過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今夜の『夜のヒットスタジオ』だヨ(=^◇^=)

 

 1985年7月8日、松田聖子が12インチシングル「DANCING SHOES」で20作連続のオリコン1位を獲得~“聖輝の結婚”に花を添える
 2019-07-08 公開 By - NEWS ONLINE 編集部
 2020-01-12 エンタメ大人のMusic Calendar大人のMusic Calendar 更新
【大人のMusic Calendar】現在、「プレ40周年」と銘打ったコンサートツアー“Seiko's Singles Collection”を開催中の松田聖子。ツアータイトルどおり、ほぼシングル曲だけで構成された内容で、すぐに追加公演が決定するほどの人気を博している。1980年のデビュー以来、「永遠のアイドル」として、常にスポットを浴びてきた印象のある彼女だが、実は2年ほど活動を控えていた時期があった。そう、神田正輝と結婚した85年6月から、娘・神田沙也加の出産を経て、87年4月に本格的な再始動を果たすまでの期間である。本稿では初婚前、第1期アイドル時代の掉尾を飾ったシングル曲「DANCING SHOES」と、当時の彼女を取り巻く状況について検証したい。85年の松田聖子は年初から年末まで、芸能界の主役であり続けた。前年(84年)の年間セールス(シングル+LP+カセットの総売上金額/オリコン調べ)は78.3億円。2位の中森明菜(56.9億円)、3位のチェッカーズ(36.6億円)に大差をつけただけでなく、不滅と思われた78年のピンク・レディー(71.9億円)をも凌ぐ歴代最高のセールスを記録し、歌謡界の女王として君臨していたのだから、当然と言えば当然かもしれない。だが注目されたのは音楽面だけではなかった。一連の狂騒曲は
 1985(昭和60)年01月23日に始まった。この日、開かれた記者会見で、彼女はかねてより交際が報じられていた郷ひろみとの破局を告白。「好きで、愛し合って別れるんだから、もし今度生まれ変わった時は絶対に一緒になろうねって…」と声を詰まらせて号泣した。郷との仲は噂先行で、一部では「話題づくり」との見方もあったため、図らずもこの会見で本当に交際していたことが判明するわけだが、トップアイドルによる破局会見は前代未聞。芸能メディアは蜂の巣をつついたような騒ぎとなる。週刊誌やワイドショーが真相解明に躍起となる中、彼女は後述するアルバムのレコーディングのため渡米。2月末まで約1ヵ月間ニューヨークに滞在する。3月からは前年にスタートした全国ツアー“GOLDEN JUKE”を再開するが、その間にシングル「天使のウインク」と、ベストアルバム『Seiko-Train』がオリコンチャートの1位を飾るなど、人気は盤石であった。そして
 1985(昭和60)年03月04日、聖子劇場の第二幕が上がる。この日、主演映画『カリブ・愛のシンフォニー』(4月13日公開)で共演した神田正輝との仲を尋ねられた彼女は、恋人関係にあることを肯定。
 1985(昭和60)年04月09日には神田との婚約と6月の結婚を公表する。破局会見からわずか2ヵ月半での婚約は賛否両論を巻き起こすが、それでも人気に陰りは見えず、寧ろ日を追って祝賀ムードが高まっていく。その証拠に5月発売のシングル「ボーイの季節」も、6月発売のオリジナルアルバム『The 9th Wave』も、あっさりと1位を獲得。結婚引退を表明しなかったため、「独身最後」と謳われた全国ツアー“Seiko Prism Agency”
 1985(昭和60)年04月25日~05月12日も盛況を極め、結婚を決めたトップアイドルの一挙手一投足がメディアを賑わせていく。誰が言い出したのか、
 1985(昭和60)年06月24日に決定した華燭の典は「聖輝の結婚」と称され、当日は早朝、新婦が自宅を出るところから、目黒サレジオ教会での挙式、ホテルニューオータニにおける披露宴、果ては新婚旅行でハワイに旅立つ成田空港まで、ほぼ終日、ニュースやワイドショーで報じられた。ゴールデンタイムにテレビ朝日系で独占放送された特番の視聴率は34.9%。5年前にデビューした元祖ぶりっ子のアイドルが国民的スターになった瞬間だった。その6月24日にリリースされたのが、彼女にとって22作目のシングルにあたる「DANCING SHOES」であった。同作はもともと全米デビューすることを前提に制作された全曲英語詞のアルバム『SOUND OF MY HEART』(8月15日発売)の中の1曲。