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┃ ♪INSTANT KARMA!(WE ALL SHINE ON)♪ ┃
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1970(昭和45)年01月27日(tue) Recorded
1970(昭和45)年02月06日(fri) UK Released
‡1970(昭和45)年02月20日(fri) US Released
John Lennon ♪Instant Karma♪ 訳詞
2012(平成24)年08月17日(金) この曲がリリースされたのは1970年。ジョンが60年代から東洋思想に強い関心があったことは、当時の若者にも大きな影響をあたえていたと聞いていますが、スピリチュアルも、平和運動も「流行」のひとつになっただけで、、という思いが、この曲を創った頃のジョンにはあったのではないかと、私は想像しました。国内版CDの訳詞では、INSTANT KARMA はタイトル通り「インスタント・カーマ」だったのですが、そのままカタカナにするんだったら「インスタント・カルマ」の方がわかりやすいし、「インスタント・カーマ」が、何なのかわからなかったら、gonna get you もされても、knock you もされても気がつかないし、何より We all shine on にもならないと思います。この詩がわかりにくいのは、スピリチュアルに興味がある人の多くが、「カルマ」という言葉を、一方では「生まれ変わることへの希望」のように感じ、もう一方では、前世の因縁などのように、自分では動かしがたい宿命として考えていて、そこに疑問を感じていないからだと思います(ジョンは、多くの偉人たちと同様、その矛盾に悩んでいました)。前世というものに「ファンタスティック」な思いを抱くことは、その一方で、現在の自分にも、他者にも、前世の行いという、自分には動かしようのない理屈をつけて、今、生きている「みんなが輝ける」ことをあきらめることにも繋がっている。前世や、来世のことよりも、今を変えようと思えば「一瞬」で変われる。INSTANT KARMAは、教義化されたカルマという言葉や、自分の「運命」といったものに、囚われることなく、そんなもの(運命のこと)は、今すぐにでも変えられるんだという意味が込められていて、私はジョンがインド思想に学び、またそこに疑問をもったことが「INSTANT KARMA」を生んだのだと思いました。詩の内容にあわせて、即席だったり、お手軽だったり、刹那的で、流行ってる感じで、get you して来そうな “因果なやつ”を、とりあえず3種類考えてみましたが、他にもっとイイ感じの「INSTANT KARMA」を思いついた方は、ぜひ教えてください。また、ヤバい英語力を最大限駆使して訳していますので、日本語部分はご注意の上、間違いや、気になる点は、お気軽にご指摘くださいませ。(コメント欄参照)
♪Instant Karma♪ Written By John Lennon
Instant Karma's gonna get you
Gonna knock you right on the head
You better get yourself together
Pretty soon you're gonna be dead
What in the world you thinking of
Laughing in the face of love
What on earth you tryin' to do
It's up to you, yeah you
最新流行の「教義」が、おまえを狙っている
今にも、おまえの脳に入り込もうとしている
落ちついて、本当によく考えないと
あっという間に、死はやってくる
おまえにとっての世界は、微笑んで笑っていればいいのか
今、やるべきことをやらなくて、どうするんだ
Instant Karma's gonna get you
Gonna look you right in the face
Better get yourself together darlin'
Join the human race
How in the world you gonna see
Laughin' at fools like me
Who on earth d'you think you are
A super star
Well, right you are
ありきたりな「運命」が、おまえをがんじがらめにする
それは、おまえの顔をじっくりとのぞき込む
愛する人のことをよく考えて
人間に生まれたことを楽しまなきゃ
世界には色々あるんだってことを知って
俺の愚かさを笑い飛ばせよ
おまえは自分のこと何だって思う?
スーパースター!
いいんじゃない。おまえは確かにスーパースターだよ
Well we all shine on
Like the moon and the stars and the sun
Well we all shine on
Ev'ryone come on
そうさ、俺たちはみんな輝く
月のように、星のように、そして太陽のように
そうさ、みんなが輝ける
さあ、みんな!
Instant Karma's gonna get you
Gonna knock you off your feet
Better recognize your brothers
Ev'ryone you meet
Why in the world are we here
Surely not to live in pain and fear
Why on earth are you there
When you're ev'rywhere
Come and get your share
出来合いの「宿命」に、溺れてしまって
おまえは完全にノックアウト状態
出会える人たちはだれでも兄弟なんだよ
なぜ、この世界に生まれて来たんだと思う?
