過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日の走る投げる打つシンプルなゲーム等だヨ(=^◇^=)

†2009(平成21)年08月08日(土) 月例会「米軍により撃墜された」と語り
 2009(平成21)年08月09日(日) 佐宗邦皇さん死亡 恐らく暗殺
”御巣鷹の件も話すと殺される”
2023年06月13日(火) 00時30分30秒NEW ! テーマ:ブログ
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 1995(平成七)年08月09日水曜日
『長崎市の原爆投下の平和祈念像は、悪魔像にしなさい』と
 ニューヨークのアシュケナージム・ユダヤ悪魔が命令した。
 だから、長崎市の原爆投下の平和祈念像は悪魔像みたいな形になった。
 ニューヨークのアシュケナージム・ユダヤ悪魔達は、
 こういう極端な悪戯が好きであるヨ(=^◇^=)
 平和祈念像は、長崎県長崎市松山町にある平和公園の北端に建てられた像
 北村西望によって造られた被爆10周年にあたる
‡1955(昭和30)年08月08日(月)に完成
 http://hinokounet.blogspot.jp/1995/08/blog-post.html

 米国は第3の原爆投下を計画していた
 1945年の夏、米国は広島、長崎に続く準備を着々と進めていた
 2020(令和二)年08月09日(日) 文=ALEX WELLERSTEIN/訳=ルーバー荒井ハンナ
 1945(昭和20)年08月03日(金)「1945年8月3日以降」第20航空軍は最初の「特殊爆弾」を広島、小倉、新潟、長崎のいずれかへ投下せよ(これ以前の草稿では、これが優先順位であると明記されていた)。投下は(レーダーではなく)目視で行うこと。同行するのは観測用航空機数機に限ること。さらに「計画担当者による準備が整い次第、上記攻撃目標に追加の爆弾を投下するものとする」とある。初の4都市以外の目標については、改めて指示を出すとされていた。
 それは、原爆を1個投下せよという命令ではなかった。準備さえ整えば、何個でも投下することを許可するという内容だった。
■1回目の投下■日本への空襲と原爆投下作戦の基地として使われたのは、北マリアナ諸島にある小さなテニアン島だった。日本が統治していたが、1944年夏に米軍が占領した後、島全土が基地化された。このテニアン島へ
 1945(昭和20)年07月29日(日)、「リトルボーイ」と名付けられた原爆の部品が運び込まれ、最終的な組み立て作業が行われた。8月6日午前1時頃、リトルボーイはB-29爆撃機「エノラゲイ」に乗せられ、基地を飛び立った。この日、広島の上空には雲がほとんどなく、午前8時すぎに町が視界に入った。(参考記事:「原爆を運んだ米軍艦、撃沈から70年」)
 8時15分、原爆が投下された。それは44秒間落下した後、TNT火薬およそ1万5000トンに匹敵する威力で爆発した。広島はほぼ一瞬にして炎に包まれ、破壊された。数分のうちに数万人が命を落とし、その後も原爆の影響でおよそ10万人が犠牲となった。エノラゲイは1万メートルの高度を1時間弱旋回して町を観測した後、テニアン島へ戻っていった。(参考記事:「あの日から75年 広島の記憶」)
 写真◆広島へ投下された原爆「リトルボーイ」を乗せたB-29爆撃機「エノラゲイ」。(WORLD HISTORY ARCHIVE/ACI)
 写真◆広島の焼け野原から回収された腕時計。原爆が投下された8時15分で針が止まっている。(SCIENCE SOURCE/BRIAN BRAKE/ALBUM)
■第2の攻撃■ポツダム会談からの帰り、船の中で原爆投下の報告を受けたトルーマンは大喜びし、「歴史上最も偉大なこと」とコメントした。ニュースはすぐに報道機関に公開され、日本向けのラジオ放送でも流された。
 1945(昭和20)年08月06日(月)時点では、広島が受けた攻撃についてよく把握できていなかった日本軍は、科学調査団を現地へ派遣した。日本の原子物理学の第一人者だった仁科芳雄教授は
‡1945(昭和20)年08月08日(水)、広島から「倒れずに残っている建物はほぼ皆無」で、見たところ「いわゆる新型とされる爆弾は、原子爆弾である」と報告した。
  ⇒ 次ページ:同じ日、テニアン島では次の原子爆弾が
  https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/080700466/?P=2
 日本がまだ広島で調査をしていたころ、次の投下準備は既に始まっていた。
‡1945(昭和20)年08月08日(水)に気象予報を確認すると、作戦予定日とされていた
 1945(昭和20)年08月10日(金)の天気は思わしくなかった。そこでテニアン島の幹部はワシントンDCに相談することなく(トルーマンだけでなくスティムソンにすら知らせなかった)、当初の命令書により次の作戦遂行の決定権も自分たちにあると判断し、時を移さず原子爆弾「ファットマン」を組み立てて別のB-29爆撃機「ボックスカー」へ積み込むと、日本へと送り出した。目標は、九州北端にある武器庫の町、小倉市(現北九州市の一部)だった。ところが、町の上空は雲のせいなのか煙のせいなのか(前日に近くの八幡市が空襲を受けていた)視界が悪かった。ボックスカーは45分間上空から目標を探していたが、やがてあきらめて長崎へ向かった。
