシンセベースを引いている様にも注目だ。口にピックをくわえ、キャッチーなフレーズをプレイしている。『BOφWY VIDEO』でしか観れないシーンだ。監督の前嶋は語る「ツアーでのライブ映像収録だと客席が決まっているので、当時は機材も大きかったので撮影しづらかったんですよ。でも、高崎はライヴを撮影するための公演だったので、アングルにこだわってカメラを設置できました。花道を作ってもらったり、セットも細かくこだわったり、ちょっと通常のツアーとは違うんですよね。やっぱり、カメラをいろんな角度で置けるのがよかったんです。せっかくビデオのためのライヴだから、普段では撮れないアングルで撮影してみようってコンセプトだったと思いますね、たしか。」(※BOOWY HUNT『BOφWY STORY ARCHIVE』より)。ステージセットにも着目したい。退廃的なSF映画『ブレードランナー』を彷彿とさせるディストピアな近未来的イメージ。25都市全37公演となったBOφWYを全国区に押し上げたツアー『JUST A HERO TOUR』でも同セットが全国を巡った。なお、ライブ映像にインサートされるシングル「わがままジュリエット」のミュージックビデオで印象的な洋館は駒沢で撮影されたという。富士の樹海へとトラック走らせ、落ち葉や木々を拾って館内に敷きつめた。「ミス・ミステリー・レディ」、「JUST A HERO」にも、「わがままジュリエット」に登場する“Lady”が出演しているのも興味深い。洋館にて封印された書物を読むことで、稲妻が鳴り響き、少女が包帯巻きになるヴィジュアルなど、後のサブカルチャーに大きな影響を与えたフェチな演出が時代性をあらわしてる。ここで、BOφWYがロックバンド史に名を残し、伝説たる所以となった1986年7月2日に行われた日本武道館ライヴ『JUST A HERO TOUR』について触れなければならない。氷室による「ライヴハウス武道館へようこそ!」のMCによって一般音楽ファンにも語り継がれる歴史的公演は、当時テレビ放送され、ファンに待望されているにも関わらずビデオやDVD、Blu-rayなど映像販売が未だ企画されていない。バンドは、ツアー『JUST A HERO TOUR』を大切なライヴと捉えていたゆえに、ターニングポイントとなる日本武道館での公演日
 1986(昭和61)年07月02日(水)に敢えて『BOφWY VIDEO』を全国発売したのだろう。未来永劫残る”1986年のBOφWY”を映像収録するにあたり、彼らは日本武道館の場ではなくルーツである高崎市文化会館を選んだのだ。ゆえに日本武道館公演を記録したライヴ盤『"GIGS" JUST A HERO TOUR 1986』をリリースしながらも、映像を世に残すことはなかった。観ることができない記念碑的ライヴ映像があることは、生でライヴを体験できなかった後追いBOφWYファンにとって“幻想”を加速する大きなファクターとなった。ロックのビジネス化が進んだ90年代以降から顧みれば、このお宝映像をリリースしないことはレアな事象だ。しかし、そこにBOφWYらしい矜持があるのだろう。長年のファンはあらためて、そんな意図を考えつつ
 2021(令和三)年09月01日(水)にBlu-ray映像で再販された『BOφWY VIDEO』を、バンドが想いを込めた演奏でのワンシーン、ワンフレームへの意気込み、目線、表情、サウンドと共振するシンクロニシティーを感じて欲しい。これまでBOOWYのライヴ映像を観たことがなかった新規ファンは、これを機会にBlu-ray版『BOφWY VIDEO』を手に取ってコンセプチュアルな世界観を体験して欲しい。1980年代、日本最高峰のロックバンドが最高のライヴを最高の作品としてコンセプチュアルに記録していたことを語り継いでいきたい。
 https://news.yahoo.co.jp/byline/fukuryu/20210905-00256678
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 ┃  『BOφWY VIDEO 』 ┃
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‡1986(昭和61)年05月01日(木) 高崎市文化会館
 1986(昭和61)年07月02日(水) \9800 VIDEO:TT98-1149
 1986(昭和61)年07月02日(水) \9800   LD:L088-1056
 2001(平成13)年11月28日(水) \4500  DVD:TOBF-5105
‡1986年5月1日に高崎文化会館で行われたGIGを収録したBOΦWY初めてのセルビデオ 値段が高いです・・・・ 
 映像◆♪Bad Feeling♪https://youtu.be/rVkX5nuBdno
 映像◆♪Justy♪https://youtu.be/cJbtGAJGQeU
 