前述の渡米はこのアルバムの歌入れのためだったが、実は84年10月と85年5月にもニューヨークのヒット・ファクトリー・スタジオでレコーディングが行なわれている。同アルバムのプロデューサーは、ビリー・ジョエルやサイモン&ガーファンクルを手がけたことで知られるヒットメーカーのフィル・ラモーン。ソングライターには、マイケル・ボルトン、ボビー・コールドウェル、マイケル・センベロなど、著名ミュージシャンの名前がクレジットされ、全アレンジをグラミー賞受賞歴もあるジャズピアニストのデイヴィッド・マシューズが担当するなど、錚々たるメンバーが参加したが、歌い手の結婚・休業が決まったため、全米進出は見合わせることになったという。欧米の音楽シーンを意識したロックテイストのダンスナンバーや、AOR系のエモーショナルなバラードが揃った同アルバムだが、リードシングルの「DANCING SHOES」は、「素敵な彼と踊りたい!」と胸をときめかせる少女の心情を歌ったキュートでリズミカルなポップチューン。アタックを効かせたボーカルは“聖子ちゃん”の甘い歌声とはひと味違う力強さを備えていた。同作は“SEIKO”名義で英国のみ7インチ盤が、日本では彼女にとって初となる12インチシングルでリリースされ、7月8日付けのオリコンで初登場1位を獲得。3rdシングル「風は秋色」(80年)から続いてきたシングル連続1位記録を「20」に伸ばし、自らの結婚に花を添える形となった。なお12インチシングルで1位を獲得したのは、さだまさし「親父の一番長い日」(79年)、中森明菜「赤い鳥逃げた」(85年)に続く3作目(初登場1位は初)、日本人アーティストによる全篇英語詞の楽曲が1位を獲得したのは史上初の快挙であった。作詞・作曲は、オリビア・ニュートン・ジョンの「ハート・アタック」(82年/全米3位/オリコン71位)などをヒットさせていたスティーヴ・キプナーとポール・ブリスのコンビで、彼らは88年にも「Marrakech~マラケッシュ~」を作曲し(作詞は松本隆)、彼女に23作目のシングル1位をもたらしている。結婚時点(85年6月24日)で、シングルは歴代6位の1,081万枚、LPは井上陽水に次ぐ歴代2位の475万枚、カセットは歴代1位の321万本。デビューからわずか5年で破格の実績を残した松田聖子だけに、結婚後に発売された『SOUND OF MY HEART』は本人稼働が全くなかったにも関わらず、オリコン・アルバムチャートで最高2位のヒットを記録した。“ミセス聖子”の動向はその後もメディアを通じて伝えられ、11月には紅白歌合戦への6回目の出場が決定。大晦日に7ヵ月ぶりのステージで「天使のウインク」を熱唱し、“松田聖子イヤー”を締めくくることになる。当時、彼女を担当していた音楽プロデューサーの若松宗雄によると、彼女は当初、海外進出に積極的ではなかったという。だが、おそらく『SOUND OF MY HEART』の制作を通じて手応えを感じたのであろう。88年にはデヴィッド・フォスターをプロデューサーに迎えた国内向けアルバム『Citron』を発表。89年には再びフィル・ラモーンがプロデュースしたアルバム『ゴヤ・・・歌でつづる生涯』に参加し、3曲を歌唱。うち1曲では3大テノールの1人、プラシド・ドミンゴとデュエットを披露し、非凡な実力を証明する。そして90年6月、ついに『Seiko』で全米デビューを果たすのである。松田聖子「天使のウインク」『Seiko-Train』「ボーイの季節」『The 9th Wave』「DANCING SHOES」プラシド・ドミンゴ,グロリア・エステファン,松田聖子,リッチー・ヘブンス『ゴヤ・・・歌でつづる生涯』『Citron』写真提供:ソニー・ミュージックダイレクト
 ソニーミュージック 松田聖子公式サイトはこちらhttp://www.sonymusic.co.jp/artist/SeikoMatsuda/
【著者】濱口英樹(はまぐち・ひでき):フリーライター、プランナー、歌謡曲愛好家。現在は『昭和40年男』(クレタ)、『EX大衆』(双葉社)、『週刊ポスト』(小学館)等の雑誌やWEBに寄稿するかたわら、FMおだわら『午前0時の歌謡祭』(第3・第4日曜24~25時)に出演中。近著は『ヒットソングを創った男たち 歌謡曲黄金時代の仕掛人』(シンコーミュージック)、『作詞家・阿久悠の軌跡』(リットーミュージック)。
 https://news.1242.com/article/179223