 1945(昭和20)年08月09日(木)午前11時2分、ファットマンは長崎上空でTNT火薬2万トン相当の威力で爆発し、一瞬にして7万人以上の命を奪った。ボックスカーはしばらくの間破壊の状態を観察してから、基地へ戻っていった。(参考記事:「「ナガサキ」本を米国で出版、著者に聞いた」)日本の大本営は
 1945(昭和20)年08月09日(木)、数日前のソ連による宣戦布告とそれに続く満州侵攻について話し合っていた時に、長崎が攻撃されたとの報告を受けた。このとき、日本がさらなる攻撃を予測していたかどうかは定かではない。しかし2回目の攻撃があったことで、米国には爆弾が1個しかないかもしれないという期待は吹き飛んだ。ところが、2回の原爆投下もソビエト侵攻も、日本の無条件降伏受け入れを引き出すことはできなかった。日本は、天皇制を維持するという条件付きの降伏を米国へ申し入れる準備を進めていた。
 写真◆広島、長崎への原爆投下 原子爆弾は、テニアン島を発ったB-29爆撃機「エノラゲイ」「ボックスカー」によって広島、長崎に投下された。(ROSEMARY WARDLEY AND CHRISTINA SHINTANI, NG STAFF、SOURCE: ALEX WELLERSTEIN)
■待機、そして次の投下への準備■米国の首都は騒然としていた。
 1945(昭和20)年08月10日(金)、日本から条件付き降伏案を受け取ったトルーマン大統領と閣僚らは、その内容を隅から隅まで精査していた。グローブス少将はマーシャル参謀総長に書簡を送り、「次の爆弾」は予想よりも早く準備できると報告した。ニューメキシコ州ロスアラモスでは、次の爆弾に使用される部品を完成させて、テニアン島へ運搬するための作業が急ピッチで進められていた。
 1945(昭和20)年08月12日(日)か13日(月)にも最後の部品がロスアラモスを出発し、その1週間後には日本に投下できる見込みだった。トルーマンはこの報告を受けるなり、準備作業を止めるよう命じた。マーシャルはグローブスへ「大統領の明確な許可なしに日本へ原爆を投下してはならない」と書き送った。広島への原爆投下後に「歴史上最も偉大なこと」と発言したトルーマンが、なぜ突然投下禁止命令を出したのだろうか。これ以上の原爆は戦争終結を早めるのではなく、終結へ向けた努力を妨げることになるのではと恐れていたという意見もあるが、別の歴史家は、トルーマンは大量殺戮をやめさせたかったからだと考えている。当時の商務長官で元副大統領ヘンリー・ウォレスの日記には、その朝トルーマンが閣僚に対して「さらに10万人の命を奪うなど考えただけで恐ろしい」と語ったと書かれている。トルーマンの口から出た「あの子どもたちが皆」との言葉は、人を殺すことへの嫌悪の表れだったのだろう。いずれにしても、トルーマンは決定権を自らの手に取り戻そうとしていた。おそらく知らず知らずのうちに、新型爆弾の使用に関する決定権は自分たちにあると軍に思い込ませてしまっていたようだ。最初の原爆投下については承知していたが、2回目はそうではなかった。もし3回目があるとしたら、それはトルーマンが直接命令を下さなければならない。
 写真◆ジョージ・マーシャルからグローブスへの文書。大統領の許可なしに第3の原爆を投下してはならないと書かれている。(NATIONAL ARCHIVES AND RECORDS ADMINISTRATION, WASHINGTON, D.C.)
 写真◆デーモン・コア(悪魔の核)1945年8月にロスアラモスで作られた最後の核は、日本まで運ばれることはなかった。当初は「ルーファス」、「ダーティ・ゲーティ」などと名付けられていたが、ロスアラモスで別の実験に使用され、後に「デーモン・コア」と呼ばれるようになった。(NATURE AND SCIENCE/ALAMY STOCK PHOTO)
  https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/080700466/?P=3

 1日でたったの60人! 乗車人数最下位の新幹線駅に行ってみた
 2017(平成29)年08月08日(火)
 奥津軽いまべつの駅舎。駅名通り、津軽半島の北にある駅で、開業に合わせて駅前も整備された。外見はかなり立派だが……
 新幹線駅と言えば、多くの人が行き交う大ターミナルで、さまざまな路線が乗り入れ、駅周辺には商業施設が立ち並ぶ……。そんなのは、大都会の駅だけのお話。新幹線の駅にもかかわらず、利用者数が極端に少ない“秘境駅”があるのだ。
 というわけで、1日あたりの利用者数わずか約60人という乗車人数最下位を誇る北海道新幹線奥津軽いまべつ駅に行くことに。しかし、さっそく新幹線に乗ろうとしたものの、東京発の新幹線で奥津軽いまべつ駅に停車するのはなんとわずか1日5本だけ。当日帰るためには間をおかずに上りの列車に乗りたいところだが、それも1日5本だけで2~3時間も待たされる。まるでド田舎のローカル線の無人駅。これだけでも利用者数の少なさがよくわかる……。