 映像◆♪Honky Tonky Crazy♪https://youtu.be/ywpCjZQZG0Y
 映像◆♪LIKE A CHILD♪https://youtu.be/-Xvpy1vEuXg
 
 映像◆♪ミス・ミステリー・レディ♪https://youtu.be/F--uBwFAwGM
 映像◆♪Dreamin'♪https://youtu.be/lhFodVawpR8
 
 映像◆♪IMAGE DOWN♪https://youtu.be/CEFg_1qhgbs
 映像◆♪NO NEW YORK♪https://youtu.be/HWZBpEW6zGY
 
 削除映像◆♪JUST A HERO♪https://youtu.be/X4P_2ufctDM
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 http://hoteimode.net/boowyvideo.html
 https://ja.wikipedia.org/wiki/BOOWY_VIDEO
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 ┃BOΦWY STORY ARCHIVE【1986~1988:前嶋輝】Vol.08┃
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 2016(平成28)年12月01日(木) 
 2016(平成28)年07月19日(火) @渋谷にて
関係者によるBOOWY伝説を裏付けるドキュメンタリー
映像ディレクター 前嶋 輝(株式会社フィッツロイ代表取締役)
BOOWYの魅力のひとつにデカダンスでファッショナブルな映像美がある。1986年2月1日にリリースした3rdシングル「わがままジュリエット」にて構築された、謎の洋館、封印された本、幼い少女が登場し、包帯巻きになるヴィジュアル・イメージの強烈な映像インパクト。本作の映像ディレクターを担当したのは、その後もサザンオールスターズ、松任谷由実、Mr.Childrenなど、日本のミュージック・ビデオ界のパイオニアとしてたくさんの作品を世に送り出した前嶋 輝(まえじまあきら)氏だ。続いて制作された1986年7月2日にリリースした『BOOWY VIDEO』では、伝説のツアー『“GIGS” JUST A HERO TOUR 1986』を記録しつつも、敢えて武道館公演ではなく1986年5月1日高崎市文化会館公演にイメージ映像を加えて残されている。その後も、再発作品などBOOWYに関するライヴ映像のディレクション、編集を手掛け、バンドのビートをヴィジュアルに刻み続けているのが前嶋氏だ。
今も語り継がれるBOOWY映像作品に込められた編集による魔法めいた逸話。そんなBOOWY伝説を裏付ける貴重なトークをお届けしよう。
※クローズドなメディア掲載での発言、多くの登場人物が敬称略であることをご了承下さい。
テキスト:ふくりゅう(音楽コンシェルジュ)https://twitter.com/fukuryu_76
<本文>
――よろしくお願いします。まずは、前嶋さんが映像制作を志されたきっかけから教えてください。
前嶋:もともとは映画志向だったんです。でも、80年代初頭の邦画は斜陽産業というか、流行ってないわ、予算もないわで、当時はフリーで仕事をしていました。そんな頃に『ベストヒットUSA』という小林克也さんがMCの音楽番組がはじまりまして、音楽と映像が一緒になって紹介されていることに衝撃を受けました。たまたま知り合いの紹介でAD(アシスタント・ディレクター)で入れさせていただいて、もともと音楽も好きだったし、映像をやりたかった人間だったので天職だなと思ったんです。あと、僕の師匠に井出情児という方がいて、日本のロック映像の第一人者だったんですよ。当時僕がついていたときは甲斐バンドやARBなどを撮影していました。一番インパクトがあったのはYMOの映画『A Y.M.O. FILM PROPAGANDA』の撮影だったかな。
――それはまた、歴史に残る作品じゃないですか。
前嶋:当時、僕は井出情児について、時には助監督をやったり学ばせてもらってました。映画で好きだったのは、アメリカン・ニューシネマでした。映像でいうと、奇遇なんだけど、先週、イタリアのポンペイに、イギリスのプログレッシブ・ロックバンド、ピンク・フロイドのデヴィッド・ギルモアのソロ・ライヴを観に行ったんですよ。なぜかというと1972年にピンクフロイドがポンペイの遺跡で、お客さんを入れないでライヴ・レコーディングをやってるんですね。そのドキュメンタリー・フィルムに影響を受けてたんです。
――コンセプチュアルなライヴだったんですね。
前嶋:そうだね:円形ステージの真ん中に機材を組んでカメラで囲んで、ライヴ・レコーディングを撮影するっていう。そんなことを当時考える人はいなかったんですよ。
――まさに音楽と映像の融合からの影響ですね。その後、BOOWYとの出会いはいつ頃だったのですか?