「聖輝の結婚」松田聖子と神田正輝
 2014(平成26)年06月24日 21:27:46 テーマ:Seiko Memories
 さて、ひとつ前の記事では仕事上での聖子さんのウェディングドレス姿を振り返ってみたが今日は6月24日なので、私生活の聖子(法子)さんのウェディングドレス姿などをUP。 
 1985(昭和60)年6月24日(月)神田正輝さんと松田聖子(本名:蒲池法子)さんが結婚。めでたく神田法子さんになりました。「Dancing Shoes」の発売日でもあったね~♪近代映画社「聖子1911DAYS」より ワイドショーの加熱ぶりも凄かった!紆余曲折・急展開な恋愛劇だったんで世間じゃ雑音も多かったけど…自分は、彼女の選択は割りと素直に祝福できました。関係ないけど、郷さん…双子の男の子誕生おめでとうございます!集英社「週刊明星」より テレビ朝日・月曜スペシャル90で「独占生中継!!おめでとう聖子・正輝結婚~成田より愛の旅立ち」と題して、夜の7時から約2時間の特番。サレジオ教会での挙式ハイライトホテルニューオータニからの豪華披露宴を中継。ハワイへハネムーンに向かう成田空港まで追っかけは少しやりすぎで、どうかと思ったが…(^_^;)結局は、ハワイにもついて行ってんだからどうしようもない!!(笑)マガジンハウス「週刊平凡」より 目黒区碑文谷のサレジオ教会近隣にはファンや報道陣が溢れ石原プロや警察も仕切るの大変だった模様。自分は…見に行きたかったが…月曜だったんで普通に登校。行ったら、クラスの皆に「ショックで休むと思った…」とか云われ…(笑)光文社 女性自身ブックス「憧れて…ジューンブライド」より  二人は1997年に別れてしまったけど今、大活躍のひとり娘 沙也加ちゃんを授かったんで良かったのではないでしょ~か。夫婦の事は他人が口を挟む問題じゃないからウダウダ書くのはやめときます 週刊誌も総力特集で買うの大変でした 女性自身の編集だが結構貴重な写真やエピソード満載な本。6月24日なんで軽く振り返ってみたけど今は3人目のご主人と結婚生活送ってる聖子さんには失礼な内容だったかな…(^_^;)…6月13日が今のご主人との結婚記念日でしたね…おめでとうございます! と、何だかよくわからない展開になってしまったが終わる では!
 https://ameblo.jp/ys-waiesu02/entry-12502452063.html

 85年「聖輝の結婚」視聴率34・9%
[2012年6月13日13時59分] 
 松田聖子(50)は、1985年(昭60)に俳優の神田正輝と結婚した。同年6月24日の結婚式、披露宴のテレビ中継は視聴率34・9%を記録し「聖輝の結婚」と言われたが、1997年(平9)1月に離婚した。
 翌98年5月に6歳年下の歯科医と再婚。「会った瞬間にビビビッときた」は流行語にもなった。00年12月に離婚した。
 https://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20120613-966741.html

 映像◆松田聖子 徹子の部屋 ⇒ 85年。某所に上げた物よりちょぴり長めです。本当に 当時の聖子ちゃんに、さやかちゃんを見せてあげたいなあ…
  アニメ◆動画:松田聖子 徹子の部屋 
  ダイジェスト◆動画:松田聖子 徹子の部屋 
  静止画◆動画:松田聖子 徹子の部屋 


 松田聖子記者会見 今じゃムリな質問連発! 聖子をイジり倒す記者  https://youtu.be/0IwJXBUUkP0
 

 松田聖子&神田正輝 電撃!婚約発表記者会見 1985(昭和60)年4月9日(火) ε―ヽ(*^∀^)ノ。゚+.祝婚約♪  https://youtu.be/2RXjK8oLIB8
 東京・赤坂 ホテルニューオータニ 藤の間にて もう30年も前のことになるんですね~ 時間のない方は7分あたりからご覧ください 冒頭約1分は諸般の事情により映像をカットしています、ご了承ください
 