傷ついたり、恐怖に脅えるためじゃないだろう
どうして、おまえはそこにいるんだ
さぁ、ここに来て、おまえの居場所を見つけなきゃ
Well we all shine on
Like the moon and the stars and the sun
Yeah we all shine on
Come on and on and on on on
Yeah yeah, alright, uh huh, ah
そうさ、俺たちはみんな輝く
月のように、星のように、そして太陽のように
そうさ、みんなが輝ける
さあ、みんな!
Well we all shine on
Like the moon and the stars and the sun
Yeah we all shine on
On and on and on on and on
Well we all shine on
Like the moon and the stars and the sun
Well we all shine on
Like the moon and the stars and the sun
Well we all shine on
Like the moon and the stars and the sun
Yeah we all shine on
Like the moon and the stars and the sun
◎[歌詞引用]INSTANT KARMA LYRICS
下記に、岩谷宏氏の訳を追記。
♪インスタント・カーマ♪
瞬間のカルマがあなたを捉える
あなたの脳を一撃する
気持ちを集中しろ
もうじきあなたは死ぬ
何を考えるのかも
恋を笑いで一蹴して
何に努力するのかも
すべてあなた次第だ
瞬間のカルマがあなたを捉える
顔面を一撃する
気持ちを集中して
人類の一員なんだと思え
ものの見方を変えるんだ
僕みたいなバカは笑い飛ばして
あなた自身が何者かを考えるんだ
あなたはスーパースターか、
そうさ、あなたがスーパースターなんだ
そうなのだ、みんなが輝くのだ
月のように星のように太陽のように
誰もが輝くのだ
そうだ、あなた自身が輝くのだ
『ジョン・レノン詩集』訳・岩谷宏(シンコーミュージック1986年出版)より
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http://nikkidoku.exblog.jp/17873319
https://en.wikipedia.org/wiki/Instant_Karma!
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The Beatles Story 1963 前半 02/11~
《 ビートルズイギリス公式盤ファースト・。オリジナル・アルバム『Please Please Me』リリース 》
<アルバム『Please Please Me』のレコーディング>ビートルズイギリス公式盤オリジナル・デビューアルバム『Please Please Me』は、3枚目シングル「From Me To You / Thank You Girl」が発売される3週間前の
1963(昭和38)年03月22日(金)にリリースされます。このアルバムのレコーディングは、
1963(昭和38)年02月11日(月)に行われ、音楽録音史上、これほど実りの多い「585分」は他には無く、ビートルズはファーストLP用の新曲10曲をたったこれだけの時間内に録音したのです。ジョージ・マーティンは語ります
「シングル盤“Please Please Me”が成功したからには、商業的見地から、なるべく早くLPを出さなければならなかった。すぐにレコーディング出来る曲がどのくらいあるか、彼らに訪ねたんだ。答えはステージ用のレパートリーだったよ。」
(レコーディング・シート - E.M.I. Studio 2, 10.00 am - 1.00 pm)
< There's A Place - take 1~10 I Saw Her Standing There - take 1~9 > ジョージ・マーティンが彼らから受け取った言葉
「今の僕たちのレパートリーはステージ用の曲だけだ。」・・・。1963年2月の時点で、ビートルズのステージ用の演奏は非常に磨き抜かれたもので、それは今では考えられないようなライヴ・ギアを1960年半ばから休みなく毎日こなしてきたからで、彼らの自信の裏付けともとれる答えと云えます。とは云え、ビートルズに与えられたこの日のレコーディング時間は、10時~13時までと14時30分~17時30分の2回のみで、記録に残っている3回目の19時30分~22時30分のセッションは後で付けたされてものに過ぎません。ジョージ・マーティンは語ります