 それでもなんとか奥津軽いまべつ駅にたどり着いてみると、降りる客はもちろん記者ひとり。閑散としたホームから改札口を通って駅前に出てみると、目の前にはどーんと森が広がっている。本当に新幹線に乗ってきたのか、自問自答してしまう光景だ。地元の人に話を聞こうと思い、あたりを見渡してみても、人っ子一人見当たらない。途方に暮れつつ周囲を歩いてみると、駅の隣には小さな道の駅。その前を歩いている人に話を聞いてみた。
「こんなところでも、逆に興味を持ってきてくれる人もいるんですよ。周りに何もないけれど、こんな大自然の中に新幹線で来れるんだから、考えようによっては便利じゃないですか?」
 なるほど、なんだかポジティブである。たしかに地元の人にとっては不便でたまらない場所から新幹線で東京にも新幹線一本で行けるようになったのだから、便利なのだろう。
 ⇒【写真】はコチラ https://nikkan-spa.jp/?attachment_id=1375996
 駅前のロータリーから先には森が広がる。周囲には集落もコンビニもない
 ちなみに、この奥津軽いまべつ駅からは津軽鉄道の津軽中里駅までのバスが出ているが、利用者は想定を大きく下回っているのだとか。いくら新幹線駅とは言っても1日5本しか停まらなければ、それもやむなし。
 そんなわけでしばらく大自然を楽しんだ後に東京に帰ることに。東京行き列車がやってくるホームに行くと、2人ばかりの乗客と駅員が3人……。駅員のほうが乗客より多いという摩訶不思議な状況だが、それでもやってくるのは時速320kmで走る日本の新幹線車両の最高峰E5。大自然の中にぽつんと佇む新幹線のターミナル。これもまた今の日本“らしさ”のひとつなのかもしれない。
 ●過疎新幹線駅ワースト5
 1 約060人 奥津軽いまべつ
 2  085人 いわて沼宮内
 3 約100人 木古内
 4  546人 新大牟田
 5  595人 新水俣
 ※現在発売中の『週刊SPA!』8/8発売号では「本当はアブない[新幹線]」という特集を掲載中。
 取材・文/SPA!新幹線トラブル調査班 
 https://nikkan-spa.jp/1375990

 元トラック運転手の野望――ネットで話題の「ピザ自販機」、上陸するまでの執念
‡2018(平成30)年8/8(水) 18:11配信 
写真◆TSUTAYA 楠木店に設置された『Pizza Self』 
ピザの自動販売機『Pizza Self』が広島のTSUTAYA 楠木店に設置され、注目を集めている。Twitterでは、「自販機はここまできたのか」「地元のピザ屋は潰れてしまったので、田舎にこそ欲しい」といった声があがる。メニューは、マルゲリータ(980円)と4種のチーズピザ(1280円)の2種類だ。焼き上がるまで3分。自販機の近くには、チーズが焼ける香りが漂う。この「変わり種自販機」は、一人の元トラック運転手が自力で日本に導入した。張本人、谷口佳陽さんに話を聞きいた。【BuzzFeed Japan / 嘉島唯】
■トラック運転手をしていると、宅配ピザが頼めない
8年前、物流系の会社を運営しつつ、トラックの運転手としても働いていた谷口さん。
「朝5時から、深夜1時まで働く毎日でした。ピザが食べたいなぁと思っても、時間が遅いので宅配も頼めないんですよね。24時間いつでも注文できるといいのに……と思っていたんです」
そんなときにYouTubeで見つけたのが、イタリアの企業が手がけるピザの自動販売機「Let’s Pizza」の動画だった。
紙幣をいれて数分待つと、焼き立てのピザが出てくる。この機械に衝撃を受けた。
「これなら24時間、いつでも焼きたてのピザが食べられる……! なんとか日本でも展開できないか」と、一人でイタリアの企業にコンタクトを取り続けた。
「問い合わせ先のメールアドレスに英語でメールを送って。もちろん最初は、本気にしてもらえなかったんですけれど、しつこく連絡して(笑)。しばらくするとその会社の社長とやりとりするようになり、イタリアに呼ばれたんです」
単身、渡伊した谷口さん。すると運営会社の社長から「一緒にビジネスをやろうよ」と誘われた。しかし、ほどなくして「Let’s Pizza」の会社はほどなくして経営破綻してしまった。
写真◆マルゲリータ(980円) 
■なぜ「Let’s Pizza」は失敗したのか? その答えは…
すでに「Let’s Pizza」の動画を見てから4年が経っていた。
せっかくイタリアまで来たのに……。
諦めきれない谷口さんは、「Let’s Pizza」経由で別の自販機メーカーを紹介してもらい、新しく共同開発することにする。そこで考える。
「Let’s Pizza」はなぜ失敗したのか?
それは「ピザの品質」だと分析する。
「ピザの生地は、発酵させないと美味しくないんです。『Let’s Pizza』の生地は発酵させていないものを使っていたんです。簡便さはありますが、味が劣ってしまうんですね」
自分で展開するときには「手でこねた自然発酵させた生地」を使う。この決意から、自販機メーカーの他にベネチアのピザメーカーと手を組むことにした。「10社くらい回って、ようやく良いピザメーカーさんに巡り会えました」。
「無理やり短時間で発酵させて作れる生地もありますが、基本的に人の手でこねて、1日寝かさないと美味しくならないんです。チーズも大事ですね。とことんこだわりました」
 ◎次ページは:せっかく作ったのに日本語非対応…!? 
■せっかく作ったのに日本語非対応…!?