 松田聖子 CM 江崎グリコ・キャデリーヌ Ver.1~2 1985年  https://youtu.be/SrB7x-rvcbM
 

  独占特報! 松田聖子1985 http://v.youku.com/v_show/id_XNDk1MjMwNDk2.html
  ご聖子ん様SUMMER前特番1映像◆http://v.youku.com/v_show/id_XNDgzMDI1MDI4.html
  ご聖子んSUMMER前特番2映像◆http://v.youku.com/v_show/id_XNTc3MzA3Mzg0.html

 1985年 花嫁姿松田聖子様 グリコ ポッキー(カリブ)15s https://youtu.be/YKVX0CecD4U
 
 花嫁姿映像◆https://youtu.be/YKVX0CecD4U
 
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 ┃♪DANCING SHOES♪ ┃
 ┗━━━━━━━━━┛SEIKO名義では1枚目のシングル作品
‡1985(昭和60)年06月24日(月)|松田聖子の22枚目のシングル作品
 http://ja.wikipedia.org/wiki/DANCING_SHOES
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 ┃過去の今日の松田聖子様┃
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‡1985(昭和60)年06月24日(月) 神田正輝と目黒のサレジオ教会で挙式
  ホテルニューオータニで500人出席の豪華披露宴、
  司会は徳光アナ、同20時ハワイへハネムーンへ出発。
  披露宴の中継の視聴率は34.9%を記録、帰国後、新婚生活を始める
  テレビ朝で、神田正輝とデュエット、キスを披露。
  松田聖子結婚で両親に別れの挨拶 ファンが号泣 報道陣が詰め掛け大変な騒ぎに!http://youtu.be/-Dspuq4qfQQ
****************** http://www.seikomatsuda.co.jp/index.html
 http://www.universal-music.co.jp/matsuda-seiko
 http://www2a.biglobe.ne.jp/~seikofan/html/text/his1b.html
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E7%94%B0%E8%81%96%E5%AD%90
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 1985.6放送『石原裕次郎芸能生活30周年』http://youtu.be/6ZiAtrWLUYI
 ♪ハワイアン・ウェディング♪ デュエットが松田聖子様
 

 松田聖子⑧時だヨ(=^◇^=)特集  http://youtu.be/HC_MSHGSbTo
 

 松田聖子 レア歌唱?「ボーイの季節」SEIKO PRISM AGENCY 大阪城ホール ラスト公演 1985年5月12日  https://youtu.be/5nlwwDz1kqg
 
 
 松田聖子 寂しいですね・・・ 感動のラストステージ 特別記者会見  https://youtu.be/lGNLiWGWfQQ
 
 1985.5.12 感極まりマジで大号泣する松田聖子 【秘蔵VTR】  https://youtu.be/dDPHKFI0tFk
 
 大阪城ホールラスト公演~公演後の記者会見 http://youtu.be/ju-4lbxLvxw
 
 ♪SLEEPING BEAUTY♪で泣き出した初の嫁入り前の聖子様(>▽<) 

『ザ・トップテン』白いパラソル♪ 第①位 教会のセットをバックに白いウェディングドレス姿  http://youtu.be/vvxbj737nM4

松田聖子 人妻コント  http://youtu.be/b66zYMRBsHk

ドリフコント 新婚旅行 松田聖子  http://youtu.be/tGfj2viu60M

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 | キャンディーズ引退表明 |暑中お見舞い申し上げます『夜のヒットスタジオ』
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‡1977(昭和52)年 6月24日(金)頃 事務所のお偉い③に③人が本年9月で引退をしたいとの申し入れ
 1977(昭和52)年 7月17日(日) 日比谷野外音楽堂で6000人のファンの前で引退宣言
 1977(昭和52)年 7月18日(月) 15:00頃 引退表明記者会見
 1977(昭和52)年 7月18日(月)『夜のヒットスタジオ』ゲスト出演
 「速報!! 本日・午後③時 キャンディーズ 引退を表明!」VTRを『夜のヒットスタジオ』で流す
 映像◆http://youtu.be/1QCrnMFNABQ
 

 松田聖子結婚で両親に別れの挨拶 ファンが号泣 報道陣が詰め掛け大変な騒ぎに!  http://youtu.be/-Dspuq4qfQQ
 1985.6.24 午前6時10分 目黒の蒲池家からリンカーンプレジデンシェルリムジンで嫁ぐ朝の聖子
 午前6時40分 自宅から教会に向う