「彼らの声が出なくなるのを恐れ、10時間以内に10曲を取り終えようと考えた。」。これは危険な綱渡りで、観測史上もっとも寒い部類に入る冬の間中、国内のあちらこちらで巡業してきたグループである「ビートルズ」は、当日レコーディングが始まる前からすでに肉体的にコンディションも悪く、ジョンに至ってはひどい風邪をひいている始末で、現存するセッション・テープでもテイクの合間の雑談でジョンがそのことに触れていることが確認できます。ノーマン・スミスは語ります
「菓子屋にあるような大きなガラス瓶に詰めたザブスと云うのど飴がピアノの上に置いてあったよ。そのくせ、その隣にはピーター・スタイヴサントと云う煙草の大きなカートがあって、風邪をひいているジョンも含め彼らはそれを引っ切り無しに吸っていたんだ。」。
1963(昭和38)年02月11日(月)、E.M.I.第2スタジオで10時~13時のセッションで録音されたのは”There’s A Place”と”Seventeen”の2曲、どちらもLennon=McCartneyの作品で、”Seventeen”はLPのトップを飾るノリのいいナンバーである”I Saw Standing There”の仮タイトルです。正規盤で聴くことのできる”I Saw Standing There”は、第1テイクの冒頭に、第9テイクのカウント部分を編集したものですが、95年発表の”Free As Bird”ではその第9テイクのサイズを聴くことができます。「Seventeen」のレコーディングは第9テイクまで一旦録音され、その9テイクの内、完全に演奏されたのは3テイクで、午後からのセッションで、ベストだと判断された第1テイクにハンドクラップのオーバーダビングを施しそれを最終テイクとして採用し、そして第9テイクの冒頭に収められたポールのカウント(ワン、ツー、スリー、フォー!)を編集でつなぎ合わせ、この曲は完成に至ります。そして、「There’s As Place」のレコーディングは、午前中にベーシックトラックをまず10テイク録音し、午後のセッションで10テイク目にハーモニカをオーバーダビングし、この曲は完成に至ります。使用楽器は、双方ともジョンのRickenbacker 325、ジョージのGretch DUO JET、ポールのHofner Bass 、リンゴのPremier Drum set と云う構成で、後者にはハーモニカも入ります。その後、ランチタイムが巡ってきますが、ビートルズは昼食など摂らず、録音を続けようとします。E.M.I.エンジニアのリチャード・ランガムは語ります、
「休憩してくれと言ったら、彼らはこのままリハーサルを続けたいと言うんだ、それでジョージとノーマンと僕は、近所のヒーローズ・オヴ・アルマと云うパブに行って、パイとビールの昼食を摂ったんだけど、彼らはスタジオに残ってミルクを飲んでいた。僕らがスタジオに戻った時も、まだ練習していたよ。昼飯抜きで働くグループなんて見たことなかったよ。」。
<写真センター:Engineer:Richard Langham (リチャード・ランガム)>後にジョンは語っています、
「ファースト・アルバムのレコーディングは、12時間ぶっ通しのセッションだった。本当のレコーディングはこう云うモノなんだと感じた。12時間で仕上げねばならなかったのは、僕たちにそれ以上のお金をかけて貰えなかったからなんだ。このレコードで良かったことの一つは、エコーなしで録音したことだ。エコーが出始めた頃で、僕らはそんなものを使える余裕がなかった。余裕ができた頃にはもうそんなもの好きじゃなかった。だから、ステージでは一度も使ったことがない。使わなくて良かったよ。使っていたら、きっと他のグループと似たり寄ったりのサウンドになっていただろう。あのレコードでは、生の雰囲気を出そうとしたんだ。ハンブルグやリヴァプールではあれに近い音だったんじゃないかな。それでも、オーディエンスがビートを合わせて足を踏み鳴らす、あのライヴの雰囲気は出ない。だけど、『お利巧さん』のビートルズになる前のサウンドには、これがいちばん近いだろうね。(書籍『Anthology』抜粋参照)抜粋参照」。午前中からぶっ続けで進められるセッションは、午後に突入します。まずは、ポールが歌う「Taste Of Haney」から始まります。この曲は1960年に上演された同名の芝居の挿入歌で、ビートルズは合計7テイク録音し、その5テイク目にポールとジョンのコーラスをオーバーダブし第7テイクがベストと判断し採用とします。このアルバム中唯一のダブルトラッキング処理(あるテイクをわずかずらして別のテイクにコピーすること)を施した曲で、この手法は、より分厚いサウンドを生み出すためのもので、ビートルズのヴォーカル録音ではこの手法が多用されていくようになります。