ベネチアで作られたピザ生地を手に入れ、自動販売機も無事完成した。『Pizza Self』は、Windowsが搭載されており、温度管理はもちろん、タッチパネル操作もできる。
「でも、イタリアで作ったので日本語のフォントが入ってなかったんです。そこをまず改善して。あと、日本とイタリアだと気候が違うので壊れやすいんです。耐久性もあげて日本に持ってこれるようにしました」
しかし、認可が下りるまでかなりの時間を要した。ピザ自販機は「飲食業」にもあたるからだ。新しい形態の申請に、広島県をこえ、厚生労働省にも話が及んだ。「無事、国からも許可が降りたので設置できるようになりました」。
「Let’s Pizza」を開発したいと思い始めてから8年。その間、一度企業で勤め人となり、開発資金を貯め、その後自分で会社を起こし、今に至る。
写真◆ピザは箱にはいって出てくる。自販機脇には、ビニールとピザカッターが置かれている。 
■広がるピザの夢
無事、日本展開のめどがたった際、谷口さんは広島県の中小企業の経営支援を申請。これを見たTSUTAYAから声がかかった。こうして7月末に楠木店に設置することになったという。
「Pizza Self」には、連日人だかりができる。「今だけだと思いますけどね(笑)。行列もできて、本当に嬉しい限りです。日に何度か生地の補充に行くのですが、間に合わないくらいです」と谷口さん。
ほぼ一日中、自ら自販機にはりついてメンテナンスや補充に明け暮れる。実は、谷口さんにはさらなる野望がある。それは、日本製のピザ自販機を開発し、全国展開すること。
「イタリアから『Pizza Self』を2台日本に持ってきたんです。1台はこれ。もう1台は解体して、改良して増産しようとしてるんです。今すでに複数のメーカーさんと一緒に開発を始めています。ディスプレイで広告枠を販売できるようにしたり、アメリカピザの自販機も作る予定です」
目標は3年で100個の設置。「24時間365日、おいしいピザを皆さんに提供できるようにしたい」。

 祖母が残した手記 取材中に発見 焼け野原 歩いた祖母 被爆体験に涙
‡2019(令和元)年08/08(木) 11:10 長崎新聞 配信 
‡2019(令和元)年08/08(木) 15:35 長崎新聞 配信
 写真◆長男と次男を連れた祖母(中央)。1949年ごろ撮影 
 信じられなかった。涙がとめどなくこぼれ落ちた。昨年4月に92歳で亡くなった祖母が被爆体験をつづった手記を、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館(長崎県長崎市平野町)で、思いがけなく見つけた。家族にも被爆体験を語りたがらなかった祖母が、1945年8月9日の記憶を後世のために書き残していた。
 私は入社5年目で27歳。今年4月に報道部に異動し、長崎市政の担当となった。原爆関係の取材も多く、祖母の被爆体験を詳しく聞いておけばよかったと後悔した。
 6月中旬。祈念館を訪れた際、職員から「もしかしたら(祖母の手記が)あるかもしれませんよ。探してみたらどうですか」と勧められた。検索機に「中間妙子」と祖母の名前を入れてみると、あった。書棚を探して祖母の体験記を見つけ、手に取った。
 手記は95年に厚生省(現厚生労働省)が実施した被爆者実態調査の際、当時69歳の祖母がしたためていた。見覚えのある筆跡。時を越えて祖母に会えた気がしてうれしかった。手記は短いものだったが、祖母のつらく悲しい体験に触れ、読んでいるうちに声を出して泣いていた。
 祖母の手記には、次のようにつづられていた。
 「当時家族は松山町に住んでおりましたが、全員外出しており助かりましたが、父が茂里町の工場でヤケドを負い、長い通院の末治すことができました。私は会社に出社しており、日が暮れるのを待って母の実家長与へ長崎駅より線路の上をずっと歩いて行きましたが、途中喉が渇いてどうしようもなく田んぼの水を手ですくって飲み、家へたどりつきました。今でも松山付近を通ると思い出されてなりません。二度とこんなことはあってはいけないことと思います」
 調べてみると、祖母の自宅は爆心地からわずか約120メートルの場所にあった。もっと詳しく当時の様子を知りたくなり、被爆者健康手帳の情報開示を被爆2世の母に依頼した。母から3世の私が委任を受け、祖母と母の親子関係が分かる戸籍謄本などを市に提出した。約1週間後、祖母が62年に手帳を申請した書類の写しを入手した。
 そこには手記よりも詳しい被爆直後の状況がつづられていた。申請書によると、当時19歳の祖母は県漁業協同組合連合会に勤務しており、約2・5キロ離れた五島町で被爆していた。
 ■思いが交錯
 祖母はあの日、ピカッとした光に驚いた。避難命令に従い夢中で山へ逃げる際、足を負傷した。夜になって線路を伝い、歩いて祖母の母の実家があった長与へ向かった。約1週間後、家族と松山町の自宅に行ったが家は全焼していて、何も残っていなかった。
 祖母の妹、中村美智子さん(86)は長与の家にたどり着くなり泣きだした姉の姿を覚えていた。「何人もの死にかけた人に足を捕まれた。助けてください、水をくださいと言われたけど何もしてあげられなかった」と悔いていたという。着ていたもんぺの裾はかなり汚れていた。
 祖母の自宅があった松山町の平和公園付近を訪れた。現在ではきれいに整備されているが、長崎原爆資料館が所蔵している原爆投下直後の写真を見ると、まさに焼け野原で、ぞっとした。祖母は家も何もないのを見て、悲しかったのか。それとも生きていただけでもよかったと思ったのだろうか。
 被爆当時の勤務先は現在の五島町公園周辺にあったようだ。今は周囲に飲食店やコンビニが並んでいる。祖母は原爆がもたらした惨状を目に焼き付けながら、家族を心配して爆心地付近を歩いたのかと思うと、心が苦しくなった。
 ■日常に感謝 
 私にとっての祖母は、いつも笑顔で優しく接してくれる大好きな「ばあちゃん」だった。部活や勉強で疲れて帰宅した私を心配してくれたり、友達が遊びにくるとご飯を作ってくれたりした。
 しかし、原爆は祖母の心を深く傷つけていた。祖母は7人の子どもを育てた。このうち3人ががんを患い、長男と次男は祖母より先に亡くなった。その際「私が原爆に遭ったせいだ」と自分を責めていた。被爆体験を語らなかった背景には、想像を超えるつらい体験があったのだろう。
 もしあなたの周りに戦争や原爆を経験した人がいれば、寄り添って体験談に耳を傾けてほしい。身近な人が被爆者で既に亡くなったという人は、祈念館に足を運んでみてほしい。あなたの大事な人に何があったのか、私のように少しでも分かるかもしれない。