・夏木マリ「絹の靴下」・・・・1973年8月~9月のうちのいずれかに出演
※現時点で判明している限りでは、初出演日は1974年6月24日「夏のせいかしら」とされている。
 http://blog.goo.ne.jp/resistance-k/e/0b93223acb5ff132927b98e598dfa805

  ご聖子ん様SUMMER前特番1映像◆http://v.youku.com/v_show/id_XNDgzMDI1MDI4.html
  ご聖子んSUMMER前特番2映像◆http://v.youku.com/v_show/id_XNTc3MzA3Mzg0.html

 松田聖子さん22歳の時のラジオ【愛にくちづけ】結婚について  http://youtu.be/k8KUQsbfUtE
 ゲストは松任谷由実さんです。 1984年2月放送分より(ニッポン放送)
 

『松田聖子』~シングル24曲連続1位の軌跡とジャケット写真の変遷 永遠のアイドル「松田聖子」ほとんどのジャケット写真の口が半開きなのはご存知でしょうか。
 更新日:2012(平成24)年10月17日(水) http://matome.naver.jp/odai/2134793962055341301
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 ┃ 『夜のヒットスタジオ』司会二代目a:芳村真理・三波伸介・朝丘雪路  ┃
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 ※この頃よりスタジオに観客を入れての公開番組形式となる<1976(昭和51)年3月頃まで>
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①|歴代出演歌手―司会者不在時代→芳村真理・三波伸介・朝丘雪路司会時代(1973~1974)|
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‡第0294回 1974(昭和49)年 6月24日(月) 水前寺清子、沢田研二、佐良直美、山本リンダ、
                   ぴんから兄弟、夏木マリ、天地真理、ほか
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②|夜ヒット・初出演データ(10) 司会者不在→芳村・三波・朝丘時代(1973,10-1976,3)|
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‡第0294回 1974(昭和49)年 6月24日(月) ♪夏のせいかしら♪ 夏木マリ
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③|夜ヒット最大の存亡の危機・・・「バンザイ事件」とマエタケの“解任”(歴代司会者考Ⅱ)|
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               「バンザイ事件」の日付は明確にわかっておりません