続いて「Do You Want To Know A Secret(Lennon=McCartney)」の録音が開始され、7テイク録音、そしてベストと判断された第6テイクにハーモニーとドラムスティック同士を打ち合わせた音を重ねた物を第8テイクし、第1テイクに手拍子をオーバーダブしたものをベストとし、ビートルズは次の曲「Misery(Lennon=McCartney)」のレコーディングに入ります。この曲はジョンとポールがヘレンシャピロに書いた曲で、彼女が歌わなかったためビートルズの曲としてジョンとポールがともにリード・ボーカルをとることとなります。通常のテープスピードが15ipsのところを、これは30ipsで録音されます。これは、後日にピアノをオーバーダビングする事があらかじめ決められていたからで、こうしておくとピアノのレコーディングの際に1/2の速度で録音できると云うことになります。このピアノはジョージ・マーティンにより、
‡1963(昭和38)年02月20日(水)、ビートルズメンバー不在の中オーバーダビングが行われることになります。ジョージは語ります、
「僕らはずっとビリビリしてたよ。レコーディングするにも、その前に全曲を通すんだ。僕らがちょっと演奏すると、ジョージ・マーティンが言うのさ、『よし!他に何かある?』って。『ドゥ・ユー・ウォント・ノウ・ア・シークレット』は、このアルバムの中の“僕の曲”だったんだよ。この曲の自分のボーカルが気に入らなかった。"Listen, do da do, Do you want to know a secret? do,da do,Do you promise not to tell, whoa oh, oh"『ねえ、秘密を知りたい?喋らないって約束できる』ってさ。このセッションを振り返ると、ひょっとしたら“ゴフィン&キング”の『キープ・ユア・ハンズ・マイ・ベイビー』をやったように思う。この曲は“リトル・エヴァ”が『ロコ・モーション』の後に出した曲なんだ。時々、曲を覚えたりするのも1~2回やってやめちゃうことがあったんだよ。こんな曲も僕らのレパートリーだったからね。(書籍『Anthology』抜粋参照)」。ビートルズは、午前中からぶっ続けでレコーディングし、午後に突入、そして夜になり、さらに進めていきます。ポールは自作の「Hold Me Tight」でリード・ボーカルをとりますが、録音された13テイクの内、完全ヴァージョンは2テイクのみで、ボツになったテイクが5つ、未完成のテイクが1つ、それにテープ編集用のテイクとなり、結局マスター・ヴァージョンは、第9テイク及び第13テイクを編集して行われることになります。しかし、この曲の編集作業は実際には行われず、この時点ではリリースされずに終わります。このテープはもはや存在していませんが、ビートルズはこの後にこの曲をリメイクし、セカンドLPに収録させます。このあと、彼らは5曲のカバー・ヴァージョンを猛然と吹き込みます。まずは、ジョンのリード・ボーカルによる「Anna」、これはアーサー・アレクサンダーの曲で、3テイクで完成、続いてリンゴが初めてボーカルをとる「Boys」、これはシレルズの曲で、1テイクで録音を終えますが、エンディングのフェードアウトにする作業が
1963(昭和38)年02月25日(月)のリミックス段階で行われます。次にジョン、ポール、ジョージの3人が歌う「Chains」、これは当時のクッキーズのマイナー・ヒットで、かつてジョン・レノンとポール・マッカートニーのソングライティング(Lennon=McCartney)に多大な影響を与えたブリル・ディング・チーム「ジェリー・ゴフキン&キャロル・キング」の共作です。この曲は4テイクを録り、ベストは第1テイクで、やはりリミックス段階でエンディングをフェードアウトしています。引き続きジョンがボーカルをとるシレルズの「Baby It's You」を3テイク録音します。そして、レコーディングは午後10時に差し掛かります。リンゴは語ります、
「僕の場合、あのアルバムはやるまでの時期とかセッションとか、全てがぼやけちゃっててね。それにアルバムそのものも、はっきり覚えてないんだよ。ファースト・アルバムのリハーサルはしなかった。僕の記憶では「ライヴ」で録ったんだ。まず全曲を通してやって、それぞれの曲のサウンドをある程度つかんで、その後はひたすら曲をこなしていた。(書籍『Anthology』抜粋参照)」。アルバム『Please Please Me』のレコーディングは、既に午後10時を回ろうとしており、それはスタジオを閉める時間でもあります。しかし、後1曲足らず、全員がE.M.I.スタジオの簡易食堂に行き、コーヒーを飲みにビスケットをつまみながら、その最後の1曲をどの曲にするのかを話し合います。何曲か候補があがり、友好的な議論がなされます。その結果についてノーマン・スミスは語ります、