 あの日、祖母が自宅にいて被爆していれば、私はいま、この世にいなかったに違いない。祖母に心から「ありがとう」と言いたい。平和に暮らせる当たり前の日常に感謝し、健康で元気に生きることが何よりの恩返しになるはずだ。
 ◎体験記収集 11万人超 長崎原爆死没者追悼平和祈念館
 国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館(長崎県長崎市平野町)は、被爆者の遺影を登録し、被爆体験記など被爆関連資料の収集、公開に取り組んでいる。
 同館は被爆体験を継承し、原爆死没者を追悼するための施設として2003年に開館。現在、被爆体験が記された書籍を含め、11万4888人分の体験記を閲覧できる。
 同館は今年4月、約2万7千人の被爆者健康手帳所持者に、被爆体験記を募る文書を送った。8月7日現在で体験記29件が寄せられ、体験を同館に聞き取ってもらう「執筆補助」に79件、証言映像に5件の申し込みがあった。
 同館は体験記収集への協力を呼びかけている。問い合わせは同館(電095・814・0055)。
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 aya***** | 私も被爆者3世です。祖母は長崎市で被爆しました。私の祖母も生前は戦争や原爆のことは自分から語ることはありませんでした。ただ、それがあまりにも祖母の心に深く傷を残していたということに気付く経験がありました。それは一度だけ、祖母に被爆体験を聞いた時のことです。確か高校一年の授業一貫だったと思います。身の回りの人の戦争体験を聞いて作文にしなさいという平和と国語の授業だったと記憶しています。その宿題を持って、祖母の元に行きました。個人的には聞きたくありませんでした。なぜなら、今まで一度だって祖母の口から直接的に戦争体験を聞いたことはなかったから。意を決して切り出してましたが、その答えは両親から聞いていた私の知るエピソードとは違っていました。中身はとてもちぐはくで、自分の心を守るため長い年月の中で忘れようとした形跡がありました。その後の気持ちの落ち込み。これ以上は聞いてはいけないと、そう思いました。 
 yuk***** | 私も被爆三世です。私の祖母も原爆のことは語らずに逝ってしまいました。二世の母を含め祖母の子どもは五人中三人ガンでこの世を去りました。私もいつか遺伝子に刻まれた原爆の影響を恐れつつ、受け入れて生きています。こんな事が二度と起こらない世界になってほしいと明日を控え強く思います。 
 kab***** | 原爆の残酷さ、 戦争の悲惨さは 後世に 語り つがなくてはいけない事なのだと 、改めて 思った。 
 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190808-00000007-nagasaki-l42

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 ┃ 伝統保守と戦後保守編        ┃
 ┃ 其の六:司馬史観と占領憲法<全2頁> ┃
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 2008(平成20)年07月29日(火)
 ◆司馬史観の原風景 ⇒ ちまたには、コミンテルン(コミンフォルム)史観とか、東京裁判史観とか、さらには、司馬遼太郎史観なるものが未だに蔓延つてゐて、昭和史を完膚無きまでに断罪する風潮が今も残つてゐる。このうち、コミンテルン史観と東京裁判史観については噴飯ものとして言及する価値がないとしても、司馬史観なるものが一斉を風靡してきたことが、保守層や保守論壇に与へた影響は計り知れないものがある。この司馬史観、つまり、司馬遼太郎(本名・福田定一)の歴史観は、司馬の特異な「軍務体験」なるものから始まる。そのことを『朝日ジャーナル』(昭和四十六年一月一、八日号)の「対談・歴史の中の狂と死 司馬遼太郎(作家)&鶴見俊輔(評論家)」において、司馬は、次のやうに語つてゐる。これが司馬の原点となつてゐることは否定できない。「私はね、戦後社会を非常にきらびやかなものとして考えるくせがあるんです。これは動かせない。それは自分の体験からくるんですけれども、私は兵隊にとられて戦車隊におりました。終戦の直前、栃木県の佐野の辺にいたんですけれども、東京湾か相模湾に米軍が上陸してきた場合に、高崎を経由している街道を南下して迎え撃てというのです。私はそのとき、東京から大八車引いて戦争を非難すべく北上してくる人が街道にあふれます、その連中と南下しようとしている、こっち側の交通整理はちゃんとあるんですか、と連隊にやってきた大本営参謀に質問したんです。そうしたら、その人は初めて聞いたというようなぎょっとした顔で考え込んで、すぐ言いました。これが私が思想というもの、狂気というものを尊敬しなくなった原点ですけれども、『ひき殺していけ』といった。」しかし、この話にはそもそも信憑性がない。このことに関してなされた司馬のその後の発言内容にも微妙な変化があり、この話が伝聞なのか直接体験なのかも不明である。それらを総合してみると、その発言の日時も不特定で、発言者が「上司」なのか「上官」なのか、「大本営の少佐参謀」なのか、その名前の特定などは一切なされてゐない。また、司馬が当時所属してゐた戦車第一連隊の関係者や参謀本部の関係者もそのやうなおぞましい見解を持つ者は一人もなく、冗談でもそのやうな発言をした者は居ないと断言してゐるのである。その上、当時の事情からしても、司馬がこれを真に受けて憤慨するやうな状況は全くなかつたと云へる。すなはち、
 昭和二十年
 六月八日(金)、天皇御臨席の最高戦争指導会議(御前会議)において、聖戦完遂、國體護持、皇土保護の国策決定を行つたものの、
 七月二十六日(木)には、ソ連を除外してポツダム宣言が発表され、
 七月二十八日(土)には、鈴木貫太郎首相が、「ポツダム宣言」について「政府はこれを黙殺し、あくまで戦争完遂に邁進する。」と声明した。すると、
 八月六日(月)、アメリカは、広島に原爆を投下し、
‡八月八日(水)、ソ連は、ヤルタ密約により日ソ中立条約を不当に破棄して対日宣戦を通告し、ポツダム宣言に参加することを表明した。さらに、
 八月九日(木)、アメリカは、ソ連の参戦が早まつたこともあつて、今度は長崎に原爆を投下した。そして、
 八月十日(金)午前二時二十分、御前会議において、國體護持などを条件としてポツダム宣言の受諾を決定し、