 佐良直美 ♪花のフェスティバル♪http://blog.goo.ne.jp/resistance-k/e/d81ca5e66399db4212c016dfff226a84
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 ①http://blog.goo.ne.jp/resistance-k/e/b96212e9c8c50dcb931d15868c21673e
 ②http://blog.goo.ne.jp/resistance-k/e/e9076525754d4fda5df0b443ce4adea8
 ③http://blog.goo.ne.jp/resistance-k/e/7ff48d758b270f6a5ef553959061cb76
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 ┃ 『夜のヒットスタジオDELUXE』司会四代目:芳村真理・古舘伊知郎 ┃
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①|歴代出演歌手―芳村真理・古舘伊知郎司会時代Ⅱ(1987~1988)|
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‡第0967回 1987(昭和62)年 6月24日(水) A-ha、森進一、細川たかし、ザ・ビート二クス、尾崎紀世彦、杉山清貴、
                   少年隊、中山美穂、池田政典、南野陽子、本田美奈子、和田加奈子
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②|夜のヒットスタジオ・初出演データ(3) 芳村・古舘時代後期(1987,1-1988,2)|
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‡第0967回 1987(昭和62)年 6月24日(水) ♪夏のミラージュ♪ 和田加奈子
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③|歌でふりかえる夜のヒットスタジオ②②年史(2) 1987年4月-6月(第955-967回)|
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‡第0967回 1987(昭和62)年 6月24日(水) A-ha ♪Manhattan Skyline♪
                  森進一 ♪悲しいけれど・・・♪
                 杉山清貴 ♪水の中のAnswer♪
                  少年隊 ♪君だけに♪
                 南野陽子 ♪パンドラの恋人♪
                 中山美穂 ♪50/50♪
                本田美奈子 ♪HEART BREAK♪
                 池田政典 ♪NIGHT OF SUMMER SIDE♪
                和田加奈子 ♪夏のミラージュ♪
                尾崎紀世彦 ♪サマーラブ♪
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④|【総括】夜のヒットスタジオ・年表Ⅸ(1986,4~1988,2<第1000回・芳村勇退まで>)|
 └─――――――――――――――――――――――――――――――――――――┘ザ・ビートニクスの高橋幸宏、司会の古舘伊知郎が、高校時代に共に世話になったという恩師と久々の「ご対面」。恩師が登場したときには、古舘が極度に動揺してしまい、スタジオの端に逃げようとする一幕も
 ┌─―――――――――――――――┐
⑤| 夜ヒットを彩った売野雅勇作品 |♪NIGHT OF SUMMER SIDE♪
 └─―――――――――――――――┘池田政典/曲:NOBODY 
 1987(昭和62)年 5月25日(月) リリース
●1987(昭和62)年 6月24日(水) 第0967回『夜のヒットスタジオ』出演
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⑥| 売野 雅勇(うりのまさお) |1951(昭和26)年 2月22日(木) 生誕
 └─―――――――――――――┘
 ①http://blog.goo.ne.jp/resistance-k/e/8656d50951a618ed615a3ebb733fda6f
 ②http://blog.goo.ne.jp/resistance-k/e/76014af4fe0adde865baa590af25d1da
 ③http://blog.goo.ne.jp/resistance-k/e/1b20d720e6b062009de47bceb3b471c7
 ④http://blog.goo.ne.jp/resistance-k/e/709775bd2cf570fb74385eafdd89fc36
 ⑤http://www.uta-net.com/user/phplib/Link.php?ID=3341
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%94%BF%E5%85%B8
  http://blog.goo.ne.jp/resistance-k/e/1d0956ff961df20a972b2e1604f32b04 曲目
 ⑥http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%B2%E9%87%8E%E9%9B%85%E5%8B%87
  http://blog.goo.ne.jp/resistance-k/e/35297ae7ed6102f16f815788cba51b99 経歴
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 ┃ 『夜のヒットスタジオ』 ┃1968(昭和43)年11月 4日(月) 22:00~22:54 Startin'
 ┗━━━━━━━━━━━━━┛1985(昭和60)年 3月25日(月) 22:00~22:54 The End.