「ジョンのリード・ボーカルで“Twist and Shout”をやろうって誰かが言いだしたんだ。でもその時はもう、みんな声を使い過ぎて喉をだいぶ痛めてたんだ。セッションを始めて12時間も経ったんだからね。特にジョンは声を完全に潰す一歩手前だった。だから本当に一発録りで決めるしかなかった。それでビートルズはスタジオに、僕たちはコントロール・ルームに戻った。ジョンはまたのど飴をいくつか口の掘り込み、ミルクでうがいをして、いざ本番に入ったんだ」この第1テイクでジョンが歌ったものを、私たちは今日でもレコードで耳にしているわけですが、これほど迫力のあるロックンン・ロール・ボーカルとインストゥルメンタル・パーフォーマンスは、他にはちょっとないでしょう。ジョンが声を振り絞って歌うこの2分半の曲は、大きな安堵のため息を持って終わります。午後10時を回り、ビートルズはファースト・アルバムを完成させます。ジョージ・マーティンはあの晩のことを振り返ります
「私は彼らが何をやれるかは把握するためにキャバーンに行った。彼らのレパートリーを知り、演奏できる曲目を知っていた私は彼らにこう提案した、『君たちが持っている曲を全部やろう。スタジオに下りて来なさい。何とか一日で演奏してみよう』。午後11時頃に始めて、夜の11時頃までーーその時間内で、アルバムまるまる一枚録音したんだよ。ビートルズは最初、レコーディングに関してあまり意見を言わなかった。彼らがスタジオ・テクニックに興味を持ち始めたのは、1年目が過ぎてからだよ。しかし、彼らの凄さは、この時から常にきちんとしたものを作りたいと思っていたことだよ。だから、作業は1テイクでは終わらなかった。最初のテイクを聴き、それから2~3テイクやって、納得できるものを仕上げた。時間をたくさん掛けて何テイクも録り直しをゆるされるようになるのは、もっと後になってからだ。「ツイスト・アンド・シャウト」が凄く咽喉に負担をかけることは分かっていた。私はジョンにこう言ったんだ、『この曲をやるとしたら、最後にしよう。これを先にレコーディングしたら、その後声が出なくなってしまうかもしれない』って。話し合いの結果もあるが、この曲はそう云う理由であの晩の最後の曲に回したんだ。2テイクやると、ジョンは全く声が出なくなった。だが、あのレコードはあれで良かったんだよ。ああ云う、“布を引き裂くような声”が必要だったんだよ....。(書籍『Anthology』抜粋参照)」。ジョンは語ります
「最後の曲で死にそうになった。しばらく声が戻らなかった。何か飲むたびに、ヤスリをかけられているみたいでさ。ずっとあれが恥ずかしくてたならなかった。『もっとうまく歌えるのに』って思ってね。だけどもう気にならない。必死になって頑張ったのが伝わってくるだろう。ほとんど休みなしに12時間歌い続けた。“僕ら”は風邪をひいててね。それがどうなるか気になってた。一日が終わると、とにかく何パイントもミルクを飲みたいってことしか頭になかったね。あのLPのプレイバックを持っている間と云うのは、ほんと不安で仕方なかった。僕らは完全主義なんだよ。少しでの古臭く聴こえたら全部最初からやり直したくなるだろう。でも実際聴いてみたら凄く満足できた。(書籍『Anthology』抜粋参照)」そして、『Please Please Me』は、
1963(昭和38)年3月22日(金)にビートルズ・イギリス公式盤オリジナル・デビュー・アルバムとしてリリースされます。ジョージは語ります
「アルバムのジャケット写真は、マンチェスター・スクエアのE.M.I.ビルのバルコニーから僕らが顔を覗かせてるのを撮ったのものだ。撮影者は"アンガス・マクビーン”で、僕はあの時着たスーツを今でも持っているよ。1990年に、あれを着てパーティーに行った。50年代の衣装を着て行くことになってたんだけど、ごまかして60年代のアレを着て行ったんだ。サイズがピッタリに見えただろうけど、実はズボンのウエストが締まらなかった。1969年にまたあそこに行って、“赤盤”と“青盤“のアルバムのために同じ写真を撮った。本当は『Let It Be』のジャケットにするつもりだったんだけどね。サイケデリックの時代まで、いやサイケデリックの時代になっても、E.M.I.はお役所みたいだった。エンジニアが全員しっかり訓練を受けてたのは確かだけどね。テープ・コピーから始まって、次にテープ・オペレーター、その次にデモ・セッションのアシスタントになる。様々な部署をすべて経験した後、ようやくでも・セッションのアシスタントにしてもらえる可能性が出てくるってこと。或いは、空いているエンジニアが居なくなった場合に、見習いが大抜擢されるかもしれない。ほんと、訓練は行き届いていたよ。だけど、1967になっても『職場ではスーツにネクタイ着用』なんて、ちょっと馬鹿げてるよね。とにかく、E.M.I.はエンジニアをきちんと訓練してた。だけどやっぱり・・・1967年になっても、まだスーツにネクタイで作業に入るのは、ちょっと間抜けだったよ。(書籍『Anthology』抜粋参照)」。
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