前嶋:BOOWYとの出会いは、「わがままジュリエット」のプロモーション・ビデオを、当時、東芝EMIで映像面をみられていた三保谷(文彦)さんからお話を頂きました。たぶんその前に、バンドの事務所であるユイ音楽工房のプロデューサー糟谷(銑司)さんと、三保谷さんが相談をして推薦してくれたんだと思いますね。
――前嶋さんは、BOOWY以前もミュージック・ビデオの撮影はやられていたのですか?
前嶋:やってます。やってましたけど、まだ当時僕も世に出ていたわけではなくて、……でも、LAUGHIN’ NOSEとかは前だったかな。あと有名どころだとラッツ&スターとか。「わがままジュリエット」で印象的だったのは、はじめて糟谷さんにお会いしたときにおもしろいことを言われたんです。「君は(BOOWYの)音は聞くな。歌詞も見るな。『わがままジュリエット』ってタイトルだけで映像を想像して考えてくれ!」って言われて。それで生まれたのがあの作品なんですよ。
――そうなんですね。それはまたすごい指示ですよね。しかも、作品を観ると驚くほどに作りこまれた映像作品ですよね。BOOWYにとっても初めてのミュージック・ビデオだったという。
前嶋:そういえば、初めての映像作品だったんですよね。
――しかも包帯と少女、謎の洋館、封印された本など、印象的なパーツが登場することで記憶にも残りやすい作品になってますよね。
前嶋:タイトルだけで考えろっていう、糟谷さんからの発想のたまものですね。“メンバーが演奏するシーンはいらない!”ぐらい言われていたと思います。
――まだまだ当時は、メンバーを出してプロモーションで使う前提で考える映像が当たり前の時代のなか、作品の世界観を広げる為に映像を活用するというアーティスティックな試みに驚かされました。
前嶋:そうですね。楽曲の世界観を可視化することで広げるっていうことだったんでしょう。それにBOOWYのなかでも特異な曲だったと思うんですよね。
――ミディアムなナンバーですもんね。映像を観ていると予算が掛かってそうなプロジェクトに思えたのですが。
前嶋:いやいやいや……。そんなことはなくって、予算は苦労というか工夫しました。今はもう存在しない、当日使われていなかった駒沢の洋館で2日かけて撮影しました。
――その謎めいた洋館の中の、木、草などセットにもこだわられていますよね?
前嶋:予算無かったので富士山の樹海にトラック走らせて落ち葉や木を拾ってきたんですよ。洋館に全部敷き詰めました。体力勝負でしたね(苦笑)。洋館はどうやって探したんだったけな……。当時はネットもないし、いろんな伝手で探したんでしょうね。あ、映像に出てきますけど、洋館には地下室もあったんです。
――地下のシーンも印象的でしたね。あと、乳母車が印象的な使われかたをしていました。その辺は、プロットじゃないですけど何か設定みたいなのはあったんですか?
前嶋:いや、まあ……考えたんですよね。でも、資料とか残念ながらまったく残っていないですね。いろんな画集とか、見ながら考えたんですよ、きっと……。
――そうなんですね。実際「わがままジュリエット」はまったく聴かなかったんですか?
前嶋:いや、さすがに聴きました(苦笑)。でも、予備知識を入れないようにBOOWYの他の楽曲は聴きませんでした。
――そうなんですね。BOOWYについてそれまで認識はあったんですか?