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 ┃ 『夜のヒットスタジオDELUXE』 ┃1985(昭和60)年 4月 3日(水) 21:02~22:52 Startin'
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━┛1989(平成元)年 9月27日(水) 21:02~22:52 The End.
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 ┃ 『夜のヒットスタジオ SUPER』 ┃1989(平成元)年10月18日(水) 22:00~22:54 Startin'
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━┛1990(平成二)年10月 3日(水) 22:00~22:54 The End.
************************* http://blog.goo.ne.jp/resistance-k
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E3%81%AE%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%88%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B8%E3%82%AA
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E3%81%AE%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%88%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B8%E3%82%AA%E5%87%BA%E6%BC%94%E6%AD%8C%E6%89%8B%E4%B8%80%E8%A6%A7
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 TBSラジオ「渡辺美里のスーパーギャング」 
 1986.12.21
 1987.11.04
‡1989.06.24
 1990.11.09
 1991.05.31
 1999.11.03
 http://sound.jp/misato/radio04.html
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ 夜ヒット最大の存亡の危機・・・「バンザイ事件」とマエタケの“解任”(歴代司会者考Ⅱ) ┃2006-08-06
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†第0294回 1974(昭和49)年 6月24日(月) 
 前回は、夜ヒット創成期の看板司会者である前田武彦さんと芳村真理さんに焦点を当てて記事を書きました。今回はその続き、夜ヒット22年の歩みの中でも、番組の存亡にまで関わる一大事となった「共産党バンザイ事件」について重点的に述べたいと思います。前回記事でも取り上げたように、マエタケさんは、歌手に対する渾名付けや、ちょっとしたブラックユーモア、また生放送にも関わらず台本度外視のフリートークをふんだんに取り込む軽妙な司会スタイルで、番組の安定した人気を支えてきました。しかし、フリートークがヒートアップするあまり、時に誤解を招く恐れがある「余計な」一言を発し、相手役の芳村さんが方々の批判を最小限にとどめるべく火消しに躍起することもしばしばで、人気ナンバーワンの司会者としてキャリアを上げていく反面、守旧的な意見を持つ視聴者や業界関係者の間では「アンチマエタケ」ともいえる層が徐々に増えていきました。そんな中で1973(昭和48)年 6月、「共産党バンザイ事件」が勃発します。事の発端は、共産党の当時の書記長・宮本顕治氏がマエタケさんに会談の申し入れを行ったことに始まります。政党からの申し入れでしたが、彼の当時のタレントとしての格に似合ったギャラも支払って貰えるという条件の下で、あくまでもマエタケさんさんはテレビやラジオの番組司会と同じ「仕事」の一つと解釈して、その会談の申し入れを受諾。この会談は事の他、方々に評判がよかったらしく、その後も、共産党は「広告塔」のごとくマエタケさんに各種行事の司会やパネラーの仕事を依頼するようになりました。マエタケさん自身も思いのほか、各種行事の反応がよかったこともあり、快く共産党からの仕事依頼にもクビを縦に振るようになっていました。両者の間柄はすでに「ツー、カー」の仲になっていたようです。そして、このような流れで、1973年6月、共産党は今度は、参議院大阪選挙区補選で擁立した自党の候補者の応援演説をマエタケさんに依頼し、いつものようにマエタケさんはこの依頼を引き受けます。最初はいつもテレビ番組でよく見られる「余計な一言」は封印して、普通に「がんばってください」とだけ述べて帰ろうと思っていたようですが、やはり時の人気者。ここで安穏と帰ることもできず、さらに一言求められてしまいます。ここで彼は候補者の風貌から、「ボクシングのグローブ」とお得意の「渾名付け」を披露。そして「そのグローブで相手をノックアウトしてください」と、いかにもマエタケさんらしいアドリブで締めくくりました。しかし、その後、マエタケさんは候補者や演説を見に来た観衆に対して一つのある約束を交わしたことが後々、夜ヒットのみならずマエタケさんの司会者生命をも脅かす大問題へと発展していくのです。 その約束というのは、「Aさん(候補者)が当選したら、その生放送(=翌日の夜ヒット)の中でバンザイします。皆さん見ていて下さい」というものでした。この演説の翌日、開票され、マエタケさんが応援したA氏は見事選挙に当選。そして上記の「バンザイします」という約束を生放送内で必ず実行せねばならなくなりました。どのタイミングでバンザイをしようか悩んでいるうちに本番が始まり、いつものように芳村さんと番組を進めているうちに、進行にのめり込んでバンザイの約束などすっかり忘れていたのですが、番組エンディングのときに、トリで歌を披露した当時の番組レギュラー・鶴岡雅義と東京ロマンチカの面々が歌い終わって自分の前を通り過ぎてゆくときになぜかふと約束を思い出し、すでにマイクロフォンも生きていない状態の中で「三条(正人)くんお疲れ様。バンザーイ」と行ったのです。