 八月十四日(火)の御前会議では最終的な御聖断を仰いだといふ経緯からして、
 六月八日(金)の国策決定のうち、聖戦完遂と皇土保護の観点から本土決戦に備へて、帝都防衛のための戦車隊投入計画の立案がなされたとしても、
 八月十日(金)にはポツダム宣言を受諾といふ国策決定がなされてゐることから、それは廃案になつたはずである。司馬の話によると、前に述べたとほり、伝聞なのか直接体験なのかも不明で、発言者の名前も所属も階級も定かではない。そして、その発言の日時についても、「昭和二十年の初夏」といふ程度の曖昧なものである。「初夏」とは、陰暦四月の異称であるから、新暦では五月ころである。
 六月八日(金)から
 八月十日(金)までの間は、本土決戦となる可能性があると予測されてゐた時期であるが、初夏ならば、その計画案の素案が立案されうる時期ではあつたが、作戦として正式に決定されたものではありえない。沖縄戦の最中であつて、作戦計画自体が完成してゐないはずである。この時期は、本土に上陸が予測される米軍規模の検討、上陸場所の予測、米軍海兵隊が使用する火器等の装備とこれを迎撃する迫撃戦法の検討、戦車部隊の任務分担その他迎撃作戦計画に必要な情報を、沖縄戦の詳細な実情を踏まへて具体的に立案しうる以前の段階なのである。物事には順序がある。まづ、大本営において迎撃戦闘作戦計画を決定し、その計画実行のために必要な事項、すなはち、附近地域に対する戒厳命令、附近住民に対する避難命令、疎開措置、戦車移動用道路の一般車両等通行禁止措置などの事前準備が具体的に内務省などを含めて立案されることになる。それゆゑ、仮に、司馬の所属部隊を訪問したこの少佐参謀にそれなりの任務があつたとすれば、それは作戦立案のために必要な事前調査視察を兼ねて、本土決戦のための士気高揚を図る目的であつたこと以外にはなく、大本営や内務省などの協議によつて決定されるべき事項をその参謀が独断で判断することができないことは、司馬に解らないはずはない。それゆゑ、この視察に来た参謀将校に、非難措置や交通整理などの具体的な方針を質問すること自体が見当違ひである。敗戦色濃厚なこの時期に、国民の総力戦としての士気高揚が最も必要であつたにもかかはらず、苟も皇軍将校(戦車第一連隊の陸軍少尉)である司馬から、真つ先にこのやうな質問しか出てこないことにその参謀は落胆したであらう。つまり、司馬の言葉を借りれば、交通整理の質問を受けた参謀が「初めて聞いたというようなぎょっとした顔」をするのも当たり前であらう。本来的な迎撃戦闘作戦に全く関心を持たず、交通整理のことにしか関心がない司馬の質問に、その士気が著しく低いことを感じて落胆し、このやうな自虐的ないしは揶揄したやうな回答をしたとしてもさほど不思議ではない。このやうに検討してくると、司馬の「体験」は捏造されたものか、あるいは著しい思ひ込みによる過剰反応が虚言癖を生んだことの結果としか考へられない。学徒動員により戦車隊での士官経験があり、しかも、著名な作家となつた者の発言は、世間では重みがあると自惚れて、自らの言葉を「特権化」し、極めて微少で特異な自己の体験、しかも、「参謀との会話」にすぎないものを、「大本営の決定」であるかの如く「肥大化」させ、そして、これを「大東亜戦争全体」に「拡大化」し、ついには、これを戦争観や歴史観として「普遍化」し、傲慢にも全体としての昭和史を語つたことになる。まさに「井の中の蛙」であり、「裸の王様」である。その参謀に対する反感が、皇軍全体に対する反感に昇華し、さらに、昭和史全体に対する憎悪へと転換させたのである。このやうに、司馬は、始めに結論ありきである。前掲『朝日ジャーナル』でも、「私はね、戦後社会を非常にきらびやかなものとして考えるくせがあるんです。これは動かせない。・・・」とし、その固定観念を披瀝した上で、その後に続く対談の内容の中でも、次のやうに、司馬自身が「反國體論者」であることを明確に告白してゐる。だから、朝日ジャーナルで対談したとも云へるのである。それは、鶴見俊輔が「・・・そういうふうな戦争の末期は、まったく集団狂気ですね。一億玉砕して神州を守る、国体を守る、と。」といふ発言に答へて、司馬は、「国体を守るということだけで十分狂気ですから。」と答へてゐることからも明らかなのである。「集団狂気」を批判するのならまだしも、これに託けて、「國體護持」の至誠を「狂気」の仕業とするのである。
 http://kokutaigoji.com/reports/rp_iwa_h200729-1p.html

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 ┃ 今日は何の日? ┃名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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 1974(昭和49)年08月08日(木) ニクソン米大統領、ウォーターゲート事件で辞意表明 ⇒ ニクソン米大統領がウォーターゲート事件で辞意を表明した。1972年6月、ニクソン氏の支持派がワシントン市内の民主党本部に盗聴器を仕掛けるため侵入し逮捕。その後、大統領側近の関与も判明したが、同氏は潔白を主張。しかし、下院司法委員会が大統領の弾劾決議案を可決したのを受け、任期途中で辞任した【AFP時事】※2021(令和三)年説明追加
 1968(昭和43)年08月08日(木) 札幌医大で国内初の心臓移植手術 ⇒ 札幌医科大学の和田寿郎教授が国内初の心臓移植手術を実施した。海で溺れ脳死と判定された21歳の男子大学生の心臓を、心臓弁膜症と診断された18歳男性に移植したものの、男性は術後83日目に死亡。和田氏は殺人容疑で刑事告発されたが不起訴処分となった。写真は、心臓移植手術をする和田教授(右から2人目)【時事通信社】※2021(令和三)年説明削除
 1973(昭和48)年08月08日(水) 金大中氏が東京都内で拉致される
 https://www.jiji.com/jc/daily
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①┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=松村真行
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‡1953(昭和28)年08月08日(土) 1953 元メジャーリーガーがアルバイトで日本初登板?