前嶋:認識はありました。でもライヴを観たことはなかったです。名前を知っていた程度な感じでした。
――そんなこともあって、あのアバンギャルドな映像作品が生まれたのですね。
前嶋:自由にやらせてもらいました。“曲に対してストレートに考えてくれ”みたいな。
――ミュージック・ビデオでは氷室さんが、ストーリーテラーみたいな役回りなんですよね。布袋さん、松井さん、まことさんも、客観視した形で登場しているという。
前嶋:あの作品観ておわかりのように、BOOWYメンバーは映像にそんなに出演していないので、2日間徹夜の撮影だったのですが、数時間だけ参加してもらいました。メンバーは個々のワンシーンだけだったのに、みんな一緒に集まってもらったので、待ち時間を長くしてしまって“ごめんね”っていう(苦笑)。
――「わがままジュリエット」の世界観を描くにあたって、インスパイアされた作品などありましたか?
前嶋:写真集や映画だったと思います。包帯を巻いた少女がいて……。でも、マイナーな作品だったのか、ちょっと思い出せないですね。ごめんなさい。映画だったのか写真集だったのか……なんかそういうヴィジュアルに影響を受けました。あ、なんか、スウェーデンとかポーランドとか、あっち系の映画を当時よく観てたんですよね。ドイツだったかな……。ロマン・ポランスキーの映画だったかなぁ……。
――その後サブカルチャー界隈でも、包帯巻いた女の子っていうと『新世紀エヴァンゲリオン』で印象的に登場するシーンがありましたよね。答えはわかりませんが、「わがままジュリエット」からの影響?と書かれた文献もありましたよ。
前嶋:へ~。
――その後、反響はいかがでしたか?
前嶋:結果、振り返ると「わがままジュリエット」という楽曲がBOOWYの飛躍のきっかけになりましたよね。僕も、映像を作らせて頂いたことで、注目してもらえるようになり、その後、ミュージック・ビデオ制作等で声を掛けてもらえるようになりました。
――ちなみに「わがままジュリエット」の映像ラスト、CDヴァージョンはフェードアウトで終わっていくんですけど、ミュージック・ビデオでは最後まで演奏が続いていくんです。そして、ラストで乳母車が光るシーンがまた示唆的というか。ああいったシーンにもこだわりが?
前嶋:ですね。その後、高崎で『“GIGS” JUST A HERO TOUR 1986』でのライヴを撮影した『BOOWY VIDEO』の映像で、そんなつながりをイメージ映像で演出しています。当時、「わがままジュリエット」の撮影が終わってすぐに、高崎のライヴを撮影しようって話になったんですよ。
――「わがままジュリエット」の映像の世界観によってBOOWYのイメージの幅が確実に広がったと思いますからね。これまでのパンキッシュなビートロック的な世界観からの脱却であり飛躍ですよね。そして、4thアルバム『JUST A HERO』のツアーにおける1986年5月1日、ツアー10本目となる高崎市文化会館でのライヴをBOOWY初のビデオ作品『BOOWY VIDEO』に収録したという。
前嶋:この日は、ビデオを撮るためのコンサートだったんですよ。メンバーの故郷、高崎ならではのスペシャルな企画ですよね。
――撮影のために通しリハもおこなわれたようで、オーディエンスは2度ライヴを観れたと記録されています。映像では、珍しく氷室さんが髪を下ろしているのも印象的ですよね。ちなみに、パッケージの表紙写真はなぜか武道館公演の写真という。
前嶋:ツアーだと客席が決まっているので、当時は機材も大きかったので撮影しづらかったんですよ。でも、ライヴを撮影するためだったので、アングルにこだわってカメラを設置できました。花道を作ってもらったり、セットも細かくこだわったり、ちょっと通常のツアーとは違うんですよね。やっぱり、カメラをいろんな角度で置けるのがよかったんです。せっかくビデオのためのライヴだから、普段では撮れないアングルで撮影してみようってコンセプトだったと思いますね、確か。