それを受けて三条さんもまったく真意など分からない状態でつられてバンザイをやったようです。当然、当事者であるマエタケさん自身、後にこの「バンザイ」という行為が大問題に発展することなど思ってもいなかったと思います。しかし、当の本人の意識とは裏腹にこのバンザイの真意を突き止めた当時のフジサンケイグループの総元締めである鹿内信隆氏の逆鱗に触れ、同月、まずは同局の映画番組「ゴールデン洋画劇場」の解説者役からマエタケさんを解任。そして、1973(昭和48)年 9月24日(月)放送を以って、5年間、256回にわたり司会を担当してきた夜ヒット司会からの降板(事実上の解任)を余儀なくされ、フジテレビにおける番組だけでなく、「東芝ヒットパレード」などほかの放送局でのレギュラー番組をもすべて解任されるという憂き目に遭います。全番組からの解任という極めて重いペナルティを課せられたこともあり、一部では「バンザイ事件」に便乗して、アンチマエタケ層の業界関係者らが一斉にマエタケ潰しに走ったのではないか、という「陰謀」説も主張されるなど、単なる番組内の一大事というレベルでは解決できない、もはや放送界全体を巻き込む一大事件となっていました。当時のフジテレビの企業体質は、今のフジテレビとはまったく異なり、保守的な政治思想を持つ経営者側と比較的前衛的な思想の若手現場スタッフの間に根強い軋轢が生じ、労使交渉は毎年のように決裂し、スタッフたちがスタジオに布団を引き詰めて局内で長時間のストライキを行うのが常識化している、というような極めて暗いものであり、このような独特な局の体質もここまで事が大きくなった要因として作用していたと思います。そして、マエタケさんと共に、相手役の芳村真理さんも「バンザイ事件」で付いたダーティーなイメージを払拭したいとの当時の製作スタッフの思惑が働いてか、同時に連帯責任的に一時番組を降板。その後、1973(昭和48)年10月 1日(月)放送からの半年間は、特定の司会者をあえて設置せずに、ゲスト歌手2名で司会を行うという輪番制の方式で放送されることとなり、それまで安定した人気を誇った夜ヒットは一転して、迷走の時を迎えることになります。いろいろと番組長寿化に辺り、決して平坦な道を歩んできたとはいえない夜ヒットの歴史の中でも、この「バンザイ事件」~歌手輪番制による司会の時代はもっとも番組の存亡が危ぶまれた時代であったという気がします。番組開始から5年間、番組の屋台骨として活躍してきた両司会者が突如として番組から去ってしまう。夜ヒットの人気はマエタケ・芳村のパーソナリティー性に支えられていた部分がかなり大きかったせいか、この個性ある2人が消えるということは、ほかの番組における司会者降板の場合以上に番組製作の基盤を動揺させる出来事でもありました。同時に、この2人の司会、そして番組に対して高い信頼を寄せていた視聴者もこの事件を境に番組から離れていくようになり、視聴率も以前ほどに高視聴率が見込めなくなる状態に陥りました。歌手輪番制の司会スタイルも、番組の安定性という面からはかなり問題もあり、また、番組内部の迷走ぶりを象徴させる司会形式でもあったため、半年間で打ち切られ、1974(昭和49)年 4月 1日(月)の放送からは、一度番組を降板した芳村さんを今度は主軸の司会者として復帰させ、新たな相手役として、朝丘雪路さん、そして「笑点」(日本テレビ)などの司会で、お茶の間の人気を集めていた三波伸介さんを迎えて、新たな仕切りなおしを図ることとなりました。芳村・三波(・朝丘)司会の時代の話は次回に論を移したいと思います。テレビ番組の司会者にせよ、なんにせよ、どのジャンルにおいても「先駆者」は、歴史上に大きな業績を残す反面、大きな代償も払わなければならないのが常といえます。マエタケさんもまさに「新時代のの司会者像を確率した」という意味でまさに「先駆者」そのものであり、彼の司会がなければ、その後の井上順や「ベストテン」の久米宏、「トップテン」の堺正章などの個性ある次世代の男性司会者も台頭することはなかった。しかし、その大きな放送界に対する業績の反動として、夜ヒットを初めとする「全番組降板」というペナルティーを課せられたと見ることができるかもしれません。ただ、管理人もそうですが、その「全番組降板」というペナルティーは果たして「(共産党)バンザイ」という一行為と相当する代償であったのか、といえば大いに疑問が持たれるところです。一般の企業の社会において「生意気なやつだ」「余計なことを言ったな」「政治思想が経営陣とは相反する」などということだけで解雇を許すような労使関係があるとするならば、それは間違いなく労働法規に抵触しうる不当な関係であるということはいうまでもないだろうと思います。「常識が常識として通らないところ、それが芸能界だ」という意見を述べる識者などもいますが、タレントも結局は番組に、そして局に一時的であるとはいえ「使われる」身の上である以上、その番組、そしてその放送局とのつながりがあることが生活基盤の根幹にあるという点で、会社からの給与のみに経済的部分を頼らざるを得ない一般会社員のそれとはまったく異なるところはないように思います。やはり個人的な意見ではありますけども、「夜ヒット降板」は致し方なしであるにせよ、ほかの番組まで奪い去ってしまうという責任の取らせ方は問題となる行為と責任の重さの比較考量から考えても「不均衡」と断ぜざるを得ないでしょう。やはり上記の経緯からみて何らかの業界内の圧力がそうさせてしまったと見るのが自然かもしれません。
 テレビ放送初期より放送作家・司会者としてテレビの発展と共に歩み続けた前田武彦という偉大な放送人の一生を狂わせ、そして本来ならもっとクローズアップされてしかるべき彼の業績をも霞ませる結果となってしまったこのバンザイ事件における制裁は、日本のテレビ史上における「汚点」であると私は考えます。また、夜ヒットという番組の側面から見れば、同事件がなければ、その後も当然に、1000回までとは言わないまでも数年間はマエタケ・芳村のコンビで夜ヒットは続いていた、そうだとすれば後の本格的な音楽番組への転換という方向性が生じることはなかったのではないか、そういう意味では番組にとっても最大の時代の分岐点であったと思います。
 (追記)今回の記事作成に当たっては、"ごいんきょ"さんが運営されている「昭和テレビ大全集 Blog版・夜のヒットスタジオ」の項目を参照させていただきました。(URLはトラックバックの欄にあります)
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