‡2017(平成29)年08月08日(火) 11:10 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は8月8日だ。 
 写真◆当時23歳だったカイリー。かなりガッチリした体型だったようだ
 1953年、日本球界におけるエポックメーキングとなる事件が起こった。 
 元メジャー・リーガーの日本球界デビューである。来日前の51年レッドソックスで7勝を挙げていた毎日(現ロッテ)の左腕、レオ・カイリーだ。ただし、日本に来たのは、日本球界移籍のためではなく、兵役としてである。 
 当時、朝鮮戦争真っ只中、日本の基地に駐留する米軍兵も多く、その中には米球界経験者もいた。彼らがほかの野球好きと一緒に基地別にチームを作り、日本の二軍チームと対戦するのも珍しくなかったという。その中で兵役の休日に、一軍で投げる“アルバイト選手”が登場。西鉄の三原脩監督が先駆者で52年にオニール、ワイヤット、53年にロング、ペインと契約したが、彼らにはメジャー経験がなかった。 
 史上初の元メジャー・リーガー、カイリーの初登板が53年の8月8日、甲府での西鉄戦だ。4番手で登場し、中西太、塚本悦郎にホームランを打たれ3失点を喫しながらも勝利投手となっている。 
 中西は「全部シュートして素直な球が1つもなかった。スクリューボールがすごかった」というから、タイプ的にはいまのメジャーでツーシームを駆使する投手と大きく違ってはいないようだ。 
 毎日の日系人監督・若林忠志が自ら足を運び、スカウト。1試合10万円の契約だったという(当時の選手の月給は4、5万円)。結局カイリーは、8月30日までに6試合投げ、6勝0敗、防御率1.80。この年の7月に朝鮮戦争が休戦となっていたこともあり、除隊が早まって毎日もそこで退団。翌54年からレッドソックスに復帰した。 
 なお驚いたのはバッティングだ。19打数10安打、打率.526と打ちまくったが、こちらについてギャラが出たかどうかは定かでない。54年以降、日本球界でのアルバイト投手は禁止となっている。 
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②┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡2009(平成21)年08月08日(土) 巨人・亀井義行が、王貞治氏に並ぶシーズン3本目のサヨナラ本塁打
‡2018(平成30)年08月08日(水) 09:12 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわってその日に何があったのか紹介していく。今回は8月8日だ。
 写真◆これは翌9日の試合。今度は決勝2ランでまたもヒーローに
 今回、振り返るのは巨人の現役名バイプレーヤーの名場面だ。
 いつの間にかホームランが16本になっていた。小笠原道大には及ばないが、四番のラミレスよりも、30発以上を2度マークしている阿部慎之助よりも多いのである。亀井義行の急激なロングヒッターへの変貌は驚くばかりだ。
 その中身がまたすごい。16本中3本がサヨナラホームラン。前年までセ・リーグの打者で、1シーズン3本以上のサヨナラ本塁打を放っているのは7人。その中には王貞治(70年、3本)の名もある。王は巨人入団12年目のことだったが、亀井は5年目の達成。しかも、規定打席数に1度も達したことのない打者だ。
「(王氏に)名前を並べたらいかんでしょう」
 照れるというより恐縮しきりの亀井だったが、16号、つまり、8月8日の対ヤクルト戦(東京ドーム)の延長10回裏、先頭打者で押本から打った今季3本目のサヨナラ本塁打(2対1)を見れば、「これは本物だ」と納得させられた。
 2球目の外角フォーク。タイミングをはずされず、うまくすくう打者はいるだろう。しかし、この打球をバックスクリーンまで運べる打者はめったにいない。まさに王並みの当たりだった。
「こんないいところで打てて……。ちょっと怖いくらい」と亀井。それも実感だろう。
 2本目のサヨナラ本塁打を放った4日の対広島戦(旭川)を思い出そう。
 9回裏一死二塁で永川勝浩から起死回生の同点本塁打で試合を振り出しに戻し、延長11回裏一死一塁で今度はサヨナラ2ラン(6対4)。亀井は巨人史上初の9回同点、延長でサヨナラの2本塁打を放った打者となった。
 さらに4月25日の対中日戦(東京ドーム)では9回裏無死一、二塁で、あの岩瀬仁紀から代打逆転サヨナラ3ラン(5対4)。
 まさに恐怖の五番打者だった。
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③┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡2013(平成25)年08月08日(木) ゴジラが“甲子園”に戻ってきた!