――当時ビデオ・パッケージは販売価格1万円ぐらいしましたし、まだまだライヴ・ビデオを発売することが貴重な時代だったと思います。
前嶋:ライヴ・ビデオのためにコンサートをやることもかなり珍しかったと思います。当時だと、会場は普通のホールだからフロント側から撮影することが多くなるじゃないですか? 高崎ではバックショットをけっこう撮影したんですよ。ヒムロックのシルエットや、布袋君を後ろからのアングルで見たときや、静かな松井君、楽しそうなまことさんのたたずまいとかね。これこそがBOOWYのかっこいいヴィジュアルなんだってのを高崎で発見したんですよ。
――それは大きなターニングポイントですね。
前嶋:衣装もこだわってましたね。ヒムロックなんか重たかったし、暑かったと思いますよ。
――
●5月1日に高崎文化会館で撮影されて、ツアーラストは“ライブハウス武道館へようこそ!”で有名な7月2日の武道館なんですよね。で、武道館公演の翌日7月2日に、高崎で収録したライヴ・ビデオを発売してるんですよ。これって今から考えるとスケジュール的にかなりすごいことだと思ったんです。しかも、映像にもこだわりがありましたし。
前嶋:えっ、そうだったんだっけ? ははは(苦笑)。本当、無理ばっかりやってたんですよ(苦笑)。
一同:(笑)。
――でも、これってBOOWYが駆け上がっていくスピード感とシンクロしていたってことですよね。1986年にブレイクして1987年のクリスマス・イヴに渋谷公会堂で解散宣言だったわけですから。ほんと「わがままジュリエット」のミュージック・ビデオから、バンドの成長というかスピード感がさらに加速してるんですよね。しかも、結果にもあらわれはじめるという。
前嶋:ライヴもほぼ撮らしてもらっているので、1986年から解散までは、いっつもBOOWYを編集してた感じなんですよ。1年半ぐらいの出来事だったんですね。驚きです。
――『“GIGS” JUST A HERO TOUR 1986』の武道館公演も撮られたのですか?
前嶋:撮ってます。押さえてますね。テレビ番組で使われたのかな?
――撮られていたんですね。でも商品化はされなかったという。
前嶋:それこそ、高崎で『BOOWY VIDEO』で作品として残したからなんでしょうね。それもあってか、ライヴ盤で限定発売して伝説化したわけですから、すごいことですよね。
――間違っていない考え方なのでしょうね。もちろん、武道館公演の映像はオフィシャルで観たいですけどね(苦笑)。そういえば、マネージャーだった土屋(浩)さんが、『BOOWY VIDEO』の完成度が高いから武道館公演の商品化は考えてなかったと話していたのを思い出しました。結果、氷室さんによる“ライブハウス武道館へようこそ!”のMCは日本で一番有名なライヴ中のMCとなりましたが、映像は今もリリースはされてないという。
前嶋:そうですね。土屋さんもいろいろ考えられる方でしたからね。
――高崎で撮られた『BOOWY VIDEO』のなかで、「わがままジュリエット」はもちろん「ミス・ミステリー・レディー」でもイメージ映像が差し込まれていますよね? 「わがままジュリエット」にも登場した女の子、LISA HEIDERが演じるシーン。
前嶋:もともと想定していたことではなかったんですよ。たくさん撮影した素材を活かしたんだと思います。
――なるほど、「わがままジュリエット」で使わなかったものを使用されたのですね。あと、『BOOWY VIDEO』で印象的だったのは、ドラムの下に5発のライトが仕込まれていて、いい具合のスモークによって氷室さんのシルエットが綺麗に映し出されていたんです。
前嶋:そこはけっこう意識的だったかもしれませんね。「BAD FEELING」のオープニングのヒムロックのシルエットなショットにも反映されていますね。あれからスモークは濃くなっていきましたね(苦笑)。
――そういえば、「わがままジュリエット」のミュージック・ビデオに登場した少女LISA HEIDERさんはその後どうなられたんですか?