‡2019(令和元)年08月08日(木) 7:05 野球の歴史の中から、日付にこだわってその日に何があったのか紹介していく。今回は2013年8月8日だ。 
 写真◆21年ぶりに夏の甲子園大会を訪問した松井氏。「当時の記憶がよみがえってくる」と感慨深げだった
 21年ぶりに伝説のスラッガーが夏舞台へと戻ってきた。第95回全国高校野球選手権記念大会が開幕した8月8日、松井秀喜氏が甲子園球場を訪問。開会式と、その後に行われた全3試合を観戦した。 
「甲子園は原点です」
 星稜高(石川)在学時代は4度出場。1992年、3年夏の2回戦(対明徳義塾高)では「5敬遠」により敗退したことが、社会問題に発展した。 
「初めて甲子園の土を踏んだ試合(1年夏、2回戦、対日大鶴ケ丘高)と、5敬遠で負けた試合を思い出しました」 
 スタンドで観戦するのは中学生以来。すでに甲子園球場は2010年にリニューアルされているが、球児が戦うフィールドは「すべて変わらないですね」と、青春時代の記憶をよみがえらせていた。 
 松井氏が訪れた8日。第2試合では左の超高校級スラッガーが大爆発した。大阪桐蔭高の主将・森友哉だ。日本文理高(新潟)との1回戦で、2打席連続本塁打を含む3安打4打点で初戦突破に貢献。森は2年春から4季連続の甲子園出場で、聖地での通算本塁打はこれで松井氏の4本を超える5本となった。
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 ①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20170808-11
 ②https://ent.smt.docomo.ne.jp/article/1105311
 ③https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190808-11
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 ┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.429 ┃  60円
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‡1966(昭和41)年08月08日(月)号 天皇皇后、皇太子夫妻をまとめて招待しようとした永田雅一
 2019(平成31)年03月27日(水) 10:14 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中(平日のみ)。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 
◎さすが黒柳徹子
 写真◆表紙は阪神・村山実
 今回は『1966年8月8日号』。定価は60円だ。 
 オールスターが行われ、第1戦は6対2でパ(東京)、第2戦は6対3でパ(甲子園)、第3戦が5対1でセの勝利だった(広島市民)。 
 第1戦の東京球場では、佐藤栄作総理が始球式をしたことでも話題となったが、東京・永田雅一オーナーはさらにすごいプランを持っていた。 
 天皇皇后両陛下、皇太子ご夫妻をまとめて招待しようとしていたのだ。自身の政財界の人脈をフルに使い、一度は宮内庁のOKも出て正式発表目前だったようだが、結局、取りやめとなった。 
 その期間、那須で静養中だから、というが、それならもっと前に分かってもいいはず。何かあったのか、それとも永田がダメ元でラッパを吹いたのか。 
 球宴の後、東京・後楽園飯店で巨人監督・川上哲治の殿堂入り記念パーティー。就任以来、何かと批判も多かった川上監督だが、勝てば官軍、前年に続き、チームが好調とあって周囲は絶賛の嵐(まあ、祝賀パーティーだから当たり前か)。 
 あいさつに立った務台読売新聞副社長は、 
「川上君は選手の使い方がうまくなった。何も言うことはない。このうえは優勝するのはもちろんアメリカチームとも7回勝てとは言わないが、1回や2回はぜひ勝ってほしい」 
 とあいさつ。同年オフはドジャーズ来日が予定されていた。 
 ふたりだけのマジメ対談では、巨人・国松彰とタレント・黒柳徹子が対談。「まったく野球は分からない」という黒柳がいい味を出している。 
 まず国松が外野手と聞き、「あの草の生えているところを外野と言うのでしょう」から始まり、練習をお稽古と言ったり、さらには「外野の人はいつも上を向いているのでしょう」。 
 要はテレビで見ていると、外野が映るのはフライが上がったシーンが多い。だからいつも上を見てボールを待っていると思ったらしい。 
 では、またあした。<次回に続く>
 備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-201903326-01
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 ┃ プロ野球仰天伝説 No.050 ┃ ONLINE
 ┗━━━━━━━━━━━━━━┛ 写真=BBM
   【助っ人トンデモ話 No.01】
 アルバイトで試合に出ていた基地所属の元メジャー・リーガー【助っ人トンデモ話】
 2018(平成30)年2月11日(日) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。 
 カイリー[1953毎日/投手]
 毎日・カイリー
 1950(昭和25)年に勃発した朝鮮戦争で、多くのメジャー経験者が軍服を着た。そのなかで日本の基地勤務となった男と日本の球団が、彼らに勤務の休日だけ試合に出てもらう、“アルバイト契約”を結ぶこともあった。もっとも有名なのが、
 1951(昭和26)年にレッドソックスで7勝を挙げた毎日のレオ・カイリーだ。
 1953(昭和28)年8月に契約すると、
‡1953(昭和28)年8月8日(土)から30日(日)までに、6試合に登板し、6勝0敗、防御率1.80。バッティングも19打数10安打、打率.526とよく打った。 
 戦争の停戦もあって9月には除隊して、帰国。レッドソックスでメジャーに復帰している。その後、
 1954(昭和29)年2月になって福井盛太コミッショナーから「米軍勤務中の選手の採用は自粛するよう」通達が出されたこともあり、米軍所属選手は姿を消すことになった。
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 http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180211-10
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
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