前嶋:今はわかりませんが、その後、わりと有名なモデルさんになっていたと思いますよ。オーディションで選んだんですよね。
――そうなんですねぇ。そしてBOOWYは翌年の夏、 1987年7月31日の神戸ワールド記念ホールと、8月7日の横浜文化体育館での2日間行われたライヴ『“GIGS” CASE OF BOOWY』を撮影され、後に4本のビデオ作品としてリリースしました。
前嶋:当時のことで思い出すのは、通常はツアーで僕たちが撮影に入るとよそ者というか、ステージ・スタッフから見ると“めんどくせえ奴らが来たな”って感じだったと思うんです。舞台監督とか怖い人たち多かった時代だったんで。でも、BOOWYに関しては、メンバーも含めて、事務所サイドが“かっこよく撮れるのであれば、正面でもバックショットでもOK!”って言ってくれてたんです。通常撮れないぐらい、松井さんに近づいて撮った映像もあったり。メンバーも撮影中、布袋君だったら足を蹴り上げたり、ヒムロックもカメラなんか関係ねえぜみたいな感じで煽りまくってましたから。“来るんだったら来いよ!”っていう闘いみたいな感じでした。そこが彼らのかっこよさだと気がついてからは、こっちも相当、考えて撮影しましたね。トライの連続ですよ。
――BOOWYのライヴ映像は、観る者を飽きさせない決め所シーンの連続ですよね。それこそ、当時、僕は小学生だったので生でBOOWYのライヴは観れなかったんです。でもBOOWYって、数々の伝説や残されたライブ映像の結果、解散後からファンが増えつづけていったんですよね。もちろんメンバーそれぞれの、その後の活躍があったからというのもあるんですけど、ビデオで発売され残された『BOOWY VIDEO』、『“GIGS” CASE OF BOOWY』の存在は大きかったと思っています。あれを観てBOOWYのライヴの魅力を感じた方もってものすごく多かったんですよね。あと『“GIGS” CASE OF BOOWY』では、ちょっとドキュメンタリー風なシーンも挟み込まれていて、メンバーの人柄を伺えたんですよね。ああいうの、ファン的にたまらないですよね。ライヴが終わった後、メンバーがはける時に、布袋さんと松井さんが道を譲り合うシーンだったり、ヒムロックが本番でかけあがっていくハシゴを松井さんが登ろうとして、“わぁ 、怖くてこれ以上登れないや”みたいなやりとりとか。
前嶋:ありましたね、それ(苦笑)。
――あの辺のオフショット・シーンなど、たくさん撮られていたんですね。
前嶋:そうですね。ドキュメンタリー的な要素を持たせたい意向がありましたね。30分ずつ4本のVHSビデオに分けてリリースした手法も画期的でしたよね。
――あと、BOOWYのビデオ作品でいうと、たとえば1日目2日目な公演が同じ会場であると、作品にして販売するときには、両日の良いシーンを混ぜて編集したりしてましたよね?
前嶋:日本ではあまりなかった手法だったかもしれません。最初、実験的にやってみたんですよ。そうしたらメンバーも“いいじゃん!”って。“かっこよけりゃいいんだよ!”っていう。スタッフ含めてみんなの判断基準が“かっこいいかどうか”だったんです。
――ライヴ盤『“GIGS” JUST A HERO TOUR 1986』で、ヴォーカルやコーラスの差し替えやキーボードの音、観客の歓声等をオーバーダビングしたのも、ライヴにこだわったバンドでありながらも、さらなるかっこよさの追求だったわけですもんね。渋谷公会堂での解散宣言のフィルムで撮影されたライヴ映像も、また違うベクトルでのこだわりですよね。
前嶋:あれはね、アート・ディレクターの永石勝さんと糟谷さんが最後の記録として残しておこうってとこから始まって撮ったんですよ。ただし撮ったはいいけど、そのあと何十年も埋もれていて……。その後、2000年だったかな? 糟谷さんから電話かかってきて、ごめんちょっと話したいことがあるからって言われて、“編集してみないか?”って言われて。“喜んでやります”って答えて。ただ、その当時カメラが何台も揃って撮っている環境ではなかったんですね。なんていうかドキュメンタリー映画的にカメラ4台5台だったんです。なので、作品として成立するかどうかも、やってみないとわからないっていう。でも、当日の張りつめた緊張感や想いがフィルムに刻み込まれていたんですよ。なので、ちゃんと作品としてかっこいいっていう。BOOWYはどうやってもかっこいいんだっていう証明となりましたね。
――衝撃的なライヴ・フィルムでしたね。
前嶋:編集して、最初に糟谷さんと観たときにお互い泣きそうになりましたからね……。
――日本ロック史上、最高峰のライヴ・フィルムだと思っています。
前嶋:編集させていただけて嬉しかったですよ。自分でやっててもちょっとすごいって思いましたから。
――氷室さんの表情がすごいんですよ。『“GIGS” CASE OF BOOWY』から4ヶ月かな? 半年も経っていないのに、全然表情が違うんです。いかに解散について悩んだかというあらわれですよね。
前嶋:あの時の表情、そして最後チラリと布袋君を見るっていう。もうすべてが凝縮された瞬間のシーンで。なんかもうこうグワッとくるよね。こんなドラマティックなバンドは他にないと思います。
――ライヴが終わったあとも、アンコールが止まないんですよ。お客さんもしっかり映していたり、入りきれなかったオーディエンスによる張りつめた雰囲気の屋外のシーンや、方やクリスマスムードな今は無きミスタードーナツが映っている公演通りのワンシーンとか。ほんと時間をあの時のままパッケージングしたドキュメンタリー映画って感じがしますよね。
前嶋:たしかに、あの瞬間の雰囲気が見事に映像で切り取られていてすごいですよね。撮影はフィルムで永石勝さんがやられているんです。あれを14年後ですか? 編集させていただけて感動しました。世に出すべき作品だと思いましたから。
――そして、この『1224』という解散宣言のシーンをおさめた映像がありながら、翌年4月には、完成したばかりの東京ドームで『LAST GIGS』が2日間おこなわれました。
前嶋:BOOWYは、ライヴに関するスタッフの一員みたいなもんだから最後も当然やらせてもらいました。でも、収録したものの発売はされなかったんですよね。それこそ、思い詰めた表情の『1224』のヒムロックと、もう次のステップに向かっている『LAST GIGS』でのヒムロックの表情は全然違いましたよね。
――なぜ『LAST GIGS』は、当時ライヴ盤は1ヶ月後にはリリースされましたが、映像パッケージは発売されなかったんですかね?
前嶋:当時は出す必要性がなかったんだと思いますよ。もうバンドは終わっていて次のステップにみんなそれぞれ向かってましたから。でも、とにかく記録として残しておこうっていう。カメラの台数も、あんな大きな東京ドームでしたけど、10台もなかったと思います。ライヴ中、リアルタイムにスクリーンに出さなきゃいけない会場映像があって、プラス数台という考え方ですよね。今から考えると、とても東京ドームで収録として出すようなカメラを揃えていませんでした。
――社会現象にもなった最後のライヴ映像がリリースされないということが、さらなる伝説を生み出しましたよね。狙ったわけでは無いと思うのですが、すべてが伝説的な方向へと作用しているんですよね。
前嶋:ほんとだよねぇ。でも、あの瞬間でほんとすべて終わったんですよね。
――前嶋さんのなかで、BOOWYで印象的な楽曲ってなんですか?
前嶋:この間、ヒムロックの最後の『LAST GIGS』公演を東京ドームで観た時に、何曲目だったかな。前半の方で「ハイウェイに乗る前に」をやったよね?
――やりましたね。
前嶋:「ハイウェイに乗る前に」を聴いて鳥肌が立ったんです。後半は「PLASTIC BOMB」で鳥肌が立って。氷室京介の生声であの曲をライヴで聴けて感動モンでした。それこそ、これまでのライヴを編集していた時代を思い出しました。
――なるほどです。記憶に残り続けるBOOWYのライヴ映像作りの編集において、特にこだわったポイントを教えてください。
前嶋:BOOWYに気がつかせてもらったことがあるんですよ。ひとつ教えてもらったというか。それまでは音で切る、音で編集カット点を切るっていうのを割と普通に思っていました。小節ごとに、音で切っていくという。でもBOOWYでは、音ではなく“動き”=アクションで切っていったんです。まぁ音で切る所もあるんですけど、基本アクションつなぎっていうか、ヒムロックのアクションだったり、布袋君のステップとか。もう、音だけじゃないんですよ。それをやり始めたのがBOOWYが僕の中で最初でした。それ以降も割とアクションつなぎを大事にしてきました。
――あの映像のグルーヴ感の魔法めいた秘密の理由はそこなのですね。感動しました。では、最後の質問になりますが、前嶋さんにとってBOOWYってどんな存在ですか?
前嶋:う~ん、……僕の、映像ディレクターのきっかけを作ってくれたバンドなんですよ。いまもリリースがあるときは関わらせてもらってるし。ヒムロックや、布袋君ともたまに仕事したりして。ほんと人生において欠かせない大事な存在なんですけど、それこそメンバーの皆がいまもそれぞれ活動しているのが素晴らしいですよね。
――そうですよね。そういえば、来年2017年は『MORAL』のリリースから 35年なんですよ。
前嶋:またどっかの倉庫に行って一生懸命探さなくちゃいけないね(苦笑)。
――ははは(苦笑)。そういえば、前嶋さんはインタビューとかあんまり受けないのはなぜなんですか?
前嶋:正直苦手なんです(苦笑)
――ははは(苦笑)。それはとても貴重なお話をありがとうございました。それこそ「わがままジュリエット」や『BOOWY VIDEO』の映像についての記録や話って、あんまり残ってないんですよ。
前嶋:ああ、そうかもしれませんね。よしなに、お願いします。
<インタビューを終えて>『BOOWY STORY ARCHIVE』第8弾、映像ディレクター 前嶋 輝氏へのロングインタビュー。いかがでしたでしょうか。BOOWY躍進のきっかけとなったシングル「わがままジュリエット」のミュージック・ビデオ誕生秘話。いまもなお語り継がれるライヴ映像における、メンバーによるアクションでカットポイントを設定する編集テクニック。BOOWYのライヴ映像がなぜいまも語り継がれているのかの秘密を垣間みた瞬間でした。
引き続き、ロックの歴史を変えたBOOWY伝説の物語を、関係者の証言を追い求めていきたいと思います。これら記憶と記録が、次世代の音楽シーンへの正しい継承となることを信じて。
次回アップデート予告:音楽ライター 藤沢映子
 https://sp.boowyhunt.com/interview/?id=8

 ┏━━━━━━━━━━━━━┓ JUST A HERO TOUR
 ┃ 過去の今日のBOΦWY ┃‡1986(昭和61)年05月01日(木)
 ┗━━━━━━━━━━━━━┛ 高崎市文化会館
 以下が、この時のセットリストですが、こちらも映像が残っているものに●を付けましたヨ(=^◇^=)
 00.PROLOGUE●
 01.BAD FEELING●
 02.JUSTY●
 03.ホンキー・トンキー・クレイジー●
 04.わがままジュリエット●
 05.LIKE A CHILD●
 06.MISS MYSTERY LADY●
 07.1994-LABEL OF COMPLEX-
 08.Dreamin'●
 09.IMAGE DOWN●
 10.NO.NEW YORK●
 11.JUST A HERO● 言わずと知れたBOΦWY初のライブビデオ、『BOΦWY VIDEO』のライブ映像。何故、この日ヒムロックは珍しくオールバックだったんでしょうかね?まあかなりお似合いだったんで、問題はないんですが~。。。このビデオは、映像作品が極端に少なかったBOΦWYの中期の映像が、拝める映像として超貴重なアイテムでした。この流れで行くと、武道館の映像をリリースするのが、普通なんですが。なぜこの日だったんでしょうね?恐らく、綿密に練られた構想やこだわりがあったのかな???BAD FEELINGなどは音源聴く限りでは取り直しされてましたし。。。そういう意味で武道館は、そんな気兼ねなく純粋に楽しみたかったんでしょうね~~~
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 http://boowyblog.blog35.fc2.com/blog-entry-364.html
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 映像◆01.BAD FEELING●https://youtu.be/ezeC-CLQBfY
 
 映像◆02.JUSTY●https://youtu.be/cJbtGAJGQeU
 
 映像◆05.LIKE A CHILD●https://youtu.be/-Xvpy1vEuXg
 
 削除映像◆09.IMAGE DOWN●BOOWY LIVE1986 05 01 IMAGE DOWNBOOWY VIDEO https://youtu.be/yc1nRhK8l_c
 映像◆10.NO.NEW YORK●https://youtu.be/HWZBpEW6zGY
 

 

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